FC2ブログ
2012-10-27

義昭ちゃん「来ちゃった♪」

はいのはいのはーい!
ずいぶんお久しぶりのブログだね。
体調崩してたのはマジだけど仕事休むほどでもなく、
深夜帰りの日があったり会社の課題片付けなきゃだったりとにかく眠かったり
かかってきた電話に付き合わされたりで進めない日々が続きまった。
正矩に対する愛が薄れたわけではない。断じて。

ずいぶん間の空いた陰徳記。
こちらも前回からの流れを追うより、場面が変わってるので仕切り直して読んだほうがよさそう。
今回は、信長を頼って京に入れたものの、ないがしろにされて拗ねた将軍義昭ちゃんが、
信長と戦争しようとしてできなかったその後のお話。


将軍義昭卿、鞆へ御下向のこと

大納言義昭卿は思慮なく戦を思い立ったが、それなら都でどうにかすべきだったのに、
うかつに真木の嶋へと移ってしまった。
そのうえはかばかしい一戦を遂げるわけでもなく、信長卿の勢力に臆して、
「私の命を助けてほしい」と赤手を擦った。
真木の嶋まで出ていかなければならなくなり、はかなき浮名を立花の、小島の波に流すことになって、
口惜しさばかりがつのった。

つい先日までは、天下の武門の棟梁だったのだ。
日本六十余州の大名・小名を従えたばかりでなく、頂点に立つ帝から月卿雲客に至るまで、
皆この人の心にかなうようにと、これ以上ないほどにかしずいてきた。
それに引き替え今はというと、数万の軍兵は皆思い思いに散り散りになり、
わずか一式式部太輔藤長・飯河肥後守信堅・武田刑部少輔などの数人が供についているばかりで、
あてもなくさ迷い歩くことになってしまった。痛ましいことである。
あるときは不案内な山道を踏み惑って松の根を枕に旅の夢にうなされながら涙を流し、
またあるときは風や波が吹きつける万里の蒼海に漂い、小さな船に掉さして、
魚に食われて死んでしまうのではないかと肝をつぶした。
「不義にして富み、かつ貴きは浮雲のごとし(不正な手段で手に入れた財産や地位は、
浮雲のように頼りなくはかないこと、論語)」というたとえは、まさに目の前の現実である。

信長のこれまでの忠功を忘れ果て、このように不義・無礼な振る舞いをするのだから、
仏神三宝にも見放される。
なかでも源氏の氏神である八万大菩薩が見放したのも仕方がないと思える。

その後義昭卿は紀伊の宮崎というところに立ち寄って、身分卑しい漁師の小屋に入ったが、
その小屋を見ると、竹で編んだ垣などは傾き、石の橋がそれは侘しげに掛け渡してあって、
辺りの松を寄る辺にしている柱も朽ち、軒も壁も荒れ果てて、
しばらくの間雨宿りするにも不便そうなところだった。
実に「漁師が取ってきた藻に住んでいる虫でさえ、
私がこのような憂き目に会っているのを見ているのか」と思うと、
胸がふさがって涙で袖を濡らすのだった。

それでなくても物思いに沈んで眠れないというのに、
後ろの山の松風が壁の隙間から吹き込んできて肌を刺し、
前の磯に寄せる波の音で夢を見る暇もなく、涙に掻き暮れるばかりだった。
こうなっては、どこに落ち延びたとしても、再び人が集まってくれるようにも思えなかったので、
「いっそここで出家して、今生はたとえ果報が少なくても、
せめて来世は九品蓮台に至りたいと思う」と義昭卿が言うと、
供の人々は皆鼻をぐずぐずとかみながら、あえて諫言しようとする者もなかった。

少しして一式式部太輔が口を開いた。
「これは義昭卿の仰せとも思えませんな。越王匂践は呉王によって捕虜にされましたが、
石淋を嘗めてついには会稽の恥を雪ぎました。
我が国では、源頼朝公は池の尼公に助けられ、北条の蛙が小島にて二十余年の月日を送りましたが、
ついには父の怨敵を滅ぼし、そのうえ征夷大将軍の宣旨を賜りました。
これは皆、命をつないで恥を忍んできたからこそなしえたのです。
たとえ君主が一旦は逆臣によって排斥されようとも、天がきちんとご覧になっているのですから、
その逆臣はそう遠くない未来に八逆の罪から逃げられずに自滅していくでしょう。
どうにかしてここから西国へとお行きになって、しばらくは浮世の成り行きを伺ってみてはいかがでしょう」
義昭卿は強く諌められて、紀伊を出立した。

しかし行く末が不安なので、しばらく滞在していた柴の庵をさえ名残惜しげに振り返り、
波打ち際に歩を進めても、また故郷に残し置いてきた人々のことばかり思い出されて涙がこぼれ、
船にも乗れない。水夫たちが艫綱を解いて舵を取り直すと、
「私は八十島目指して漕ぎ出でたと、心無き釣り船よ、私の故郷の人々に告げておくれ
(本歌:わたの原 八十島かけて漕ぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟、古今和歌集)」と歌に詠む。
痛ましいことだった。

日も長い時期だったので、追い風も手伝って、その日の暮れごろには淡路の島に着いた。
道すがら、名所・旧跡を見て歌を詠むにも、心を痛める種になるばかりである。
「大江殿」と呼ばれた旧跡をはるかに見やると、今は顕如上人のいる本願寺と呼ばれているが、
さすがに仏法繁栄の地として西方十万億土の仏世界を移してきたような霊地である。
しかし今は昔の姿とは打って変わって、たちまち修羅の土地と成り果て、
立ち並べられた軍旗が夕暮れの風に翻るのも、たいそう寒々しく見えるのだった。
「主従の礼儀に背いただけでなく、また仏法の敵になった信長の行く末は、そう長くはあるまい」
と思えたので、義昭卿の心も少しは慰められた。

明石の浦は簡単に泳いで渡れるほどの距離なので、すぐに舟を漕ぎ寄せて宇喜多和泉守直家を頼ったが、
直家はもともと狡賢いところがあって、儀などはまったく夢にも知らない者だったので、
こうして流浪している義昭卿を、すげなく扱った。
義昭卿はそれから八重の潮路に漕ぎ惑い、島伝い・浦伝いに備後の国の鞆の浦に到着した(天正四年二月)。

ここには先祖の尊氏が、都の戦に勝利がなく西国に下ったときに、
小松寺という寺に旅宿していたことがあった。
その吉例を思い出したのか、義昭卿はまずこの寺に入った。
それから上野中務少輔・飯河肥後守を使者として、輝元様ならびに元春・隆景へと、こう言い送ってきた。
「私は逆臣の信長によって、今はこんな左遷の憂き目に会っている。
こんな身の上では天下草創の望みもなく、ただどこかの山里に粗末な庵でも建てて、
後世の菩提を丁寧に弔っていきたいと思うだけだ。
今すでに、この今生から餓鬼道に落とされてしまったのか、のっぴきならない飢えに臨んでいる。
世界がいかに広いとはいえ、この身一つを置くに場所なしという古い詩も、今は我がこと。
どうかお願いだ。私の飢餓を救ってほしい」と、下手に出てくる。

これによって、輝元様は元春・隆景をはじめ、そのほか宍戸・福原・桂といった人々を呼び集めて、
このことをどうしようかと会議をしたが、意見はまとまらなかった。
「卑しくも歴代の将軍家、まさしく先祖代々の主君がこうして真剣に頼ってきているというのに、
すげなく扱うのは忠臣の道ではないし、信長の二の舞になってしまう。
とはいえ、ああして忠功を尽くした信長にさえ恨みがあるといって弓を引いた方を、
頼られたからといって助けるべきかどうか。

義昭卿は天下の武将にふさわしい器ではないけれども、
『たとえ君主が君主としての徳を備えていなくても、臣は臣下としての礼儀を忘れてはいけない(孝経)』
という言葉もある。
義明卿がいかに暗君庸主とはいえ、こうして頼ってきているのに、どうして拒否できようか。
しかしここで義昭卿を受け入れてしまえば、すぐに信長との和睦が敗れて戦争になるだろう。
そうなれば由々しき一大事だ」と、しばらく評定は一決しなかった。

「しかしたとえ信長との和平が破れ一戦に及ぼうとも、まさしく主君が頼ってきているのだから、
信長と固く約束したからといって保護しないなどということができようか。
朋友の約は変わらないかもしれないが、主君の命に背くばかりか、
諸国流浪の身となって追い詰められた鳥のように懐に飛び込んできた人を、
どうして哀れまず、突き放すことができるだろう。
信長の武威に阿って、情けもなく主君を国から追い出したと、末代まで陰口をたたかれると思うと口惜しい。
一代限りのことを考えて、末代までの名を惜しまないとしたら大間違いだ。

それに信長と和睦したとはいっても、これから先もずっとこれが変わらないわけではない。
大坂門跡(本願寺顕如)や紀伊の一揆などを制圧し、また関東の武田・上杉家を屠った後、
信長は欲心不当の悪大将なのだから、この毛利家を滅ぼそうとするだろう。
そのときには信長の武威はさらに強大になっているだろうから、どうやってもかなうまい。
今のうちに和睦を破り、東西の諸将と相談して、一時のうちに攻め滅ぼしてしまうに限る。

ただし侍道を真に理解していない狡賢いだけの者たちは、
毛利三家が愚かさゆえにこんな暗君に担がれたのだと嘲弄することもあるだろう。
でもそれは義も法さえも知らぬ輩が口をつくままに失言しているだけのことだから、
毛利家の傷にはならない。
投石されるような輩が孔孟の道を嘲っていると思って捨て置け。

戦争にも、始めるべきときと始めてはならないときがある。
今は信長と手を切って戦を始めるべきときが来たのだ。
このときを逃せば、なすすべもなく敵の武威が増し、味方の力が衰えるのを待つようなものだ。
どのみちいつかは戦争になるのは必至なのだから、
少しでも信長の武威が大きくならないうちに戦争してしまおう」と決した。
そして鞆に一通り館を建てると、義昭卿をそこに迎え入れた。
これが、信長との和睦が破れ、戦争とななったきっかけだという。


以上、テキトー訳。

落ちぶれるってさ、本当にアレだよね。
そうだよね、ダイレクトに「飢餓」に直面するんだよね、この時代は。
いや現代もうっかりするとそうなるけどさ。
なんかね、漫画でしか見たことないけど、雨の日の捨て犬のイメージに近いよね。

輝(子)「この犬……飼っていいかお?」
景(母)「だめです! 元いたところに戻してらっしゃい!」
春(父)「まぁまぁ」
そしてその犬は「よしあき」と名付けられて大事にされる……
みたいなそんな毛利家はどこに落ちていますかハァハァハァハァ=3

しかし公方様、君主たる器じゃないとか徳がないとか散々な言われようだな。
ここまでボロカスに言われる将軍て他にいたりするのかしら。
追々調べてみようかな。

とりあえず次回は乃美さんちのお話っぽい。
スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
09 | 2012/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
訪問者数