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2012-09-16

佐々木、大いに語る

今日は早朝から神輿を担いできましたよーーーー!
幸せ!!! 神社の紋が左三巴だったしな。
広家の具足の意匠にも使われてる「龍の丸」柄のシャツを着たんだ! 幸せ!
酒は島根ショップで買ってきた「月山」を飲んだ! うまい! 幸せ!!!

すでに筋肉痛でヒイコラ言ってるけど、少し眠ったので問題ない。今日の陰徳記。
だいたいの流れ:
尼子再興軍を追い詰めつつあるものの、勝久・鹿介といった中心人物を取り逃がしたまま迎えた春。
元就の在世中に使者が来たものの、老病で亡くなったことで返礼をしないままでいたことを気に病み、
元春は部下の佐々木源兵衛尉を甲斐の武田信玄・越後の上杉謙信のもとへと遣わした。
佐々木はどうにか甲斐・越後にたどり着いて信玄・謙信に対面を果たすと、安芸へと帰ってきた。

長いので数回にわけまする。


佐々木、信玄・謙信の物語のこと(1)

元春様は佐々木に対面して、「見てきた武田・上杉の軍備の様子などを詳しく聞かせてくれ」といった。
佐々木は了承して話し出した。

「信玄・謙信につきましては、どちらも智勇兼備の良将でございます。
私のような愚蒙の身が、どうしてその良将の軍事情報など、何を見て何を聞いてきたなどと言えましょうか。
この目や耳は粗末なものですので、とても申し上げがたく思います。

しかしながら、謙信は幼少のときに父の為景と死に別れ、その後やがて親の敵を討たれて、
寡兵で大軍を打ち破り、最終的には数カ国を切り従えるようになったと聞いております。
また信玄は、まだ少年のころに父の信虎を追い出し、甲斐一国を手になさると、
これも強大な敵をものともせずに、戦のたびに勝利を収めて、今は五ヶ国を切り従えたそうでございます。
父を追い出したというのは、信虎は勇にかけては卓越した大将ではございましたが、
大欲不当の大悪将でもあり、次男の左馬助(信繁)を当主にして家を相続させ、
嫡男の晴信には国を譲らないと決めたのです。
晴信はこれに大いに憤り、家老の飯富兵部(虎昌)という者と協力し合って駿河の今川義元を頼り、
信虎を騙して追い出したそうです。
晴信が武田家を相続すると、木曾・小笠原・諏訪・村上・北条・上杉・徳川といった強大な敵と、
毎年数回も戦をしたようですが、そのたびに勝利を得ています。
これによって、当世の諸将のなかで飛び抜けて智勇の誉れ高い良将だと称されているということです。

また謙信につきましては、父の為景は越中の良衡と数年越しの敵対関係にあって、
永正二年に越中へと発向したところ、石田・大須賀と申す者たちが反逆したので、
為景はたちまち敗北してしまいました。
滑川でいざ自害しようとしたときに、飯沼源太・高梨源五郎が主君に代わって比類のない討ち死にを遂げ、
その隙に為景は十死一生の難を逃れて、佐渡に退却しました。
佐渡の国主の高信は為景にとっては姪婿でしたのでそこを頼り、翌年の春まで滞在して、
やがて越後に帰ると、石田・大須賀兄弟、並びにその婿の五十嵐を討ち果たして、会稽の恥を雪ぎました。

その後天文七年、また越中へと発向なさって、そこでの初戦で勝利を得ましたが、
それで油断してしまって二度目の合戦でたちまち勝利を失って、仙段野というところで自害なさいました。
法名は道室というと聞いています。

嫡子平蔵景康・次男左平次景房・三男喜平次景虎の三人の人々の乳人は、
もとは越前の者でございましたが、朝倉と戦って利を失い、、国を追い出されて流浪の身となり、
長尾を頼って召抱えてもらいました。
父は紹田常陸介といって、これは平蔵殿の乳人につけられ、
嫡子の紹田久三郎は左平次殿、次男の紹田久五郎は喜平次殿の乳人につけ置かれました。

為景が自害なさった五年後、天文十一年三月十三日に紹田父子が謀反を起こし、
紹田久三郎が平蔵殿を切り殺してしまいました。御年四十一歳であったそうです。
十九歳だった弟の左平次殿は、十三歳になった三男の喜平次殿とともに二の丸から脱出しようとしましたが、
紹田はかねてから討手を用意していたので、逃すまいと追いかけてきました。
次男左平次景房は取って返して散々に戦い、追手の兵を数人切り伏せると、
ついにご自身もそこで討ち死になさいました。
その隙に喜平次殿は門のところまで逃げることができました。

門番としていた小島勘左衛門・山岸六助という者たちは、この若君を隠せる場所がないので、
敷板を撥ね起こしてその下に入れておくと、夜になって林泉寺という寺に逃がしたのです。
折りしもそのとき、林泉寺には栃尾の常安寺という僧が居合わせていましたが、
長尾は先祖代々の主君でしたので、その夜のうちに供奉して栃尾へと帰り、
長尾の重臣の本庄美作守のところへと送り届けると、すぐに美作守は喜平次殿を深くかくまったのです。

紹田は「喜平次景虎はまだ幼少ではあるけれども、心栄えは普通の人間よりもはるかに優れていて、
良将の器に見える。いかにも行く末が恐ろしい」と話し合って、
三年間ずっと寺という寺、神社という神社まで捜索させましたが、
深く匿われ忍んで暮らしていらしたので、誰も喜平次殿の行方を知りませんでした。
そこに、山東郡の内宮本というところの茶売りの文七という者が紹田に訴え出て、
景虎が忍んでいることを詳しく知らせたので、
紹田は大喜びしてすぐに戸屋・佐貫・尻藤・松尾などという者たちを大将として、三千余騎を差し向けました。

これを聞くと、景虎への加勢として、上田から樋口・金子・斉木・栗林といった屈強な兵たちが、
こちらも三千騎ほど差し出されたので、喜平次景虎はこの兵力で一戦を始め、たちまち勝利を得たのです。
戸屋・松尾二人の大将を討ち取り、そのほか敵を多数討ち取りました。
この年、景虎は十五歳でした。これが初めての合戦だとのことです。

こうして紹田には、昔の主従のよしみを忘れず、越前の者たちあちこちから駆けつけてきたので、
次第に大軍になっていきました。
そのうえ柿崎を婿にとっていたので、その威勢は日々増してゆき、
国中の勢が味方について三万ほどになったそうです。
このため、府中の城にいながら越後の国主のようになり、
越中・能登にも手をかけんとするほどの勢いになりました。

同十五年、婿の紹田監物に婿の柿崎を添えて府中の城に残し置くと、
紹田父子三人は府中の城を出て、まず紹田久五郎が栃尾へと攻め寄せてきました。
同久三郎は上田へと発向し、父常陸介は後ろの備えを強くするために、三条の城に移って立て籠もりました。
黒滝の城には親類の森備前守、新山の城には郎党の山下又左衛門、
刈輪の城には瀬良田九右衛門、村松の城には野本大膳、安田の城には篠塚惣右衛門、
菅石の城には重堂式部少輔、新潟の城には森岡十左衛門などを入れ置いてあちこちの敵を押さえ、
自身は背後をまったく気にすることなく、景虎を討ち取るために大軍で発向していきました。

しかし柿崎は、一旦は縁者として逆徒の紹田に一味したとはいっても、
長尾が先祖代々の主君ですので、忠功の思いを忘れずにすぐに態度を翻し、
同九月六日、府中の城で紹田城門郎を討ち果たし、そのほか紹田に従っていた兵たちも切り殺したのです」


以上、テキトー訳。続く!

あらあら、いつもは「遠国のことはワカンネ( ゚Д゚)、ペッ」で済ましている正矩が、
今回はどういうことでしょうね( ´艸`)
たぶんどこかの軍記物を参考にして、佐々木が語ったという筋立てで話を進めてるんだろうなw
甲陽軍鑑とかなのかな? 甲陽軍鑑読んだことないからわからないんだけども。
しかし信玄は、祖母の家が山梨にあるので、なんとなく親しみがある。
恵林寺の廟所も行ったことあるしな。
私の実家も静岡ではあるけど、戦国期は信玄の影響が強かったっぽい。
今度ちゃんと調べてみよう。

そういえば謙信は「軍神」と言われるほどの武将だという認識はあったけど、
その人生はほとんど把握してないなぁ。前半生は特に。
いろいろ大変だったのね……かわいそうに(´;ω;`)

そんなわけで今回ちょっと中途半端な感が否めないけど、
次回は佐々木の語りの続きから。
「私なんかが語っても」とかモジモジしながら長話する佐々木ェ……
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