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2012-10-30

浦と牛尾の大活躍

だいたいの流れ:
毛利・織田が全面戦争に突入し、織田の調略に浦(乃美)兵部宗勝の息子がなびいたものの、
隆景に露見して、寝返りは失敗に終わった。
という流れとはまぁあんまり関係なく、今回は局地戦のお話を2本続けて!
時期的には織田とごたごたしそうなころ、ということで。


讃岐の国元吉表合戦のこと

天正五年、讃岐の国の元吉に香川義景という者がいて、隆景の傘下として無二の忠勤に励んでいた。
そこに、土佐の長曽我部元親あ、長尾・ハイカツの二人を大将として、讃岐の国人衆をとりまとめ、
三千ほどでこれを取囲んだ。義景は何度か戦利を得たものの、
讃岐・土佐の二ヶ国を敵に回しては最終的にかなわないと思ったので、隆景へと急ぎ救援を頼んだ。
小早川隆景はすぐに弟の穂田治部少輔元清を大将として、八千余騎を讃岐へと渡し、元吉へ後詰をした。

同閏七月二十日、先陣として浦兵部丞・井上又右衛門尉、
そのほかの小早川勢が二千ばかりで打って出たが、長尾・ハイカツもこれに渡り合って戦った。
浦・井上が采配を取って下知をし、末近助兵衛尉・山田平右衛門・志道藤右衛門尉・
村上刑部・深野平左衛門・弘中藤右衛門などが鑓を合わせて比類のない活躍をした。
浦・井上たちが強く進むので、敵は引き退いた。
その後讃岐勢はかなわないと思ったのか、陣を払って兵を引き揚げたので、元清は安芸の国へ帰陣した。

浦兵部丞はそこから船で漕ぎ上ると、播磨の浦々へと上陸して放火し、高砂に上陸しようとした。
ここには黒田官兵衛尉がいて、要所に軍兵を籠め置いていたので、
浦は岸の際まで攻め寄せて足軽をけしかけた。
すると城中からも突いて出てきて散々に戦い、浦の郎党の白井弥次郎・中間の弥左衛門などが討ち死にした。

浦は一戦してさっと引くと船に乗ろうとした。
すると、黒田官兵衛尉が二千ほどで打って出てそれを待ち構えていた。
宗勝はこれを見て、「黒田自身が打って出てきたぞ。
ここは十死一生の合戦をしなくては勝利を得られまい」と少し高いところに馬のまま上り、
死を一途に思い定めて、なんでもないようなふりをしていた。

黒田は「敵は思い切り戦って死のうというつもりのようだ。
窮鼠猫を咬むという言葉もある。こういう武者には取り合わぬものだ」と、すぐに兵を引いた。
浦も危うく命を拾って、船に乗ると芸州へと漕ぎ下っていった。


因幡の国楢尾駒次夜討ちのこと

因幡の国の若桜鬼カ城には、鹿介が明け退いて(天正四年夏)からは牛尾大蔵左衛門が籠め置かれていたが、
同国の楢尾駒次の一揆勢が牛尾に背いたので、これをどうにか退治したいところだった。
しかし一揆勢は大勢で、味方は少勢である。

むなしく怒りを押し殺してやり過ごしていたが、天正五年十一月十三日に、大雪が降って非常に寒くなった。
「これこそ待ち望んだ時節だ。夜討ちを仕掛けよう」ということになり、
熟練の兵二百人ほどで出発した。
こうした寒い日の戦には、青州従事(美酒)の力を借りなければ乗り切れないと、
上戸には温めた酒をしたたかに呑ませ、下戸には餅や食事を腹いっぱいに食わせて、
夜半ごろに大雪を掻き分けて、楢尾駒次との境に押し寄せた。

一揆勢は、こんな大雪の日に敵が攻めてくるとは夢にも思っていなかったので、帯を解いて寝入っていた。
そこへ牛尾の勢が鬨をドッとあげて攻め込んでいくと、一揆勢は「これは何事だ」と慌てふためき、
親を呼び子を抱いて彷徨い歩く。
それをあちこちで切り伏せ、突き伏せしていくと、
一揆の大将の諸辺入道という者をはじめとして三百余人を討ち取った。
雪の中へ追い出されて凍死した女子供も多くいたという。

この勢いに臆した近郷の一揆勢は、皆牛尾の手に属した。
味方は一人も討ち死にしなかったが、あまりに寒かったので、
牛尾の同朋衆である友阿弥をはじめとして、下戸が十三人凍死した。
たまたま生き残った者も手が固まり足がすくんで、敵に太刀を振ることができなかった。

酒は寒風を身から三寸遠ざけるものだからか、上戸は風が顔を撫でても寒さを感じずに、
思うさま活躍して数知れないほど敵を討った。
こうなると、「上戸も時と場合によっては役立つものである。
酒を愛飲する輩を馬鹿にするなよ」と、勢いに乗って猛々しく叫びまわった。
また、城に帰ってからも、寒風を忘れるためだといって、さらに酒を飲んだそうだ。


以上、テキトー訳。

ふぅ……宗勝と黒官が対峙してたのか。知らなんだ。
ていうかなんで宗勝はわざわざ播磨まで嫌がらせに行ったの?
やっぱり織田を牽制するためとかなんだろうか。
このへんの黒田とか小寺の動きをあんまり把握してないんだよな。
ちょっとおさらいしなきゃ。

山陰方面は牛尾さんががんばってるな。相手は一揆勢……
だから当然、女子供もたくさんいるわけで、このあたりがたくさん死んでるとなると、
あんまりいい気持ちはしない。
でも戦争だしね。
一揆勢に加わってる時点で、女子供も非戦闘員じゃないんだろうなーなどと思ったり。
戦闘員/非戦闘員て区別がナンセンスなのかもしれないね。

しかし酒呑みw 酒はいいよな、あくまでも過ごさなければの話だがw
あぁ、私も燗酒が恋しくなってきた……
冬になるとお燗がおいしいよね♪

もうちょっとだけ小競り合いの描写が続き、その後いよいよ上月城の攻防に突入する予定だよ!

私事ながら、お世話になっている方のご親族が亡くなられて、
ちょっとだけバタバタすることになるので、更新が滞るかもしれません><
広家の誕生日を目前にしてこの展開orz
まあしょうがねえやな。
故人のご冥福を祈りつつ、遺されたご家族の役に少しでも立てるようにがんばってくるよ!
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2012-10-28

乃美さんちの少輔四郎くん

だいたいの流れ:
織田さんちと喧嘩してる本願寺に味方して織田方の水軍を蹴散らし、
織田さんちに追い出された捨て犬もとい将軍義昭を保護した毛利家。
……いよいよ毛利VS織田の全面戦争突入だぜヒャッハーーーー!

とはいえ、合戦の前にいろいろやることがあるようですよ。


乃美心替えのこと

信長と輝元の和睦が破れると、あちこちで小競り合いが頻発した。
備前の国の常山には、浦兵部丞宗勝の嫡子、少輔四郎盛勝が在城(備中宮路山城)していたが、
心変えをしてしまった。

その経緯を聞いてみると、兵部丞宗勝は名高い勇士だったので、
どうにか彼を味方にしようと、羽柴筑前守秀吉は考えた。
「所領をたくさん宛行うので、味方になってほしい」と、
小寺官兵衛尉・蜂須賀彦右衛門を通して言い送った。秀吉からもまた書状を送った。次のとおりだ。

 「始めまして。この二人の申すことについて書き添えておきます。
  あなたのことは、毛利・小早川に対して、何度も忠義を貫いてきたと有名です。
  しかし、つれづれと深く思うこともおありでしょう。
  これから当家に対して忠義を貫いていただければ、お望みのことは何もかも用意いたしましょう。
  末代までご身上が減らされないように、私も可能な限り力を尽くします。
  このことは嘘ではありません。愛宕八幡に誓います。
  なお、蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛尉が申すとおりです。恐々謹言。
   三月十八日     秀吉(判)
    乃美兵部丞殿・同少輔四郎殿 御宿所」

 「始めまして。御両人(乃美兵部丞・同少輔四郎)のことはあれこれと聞き及んでおります。
  飛脚を通じて申し入れます。筑前守(秀吉)は、近日の出張りについて御父子を頼りになさっています。
  これから忠義を貫いていただければ、どんなお望みであっても、
  この両人(黒田・蜂須賀)が馳走いたします。どうか当方に協力してください。
  ご返事をお待ちしております。なお、使者に詳しく申し含めてあります。
  どうかご理解いただけますよう。恐惶謹言。
   三月十七日     黒田官兵衛尉孝高(判)・蜂須賀彦右衛門尉正勝(判)
    乃美兵部丞殿・同少輔四郎殿 人々御中」

このように言い送ってきたが、乃美兵部丞は歯牙にもかけなかった。
ところが嫡子の少輔四郎はつくづくとこのことを思案して、
「たとえ父の宗勝が秀吉に与さなくとも、私は親に隠れて敵に一味しよう。
秀吉が中国に発向してきたときには毛利家を裏切って国主になってやる」と考え、
秀吉へと一味する意志があることをひそかに言い送った。
父の宗勝は智勇全備のうえ将兵の器も兼ね備えている。
だから毛利家に対してこれ以上ないほどの忠勤を貫いたからこそ、隆景にも非常に頼りにされていた。
それなのに、その子供でありながらこのような悪逆を思い立つとは、なんとも浅ましいものである。

こうしたときに、備前の児島の渡し口の見張りとして神田右馬助という者を差し置いていたのだが、
どう見ても怪しげな僧が一人、編み笠を深くかぶり、黒木の念珠をつま繰りながら、
「南無阿弥陀仏」と高らかに唱えて渡し口へとやってきた。
「私は念仏修行の僧でございます。この渡し口にいらっしゃる方々も、
念仏の進めにお入りください」と言う。
右馬助は「いかにも怪しい」と思って、とりあえず中に招き入れた。
この僧は座にどっかりと座り、語りだした。

「私は無縁の衆生を成仏させるために諸国を回っております。
諸仏の誓いは様々あるとは申しながら、弥陀の他力往生の悲願に勝るものはありません。
一念弥陀仏則滅無量材と申しまして、たとえ五逆十悪の罪人であっても、
いっぺんなりとも弥陀仏を念ずればすぐに、これまで積み重ねてきた罪業がすべて消滅します。
三尊の弥陀・二十五の菩薩の来迎があって、弘誓の舟に掉さして安養不退の極楽浄土に
あっという間に往生でき、誰でも天の恵みを受けられるのです。

大聖釈迦牟尼如来でさえ、六年もの間端座して、明星を見て悟りに至り、
達磨は九年も壁に面して座り続けました。
二祖(禅宗二祖、慧可)は達磨に教えを乞うたとき、
弟子入りを許されなかったので雪の上に立ったまま左腕を切り落として覚悟を示しましたし、
そのほかにも六十回も棒で打たれて悟りに到達した人や、水中に沈み溺れて了悟した人もいます。
ずっと昔の聖賢の人々ですらこのように大変なのですから、
ましてこの濁った末法の世、凡夫はどうしたらよいのでしょう。

禅宗が言う、本来無一物のところに仏がいるのでしょうか。どこに衆生がいるのでしょうか。
上には尊ぶに足る仏はなく、下には救うべき衆生はいないなどといって、
ずっと空虚なものを見ているようで、とても痛々しい。
彼らは未来永劫、閻王の鉄の棒によって打ち据えられるのでしょう。
また日蓮宗は念仏無間などと言いますが、非常に強情で、他の宗派のことを口汚く罵詈誹謗し、
自派の説法を声高に呼ばわります。これも地獄を自ら呼び寄せるようなものです。
きっと阿鼻大地獄に落とされて、何年経っても成仏することはないでしょう。
ですから、ただ南無と唱えるうちにすぐ成仏できる浄土宗に耳を傾けて、
念仏を唱えてすがすがしい国へと生まれ変わりましょう」

こう勧められて、右馬助は「御僧の説法で信心がわきました。
あなたの宗門に入りましょう。まずはもっていらっしゃるご本尊を拝むことにいたします」と、
僧の平包みを解いて見た。しかし何も怪しいものはない。
僧がついていた竹杖が気にかかって、割って中を見てみると、果たしてそこには文が入っていた。
右馬助は「これは阿弥陀仏が一切衆生を教化するために書かれた御自筆の回文ですな。
阿弥陀仏の御文ならば、私のような凡夫が見るべきではありません。
大将の隆景にお見せしましょう」と言うと、すぐにその僧を捕らえて沼田の城に引いていった。

その書状を見てみると、阿弥陀の自筆のわけもなく、羽柴秀吉の郎党である、小寺・蜂須賀の書状だった。
その書状にはこう書いてあった。

 「筑前守は近日出馬します。それについて、密約を交わしていただき、
  このお考えは実にありがたく思います。
 一、安芸・周防・長門の三ヶ国をあなたに差し上げます。また黄金五百枚も予定通り差し上げます。
 一、児島に関しては、備州の国内ですので、差し上げられません。
 一、御父上が同心しない場合は、あなたお一人の了解でかまいません。
   そのときには、前述の三ヶ国のうち、どこであろうともあなたの望みどおりに、
   一ヶ国を差し上げます。
 一、金子百枚を用意します。すべての国はお手に入らないでしょうから、
   その島は別状なきよう取り計らわれるでしょう。
   いずれにしても急いで返事を寄越してください。
 一、今回思い切られたほうがよいと思います。
   遅くなってしまっては、せっかくのご忠義が無駄になってしまいます。
 一、東国がすべて織田に滅ぼされたことは、この使者も存じています。
 一、芸州から強く引きとめられたとしても、決して同心なさらないでください。
 一、どうかお急ぎになってください。恐々謹言。
   三月十七日     黒田官兵衛尉孝高(判)・蜂須賀彦右衛門正勝(判)
     乃美少輔四郎殿」※この書状は今でもその家に保存されている

隆景様はこれを見ると大いに驚いて、すぐに父の兵部丞宗勝を呼び、
辺りにいた人々を下がらせて、そっとこの証文を出した。
宗勝は涙をハラハラと流して、
「まことに子の心親知らずと申し伝えられますように、私はまったくこのことに気づいておりませんでした。
しかし、愚息がこのような悪逆を思い立ったことは、
親の身でありながら知らぬわけはないと思し召されることでしょう。
面目もなき次第、言語道断のことでございます。
これから御前にて自害し、ご不審を晴らしましょう」と言った。

隆景は、「いや待て。私はおまえに一点の疑心もないからこそ、
子の逆意を実の親であるおまえに知らせたのだぞ。このことは他に漏らすな。
ただ私とおまえが心を一つにして、何もなかったかのように、
少輔四郎に常山を明けさせようと思っている」と言った。
宗勝はあまりのかたじけなさに、また涙を流したのだった。

そしてすぐに何でもないように装って少輔四郎を沼田に呼び寄せると、
父宗勝の所領に戻し、常山には別の人員を置いた。
少輔四郎はこのような悪逆を思い立った天罰が当たったのか、
やがて病にかかってついには死んでしまったそうだ。


以上、テキトー訳。

一部では暗殺の噂も囁かれている浦盛勝。
タイミングがタイミングだけにな。
タイミングといえば元康・秀包も関ヶ原の翌年に亡くなっているけど、
この二人もまぁいろいろ言われてるよねー(棒)。
個人的には、あの家は粛清なら粛清できっちり記録しているタイプだし、
キーパーソン一人だけ暗殺したところであまり意味もないと思うので、
暗殺ってセンはないんじゃないかと思っている。
話がそれた。

今回のハイライトは涙に咽ぶ宗勝だな……(*´∇`*)ウットリ
智勇全備で将兵の器を兼ね備えている大の男が、はらはらと涙を流す。
いいじゃない! こういうの好きだ!
久しぶりにこう、なんか滾った!!! 主にイケナイ方向に!
またそれた(´・ω・`)

とりあえず、景さままじ景さま!
誰にも言わず兵部と二人きりになってから少輔四郎のことを打ち明け、
「おまえを信頼してるんだよ」ってGAYAAAAAAAA!!!
こりゃ命を投げ出してお仕えしたい主君だね!
私はそれでもどちらかというと吉川家に仕えたいがな(・`ω´・)

そんでもって次章は合戦!
2012-10-28

毛利ナイト「ちこなつ」詳細

メンバーがツイッターで集まったので、
ツイッター仲間向けの記事となっております。
「続きを読む」からお進みください♪ヾ(。・ω・。)ノ゙



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2012-10-27

義昭ちゃん「来ちゃった♪」

はいのはいのはーい!
ずいぶんお久しぶりのブログだね。
体調崩してたのはマジだけど仕事休むほどでもなく、
深夜帰りの日があったり会社の課題片付けなきゃだったりとにかく眠かったり
かかってきた電話に付き合わされたりで進めない日々が続きまった。
正矩に対する愛が薄れたわけではない。断じて。

ずいぶん間の空いた陰徳記。
こちらも前回からの流れを追うより、場面が変わってるので仕切り直して読んだほうがよさそう。
今回は、信長を頼って京に入れたものの、ないがしろにされて拗ねた将軍義昭ちゃんが、
信長と戦争しようとしてできなかったその後のお話。


将軍義昭卿、鞆へ御下向のこと

大納言義昭卿は思慮なく戦を思い立ったが、それなら都でどうにかすべきだったのに、
うかつに真木の嶋へと移ってしまった。
そのうえはかばかしい一戦を遂げるわけでもなく、信長卿の勢力に臆して、
「私の命を助けてほしい」と赤手を擦った。
真木の嶋まで出ていかなければならなくなり、はかなき浮名を立花の、小島の波に流すことになって、
口惜しさばかりがつのった。

つい先日までは、天下の武門の棟梁だったのだ。
日本六十余州の大名・小名を従えたばかりでなく、頂点に立つ帝から月卿雲客に至るまで、
皆この人の心にかなうようにと、これ以上ないほどにかしずいてきた。
それに引き替え今はというと、数万の軍兵は皆思い思いに散り散りになり、
わずか一式式部太輔藤長・飯河肥後守信堅・武田刑部少輔などの数人が供についているばかりで、
あてもなくさ迷い歩くことになってしまった。痛ましいことである。
あるときは不案内な山道を踏み惑って松の根を枕に旅の夢にうなされながら涙を流し、
またあるときは風や波が吹きつける万里の蒼海に漂い、小さな船に掉さして、
魚に食われて死んでしまうのではないかと肝をつぶした。
「不義にして富み、かつ貴きは浮雲のごとし(不正な手段で手に入れた財産や地位は、
浮雲のように頼りなくはかないこと、論語)」というたとえは、まさに目の前の現実である。

信長のこれまでの忠功を忘れ果て、このように不義・無礼な振る舞いをするのだから、
仏神三宝にも見放される。
なかでも源氏の氏神である八万大菩薩が見放したのも仕方がないと思える。

その後義昭卿は紀伊の宮崎というところに立ち寄って、身分卑しい漁師の小屋に入ったが、
その小屋を見ると、竹で編んだ垣などは傾き、石の橋がそれは侘しげに掛け渡してあって、
辺りの松を寄る辺にしている柱も朽ち、軒も壁も荒れ果てて、
しばらくの間雨宿りするにも不便そうなところだった。
実に「漁師が取ってきた藻に住んでいる虫でさえ、
私がこのような憂き目に会っているのを見ているのか」と思うと、
胸がふさがって涙で袖を濡らすのだった。

それでなくても物思いに沈んで眠れないというのに、
後ろの山の松風が壁の隙間から吹き込んできて肌を刺し、
前の磯に寄せる波の音で夢を見る暇もなく、涙に掻き暮れるばかりだった。
こうなっては、どこに落ち延びたとしても、再び人が集まってくれるようにも思えなかったので、
「いっそここで出家して、今生はたとえ果報が少なくても、
せめて来世は九品蓮台に至りたいと思う」と義昭卿が言うと、
供の人々は皆鼻をぐずぐずとかみながら、あえて諫言しようとする者もなかった。

少しして一式式部太輔が口を開いた。
「これは義昭卿の仰せとも思えませんな。越王匂践は呉王によって捕虜にされましたが、
石淋を嘗めてついには会稽の恥を雪ぎました。
我が国では、源頼朝公は池の尼公に助けられ、北条の蛙が小島にて二十余年の月日を送りましたが、
ついには父の怨敵を滅ぼし、そのうえ征夷大将軍の宣旨を賜りました。
これは皆、命をつないで恥を忍んできたからこそなしえたのです。
たとえ君主が一旦は逆臣によって排斥されようとも、天がきちんとご覧になっているのですから、
その逆臣はそう遠くない未来に八逆の罪から逃げられずに自滅していくでしょう。
どうにかしてここから西国へとお行きになって、しばらくは浮世の成り行きを伺ってみてはいかがでしょう」
義昭卿は強く諌められて、紀伊を出立した。

しかし行く末が不安なので、しばらく滞在していた柴の庵をさえ名残惜しげに振り返り、
波打ち際に歩を進めても、また故郷に残し置いてきた人々のことばかり思い出されて涙がこぼれ、
船にも乗れない。水夫たちが艫綱を解いて舵を取り直すと、
「私は八十島目指して漕ぎ出でたと、心無き釣り船よ、私の故郷の人々に告げておくれ
(本歌:わたの原 八十島かけて漕ぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟、古今和歌集)」と歌に詠む。
痛ましいことだった。

日も長い時期だったので、追い風も手伝って、その日の暮れごろには淡路の島に着いた。
道すがら、名所・旧跡を見て歌を詠むにも、心を痛める種になるばかりである。
「大江殿」と呼ばれた旧跡をはるかに見やると、今は顕如上人のいる本願寺と呼ばれているが、
さすがに仏法繁栄の地として西方十万億土の仏世界を移してきたような霊地である。
しかし今は昔の姿とは打って変わって、たちまち修羅の土地と成り果て、
立ち並べられた軍旗が夕暮れの風に翻るのも、たいそう寒々しく見えるのだった。
「主従の礼儀に背いただけでなく、また仏法の敵になった信長の行く末は、そう長くはあるまい」
と思えたので、義昭卿の心も少しは慰められた。

明石の浦は簡単に泳いで渡れるほどの距離なので、すぐに舟を漕ぎ寄せて宇喜多和泉守直家を頼ったが、
直家はもともと狡賢いところがあって、儀などはまったく夢にも知らない者だったので、
こうして流浪している義昭卿を、すげなく扱った。
義昭卿はそれから八重の潮路に漕ぎ惑い、島伝い・浦伝いに備後の国の鞆の浦に到着した(天正四年二月)。

ここには先祖の尊氏が、都の戦に勝利がなく西国に下ったときに、
小松寺という寺に旅宿していたことがあった。
その吉例を思い出したのか、義昭卿はまずこの寺に入った。
それから上野中務少輔・飯河肥後守を使者として、輝元様ならびに元春・隆景へと、こう言い送ってきた。
「私は逆臣の信長によって、今はこんな左遷の憂き目に会っている。
こんな身の上では天下草創の望みもなく、ただどこかの山里に粗末な庵でも建てて、
後世の菩提を丁寧に弔っていきたいと思うだけだ。
今すでに、この今生から餓鬼道に落とされてしまったのか、のっぴきならない飢えに臨んでいる。
世界がいかに広いとはいえ、この身一つを置くに場所なしという古い詩も、今は我がこと。
どうかお願いだ。私の飢餓を救ってほしい」と、下手に出てくる。

これによって、輝元様は元春・隆景をはじめ、そのほか宍戸・福原・桂といった人々を呼び集めて、
このことをどうしようかと会議をしたが、意見はまとまらなかった。
「卑しくも歴代の将軍家、まさしく先祖代々の主君がこうして真剣に頼ってきているというのに、
すげなく扱うのは忠臣の道ではないし、信長の二の舞になってしまう。
とはいえ、ああして忠功を尽くした信長にさえ恨みがあるといって弓を引いた方を、
頼られたからといって助けるべきかどうか。

義昭卿は天下の武将にふさわしい器ではないけれども、
『たとえ君主が君主としての徳を備えていなくても、臣は臣下としての礼儀を忘れてはいけない(孝経)』
という言葉もある。
義明卿がいかに暗君庸主とはいえ、こうして頼ってきているのに、どうして拒否できようか。
しかしここで義昭卿を受け入れてしまえば、すぐに信長との和睦が敗れて戦争になるだろう。
そうなれば由々しき一大事だ」と、しばらく評定は一決しなかった。

「しかしたとえ信長との和平が破れ一戦に及ぼうとも、まさしく主君が頼ってきているのだから、
信長と固く約束したからといって保護しないなどということができようか。
朋友の約は変わらないかもしれないが、主君の命に背くばかりか、
諸国流浪の身となって追い詰められた鳥のように懐に飛び込んできた人を、
どうして哀れまず、突き放すことができるだろう。
信長の武威に阿って、情けもなく主君を国から追い出したと、末代まで陰口をたたかれると思うと口惜しい。
一代限りのことを考えて、末代までの名を惜しまないとしたら大間違いだ。

それに信長と和睦したとはいっても、これから先もずっとこれが変わらないわけではない。
大坂門跡(本願寺顕如)や紀伊の一揆などを制圧し、また関東の武田・上杉家を屠った後、
信長は欲心不当の悪大将なのだから、この毛利家を滅ぼそうとするだろう。
そのときには信長の武威はさらに強大になっているだろうから、どうやってもかなうまい。
今のうちに和睦を破り、東西の諸将と相談して、一時のうちに攻め滅ぼしてしまうに限る。

ただし侍道を真に理解していない狡賢いだけの者たちは、
毛利三家が愚かさゆえにこんな暗君に担がれたのだと嘲弄することもあるだろう。
でもそれは義も法さえも知らぬ輩が口をつくままに失言しているだけのことだから、
毛利家の傷にはならない。
投石されるような輩が孔孟の道を嘲っていると思って捨て置け。

戦争にも、始めるべきときと始めてはならないときがある。
今は信長と手を切って戦を始めるべきときが来たのだ。
このときを逃せば、なすすべもなく敵の武威が増し、味方の力が衰えるのを待つようなものだ。
どのみちいつかは戦争になるのは必至なのだから、
少しでも信長の武威が大きくならないうちに戦争してしまおう」と決した。
そして鞆に一通り館を建てると、義昭卿をそこに迎え入れた。
これが、信長との和睦が破れ、戦争とななったきっかけだという。


以上、テキトー訳。

落ちぶれるってさ、本当にアレだよね。
そうだよね、ダイレクトに「飢餓」に直面するんだよね、この時代は。
いや現代もうっかりするとそうなるけどさ。
なんかね、漫画でしか見たことないけど、雨の日の捨て犬のイメージに近いよね。

輝(子)「この犬……飼っていいかお?」
景(母)「だめです! 元いたところに戻してらっしゃい!」
春(父)「まぁまぁ」
そしてその犬は「よしあき」と名付けられて大事にされる……
みたいなそんな毛利家はどこに落ちていますかハァハァハァハァ=3

しかし公方様、君主たる器じゃないとか徳がないとか散々な言われようだな。
ここまでボロカスに言われる将軍て他にいたりするのかしら。
追々調べてみようかな。

とりあえず次回は乃美さんちのお話っぽい。
2012-10-22

近況報告

数年ぶりにまともにひいた風邪(たいしたことない)でダウン中だす。
とりあえず仕事場の仲間にうつったら困るので医者に行ったら、
「こじらせましたね~」とか言われたけど、熱はないんだよ!
ただ気管支がねゲホゲホ。咳するって体力使うんだね。

そんなわけでPCに向かう気力がわきませぬ。
陰徳記の続きはしばしお待ちを~_ノ乙(.ン、)_

でもでも今日は、西暦換算の広家の命日だねー。
9月はすっかり忘れてスルーしてたわ。ごめんね☆テヘペロ
今回はツイッターのbotの仕込みをしたけどそこで力尽きたよぱとらっしゅ……

ご冥福をお祈りしておとなしく寝よう!
2012-10-20

広家の結婚の経緯

今日は陰徳記放り投げて、ネットの吉川家文書にかじりついてみたよ。
そろそろ紙媒体で欲しいです。でも購入の優先順位は、ネットで読めないやつから!
てか、やっぱり気になるじゃない。広家たちがあの結婚をどう思ってたのか。
相変わらずというか、いつもより輪をかけて不安な訳だけど、とりあえず挑戦(・`ω´・)

「覚書案」となってるわけだが「案」てのは「控え」とか「写し」って意味だということがわかってきた。
あと「覚書」ってのも、単なるメモじゃなくて、書状だったりするよね……
そんなわけでたぶん、これは広家が結婚を渋っているときに、
誰かに送った書状の控えなんだと思うよ。
違っても責任は持てないがな!


吉川家文書1340 吉川広家覚書案
    ※この文書は天正十五年のものであろう
 (端裏書)「広家様御縁職仰せ出され候ときの御覚書」

一、思いもよらぬ所縁の件を天下(秀吉)から命じられましたが、
  これは考えられない話ですので、隆景に相談して、
  この話は断ってくださるようにと、重ね重ね申し上げて、広家は箱崎に罷り下りました。
  そうしたところに、元直(熊谷)・渡石(渡辺長)を差し下されましたので、
  隆景・安国寺へもこの通り伝えて、
  たとえ広家一人が困り果て、拙家が立ち行かなくなろうとも、
  この縁談はお受けできないと、隆景・安国寺・元直・渡辺にも申して、
  他意なく申しましたので、安国寺は罷り上がりました。

  隆景が申されるには、
  「広家の考えも無理のないことだが、天下の思し召しであり、
  輝元・隆景がお受けしたのだから、広家も了承すべきだ。
  それなのに、広家が了承せずにこの縁談が破談になれば、
  輝元・隆景までもが天下の不興を買ってしまう。
  だからぜひとも聞き分けてほしい」とのことでした。
  もちろん、元直・渡辺も同様に聞いております。
  しかし広家は、何度も「お受けできない」と申しました。

  すると隆景は「これは京芸・備芸の和睦を固めるために仰せ出されたそうだ。
  第一、備前(宇喜多)と広家の分限が不相応だというのは、たしかにそうだ。
  しかし、京芸・備芸の和議としてお預けになられるということなのだから、
  ひとまずは御意に従ってくれないか」と、
  南の関(肥後)において直接元直・渡辺にお話になりました。
  広家が申していることはまったく道理なことなのだから、
  広家が申した通りに輝元へも元直・渡辺を通じてお断りしてくださればいいのに、
  隆景は、官兵(黒田孝高)・森壱岐(毛利吉成)へも、
  「天下の命はお受けするべきだ」と申されたそうです。

一、このような顛末ですが、広家はまだ若輩ですので、拙家の老臣たちにも相談しました。
  老臣たちも、広家と同様に考えています。
  元春・元長に不慮のことがあってこんなことになったとはいえ、
  輝元様・隆景のお力添えによって、ようやく広家が拙家を相続することができました。
  このことは、拙家の者たちは皆、大変ありがたく思っております。
  それというのに、無理な所縁を持ち出されるのですから、
  これで外聞を失われたとしても、我々ではどうにもできません。
  もし拙家の立場が危なくなろうとも、この所縁をお受けするべきではないと、
  今田上野(経高)や他の老臣たちからも言ってきています。
  広家も老臣たちも皆一同にそう考えています。

一、今となっては、南の関にて隆景が申されたことも違ってきていて、
  備前と広家が話し合うことですので、他意なく申しております。
  以前、元俊(福原)・妙寿寺・渡辺へと申したことは、
  隆景へも直接申し伝えております。
  これはとても了承できない話ですので、この旨をしっかりと説明して、
  ご披露くださいますようお願いいたします。

一、広家の役目などの件についても、この春に重ね重ね申し上げました。
  元春が生きていたときには、隆景・元春と並び称されてきたのは、
  一時期だけのことです。現在の広家は、分限も少ないのです。
  輝元の旗本としての役目を分限どおり勤めるのはもちろんながら、
  輝元の御名代に命じられたならば、どこであっても文句を言わずに罷り出で、
  できる限りの馳走をします。
  この春も申したことではありますが、ついでながら重ねて申しました。
  このことをよろしくご披露ください。

  これは南の関で話されたことをよくわかっていただくために、
  春房(桂)に申したことです。
  上へはお目にかけないでください。御返事をくださいますよう。


以上、かなりテキトー訳!

おいおい、広家ちゃん、すっげえ嫌がってんぞ。
広家だけじゃなくて、今田経高はじめ家中の老臣も反対してたのか。へぇ……
で、理由として「宇喜多とは分際が不相応」ってことなわけだけれども、
確かにこのころ、秀家は備中の半国・美作・備前を領する大大名だわな。
秀吉の猶子(義理の子供)でもあるし、輝元と同等かそれ以上の立場なのかな?
その姫さんを娶れば、お付きの家臣も養わなきゃならないから、
たしかにかなり厳しいかもしれない。
だが、ほかに裏の事情というか宇喜多に対する何かアレな感情とかあるかもしれないね!
と疑ってしまいたくなるね!!!

あと、毛利・吉川・小早川がそろって上洛した際に出た話なんだと思ってたけど、
どうやら九州在陣中に内示があったみたいだね。
まあそりゃ、言われてすぐにホイホイ承諾できる話じゃあねえわな。
各所の調整しなきゃ。

そういえば、どうしてこの文書に行き当たったかというと、
益田のことを調べていて、「元祥が広家の祝言では集まった国人衆の取り仕切りをした」という記述に
ニヘニヘしていたわけだが、そこで
「広家は身分違いを理由に辞退しようとしたが、隆景の助言もあって縁談が成った」
みたいな記述もあったのね。
もしかしたらそのへんのことが家譜に書かれてるかもしれないなーと思ってたらビンゴで、
そんでまた、家譜にこの覚書が引用されてたので、吉川家文書を当たってみたらあった……というわけで。
探してみるもんだねー(*´∇`*)

家譜には広家の祝言に際してのお祝いとかもちょろちょろ載ってるようなので、
というか上洛のときのお付き合いとかもこまごまと載ってるみたいなので、
また何か面白そうなところが見つかったらネタにしたいな。

とりあえず、隆景は広家の祝言に際しては、
「今回は広家の祝言が無事調って、本当に大喜びしているよ。
とりわけ関白様からそちらまで黒官を差し下されたのは、
広家も鼻が高いだろう」みたいなことを言ってるよ。
もっとクールな人だと思ってたけど、かなり親族思いの世話焼きなのね、景さま!

ただ、嫌がる甥っ子の外堀を埋めながら結婚を引き受けるしかない状態にさせていくのは、
まじ景さま……って思った。素敵に怖すぎる。
だって、吉川家が拒否してるのを輝元に伝えず、
黒官・森吉成にまで手を回してるし……すげえな、この人。
敵に回したくないタイプだわ。

どうでもいいけどこの手紙、誰宛なんだろうね……春房?
2012-10-19

赤松・浦上濃厚プレイ

今日は広家と宇喜多秀家姉の結婚記念日です(・`ω´・)←確かめてきた。
でもこの結婚、吉川家は最初大反対だったようで。というか広家自身も思いっきり拒否してたっぽい。
そこで美貌の?叔父様が脅したりすかしたり周辺に手を回したりして、
ようやく漕ぎ着けた結婚だったらしい……というのを、
最近行き当たった広家覚書で知りました。
もし読み解けるまでは行かなくても、だいたい理解できたなら、紹介したいデス。

さて陰徳記。これまでのあらすじ:
宇喜多直家が浦上宗景を流浪の身に追い込んだ、という話に付け加えて、
でも浦上は主君の赤松の国を奪ってるし、赤松は将軍を殺してるし、こういうのを因果応報っていうんだね。
直家の行く末も不安だね、という流れからの、
じゃあどうして赤松は将軍を殺したのか、というお話。
とある宴席でなんとなく仲が険悪になった将軍義教・赤松満祐だったが、
義教の御台所が父の満祐に義教のことを告げ口しようとしてバレて責められて自害した。
満祐は怒って義教を殺したいと思ったものの、手立てがなく、
信頼できる討手を見分けるために、気が狂った振りをして、諫言した家臣を手打ちにしたりしてた。
さぁて、これを聞いた浦上さんは?というところから。

あれ、もしかしてこの話って……


浦上宗景流浪のこと、並びに浦上普光院殿を討ち奉ること(下)

このことを聞いて、備前の守護に置かれていた浦上が急いで播磨にやってきた。
赤松の家之子郎党たちが満祐の有様を話すと、浦上はこう言った。
「たとえ身をずたずたに切り裂かれ、骨を粉々に砕かれたとしても、諫言を控えるべきではない。
死を顧みずに諫言するのが忠臣というものだ」と、
すぐに赤松満祐へと「私が備前よりまかり上がりました」と申し入れた。
満祐はひどく喜んで、「早く会いたい」と呼び入れた。

浦上は先ほど言った言葉のとおり死を恐れずに赤松に諫言した。
すると満祐は、「よくぞ言ってくれた。
私をこれほどこまごまと諫めてくれる者は浦上しかいない。確かにそのとおりだ。
けれども私は病気に犯されて、自分の心さえ思い通りにならない。
まさに、思いによって変わるのは外見だけではないと痛感した。
これまでも、こうして諫めてくれるものを手打ちにして切り殺さなければ
胸がふさがって腹が膨れるような気持ちがして堪えられなかったのだ。
だから、ほかならぬあなたであっても、それからは逃れられないぞ。
さあこっちへ近寄ってきてくれ」と、二尺あまりの刀をするりと抜いて待ちかけた。

浦上はこれを見て、「先に聞いておりましたので、覚悟はできています。
少しも驚いてはおりません」と、脇差を抜くとそばに投げ捨て、両肩を脱いでかしこまった。
満祐は刀の先を浦上の腹の真ん中へと氷のようにヒヤヒヤと差し当てた。
浦上はなかなかの者だった。
少しも臆していない様子でいたので、今度は赤松が刀を投げ捨てた。
「なんということだ。
あなたのような、最高に強くてしかも私に忠節を貫こうと思い入れている者を見分けようとして、
私はこれまで狂乱した振りをしていたのだ。
私には心に深く思い決めたことがある。まだ誰にも話していない。お前を頼りたい」と、赤松は言った。

浦上は、「そのように思し召されていたのですか。なぜ早く仰ってくださらなかったのです。
この一命を捧げているからには、どんなことであろうと仰せ付けください。
絶対に、少しも心底を隠さないでください」と言った。
赤松は大いに喜んで、浦上をすぐそばに近づけて囁いた。
「私が狂乱したあまりにこんなことを言い出したと思うなよ。
将軍義教卿に愛する娘を殺されて、恨みが骨髄まで染み渡ってしまったのだ。
このことはあなたもご存知のとおりだ。
だから、どうにかしてあの方を討ち申し上げ、私の恨みを散じたいと思っている。
頼まれてくれるか」

浦上は聞くやいなや、「そんなこと、何よりお安い御用でございます。
私が謀略をめぐらせてあの方をだまし、簡単に討ち取ってご覧に入れましょう。
まずは、以前どおり狂人の振りをしていらしてください」と言い置いて、自分はサッと走り出していった。
そして「なんと恐ろしい。さすがに私の命はこれまでかと思ったがどうにか逃げ出すことができたぞ。
きっと赤松家は滅亡のときが近づいているのだ」と言いふらしながら、
満祐へと暇乞いもせずに、急いで京へと上っていった。

さて浦上は京に着くと、大樹(将軍)義教卿へと、
「赤松左京大夫は心が狂乱してしまいました。
急いでこの者の領国をお召し上げになり、誰か他の大名に宛行ってください」と申し入れた。
義教卿は単純で思慮が浅い大将軍だったので、赤松を憎く思うあまりに少しも考えることなく、
「浦上が申したことは確かに道理だ。
では備前・播磨・美作を赤松から召し上げたとして、この三ヶ国を預けるならば、
浦上を置いてほかにいない。おまえが知行するように」と、
すぐに備前・播磨・美作を安堵するとの判物を浦上に与えた。

浦上は急いで領国に下り、
「赤松を追い出して三ヶ国を知行できるとはなんと嬉しいことだ」と喜びたかったが、
「まず義教卿を自分の館に招待し、猿楽師たちを呼び集めて能を演じさせて、
その座において備前・播磨・美作拝領の判物を管領や執事など色々な人に披露してから国に下ろう」と考え、
すぐにこのことを申し入れた。
義教卿は「それがいいだろう」と了承したので、嘉吉元年六月二十四日に浦上の招待に応じることに決まった。

そうしてその日になると、義教卿の御座所の周りには、六尺以上ある長押を置き、
屏風でこれを囲って中が見えないようにした。
そして、能の何番目に義教卿を討つようにと、家之子郎党たちに言い含めた。
そして義教卿が来訪すると、浦上は金銀をちりばめ、饗膳を海の幸や山の幸、
珍しい肴などで整えてもてなした。
将軍の機嫌は非常によく、興が乗って盃も進んだ。

その後庭にしつらえた舞台で能が始まる。
希代の名人ばかりなので、義教卿をはじめとして、
その座に居合わせた貴賤の者たちは心をひとつにして見物していた。
そこへ、かねてから定めていた合図のときになったので、
浦上が長押の中へと紛れ込ませて隠し置いていた郎党たちが、
後ろの屏風を押し倒して、ドッと切り入ってきた。
思いもよらぬ折だったので、太刀を抜いて抵抗する者もなく、難なく義教卿を討つことができた。

その座に居合わせた大名・小名も、あるいは討たれ、危なく命を拾った者もいた。
大内左京大夫持世は手ずから切って回っていたが、
大勢で取り巻かれ後ろから切りかかられたので、
ついにそこで討たれてしまった(嘉吉元年七月二十八日没)。
そのとき、誰の仕業かはわからないが、一首の狂歌がその館の前に掲げられた。
「逃るとて 背中に疵を 大内殿 浮世の恥を 嘉吉元年」

その後、浦上が京都を逃げ下って満祐にこのことを告げると、
赤松は「私の望みがかなったぞ」と大いに喜び、
「京都からはすぐに討手が下ってくるだろう」と、鏃を磨いて待ちかけていた。

義教卿の嫡子である義勝卿はまだ幼少であったが、どうにかして父の仇の赤松を討とうと心に決めて、
八幡へと百日の間参詣して熱心に祈祷した。
しかし神がその願いを受け入れなかったのか、義勝卿は道の途中で落馬して亡くなってしまった。
その葬礼が終わると、「十歳男子、よく馬に乗る」とされたという。
慶雲院殿栄山道春いうおくり名である。

次男の義政卿の時代には、細川・武田などが播磨へと攻め下り、
蟹が坂の合戦に打ち負けて退却しようとしたところ、
山名右衛門督が但馬口から攻め入って、ついに赤松入道を討ち取ったという。
こうした悪逆が積もり積もって、その余韻が家に残り、赤松は浦上に国を奪われ、
浦上もまた宇喜多に滅ぼされたのだという。


以上、テキトー訳。おわり。

そうだね、嘉吉の乱だね!
よ、読み終わってから気づいたわけじゃないんだから//><//
ちゃ、ちゃんと「嘉吉」の年号が出たあたりでΣ(゚Д゚)としたんだから//><//
勘違いしないでよねッ!!!
まあそこまで気付かないほうがおかしいよな。
いかに広家近辺しか見てないかがバレますな。ははは。はぁ。

しかし満祐と浦上のやり取りはなんのプレイなの。
ちょっといやらしいじゃないの(*ノエノ)
そしてとばっちり大内さんェ……

そんなわけで次は、今の将軍義昭ちゃんが、鞆に下ってくるみたいだよ!
あれ、「来んな」って言われてなかったっけ……?
2012-10-18

下克上の発端

きっかわ出せとか言ってたら直家さんキターーーーー!
広家の舅に当たるから一応親族っていうか縁戚っていうか。
まあ広家と宇喜多の娘が結婚したころには直家さんは鬼籍の人なわけだが。
どうでもいいけど直家の娘婿っていうと、娘ともども殺されるイメージあるよね。
ただのイメージだけど。 ※ちゃんと調べてないです

そんなわけで、今回は浦上というか直家というか……あれ?


浦上宗景流浪のこと、並びに浦上普光院殿を討ち奉ること(上)

浦上帯刀左衛門宗景は、備前・播磨・美作の大方を切り従えるほどに武威を逞しくしていたが、
家人の宇喜多のせいでついには流浪の身となって、
播磨の室の津で、食うや食わずの暮らしをするようになった。

宇喜多直家は、どうにかして宗景を滅ぼして所領を横領しようと考ええていたので、
まず宗景へと「沼本新左衛門は反逆を企んでいます」と讒言をした。
宗景はこれを信じてしまい、すぐに沼本を討とうとしたので、
沼本はどうしようもなく九州へ下り、その後四国に移った。

直家は、「沼本はもとから智も勇も全備している。
どうにかしてこの者を失脚させれば宗景討伐もやりやすいだろう」と考えて讒言したのだが、
沼本が国を去ると、
「これからは、沼本をまた私の味方に引き入れれば、一方面の将にふさわしい者だ」と思った。
そして沼本にひそかに使者を送って呼び寄せると、野中の城を預けたのだった。

このときはすでに浦上は宇喜多と戦争状態にあった。
浦上は、「沼本が帰ってきて敵に与し、私に恨みを報じようとしているらしい。
こしゃくな。急ぎ攻め入って討ち取れ」と、
片桐与兵衛をはじめとして屈強な兵を一、二千騎差し添え、野中の城へと差し向けた。
沼本の勢はたった一、二百に満たないうえ、この城も普請の途中で、
塀さえもまだ塗れていない状況だった。
これではとても宗景の猛攻に堪えられまいと思えた。
片桐たちは城から三十余町を隔てて陣取ったが、そこへ沼本が夜中に二百余人で切り込んできた。
敵に不意を打たれた片桐たちは、一支えもできずに散り散りになって退却した。

その後何度か戦があったが、そのたびに宗景が利を失い、
また家之子郎党も直家の謀略に絡めとられて、討ち果たされたり他国へ出奔していった。
宗景はついに城を去って、流浪の身となったのだった。
これは、浦上が主君の赤松を侮蔑するようなことをしたばかりか、
国を横領した下克上の罪を免れきれずに、こんなことに成り果てたのだと思う。

この世のすべては因果応報の理が歴然としている。
それについて昔のことを調べてみた。
昔、赤松は将軍義教を討ったがために天罰をこうむって、自身が山名宗全によって討たれ、
また子孫は浦上に国を奪われてしまった。
浦上もまた主君の国を奪った八逆の大罪から逃れきれず、家人の宇喜多に所領を奪われ、
自身も飢えるような目にあった。
この前例を見るに、宇喜多の行く末もどうなってしまうのかと、不安を覚えるのだった。

そもそも赤松左京大夫満祐が将軍義教卿を討った経緯はなんだったのか、
今その家に伝わっている話を聞いてみた。
あるとき将軍義教卿が赤松などの人々呼びを集めて酒宴を開き遊興したとき、
宴もたけなわになったころ、赤松はひどく泥酔していたので、興が乗って立ち上がり、舞を舞った。
この赤松はとても身長が低かったので、世の人は赤松を三尺入道と呼んでいた。
そのため、義教卿も酔った勢いで調子に乗り、拍子を変えて「勢細舞は見まいの」と囃してふざけた。
赤松は、それはそれは悔しく思ったものの少しも態度に出さず、
「備前・播磨・美作の三ヶ国を持っているので、勢がほしいとも思わず」と謡うと、
扇をかざし袂を翻し、足拍子を丁々と踏んで舞い踊った。

さて酒宴が終わると、皆退出していった。
義教卿は、「赤松が備前・播磨・美作と謡ったのは、私を侮っているからだろう。
憎々しい入道だ」と激怒した。
義教卿の御台所は、赤松満祐入道の息女だったので、これを聞いて、
「なんとひどいことでしょう。これはきっと、将来は由々しき一大事が起こるに違いない。
義教卿はひどく驕りたかぶっているだけでなく、とても性格の悪いお方だもの。
些細なことでも人を切り殺したり攻め殺したりなさる。
桀や紂のような悪しき大将でいらっしゃる。
きっとこの赤松家の滅びの元になるに違いない」と考えた。

そして翌日、御台所が父の満祐のもとへ書状に書いて送ろうと思ったところへ、
将軍が突然来訪し、これを見て、
「それはどういう文だ。とても怪しげに見える。見せてくれ」と詰め寄った。
御台所は、自分の父へ告げ口をする内容の書状なので、隠して見せようとしない。
義教卿は「そうやって隠すのは後ろ暗いことがあるのだな」と、御台所を押さえつけて文を奪い取り、
開いてしまった。

そこには、「さてもさても、先日の夜の様子を伝え聞きましたところ、
夢とも現とも思えないような、信じられないことばかりでした。
もうあの方の御運は尽きてしまって、お家を滅ぼしてしまおうと、
天魔が御心の中に入ってしまったかと思うほどひどいのです。
今の世の様子を見ると、薄い氷を踏み、研ぎ澄まされた刃の上を歩くような世の中だというのに、
こうしてしっかりと熟慮することもなく、後の災いも顧みないようなお振る舞いをなさるとは、
恨めしく思います」と書いてあった。

義教卿はあっという間に機嫌が変わり、この文を御台所の顔に打ち当てると、
「『刃の上を歩くような』と書いてあるが、最近そんなことがあったのか。
剣の刃の上を歩けるものならばこの上を歩いてみろ」と、氷のような刀を抜いた。
義教卿が「さあ早く、文に書いたように刃の上を歩いて見せてくれ」としきりに責めるので、
御台所ははじめは顔を赤らめているだけだったが、義教卿があまりに怒って責め立てるものだから、
さすがは赤松の息女というべきか、少しも恐れたような様子もなく、
「では歩いてご覧に入れましょう」と、その刀を取り上げると自分の胸を刺し貫いた。
御台所はうつぶせに倒れ、刀は背中へと突き抜けて、そのまま亡くなってしまった。

赤松はこの顛末を聞くと非常に立腹し、
罪もないのに愛してやまない娘を殺された怒りが抑えきれなかったので、
「どうにかして将軍義教卿を討って、我が娘の孝養に報じたい」と心底から思ったものの、
将軍を討つ手立てはなかった。
赤松は家之子郎党の心を確かめるためにか、気が狂った振りをした。

しかしずっと気狂いなわけでもないように見えたので、家之子郎党たちは赤松を諫めた。
「ご様子を拝見していますと、姫君さまのことをお嘆きのあまり、
悲しみが積もってご乱心なさっているように見受けました。
愛しい子との別れの悲しさ、子を思って道に迷うのは世の習いではございますが、
このままでは御当家が断絶してしまうと思います。
嘆いても帰らぬものを嘆くあまりに、あなた様の御身まで亡くなってしまったら、
是非もなく御家も断絶してしまうでしょう。
どうかもう、嘆くのはおやめになってください。
ご自身の人生をまっとうなさり、御家が長く続くように思慮をめぐらせてください」と諫めると、
赤松は何も返答せずに、抜き打ちにその者に切りつけた。
こういう挙動が何度も重なると、その後は諫言をする者もなくなってしまった。


以上、テキトー訳。続く。

長めなので分割するデス。
結局赤松さん特集だったのか???

いやしかし、直家さんさすが直家さんだわ。
沼本を讒言で追い出した張本人がその沼本を味方につけるとかね……
すごい肝っ玉の人だよねぇ(白目)。
ひどい!とか感じる前にまず舌を巻いてしまうような惚れ惚れする悪党っぷり。
好きだなぁ、お舅さん(*´∇`*)
てゆうか正矩はこの話をどこから聞き込んできたのか、ちょいと気になるんだぜ。

今回のハイライトは、室町将軍家のえっぐい夫婦喧嘩なんだと思ったわ。
「刀の上を歩いてみろよほら!」と強いる夫、キレて当てつけに?自刃する妻。
怖いわぁ……
あと赤松さん可哀想だわぁ、と思ったけど、家之子郎党に八つ当たり、ダメ絶対!!!
これも、江戸初期に赤松家に伝わってた話を聞き込んできたってことなのかな。

次回もヨボヨボ続きを読みまうす。
ところで。
確か明日は広家と容光院の結婚記念日じゃまいか???
2012-10-17

親鸞上人には七人の子♪

一人はのっぽであとはチビ、かどうかは知らんけど、前回の続き。

これまでのあらすじ;
親鸞上人は幼いころから飛びぬけた才能を持ち、養父によって天台宗に修行に出されたが、
あるとき六角堂の観音のお告げを夢に見てから、浄土宗の法然上人の弟子になった。
法然が左遷された際には親鸞も連座して遠流に処されたものの、
行く先々で盛んに強化を行った。

というわけで、その念仏宗がどうやって毛利の戦に絡んでくるのか。


親鸞上人の系図のこと、付けたり信長が本願寺を所望すること(下)

親鸞上人には四男三女があった。
はじめは卯信、二番目は娘、三番目は善鸞、四番目は明信(栗沢信運房と名乗る)、
五番目は道性(従五位下大夫出家、益方大夫入道)、六番目は娘(高野禅尼)、七番目も娘であった。
この末の姫は、日野左衛門佐広綱の北の方になったが、後に出家して覚信といった。
そのほかいずれも母は九条殿の娘の玉姫であった。親鸞上人にはどんな深い意図があったのか、
四人の男子には血脈を相続することはなく、覚信尼公に相伝し、
「誰であっても覚信から仏法修行をしている人に相続するように」と言った。
上人がまだ生きている間に、善鸞の子息である如信上人に伝授されたという。

二代目のこの如信は、正安二年正月四日に六十二歳で没した。
そして如信上人から覚如上人へと伝授され、これが三代目の祖師となる。
この覚如は観応二年正月九日に八十二歳で没した。父親は覚恵であった。
この覚恵法師の父は日野広綱、母は覚信尼である。
覚如には二子があって、嫡子は存覚上人、次男は従覚であり、後に慈俊房と名乗った。
この慈俊房の子息に、覚如から本寺を譲った。これが善如上人である。
善如は康応元年二月二十九日に五十七歳で没した。
次の綽如上人は明徳四年四月二十四日に四十四歳で逝去した。
巧如上人は永享十二年十月十四日に六十五歳で没し、
存如上人は長禄元年六月十八日に六十二歳で没、蓮如上人は明応八年三月二十五日に八十五歳で没する。
蓮如まではいずれも皆実子に本寺を継がせた。

この蓮如には男子が十三人いた。
一番目は順如上人、二番目は兼鎮、三番目は兼祐、四番目は康兼、五番目が実如上人、
六番目は兼誉、七番目は兼縁、八番目は兼琇、九番目は兼照、十番目は兼俊、
十一番目は兼性、十二番目は兼継、十三番目は兼智という。
八代蓮如上人は、五男の実如上人に本寺を継がせた。大永五年二月二日に六十八歳で世を去る。
十代は證如といって、天文十三年八月十三日に三十九歳で没した。
この人は、実如上人の孫であった。
父は偏僧院円如上人といって、照如の子であった。

第十一代は、證如上人の子で、現在の顕如である。
文禄元年十一月二十四日に五十歳で亡くなった。顕如には三人の子がいた。
一番上の教如は裏門跡として、慶弔十九年十月五日に五十七歳で亡くなった。
二番目の顕尊は七条奥正寺門跡、三番目の准如は寛永七年十一月二十九日に五十四歳で亡くなった。
この准如が今の表門跡である。

そもそも大坂の石山本願寺というのは、昔の大江殿の跡地である。
元祖から八代目の子孫である蓮如上人までは東山にいたのだが、
その宗派が都で栄えていることを快く思わない比叡山の僧たちが、
挙兵してその坊へと攻め寄せてきて焼き払ってしまった。
この後は三井寺を頼ってしばらく東別所というところに滞在していたのだが、
それから越中へと下向して伽藍を建立すると、たった三、四年経っただけで、
たちまち失火で焼けてしまった。
こうなって、また伏見へと上り、山科に住んだ。

しかしそこも気に入らず、蓮如上人は諸国を修行でめぐりながら、
今の大坂の石山を見つけ、「こここそ仏法が興隆する霊地だ」と感じ、
すぐに本願寺を建立したのだった。
こうして蓮如上人から今の顕如上人まではここに住まい、盛んに教化を行っていた。

そこに信長公が、「大坂の石山は日本に二つとない名城にもできる地だ。
とりわけ西国の押さえにはこれ以上ない場所になるだろう」と考えた。
そして「この石山本願寺を私に譲ってほしい。要害を構えて西国の押さえにしたいのだ。
そうすれば顕如にはどこなりとも望みのままに伽藍を構える地を用意するし、
建立にかかる金銭は、その地で使いきれないほどであっても、また望むとおりに寄進しよう」と、
使者を通じて言い送った。

顕如上人は下間などの家老たちを呼び集め、
「右府信長公のご所望のことだが、どうしたものか」と会議をした。
すると皆一同に、「右府信長公の強欲にはあきれます。まったくの野蛮人だ。情
けを知らぬ大将でいらっしゃるので、今は我らをだますためにあんなことを言っていますが、
この寺の地を受け取ったならば、手のひらを返して約束を破ろうとするでしょう。
蓮如上人がこの地に伽藍を建立なさったからこそ、宗派の繁栄も年を追うごとに盛んになって、
代々ますます栄えてきたのではありませんか。
ここを去ってとんでもない田舎に移転してしまえば、これまで繁栄してきた宗門だというのに、
その教えそのものが衰微してしまうと思います。
どうか、腰を低くして、このことを断ってくださいませ」と諫めた。

顕如上人もこれに同意して、「この寺の土地のことは、お望みに添いたいところではありますが、
蓮如の代からずっとここに居住しており、ここでこそ我が宗派も繁盛してきたので、
どうかこのことを思し召してご堪忍ください」と返事をした。
信長公は「あの坊主め、なんと憎い返事を寄越したのだろう。
だいたい出家というものは、肉を裂き眼をくり抜いてさえ、衆生の望みを叶えるのが当たり前なのだ。
それを、こんな土地ごときを惜しむとは、なんと欲深い奴だろう」と代激怒した。
そしてすぐに内部で会議を開き、「大坂に攻め寄せて門跡父子を討ち果たすべし」と決定すると、
そのための謀略を実行し始めた。

本願寺へもこの噂はしっかりと入ってきたので、紀伊・越前の宗派の者たちを頼りにした。
すると皆我先にと立て籠もり、敵が攻めてきたなら身命をなげうって防ぎ戦い、
仏恩祖恩に報いようと、信心を深くして意志を固めた。
こうして宗門が一致団結して立て籠もると、いかに鬼神を凌駕するほどの信長であっても、
容易には攻め落とせそうになく見えた。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

へぇ、親鸞さんて女人に跡継がせたんだ、てのと、
信長と本願寺のいさかいは、土地のことが発端になってたのか、という2点が驚きだった。
このあたりもちゃんと調べないとなぁ。

とか言いつつ、最近は少し気分がしずんでいるので、
なんとなくこの辺で。

きっかわ出せ。
2012-10-16

親鸞上人および念仏宗来歴

だいたいの流れ:
信長と大坂の顕如上人が敵対し、籠城する一向宗を助けるため、毛利家は大坂に兵糧を入れたよ!
信長の船団もぎったんぎったんにしてやったよ! でもこれで和睦が破れたよ!

てなとこで、今回は宗教的な背景のおさらいみたいな章なのかな。
長いので分割!


親鸞上人の系図のこと、付けたり信長が本願寺を所望すること(上)

そもそも真宗の祖師である親鸞上人の来歴はというと、
忝くも天津児屋根の末裔、長岡右大臣内麻呂公の後胤皇太后宮大夫、日野有範の子息であった。
上人がまだ幼いときに父の有範が早くも世を去ってしまったので、
伯父に養育されていたのだが、伯父に学問の師をつけてもらったところ、
生まれつき聡明だったので、一を聞いて十を知るような具合だった。
五歳にして五経をそらんじたという魯直が、
六歳にしてよく文章を書いた才能にもなお勝るだろうと思われた。

けれども仏や菩薩の化身だったからなのか、孔子・孟子・老子・荘子の学問には熱中せずに、
ただ一時遊ぶにしても、前の庭の花を手折っては仏に供え、
楼上の月影を詠じるときにも、禅那のことを考えていた。
伯父はこの様子を見て、「この子は普通の人間ではない」と考え、
すぐに天台山に入れて慈鎮和尚の弟子にした。
九歳のときに黒々とした紙を剃り落とし、名前を範宴と名乗る。

顕密両宗の教法を学得し、五時八経に熟達し、すべての諸宗の極意を極めた。
けれども円教は上根の機なので、この法では俗世の凡夫が成仏するのは難しい。
どうにかして小根小機の衆生を教化したいものだと考えて、あちこちの霊場に詣でて祈った。
なかでも六角堂の観音菩薩には百日もの間丹精をこめて祈り続けたので、
建仁元年四月五日の夜、観音菩薩が夢の中に現れて、
愚鈍で無知な衆生が行いやすく修めやすい法を告げた。

範宴はありがたさのあまりに感涙にたまりかねて、すぐに黒谷の法然上人の禅室に行って、
夢の中で聞いたお告げの事を話したのだった。
そして法然上人と師弟の契約を結び、天台宗から改宗して浄土宗に帰依した。

大集月蔵経にはこうある。
「末法の時代に多くの衆生が仏心に目覚めて修行をしたけれども、
悟りを開けた者はまだ一人もいなかった。
すべては濁りきった悪い世の中の雑多な学問が、これをなし難くしていた。
ただ浄土宗の一門だけには、仏道に通じる道があった。
自分で行うだけでは限度があることを知るべきである。
他力にすがれば、劣った者でも輪王の庇護を受け、四天に飛遊し、
凡庸な働きであっても千果の功に例えられて、極楽浄土に昇天することも難しくはない」

また日蓮宗の宝鑑にはこうある。
「他門の学道を信じるのは、蟻の子が高い山に登るようなものだ。
浄土往生は、帆に風を受けて滞りなく水上を進むのに似ている」
大阿弥陀経には、「私の涅槃の世界がとりわけ優れていて、十方の国土にも勝り、
説教行道は諸仏の十倍も功徳がある」とも説かれている。
艘舟三昧経には「阿弥陀仏を念じれば、すなわち十方諸仏に会える」ともあり、
大慈善薩讃仏の?には「十方三世の仏のなかでは阿弥陀が第一である」とも記してあるそうだ。

念仏の法門は、ただ一経一教のなかにとどまるだけでなく、
諸宗がいただいている大千恒沙経の巻のうちには、
一つとして念仏の法門の教意を内包していないものはない。
師にそう説かれた範宴は、法華難行の教を棄て、たちまち捷経の法門に帰依したので、
よいことだとありがたがられた。
こうして範宴は法然上人の門下に入って、その名を綽空と名乗ったが、
聖徳太子のお告げがあったので、善信と改めた。

その後土御門院の時代に、山門の大衆が、
専修念仏の教が世間に興隆していることをねたんで、朝廷に訴えを起こした。
承元元年、法然上人は七十五歳にして土佐の国へと流されてしまった。
このとき親鸞上人も越後へと遠流に処された。三十五歳だったという。

その後、土佐院の時代に中納言範光卿を勅使として、早々に帰京するようにとの宣旨があったが、
親鸞上人は近域の愚かな民たちを教化するためにこれを固く辞して帰京しなかった。
そのまま越後の国内で五年もの歳月を送った。
その後、相模の国の足柄山の麓、江津の信楽寺に七年滞在して、盛んに教化を行った。
それからまた常陸の筑波山の麓に移って草庵を構えると、人々に念仏を勧めた。
笠間の稲田卿の房がこれである。
そしてそれから、同国の下妻三月寺・小嶋・鎌倉と、あちらこちらに遊歴して、
下賤の民の教化にいそしむこと、実に二十有五年に及んだ。

こうしてようやく六十歳のときに都に帰ってくると、
上は公卿大夫から下は商売人や農耕に従事する下民に至るまで、
専修専念の教旨をひとかたならず喜んで受け入れた。
龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導が、月支・晨旦全土に教えを広め隆盛したのと同じことである。

また、上人が妻帯したことは、これより先にまだ法然がこんなことになっていなかったときに、
九条太政大臣兼臣公と師弟関係にあり昵懇の中だった。
兼臣公が「利発なお弟子を一人、私に預けていただければ、
婿にとって晋の羅什三蔵の例えになぞらえましょう」と言ったので、
法然上人はすぐに親鸞を選び出して、月輪の大臣のもとに預けた。

親鸞は、建仁元年に六角堂で見た観音の夢の中で、
「行者に宿報があって、たとえ女犯をしても、私が玉女となって身を犯され、
一生の間よくよく面倒を見、臨終のときには引導をして極楽に行けるようにしてやろう」と告げられていた。
これはこのことだろうと考えて大慈大悲の教えのままに、九条の摂政殿の言う旨に従った。

昔の聖徳太子は百官の上に頂点にいて、釈迦の遺した教えを広めたが、
この親鸞はその身を世俗の中に交えて下々の愚かなる衆生を救済した。
彼は観音の生まれ変わりで、これは弥陀の再誕である。
ありがたいと言うことさえも憚られる気がする。

そもそも上人が弥陀の化身だというのは、その根拠がないわけではない。
仁治三年九月二十日の夜、定禅法橋という者が、
親鸞上人はまさに善光寺の如来であると、はっきりと夢に見た。
また建長八年二月九日、蓮位房という者の夢の中で、聖徳太子が親鸞上人に向かい
「敬礼大士阿弥陀仏為妙教流通、来世者五濁悪時悪世界中、決定即得無上覚也」
と唱えるところを見たという。

上人は左遷されると自ら「愚禿」と名乗ったが、僧でもなく俗でもないので、姓を「禿」にしたそうだ。
名前を凡俗に混じたがゆえに僧ではなく、頭を剃り衣を墨に染めているから俗でもない。
その身を塵ばかりの世俗に交わらせているので僧ではなく、心は清らかなところにあるので俗ではない。
そのほか多くの意味があるそうだ。

上人はたとえ体は世俗の女に触れ、鳥や魚をその口で味わったといっても、
どうして西方浄土に往生するのに差し障りがあろうか。その教えもまた捨てるべきものではない。
心が清浄であれば仏土も清浄だという。
また、夜に険しい道を進む人の行く先を火で照らしてくれる人物に悪いところがあるからといって、
その人の照らす場所を選ばないなどという人はいないだろう。
また犬が皮袋の裏の金を棄てるか棄てないかの例えもある。だれがこれを嘆くというのか。


以上、テキトー訳。続く。

あー……なんか歴史の授業で習った宗派の成立とかその辺が
脳裏に蘇ったり……しなかったよorz
そんな都合のいい海馬装備してないよ(´;ω;`)
宗教関係の話は苦手なんだよな。
興味はあるんだけど、読み解く能力がない><

たぶん、今回の個人的なハイライトは、観音様が夢の中で上人に
「あなたが女を抱くことがあったなら、私がその女人になって身を犯されよう」とか言うところだね。
なんかこう、こんなこと言うとバチが当たりそうなんだけど、
すごく官能的なにおいを感じるのは私だけでしょうか!?
聖母たちのララバイならぬ観音様のララバイか。
観音様が「小さな子供の昔に帰って熱い胸に甘えて」とか言ってくれるんか。胸アツ!
でも、観音様に成り代わられてしまう九条殿の姫さんの人権やいかに!?

どうでもいいけど「私の胸でお眠りなさい」ってのは、てれさてんだっけな……?

そんなこって、次回も続きを読む。
2012-10-13

木津川口海戦

だいたいの流れ~というか、これまでと場面が異なるので、
それはナシでいこう。
ようやくあの胸のすくような海上戦が……!


大坂の城へ兵糧を入れること

大坂の城に籠もっていた顕如上人は、信長と敵対していた。
上人から使者が遣わされ、「輝元・元春・隆景をひとえに頼りにしている」との連絡があったので、
すぐに大坂へと飯田越中守(元著)が差し籠められた。
その後、木津の城には粟屋内蔵丞、花隈の城には香川美作守・杉次郎左衛門などが交代で入れ置かれた。

さて大坂の城の兵糧が乏しくなると、中国から食料を送って欲しいと頼まれたので、
それでは兵糧を援助しようということになった。
六、七百艘の船に兵糧を積み、警護船を三百艘ほど差し添える。
今回上坂した者たちは、児玉内蔵丞・粟屋内蔵丞・香川左衛門尉・村上八郎左衛門・
浦兵部丞・野島大和守・同掃部助・同三郎兵衛尉・井上又右衛門・遠藤左京亮らであった。
この船団は、天正三年七月上旬に播磨の室の津へと着いた。

信長卿は木津川にも大安宅船を三艘作って川口を塞いでいたので、
まるで城郭を構えたかのようで、敵対する勢力の船が入れるようには見えなかった。
中国勢は物見を出して、京勢の様子を見てこさせた。「
敵は大安宅船三艘と、そのほかの兵船が三百余艘を従えて、通路を塞いでいます。
どうやって大坂に入ればいいのか、見当もつきません」という報告だった。
このことがあって、「どうやって大坂に入ろうか」と、会議が重ねられた。
まずは射手の船を差し向けて敵の合戦の実力を確かめようということになり、
数十艘を毎日漕ぎ寄せていると、川口からも敵が漕ぎ出してきて小競り合いをした。
こうしたところに、紀伊からも鈴木孫市が出てきて室の津へと下ってきた。

こうして合戦の評定ばかりして、日々だけが過ぎていったが、
木津・尼崎を挟んで敵船が多く並ぶようになったので、いよいよ大坂に入る手立てがなくなった。
「けれども、このまま数日を過ごしてしまえば、勇や謀が稚拙なように見える。
いざ無二にかかって敵船を切り崩そう」と、
兵船を先に立て、糧船を後ろにつけながら大坂目指して漕ぎ入っていった。

敵は、大和の住人の間鍋主馬兵衛尉・沼野伊賀守・同越後守・河内の住人の杉原兵部丞・
宮崎鎌太夫・弟の鹿目助・寺田又右衛門・尼崎の小畑・花隈の野口などが
射手船三百余艘で漕ぎ出して、懸命に防戦した。
それでも、中国船には能嶋をはじめとして船戦の妙を代々伝えてきた家が多く、
船を自在に操るので、敵船は非常に手を焼いた。
浦なども、近年は船戦では何度も勇を顕わしており、その奥儀を学んでいたので、
能嶋に劣らない戦いぶりだった。
中国勢はすぐに勝ち色になって、徐々に敵船を押し立てていった。

敵の大船が一艘退却しようとしていると、
村上八郎左衛門尉が船をぴったり押し付けようとして追いかけ、すぐ間近にまで迫った。
船頭が「船を敵船に付けますか」と尋ねると、
八郎左衛門は「言うまでもないだろう。早く付けろ」と答えたので、船をぴったりと付けた。
敵は艫に鉄砲を構えて、一番先に進んで船を付けようとしてくる兵を一人撃ち倒したので、
船は三、四間ほど後退する。
八郎左衛門がしきりに「押し付けろ」と下知して、また押し付ける。
敵もまた鉄砲で応戦してきた。

八郎左衛門が真っ先に進んで一番に敵船に乗り移ったので、郎党たちも我先にと乗り移る。
敵が八郎左衛門の股をしたたかに突いたけれども、八郎左衛門は少しもひるまずに、
その敵を突き倒して首を取った。
手の者たちもそれぞれ分捕りしたので、その船は難なく乗っ取ることができた。

浦兵部・井上又右衛門・香川右衛門丞などは、皆敵船に乗り移りながら戦って、
無事に大安宅船を二艘手に入れた。
そのほか、手に入れた敵の小船は数えることもできないほどだった。
敵は堪り兼ねて水中にひらひらと飛び込み、陸のほうへ飛び込んだ者は命が助かった者も多かったが、
沖のほうへ飛び込んだ者たちは、一人残らず水底の藻屑になり果てた。

寺田は水中へ入って泳ぎ回り、ついに力尽きて溺死した。
間鍋主馬兵衛尉・野口・小畑・沼野伊賀守・同越後守・杉原兵部丞・同鹿目助たちは、
一人残らず討ち取られた。

こうなると、中国勢は船戦に勝っただけでなく、敵船をたくさん分捕ることができ、
大坂にも思うがままに兵糧を入れて、喜び勇んで漕ぎ帰っていった。

このとき、児玉内蔵丞は高砂に船をかけていたときに、
「桓温は昔、嘆いきながら枕に伏してこう言った。
『男子たるもの、よいことで後世に名を残すことができないのなら、
いっそ末代まで悪名を残してやりたい』とな。
私もどんな悪逆を犯してでも、なを後代に残してやるぞ」と言って、
相生の松を切って船中の薪にしてしまった。
すると神罰がたちどころに当たり、内蔵丞は白癩(ハンセン病ではないかとされる)を病んで、
眉も鬚も抜け落ちてしまった。不思議なことである。
昔の人が、「もし人がよくないことをして名を上げたとしても、必ず天誅を蒙る」と言い習わしてきたのも、
真実なのかもしれないと思える。


以上、テキトー訳。

何やってんすか、児玉さんwww
せっかく海上戦がすごくかっこいい!って感動してたとこだったのに。
この感動がぱっさぱさ!ぱっさぱさだよ!感動がぱっさぱさ!どうしてくれんの内蔵丞><

でも焙烙玉やら焙烙火矢のことがこれっぽっちも書かれてないのな。
ちょっとびっくり。

さてさて、浦兵部は有名な乃美宗勝のことだね。
この人は本当にさすがだよなぁ。ものすごく有能なにおいがする。
だてにS景さまに仕込まれてないわ。
井上又右衛門(春忠)さんも、隆景の腹心だね。
海上戦は小早川勢の独壇場ですな。

そんでもって村上八郎左衛門、この人の名前は初めて見た気がするけど、
景広という人のようだ。
隆景死後も毛利のために尽くしたけど、関ヶ原後の大減封にともなって毛利家を離れたんだね。
ウィキペさん毎度お世話になりますチィーッス!
小早川家臣は、関ヶ原の後に毛利家を離れてるのが多いらしい。
それで黒田とか細川とかに再雇用されてたりする。
黒田家譜が隆景大絶賛なのは、黒田に移った旧小早川家臣の影響も強いような気がするけどどうなんだろう。

と、思考が流れつつあるのでこのへんで。
次章は京と大坂の情勢が主になりそうだ。
2012-10-11

杉原快進撃!

だいたいの流れ:
毛利勢に出雲を追われた尼子勢は上京して体勢を立て直し、
再び鳥取に攻め入ったが、鳥取城を落としたものの、騙されて、
若桜鬼カ城・私部の城へと分かれて立て籠もった。
私部の森脇市正たちは元春の軍勢に降伏した。
この戦いでは広家(このときは経言)が活躍した。
広家が活躍した!!! ※大事なことなので二度言いました(・`ω´・)


若桜鬼之城没落のこと

さて、勝久は鹿介を呼び寄せて、
「私部城は敵に明け渡されてしまった。
それに主力だった森脇たちは皆降人になったという。
こうなると、この城も守りきれるかどうか。まずは但馬へと引いて、京都へと上ろうか」
と会議をしていた。

そこに、元春様が杉原播磨守盛重に香川兵部太輔・小坂越中守を検使として差し添え、
三千余騎で若桜の鬼カ城へと差し向けた。
草刈三郎左衛門・同太郎左衛門は一千余騎で打って出ると、
「私の土地に近いので、私が先陣を務めましょう」と、一番に切岸へと攻め寄せた。
城中からも打って出て、鉄砲競り合いが始まった。
互いに怪我人や死人が出始めると、杉原と二人の検使たちもドッと突きかかる。
すると敵は城中へとサッと引いていった。

その後仕寄を付けて攻めようとしていると、鹿介は、
「杉原と相対しておきながら城を捨てるのは口惜しいですが、
やがて敵の後陣の猛勢が続いてくるでしょう。
そうなったらこの城が十重二十重に取り囲まれてしまいます。
これではどうにもしようがなく、無念にも敵に捕虜にされてしまいます。
さあ、逃げましょう」と、勝久を伴って夜に紛れて城を落ちていった(天正四年夏)。
そのまま但馬を目指して逃げ上っていった。

また同国の宮吉の城には、田公新右衛門尉・子息の新介が立て籠もっていたので、
杉原・香川・小坂が攻め寄せた。
田公父子は取るものもとりあえず落ち延びていった(天正四年三月六日)が、
香川の郎党の三宅源允が一番に駆け入って、敵を一人討ち取った。
杉原の郎党たちが二、三百人続いて乗り込んできたのを見て、
三宅は「香川の郎党、三宅源允が一番乗りだぞ。後日になってゴタゴタ言うなよ」と名乗った。

逃げそびれた兵たち四、五十ばかりが身命を捨てて防戦していたが、これをことごとく討ち取った。
けれども田公本人は落ち延びたと聞いてすぐに追いかけてゆくと、
もうすぐ追いつくというほど近づいたが、田公の郎党たちがところどころで取って返してきて防戦し、
討ち死にしていったので、主人の田公は辛くも命を拾った。

三宅源允はもう一人敵を討ち取り、全体で首の数は七十余りになったということだ。
こうして因幡一国の敵はすべて掃討したので、
吉川・小早川の両将は、同二十五日、因幡表を引き払って、出雲の平田まで引き揚げていった。
隆景様はここから芸州へと帰陣していった(天正三年十月十二日、吉田帰着)。


以上、テキトー訳。

時系列がだいぶ錯綜してるみたいだな。
私部城落城→元春・隆景が出雲平田へ帰陣→隆景が吉田へ帰陣→杉原らが田公を追い落とす
→若桜鬼カ城攻め→勝久・鹿介が但馬へ脱出、という流れなのかな? かな?

いやしかし。しかし杉原さんかっこいいぞ。
本気で調べたくなってきた……たしか地方の研究会の会報に、杉原さんのこと載ってるやつが……
どこかに……とかやってる気持ちの余裕が今はないけど、
落ち着いたらまた資料収集したいと思う。
収集ばかりで読んでないのがいっぱいあるけど……これも早めに整理しよう><

さて、次章からついに織田との戦に雪崩れ込むよ(・`ω´・)qエイエイオー!
2012-10-10

経言の躍進、香川の歌道、今田の弓精

だいたいの流れ:
一度出雲を追い出され、再起を図って鳥取城を落とした尼子勝久・山中鹿介だったが、
山名豊国に騙されて鳥取城を追い出され、私部・若桜の城へとつぼんだ。
兵力に不安があるということで、山名豊国が毛利に援軍を請うと、
元春・元長・隆景たちが出張りしてきた。


私部城降参のこと

さて天正三年九月二日、吉川・小早川の両将が鳥取の麓に着いたので、
山名豊国は二千余騎でこれを出迎え、すぐに千代川に舟橋をかけて諸軍勢を渡すと、
同三日からひしひしと私部の城を取り囲んだ。
仕寄を付け寄せて井楼を組み上げながら攻め近づく。
また、もしかしたら敵が仕寄へと攻撃を仕掛けてくるかもしれないと、
その護衛のために兵を分けて差し向けておいた。

吉川侍従広家様は、そのころは又次郎経言という名で十五歳だったが、
いつもそこへ忍んで行っては、もし敵が出てきたら一太刀打ち違えようと待ち構えていた。
乳人として付けられていた小坂越中守は、
「昔の人も『小勇を好むなかれ』と言っていたと聞いております。
敵と太刀を合わせて分捕り高名をするのは兵の仕事です。
絶対に良将が積極的にすべきことではありません」と強く諫めた。
しかし経言は「それは、当家では元春・元長などはそういうものだろう。
しかし私は元春の三男に生まれてまだ手勢も百人と持っていない。
こんな不肖の身で、大将の真似をしてどうするというのだ。私は、今は兵がやるべきことをやる。
そのうち手勢を三百も五百も持つようになって、一備えの大将にでもなれば、
こんな小勇を好んでやろうとはすまい」と言って、まったく聞き入れなかった。
「敵は夜陰にまぎれて打って出てくるだろう」と、夜毎そこで見張っていた。

城中でも、「どうにかしてあの仕寄を切り崩してやろう。
あの作業者たちめ、夜ににはしっかり寝入ってほしいものだ」とヤキモキしていたが、
忍びを出して様子を探らせると、「寄せ手は少し油断しているように見える」というので、
「では暗闇にまぎれて切って出てやろう」ということになった。
牛尾大炊助を大将として三百余人が仕寄へ切ってかかろうとしていると、
その気配が外にまで伝わったのか、仕寄のあたりも普通ではないほどに騒がしくなった。

又次郎経言は中元に持たせていた鑓をツッと取ると、手勢五十余人で静まり返って敵が出てくるのを待った。
仕寄番の者たちも、騒ぎを聞きつけて、敵が出てくるなら迎え撃とうと集まってきた。
牛尾たちが門を開いて打って出、切ってかかってくる。寄せ手もこれに無手と渡り合った。
経言は「吉川又次郎経言、ここにあり。一鑓」と名乗りかけると、勇ましく進んでかかっていった。
城中の兵たちはたちまち突き立てられてサッと引き、城戸の中へ入っていった。
寄せ手も、「このあたりはよく地形がわからない。それにとても暗い」と、後を追うことはなかった。

経言の振る舞いを聞くと、陣屋を並べていた杉原盛重・南条入道宗勝は、
「なんと末頼もしいことだろうか。まだ志学の歳でさえこうだというのに。
成長したら、行く末は日本国中に名を轟かすようになるだろうな。
鳳凰が産んだ子は鳳凰になるというのはこのことだ」と、大いに感心した。
他の人々も皆ほめたたえた。

その後、寄せ手は昼夜の別もなく私部の城に攻め近づき、
すでに尾首の空堀一重を挟んで弓・鉄砲を撃ちあうようになっていた。
城中は防ぎかねて非常に難儀しているように見えた。
これは九月の半ばのことなので、空の様子も秋の寒さを引き立てるように乱れて、
山は錦を敷き詰めたようだった。梢の色も、昨日はまだ薄く見えたのに、
峰の松がたった一本青々としている姿も、世の人が皆酔いしれたという昔の情景を再現したようで、
見とれるほどだった。
城中の兵も、寄せ手も、皆この光景に心が慰められ、目が洗われる気分になる。

なかでも森脇市正は、武勇に優れていただけでなく、風月を愛でる才に富んだ者だったので、
紅葉が広がって見える景色に堪り兼ねて、楯の前に姿を現すと、
「やあやあ、御陣に申したいことがある」と呼ばわった。
寄せ手が「おお、あれは城中から降参を請いに出てきたのだろう。しっかり聞いておけ」と走り出てみれば、
市正は、「長きにわたるご在陣に、お心も疲れているでしょう。
露や霜が色とりどりに染めあげたこの山のもみじ葉を、これまでは鑑賞する人もいないのでは、
あまりにもったいない。
この折にどうか両将に和歌を詠んでいただき、このもみじを心行くまで堪能するのが、
せっかく色づいたもみじの面目躍如だと思います。
昔の人は車を停めて、気ままに木々を眺め楽しんだものです。
寄せ手も、もし心があるのならしばらく弓・鉄砲を止めて、二月の花にも勝るこの景色を鑑賞しましょう。
私も不出来な歌心ではありますが、お笑い種にでも歌を詠み、眠気を覚ましてみせましょう」と言う。

寄せ手はこれを聞いて、
「仰せのように、血のように紅深きもみじの枝に当たっては、せっかくの錦が失われてしまうと、
弓・鉄砲を射掛ける際にも気にかかっていました。
しかしもみじの中に入って紅の玉となるのもまた趣き深いと思って、これまで鉄砲を打ちかけてきたのです。
もみじを鑑賞する心がまったくなかったのではありません。
それを、あなたが歌を詠まれると仰るので、弓・鉄砲を止めております。
どうぞどうぞ、ご披露なさってください」と、鳴りを静めて市正の言葉を待った。

市正は「山は早 かつ色見する 時雨かな」と詠んだ。
寄せ手はこれを聞いて、「誰かこれに脇をつけよ」と言ったけれども、
日ごろから歌道に熟達した者は多いものの、これといって思いつくこともなく、時間ばかりが過ぎていく。
誰がいい彼がいいと言い合いながらも、
「市正の発句は優美で優れているうえに、味方の勝ちの意味を含ませている。
この脇をし損ねたら、どうにも口惜しい。また戦の吉凶にも影響するだろう」と、
自分から脇を付けようと言い出す者はなかった。

無駄に時間ばかりが過ぎていったので、元春様は香川兵部太輔を呼び寄せて、
「おまえは日ごろから、このような道も少しは学んでいると聞いているぞ。
早く脇をつけよ。芸陽の武士は武勇だけで野蛮人のようだと言われるのは口惜しい。さあ早く」と言った。
香川は「かしこまりました」と言って、「秋の嵐に 落ちる朝露」と付けた。
市正がまた第三句を付け、交互に表八句を付けた。
その後、互いに挨拶を交わして、城中・陣中へと入っていった。
城中の兵たちは、「市正の発句は味わい深く、また優美で優れていた。
とくに城中が勝利するとの意味まで含めていた。
しかし敵はまた『安芸の威風によってこの城が没落する』と言ってきた。
発句で負けたのはいいが、戦の吉凶はどうなるだろう」と、忌々しく思っていた。

さて横道権允が楯の前に出て言葉戦いをしていると、
今田中務が、普通の人なら四、五人でかかってどうにか張れるほどの大弓に、
三尺以上に見える大きな矢を取ってつがえた。
「なあ横道殿、この一矢を受け止めて、私の弓の腕前をお確かめになるといい。
矢の的を指定してもらえれば、仰せのとおりに、どんな小さな場所でも射抜いて見せましょう」
と今田が言うと、権允は
「まったく思いも寄らぬことですな。
こんなところで敵の矢を受けようなどという大うつけではありませんぞ」と答える。

今田は、「これは期待はずれです。それは横道殿が臆病だからでしょう。
昔の佐藤三郎兵衛尉嗣信は、能登殿の矢の的になったではありませんか。
それを、古来から『うつけ』などと呼んだことがありましょうか。
その矢を受けたからこそ、末代までも最強の名を得たのではありませんか」と言う。
権允は、「昔の嗣信と今の私を並べ立てるとは、さすがの今田殿とも思えません。
佐藤は主の命に代わって矢面に立ちふさがり、教経の矢を受けました。
これは、軍事に携わる者なら誰もが望むところです。
そういう場面なら、この権允も、幾筋でも矢を受けましょう。
しかし今、何の理由もないのに、ただあなたの弓の手前を確かめるためだけに、
二つとない命を的にかけるのは、愚かの至りともいうものです。そんなことは思いも寄りません」と、
急いで楯の中へと入っていった。

今田は大いに腹を立て、大弓に尖った矢をつがえると、肩いっぱいに弦を引いて、弦音高く切って放った。
その矢は過たず横道が隠れた楯の木をズンと射通し、鏃が三寸ほど突き抜けた。
そのとき横道は楯の横に姿を現し、
「おお、なんと素晴らしい弓の腕前でしょう。私が受けなくてよかった。
危なくも命を拾ったなぁ」と言ったので、敵も味方も、「それはもっともだ」と、一度にドッとふきだした。
その後、仕寄を付けて息をも継がせずに攻め立てたので、城中は非常に弱りきってしまった。

そこに、亀井新十郎が、「命を助けていただければ、この城を明け渡します」
としきりに詫びを入れてきたので、すぐに城を受け取って(天正三年十月上旬)、亀井の命は助かった。
「森脇市正・横道源介・同権允・牛尾大炊助などは一騎当千のつわものである。
味方に降れば、本国出雲に所領を与えよう」と裁定すると、
彼らも尼子の武運はこれまでだと思ったのか、また本国を離れるのが名残惜しいと思ったのか、
降人に出て杉原播磨守を頼ったが、その後皆吉川元長に出仕したということだ。


以上、テキトー訳。

キャー経言ちゃんかっこいいーーーヾ(*´∇`*)ノシ
明治ごろの少年向けの読み物に載ってた話だね!

だがな。
うまいこと言った香川さんと、でっかい弓引いた今田さんと、
おどけた横道権允さんに全部もってかれたよw
どうしてくれんのwww
数少ない見せ場なのにぃ(*;∇;*)
でも面白かったからいいか。

つうかね、戦の最中にもみじ狩りですよ。何してんの森脇市正。
ていうか元長好きそうだよね、こういうの。
陣中から坊さんに「もみじがきれいです。一目お見せしたい」とか書き送っちゃう元長ちゃんマジ元長ちゃん。
いやしかし、春継の「秋の嵐に~」はホントうまいね!
吉川家の幽斎って名乗ってもいいんじゃね? だめかな?

あと今田さん、「中務」ってことは、上野介経高さんの子供かな?とも思うけど、
経高自身が一時期「中務」だったりするらしいので、どっちなのかわからん。これはどっちだ。
たぶん添え書きがないので、校註の人もわからなかったのかもしれない。

そんなわけでやっと吉川勢登場で大変満足しましたとさ。
ちょっと気分は不安定なんだけどねw
2012-10-09

豊国の意地

だいたいの流れ:
一度は毛利勢(主に元春)に出雲を追い出された尼子勝久・山中鹿介たちだったが、
体制を立て直して鳥取城を奪取した。
しかし元春たちが尼子掃討戦に乗り出してくると耳にした山名豊国は、
一旦は尼子に味方して鳥取城に入ったものの先が心配になり、毛利家への帰参を決める。
豊国に騙された勝久・鹿介は、また鳥取城をも追い出され、若桜・私部の城へとつぼんでいった。
豊国のもとには、元春から牛尾大蔵左衛門尉が遣わされ、
牛尾は夜討ちを仕掛けてきた鹿介の勢を跳ね除けた。


私部麓合戦

尼子孫四郎勝久・山中鹿介たちが因幡へとなだれ込んで国中を切り従え、
伯耆へと攻め込んで切ると噂が立つと、では征伐に向かおうかということで、
吉川駿河守元春・同治部少輔元長・小早川左衛門佐隆景は、同八月初旬に芸陽を出発した。

まず元春様に従った人々は、熊谷伊豆守信直・嫡子の兵庫佐隆直・天野紀伊守隆重・
山内新左衛門隆通・杉原播磨守盛重・南条伯耆守宗勝・子息の伯耆守元次・小鴨官兵衛元清・
益田越中守藤兼・子息の右衛門佐元祥・佐波越後守秀貫・三沢三郎左衛門為清・子息の摂津守為虎・
三刀屋弾正左衛門久扶・羽根弾正少弼・宍道五郎兵衛尉正義、
そのほか広田・桜井・福頼・福田・牛尾・吉田・周布・都治・久利・岡本・山田・
香川・飯田など一万七千余騎が先陣に進んだ。

後陣に続く隆景に従う人々は、三吉式部少輔・岡新兵衛尉・同三郎左衛門・久代修理亮・
高野山入道久意・子息の五郎兵衛尉・木梨治部大輔元経・平賀太郎左衛門・
小笠原少輔七郎・同弾正少弼・有地美作守・同右近・古志清左衛門・三村紀伊守・
細川・伊勢など二万余騎だった・この軍勢が伯耆の八橋に到着した。

山名豊国はこれを聞きつけると牛尾大蔵左衛門に向かって、
「吉川・小早川はすでにこの国に上ってきているそうだ。
それなのに私が一度も敵と合戦していないのでは、私に勇がないようではないか。
吉川・小早川勢の到着を待つ間に、私部のあたりへと攻撃を仕掛けよう」と言った。
牛尾も「それがよろしいでしょう」と了承した。

同二十二日、豊国・牛尾たちは、一千五百余騎を率いて私部の山下へと攻め寄せて在家に放火し、
あちこちに結ってあった策の木を切り破った。
そこに、城中からこれを見咎めた進左吉兵衛らをはじめとして一千ほどの勢が、
ほとんどは鉄砲を手にしながらひたひたと打って出、豊国たちに散々に撃ちかけてきた。

山名の手勢の塩冶・佐々木・山口・毛利の八百余騎は無手と渡り合い、
足軽をけしかけて取り結び、しばらく弓矢合戦をしていた。
そこに城中の者たちが山の根をぐるりと回って攻め懸けてきたので、
山名の勢はたちまちのうちに突き立てられて、八百縄手へと蜘蛛の子を散らすように退却していく。

牛尾大蔵左衛門はこれを見ると、手勢の二百余騎で勝ちに乗った敵に懸命に渡り合った。
敵は大勢だとはいっても最初の衝突で備えが乱れており、とりわけ狭い八百縄手だったので、
大勢で一気にかかってくることができずに、難なく突き崩され、一、二町ほど引いていった。

牛尾は無勢だったので、敵を追い払えたのを勝ちということにして、軽やかに勢を引き上げようとした。
そこに牛尾源次郎が大蔵左衛門に先を越されたのを無念に思い、
手勢の二十人ばかりを率いて敵を追いかけ、深入りして戦っていた。
しかし源次郎は左の肩を二ヶ所突かれて、討ち取られてしまいそうになった。
大浦左衛門は「源次郎は私にとっては本家だ。
あの人を目の前で討たれてしまっては、私も今後生きる甲斐がない」と、
源次郎を討たせまいとして、また二百騎を一丸にまとめ上げて打ってかかった。
このとき山名の勢が後陣に続いていれば、敵は大崩になっただろうに、
まったく後に続かなかったので、牛尾は少勢だということもあって突き立てられて退くしかなかった。

大蔵左衛門は命を限りに戦ったが、敵二人と切り結んで、最終的には大蔵左衛門が戦い負け、
岸へと追い詰められてしまった。
もうこれまでかというところに、戦いに活路を見出せなくて引こうとしていた金尾藤三主が取って返し、
走り回って大蔵左衛門を探していたのだが、金尾が大蔵左衛門をやっと見つけて、
「これは危ない」と走りかかると、一人の敵の首を打ち落とした。
もう一人は引こうとしたが、そこに牛尾がツッと走り寄って切り伏せ、二人の敵をどうにか討ち取った。
金尾が助けに来なければ牛尾は討たれていただろう。
危機一髪で、どうにか命をつないだ。


以上、テキトー訳。

豊国ーーーー! 自分で合戦するって決めたんだから、もうちょっとがんばろうよ!
大蔵左衛門も、これじゃそりゃ疲れ果てちゃうよ(´;ω;`)
まぁ、でも豊国の描写に関しては、吉川の私怨を感じないでもないw
憎かったんだろうなぁってのが、よく伝わってくるね。
全力でかかってくる敵は尊敬するけど、敵と自分たちとの間でうろちょろしてるやつが
それなりに成功してたりすると、ムキーッ!てなる気持ちはよくわかるわ。
でもそんなもんよね、世の中って。
豊国は豊国で、自家が滅びないようにするために、一生懸命やったんだもんね。

だが山名氏に興味を持つと取り返しのつかないところに足を踏み入れてしまう予感がビンビンするので、
そっと気持ちを封印するのであった。

さてさて、次くらいには吉川勢登場するかな? かな? してくれよ!!!
2012-10-08

偶蹄類頂上決戦

だいたいの流れ:
元春のせいで一旦出雲を追い落とされた勝久・鹿介たちだったが、
勢力を整えて因幡に切り入って、鳥取城を落とす。
勝久に靡いてまんまと鳥取城甲の丸に入った山名豊国は、
元春がこちらに出張りしてくると聞くと、また毛利家に帰参することにして、
勝久・鹿介たちを鳥取城から追い出した。


牛尾・山中合戦のこと

山名豊国は、使者を通じて元春様へこう申し入れてきた。
「勝久が鳥取の城を落として立て籠もりました。
私は兵力が少ないからあの城を取り戻すことができず、謀略をめぐらして勝久たちを騙し、
城を取り返そうと思って、一旦は和睦いたしました。

しかし先年からあなたの幕下に属してきましたので、忠戦を貫く意思は変わっておりません。
いまさら毛利家に何の恨みがあって尼子に与したりしましょうか。
ですから、騙して城を取り戻してからは、すぐに勝久・鹿介を追い出しました。
彼らは仕方なく、私部・鬼カ城へと入っていきました。

けれどもわたしの勢はたった二千にも届きません。
敵は国中をだいたい打ち従えておりますので、兵力は五千にもなりましょう。
このままでは、きっとまた鳥取の城を勝久に落とされてしまうかもしれませんので、
ご加勢を差し向けてください。
豊国の勢と一緒になって凶徒らを退治いたしましょう」

元春様は、すぐに牛尾大蔵左衛門へと
「おまえはあの国に詳しいからあちらに駆けつけて、山名に協力してくれ」と下知した。
牛尾は即座に二百余騎で鳥取へと上っていった。

そして牛尾は鳥取の麓にある在家に宿を借りていたが、鹿介がこれを聞きつけて、
「牛尾が城中に入れば、たやすく打ち破れなくなってしまう。夜陰にまぎれて討ち取ってしまおう」と、
夜討ちに慣れた屈強な兵たちを五百余人そろえた。
身に着けるのは皆一同に白い装束、合言葉は「打」と決めて、
天正三年五月七日の夜半に、牛尾の宿に攻め寄せた。

鹿介たちは鬨をドッとあげると、足軽五十余人が手に手に松明をともし、門の外から切って入る。
鹿介は主力の兵たちを三手に分けて、後ろと左右から切り込んだ。
大蔵左衛門が、門外に敵がいると思って切って出てきたら、思いもよらぬ左右から討ち入って、
大蔵左衛門の不意を衝こうという策略だった。

牛尾は夜討ちがかけられたとわかると、筒丸を取って肩にかけ、鑓を下げて外に出た。
仁田又兵衛尉・金尾藤蔵など三十余人も、続いて門外へと突いて出た。
敵は手に手に松明を灯していたけれども、門の中は暗くてよく見えなかった。
牛尾が間近に迫ってきているのを知らずにいたところに、
すぐに手の下からワッと叫んで切ってかかってきたので寄せ手は足をとどめていられずにサッと引いた。
後陣から鹿介たちが切り入ってきたけれども、牛尾たちは大手へと切って出ていたので、
在家はもぬけの空になっていた。
鹿介はそのまま牛尾の後をつけて切ってかかった。

牛尾はどこに敵がいるのかもハッキリとわからなかったので、
鬱蒼と茂っている呉竹の藪の陰に身を潜め、しばらく四方をうかがった。
鹿介は在家に火をかけたので、その火の光で手勢の五百余人が進んでいった方を見ると、
ところどころに群れて控えていた。

牛尾は、「私は今夜必ず死ぬ。これは定めなのだろう。逃げるべきではない」と思ったので、
人が黒々と集まっているところを見ては、
「これが鹿介だろう。どうせ死んでしまう命なら、鹿介に渡り合ってから死のう」と思い、
無二に切ってかかっていった。

牛尾は十死一生と思い定めて切って回る。
寄せ手は「討てたなら幸運だ、もし討ちもらしていたならそれでいい」と、ゆったりと構えていたので、
あえて身命を捨てて戦う者がいなかった。
そのせいで散々に切り立てられ、蜘蛛の子を散らしたように逃げ散った。
そのうちに空が掻き曇ってきて、目を刺されても気付かないほどのぬばたまのような暗い夜だった。
太郎左衛門はどこに鹿介がいるのかもハッキリとわからず、ただ兵が集まっているところに、
「あれこそ鹿介だろう」と、カンだけを頼りに切ってかかる。
その勢いは、八つの腕を持つ那叱であっても容易には止められないように見えた。

鹿介は、捨て身でかかってくる者の相手をして、無駄に命を捨てても仕方ないと思い、
サッと退いていったが、
「味方のうちに退却しそびれた者はいないか」と、四五町ほど取って返して備えを固めた。
退き遅れた者たちを誘導しようと合図の篝火を焚くと、
あちこちの木の陰や藪の中に隠れていた兵たちが、皆一ヶ所に集まってきた。
鹿介たちは、そこから静かに若桜を目指して退却していった。

牛尾は「油断していると、また取って返してきた敵に不意を打たれるかもしれない」と考え、
四面に篝火を焚かせ、二百余人を面向不背の玉のように備えて、自身は中央に控えた。
そしてどこから敵がかかってきても渡り合ってやろうと、その夜が明けるのを今や遅しと待ちかけた。

鹿介が因幡に入国してきてからというもの、十三ヶ所も城を落としていたので、
人々は皆鹿介を鬼神のように恐れていた。
しかし牛尾がわずかな手勢で鹿介に勝ったので、人々は「牛は鹿よりも恐ろしい」と、
また大蔵左衛門を恐れたのだった。
鹿介は城に帰って、「今夜の夜討ちは仕損じてはならなかった。
それなのに、この国の弱敵と同じだと思って敵を侮り、討ち損じてしまった。
牛尾の勇は聞いていたよりなお優れている。
あれを味方にできれば、尼子の武運はまた隆盛するだろうに」と言った。


以上、テキトー訳。

鹿介「あの子が欲しい!」
元春「この子はあげない!」
そんな血なまぐさい「はないちもんめ」が……始まる、なんてことはなかった。
牛尾さんかっこよろしいなぁ。まだ若かったはず。
ストッパーのない元長はこんな風になるイメージ。
あぁあ、だんだん元長のイメージがおかしくなっていく><

記事タイトルは出来心です。
牛も鹿も、確かもとの種類は同じだったよね……? シカって、ウシ目とかだったよね???
あれだね、品川大膳も、狼じゃなくて牛を名乗れば鹿ちゃんに勝てたかもしれないね!?

さて、今日は12kmくらい歩いたから早めに寝て疲れをとろう。
意外に歩けるもんだね、12km!
この調子なら広家に従軍するのも夢じゃないぜ☆
2012-10-07

山名の処世術

だいたいの流れ:
一旦は元春に出雲を追い出された勝久・鹿介だったが、
信長に出仕したりなんだりして、またもや舞い戻ってきたぜー! ヒャッハーーーー!
尼子勢が鳥取城を手に入れると、山名豊国が尼子に寝返ったり、
山名勢で元春が目をかけていた大坪が豊国から離反したりと、
たいぶすったもんだが起こっているようだね(゚▽゚*)


勝久、鳥取を明け退くこと

さて尼子勝久は、「大坪が城を去ったからには、もうこの国に恐れるべき敵はない。
これから伯耆へ攻め入ろう」と、山名豊国へ加勢を出すように要請した。
豊国はこれを了承した。

こうしたところに、大坪神兵衛尉が芸州へと下って、あったことをすべて報告したので、
吉川元春父子がすぐに因幡口へと出陣してくると噂が立った。
このことで勝久は「国境に打ち出て防戦しようか、
もしくはこの城に立て籠もって戦うべきか」と会議を重ねた。

元春様は、南条・杉原・山田などに因幡の荒神山の城を切り従えるように下知したので、
この者たちはすぐに出張りして即座に荒神山城を切り崩した。
城兵の山崎十兵衛尉を、山田出雲守の嫡子、山田蔵人が討ち取った。

こうなると、山名大蔵大輔豊国は、
「毛利家と仲違いをしては、この国に足をとどめることなどできはしない。
いよいよ我が身が滅びるときがきたのか」と思って、
すぐに森下出羽守(通興入道道誉)・中村対馬守(春続)などの家老たちを集め、
「このことをどうしよう」と会議した。

皆一同に、「大坪神兵衛尉が再三諫めてきたのも、まさにこのことではありませんか。
早く元春に使者を遣わし、もとのように味方に加わりたいと申し送ってください。
しかしながら、何の証拠もなくてはいかがかと思いますので、
勝久たちをこの城から追い出し、それでどうか面目を保って、毛利家へ帰参なさればいいでしょう」と諫めた。
豊国はすぐに勝久に対して敵対する態度を見せた。

勝久・鹿介は「これはどういうことだ。山名に騙されたのか。無念だ」と腹を立てたが、
特に良い手もないので、「こうなってはこの城にいることはできない」と、
やがて私市の城を取り誘い、鹿介の婿の亀井新十郎(茲矩)を大将として
山名藤四郎・横道源介・同権允・森脇東市正・牛尾大炊助・進左吉兵衛尉など一千五百騎を差し籠め、
勝久は鹿助・源太兵衛尉・神西・加藤などを率いて若桜の鬼カ城へと立て籠もった。

草刈加賀守の嫡子三郎左衛門(景継)・次男太郎左衛門(重継)という者たちは、
用明天皇の末裔であった。
名字を草刈というのは、その天皇が真野の長者の娘が非常に美しいという噂を聞きつけて、
筑紫へと下向して身分卑しい男に変装し、草を刈っていた。
そしてついにその娘と契りを交わし、もうけた皇子の流れなので、草刈と名乗ったということだ。

この兄弟は無双の勇士で、無二の毛利方だったので、
何度も若桜表へ打って出て、日々戦勝負を仕掛けていた。
鹿介もまた草刈の端城である因幡の淀山の城へと度々攻め懸けてきていた。
草刈太郎左衛門は味方の勢のいちばん先陣に進み、軍士たちに下知をなして、何度も敵をくじいてきた。
鹿介は味方の片寄市允をはじめとして多くの兵を討たれてしまった。

鹿介は、「我らが戦利を失ったのは、太郎左衛門の武勇が諸人に勝っていたからだ。
私は自分の武運を信じて戦のたびごとに先陣に出て、
傷ついたり命を失うかもしれないということさえ顧みずに防戦しようと思う。
どうにかして太郎左衛門を討ち取れば、草刈の城を落とせるかもしれない。
先陣にいる勢を数十人討ち取れば、太郎左衛門はその中にいるだろう。
絶対に敵の先陣を切り崩し、太郎左衛門を討ち取ってくれ」と諸軍勢に下知した。
しかし、太郎左衛門の運が強かったのか、もしくは勇が人より抜きん出ていたからか、
太郎左衛門が討ち取られることはなかった。


以上、テキトー訳。

豊国ィーーーーーーっ! ホントもうこの人は><
なんでしょうね、この人のこの放っておけない感じ……
あとホント尻が軽いね! こういう身軽さが生き残りにつながるんだろうか。
現時点で豊国のことを好きか嫌いかと問われれば、そりゃ嫌いだけれども、
正直陰徳記でしか情報仕入れてないので、フェアな評価じゃないのはわかってるさw

さぁーて、そろそろ元春出てこないかな……
明日北広島町の吉川戦国まつりだそうで、私は車運転できないのと旅費がないので行けないんだけども、
元春とか元長とか経言に飢えてるよね。
行きたいなぁ、吉川の本拠地……
近くまでバスで行って歩いてみようとかほざくたびに、みんな制止してくれる。
元長が景さまに止められて「ぐぬぬ」ってなってる気持ちがちょっとだけわかるwww

明日はお休みのはずだから、陰徳記読んでから他のことしようそうしよう(・`ω´・) 
2012-10-05

鹿介大暴れ!

だいたいの流れ:
一度は元春に出雲を追い出されたものの、再び勢力を盛り返してきて出雲奪還に動き始める
尼子勝久・山中鹿介だったが、毛利に味方する国人衆にはほとほと手を焼いていた。

……ていうかコレ、毛利側の軍記物だよな???
尼子中心に描かれてる部分が多くてちょっと混乱するんだぜw
最近サボりがちだったので、短い章をあわせて一気に三章進んじゃおう!


因幡の国鳥取の城合戦のこと

同九月二十二日、山中鹿介・立原源太兵衛尉・牛尾大炊助・森脇市正・横道源介・同権允・
足立次郎左衛門・同治兵衛尉など三千五百余騎は、毛利入道浄意が籠もっている鳥取の城へと押し寄せた。
先陣の一千余騎はそのまま一気に天王(主か)の尾根まで攻め上った。

これを見て城中からは弓・鉄砲を散々に射かけ、敵の足並みが乱れてきたところを見計らって、
三百余人が門を開けて突いて出た。
尼子勢の先陣はたちまち突き立てられて引き退いたが、
森脇市正・牛尾大炊助・足立次郎左衛門の三人が鑓を取り直して散々に突き返してくる。
足立治兵衛は太刀を抜いて切りかかってきた。
この者たちの働きは、実に一騎当千のつわもののようであった。
この四人の勇に助けられて、寄せ手は安心して退却することができた。

その後仕寄をつけて楼を組み上げて攻めていると、城中はたまりかねて城を明け渡した。
勝久がすぐに入れ替わって入場すると因幡の半分以上が尼子になびき従った。
こうしたところ、山名大蔵大輔豊国は鹿介に使者を遣わして、
「鳥取の城はこの豊国の端城ですので、どうか私に返してください。
そうすれば毛利家に味方するのをやめて、勝久と水魚の間柄となり、伯耆口へと兵を差し向けましょう。
もしこれをご了承いただけないのであれば、但馬の山名と相談して、
是非もなく一戦をするつもりです」と言い送った。

勝久・鹿介は「このことはどうしたらよいだろう」と立原・横道・森脇たちと話し合った。
「豊国は但馬の山名入道宗詮にとっては婿に当たる。
だから豊国と一戦することになれば、宗詮とも鉾楯を交えることになるだろう。
これと仲違いしては、この国にとどまるのは難しくなる」と結論して、
甲の丸を豊国へと返し与え、勝久・鹿介たちは二の曲輪へと移っていった。

そうしたころ大坪神兵衛尉が豊国に諫言した。
「尼子と一味なさって毛利家に背くのは絶対によろしくない。
尼子が数十ヶ国を従えていたとき、毛利は芸州のたった半国をようやく切り従えて、
あちこちで合戦をしたものです。
けれども尼子は何度も利を失い、ついに義久が元就の捕虜になってしまいました。
その後吉川・小早川が九州へと発向したときには、その隙をうかがって勝久が出雲に入国しましたが、
一度も合戦に勝てないまま国を追い出されました。

こんな流浪の身となってしまった尼子勢が、どうして本国を取り戻せるというのでしょうか。
鳥取の城のことは、輝元へと加勢をお願いすれば、
きっと元春父子がこの国へと打ち出てきてくれるでしょう。
そうなれば勝久は一日もこの国に足をとどめていられません。
城などは易々と奪い返せるはずです。
それなのにどうして、鳥取城を勝久から返してもらうためにあちらに味方する必要がありましょうか。

見ていて御覧なさい。すぐに元春父子がこの国へと出張りなさってくるでしょう。
そうすれば因幡一国の尼子方は、ぼろぼろと敗れ、滅びていくはずです。
そのときにはあなたも罪を逃れられませんぞ。これをよくよくお考えになれば、
尼子と一味することなど、まさに自ら滅亡を招くようなものです。
勝久に同心するとの約束を考え直して、どうか毛利家に一味なさってください」

大坪は再三諫めたけれども、豊国はまったく耳を貸さなかった。
大坪は、「私は元春の幕下に属すと約束しました。それは金石よりもなお固い約束です。
いまさらこれを違えるわけには行きません。
しかしこのまま国にとどまって鹿介と勝負を決しようとすれば、主君の豊国に弓を引き、
矢を放つのと同じことになってしまいます。
ですから、早々に国を出るより他ありません」と言って、芸州へと下っていった。

豊国はこれを聞いて、「大坪め、憎々しいことをするやつだ」と、
これまで散々忠志を貫いてきた大坪の、人質としてとっていた二人の子を、
人々への見せしめのためだと言って、鳥取の山下で磔にかけた。
これを見た人は皆豊国を憎んだ。


若桜合戦のこと

翌けて天正三年二月五日、山中鹿介は鳥取を出て、同じ因幡の国の若桜の城を攻めようと、
しばらく陣を据えていた。そこへ、草刈三郎左衛門尉景継が一千五百騎で攻め寄せた。
鹿介の先陣は亀井新十郎・武田源三郎の八百余騎、
二陣は鹿介・源太兵衛尉をはじめとして千三百余騎である。

先陣の武田・亀井は歯が立たずに突き立てられて、散り散りになって退いていった。
二番の山中・立原は無手と渡り合い、切りつ切られつ戦っていたが、
この勢もやがて敗色が濃厚になってきた。

草刈の手勢には、美作の住人で高村何某という鑓使いがいて、
真っ先に進んで敵数人を突き伏せ、勇み進んでいた。
ここに横道権允が駆けつけて刃を合わせた。
高村は有名な鑓の達人で、横道の具足の胸板を三ヶ所突き削ったけれども、
とうとう武運が尽きたのか、横道の体には傷一つつけられない。
そのうち、横道が突いた鑓が高村の高股に当たり、高村がそのまま倒れこんだところを横道が取り押さえ、
首を掻き切った。

これに励まされた尼子勢は一気にドッと突いてかかってきたので、
草刈は突き立てられて四、五町ほど引き退いた。
しかしすぐに取って返すと、備えを固めて控えていた。
尼子勢も敵の様子がものものしいと感じたからか、あえて深追いはしてこなかったので、
その後双方ともに引き揚げていった。


諸寄合戦のこと

山中鹿介は五百余騎を率いて諸寄(もろよせ)の民家に放火した。
そこから退却しようとするところに、陰山・蓑部らが八百余騎で打ち出てくる。
これを聞きつけて、山口左馬允の七百余騎、毛利入道浄意の四百余騎が後ろの山に陣を据えたので、
鹿介は網の中の魚のようになってしまった。

鹿介はもともと勇気盛んで大敵を者ともしない者だったので、背後の敵には目もくれず、
陰山たちに切ってかかっていった。
「今日の合戦は勝とうと思うな。ただ一太刀でも敵にくらわせ、打ち違えて死ぬつもりで、
私は皆より先に討ち死にするつもりでいる。皆も私より先に討ち死にせよ。
もしこのように一途に思い切っていれば、かえって死中に活路を見出すこともあるだろう」と、
鹿介は市場暗に切りかかっていった。

陰山たちは懸命に渡り合ったけれども、手下の有能な兵たちが数十人も突き伏せられてしまったので、
かなわずに突き立てられて散り散りになって退いていった。
鹿介は六、七町ほど追いかけて引き返したが、毛利・山口勢も戦利はないと考えて、
もう退却しようとしていた。
ここに鹿介が無二にかかっていったので、まったく戦線を支えることができずに、散り散りに逃げていった。
鹿介は十死に一生の難を逃れたばかりか、敵を数人討ち取って鳥取の城へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

あー、大坪って豊国の配下だったのか。それなのに元春にも恩を受けてて……
いろいろと複雑だな><
目をつけた家の陪臣を取り立てて可愛がるってのは、
秀吉の特徴的な政策だと思ってたんだけど、
こういうのを読むと、それ以前からままあったことなのかなって気もするね。

あと、こういう流れだと、本当に尼子勢元気だなっていうか、
ほんとエネルギッシュだな、鹿ちゃん……ゆっくり休んでるところとか想像できないわ。
こんだけアグレッシブに攻めてこられると、元春もさぞうっtモゴモゴ

そんなわけで次回も続きの章から読む!
早く元春なり元長なり経言なり出てこないかな……

そうそう、余談だけど、この天正2年くらいから元長も政務に参画しだしたようで、
初名の「元資」から「元長」に改名したのもこのころ、
また十宗兼学の万徳院を建立したのもこの時期らしいよ~
いろいろ思うところあったんだね。長男はツライなぁ、元長(´;ω;`)
2012-10-04

大坪VS武田・亀井

だいたいのあらすじ:
山中鹿介は元春によって一度は出雲を追われたものの、
信長に働きかけるなどして体勢を立て直し、再入国を試みている。
私部城の大坪の移動中を狙い討ち取ろうとしたが、
大坪の武勇に気圧されて兵は崩れ、数では勝っていたにもかかわらず、退却する羽目に。


大坪と武田・亀井合戦のこと

同三月十日、武田源三郎・亀井新十郎は七百余騎で鹿野の城を打って出て、
五十余町を隔て小松原に陣をとると、あたりの民家に放火しようとしていた。
そのころ、大坪神兵衛尉が芸陽から帰ってきており、
しばらく人馬の息を休めて三百余騎で鹿野近辺に攻撃を仕掛けようと打って出てきたのだが、
偶然にも武田・亀井と行き会った。

大坪が敵陣を見ると、大勢で山上に陣取っている。
さしもの大坪も進みかねて、山下の田中に備えて半時ほど敵の様子をうかがって控えていた。
亀井・武田は大勢だと入っても、大坪の武勇を前から知っていたのであえて進もうとはしない。
大坪はたまりかねて姫路玄蕃允を先に立て、ドッと鬨の声を上げて切ってかかった。
手崎に備えていた武田の二百五十騎は、すぐに山の半分ほどを下って駆けあわせた。

この武田の郎党に、中原弥介・同神次郎という者がいた。
これは先年、伯耆の橋津合戦のときに、尼子兵部太輔を討ち取った中原杢允の子であった。
どちらも大のつわものだったが、見れば大坪は兜を着けずに青い手ぬぐいで鉢巻をしているだけで、
真っ先に進んでくるのでとても狙いやすい。
この頭を射破ってやろうと思い、間断なく散々に矢を放ったけれども、大坪はものともせずにかかってきた。

これを見て、後ろに控えていた亀井はかなわないと思ったのか、
「武田、引くぞ」と言い捨てて、後ろも振り返らずに逃げていく。
武田もこれを見て仕方なく引き退いたが、大坪は勝ちに乗って鹿野の麓まで追い詰め、
亀井の手の者三人と武田の郎党二人を討ち取った。大坪はようやくこれで私部へと引き揚げていった。

さて、この武田は毛利家の重恩を蒙った者であったが、その恩をすっかり忘れて鹿介に与したのだった。
源三郎の父の高信は先年、諸寄の城を攻めようとして、手勢の三千騎を率いて出発した。
その辺りにはまるで三鈷のように三ヶ所に城があったが、手崎の城から攻めていれば、
残りの二ヶ所の城は攻めずとも落とせたはずだった。

しかし高信は自分の勇を誇って二ヶ所の城を背後に回して、強硬に諸寄の城に攻めかけた。
城中は非常に強く抵抗してきて、高信が少々攻めあぐねていると、
残った二つの城から援兵が駆けつけてきて、高信の背後から切ってかかったので、
高信の後陣はたちまち切り崩されてしまった。

これを見てたちまち軍勢が乱れ立ち、引き退いてしまったので、
高信も仕方なく手勢三百ほどとともに山本へと退却し、岸一つ高い所に上って死に物狂いで戦ったけれども、
味方はすでに多くが討たれ、また逃げ出してしまっていた。
次第に兵数も少なくなり、ついにその場所で討ち死にしたのだった(天正四年五月四日以前のこと)。

そのとき源三郎はまだ幼くて、家之子や郎党たちも中核を担う者が皆打たれてしまったので、
武田家はここで断絶するかに見えた。
ここに元春が南条たちに下知をして、武田を取り立てたので、その家を源三郎が相続することができたのだ。
それなのに、その恩を忘れて鹿介に一味したがゆえに、結局流浪の身となってしまった。


以上、テキトー訳。

中途半端な長さだけれど仕方ない。ここまでだす。
敵勢と偶然行き会って合戦になるなんてこと、あったんだなwww
国人たちにもいろいろあるんだねぇ。当たり前だけど。
しかし大坪さんていうのはどういうポジションなのか全然調べてないや(ダメダメ)。
熊谷パパとも親しげに話してたし、無二の毛利方なのかな。
いろいろと他にやることが多くて丁寧に読んでいけてない。反省。
次からはもうちょっと真面目に調べながら読みたいね。
次も尼子勢と周辺の勢力のお話みたいだよ!
2012-10-02

鹿介の雪辱

だいたいの流れ:
山中鹿介は、元春に生け捕りにされたがどうにか脱出し、上洛して信長に出仕しつつ
出雲を切り取る機械を狙っていたが、明智光秀に「大将の器ではない」と断言されてしまう。
それでも諦めずに私部城主大坪神兵衛尉が安芸に新年の挨拶に行くのを狙って、
山上から十倍の勢で攻め寄せたけれども、大坪の百騎に難なく追い散らされてしまった。


私部城合戦のこと

さて山中鹿介は宿所に帰ると、
「今日の戦は言う甲斐もなく負けてしまった。なんと口惜しいことだ。
当国の兵ばかりでなく、杉原播磨守盛重までもが口汚く私を嘲笑うだろう。
こうなったら私部の城に攻め寄せてあっという間に攻め落とし、会稽の恥を雪がなければ」と決意した。

同五日、鹿介は私部の城へと押し寄せた。
先陣は山中鹿介・立原源太兵衛尉、そのほか出雲・伯耆の諸牢人たち一千騎だった。
二陣は武田源三郎が五百余騎、三陣には日野五郎が三百余騎で続いた。
鹿介は諸軍士にこう下知する。

「今日の合戦の勝負は産の曲輪にかかっている。
それというのも、大坪の家之子、姫路玄蕃允が三の曲輪にいるからだ。
甲の丸は牛尾大蔵左衛門だろう。
牛尾はまだ二十歳そこそこの若造なのだから、勇があってもまだ隙は多いはずだ。恐れることはない。
一の城戸で姫路をさえ討ち果たせば、この城は易々と乗っ取れるだろう。
どうか皆、粉骨砕身の働きをして一の城戸を攻め破ってくれ。
たとえ一度は突き崩されても、取って返して息も継がずに攻め入ろう。
姫路は猛々しいが、たいした兵数はない。それほど強く抵抗できないはずだ」
と、鹿介は鼓舞して回った。

そして寄せ手は門の外まで詰め寄ったが、城中は鳴りをひそめて物音一つ立てない。
攻め手が門を破ろうとしていると、矢倉の上から
「姫路玄蕃允これにあり。ただ一鑓のうちに勝負を決そう」と声がして、
その途端門を八文字に開け放って中から二百余任が一直線に突いて出てくる。
鹿介は「そら見ろ、姫路は堪えかねて打って出てきたぞ。討ち漏らすな」と下知をして、
無手と渡り合って攻め戦った。

しかしあまりに懸命にかかってこられたものだから、先陣は一度にサッと引いた。
二陣に続いていた武田も一緒に引いていく。
三番に続いていた日野の郎党たちが受け止めようとしたところに、
進の左吉兵衛尉が「どうする、足立殿」と問いかける。
足立次郎左衛門・その嫡子治兵衛尉は、
「何の思案も遠慮も要るまい。ただかかるより他のことは考えていない」と答えた。

この三百余人が、静々と進んできた姫路の勢と渡り合って、突きつ突かれつ戦っていると、
横道権允兄弟もすぐに取って返してきて、同じく続いて攻め戦った。
これを見て、先に引いていた出雲勢があちこちから引き返してきて攻めかかったので、
姫路は最初の合戦に疲れてしまったからか、または小勢だったからか、
ついに押し立てられて門の中へと引いていった。
鹿介は「敵に息を継がせるな。隙間を空けるな」と勇んで攻め入ったので、
姫路は一・二の城戸を攻め破られて、本丸へと引き籠もってしまった。

寄せ手が甲の丸に乗り込もうとしていたが、
牛尾大蔵左衛門尉は鬼神さえも尻をまくって逃げるほどのつわものだったので、
少しもひるまずに弓・鉄砲を揃えて撃ちかけ、敵を多数射伏せた。
それに敵がひるんだところに三度まで突いて出て、辺りを払うようにして戦った。
寄せ手の足軽たちは備えを乱して引き退いたが、
弓・鉄砲を持っていなかったのでただ的にされて射すくめられる。
周辺の家の戸板などを外して楯にするものの、だからといって戦線を維持できるわけでもなく、
怪我人や死人が数百に及んだ。

鹿介は「まず、今日は退いて、再びこの城を攻めることにしよう」と、まず自身が静々と引いていく。
武田・日野も二手に分かれて備え、敵が後をつけてきたら渡り合ってやろうと控えていた。
鹿介が退却して備えを整えると、武田・日野もまた静々と退いていく。
牛尾・姫路もこれでは後追いもできずに、城が破られなかったことを勝ちとして、
城戸をしっかりと差し固めていた。

姫路はなかなかの古つわものだったので、こうしたことはよく心得ていた。
牛尾の働きは勇があるだけでなく、諸軍士に掟を言い渡す態度までが文句なしで、
大隊を率いる将になるほどの器の持ち主だと、人々は大いに感心した。


以上、テキトー訳。

まずね。一番重要な大将がなぜ先陣にいるのか理解できない。
鹿介は、将なのか兵なのかよくわからん。
会社組織で考えると、将というのは役員で、兵というのが労働者なんだろうと考えてみるんだが、
鹿介の場合はどっちかというと……
いやいやいや、陰徳記だから吉川がかっこよく描かれる代わりに、
誰かがかっこ悪く描かれてるものだとは思うけどね!

とりあえず、牛尾がかっこよく描かれてるってことは、
正矩の情報源として、牛尾さんの子孫はだいぶ貢献したんだろうな、ぐらいは想像できたね。

これからしばらく小さめの合戦描写が続きそうでござる。
このへんからドロ沼化してきたのかね。
2012-10-01

鹿介、汚名挽回

だいたいの流れ:
元春に捕まったがどうにか逃げ出した山中鹿介は京都に上り、
立原源太兵衛尉とともに信長に出仕して明智光秀の手に属した。
信長の中国攻めを誘発し、出雲を手に入れる魂胆であった。
が、生まれる前の合戦のことを知らなかったことで、光秀からは
「大将の器ではないから、毛利攻めは諦めるか、別に大将を立てた方がいい」と言われてしまう。
負けるな、鹿介! がんばれ、鹿介!
なぜか吉川クラスタなのに鹿介応援してるわけだが、見守ってるぞ!


山中鹿介と大坪合戦のこと

さて尼子孫四郎勝久を大将として、山中鹿介・立原源太兵衛尉・神西三郎左衛門・加藤彦四郎・
亀井新十郎・吉田三郎左衛門・森脇市正・横道源介・同権允・牛尾大炊助・同次郎右衛門・
足立次郎左衛門・同治兵衛尉・進左吉兵衛尉などが、天正元年十二月に但馬に下ってきた。
そのまま因幡に入ろうとしたけれども、そのころは元春が因幡の篠尾に在陣していたので、
尼子勢は因幡に入れずに但馬で足を止めていた。
元春が開陣したときには、山名但馬守を頼って因幡へと入り、
そこから伯耆を切り従えて出雲に入ろうと企んでいた。

この国の山名中務少輔豊国は非常に卑怯な弱将だったので、鹿介に使者を送って
「私は吉川元春に従属して人質を差し出してしまった。
だからどうしようもなく、尼子家に一味することは思うようにいかない。
けれども、断じて勝久に対して弓を引き矢を放つつもりはない。
兵糧などのことなら、必要なら協力しよう」と言い送った。
勝久は非常に喜んで、「ではこの国がすべて手に入ったなら、伯耆にももちろん進軍しよう」と勇んだ。

勝久は因幡に入って十日以内に、敵城を三ヶ所も落とした。
その勢にあちこちから尼子家の牢人たちが駆けつけてきて、あっという間に総勢三千余騎にもなった。
この兵力で伯耆に攻め入ることは簡単に思えたが、
まずは当国の私部の城に大坪神兵衛尉が無二の毛利方として立て籠もっている。
また元春から牛尾大蔵左衛門が差し籠められていた。
大坪さえ討ち取れば、この国には尼子勢の行く手を遮る者はいなくなるはずなので、
先にこの大坪を攻撃しようと、会議が開かれた。
しかし大坪は名うてのつわものだったので、容易には城を落とされないだろうから云々と話し合いは長引いた。

翌けて天正二年、青陽の賀詞を述べるために大坪が芸陽へと向かったと知らせる者があった。
鹿介は「これこそ待ちに待った機会だ。大坪はきっと小勢で動いているに違いない。
道の途中で討ち取ってやろう」と、総勢一千騎ほどで鳥取の雁金山の麓に出て待ちかけた。
大坪はこのことを夢にも知らずに、百人ほどの勢で旅装束を整えて出発したのだが、
これは正月の三日だったので、立春というのは名ばかりで、
谷の白雪は消え残り、峰を吹く風ももってのほかに寒かった。
兵たちは凍えきって手を引き縮め、弓を引いたり矢を放つことも思い通りにいかなかった。
大坪も、「もし道中に敵が出てきたら簡単に討たれてしまうな」と心細く思いながら通り過ぎようとしていた。

そこに鹿介、思いも寄らぬ山の上から旗をさっと上げて高らかに叫んだ。
「今ここをお通りなるのは大坪殿とお見受けしたが、いかに。
芸陽へはるばる下向なさると聞きましたので、その前途をお祝いしようと、
この山中鹿介、ここまで出て参りましたぞ。
旅立ちのときには柳を一枝送るという風習があります。
ここで矢を一筋進め参らせて、馬の餞にいたしましょう」と、鬨をどっとあげた。

大坪はこれを聞いて少しも慌てずに、
「さては鹿介殿、ここまでおいでになられましたか。ありがたいお志です。
仰せのとおり芸州へと罷り越すところですので、景気づけに一戦してあなた方の首をいただき、
毛利家への土産にすることにしましょう」と言い放って、
一ヶ所にひっしと集まると敵がかかってくるのを待ちかけた。
しかし鹿介は大坪の勇気を侮りがたくおもったのか、まったくかかろうとはせずに相手の動きを見守っていた。

そこに大坪が「いざかからん」と言った。
大坪の郎党たちは「この小勢であの山上に控えている大軍の中にかかっていっても、利などありません。
どうか敵がかかってくるのをお待ちください」と諫めた。
大坪は「確かにそれはそうだ。これは、三歳の幼児でも知っていることだな。
しかし、勝利を気にしている場合であればそういうこともあるだろうが、今回はそうではない。
もう私の命運が尽きたのだとわかった。
どうせ死んでしまう命なら、小勢で大軍に向かっていって死んだほうが、死んだ後でも勇名は残るだろう。
またあれほどの大勢で山上に陣取っている敵が、
我らごときの小勢を見ながらかかってくることができずに、鬨の声だけ上げて控えているのは、
私の武勇にすっかり気圧されているからだと思う。
無二にかかっていけば、敵は十中八九崩れるぞ。私に任せておけ」と、真っ先にかかっていく。
続いて百余人の郎党たちが、鹿介の勢の真ん中へと切ってかかっていた。

鹿介はこれを見て、「大坪はもう運が尽きたのだろう。
あの小勢で、高い場所に備えている我らの大軍にかかってくるほど、大坪は愚かではなかったはずだ。
自滅しようとしている敵を討ち取り、高名を果たせ」としきりに下知した。
しかし鹿介の兵たちは後ろから崩れていく。
鹿介が「なぜ引くのだ。帰ってこい、戻ってこい」と命じても、
耳にも聞き入れずにひたすらに退却しようとする。
鹿介は心は猛々しく勇んでも、力及ばずに後ろの林に逃げ入ることになってしまった。
大坪はカラカラと笑って、「人と出くわして林に逃げ入るとは、鹿という名にふさわしい」とふざけ、
芸州を目指して下っていった。

こうして大坪は芸陽で熊谷伊豆守信直に会い、この戦のことを語って聞かせた。
信直は、「あなたの勇は今に始まったことではない。鹿介にしても勇も智も兼ね備えた者だから、
これほど他愛なく負けるとは思っていなかったが、敵を小勢と見て侮ったのが敗因だろう。
鹿介の勢は千騎、あなたの勢は百騎なのだから、あちらが十倍だ。

千騎を五手に分けて、二百騎ずつでかかれば、大坪が百騎で渡り合おうとも、
味方は二百騎なのだから負けるはずがない。
それに自分の二百騎の先陣と敵の百騎がもみ合っているとき、
二百ずつの備えを不二つ左右から横合いにかからせればいいのだ。
いかに張良・ハンカイであろうと、小勢のうえ敵に左右から打ちかかってこられたら勝てるわけがないし、
そこで皆滅び去っただろうに。

敵がもしこの六百の勢を突き崩したとしても、敵だって百騎の半分以上は消耗しているだろう。
たとえ過半数の兵が死んでいないとしても、備えは乱れて兵たちは疲れきっているはずだ。
その機に乗じて鹿介が四百の勢をまた二手に分け、打ってかかってきたなら、
きっとたちどころに敵を挫けただろうな。
また三百ずつ三隊に分けても勝てたはずだ。
こんな謀を間違えるような鹿介ではないと思っていたが、
小さな敵だと侮ったがゆえに仕損じたのだろう」と言った。
大坪は、「信直に会って、ずいぶん武の学を得ることができた」と感謝し、別れていった。


以上、テキトー訳。

そんなわけで記事タイトルはわざとです。
「汚名返上」もしくは「名誉挽回」が言葉としては正しいわけだけど、
この内容的には「汚名挽回」だろ……と_ノ乙(.ン、)_
汚名挽回も「挽回」に「よい状態を取り戻す」意味があるからあながち間違いではないという説もあるが。

鹿介は、戦略はうまいのかな。で、用兵があんまり上手ではない、もしくは堪え性がない。
私も戦略や用兵には暗いけど、なんとなく陰徳記だとそういう印象を受ける。
だいたいドタバタだもんな。だが読んでる分にはこういうキャラのほうが楽しい(*´∇`*)
ホントいい男だよな、鹿介……

そして安定の信直さんですよ!
あんたなぜ鹿介の立場で大坪と戦うシミュレーションしてるの!? 味方だよその人!
なんか……うん、わかるけど、なんかーーーー!!!
すごく好きーーーー!!!
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