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2012-10-04

大坪VS武田・亀井

だいたいのあらすじ:
山中鹿介は元春によって一度は出雲を追われたものの、
信長に働きかけるなどして体勢を立て直し、再入国を試みている。
私部城の大坪の移動中を狙い討ち取ろうとしたが、
大坪の武勇に気圧されて兵は崩れ、数では勝っていたにもかかわらず、退却する羽目に。


大坪と武田・亀井合戦のこと

同三月十日、武田源三郎・亀井新十郎は七百余騎で鹿野の城を打って出て、
五十余町を隔て小松原に陣をとると、あたりの民家に放火しようとしていた。
そのころ、大坪神兵衛尉が芸陽から帰ってきており、
しばらく人馬の息を休めて三百余騎で鹿野近辺に攻撃を仕掛けようと打って出てきたのだが、
偶然にも武田・亀井と行き会った。

大坪が敵陣を見ると、大勢で山上に陣取っている。
さしもの大坪も進みかねて、山下の田中に備えて半時ほど敵の様子をうかがって控えていた。
亀井・武田は大勢だと入っても、大坪の武勇を前から知っていたのであえて進もうとはしない。
大坪はたまりかねて姫路玄蕃允を先に立て、ドッと鬨の声を上げて切ってかかった。
手崎に備えていた武田の二百五十騎は、すぐに山の半分ほどを下って駆けあわせた。

この武田の郎党に、中原弥介・同神次郎という者がいた。
これは先年、伯耆の橋津合戦のときに、尼子兵部太輔を討ち取った中原杢允の子であった。
どちらも大のつわものだったが、見れば大坪は兜を着けずに青い手ぬぐいで鉢巻をしているだけで、
真っ先に進んでくるのでとても狙いやすい。
この頭を射破ってやろうと思い、間断なく散々に矢を放ったけれども、大坪はものともせずにかかってきた。

これを見て、後ろに控えていた亀井はかなわないと思ったのか、
「武田、引くぞ」と言い捨てて、後ろも振り返らずに逃げていく。
武田もこれを見て仕方なく引き退いたが、大坪は勝ちに乗って鹿野の麓まで追い詰め、
亀井の手の者三人と武田の郎党二人を討ち取った。大坪はようやくこれで私部へと引き揚げていった。

さて、この武田は毛利家の重恩を蒙った者であったが、その恩をすっかり忘れて鹿介に与したのだった。
源三郎の父の高信は先年、諸寄の城を攻めようとして、手勢の三千騎を率いて出発した。
その辺りにはまるで三鈷のように三ヶ所に城があったが、手崎の城から攻めていれば、
残りの二ヶ所の城は攻めずとも落とせたはずだった。

しかし高信は自分の勇を誇って二ヶ所の城を背後に回して、強硬に諸寄の城に攻めかけた。
城中は非常に強く抵抗してきて、高信が少々攻めあぐねていると、
残った二つの城から援兵が駆けつけてきて、高信の背後から切ってかかったので、
高信の後陣はたちまち切り崩されてしまった。

これを見てたちまち軍勢が乱れ立ち、引き退いてしまったので、
高信も仕方なく手勢三百ほどとともに山本へと退却し、岸一つ高い所に上って死に物狂いで戦ったけれども、
味方はすでに多くが討たれ、また逃げ出してしまっていた。
次第に兵数も少なくなり、ついにその場所で討ち死にしたのだった(天正四年五月四日以前のこと)。

そのとき源三郎はまだ幼くて、家之子や郎党たちも中核を担う者が皆打たれてしまったので、
武田家はここで断絶するかに見えた。
ここに元春が南条たちに下知をして、武田を取り立てたので、その家を源三郎が相続することができたのだ。
それなのに、その恩を忘れて鹿介に一味したがゆえに、結局流浪の身となってしまった。


以上、テキトー訳。

中途半端な長さだけれど仕方ない。ここまでだす。
敵勢と偶然行き会って合戦になるなんてこと、あったんだなwww
国人たちにもいろいろあるんだねぇ。当たり前だけど。
しかし大坪さんていうのはどういうポジションなのか全然調べてないや(ダメダメ)。
熊谷パパとも親しげに話してたし、無二の毛利方なのかな。
いろいろと他にやることが多くて丁寧に読んでいけてない。反省。
次からはもうちょっと真面目に調べながら読みたいね。
次も尼子勢と周辺の勢力のお話みたいだよ!
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