FC2ブログ
2012-10-16

親鸞上人および念仏宗来歴

だいたいの流れ:
信長と大坂の顕如上人が敵対し、籠城する一向宗を助けるため、毛利家は大坂に兵糧を入れたよ!
信長の船団もぎったんぎったんにしてやったよ! でもこれで和睦が破れたよ!

てなとこで、今回は宗教的な背景のおさらいみたいな章なのかな。
長いので分割!


親鸞上人の系図のこと、付けたり信長が本願寺を所望すること(上)

そもそも真宗の祖師である親鸞上人の来歴はというと、
忝くも天津児屋根の末裔、長岡右大臣内麻呂公の後胤皇太后宮大夫、日野有範の子息であった。
上人がまだ幼いときに父の有範が早くも世を去ってしまったので、
伯父に養育されていたのだが、伯父に学問の師をつけてもらったところ、
生まれつき聡明だったので、一を聞いて十を知るような具合だった。
五歳にして五経をそらんじたという魯直が、
六歳にしてよく文章を書いた才能にもなお勝るだろうと思われた。

けれども仏や菩薩の化身だったからなのか、孔子・孟子・老子・荘子の学問には熱中せずに、
ただ一時遊ぶにしても、前の庭の花を手折っては仏に供え、
楼上の月影を詠じるときにも、禅那のことを考えていた。
伯父はこの様子を見て、「この子は普通の人間ではない」と考え、
すぐに天台山に入れて慈鎮和尚の弟子にした。
九歳のときに黒々とした紙を剃り落とし、名前を範宴と名乗る。

顕密両宗の教法を学得し、五時八経に熟達し、すべての諸宗の極意を極めた。
けれども円教は上根の機なので、この法では俗世の凡夫が成仏するのは難しい。
どうにかして小根小機の衆生を教化したいものだと考えて、あちこちの霊場に詣でて祈った。
なかでも六角堂の観音菩薩には百日もの間丹精をこめて祈り続けたので、
建仁元年四月五日の夜、観音菩薩が夢の中に現れて、
愚鈍で無知な衆生が行いやすく修めやすい法を告げた。

範宴はありがたさのあまりに感涙にたまりかねて、すぐに黒谷の法然上人の禅室に行って、
夢の中で聞いたお告げの事を話したのだった。
そして法然上人と師弟の契約を結び、天台宗から改宗して浄土宗に帰依した。

大集月蔵経にはこうある。
「末法の時代に多くの衆生が仏心に目覚めて修行をしたけれども、
悟りを開けた者はまだ一人もいなかった。
すべては濁りきった悪い世の中の雑多な学問が、これをなし難くしていた。
ただ浄土宗の一門だけには、仏道に通じる道があった。
自分で行うだけでは限度があることを知るべきである。
他力にすがれば、劣った者でも輪王の庇護を受け、四天に飛遊し、
凡庸な働きであっても千果の功に例えられて、極楽浄土に昇天することも難しくはない」

また日蓮宗の宝鑑にはこうある。
「他門の学道を信じるのは、蟻の子が高い山に登るようなものだ。
浄土往生は、帆に風を受けて滞りなく水上を進むのに似ている」
大阿弥陀経には、「私の涅槃の世界がとりわけ優れていて、十方の国土にも勝り、
説教行道は諸仏の十倍も功徳がある」とも説かれている。
艘舟三昧経には「阿弥陀仏を念じれば、すなわち十方諸仏に会える」ともあり、
大慈善薩讃仏の?には「十方三世の仏のなかでは阿弥陀が第一である」とも記してあるそうだ。

念仏の法門は、ただ一経一教のなかにとどまるだけでなく、
諸宗がいただいている大千恒沙経の巻のうちには、
一つとして念仏の法門の教意を内包していないものはない。
師にそう説かれた範宴は、法華難行の教を棄て、たちまち捷経の法門に帰依したので、
よいことだとありがたがられた。
こうして範宴は法然上人の門下に入って、その名を綽空と名乗ったが、
聖徳太子のお告げがあったので、善信と改めた。

その後土御門院の時代に、山門の大衆が、
専修念仏の教が世間に興隆していることをねたんで、朝廷に訴えを起こした。
承元元年、法然上人は七十五歳にして土佐の国へと流されてしまった。
このとき親鸞上人も越後へと遠流に処された。三十五歳だったという。

その後、土佐院の時代に中納言範光卿を勅使として、早々に帰京するようにとの宣旨があったが、
親鸞上人は近域の愚かな民たちを教化するためにこれを固く辞して帰京しなかった。
そのまま越後の国内で五年もの歳月を送った。
その後、相模の国の足柄山の麓、江津の信楽寺に七年滞在して、盛んに教化を行った。
それからまた常陸の筑波山の麓に移って草庵を構えると、人々に念仏を勧めた。
笠間の稲田卿の房がこれである。
そしてそれから、同国の下妻三月寺・小嶋・鎌倉と、あちらこちらに遊歴して、
下賤の民の教化にいそしむこと、実に二十有五年に及んだ。

こうしてようやく六十歳のときに都に帰ってくると、
上は公卿大夫から下は商売人や農耕に従事する下民に至るまで、
専修専念の教旨をひとかたならず喜んで受け入れた。
龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導が、月支・晨旦全土に教えを広め隆盛したのと同じことである。

また、上人が妻帯したことは、これより先にまだ法然がこんなことになっていなかったときに、
九条太政大臣兼臣公と師弟関係にあり昵懇の中だった。
兼臣公が「利発なお弟子を一人、私に預けていただければ、
婿にとって晋の羅什三蔵の例えになぞらえましょう」と言ったので、
法然上人はすぐに親鸞を選び出して、月輪の大臣のもとに預けた。

親鸞は、建仁元年に六角堂で見た観音の夢の中で、
「行者に宿報があって、たとえ女犯をしても、私が玉女となって身を犯され、
一生の間よくよく面倒を見、臨終のときには引導をして極楽に行けるようにしてやろう」と告げられていた。
これはこのことだろうと考えて大慈大悲の教えのままに、九条の摂政殿の言う旨に従った。

昔の聖徳太子は百官の上に頂点にいて、釈迦の遺した教えを広めたが、
この親鸞はその身を世俗の中に交えて下々の愚かなる衆生を救済した。
彼は観音の生まれ変わりで、これは弥陀の再誕である。
ありがたいと言うことさえも憚られる気がする。

そもそも上人が弥陀の化身だというのは、その根拠がないわけではない。
仁治三年九月二十日の夜、定禅法橋という者が、
親鸞上人はまさに善光寺の如来であると、はっきりと夢に見た。
また建長八年二月九日、蓮位房という者の夢の中で、聖徳太子が親鸞上人に向かい
「敬礼大士阿弥陀仏為妙教流通、来世者五濁悪時悪世界中、決定即得無上覚也」
と唱えるところを見たという。

上人は左遷されると自ら「愚禿」と名乗ったが、僧でもなく俗でもないので、姓を「禿」にしたそうだ。
名前を凡俗に混じたがゆえに僧ではなく、頭を剃り衣を墨に染めているから俗でもない。
その身を塵ばかりの世俗に交わらせているので僧ではなく、心は清らかなところにあるので俗ではない。
そのほか多くの意味があるそうだ。

上人はたとえ体は世俗の女に触れ、鳥や魚をその口で味わったといっても、
どうして西方浄土に往生するのに差し障りがあろうか。その教えもまた捨てるべきものではない。
心が清浄であれば仏土も清浄だという。
また、夜に険しい道を進む人の行く先を火で照らしてくれる人物に悪いところがあるからといって、
その人の照らす場所を選ばないなどという人はいないだろう。
また犬が皮袋の裏の金を棄てるか棄てないかの例えもある。だれがこれを嘆くというのか。


以上、テキトー訳。続く。

あー……なんか歴史の授業で習った宗派の成立とかその辺が
脳裏に蘇ったり……しなかったよorz
そんな都合のいい海馬装備してないよ(´;ω;`)
宗教関係の話は苦手なんだよな。
興味はあるんだけど、読み解く能力がない><

たぶん、今回の個人的なハイライトは、観音様が夢の中で上人に
「あなたが女を抱くことがあったなら、私がその女人になって身を犯されよう」とか言うところだね。
なんかこう、こんなこと言うとバチが当たりそうなんだけど、
すごく官能的なにおいを感じるのは私だけでしょうか!?
聖母たちのララバイならぬ観音様のララバイか。
観音様が「小さな子供の昔に帰って熱い胸に甘えて」とか言ってくれるんか。胸アツ!
でも、観音様に成り代わられてしまう九条殿の姫さんの人権やいかに!?

どうでもいいけど「私の胸でお眠りなさい」ってのは、てれさてんだっけな……?

そんなこって、次回も続きを読む。
スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
09 | 2012/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
訪問者数