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2012-09-24

それぞれの決意

前回のあらすじ:
将軍足利義昭は、先代の義輝が三好によって殺されてから流浪の身となっていたが、
信長の庇護を得て三好を討伐できたばかりか、再び将軍として入洛することができた。
しかし信長は義昭を軽視し、その態度に堪えかねた義昭は信長追討の号令を発する。
それも簡単に鎮圧され、窮地に陥った義昭は、宇治の真木の嶋に引いて信長と対峙しようと決意する。


将軍義昭卿流浪のこと、付けたり三渕諫言のこと(下)

ここで三渕大和守(藤英)が強く諫言した。
「この謀略がうまくいくとは思えません。
それというのも、将軍は都にいてこそ権威もあるものなのに、
今宇治へ移られたなら、義昭卿が京都を逃げ出されたと思われます。
そうなったら誰一人としてお味方につく武士などいないはずです。
譜代や外様の人々の心も変わり、おそばから逃げ出してしまうかもしれません。
遠志北草となる、というのもこういうことでしょう。

真木の嶋はさておき、雲をつんざき天にそびえた漢陽宮であっても、
項羽・高祖に劣らぬ信長のことですから、どうして破れないと断言できましょうか。
皆散り散りになって、野の果てや山の奥で雑兵の手にかかり、屍を路傍の土に晒し、
猛禽や野獣に死肉を漁られるのではあまりにも口惜しいではありませんか。

言い伝えられている西国の大内は、他国に出張りする際に妻子を籠め置くために、
長門を越えて一の坂というところを上がった左のほうに城を築きました。
しかし左京太夫教弘はこの城を利用しませんでした。どうしてか。
防長豊筑四ヶ国の主となるほどの身で、他国に出張りする間だけとはいっても、
自分の館の近辺に敵が攻め寄せてこれるほどに武威がお粗末では、
たとえ鉄の山や壁であったとしても、一日も破られないでいることなどできましょうか。
ただ仁徳を大いに施して民衆を愛し、武威を逞しくして敵を手懐ける方法こそ、
鉄壁防御の城になると考えたから、あの城を破却したのだと聞き及んでおります。

真木の嶋の難所も、なんの役に立つというのか。
昔から、川を前にして当たった合戦で勝利を得たとは聞いたこともありません。
大河のある難所を頼りにするのは、兵が少なくて平地で戦うことができないからこそです。
天下の武将が逆臣を討伐するのであれば、自ら数万の軍兵を率いてその逆臣の城に攻め寄せ、
あっという間に攻め破るべきです。
それなのに、逆臣を追罰すると言いながら都で一戦もせず、
真木の嶋の城を頼りにしなければならないほどの不利な形勢で、
どうして逆臣を討伐できるというのでしょうか。

この戦の勝敗がどちらにあるのか、私の愚見を申しますと、
味方の御大将は、代々将軍として逆臣を退治するために家城を去り、
大河の難所を頼らなければならないほど武威が衰退していて謀も下手です。
敵の大将は、斯波の家の臣ではなく、斯波の家の子、
織田の郎党の身でありながら天下に旗を上げるほどの者ですので、
まず天の加護も深く果報も飛びぬけています。
とりわけ勇も智も謀も古今に抜きん出ていないのであれば、どうしてこんなことができるというのか。
これを考慮すると、将と将を比べてみるに、雲泥の差、万里の隔てがあります。

次に士卒を見ると、敵方には木下・柴田・滝川・明智など、
部門の棟梁ともなれるほどの者がいくらでも揃っており、兵もまた十万騎以上はいるでしょう。
味方の者たちは、一人としてこれらの人々に及ぶようには到底思えません。
木下・柴田の郎党ほどの武士もなく、また兵は千騎もいないでしょう。
こうして見てみると、勝つなどとは口が裂けても言えず、合戦となればまともに防戦することすらできません。

とくに将軍家は、兵力も東山殿のころから次第に衰微していて、
もう断絶する時期が到来しているのだと思います。
対してて敵は、天下の執権を手中にして、家が興隆するときなのです。
すでに夕日が西に傾いているような我らの力をもって、
どうして朝日が東に昇るかのような勢いの信長に対抗できるでしょうか。

これまでも再三申し上げてきましたように、
信長に何の不忠があって、こうして誅罰するとお定めになったのですか。
そもそも信長が先年お味方につかなければ、これまで安穏にお過ごしになることもできなかったというのに。
三好によってその御命が危険に晒されるばかりか、再び天下の武将として仰がれることもなかったでしょう。
これは皆信長の忠でなければ何だというのですか。

ですから、信長にどんな不忠・不義があったとしても、忠功の方が莫大なのですから、
一旦はそれを思し召して宥恕なさるべきです。
今こうして信長追討を企んでいらっしゃるなど、諸仏諸神もさぞその不義を憎まれるでしょう。
仏神にも見放され、人望にも背かれてしまえば、どうやってこの戦に勝利できるというのでしょうか。

たとえ信長がいかなる不忠・不義を尽くしたとしても、主君がさらに君臣の礼を正しくさえしていれば、
いかに情けも知らぬ野蛮人の信長であっても、主君が主君であることを感じて、
これまでの悪逆の態度を改めて、忠勤に励むことでしょう。
伝え聞くに、昔の人は、拳を振り上げて顔を殴ったとしてもまったく怒ることはなく、
その拳が自分の顔に当たって汚れてしまったことを謝罪したそうです。
昔の人はこういう風に過ごしてきて、百戦百勝は一忍にしかずとも言うではありませんか。
また悪口車匿(釈迦の弟子、チャンナ)を黙擯(無視する)して品行を改めさせた例もあります。
信長がどんなに公方様をお腹立ちになるように仕向けたとしても、知らぬ顔をして放っておけばよいのです。

これにつけても、政道をもっと良くしていくことをお心にかけるべきです。
世の中を徳化し、万民を撫育なされば、天が感心なさってご加護を垂れてくださるのみならず、
諸国の武士はこちらから呼びつけなくとも自然と従ってくるでしょう。
そうすれば天も信長の鼻持ちならない驕りを見咎めて、罰を与えてくださるはずです。
東西の諸将もまた義兵を挙げて、主君を救わんと駆けつけてくるはずです。

あと二年も過ぎれば、関東の北条・武田・長尾、中国の毛利などのなかから、
武威逞しく智謀盛んな者が出て、信長を攻め滅ぼすでしょう。
そうなれば御手を下されずとも悪しき敵を滅ぼせます。
これが戦わずして勝つという良将の行いではないでしょうか。
どうか今回の信長追罰は思いとどまってください」

三渕は涙を流して諌めたけれども、義昭卿は桀・紂のような暗君であった。
近習の人々も禄山・趙高のような奸臣だったので、三渕の意見に賛同する者もなく、
一挙して真木の嶋へと移ってしまった。

こうしたところに、一方の大将として頼りにしていた細川兵部大輔藤孝は、
弟の三渕大和守に向かってこう言った。
「信長追討のご決断を考えてみると、義昭卿の自滅のときが来たのだと思う。
今信長を討ち滅ぼせる者は、我が朝にはさておき、唐土や天竺が一緒に襲ってきたとしても、
たやすく滅ぼせはしないだろう。義昭卿では言うまでもない。
勝ち目のない企みに与して細川家を断絶させるのはあまりに残念でならない。
仕方がない、私は信長に一味して、我が家を存続させる謀をめぐらそう。
おまえはどう思う」

三渕はこれを聞いて、「実にもっともなことです。
早々に信長に同心なさって、御家が断絶しないように計をめぐらせてください。
私は家というほどのものでもないので、三渕の家はあってもなくても同じようなものですから、
今回はもう討ち死にすることにして、義昭卿のご厚恩に報謝したいと思います。
近年、義昭卿の部下に三渕という者がいるということは、都でも田舎でも皆知っていることです。
『三渕は詩歌や管弦、月見や花見のお供ばかりして、酒を与えられているばかりで、
義昭卿の最後のときにどこへともなく逃げ去ってしまった』と人々の口に上ろうものなら、
そのように嘲笑われるのは我が身の恥辱となるばかりか、一族の面汚しになってしまいます。
私は二条の御所にとどまり、たった一人であっても、悪人の信長に矢の一筋でも射掛けてから、
自害を遂げるつもりです。
こうして一途に思い定めておりますので、生きているうちにお会いできるのはこれが最後になりましょう」
と、深く涙に咽んだ。藤孝も袖を絞りながら三渕と立ち別れた。

義昭卿が宇治の真木の嶋へと移ったと聞くと、
信長は尾張から攻め上って、まず二条の御所へと軍兵を差し向けた。
御所に立て籠もっている兵たちは手を揉みながら命乞いをして助かったが、
三渕大和守は門の外へと打って出て、敵の先陣を散々に翻弄すると、
それから御所の中に戻って潔く自害を遂げた(天正二年七月六日)。
三渕の名は末代にまで残った。
『なんと義も忠も勇もある人だろう』と、人々は皆感心したという。

その後信長は真木の嶋へと打ち向かい、宇治川を難なく渡って一気に義昭卿を攻め破ろうとした。
義昭卿の譜代の臣や外様の者たちは、はじめの威勢はどこへやら、
手をすり足をすりながら、「どうか命を助けてほしい」と嘆願したので、
信長もこのまま討ち果たしては情けを知らぬ者のようだと思ったのか、
義昭卿の命を奪わずに、どこへともなく追放したのだった。
天正元年(元亀四年)七月十八日、先祖の大納言尊氏からこれまで代々、
天下の武将として続いてきた義昭卿が流浪の身となった。痛ましいことである。


以上、テキトー訳。おしまい!

三渕さん……幽斎さんの弟だったんか……はじめて知ったわ。
不勉強なのが露呈するよねテヘペロ☆

熱い、熱いなぁ、三渕さん。
幽斎さんは見切りが早いけど、個人的な感情より家の存続の方が大事だもんなぁ。
三渕さんも、結果的には「名」を残したわけで。
これはね、生き残ったからこそ未だにグチグチ言われなきゃならない家を見てると、
名を残して華と散った方が利口だったかもしれないと思うこともあるよね。
でもしぶとく生きてる毛利家の人々が好きだよ。
数百年単位で見れば、きちんと挽回してることはしてるし、
おかげでたくさん資料が残ってるしね!
生き残ってくれてありがとう!

そんなわけで絶体絶命に陥った義昭ちゃんですが、
次章で西の方から助け舟が入ると思うよー!
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