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2012-09-17

川中島合戦、甲州の言い分

前回のあらすじ:
甲斐の武田信玄・越後の上杉謙信に、元春からの使者として遣わされた佐々木が帰ってきた。
見聞きしたことを元春に報告する、その内容の最中から。
謙信は父と死に別れた後に乳人の紹田一族に謀反を起こされ、兄二人を殺されたものの、
喜平次景虎だけはどうにか命をつなぐ。
数年後、挙兵した景虎は紹田と前面対決の構えを見せた。
紹田の婿だった柿崎は府中の城を預かったが、古くからの主従の契りを忘れずに、
景虎へと寝返って、府中の城で紹田城門郎を討ち果たした。


佐々木、信玄・謙信の物語のこと(2)

「柿崎は、弟弥二郎の妻が紹田の娘だったのでこれを離別させ、
すぐに数千騎を率いて末本の郡へと打って出ると、紹田に対してはっきりと敵対しました。
その後あちこちで合戦がありましたが、景虎は智勇をともに兼ね備えた良将でありました。
本庄・色部・中条・黒河・加地・竹股・大河・相川などは
一騎当千の勇士だったので、戦のたびに勝利します。
紹田は次第に威勢も衰えて、自分の城に引き籠るようになりました。

同十八年五月、新発田尾張守を大将として、本庄・色部・中条・黒河・
加地・竹股・大河・相川などを添えて打って出ると、
七月十日には安田・村松の城を乗り破り、一人残らず切り捨てにしました。
同十九日、本庄美作守が刈輪の城に攻め寄せて攻め破り、常駐の兵たちをすべて討ち取ったので、
紹田久三郎は新山の城に引き籠り、同久五郎は黒滝の城、父の常陸介は三条の城に立て籠もって、
城を落とされないようにするだけで精一杯でした。

同十九年の春、景虎は数万騎を率いて越之郡に発向され、三条の城をお攻めになりました。
追手の先人は新発田尾張守・色部・本庄弥二郎・加地・竹股、二陣は斉藤・中条・黒河・直江、
その後ろには景虎が総大将として控えています。
搦手の先陣は越之駿河守・新津孫二郎・平賀久七・高梨源三郎・桃井清七、
二陣は本庄美作守・虎崎・大崎です。
そして三条の城に押し寄せると、紹田もたいそうな剛の者ですので、散々に防ぎ戦いました。
とはいえ、これまで積み重なった無道・不義のせいで天の冥罰をたちどころにこうむり、
ついには滅び果てたそうです。

その後翌年正月朔日、紹田久三郎が立て籠もっている新山の城へと、
高梨源三郎が夜半に忍び入って、紹田たちを切り捨てました。
城中には芳賀・吉原・武藤・山田・宮川などという者がいて、
これらは皆高梨の譜代の郎党だったのですが、一旦紹田に従っていた者たちです。
しかし彼らは主君の高梨に心を合わせて城中に引き入れ、紹田を討たせたそうです。

同五月二十六日、景虎は黒滝の城を攻めました。
紹田久五郎をはじめとして一族郎党を残らず討ち果たすと、二人の兄の供養として、
自身もこれまでの鬱憤を散じられたということです。

同二十二年、景虎は越中へと発向されました。
岩瀬・滑川を皆攻め破り、その後永禄六年からまた越中へと発足なさって、
同十年までの戦のうちに、ついに良衡の子孫・一族の首をことごとく刎ね、
父為景を殺された恨みを晴らし、同十二年には能登を切り従えて、
加賀の国も少々手に入れたそうでございます。

また武田の信玄とたびたび合戦していますが、なかでも龍虎の戦いにもたとえられるのは、
信州川中島の合戦だと聞き及んでいます。
その合戦の有様を、だいたい尋ね聞いてきました。
しかし、関東でもあれこれと違った説があるようです。

まず、謙信が川中島の城を攻めようとして、西条(妻女)山に陣を構えました。
信玄は後詰のために数万騎を率いて発向すると、越後への退路を塞ぎ、陣を据えました。
けれども謙信はたいそうな強将ですから、退路を塞がれても少しも心配する気配がないように見えます。
信玄はまた家老や武道の功のある者たちと話し合って、
『この表の陣を引き払って川中島の城に入れば、謙信は帰路が開いたと喜んで、
越後へと退却していくだろう。退くならば退かせてやろう』と決し、
甲州勢はそこの陣を引き払うと川中島の城に入りました。
しかし、謙信はとにかく武田信玄と勝負を決する一戦をしたいと常日頃から望んでいましたので
道が開けても越後へと帰る気配も見せず、なおも西条山に陣を据えたまま、ゆったりと過ごしていたのです。

信玄はこれをご覧になって、また弟の左馬助・高坂弾正・馬場美作守・内藤修理亮・
山県三郎兵衛尉・小山田兵衛尉・真田源太左衛門、そのほか六奉行の者たちを呼び集めて、
合戦について会議を開きました。
この後、信玄は二万の勢を一手にまとめると西条山を差し向けましたが、
これは『一戦すれば、謙信は勝っても負けてもサイ川を越えて越後へと陣を退くだろう。
そのときこの信玄が道筋に備えて待ち受け、敵がはじめの合戦に疲れて備えを乱して退却するところに、
新手の我が旗本勢で攻めかかって切り崩そう』という作戦でした。
謙信は、西条山からわずか五十町ほどしか離れていない川中島の城を見て、
その城中があれこれと騒がしく篝火も多く焚かれているのに気づくと、
『信玄はきっと明日合戦をしようと決めたのだろう。謀略はこれこれこうしたものだろう』と言って、
信玄の作戦を微塵も違えず言い当てました。
謙信は神に通じているのかと、人々は皆感心したそうです。

そして謙信はこんなことをおっしゃったそうです。
『信玄は、最初の合戦はこの西条山、そして私が一戦して引こうとするとところに、
自分は旗本を引き連れて道の途中に向かい、新手の兵で我らを切り崩そうというのだろう。
謙信を、信玄の旗本勢で追い崩したということにして、
自分の武勇がこの謙信より勝っていると諸人に褒め称えられたいという欲が、暗にわかる。
私もまた、不意に襲撃して、あっという間に敵を挫いてやろうではないか』

こうして謙信は、直接信玄の旗本に攻めかかるために西条山を忍んで下りていきます。
夜の間のことでしたから、甲州勢はこのことにまったく気付きません。
高坂・馬場などが西条山に攻め寄せているうちに、謙信は信玄の旗本へと車がかりの陣で無二に攻めかかり、
興亡をかけた一戦を挑みます。
甲州勢は切り立てられ、信玄の旗本も危なく見えましたが、
そこに西条山へと向かった勢が鉄砲の音に驚いて駆けつけてきたので、
後ろから越後勢に攻めかかって謙信を切り崩したのです。
謙信は仕方なく高梨山へかかり、越後へと兵を引き揚げたそうです。
これは甲州勢が申していたことです」


以上、テキトー訳。まだ続く!

「私の聞いてきたことなんてぇ///」ともったいぶってたくせに、佐々木、ずいぶん語るなwww
謙信(景虎)が兄と父の復讐を果たしたところから一気に話が川中島に飛ぶんだな。
謙信のこと、よく知らないけど、もっと他になかったんだろうか……

ともあれ川中島合戦、江戸初期でもいろいろ見解が分かれてたんだねぇ。
そんなわけで次回は越後ではどんな風に語られてるか、といったところから始めようと思う。

ちょっと短い気もするけど、実は、
昨日はしゃぎすぎたツケが回って、体中がギッシギシいってるのですよ……_ノ乙(.ン、)_
だが好きなことしてきたんだから、我が人生にいっぺんの悔いナス!
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