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2012-11-30

城と涙と男と女

年末に向かってあれこれ周囲が雑多な用事に溢れてきております。
寒い日々が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
でもまぁ私、昨日はいい肉拝みに行ってたんだけどね(またプロレス)w

さて陰徳記、上月城を無事毛利が落としたとこまで進んだけど、
今回はその上月城え散っていった神西さんご夫婦の話のようだ。
すっごい長いよ! なので何回に分けることになるやら……


神西の女房のこと(1)

さて今回の上月で、あるいは討たれ、または自害した人々の妻たちは、
墨染めの衣に身を包んで泣く泣く故郷に帰る者もあり、
または高野山や粉川の奥に分け入って柴の庵を作り、しばしの間世を厭う者もいた。
なかでも特に哀れだったのは、神西三郎左衛門(元通)の妻であった。

神西は最期のときに臨もうとしたとき、女房を近くに呼んで、じっくりと暇乞いをした。
女房は泣きながら、夫に向かってこう掻き口説いた。
「私はあなたと初めてお会いしたときから、いろいろなことがありました。
あるいは敵に城を囲まれて鬨の声や矢の叫ぶ音に肝をつぶし、生きながら修羅道の苦しみを身に受け、
または兵糧が尽きて水が乏しくなったとき、飢えの悲しみに心を痛め、
餓鬼道の攻めを受けたこともあります。

けれども夫婦の道を離れてしまうのが何よりも悲しくて、
今まであなたに付き添い、片時も離れませんでした。
あなたを最後まで見届けることができるのは、宿生の縁も浅くなかった証拠なのだと、
嘆くなかにも喜びがあったものです。

だから、今ここで死に遅れてしまえば、これまで戦場の露霜に肌を傷め、
身を苦しめて付き添ってきたことも無駄になり、
来世まで一緒にいようという以前からの誓いも、嘘偽りになってしまいます。
それではあまりに悲しい。
私も同じ道に赴き、死出の山の険しい道、三途の川の早き流れも、
手に手を取って乗り越えて、同じ蓮の台の上に、半分ずつ分け合って座り、
来世も仲睦まじく暮らしたいのです。

伝え聞く遊子・伯陽は、月に誓って夫婦揃って二つの星になりました。
私たちも、妹背の心を変えなければ、来世も偕老同穴の契りを結んで、煩悩則菩提の縁を結べるはずです。
まず私を殺してからご自害なさってください」

女房がこう主張すると、神西は落ちる涙を押さえながら、
「嬉しいことを言ってくれる。
仰せのように、これまで見届けてくれたのは、睦まじい夫婦の仲とは申せ、
普通ならありえないほどのことだ。
敵に本国を追い出されてからは、知らぬ山辺の雨露に袖を濡らして身を痛め、
もの憂き船の旅枕、夢も見れない転寝に心を苦しめて、
この七年の間、私に寄り添ってくれたこと返す返すも忘れがたい。
名残も尽きなく思うから、できれば安養不退の浄土までも連れて行って、
比翼連理の誓いを実現させたいと思う。

しかしこれまでを振り返ってみると、大変な戦争を思い立って、今こうして籠城を遂げる身だというのに、
その最後まで妻女を伴っていたなど、人が噂でもしたら恥ずかしい。
新田左中将義貞は古今無双の名将だったが、勾当の内侍を山門や北国まで連れて行って、
最後までも一緒だったと言われたのは、末代までも武名の傷になった。
私もまた浮名を千年の後まで汚されるだろうことは想像に難くない。
それほどの気持ちがあるのなら、あなたはしばらく命を永らえて、
私の菩提を弔って一返の念仏でも回向し、一本の卒塔婆でも立てて、
私が修羅道へ赴く苦しみを助けてほしい。

会者定離のさだめなのだから、そんなに嘆くものではない。
最後の露や雫のように消え果てて、死に遅れたり先立ったりするのは世の習いだ。
電光石火に過ぎていく世の中なのだから、先立つのは昨日の夢、
遅れるのは今日の現実のようなもので、最終的には同じ道をたどり露と消える人の身なのだ。
しばしの別れなのだから、それほど嘆くようなことではない。
あなたの弟の森脇東市正は、元春に降参して所領もそれなりに与えられている。
彼を頼りにして、命を永らえてほしい」と諫める。

女房はこれを聞いて、「仰せはそのとおりですが、この浮世の有様を見るにつけ、
人の妻たる者は夫との別れを悲しんでみどりの黒髪を削ぎ落とし、衣を鈍色に染めて、
朝な夕なに仏に花を捧げ、黒木の念珠を指で繰りながら仏の御名を唱えています。
その様子は尊いように見えますが、年月が経てば心が浅くなっていくものです。
忘れ草ばかり生い茂り、仏への勤行もおろそかになるばかりか、
剃り落とした黒髪が生え揃わないといって悲しみ、朝な夕なにくしけずり、
顔には紅を絶やさないようになります。

それどころか、誘う水を待つような風情で、引く手あまたにでもなろうものなら、
徒名を流す後家は世に数え切れません。
やがて別の夫に添えば情も湧くものです。
別れた夫のことは露ほども思い出さず、ましてや別れたその日が巡り来ても
念仏の一返さえ唱えることもなくなります。

これは皆浮世の習いなのですから、あなたは今そのように仰いましたが、
御心のなかでは、私もまた世の人と同じようになると思っているのでしょう。恨めしいことです。
私は身がいやしくとも、貞女の道を守ろうという志だけは、
たとえ海が変じて山となったとしても変わりません。
けれども、こんな空しい浮世で長生きすれば、塩焼き海人の夕煙、思わぬ風に誘い引かれて、
証拠のない噂も立つことでしょう。
思うに任せぬ女の身ですから、命長ければ恥多しという古い言葉を
身をもって思い知るようなことにでもなれば、千度百度悔いても後の祭りでしょう。
ただあなたと同じ道に行きたい。

それに、弟の東市正は、敵方に降伏してしまいました。
忠臣は二君に仕えずと、昔から言い伝えられておりますのに、
人の臣たる道を知らない兄弟の振る舞いは、私の恥でもあります。
二度と顔を見たいとも思いません。
こんなことを言っていても意味がありません。とにかくお先に参ります」と、
そばにあった太刀を手に取って、今にも自害しそうになった。

神西は「なんということをするのだ」と袂にすがり、
「今回夫と死に別れるのはあなた一人だけではない。
また昔から、いったいどれだけの人が戦場で討たれてきたか。
けれども、女が自害したという例は聞かないぞ。どうか思いとどまってくれ」と制した。

女房はこれを聞いて、
「夫婦の別れの悲しさは、人の嘆きと自分のことを同じに考えてはいけません。
深く悲しむか嘆きもしないか、それはそれぞれ人によって違うものです。
人が嘆かないからといって、私が悲しまないわけではありません。
春になって、一様にやわらかな光がさしても、柳は緑を深くし、花は紅の色を含むようになります。
それに、昔から夫と死に別れた女が自害したことはないと仰いますが、それも違います。
昔の小宰相の局は通盛が討たれたと聞くと、千尋の水底に身を沈めました。
これはどうなるのですか。
古い例がないわけではないのですから、私も刃を身に触れさせます」と、刀の鞘を外そうとする。

神西は、「どうか落ち着いてくれ。
夫と死に別れて自害すれば、あなたは確かに貞女の道を守った類まれな人だと、
その名を雲まで聞こえるほどに上げるかもしれない。
しかし私は、最期におよんでまで女を連れて行ったと言われ、武名は苔の下に朽ちてしまう。
それは悲しい。

同じ道に行こうと言ってくれるのも、私への思いが深いからこそだ。
けれども私の名を朽ち果てさせたなら、あなたの気持ちはかえって私を傷つけることになる。
それほどの気持ちであるならば、どうか衣を墨に染めて、私の後生をよく弔ってくれ。
それならば、あなたが貞女の道を守りたいという心にもかなうだろう。
それに私亡き後も、武名が朽ちることはない。
どうか私が言うことをよく聞いてほしい」と、涙ながらに掻き口説き、
刀を奪い取って郎党たちを多く差し添えると、
きちんと言い聞かせてから城を追い出し、自身は腹を切ったのだった。


以上、テキトー訳。ツヅクノデス……

女房、強いな……男の方が袂にすがったりすんのかよなにそれときめく。
神西夫婦は、けっこう互いに我が強いというか、
女は女で自分のために自害しようとするし、男は男で自分のために女房の自害を止める。
「あなたのために」とかおためごかしを言わないのは、
少々物足りない気がしつつも、妙に潔いような気がしてくるw

女房が神西について戦場にとどまったのも、神西のためじゃなくて自分のためだもんな。
こういう強欲というか、意志を貫こうとする姿勢はなかなか好感が持てるね。
身の回りにいたらだいぶ厄介だけどwww

神西、泣き落としと実力行使でどうにか女房を止めて、
やるべきことを仕果たしたわけだけど……実はここからが長くて、
先は毎度おなじみ、正矩お得意の仏教話などが延々と続きそうな気配。
女房が絡んでるから、だいたい女人成仏の話だろうなって予想はつくね。
あー、気が滅入る_ノ乙(.ン、)_
でもまぁちょっとずつがんばるんば……
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2012-11-27

市川家内乱

だいたいの流れ:
高倉山に押し寄せた秀吉勢プラスアルファを無事撃退した毛利勢は、
上月城に籠もる尼子勢を降伏させ、勝久らを切腹させた。
また山中鹿介も護送中に討ち止め、ここに、長きにわたる尼子との戦いは幕を下ろした。

さて今回は、防長で留守を守っていた人たちにも、なんだか波乱があったようだよ!


市川少輔七郎、謀反のこと

周防は山口の鴻の峰に在番していた市川刑部少輔経好から早飛脚が遣わされ、
「愚息の少輔七郎元孝は、豊後の大友入道宗麟と一味して反逆を企てましたので、
是非もなく討ち果たしました」との報告があった。

その詳細を尋ね聞いてみると、少輔七郎はつくづくと考えたそうだ。
「父の経好は大内義長が切腹した後、この城に在番して所領を数ヶ所賜り、人よりも富み栄えた。
しかし私はたいした高名もなく、それに歳もまだ壮年には及ばず、人と特別なつながりもない。
これから父の所領を継いでこの地の押さえとしてこの城にいても、栄華を極めることはできないだろう。
父の経好はもう七十歳に及んで、残された時間はそれほど多くない。
父が死んでしまったら、私は兄弟のなかでも末子なのだから、父の跡を丸々相続することはできない。

人々にたいした人だとかしずかれたのも、父一代の間のはかない楽しみだった。
落ちこぼれて人に後ろ指をさされ、
『あれが経好の末子か。頭が賢くて勇が優れていれば、父の跡を継いで、
鴻の峰に在番することになったのだろうが、
父よりひどく劣ってうまれてしまったからこのような有様になったのだ』
などと嘲笑われるのは口惜しい。
こうなったら、大友金吾入道と一味して反逆を企て、防長二国を領して、
上を見たことがない鷲のように振舞ってみたいものだ」と、
ひそかに豊後に使いを送って、このことを言い送った。

大友金吾入道は大いに喜び、
「吉川・小早川は上月表で秀吉と対陣しているそうだな。
いつ勝負がつくともわからない状況だとか。
そのうえ織田信長も国中の兵をかき集め、後詰をしてくるというではないか。
毛利家の滅亡はこのときなのだ。
急いで市川が望むとおり、一味同心して、防長二ヶ国を市川に与えよう」と約束し、人質を取り固めた。

大友は、「まず、鴻の峰の二の曲輪に在番している内藤隆春を討って、
その城に二、三千騎ほど差し籠めれば、防長の通路は遮断できるはずだ。
そうすれば長州下関の城にいる吉見大蔵も、周防の富田の若山に在番している熊谷伊豆守も、
自分の城が落とされないようにと、それだけを心にかけて堅く守り、
おいそれと鴻の峰の城を攻めようとは思わないだろう。
このとき入道が数万の軍兵を率いて赤間が関を押し渡れば、吉見はひとたまりもない。
もし正頼が自分の勇を信じて城を守るとしても、五日以内に攻め落とせる。
そうすれば、長州の敵城は一ヶ所も残らず一斉に降伏するだろう。
熊谷がいかに猛々しいといっても、わずかの兵力では若山でこらえることはできまい。
とくに防長二ヶ国は亡き義長に縁の深い土地だ。
こちらから誘わなくとも、自然と味方についてくれるだろう。
このときに市川に味方することこそ、自分の家の武威が盛んになる瑞相だぞ」と、
少輔七郎に「人質を差し出せば、のぞみのままに防長を宛行おう。
それに人数三千を白松あたりに差し渡そう。これは大友・市川が一味した喜びの印だ」と伝え、
使者にも金銀を数多く与えた。

少輔七郎の使者は急に徳が高くなった気分がして、急い馳せ帰ると、主君にこのことを伝えた。
少輔七郎は大いに喜び、また使者を遣わして、
「御人数を小郡あたりへ差し渡してくだされば私の娘を人質としてそちらへ差し出します。
その夜中のうちに御手勢を皆山口へと引き入れますので、未明に鴻の峰へと切り上がってください。
そのとき少輔七郎は詰の丸から二の曲輪に立て籠もる内藤隆春を攻めましょう。
御手勢だけでも内藤はひとたまりもないでしょうから、ましてや私が後ろから矢を射れば、
あっという間に討ち果たすことができましょう。
鴻の峰が落ちれば、防長は一日か二日の間に手に入りましょう」と言い送る。
大友入道は大いに喜び、吉弘賀兵衛尉・部丹生弾正忠を大将として、
総勢三千余騎を大船数百艘に分乗させて小郡の沖へと送った。

そして山口に使いを出し、少輔七郎元孝にそのことを告げると、
少輔七郎は「これまでの望みが一気に叶った」と喜んで、「娘を小郡へ遣わそう」と、
家人たちを呼び集めて会議を開いた。しかし意見は分かれて、夏の夜も深まってしまった。
少輔七郎は今夜のうちに小郡へ出発させようと強く主張したけれども、
鶏が鳴くころになってようやく城中から送り出した。

少輔七郎はこのことをまだ父の経好に言っていなかったが、豊後勢がもう小郡へ着いたと聞くと、
すぐに村竹・波多野という郎党を呼び寄せて、
「私は思うところあって、大友と一味して毛利家に対し反逆しようと思っている。
それで大友入道殿にこのことを申し入れたところ、もう了承してくださり、
防長二ヶ国を与えてくださると約束してくださった。
このことを父の経好にも申そう。

もし私に賛同してもらえれば、それほどの本望はない。
しかしあの方は毛利家の重恩を蒙っている人だから、私に賛同しないことも考えられる。
でもこれは私のたっての願いなのだから、父が同意してくれない場合は、
しかたがないので討ち果たそう。このことをよくよく心得て、父に話してくれ。
おまえたちが私の所存をしっかりと申し入れ、父が私に一味してくれれば、
二ヶ国を手に入れた暁には、たくさんの所領を宛行ってやろう。
おまえたちや私が栄達するかどうかは、これからの経好の考えにかかっているのだ。
しっかりと説得して、父子の心が一致するように取り計らってくれ」と言った。

村竹・波多野はこれを聞くと、
「仰せのとおり、経好になんとか申し上げ、ご返事を受け取ってまいりましょう。
防長二ヶ国が大友から与えられることになれば、再び大内家のように仰がれることになるでしょうから、
経好もきっと異論はありますまい。お心安くいらしてください」と、立ち出でていった。

二人がすぐに経好にこのことを申し入れると経好は聞くや否や涙をはらはらとこぼした。
「私は元就の御厚恩を蒙ってきた。それは山よりも高く淵よりも深く、
三寸の舌の先で言い表すことができないほどだ。
このことはおまえたちもよく知っているだろう。
まさか二心あるまいと頼りにされてきたのだ。
この城に籠め置かれている元防長の大内家の諸侍たちも、私の庇護を望み、
少しでもおこぼれにありつけるようにと従ってきている。
さながら守護職のようではないか。

私は取るに足りない身で、しかも年老いているし、心も耄碌してきたが、
その芳恩に報謝するために忠志に励んでいる。
いったい何の恨みがあって弓を引き、矢を放つというのだ。
私がこの悪逆を制し止めるのは、父が父であり、子が子であったなら、簡単にできただろう。
しかしこのように、主君の恩も忘れ、父の命にも背いて、五逆八逆の罪を企てる悪人ならば、
どう言って制しても、承知はしないだろう。
承知しないからといって、また私が不義の子に味方することは絶対にない。
もういい。私の首を打って少輔七郎に持って行け。
私が死んでからなら、こんな暴虐非道の振舞いであっても、私が関与することはない。
長生きすると恥ばかりが多いというが、これでよくわかった。
早く死んでいれば、こんな憂き目を見ることもなかったろうに。

昔の人はどういうつもりで
『去りぬ別れのなきもがな 千代もと祈る人の子のため』などと詠み置いたのだろうか。
どういうつもりで、少輔七郎は、七十歳にもなる父に恥をかかせ、命を奪おうなどと考えたのだろうか。
源義朝が父を討ち、長田の主を殺した悪逆よりもさらにひどい。
おまえたち二人がどんなに言っても、私は承知しないぞ。
少輔七郎の企みは正しくない。おまえたちも本当はわかっているのだろう」と、怒ったり嘆いたりした。

使いの者たちは頓首していたが、
「一旦は少輔七郎殿の仰せを申し上げたのですから、このうえは、
どうかいかようにも、しかるべきようにお取り計らいください」と言った。
経好は、「ではおまえたちは少輔七郎を討て」と言う。
二人の者たちは、「とにもかくにも、仰せに従いましょう」と了承した。

経好は、「おまえたちも、義のあることと不義のことの理をわきまえ、私に同意してくれたようで嬉しい。
少輔七郎には、騙してこう言うようにしなさい。
『経好は老いて耄碌してしまい、前後もわからぬ有様なので、何事でも少輔七郎に任せ置くようにと、
今このような謀略を運ぶことを承知しました。
侍は渡り物なのだから、一旦は毛利に従ったとはいえ、また大友に靡くのに何の憚りがあろう。
それに大友から防長を賜れば、子孫は無窮の栄華を誇れるだろうから、この経好の望むところでもある。
早々に大友勢をこの城に引き入れなさい、そう言っていました』とな。
そうすれば少輔七郎は大喜びして、きっと油断するだろう。
そのときに隙をうかがって、二人で討ちなさい」と命じる。
二人の者たちは、「かしこまりました」と立ち帰った。

少輔七郎は二人が帰ってくるのが遅いので、父が何を言ったのかと気を揉んで、
縁側に立ち出でてそわそわと待っていた。
そこに二人が帰ってくると、少輔七郎は「どうだった」と問う。
二人は、「ご本望を達することができます」と答える。
重ねて少輔七郎が「父は何と言ったのだ」と問うので、二人は言い含められたとおり答えた。

そのとき少輔七郎は大きくため息をついて、
「父が同心してくれなければ討つしかない、とは言ったけれども、
実の父に向かってどうして剣を抜けるだろう。
経好は絶対に協力してくれないと思っていたのに、予想外にこう言ってくださったのは、
私の企みが成就する瑞相だ。
私が人質として遣わした娘も、そそろ小郡へ着くだろう。
いざ二の曲輪の隆春を攻めよう」と言うと、
「そこに楯を掻きつけろ」「ここに塀をつけろ」と下知をした。

内藤は経好がこんなことを言ったとは知らずに、
「市川父子が敵となり、豊後勢を引き入れるようだ」と聞くと、
「快く一戦して討ち死にしてやろう」と、兜の緒を引き締めた。

さて豊後勢はというと、夜のうちは少輔七郎の人質を、
今来るかもう来るかと小郡に船をつけて待っていたけれども、待てど暮らせど一向にやってこない。
「これはこちらを騙して討とうとの謀略だろう」と、碇を引き上げ艫綱を解いて、
沖の方に漕ぎ出てしまった。
少輔七郎の郎党たちはこのことを夢にも知らず、夜のうちにどうにかして小郡へ行こうと急いだが、
夏の夜は寝ないうちに明けると言われるのももっともで、
たなびく雲の中から朝日が朗らかに顔を出してしまった。
約束の場所に着いてみると、豊後勢の船影も人影も見えない。
「これはどうしたことだ。合図が何か間違っていたのか」と、ただ呆然とするしかなかった。
けれどもこうしてばかりもいられないので、やがて山口へと帰っていった。

少輔七郎は、父が異議なく反逆に同意したと聞いて大いに喜び、
「ではまず隆春を攻め討とう」と、二の丸に向かって楯を掻きつけ、
攻め支度のために兵たちに下知をしていた。
自身も鎧を取って肩にかけようとしていると、村竹・波多野は
「防長両国の大将にもなろうという人が、まだ合戦も始まらないうちから、いそいそと鎧をつけるなど、
まるで慌てふためいているようです。
大将がそのように逸っておいででは、全軍も浮き足立つものです。
しばらくお控えください」と大いに諫める。
少輔七郎はもっともだと思ったのか、鎧を傍らに置いて戸張して突っ立つと、
二の丸を攻める手はずを兵たちに説明しだした。

村竹は騙しおおせたと思って、抜き打ちに袈裟懸けに丁と切る。
少輔七郎は「やる気か」と言って、縁側から大庭へヒラリと飛び降りたが、
したたかに切りつけられていたので、よろめいてしまった。
そこに波多野が続いて飛び降りると、少輔七郎を切り伏せた。
これを見て、経好の郎党と少輔七郎の手の者たちは、思い思いに切り結んだ。

そのとき経好は大声を上げて、
「少輔七郎はありえない悪逆を企んだからこうして討ち果たしたのだ。
もしおまえたちが、主君を討とうとし、父を殺そうとする五逆大悪の罪人に味方するのであれば、
子々孫々まで処刑する。
また、私の説く道理に従って降伏するのであれば、一命を助けて本領をもと通りに与えよう」と言った。
少輔七郎の郎党たちは、皆一斉に静まり返った。

少輔七郎はくだらない謀反を企てたがゆえに、自身は易々と討たれ、
不義の名を後世まで残したばかりか、一門の名声を落としてしまった。
なんとも口惜しいことである。
その魂は六道四生に迷い、閻魔大王の鉄棒を喫し、飯銭を要求される苦しみから逃げる暇もなく、
草や木精霊となって人民を煩わせたという。


以上、テキトー訳。

うおおおお市川さんちにもこんな波乱があったんかい。
乃美さんちと似た感じの状況だな。
乃美さんとこは、謀反起こそうとした嫡男幽閉→死亡ってことになっとるけど、
経好さんはがっちり殺してるのか。
毎度おなじみウィキペさんで見てみると、謀反を画策したのは経好嫡男の元教、
殺害の命を受けたのは雑賀隆利ら、なのねfmfm……

てか、経好さんてのは、興経を追いやった張本人の吉川経世の嫡男だよな。
前からの働きで、経好は毛利直属みたいになって、
弟の今田経高は吉川家臣として残った、みたいな理解でいいんだろうか……
いまだにここんちの支配体制があんまりよくわかっておりません。
石見吉川も、微妙に毛利直属・吉川預かり、みたいな雰囲気ががが。
ちゃんと勉強しなきゃ駄目ってことよね。ハイ。

しかし、君臣の絆ってのは、さすがに「三世の契り」と言われるだけあるね。
実の子への情すら超越しちゃうんだもんな。
陶隆房の父人しかり、市川経好しかり。
でもまた、こういう子を自らの手で葬ってやるのが父の情なのかもしれないね、などとも思ったり。

さて、次章もスピンオフ的なこぼれ話っぽい気配だす。
のんびり行くことにする。
2012-11-25

ぼくらの鹿介

オフ会報告記事もできあがって一安心(遅いよ)w
さぁ陰徳記!

だいたいの流れ:
織田についた尼子勢は、必ず秀吉の援軍があると見込んで上月城に籠もり、
駆けつけてきた元春・隆景、そして宇喜多らの猛攻をしのいでいた。
果たして秀吉は大軍を引き連れ後詰にやってきたが、一戦で小敗を喫すると、
籠城衆を見捨てて兵を引き上げてしまった。
こうなってはいかんともしがたく、勝久は腹を切った。
鹿介はせめて元春と刺し違えようと、降人に出て対面の機会を待っていたが、
いざ対面しても好機はなく、輝元の命で松山に送られることになってしまった。


山中鹿介最期のこと

山中鹿介は主君の勝久には死に別れ、自身は囚人となって松山へと下った。
心も勇まぬ旅の道、急ぐ旅ではないが、羊ほどの早さもなく、
ようやく備中の国の阿井の渡しに到着した。

天野紀伊守隆重の嫡子、中務元明はかねてより、鹿介を討つように命じられていた。
元明は阿井の渡しに小舟を一艘用意しておき、鹿介の手勢を皆乗せて先へ渡した。
山中は首取後藤と柴橋という者を二人連れて、岩に腰を下ろして扇でヒラヒラと仰いで、
着物の袖を抜いて汗をぬぐったりしていた。

そこに天野の手の者、河村新左衛門尉という大の剛の者が、よい時分だと思って、
岸陰から忍び寄ると袈裟懸けに丁と切る。
さしもの鹿介も、まさか襲われると思っていなかったので、
「あっ」と言って下の川へとひらりと飛び降りた。
河村も続いて飛んだ。

福間彦右衛門は近くをうろつきながら、隙があれば自分も切りかかろうとしていたが、
ここぞとばかりに「やっ」と走り寄り、鹿介の首を打った(天正六年七月十七日、三十四歳と)。
郎党の柴橋は渡辺又左衛門・轉右衛門が二人がかりで討った。
後藤彦九郎も、これを見て散々に戦ったが、ついに討ち死にした。

そして鹿介が首にかけていた大海の茶入れ、腰にさしていた荒身国行の刀も取ると、
輝元様へと献上した。輝元様は刀を受け取って、茶入れを差し返した。
これは河村・福間二人の手柄になったという。

立原源太兵衛尉は芸陽まではるばる下ってきていたが、
「考えてみれば主君の敵だ。おめおめと居続けるのも口惜しい」と思ったのか、
やがて忍び出て逃げ上り、蜂須賀彦右衛門(家政)のもとに身を寄せたという。

隠岐の法城寺周快は手勢三千人ほどを連れて本国へと下っていったものの、
美作の国を通ったときに、一揆勢がその財宝に目をつけたのか、「落人がいるぞ」と大騒ぎした。
熊谷右衛門尉はそのとき、元春様の御台所から上月表へと遣わされている途中で、
近辺に宿をとって休んでいた。
一揆勢が「落人」と叫ぶのを聞くと熊谷はすぐ出合い、追いかけだした。
法城寺はなかなかのつわものだったので、当然のように取って返して散々に戦い、数人切り伏せた。
しかし自分の手の者も、あるいは討たれあるいは逃げ出してしまったので、
あとはたった一人で切り抜けて、高田まで退いていった。

この報告を受けると、香川美作守光景の手勢の三宅源四郎は、
主君の所領の三鴨新左というところに代官としてきていたのだが、すぐに法城寺を追いかける。
法城寺はこれを見て、また取って返して切り結んだ。
しかし度重なる戦いに疲れ果てたのか、ついに三宅によって討たれてしまった。

さて山中鹿介のことをいろいろ尋ね聞いてみると、
もとは池田神次郎という名で尼子家十人の家老のなかでは小身で、座配も末席であった。
そして父とは幼少のころに死に別れ、母に育てられて成人した。
その母は孟軻の母にも劣らぬ賢女だったので、どうにかして鹿介を世に出そうと、
朝に晩に心を砕いていた。
しかし非常に貧しかったので、何をするにも心に任せなかった。

ときどき自宅の庭を耕して麻を植え、その麻をのして溜めていき、
糸にしてしっかりと織り出すと、大して量もないその布を布子というものに仕立て上げて、
茜の裏をつけ、たくさん鹿介に与えた。
鹿介は才のある男なので、尼子家の近習として三百ほどの知行を持った。

他の人は、次男や三男ともなると、皆貧しくて衣類の用意も心に任せぬ者たちばかりだった。
それを、鹿介は「布子をあげよう」とは言わずに、ただ自然に彼らの衣服と自分の服を着替え、
自分が着たものは相手に返して、人が着ていったものはそのままにしておいた。
また、夜には「うちに泊まれ」と言って、一晩に十人や二十人も引き入れて寝させ、
朝夕の食事も用意したので、人々は皆その志に感銘を受け、自然と鹿介の配下についた。
彼らはどこにでも戦いに出かけ、ここでは「山中の手の者の何某」と名乗り、
あちらでは「鹿介の手の者の何某」と名乗ったので、
その名前は敵陣に広く知れ渡り、他の人よりもいっそう畏怖された。

それから次第に出世していくにしたがって、勇も智も人より抜きん出て、
また仁の道もよく行ったので、人々は皆その徳に懐いた。
月山冨田城が落城した後は、勝久を大将として仰いだけれども、
何事も鹿介が計略を立てながら、何年間も中国で武威を振るい、寡兵で大勢の敵を破ってきた。
しかし運が天に届かなかったのか、今はかなくも討たれてしまった。
残念なことである。


以上、テキトー訳。

これまでのしぶとさ(褒め言葉)が嘘のように、
あっさりと討たれてしまった鹿介……(´;ω;`)
こういうのを見ると、「運が尽きる」「天に見放される」てのが、
敗者の言い訳でも何でもないようで、実にしっくりと得心がいく。

こんなことになるなら、厳重に警戒されていた対面の場で、元春に刃を向ければよかったのかもしれない、
そんな後悔が頭をよぎったりしたんだろうか。
それとも、生き延びて本望を達することだけを、最後の最後まで考えていたんだろうか。
ここまで描かれてきた鹿介を見ていると、たぶん後者のような気がする。

鹿介の逸話も、いい話だね。
夫と死に別れ、貧しくとも堅実に息子を育てる母、
出仕しだすと貧しい同輩に食と衣服と寝床を与える鹿介。
身内にいたら大変だけど、神西や秋上伊織にあれほど好かれた理由もわかる。
いい兄貴分だったんだろう。
鹿介を支えてきた源太兵衛尉も、さぞ無念だったろう。

そういえば、鹿介遺品の兜は、吉川史料館が収蔵してるみたいだね。
大事にされてきたんだろうなぁ。
敵同士だけど、長い付き合いだったもんな。
いつかお目にかかりに行きたいねぇ…・・・(*´∇`*)

ところで、どうでもいいけど、法城寺を追いかけてった熊谷さん、
元春の御台所から上月表への使いって、つまり新庄局が夫に送った使者だよな。
「元春の御台所」って表現……ちょっと萌えますた><
2012-11-25

毛利ナイト「ちこなつ」終了! ありがとうございました!

ひゃあぁぁ、もう2週間もたってしまったわけだけれども……
毛利ナイト、平成24年11月11日に、無事開催できました!
盛り上がって終えることができたのは、ひとえに参加者の皆さまのおかげでござんす!
本当にありがとうございましたー♪ヾ(。・ω・。)ノ゙

また、はるばる山口からお越しのA様に裏方労働をさせ、
同日に開催された同人誌即売会参加組のT様に頻繁に相談を持ちかけたり
記念品等のデザインをお願いした鬼畜は私です。
その節は本当にありがとうございました!
A様には最終的な片付けまで手伝っていただき、
T様には記念品提供までしていただいて……ホント……足を向けて寝られません(´;ω;`)アリガタヤ
あとあと、快くお店を提供してくださったママとトーチャンにも大感謝!

開催報告と申しますか、とりあえずお出ししたカクテルのレシピ、
余興に使用した毛利ちこなつ検定などをお披露目しておこうか、という所存。
写真を撮るのをすっかり失念していたので、
参加者の方はうっすらとした記憶をたどり、参加されていない方は想像で補ってください(・`ω´・)


●カクテルレシピ

【元就】
①広島名産「保命酒」45ml、生姜リキュール45mlを湯飲みに注ぐ
②湯飲みを好みの量の湯で満たしてかき混ぜる
※下戸で酒を控えたという元就にちなんで、薬酒と体を温める生姜酒を使ったホットカクテル

【隆元】
①抹茶リキュール(開催店常連さんご提供のHERMES使用)30ml、
 牛乳(当日は鳥取名産白バラ牛乳使用)150ml、ブランデー数滴をステアし
 カクテルグラスに注ぐ
②ゆるく泡立てたモナン桜シロップ入りの生クリームをフロート
③軽く塩抜きした桜花の塩漬けを1輪浮かべる
※桜の花に喩えられる隆元、ほんのり苦く、花の香りと甘さの際立つ一杯
 当日は「隆元の白いトロトロ」と大好評でござんしたw


【輝元】
①ジュースグラスにたっぷりの氷
②クレーム・ド・ペシェ(桃リキュール)30ml、カンパリ30ml、
 萩みかんジュース適量を注いでステアする
※ほのかな苦味と桃の香り、みかんのさっぱりした味わいで、味の面ではピカイチ!
 輝元が秀吉に贈って石田三成に突っ返された大きな桃の逸話、萩名物の柑橘類から着想


【元春】
①ロックグラスに氷と梅酒漬けの梅の実
②梅酒(当日はチョーヤ梅酒ブラック使用)45ml、ジンジャーエール適量を注いでステア
※梅の花に喩えられる元春、梅の香りと、凛としていながら力強い味わい
 残念ながら当日はジンジャーエールが入手できず、サイダーで代用となりました(´;ω;`)


【隆景】
①フルートグラスにモナンローズシロップ25mlを注ぐ
②辛口のスパークリングワイン(白、当日は三次スパークリングシャルドネを使用)で満たす
③食用バラの花びらを浮かべる
※景さまだから、思い切り優雅に! 耽美に! そして福山の名物、バラから着想
 辛口のスパークリングワインなら、後味もスッキリで甘ったるくなりすぎない!


【三矢の訓】
①フルートグラスに獺祭にごりスパークリング(山口は岩国の銘酒)を半量
②三ツ矢サイダーを半量注いでステア
③カットしたライムを飾る
※軽やかでしっとりした味わいの獺祭はカクテルにするのがもったいないほど
 しかしそれをあえて三ツ矢サイダー(ここ重要)で割るのです(・`ω´・)
 白く濁った色合いは、三兄弟が過ごした吉田郡山の雪化粧をイメージ


【水魚の交】
①トールグラスに氷(魚型アイスキューブならなお可)
②ヒプノティック45ml、トニックウォーター適量を注いでステア
③カットライムを飾る
※魚が水に交わるように、仲のよい友人との交友を「水魚の交わり」といいます
 吉川好きの皆さんならすぐに思い浮かぶあの二人!
 ほろ苦くて、すっきり甘くて、まどろみのなかで思い浮かべる懐かしいあの人をイメージして


【隆】
①ティーカップにたっぷりの紅茶(当日は出雲産茶葉使用)
②ミルクポットに入れたブランデー、ローズシロップをお好きなだけ混ぜて
※大内というか義隆さまをイメージした一杯
 外国との交易が盛んで、洗練された文化を保有していたところから着想


【弓張月】
①トールグラスにカンパリ25ml
②黒ビール(キリン一番搾りスタウト)、ジンジャーエールを半量ずつ
③カットレモンを飾る
※尼子の山中鹿介をイメージした一杯
 黒ビールの夜空に浮かぶ、レモンの三日月……七難八苦の苦さですw
 ビールがキリンなのは……言わなくてもわかるはず♪



●毛利ちこなつ検定
※この検定は、意地悪問題を出して、点数の高い方から順に、デザートのケーキの
 好きな部位を選んでいただこうという企画です
 ちなみにケーキはこんな感じ↓↓↓↓↓

20121111_cake.jpg

 これじゃちょっとわかりづらいので、もとになった画像はこんな感じ↓↓↓↓↓

ケーキ案縮小

 いや~、すごいですねぇ。今はケーキにもプリントできる時代なんですねぇ……
 ちなみにケーキは都内の写真ケーキ屋さん、「ハナビシ」さんに作成していただきました!

 そんなわけで以下、毛利ちこなつ検定の問題文を晒しアゲ!


毛利ちこなつ検定(平成二十四年十一月十一日)

 ●該当する記号に○印をつけてください。(配点5)

 一、毛利氏の本姓は次のうちどれか。
     A 大江  B 藤原  C 源  D 多々良

 一、毛利系の軍記ではないものはどれか。
     A 老翁物語 B 陰徳太平記 C 故郷物語 D 吉田物語

 一、元就の初陣となった有田中井手の戦いは、「西国の……」何と呼ばれているか。
     A 川中島 B 一ノ谷 C 三方ヶ原 D 桶狭間

 一、元就が輝元の飲酒を咎めたとき、許容できる量としたのはどの程度か。
     A 大きな椀で7~8杯
     B 中くらいの椀で3杯
     C 小さな椀で1~2杯
     D 小さな盃で1杯まで

 一、元就が出雲月山冨田城の尼子義久を攻めていた際、病にかかった元就を診察し
   『雲陣夜話』を著した名医は誰か。
     A 田代三喜斎 B 今大路玄朔 C 策彦周良 D 曲直瀬道三

 一、隆元の参禅の師であり、よき相談相手ともなった人物は誰か。
     A 周伯恵雍 B 竺雲恵心 C 江月宗玩 D 雪舟等楊

 一、隆元が頓死する前日に饗応した和智誠春は、後にどこで粛清されたか。
     A 大歩危小歩危  B 杵築神社 C 厳島神社 D 船山城

 一、元春が陣中で書写した書物はどれか。
     A 源氏物語 B 日本霊異紀 C 平家物語 D 太平記

 一、「吉川の橋落とし」と呼ばれる、秀吉が大いに元春を恐れたとされる場面はどれか。
     A 上月城の攻防 B 備中高松城の戦い C 立花城の戦い D 馬野山陣

 一、隆景が輝元らに教え残したとされている「面白の儒学や云々」という替え歌のもととなった流行歌は何か。
     A 隆達節 B 須太良節 C 寸床節 D 越天楽今様

 一、隆景が建立したものではないのはどれか。
     A 米山寺念仏堂 B 黄梅院庫裏 C 匡真寺 D 筥崎宮楼門

 一、隆元夫人は、元就のことを書中で何と呼んでいたか。
     A ちいさま B おやかたさま C 小侍従 D おかもじさま


 ●解答欄に記号を記入してください。(配点10)

 一、元就の庶子を生まれた順に並べよ。
     A 末次元康 B 小早川秀包 C 天野元政 D 穂井田元清

 一、次の国名を西から順に並べよ。
     A 長門 B 出雲 C 石見 D 伯耆

 一、次の出来事を、古い順に並べよ。
     A 元就の妻、妙玖が没する
     B 隆元に嫡子輝元が生まれる
     C 元春が熊谷信直の娘を娶る
     D 隆景が竹原小早川氏に養子入りする

 一、次の隆元の書状の空欄を埋めよ。
   「何事もたか元を別にのけられ候て、両人計(1)と候事
    …(中略)…さやうに候時は、何と此方より(2)と(3)候ても(4)候事」
     A なつなつ B 仕度 C 不成 D ちこちこ

以上(毛利ナイト「ちこなつ」実行委員会編)


…………てなわけで!
この他にも、皆さまの自主的な資料交換があったり、
濃厚な毛利家のあんな話、こんな話ですっかり盛り上がりました!
同席していたお店のマスターは、「何話してるのかまったくわかんなかった」とのことw

いろいろ準備不足や不手際があったものの、頓着せずに盛り上げてくださった皆さま、
またご協力くださった皆さま、本当にありがとうございました。
また機会があったらやりたいという声も聞こえ、たいへん嬉しく思います!
本当に、次の機会がありましたら、またよろしくお願いいたします♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
2012-11-24

勝久の尋常なる最期

だいたいの流れ:
織田の中国攻めの先鋒として、秀吉の傘下に加わった尼子勢。
宇喜多と争っていた上月城を奪取すると、毛利家に攻められるのは目に見えていたものの、
秀吉の援軍を頼りに、上月には尼子勢が籠もることになった。
果たして上月を中国勢が取り囲み、秀吉は大軍をともなって後詰に駆けつけたが、
六月二十日の一戦で利を失うや、織田方の後詰は尼子を捨てて兵を引き上げてしまった。


上月城没落のこと

さて尼子孫四郎勝久、そのほか上月に立て籠もっている兵たちは、
杖とも柱とも頼みに思っていた羽柴筑前守・荒木摂津守などの後詰の人々が、
たった一戦で利を失ったばかりか、あっという間に敗北してしまったので、
網に捕らわれた魚のように、何もすることができずにただ嘆息しているばかりだった。

山中鹿介は使者を遣わして、元春・隆景へと、
「今回上月へ入ったのは、勝久・源太兵衛、そして私が望んだことではまったくない。
ひとえに神西三郎左衛門のせいである。だから神西一人を切腹させるので勝久たちの一命を助けてほしい」
と、しきりに申し入れてきた。
両将からは、「鹿介が言いたいことはよくわかった。
神西一人を切腹させて、他の人々の命を助けてほしいというのはよくわかるが、
羽柴・荒木・筒井といった諸将が後詰に駆けつけてきて対陣することになったのは、
五畿七道に隠れのないことだ。
だから、大将の勝久が切腹しないことには、都や田舎、遠国までの聞こえも悪いと思う。
勝久・氏久・神西・加藤の四人が切腹すれば、山中・立原といった人々の一命は助けることにしよう」
と返事をした。

鹿介は再三に及んで「勝久には罪がない」と断ったが、両将は絶対に納得しなかった。
「勝久が切腹しなければ、上月に籠もっている軍勢をことごとく攻め殺す」と主張したので、
こうなったらしかたがないということで、鹿介は勝久に向かい、涙を流しながら告げた。
「これまであなた様のお命が助かるようにと再三申してきましたが、元春・隆景がまったく承知しません。
これ以上どうしようもなく、ご運の極みだと思ってください。
どうかこれからご自害を遂げてください。

私も冥途のお供を務めたいと思いますが、ここは相手を騙して敵方に降るつもりです。
敵の中でも当家に対して何度も非道なことをしてきたのは元春です。
降参していけば元春から盃を与えられるはずですので、そのときに隙をうかがって走りかかり、
元春と刺し違えて、尼子家の鬱憤を晴らして見せましょう。
私にこのような思惑があって敵方に降るとご存知なければ、
私がただ甲斐のない命を惜しみ、不義の降伏をしたと思われるでしょう。
それではあまりに口惜しい。
けれども、すぐに死出の旅路のはじめ、三途の川で追いついて見せます。
そのときこそ、私が今申したことの首尾を明らかにいたします。
今はこうなってしまったので、どうか一筋に思い切ってください」

勝久は、「私は墨染めの衣を身に纏い、道なき道を行脚する生涯を送るところだった。
しかしあなたのご芳恩によって、こうして尼子家の大将の名乗りを上げ、
数万の軍兵の命を司ることになった。
今こうして自害するのは弓矢を取る身のさだめなのだから、露ほども恨みには思わない。
きっと過去の宿報がよくなかったのだろう。
私が自害して諸軍士の命が助かるのならば、これは実に将たる者が死ぬにはふさわしい道だ。

あなたが元春と刺し違えて尼子家の重恩を報じようと思ってくれるのは、
まことにもって、忠といい勇といい義といい、実に浅からぬことだ。
しかし元春も智謀が世に超えた将なのだから、
たやすく刺し違えられるほど用心を緩めることはあるまい。
めったなことをしでかして、敵に嘲笑われないようにしてほしい。
どうか命を全うして、毛利家へ仕えながら時節をうかがってくれ。
諸国に尼子の流れ者が身を潜め跡をくらましているかもしれない。
それを探し出して大将に仰ぎ、再び当家を興隆させてくれ」と答える。

その後勝久は、ともに従ってきた兵たちを呼び集めた。
「皆の者、よくぞこれまで霜雪に身を痛めながら粉骨砕身し、あちこちで忠戦を貫いてくれた。
今もこうして籠城を遂げてくれているのも、重ね重ねありがたい志だと思う。
私が一度でも本望を遂げられれば皆にもこれまでの忠志に報いることができたのだが、
弓は折れ矢は尽きて、もうこのような身になってしまってはしかたがない。
けれども皆が尼子家へ忠志を尽くしてくれたことは、天の鏡は曇っていないのだから、
ゆくゆくは皆、天の加護を得てで富み栄えるだろう」

勝久はこれまでの忠の浅深を整理して、今まで身に着けていた太刀、刀、
そのほか金銀珠玉のたぐいをすべて取り出すと、
「これは勝久がいなくなった後の形見にでもしてくれ」と、それぞれに分かち与えた。
さすがは尼子家の武将として仰がれた人の振る舞いだと、皆袂を涙で濡らした。

さて同(天正六年)七月二日、神西三郎左衛門尉が城の尾崎へ出て自害すると発表したので、
諸軍勢が群れ集まって見物した。
神西はやがて城中を出ると、雪のような袖を押し脱いで、太刀を抜きながら非情に美しい声を上げ、
鐘馗の曲を舞いながら、よく通る声で謡った。
「哀れなりける人界を、いつかは離れ果つべき」というところを、
「今こそ離れ果てけれ」と、少し謡い替えた。その声の下から腹を十字に掻き切って倒れ伏す。
なんと立派な自害だろうと、見ていた人々はドッと歓声を上げた。

同三日、勝久が諸卒に盃を与え、そして客殿の真ん中に畳を重ねて座った。
従子の助四郎氏久、加藤彦四郎たちも次々に並んでいた。
勝久は左右を見て、最後の盃をまず鹿介に与えようと、タプタプと注いで三度傾ける。
助四郎氏久の前におくと、太刀をスラリと引き抜いて、
「皆聞いてくれ。私はもともと東福寺にいて、仏法や商いの道ならば、あらかたその奥義に到達している。
最期の一句を挙(こ)そう」と剣を捧げ持つと、
「宝剣手に在り殺活の時に臨む、これはこれ殺活自在の底、如何これ勝久末期の一句、
よく久しくして自ら言う、すべて来たり劃段す千差の道、南北東西本郷に達す」
と言うや否や、腹を十文字に掻き破り、「早く首を打て」と言った。
池田甚三郎が抜いた太刀を振り上げたと見るや、勝久の首が前へと落ちた。

助四郎氏久は「さすがは大将のご自害でございます」と、続いて腹を切る。実に潔く見えた。
加藤彦四郎は庭に躍り出ると、立派に自害して倒れ伏した。
池田も勝久の死骸の前にかしこまると、「しばらくお待ちください、お供いたします」と、
同じく腹を掻き切って床に伏した。
山中鹿介は、涙を流しながらこれらの人々の首を集めると敵陣に送ると、
自身は見苦しいものを片付けて、城の掃除をしっかりとした。
立原源太兵衛尉は病気だったので、この日の暮れにひっそりと下城した。

翌日の四日、城から出てきた人々は、まず一番に日野の屋形五郎である。
そのころ十六、七歳ほどだったが、紅の帷子に金の日の丸を刺繍したものを着て、白い綾で鉢巻をしていた。
連れている兵百人は皆鎧兜をつけ、鑓・長刀の鞘をはずして、鉄砲には切り火縄をかけ、
弓には矢をつがえて、堅固に用心して出てきた。
そのほか法城寺など、一勢ずつ出てきたが、いずれも兜の緒を締め兵具の鞘をはずし、
敵がもし騙して討とうとしてきた場合の用心を厳しくして、四方に目を配っていた。
敵がもし「あっ」とでも言えば、すぐに切りかかって死のうという気概が外に顕れていた。

山中鹿介は諸軍勢がすべて城から出ると、それから手勢を六十ほど前後に立て、
鎧もつけず弓を袋にしまい太刀をさやに納め、鉄砲の火縄には火もつけずに、
何の用心もしていない様子で出てきた。
すっかり油断した体で、鹿介は膝より少し長い越後の帷子を着て、半足(あしなか)を履き、
荒身国行の刀をのしつきのまま横にさし、なんでもない様子で出てくる。
すぐに城の山下の他の中に柵が結い回され、仮屋を作ってそこに鹿介が入れ置かれた。
警固の武士も数多く置かれ、隙間なく守護された。

山中鹿助という名高い武士を見ようと、多くの人が集まってきて見物した。
その中で、岡宗左衛門という者が鹿介を見物にきていた。
岡があんまり睨むので、鹿介は憎らしいと思ったのか、
「そこにいるのは岡宗左衛門か。敵方にいたときにあちこちで岡という名を聞いたときは、
きっといかめしい男だろうと思っていたのに、
今その姿を見てみれば、聞いていたよりずっと痩せ男ではないか。
名を聞くのと面を見るのでは、違うものだな」と言う。

岡はカラカラと笑って、「私は勢が少なく力が弱くても、心にある勇は大の男にも劣らないぞ。
あなたこそ、山中鹿助という名だけを聞いていたときには、
智も勇も人より傑出しているのだろうと思っていたのに、
甲斐なき命を延ばすために、譜代相伝の主の命を失わせ、
自分は恥も捨てて頭を下げ、よく降伏してきたものだ。
よくよく命が惜しかったらしい。聞いていたより雲泥の差がある。
勇もなく、義もなく、忠もない大の臆病者だ。
男ぶりはあなたの方がいいが、心栄えはこの岡の十分の一にも及ばない。
人の価値は男ぶりの良し悪しではない。心の勇を忠こそ肝要だろう」と言った。

鹿介はこれを聞いて、「この小男はずいぶんと舌が柔らかい。
これほど利口だからこそ、小男のくせに人々にその名を知られたのだな。
さっきの口ききの小賢しさで、人々に『岡』と呼ばれるわけがよくわかった」と返した。
それからは互いに近寄って話などしたという。

その後鹿介は、警固に当たっていた吉川衆の大草因幡守という大男に対して、
「あなたは大きくて力量も優れていそうだが、私はそんな人が何百人いようとも、
打ち破って退こうと思えばいつでもできる」と言った。
因幡守は、「鹿介というのは、兵の千人も率いていたときは恐ろしくもあったが、
今はこのような身になってしまわれた。
一対一の勝負とあって、あなたほどの男ならば、数十人でも小脇に挟んで息もできなくしてやるぞ」と返す。

鹿介はその後後藤何某に向かい「芸陽の武士を少しからかってみようと思ったのに、
皆口が小ざかしくて、かえって私が言い負かされてしまった。
無意味なことを言い出したものよ。運が尽きると心まで落ちるものだ」と言ったそうだ。

その後鹿介は元春父子に対面するために出て行ったが、予想とは違って、
なかなか刺し違える機会はなかった。
まず元春・元長は一間隔てて座していて、その次に宮庄二郎三郎・今田中務など、
家之子郎党が数十人も居並んでいた。
そして盃を与えられるときには、媒酌人は二宮杢助、肴は二宮右京亮などが太刀をたずさえ、
鹿介が少しでも目の色を変えたなら取り押さえようという顔つきである。
そのほか奏者の者たちも厳しく用心を固めていたので、さしもの鹿助も、ただ頓首しているしかなかった。

それから隆景に会って、やがてもとの宿に帰ってきたが、
輝元様から「鹿助を守護して松山まで連れてくるように」と、
粟屋彦右衛門・山県三郎兵衛尉、そのほか五百余騎が遣わされてきた。
鹿介は二人の使者に伴われ、自身は信長から与えられた四十里鹿毛という名馬に乗って、
総勢六十余ばかりで、備中の国の松山へと下っていった(七月十日発)。


以上、テキトー訳。

どこまでもどこまでもどこまでも元春に食らい付こうとする鹿介、
宿報と悟って自分のさだめを受け入れ、遺していく家臣たちに仁愛を注ぐ勝久……
尼子さんち、陰徳記を読むごとに、どんどん好きになっていったよ。
こうして会えなくなるのはすごく寂しい。
神西、勝久の切腹もすばらしいね。
首を送って掃除までして出て行った鹿介も。
滅びの美しさってのは、海外ではあまり理解されないそうだけど、確実にあると思う。

鹿介と中国勢のどーしようもないやり取りで、少し回復したw
何やってんすか、もう。
こういう話が残ってるってことは、長く敵対してた中国勢の人たちでさえも、
「俺、あの鹿介とこんな話したんだぜ~」ってのが自慢話だったんだろうね。
鹿介は長い時を経てかなり偶像ちっくな人物造形がされてきたけれども、
こういう話を見るにつけ、確実に当時の一種のヒーローであったのは間違いないんじゃないかと思った。

あと、個人的に好きなのは、鹿介と元春の対面シーン。
吉川の家之子郎党が揃いも揃って、「主君に指一本触れさせるものか」って感じに
ピリピリしてんのがGood!
殿様大好きな吉川衆かわいいよ吉川衆(*´∇`*)

そんでもって次章、いよいよ鹿介が……(ノд・。) うぅ、やだよぅ><
2012-11-23

秀吉の決断

だいたいの流れ:
織田方の尼子勢が上月城に籠もり、宇喜多直家の要請を受けた毛利勢がそれを攻め、
城方の援軍として秀吉が高倉山に陣を張っていた。
秀吉のもとには信長から数万の援兵が送られて、しばらく両軍はにらみ合っていたが、
ついにやや大規模な合戦が起こる。
元長が采配を振るい、上方勢を辟易させたのが、天正六年六月二十日。

さて、どう出る、秀吉?


羽柴秀吉、上月表を引き退きたまうこと

さて織田信長卿は、上月の後詰のために諸軍勢を先に立たせ、自身も京都を打ち立とうとしていた。
そこに、羽柴秀吉が「中国勢は陣取りも堅固で兵糧も多く、
何十年在陣しても屈してきそうにありません。
とりあえず今回は後詰の出兵を延期され、また後日ご出張ください」と申し入れた。

秀吉は、「信長卿が尼子を捨てて出陣しないのは、これからの武名の傷になってしまう。
こうして秀吉が中国勢の戦の様子を見ていると、聞いていたよりさらに緊迫しているようだ。
大将は文武の大機大用を兼ね備え、
士卒は進んで死ぬことを誇りと思って退いて生きることを恥だと考える勇士猛卒のようだ。
だから味方は戦のたびに利を失ったのだろう。
このままでは、いつかは高倉山の陣も危なくなる」と思った。

そして惟任・荒木・筒井などといった諸将を呼び寄せ、合戦についての話し合いを行った。
そこで宮部善乗坊が進み出ると、
「敵陣の様子をうかがい聞くに、兵糧が十分にあって陣の構えも厳しく、兵もまた多いようです。
これまで何度も足軽をけしかけ、敵を誘い出して一合戦して強弱を確かめ、
賢愚を判断しようとしましたが、かえって敵に欺かれてきました。

呉子にはこうあります。『武候は問いかけた。
敵味方の軍が対峙しているが、大将を知らない。
私は相手の大将の力を見てみたい。それにはどうしたらいいか。
起は答えて言った。身分が低く勇のある者を将として、少数で敵に合戦を仕掛けます。
もし逃げたとしても罰することなく、そのときの敵の様子を見極めます。
きちんと兵を統率して、逃げる敵を追わず利を目の前にしても知らぬふりをしていたら、それは智将です。
このような敵とは戦わないほうがよい』と。

今回、元春父子と隆景の行状を聞くにつけ、彼らは五材を兼ね備え、
下の者たちを愛し仁政を施しているので、上下の息が合っていて、
皆父子や君臣のように絆が固いのです。何度戦っても、我が方に利はありますまい。
もうこの陣を引き払い、また後日信長卿がお出になって、
敵の根を絶ち葉を枯らせばよろしいでしょう」と言った。

秀吉はこれを聞いて、「尼子を救うために長陣を張れば、
最終的に城を落とされるばかりか、この陣もまた危うくなる。
だからといってこの陣を引き払うのは、頼みに思って立て籠もっている尼子を捨てるようなものだ。
そうなれば、私は千年の先まで義将の名に傷を負うだろう。
この二つのうち、何を是として、何を非とするべきか。
進退窮まった。ともかく皆の意見に従おう」と言った。

惟任・筒井たちは、「宮部善乗坊の言うことがもっともでしょう。
また秀吉が尼子を見捨てるのは口惜しいと仰るのも、実にそのとおりだと思います。
けれども、正面衝突を避けて虚を突くのは、良将の策謀というものです。
今は両川が数万の精鋭を率いて陣を固めています。
味方は大勢いるといっても、陣を張っている場所はあまり堅固ではなく、兵もまた一心同体とは程遠い。

こんなところに長く陣を張れば、味方が敗北するのは目に見えているでしょう。
大きな流れの中では、小さな傷など気にしないほうがよろしい。
尼子を見捨てるのに、それほど問題はありません。
どうか、まずは敵との正面衝突を避けてください。
後日再度大軍を催して、会稽の恥を雪げばいいでしょう」と、皆一同に言った。
秀吉もこの意見に同意し、同二十九日の早朝に上月表を引き払い、書写山まで引き上げていった。

このとき織田信忠・信雄・信孝兄弟三人は、播磨の嘉子川にいたが、
このまま兵を引くのも外聞が悪いと思ったのか、神吉の城へ攻め寄せた。
そのまま乗り崩そうと、ひたひたと塀を乗り越えようとしていたところ、
古つわものの神吉民部が散々に射立ててきたので、
寄せ手は怪我人や死人が二、三百人にも及んだため、一度にさっと引いた。

信忠様は、「この城を力攻めにしても、味方が多く討たれるばかりでよくない。遠攻めにしろ」と命じて、
攻め口を和らげて仕寄をつけ、勢を籠め上げて攻めだした。
城中は屈することなく防戦したが、八万余騎の敵に対し、味方はわずか千人が籠もっているだけで、
それほど長くは堪えられなかった。
ついに二、三の丸を攻め破られてしまうと、城主の民部太輔は仕方なく降参を申し入れた。

上方勢は「無理もない」と了承したが、民部を騙して城中から呼び出し、
討ち果たしてしまった。ひどい話である。
帰る者は招き、服する者は活かし、降伏した者はこれを許すのが当然である。
それなのに、このように振舞う信忠兄弟は、自身の心の醜さを露呈させてしまった。

信長は生まれつき智勇が世に超えていたとはいっても、仁義礼信の四つが欠落している。
とりわけ武の学がないので、賞罰は明確な基準がなく、政道も邪なものばかりであった。
だから、一旦は自身の勇をかさに天下を掌中に収めたものの、
ついには天下を保つことができずに終わった。
趙高・禄山・王莽の、たった一時の栄華と同じだと思わない者はいなかった。


以上テキトー訳。

あわわわわ。後味の悪い話だよ><
あの最高の合戦から一転、これかよ。信忠ェ……
「苦しからず」と切り捨てられる尼子……つれえな(´;ω;`)
鹿介は、絶対に秀吉が見捨てることはないと踏んで、上月城に籠もったのにな。
こういうのが、「運が尽きた」って感じなんだろうか。

そして次章、ついに上月城が(´;ω;`)ウウッ
2012-11-22

能き将、好き兵、佳き合戦

これまでのあらすじ:
天正六年六月二十日、上月城を攻める毛利勢と、城方の援軍に来た秀吉の勢との間に、
それまでにないやや大掛かりな合戦が勃発。
やる気みなぎる吉川勢。隆景は危うい戦を慎む良将なので動きません(キリッ
元長も杉原盛重らの協力もあって、即座に駆けつけ、采配を振るう。
中国勢は、秀吉の本陣の麓まで、上方勢を追い詰めたぞ!


上月合戦のこと(下)

さて、中国勢が鑓衾をつくって待ちかけていると、敵も馬を入れようと躍起になったが、
中国勢の備えは堅固だったので、敵もかかってくることができない。
そのなかでも大谷刑部少輔はたった一騎で中国勢の間近まで馬を進め、
中国勢の備えをうかがって、隙間さえあれば味方を進軍させて乗り入れようと、馬を走らせた。
この様子は、なんとも大の剛の者に見えたという。

中村式部少輔は、五本はごの鉄砲ばしょうで数百挺をそろえて散々に撃ち掛け、
敵が少しでも色めき立てば、その隙に乗じて虚を突こうと思い入れ、
その気概は見ただけでも溢れ出さんばかりだった。
秀吉の配下は数多くいるが、そのなかでも神子田・中村は何度も武名の誉れありと、
世を挙げて人々が賞賛しているのも、実に道理だと思える。

中国勢は、「ここまで逃げる兵を追って深入りしてしまったのだから、とにかく一戦したいものだ。
勝ったとしても負けたとしても、ここで退却するのはどうかと思う。
後ろの山に誰か一人を上げさせて備えたい。
けれども熊谷伊豆守信直は、今は周防の富田の若山にいる。
杉原盛重はここにいるが、はたしていったい誰が、自分の武名を上げる好機を目の前にしてそれを捨て、
味方の合戦の勝利を確実たらしめるための策謀を運ぶのだろうか」と考えていた。

そこに、誰かはわからないが、武者が三百人ほどで後ろの山へと上がった。
誰だろうと見てみると、真っ先に進んだ武者は、なげ首だった。
「これは天野紀伊守隆重だろう」と思って見守ったが、そのとおり、
天野がその山に登って備え、味方の背後を固めた。

今回が初めての京都・芸陽の合戦なのだから、
誰もが皆我もわれもと勇を顕し分捕り高名を極めたいと考えている。
それなのに隆重は自分の小勇には目もくれず、味方全軍の必勝の策を胸に、後ろの山に控えたのだ。
隆重は実に仁義ある勇士である。
「今までも花も実もある文句なしの侍大将だと聞き及んでいたが、
今の振る舞いで、花には香りを添え、実は味を増したようだ」と、人々は皆感心した。

穂田治部太輔元清も、杉原たちより右のほうへ打ち出てきていた。
敵は高倉山の草むらの中に隠れていて、鉄砲をしきりに撃ちかけてきたが、
その後は山の麓まで降りてきて、散々に射撃してくる。
元清は鑓を五十本ほど揃えて、ドッと叫んでかかっていった。
敵はたまらず、蜘蛛の子を散らすようにさっと散って、また草むらの中へと逃げ入っていく。

児玉小次郎は輝元様から「上月表の陣中の様子が心配だ」と差し遣わされていて、
轉与三右衛門を物頭として鉄砲三十挺を添えられていた。
児玉も高倉山近くに打ち出てきたところ、敵も堤を楯にして鉄砲を撃ちかけてくる。
児玉も堤の陰から鉄砲を打たせてせめぎあった。
小次郎がややもすれば突いてかかろうとしたとき、「もうしばらく待て」と、
そばにいた若林藤兵衛尉が児玉の草摺をつかんで引いた。
そのままよき時分をうかがっていたが、敵に少し隙ができたとき、「さあ懸かれ」と手を離す。
児玉は鑓を打ち振りながらかかっていき、敵はたまらず逃げ退いて、細竹が茂っている陰に隠れた。
しかし児玉はそれを追う。敵はこの藪を楯にして散々に防ぎ戦う。
そのなかで、「藪内匠」と名乗って児玉小次郎と鑓を合わせ、
汗を滝のように流しながら突き合う者がいた。

若林藤兵衛尉は祖父の伯耆守にも劣らぬ大の剛の者だったので、真っ先に進んで敵を多数突き散らし、
その気概だけであたりの敵が引いていくようだった。
菅田三郎左衛門は太刀で戦っていたが、敵に股を突かれながらも、
その鑓を引き抜くと、それを取り直して戦う。
児玉はなかなかの勇士なので身命を惜しまずに戦い、敵は足並みをしどろに乱しながら、
ついには後ろの茂みの奥へと引いていった。

さて本道筋のせめぎあいが始まってからどれくらい経っただろうか、
互いに弓・鉄砲を打ち違える矢弾の音、鬨の声が天地を揺るがすほどになった。
そこに、秀吉が軍使を遣わして、味方に「早々に引き取って来い。
敵がこの陣の麓まで詰め掛けてきたとはいえ、吉川元春・小早川隆景の旗はまだ本陣にある。
となれば、大将の下知がなければ、この陣へと突き入ってきて合戦をするはずがない。
早く引き上げてこい。元春は懸かり合いの戦を好む大将だと聞いている。
もし後詰に出てきたならば、こちらが引こうとしても引かせてくれないだろうから、
今のうちにさっさと兵を引き上げてしまえ」と下知した。

さすがに物慣れた上方勢は、備えを堅固に立ち設けて、順繰りに一段ずつ引いていった。
芸陽勢は敵が引くと見ると、安心して狙いを定めながら鉄砲を撃ったので、
無駄弾はほとんどなく、撃つ度ごとにほとんどが敵に命中した。
上方勢の怪我人、死人は数知れなかった。

吉川経言・杉原元盛・その弟の景盛は、
「ここで懸かっていって敵を食い止め、残らず討ち果たしてやろう。
敵の引こうとしている道は狭いのだから、一ヶ所で混雑して備えが乱れるはずだ。
これこそ好機、一人残らず討ち果たせる」と強く進もうとしたが、
元長・盛重はこれを聞くと、「いや待て、それは違う。
行く先が広い場所であれば、追いかけていって蹴散らして討とうとすれば、
浮き足立った大軍など、易々と打つことができる。
ここは先が狭くなっている。敵が退却したくともできないという状況になれば、
心を一つにして無二に取って返してくるだろう。
決死の覚悟を胸に抱いた敵勢には、なかなか歯が立たないものだ。
さあ、ここまで敵を追い詰めて、大勢討ったのだから、これを勝ちにして、味方の勢も引き上げよう。
逃げる敵を追うにも、場所により、時により、敵にもよるものだ。
『逃げるを追って百歩に過ぎず』とは、こういう場面のことを言うのだろう」と制した。

そしてそのまま備えを固め、敵が取って返してきたときには渡り合おうと、静まり返っていた。
鉄砲足軽二、三百人をあちこちに走り回らせて敵に撃ち掛けさせ、敵が引く様子を見守る。
敵が次第に引いていき、はるか山上まで退却したのを見ると、それから中国勢も静々と兵を引き上げた。

この日は合わせて三ヶ所で競り合いがあったが、いずれも中国勢が勝ちに乗って二十余町も敵を追い立てた。
上方勢との初の合戦で、敵に塩をつけたと大いに喜び、勇まない者はいなかった。
けれども元長は、敵があっけなく引いてしまったので、
入り乱れた大合戦にならなかったのを、それは残念に思っていた。


以上、テキトー訳。おしまい!

いやー、いいですねぇ! 元長がお兄ちゃんしてる!(゚▽゚*)
保護者、保護者だ! この好戦民族元長でも、弟相手に止めるときは止めるんだ!
「大合戦にならなくて残念~」とか言っちゃうくせに! くせに!!!
吉川兄弟可愛いわ。まじ可愛いわ(興奮が収まらない)!

さて無理やり他に目をやってみると、大谷さんがだいぶageられてるんですけど。
江戸時代初期から人気だったんだろうなぁ、という想像。
なかなか心を揺さぶるもんね、大谷さんの死に様は。
朝鮮の描写でもそうだったけど、軽やかに一人馬に乗って敵の陣様を見てくる、
というのが、陰徳記での大谷刑部の得意技っぽい。
かっこええな。

あとあと。若林藤兵衛尉が出てきたよ! びっくりした!
このころのポジションはどんなもんだったんだろう……
あ、若林さんというのは、後に娘が広家の側室になり、広正を産んでいます。
この活躍が本当だったかどうかはかなり怪しいけど、
なんかそういう称揚っていうか、盛ってる部分が多大にあると思うよ!

元服していないはずの黒田吉兵衛尉が出てきたり、福島正則が初高名したり、
大谷さんが馬で疾駆したり、若林のじいちゃんが出てきたりと、
この合戦描写はオールスター戦みたいな感じで楽しかった。
経言も活躍したしな(*´∇`*)
天野さんもかっこよろしいで(*´∇`*)

そんなわけでたぶん次章からは尼子勢が追い詰められていく感じになると思うので、
先を思うとちょっとどんより……鹿ちゃん好きやねん……
2012-11-21

元長の采配

これまでのあらすじ:
上月城を取り囲む毛利勢と織田は羽柴秀吉の勢プラス援軍。
元長が夜討ちを提案するも却下され、にらみ合いが続いていたが、
天正六年六月二十日、ついに小競り合いから大きな合戦が起こるかに見えた。
元長は杉原盛重を頼んで、合戦になりそうな場合はすぐに知らせてもらうことになっていたので、
おいそれとは動けない元春・隆景に代わって現場の指揮を取る。
羽柴側も、福島正則・加藤清正・黒田官兵衛(そして吉兵衛も!?)と、役者が揃い踏み。

さあ行け吉川勢! ヒャッホーーーー!!!


上月合戦のこと(中)

元春からも軍使が遣わされ下知があった。
元長は全軍に「上方勢は敵の虚をうかがって無二に馬を入れ、蹴り崩そうとしているという。
ならば味方の足軽たちを使って射払い、敵の馬を入れないようにしろ。
一度にばらばらと下ってきたとしても、たとえ膝の上に馬が乗っても絶対に立ち上がらずに、
敵の兵馬の両足を薙ぎ払え」と強く下知した。

こうして矢戦が始まり、中国勢はようやく勝ち色が見えてきたが、
昨日から今朝の明け方まで、雨が篠ついて上月川水かさを増し、濁流となって渡りづらくなっている。
この川を乗り越えるのは大変だと諸軍士が少し躊躇しているところに、
吉川民部大輔経言が馬の手綱を手繰り寄せ、「吉川経言である」と名乗って一番に打ち入った。
これを見て吉川勢も我先にと水に入っていく。
元長も、「経言を討たすな」と兵たちに先立って馬を乗り入れたので、
杉原・南条らも負けじと駆け入って渡っていく。

上方勢はこの勢いにたちまち押し立てられてさっと引いた。
黒田官兵衛尉・同吉兵衛尉・同兵庫助・福島左衛門太夫・蜂須賀彦右衛門・一柳市介・
堀尾茂介・宮部善乗坊・加藤虎助・同佐吉なども、馬を一面に並べて入ってくる。
元長はこれを見て、「足軽は足敷きになって弓・鉄砲を撃ちかけよ。
侍たちも皆馬を降り、敵が膝の上に乗っかってきても立ち上がるな」と下知した。
すると皆いっせいにさっと腰を落とし、弓・鉄砲を射かけ始める。

上方勢は馬上から十四人ほどばらばらと撃ち落されたので、さすがに勇んで進んできた上方勢も、
それ以上懸かってくることができない。また引くこともできなかった。
一つところに馬を据えて足踏みをしているとところを見澄まして、
元長が「やれ懸かれ」と采配を打ち振るって下知すると、
杉原播磨守・同弥八郎・同又次郎、そのほか吉川勢が一丸となって、
二千余騎がドッと突いて懸かると、上方勢は押し立てられてさっと馬の頭を引き返し、
三、四町ほど引いていった。

そのとき元長は軍使を遣わして「深追いするな」と命じたので、
兵たちもまた元通りに備えて、弓・鉄砲を先に立てて進んだ。
上方勢はまた取って返してしきりに馬を入れようとしたが、
中国勢は大将の下知を守って、立ったり座ったり、あるいは左に進んだり右に進んだりする様子は、
畿内あたりの兵とは雲泥の差で、起居動静を自在に変じた。
上方勢はなかなか付け入ることができずに、次第に引いていった。

敵が引けば中国勢が静かに後を追い、太鼓を打って進む。
敵がまた馬を入れようとすれば、揃って弓・鉄砲を敷き並べるので、
上方勢は射すくめられ、押し立てられて、高倉山の麓までの二十余町を引くしかなかった。

秀吉の本陣、また筒井などの人々はこれを見て、
「味方が戦利を失って引いてくるぞ。あれを助けよ」と呼ばわる。
そのとたん、我もわれもと打って出てきたので、かえって後陣が大人数で混雑し、
自由に駆け引きもできなくなった。

しかし続く味方に力を得て、上方勢は高倉山の麓で一気にさっと取って返すと、
馬を一面に並べて足軽を先に立て、ドッと鬨を上げて備える。
中国勢も杉原父子三人と吉川勢が真っ先に進み、いっせいに下り敷いて、弓・鉄砲を先に立て散々に射る。
いざこれから上方・中国の有無存亡をかけた一戦が始まろうかと思われたが、
互いに真正面から激突するのを避けて相手の虚を衝こうと見計らい、
ただ矢戦・足軽競り合いをしながら、大合戦は慎んだ。

このときもし荒木摂津守が、中国勢の備えている山の上から一直線に下ってきて、
横合いから突いてかかってきていたら、十のうち七か八は中国勢が押し立てられていただろう。
けれども荒木は何か思うところがあったのか、何もせずに遠くから見ているだけだった。
また宇喜多の陣から高倉山の間には少し高い峰があって尾続きになっていたので、
その峰へと一万を超える備前勢を押し上げて、一直線に秀吉の本陣へ切って懸かっていれば、
どんなに強い秀吉であってもたちまち敗北しただろうが、
直家は信長の味方になりたいと思っていたので、時の勝負をうかがって、こちらも手を出さなかった。

小早川隆景は思慮深く戦いを慎む良将だったので、
「宇喜多の心ははっきりと見えない。それに敵がどんなことを仕掛けてくるだろう」と、
陣を堅く守り、備中・備後の勢は一人も出さなかった。

こうして中国勢が高倉山の麓まで迫り、山上をキッとみあげれば、
さすがに名高い羽柴秀吉も、それぞれの陣を厳しく構え、総勢で山の中腹まで下って控える。
そのほか惟任・筒井・伊賀・稲葉・蜂屋たちが、一勢ずつ打って出て無二に渡り合い、
ただ一捻りにしてやろうと控えたので、中国勢が如何に勇んで進んでいたとはいっても、
たった二万の勢で敵五万余りを打ち破れるとは思えなかった。
しかし中国勢は敵を二十余町も追ってきたので勝ち気になり、
敵が大勢でかかってこようとしても少しも臆さず、長い時間、
足軽を先に立てて弓・鉄砲を盛んに射掛けた。

大谷刑部少輔・神子田半左衛門・尾藤神右衛門などの勇士たちは、
「背後の味方の陣へは、道が狭くて引こうにも引けまい。
さあ、一度体当たりしてそのままの勢いでさっと引き、敵を引き離してから兵を引き上げよう」と、
六、七千ほどの馬の体勢を立て直すと、歩兵を先に立てて攻め懸けてくる。
後ろからは高倉山の陣から、我もわれもと続いてきて、その人数は何万騎とも数えがたく思えた。

これはさすがに中国勢が押し立てられて退却するだろうと思われたが、
元長が「下り敷け」と下知すると、真っ先に進んでいた杉原盛重・同元盛・同景盛、
吉川勢の今田中務少輔・吉川式部少輔・香川兵部大輔・新見左衛門尉・森脇一郎右衛門・
境与三右衛門・二宮右京亮、伯耆の住人である吉田肥前守・牛尾大蔵左衛門など
一騎当千のつわものたちは、皆田の畦に尻を打ちかけて腰を据えると、
前に鉄砲を立てて膝の上に鑓をかけ、敵がかかればまず馬を突き、
主人が落ちたところで取り押さえて首を掻こうと待ち受けた。

香川兵部大輔は、「中国・九州の武士は、鑓を合わせるときには皆馬から降りて立って勝負を決する。
上方勢はこのほど、馬を入れようとばかりして追い崩されたようだ。
きっと今回も、味方に隙間があれば一文字に馬を入れてくるだろう。
だから、もし味方に一人でも立ち上がる者があれば、以来は武士道の付き合いをやめ、
ともに盃を重ねたりしないぞ」と言った。
今田中務少輔・吉川式部少輔・山県四郎右衛門らもこれを聞いて、「もっともだ」と賛同した。


以上、テキトー訳。もいっちょ続く!

うああ。うああああああ。元長かっこいいなぁ。
なんだこの大将。みんながみんな、立つも座るも進むも引くも、すべて元長の下知に従うんだぜ。
美しい規律……(*´∇`*)ウットリ
きっと春継や吉川衆にとって、元長は最高の大将だったんだろうなぁ。
ああ、一年以上かけて陰徳記をちょぼちょぼ読んできたけど、
こんなに静かに血が滾る描写の戦いが他にあったろうか。
すごく地味にキュンキュンくる。
この合戦が陰徳記一番のキモなんじゃないかと思うほどだ。
うぅう、語彙や文章力がほしいよぅ。こんな駄文でかっこよさが伝わる気がしない(´;ω;`)

経言も活躍してるねぇ。一番に川を渡ろうとするやんちゃくれ。愛い(*´∇`*)
そんでもって元長、「経言を討たすなよ」って、まじお兄ちゃん。
杉原さんも春継も今田も経家もみんなかっこいいけど、元長のこのきらめきにはかなわんぜ。

それはそうと正矩、「隆景は思慮深い良将」ってのは、皮肉で書いてるだろwww
戦場できらめいている人たちと対比させたら微妙な気分になるだろが。
普通、吉川衆やら雲伯の勢がこぞって高倉山に向かっていっちゃったら、
敵は上月城の尼子勢もいるんだから、それに備えて陣を守る人がいなきゃいけないじゃない。
隆景まで動いたら誰が守るんだよwww

てなわけで、あと一回でこの章も読み終わる、はずデス。
2012-11-20

激突! 元長・元氏・広家VS市松・黒官・長政 えっ、長政!?

だいたいの流れ:
上月城に籠もる尼子勢(織田方)、それを取り囲む毛利勢と宇喜多、
城方の援軍として駆けつけた秀吉プラス織田軍のにらみ合いが続く。
秀吉が備中の国人衆に調略を仕掛けるなど、長陣の様相を呈してきたぞ!

盛り上がりすぎて長いので分けまする! ハフハフ!!!


上月合戦のこと(上)

同(天正六年)六月二十日、美作の国の住人、中村三郎左衛門尉は宇喜多の先陣にいた。
高倉山の麓には小川があって、毎朝のように敵陣からこの川へやってきては、
馬に水浴びをさせたり手洗いをする者が多かった。
中村はこれを狙って討とうと考え、伏兵を置いていた。
小早川衆の井上弥兵衛尉もこれに加わっていたが、
案の定高倉山の陣からまたいつものようにたくさんの人がこの川へとやってきた。
中村らはこれを鉄砲で射撃し、たちどころに二、三人を討ち取った。

鋭敏な上方勢はこれを見て、気を取り直して懸かってくる。
中村の勢は小勢だったので、あっという間に殲滅されてしまいそうになったものの、
出雲の国の住人、宍道五郎兵衛尉が三百ほどで救援に駆けつけてきた。
宍道が敵勢を打ち払うのを見て、また高倉山から中村式部少輔・神子田半左衛門などが
二、三千でかかってくる。
宍道が取り囲まれて危なくなると、伯耆の国の住人、何条伯耆守も元続・小鴨左衛門進元清が
一千余騎で駆けつけて渡り合った。
しかしまだ負けそうだったので、吉川衆も少々駆けつけてきて防戦した。

南条の手の者の一条市助、繁沢左近元棟(元氏)の手の者は江田次郎兵衛尉、
山田出雲守の郎党の山田利兵衛・同外記・鍛冶屋市允・佐伯五郎次郎、吉田肥前守の若党の瀬尾孫右衛門、
吉川衆からは都野主水正・境孫次郎・湯頭助兵衛尉・遠藤弥九郎・足立彦左衛門、
小早川衆からは兼久内蔵丞などが、鑓を合わせて散々に戦った。
さらにかないがたく思えたので杉原盛重の手の者の渡辺左近・所原弥太郎・入江平内、
茶湯坊主の全従庵助が来て鑓を合わせ、入江・渡辺・所原は敵を突き伏せて首を取ったが、
味方も遠藤弥九郎、杉原の手下の所原兵庫助が討ち死にした。

南条の手の者が一人手傷を負って伏せていたところ、誰とはわからないが、
武者が一人走り寄ってきて首を取った。
その後ろに、真っ黒な鎧をまとった武者が一人鑓を提げ、
敵がかかってこようものなら一突きに突き伏せようと控えている。
敵の弓や鉄砲が頬にかすってもものともせず、仲間が首を打つ間、
仁王立ちに突っ立って少しも動かない。やがて首を打ち終えると、二人連れ立って帰っていった。
なんと大の剛の者だろうと、後にその名を尋ねてみると、首を打った者は福島左衛門太夫正則、
鑓を提げて後ろに控えていたのは、福島の郎党の星野越後守だった。
正則はこの年十八歳で、初高名だったという。

さて、敵勢が次第に増えてきて、二万余騎が上月のふもとの里に皆駆け下ってきたので、
南条・杉原・宍道・中村などの勢五千余騎は、あれよと言う間に押し立てられてしまった。
一太刀打っては引き退き、一矢射ては逃げ退いた。
これを見て、杉原播磨守盛重も嫡子の弥八郎元盛・次男の又次郎景盛・吉田肥前守・
河口刑部少輔らを伴って、二千余騎で打って出る。
吉川衆も、今田中務・吉川式部少輔・山県四郎右衛門・森脇一郎右衛門・香川兵部大輔・
新見左衛門尉をはじめとして、一千余騎が飛び出していく。
「味方が難儀に及んでいます。先陣の様子を見計らってまいります」と、
杉原と一緒になって打って出ていくのを見て、天野・三沢・三刀屋・古志・益田・佐波、
そのほか出雲・伯耆の勢一万余騎が、残らず懸かっていく。

元長様は前もって、吉川式部少輔・香川兵部大輔を通じて杉原播磨守にこう告げていた。
「羽柴筑前守が後詰として打って出てきている。だからいずれ、手詰めの合戦があるだろう。
元春・隆景は大将なのだから、軽々しく打って出ていってご自分の手を砕くことはできないだろう。
しかし私も大将だ。私が自ら手を砕き、勇のほどを上方勢に見せ、また羽柴の鑓先の剛弱を確かめてみよう。
もし合戦になると踏んだら、盛重よ、急いでそのことを知らせてほしい。
それが済んだらそのまま打って出てくれていい。万事は播磨守を頼りたい」

盛重は、「中国に名のある武士はたくさんいるのに、そのなかでも私を頼りにしてくださるとは、
実に弓矢取る身の誉れです。
しかし、合戦になったとしても本陣まではだいぶ遠いので、
注進いたしても、合戦の始まりには遅れてしまいます。
足軽競り合いが始まって、これは本格的に合戦に突入すると見えたら、合図の火を二つ立てましょう。
そのときに具足をお召しなさいませ。
そして大合戦になるだろうと見切った場合は、また一つのろしを上げます。
このときにご出陣ください」と約束した。

そして敵味方三万余騎が互いにやる気をみなぎらせて打って出ていくのを見ると、
盛重はすぐに合図ののろしを上げた。
これを見て、吉川治部少輔元長・弟の左近允元棟・三男の民部太輔経言が急いで打ち出てみると、
敵味方が上月川を隔てて足軽競り合いをしている。
杉原盛重は三人の兄弟を待ち受け、「今日は私にお任せください。
上方勢とお三方を渡り合わせ、比類なき大勇を打ち立てることができるようにいたしましょう。
秀吉とは初めての合戦ですから、ここで一塩つけなければ、もとの陣には帰ってまいりません」
と荒々しく言葉を吐くと、真っ先に進んでいった。

本道筋は、元長・元棟・経言、そして杉原・南条、そのほか出雲・伯耆の勢一万余騎が進む。
脇の小競り合いはあちこちで起こったが、これには吉川旗本勢なども思い思いに駆けつけて、
あちらの谷、こちらの峰で散々に戦った。

高倉山の上方勢は、本道筋の合戦がすでに始まったと見るや、秀吉の勢は言うに及ばず、
蜂屋・氏家・伊賀・稲葉・佐久間などの兵たちも、
「初めて会い見える敵には、一手並み見せ付けて勇気を奪うのがいい。
それこそ最終的な戦の必勝の術である」と、我もわれもと打って出て、
段になって備えを固め、入れ替わりながら戦う構えを見せた。
そのまま意気軒昂に控えている。

先陣には中村式部少輔・神子田半左衛門・尾藤神右衛門・大谷刑部少輔・木下備中守など、
秀吉の郎党のなかでも一騎当千のつわものたちが、五千ほどで進んできた。
その後には黒田官兵衛尉・同吉兵衛尉・同兵庫輔・蜂須賀彦右衛門・一柳市介・
堀尾茂介などが三千ほどで備えている。
その後にも、信長の援軍が総勢四万余騎、近年畿内江北の浅井・佐々木、
越後の朝倉などを相手に勝ち戦を遂げて、己の勇を大いに信じているつわものたちが、
中国の小勢を一捻りにしてやろうと続いていた。


以上、テキトー訳。つづく。

市松! 市松じゃないの! 久しぶり!
お酒に飲まれるタイプで有名な福島正則だけど、ここで名前を見るとは。
広家とも仲良しだったよね……(´;ω;`)市松……
いやでもよく考えてみたら、市松より星野さんのがかっこいいわ。
星野と春継が仲良しでこんな話になったと見た! 違うかw

そんでまた、黒官さんも出てきたし、長政(吉兵衛尉)も出てきたね! アツイ!
だがしかしちょっと待て。市松18歳ってことは広家(経言)も同じだろ。
長政は確か7つくらい離れてたはずで。おい待て。
長政はまだ元服してないっつーか、うん。
まぁでも、この大合戦に居合わせたってことにしたい正矩の気持ちはわかる。
春継や元長、経家たちにとって、まさしく一世一代の大見世場だもんな。

相変わらず元長がかっこいいじゃねえか。
杉原さんと示し合わせて、「元春・隆景は出られないだろうから自分が!」って。
好戦的な元長が好きです(澄んだ目)
そんでもって、三兄弟仲良く行動してるのは心温まるね(*´∇`*)
いや、たいてい元氏(元棟)がいないからさ……
次男いてよかった……次男資料も漁りたいねぇ。

さて次回、息子たち&配下の国人衆があれこれしてるとき、元春はどーしてたのかな!?
2012-11-18

忍びの末路と清水の難

だいたいの流れ:
尼子勢が籠もる上月城を囲む毛利勢、そして高倉山で対陣する後詰の秀吉勢は、日に日に数を増していく。
後詰に対して夜討ちを仕掛け一戦すべきと提案した元長だったが、
城さえ落とせばいいから危うい戦は控えるべきと考える隆景によって、この主張は却下された。
今回は、後詰の圧迫を受けながら、じりじりと城攻めで日々を費やしているときのこと。
短い章を二本立て!


勝久より秀吉へ通路の者を搦め捕ること

城中から高倉山に忍んで往来する者が入るとの噂が立ったが、
たしかにその者を見たというような証拠はなかった。
元長は香川兵部大輔を頭として、山県源右衛門・荒木又左衛門などをはじめとして数人が、
敵城からの道筋の脇の草むらの中に身を隠し、忍んで出入りする者を発見して捕らえさせるために、
夜ごと待ち受けさせていた。

あるとき、杉原の陣と城との間に深く切れ込んだ谷があったが、
ときどき、杉原の陣の山の方から小石が落ちる音がしていた。
皆、山に住む猪が寝床でも変えているのか、はたまた兎でも通ったのかとさほど気にしていなかったが、
見回りの者たちがよくよく声を潜めて耳をそばだてて聞いてみると、
猪でもなく、兎でもなく、人が忍びやかに蔦の生えた原を歩く音だとわかった。
やがてその者が「熊谷(くまたに)殿、熊谷殿」と二声三声かけたので、
これを聞いて味方が立ち上がろうとした。

しかし距離もあるので、「ここから走りかかったのでは恐らく捕らえることはできまい」と小声になり、
「もう少し近くまで引き寄せよう。逸って仕損なうなよ」と制する。
するとまた、忍びの者が「神西殿、三郎左衛門殿」と小声で言うのを聞くと、
荒木は堪え性のない者だったので人に先を越されまいと思ったのか、すっくと立つと、
「元長の近習、荒木又左衛門」と名乗り、逃すまいと追いかけていった。

城中からはこれを聞いて、「荒木殿、今参るぞ」と鉄砲数挺を揃えて散々に放ってくる。
荒木は少しも怯まずに、大きく手を広げて追いかけた。
忍びの者はどうにもしようがなくなったのか、杉原の陣中に駆け込んでいったが、
荒木はついに追いついて、篝火を焚いているあたりでその者を捕らえて引き伏せ、捕らえたのだった。

すぐに元長の午前へと連れて行き、引き据える。
その者が隠し持っていた文を見てみると、すべて暗号で記されていて、
円のようなものもあり、四角のようなものもあったので、何が書いてあるのかは推察のしようもなかった。
また肌に触れるようにして持っている文を見てみると、
「今回、忍んで秀吉へ連絡を取ることができたなら、出雲の国の島根において一郡を与える」
と書いてある勝久の判物だった。

その名を尋ねると、「伊丹孫三郎と申す者でございます」と答える。
「これまでは高倉山にいたのか」と問えば、
「五日ほど前に杉原殿の陣へ草を刈って入っていきました。
それからは毎日草を売った銭で店屋の胡餅油糀などを買って飢えをしのいでおりました。
勝久の微運の至りなのか、私の命運が尽きただけなのか、こうして易々と生け捕られてしまいました。
このうえは、どうか早く首を刎ねてください」と言う。
元長は「ともかく杉原が計らうように」と命じたので、
盛重は「かしこまりました」と答え、すぐにその忍びを引き出すと、首を打って捨てた。


鈴木・秋山のこと

羽柴筑前守は勇が突出しているばかりか智謀もまた近来では飛びぬけた大将だったので、
数々の策謀をめぐらせて敵国に騒動を起こそうと考えていた。
備中の国人たちへ回文を送り、
「清水宗治の妻子を誘拐して高松の城へ立て籠もり、清水に敵対するように。
そうすれば清水はさすがに恩愛を捨てがたく、こちらの味方につくだろう。
そうなれば皆にも所領を望みのままに宛行おう。

信長も毛利家征伐のために、以前から、来年か再来年までの間には備中口から攻め入り、
一人残さず討ち果たすようにと定められている。
今回、元春・隆景がはるばる播磨まで出張りしているのは、信長にとっては軍神のお助けである。
すみやかこれを討伐して、じきに備中の松山に攻め入って、
輝元を攻め滅ぼせば、中国は今年中にでも手に入ると、一方ならず喜んでいらっしゃる。
毛利家はすぐにでも滅びる。
早々にこちらの味方に与し、皆の家も続くように、妻子が安心して暮らせるように計らえ」と煽った。

国人たちは、「秀吉とかいう野狐が人をたぶらかそうとしているのだ」と返答さえしようとしなかったが、
鈴木孫右衛門・秋山運右衛門の二人だけは、頭を寄せて、
「本当に聞いたとおりならば、信長は大国三十余ヶ国を切従えていらっしゃる。
秀吉一人の勢でさえ、中国勢とほぼ対等だとも聞いている。
このうえ信長が出張りしてくれば、いかに元春・隆景が良将だといっても、
威の勝る信長に気圧されて、一戦のうちに敗北してしまうだろう。
さあ、清水の妻子を捕虜にして、秀吉への捧げ物にしようではないか」と話し合い、
清水の長男の才太郎(景治)を騙して人質にとると、高松の白に立て籠もった。

清水の家之子郎党たちは非常に驚いて、上月表へ報告に来た。
吉川・小早川の両将はすぐに清水長左衛門尉を呼び寄せ、
「急いで本国に下り、謀をめぐらせて妻子を無事に取り戻せ」と命じたので、
長左衛門尉は「かしこまりました」と答えると、国に飛んで帰った。

清水は林三郎左衛門(重真)という者を通じて、鈴木・秋山へとこう言い送った。
「秀吉の仰せに従ってこのような振る舞いをなさったのは、戦国の習いなのでしょうがないことだと思う。
才太郎をつつがなく返してもらえれば、お二人ともを安全に下城させ、播磨までお送りしよう。
もし同意がない場合はしかたがない。才太郎ごと押し込めて、討ち果たすまでである」と、
一度はなだめ、一度は怒って言い送ると、鈴木・秋山はさすがに命が惜しくなって、
おめおめと才太郎を清水に返した。
清水は息子を受け取ると二人を下城させたが、すぐに鈴木・秋山の首を打った。

このように、昨日まで味方であった者が、今日には敵になっている。
人の心は定まらず、あっという間に移り変わってしまうので、
またどんなことが起きるのだろうかと、安心できる日はない。
上月表の長陣はいったいどうなるのだろうと、夜討ちをさえやり遂げたならば、
勝利も早くつかめるのにとそう思わぬ者はなかった。


以上、テキトー訳。

ふふ、清水が約束を違えて鈴木・秋山の首を刎ねたのも、
戦国の習いなのだからしかたがないのだよ……悲しいけれどこれ戦争なのよねってことかぁーッ!
うむ、まあやってよし。
妻子のピンチと聞いてすぐに清水を下国させる両将もいい上司。
どこぞのブラック会社は見習いなさいよ。 ※うちの会社ではありません

最初の話、元長の近習衆が活躍する話は個人的に好きです。
いいぞもっとやれ。
堪え性のない荒木さんといい、やっぱり吉川衆は血の気が多くて好きだ。
吉川家のノリ、いいなぁ。
あと杉原さん、敵の忍びの処分を任されて、下手に命を助けたりせずに、
すっぱり切って捨てるのはちょっと惚れるね。
非情というか、自分は自分のやるべきことをやる、みたいなかっこよさがある。
語彙が少ないのでうまく表現できんのだが。

この話で興味深いなぁと思ったのは、忍びの人の暮らし方だよね。
兵糧持ってきてないんかい、というのは置いといて、
草を刈ってそれを売って銭を得て、店屋で食事を買う…・…ん、店屋!?
陣の近くか陣中か、そのへんに店屋が出てたってことだよね。
そういえば立花の陣でも、風呂屋の描写があったような。
こういうのを見るにつけ、戦争ってのはつくづく経済活動なんだなぁって感じるね。
ちなみに胡餅ってのは、厳島合戦のときの陶さんの最後の食事になってたのでちょっと調べたところ、
小麦粉を水で練って焼いた、硬いパンのような糧食らしい。
油糀はあんまりよくわからんす。テンプラの衣部分のみ、みたいな妄想。
私はお米がいい。お米のみたい。

さてさて、次はいよいよ上月合戦!
2012-11-17

戦場のキャッキャウフフ(毎度の吉川衆)

だいたいの流れ:
上月城の勝久・鹿介を追い詰めていく毛利勢の前に、
後詰の秀吉、援軍の上方勢が着陣して、日に日に数を増していく。
元長は後詰勢に対して夜討ちを仕掛ける提案をするが、
隆景の「宇喜多の真意がつかめないから危うい」発言、
安国寺の「後詰を無視して城さえ落とせればいい」発言によって却下されてしまった。

さて、ではその肝心の城攻めはというと……というのが今回のお話。


上月の城中の忍者、台無を盗むこと

天正六年五月十四日、杉原播磨守の仕寄から台無(大筒)を仕掛けた。
城の矢倉に向かって撃ち掛けていると、たちまち隅の柱を一つ打ち破り、
中にいた吉田三郎左衛門尉は、細切れになって死んだ。
城中の者たちはこれに驚いて、皆塀の裏に穴を掘って身を潜め、
モグラのようになって身を縮こまらせていた。

鹿介は兵たちに、こう下知した。
「杉原は台無で水の手を遮っただけでなく、今また角の矢倉を打ち破った。
このままならば、この方面からそのうち打ち破られてしまうかもしれない。
城中の忍び働きに慣れた者たちは、ひそかに杉原の陣中に入って、
あの台無を深い谷へと撥ね落として来い。そして下に数十人で待ち受けておき、
この大鉄砲を拾って城中へと運んでくるのだ。
もしこの台無を取ることができれば、敵陣へとまっすぐに撃ち掛けて、まずは杉原の陣を打ち破ってやろう。
特に吉川衆の仕寄が間近に寄せられて、台無でひどく攻められているから、
城中から逆に散々に撃ち立てれば、この吉川衆の仕寄も一息つく暇すらないだろう。
城中の運を開くには、この台無を盗み取れるかどうかにある。
ああ、ぜひとも盗み取ってきてほしい。それをやり遂げた者には、莫大な褒章を与えるぞ」

忍術に秀でた者たちが、進藤勘介をはじめとして数十人忍び出ると、
夜半になってからひそかに杉原の陣に入っていく。
見れば、仕寄番の者たちは少々油断している様子だったので、そこへワッと叫んで飛び掛り、
台無をはるか谷底へとまくり落として、散々に切って懸かる。
仕寄番の者たちは思いも寄らないことだったので、たちまち切り立てられて退却したものの、
後ろに続いていた陣から、「夜討ちが入ったぞ」と呼び合って人が出てくると、
落ち着いて渡り合ってきた。
逃げてきた者たちを押し返して切り結んでいると、進藤勘介は敵一人に怪我を負わせ、
勘介とは名乗らずに「震動雷電助」と名乗り、散々に戦った。
しかし敵は大勢なので、どうにもできずに、さっと引いて城中へと帰っていった。

杉原の郎党たちは敵を追い散らした後に、そこにあったはずの台無がないことに気づいた。
「台無はどうした」と聞くと、「先ほどの夜討ちにまぎれて敵が盗み取っていったようだ」と答える。
「けれども軽々と持ち運べる獲物ではないから、きっとどこかに捨て置かれているだろう。
探してみよう」ということで、あちこちを探してみたものの、
どこにもないので、郎党たちは茫然自失していた。
杉原播磨守盛重はこれを聞くと「これは口惜しいことだ。
このような失敗をして敵に台無を取られたのでは、
盛重は生涯の面目を失うだけでなく、死後までも響く傷になる。
この鉄砲を奪い返すことができなければ、私はこの城を枕に討ち死にするしかない。
我が手の郎党たちも、一人残らず切り入って討ち死にしろよ」と、躍り上がりながら激怒した。
けれども、「まずは人に知らせず探してみろ」と、ひそかに探させた。

そのころ、今田中務・吉川式部少輔・香川兵部大輔は一つの陣屋に集まって夜話をしていたが、
陣の前を森脇石見守・井上肥前守の二人が一緒に通りかかった。
「あれを盗もうとしていたとは思いも寄らなかったが、どうやって盗んだのだろうな。
杉原はあれを盗まれては腹の虫がおさまらないだろうから、城中があれを手に入れたとはいっても、
杉原があっという間に乗り破ってしまうだろう。
小さな利益でずいぶん大損をしたものだ」と呟くのを今田らが聞きつけて、陣中から走り出ると、
「何があったのだ」と尋ねた。
森脇たちは、「それが、杉原の仕寄の台無を、城中の者たちが盗み取ったそうだ」と答える。
「それは取られたといってそのままでいいものではないぞ」と、今田中務ら三人は鑓を提げて走り出た。

と、城と味方の中間に、二、三百ほどの兵が一塊になって控えている。
香川兵部の郎党の三宅源允が「そこにいるのは誰の手の衆であるか」と尋ねると、
「私は杉原播磨守の郎党、壇上監物です。先ほど、台無を城中へと取られてしまいました。
これを取り返すか、さもなくばこれからこの城を乗り破るか、
そうでもなければ城の戸を枕にして討ち死にするか。
このなかのどれかをやり遂げて参ります」と答える。

香川兵部大輔が「さてそれは、敵はすでに引き上げてしまったのですか、
または追い払われたのですか」と問うと、
壇上は「敵はすぐに切り立てましたので、ほうほうの体で城中へ逃げ帰っていきました」と答える。
兵部が「追い立てられたのであれば、きっと台無はどこかに置いたままでしょう。
よくよく探してみてはいかがですか。拙速な攻撃は控えてください」と言っていると、
元長様から盛重へと軍使が遣わされてきた。
軍使は、「鉄砲を取り返すことができなければそのまま城に乗り込んでいただきたい。
後から元長が駆けつけます」と言ったので、播磨守は手を合わせて喜んで、
「あれを聞いたか。大将よりの仰せがあったぞ。
鉄砲を奪い返せなかったら、一人もここへは帰ってきてはならぬ」と下知し、
士気を鼓舞したので、杉原の手の者たちは皆切岸へつめかけ、
盛重からの一言の命を待って、一気に乗り破ろうと静まり返って控えていた。

三宅源允は主君の香川に遅れて、今田中務に付きながら急いでいたが、切岸へと走り上がり、
「吉川の手の者、今田中務である。ここまで攻め寄せて参ったぞ。
城中で我ぞと思わん者がいるならば出会え。勝負を決しようではないか」と声高に呼ばわった。
ややあって、城中から黒具足をつけた一人矢倉へ上がり、
「ただいま今田中務と名乗られた方はどこへ行かれたか。こう申す私は寺本市允と申す者です。
小兵ではありますが、一矢披露しましょう。
それを受けて、私の弓の制度をご覧ください」と言うや否や、弦の音も高く矢を放つ。
その矢は二宮木工助が鑓を持たせていた中間の肩から背中へとズンと突き抜けたので、
その中間は「あっ」と声を上げると鑓をどこかへ投げ捨て、谷の底へと落ちていった。

寺本は、「先ほどの矢は手ごたえがありましたぞ。もう一矢お見舞いいたしましょう」と、
また矢を取って番えて射出す。
今度は杉原の手の者で、具足をつける暇がなかったのか、腰白の帷子を着ていた者が、
その白い部分を狙われたのか、臍の下を背後まで射抜かれて、矢場に倒れてしまった。
そばにいた熊谷新右衛門は、「ああ、よくも射ったものだ。
寺本・亀井・鈴木の高館での弓の腕前は、
本間孫四郎が比叡山で二本の矢で二人を射抜いたのにも劣らない」と声を上げて褒め称えた。

杉原の手の者たちも、婿の吉田肥前守をはじめとして、残らず切岸に着いたので、
嫡子の弥八郎元盛・次男の又次郎景盛も続いて岸に付き、いよいよ城に乗り込もうとしていた。
三宅源允は走り回ってそのときを待っていたが、敵が台無に綱をつけ、
忍びやかに城中に引き上げようとしているのを見つけた。
荊の棘に引っかかってどうにも引き上げかねている敵に対し、
「台無はここにあったぞ。おのれら、一人も逃さないからな」と叫ぶと、切って懸かる。
この声を聞いて後からも味方が大勢駆けつけてきたので、
敵は大鉄砲を捨てて切岸を這い上がり、命からがら城中へと逃げ帰っていった。
杉原は台無を取り返して会稽の恥を雪いだようなきぶんになったばかりか、
今宵も命をつないだとほっとしたようだった。

こうして、三尺ほどある木の切り株に引っかかっているその台無の台座と筒口に縄をつけると、
一方を杉原の手の者の入江大蔵・その弟左衛門進が二人がかりで引いた。
もう一方は、今田中務・その弟の新見左衛門尉が、こちらも二人で引いたのだが、
いずれも劣らぬ力持ちだったので、今田が「えいや」と引けば台無は今田の方へ寄り、
入江がまた足を踏ん張り歯を食いしばって「やっ」と引けば、入江の方へと寄る。
双方とも負けじ劣らじと引き合った。
香川兵部大輔はこれを見て、「意味のない力比べをするな。
いつ敵が突いて出てきてもおかしくないのに、それに渡り合おうと備えるのではなく、
味方同士で腕比べしている場合か」と制した。

今田も入江も「もっともだな」と同じて、互いに「エイヤッ」と渾身の力を込め、
力を合わせて縄を引いた。
九鼎(夏の禹王が九つの州から金を貢上させて作った鼎)をも
羽毛のように扱うほどの大力なので、その木の切り株も堪えきれずにボコッと抜け、
ドッカと裂けて、大鉄砲と一緒に遥か谷底へと落ちていていった。
敵も味方もこれを見て、「なんと信じられない大力量だろう。
孟賁・ハンカイであろうとも、こんなことにはならないだろうに」と、
目を見開き肝をつぶして見物していた。


その後、この大台無を杉原の陣中に運び込もうとしたところ、筒口の方は侍が六人がかりで担いでいた。
台座の方は、入江大蔵がたった一人で持っていたが、それは軽々と持っていたそうだ。
なんという力持ちだろうと、人々は皆感心したという。


以上、テキトー訳。

これだよ! こういうのを待ってたよ! だから正矩好き!!!
自軍の落ち度を討ち死にすることで晴らそうという杉原さん。
どうでもいいけどアンタよく怒ってるな。かっこいいよ。
それで元長の伝令がな、泣かせんじゃねえか。
「後から駆けつけるから、思う存分戦ってね!」ってさ。
……そうだよな、戦うべきときに制される悔しさは、身をもって自分が一番わかってるもんなぁ。
杉原にとってもこれは、そりゃ嬉しいはからいだよねぇ(*´∇`*)

今田・経家・春継が仲良く一緒の陣でお話してるシーンもいい。
仲いいんだな~って思えて、胸があったかくなる。
考えてみると、もとからの吉川家臣で興経殺害後は毛利・元春に反発していた今田上野介の子、
吉川一族ではあるものの独立心旺盛だった石見吉川の嫡子経家、
元春というか熊谷氏関連で引っ張られてきたであろう、新参の春継……
この人たちが仲いいってのは、本当にじ~んとくる。

あと、敵の寺本にもちゃんと見せ場があるとこが楽しい。
肩から背中を射抜かれた人もアイタタタって思ったけど、
へその下射られた人はホントご愁傷さまでした(´人`;)ナムナムチーン

そんでもって、合戦には至らずに例の大鉄砲を無事奪い返すことができたわけだが、
今田と入江は何やってんですか。鉄砲挟んで綱引き?
まあ戦場で遊ぶのは、吉川衆の見せ場っちゃあ見せ場なんだよな。
読んでてすごく楽しい(*´∇`*)
春継が的確なツッコミ入れてるのもすばらしい。
ドリフのちょーさんみたいだね!

はぁ、今回の話でだいぶ気持ちがスッキリしたぜ。
上月編、まだ続くよー♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
2012-11-16

元長の遠吠え

昨夜は眼球が謎の痛みに襲われたので寝ちゃったテヘペロ☆
謎というか、目を酷使する仕事なので予想の範囲内なんだけれども。
おかげさまで今日はちょっと回復(^ω^三^ω^)

さて陰徳記!
これまでのあらすじ:
宇喜多に請われて、織田方の尼子勢が立て籠もる上月城を取り巻いた毛利勢。
但馬に向かう予定だった元春父子も、隆景の再三の要請に応じていた。
上月城の後詰として日に日に数を増していく秀吉の陣を前に、
元長は夜討ちを提案するが、隆景や安国寺によって却下されてしまう。

がんばれ、元長! 負けるな、元長! 明けない夜はないさ!?


元長、夜合戦詮議のこと(下)

元長はどうすることもできずに自陣に戻ると、近侍している者たちにこう語った。
「祖父元就がたった一代で武威を次第に強大にできたのは、
大きな敵に対峙してとてもかなわないというときでも、敵の隙をうかがって不意に戦を仕掛けて、
何度も勝負を決してきたからだ。指を折って数えてみると、有田、厳島、
また尼子が吉田を包囲したときにも数度そうしたという。
勝つべきところを見切り、余計なことは考えずに必勝か必死か、その二つだけを胸にして合戦した。
それで何度も勝利を得て、しまいには山陰山陽をすべて手に入れることになった。

今、中国の勢を率いて信長に対峙しているのは、蟷螂が車を遮るというたとえ
(弱者が無謀にも強者に立ち向かうこと)と同じなのだ。
信長はすでに浅井・朝倉、そのほか機内の敵、美濃の斉藤、駿河の今川などを滅ぼし、
そのうえ武田四郎をも長篠で追い詰めて、いるのかいないのかもわからないほどにしてしまい、
大国三十余国を手にしている。
味方は山陰山陽のうち十ヶ国の勢を集めたとはいっても、大友という敵が背後にいるから、
周防・長門の二ヶ国の勢は、大友の押さえとして残してきている。
だからたった八ヶ国の勢に過ぎない。
この勢でもって、大軍の信長に対して、普通に対陣できると楽観視していては、
どうやって勝利を得ることなどできようか。

危うい戦を慎むのは、時と場合によるものだ。
小敵に対してなら、それもいいだろう。
大敵に対して危うい戦を慎めば、ただ臆しているのと同じようなもので、
次第に鉾先は弱弱しくなり、最終的には勢いも衰えて易々と追い詰められるものだ。
大敵に対しては危うい戦を慎むべきものならば、なぜ祖父元就は有田・厳島の合戦をなさったのか。
これは皆元就の誤りなのだろうか。

唐土の項羽などは、自軍の帰路のための船を沈めたり糧食の甕を壊したりして、
兵たちに決死の覚悟を決めさせ、韓信は背水の陣をしいて同じように士気を鼓舞した。
また我が国の源義経は鵯越を疾駆し、航路が荒れても西海を渡って、たった八十余騎で八嶋へと攻め寄せた。

それはそれとして、今回は味方が勝利を得ることもあるかもしれない。
それでも、今羽柴と一合戦して勇のほどを見せ付けなければ、敵は大軍なのだから、
今後何度も対陣することを考えたら、このままでは味方のためにはなるまい。
光武帝は大敵を目の前にすると勇んだという。
今羽柴と一戦して大勝利を得なければ、三木・神吉・大坂の城々は、しまいには落とされてしまうだろう。
信長は関東を切り従えてさらに大軍になるまで、
我らは自分の国ばかりをただ守っていればいいとでもいうのか。
こうして対陣に及んだ上は、存亡をかけた一戦をして敵の意気をそいでしまわなければ、
最終的に味方の勝利は望めないだろう。

今に見ているといい。
信長が次々と武威を増していけば、三木・神吉も城を落とされてしまうか、
降参してしまうかのどちらかになるだろう。
大坂もいずれ負けてしまうはずだ。
そうなれば信長は三十三ヶ国を切り従え、西国・九州もその威に服すことになる。
そうなったら宇喜多などの者たちも強い者についていく。
我らの周りには毛利譜代の侍だけが残る。
こうして勢いも衰えてしまえば、戦っても利は得られない。

危うい戦であっても、余念を捨ててかかるべきときがあるのだ。
また、勝ちをひたすら信じて、戦いを慎むべきときもある。
今夜の合戦をいたずらに延期するのは、当家の満ちている武威を欠くようなものだ。
だからこそ、昔の偉人も『兵は凶器であり、戦が長引けば変を生ず。
智伯は趙を囲み、年を越しても帰らなかったが、あるとき急に襄子に捕らわれてしまった』と述べている。
今戦を決さずに、ゆったりと城を守っているだけでは、信長が猛勢で出張りしてきてしまう。
そうすれば直家はすぐに信長に一味してしまうだろう。
そのときは、備前・美作を敵に回すことになり、背後を断たれてしまうだろうから、
退却しようにもできなくなる。
前には信長の猛勢が陣を張り、勝久もまた塁を高く堀を深くして立て籠もっているから、
戦おうにも戦いようがない。

祖父元就も、『数万の衆を率いれば、敵味方の陣の機を読んで、戦えば勝ち、攻めれば取り、
天下に威勢を争うには元春以上の者はいない。
仁を施し民を愛し、国家を保つことにかけては、隆景の右に出る者はいない』と仰っていた。
『軍容が国に入らず、国容は軍に入らないのは、物事がまったく違うからである』とも言うではないか。
合戦の道のことは元春に任せるべきことだけれども、
今回は隆景の領域への加勢として、我ら父子が出てきている。
だから押して戦を決することもできず、すべき戦ができないのだ。

だいたい、あの安国寺の振る舞いは差し出がましい。
頭を振って軍評定の是非を論じるなど、とんでもない。隆景があの佞僧を重用したのは失敗だった。
あの僧は狡賢く、口端がきくから、智略などの使者には役に立つだろう。
それでさえ、佞智に溢れた坊主なのだから、敵が『所領を与えよう、宝を与えよう』などと誘えば、
欲をかいて敵に味方しようとするはずだ。
隆景が召抱えていらっしゃる他の者たちよりずいぶん劣っている。
このような戦うべきところで戦わないのは、勇も智も拙いがゆえだ。なんと口惜しいことだろう」

元長は大いに憤った。
その眼光は千入の紅をたたえたかのように見えたので、
周囲の者たちは、「なんと強い対象だろう。
この勢いで無二に切り入っていけば、秀吉の堅陣はもちろんのこと、
雲に聳える漢陽宮を項羽・高祖のような良将が堅く守っていたとしても、
たちまちのうちに函谷の関を攻め破ってしまうに違いない」と感じた。

このことを後に思い出してみると、隆景が
「城さえ攻め落とせば後詰の敵は退散するだろう。危うい戦を決するのは許可できない」と言ったのも、
割符を合わせたかのようにぴたりと当たっている。
また、元長が「よしんば今回は大局の合戦に勝てたとしても今一戦しておかなければ、
相手は大軍なのだから、しまいには中国の武威が衰えて、
宇喜多たちは強そうなほうに靡いて敵に与してしまう」と言ったのも、一点の違いもなかった。
いずれも、類まれにも未来のことを言い当てていた。


以上、テキトー訳。おしまい!

元長の負け惜しみ……長えな。さすが元春の子、いやさ元就の孫。
悔しい気持ちはよ~くわかる。
なんつーか、現代のサラリーマンも日々感じている類のストレスと似てる気がする。
たとえば会議で企画書出すように言われて、他の大事な仕事そっちのけで企画を上げて、
それなのにケチョンケチョンに言われて「ぐぬぅ」ってなるとか。
そういうことって、あるよね!
どんまい、元長! ファイトだ、元長!
酒でも飲もうぜ!

しかし目を真っ赤にして憤る元長かぁ。見てみたかった……

今回の話で「なんかなぁ」と思ったのは、
「勝ち」というかこの合戦の終着点てのがバラバラなんだよね。
人によって思い描いている終着点が違う。
ええ、会議でよくある状況です本当にありg(ry
あれだな、人間なんて何百年前から大して進歩しねえなwww

元就が生きていたときは、最終ビジョンを元就が決めていたからよかったけど、
最終的な着地点を決定できる人間が、元就死後の毛利家にはいなかった印象を受ける。
関ヶ原も根本原因は同じなんじゃないかと思うんだよね。
輝ちゃんの悪口じゃないよ!
こんだけアクの強い親戚が揃ってたらしょうがないよ!

てなわけで上月編、もうちょいツヅクノデス。
2012-11-14

叔父VS甥っ子

だいたいの流れ:
織田方の尼子勢が上月城に籠もり、彼らに撃退された宇喜多直家の要請によって、
毛利家は上月を攻めることになった。
同時期、吉川父子は但馬の国人衆と連絡を取り合い、
但馬へと発行する予定でいたが、隆景の説得によって上月攻めに同道することになる。
毛利勢が上月を取り囲むと、後詰として秀吉がやってきて、高倉山に陣を張った。
そして上方からは日に日に援兵が来着し、信長の出張りも近いと噂される。

状況的に危機感が増すなか、我らが元長は何を提案するのか!?
ちょいと長めなので上下編に分けるっす。


元長、夜合戦詮議のこと(上)

吉川治部少輔元長は、父の元春に向かって言った。
「敵陣の様子を見ると、日々兵の数が増えていき、今はもう十万余騎を越えているように思われます。
きっと信長が近日中に出張りしてくるのでしょう。
そうなれば敵勢はさらに威勢を増し、味方が由々しき一大事に直面するのは必定。
今のうちに羽柴の陣に夜合戦を仕掛けて切り崩すべきかと。

一陣が破れれば、残りの勢もまともな働きができないものですから、
この陣を切り崩しさえすれば、信長もおいそれと出張りするわけにもいかなくなるでしょう。
あの大軍を相手に昼日中の合戦をすれば、味方の勝利も危ぶまれます。
それに、秀吉は信長が出陣してくるまでは戦を慎み、大きな合戦に乗ろうとはしないはずです。
寡をもって衆を挫くには夜討ちが最適だと、古来から申し伝えられてきています。
是非とも一合戦したく思いますが、いかがでしょうか」

元春様はこれを聞き、「それが一番いいと思う。私もそう考えていたところだ。
隆景と話し合って、夜合戦に存亡を賭けてみようではないか」と答えると、
足立彦左衛門・佐伯源左衛門を呼び寄せ、
「山伝いに行って、敵勢が山の後ろにも続いているかどうか確かめてこい」と命じた。
二人の者たちは早速山道を人目を忍んで走って行き、やがて駆け帰ってくると、
「山の後ろには伊勢衆と思しき勢が五、六千ほど陣取っています。
それより先には、眼の及ぶ限りの場所には敵はいないようでした。
しかし、飾摩あたりには敵勢がひしめきあっていると聞きました」と報告した。

元長がこのことを隆景に打診すると、隆景はしばらく思案して、
「元長の仰せは実に道理にかなっている。しかし、敵勢は十万以上に及んでいる。
そのうえ信長も出張りとなれば、また五万も七万も兵が増すと考えるのは仕方ない。
信長の分国の勢を見積もってみると、二十万騎ほどにはなりそうだ。
しかしあちこちの押さえのために兵を置かなければならないから、
この地へと向かってくる勢は十万よりそれほど多くはならないはずだ。
だから信長がさらに出張りしてきたとしても、二、三万に過ぎないだろうから、
信長と対陣したとしても、味方はそれほど危うくはならないはずだ。

この城はおそらく近日中に落ちる。
城が落ちてしまえば、信長が負けたことになる。確実に勝てる戦なのだ。
有無存亡を賭けた一線は、もう少しよく考えたほうがいい。

杉原の陣取っているところからは、敵陣に岸が備えられていて足場が悪い。
また宇喜多の陣所からは、平地で足場はいいが、宇喜多の心中はどうも怪しい。
もし宇喜多がよからぬことを考えていて信長に内応したとしたら、味方の惨敗は目に見えている。
こうしたわけでこれから夜合戦をするのは非常に危ないことだと思う。
まずは思いとどまってほしい」と言った。

元長は重ねて、「隆景の仰せですから、押し返して申すのもいかがかと思いますが、
今現在の兵力に信長の勢が加わって采配を振るうならば、
兵力は倍にはならなかったとしても、味方は危険にさらされます。
前方には険難の城を攻め、後方には当代の天下の権勢を司る大強将の信長の十万の勢を
引き受けているというのに、我らはたった五万しかいません。
この情勢で勝負の行方を考えてみると、敵の勝利は十のうち七か八、
味方の勝利できる可能性は二割三割にも及びません。

昨日や今日敵陣に到着した勢は、人馬ともに疲れ果てていることでしょう。
敵は長旅を経てきたところを急襲すべしというのが常道ですから、今が撃つべきときだと思います。
それに雨が盆を傾けているように降っているし、折りしも五月闇です。
これは天の与えてくださった好機です。
宇喜多の陣から押し寄せれば、地の利も味方にとって適しています。
機といい、地の利といい、今が夜討ちすべきときです。
これを延期してしまえば、かえって禍を招くようなものでしょう。

宇喜多の者たちに二心があるかもしれないと疑っていらっしゃるのならば、
どうして宇喜多の要請に応じてここまで出張りなさってきたのですか。
元春と私は丹波へ向かうと再三申しましたのに、
どうしてもこの地へ罷り出るようにと仰ったのはあなたです。
それなのに、今また夜討ちをしようと申せば、宇喜多の所存がわからないなどと仰る。
こんなことになるとは思っておりませんでした」と、心の内を残さず言葉にした。

元春もひたすら「夜合戦しよう」と意見したけれども、
隆景は謀を先にして急に戦を決することを慎む良将だったので、
「この夜合戦の勝利が確実だとは思えない」と、それを制した。

意見が真っ二つに割れたところで、安国寺が
「夜合戦は今でなくても近日中にやればいいではありませんか。
とにかくこの城さえ攻め落とせば、敵は退散することでしょう。
信長卿も東国・北国・大坂などをまるきり打ち捨てて、当地に長陣を張るわけにもゆきますまい。
味方は後詰の敵には目もくれずに、ただこの城を攻め落とすのに専念したほうがよろしい。

先年、九州立花の城をお攻めになったときにも、後詰の大友勢は九州各国から集結したので、
今の高倉山の陣よりもさらに大軍でした。
それでもこちらから合戦を仕掛けることをせず、敵がかかってきたときに防戦なさったではありませんか。
陣の構えは堅固にしてありましたから、大友勢はかえって城を攻めているような形になって、
怪我人や死人が多く出ただけで、一度も勝利を得ることはできませんでした。

今回も、また信長が出張りしてきたとしても、城を攻めることに専念して、相手になさいますな。
そうすれば信長は堪えかねて切りかかってくるかもしれませんが、
我らの陣の構えは厳重にしてありますから、敵勢は討たれるばかりで勝利はないでしょう。
とにかく日数を稼げば、城は十日から十五日、遅くとも二十日以内には落城するでしょう。

とりあえず、夜戦は延期なさってください。
もし仕損ねて敵に勝ちを取られてしまったら、宇喜多はあっという間に秀吉に与すでしょう。
そうなれば、味方は少ないのですから対陣もできなくなるはずです。
もし退却することになれば、敵は逃げる獲物を追うように進んでくるでしょうから、
一人として安全ではいられません。

危うい勝利を拾いに行くよりは、確実に負けない謀の方がよくないでしょうか。
隆景は負けぬようにと仰いました。元春・元長は勝つべきだと仰います。
いずれも水に立つ波ほどの違いしかありません。
まずは完璧な謀略を取るのがよろしいかと存じます」と言う。
三吉修理亮も「確かにそのとおりだ」と賛同したので、その夜の合戦は中止になった。


以上、テキトー訳。続く。

うおお元長ーーーーー!!!
なんつーか……なんつーかぁ!
つまり言いたかったことは「やだって言ってるのを無理に呼びつけたくせに、
戦やるって言ったら駄目出すとかどーゆうこっちゃ!」ってことなのかしら。
その後の「隆景は良将なので~」のくだりは、ちょっと皮肉っぽいと思ってしまったw
とにかく元長の心理描写が丁寧なので、陰徳記、好き(*´∇`*)

こういうのを見るにつけ、香川家では元長のことは事細かに語り伝えられてたんじゃないかと思うんだよ。
春継がずっとそばで支えてきた人だもんな。
隆景が微妙に敵っぽい描かれ方なのは、
関ヶ原後の小早川家旧臣団の行く末なんかも影響してるんじゃないかと、
最近思うようになってきた。
多くが減封された毛利家で満足な処遇が得られず、他家に移っていったらしい。
黒田とか細川とかな。
だから小早川側の言い分てのが、陰徳記が執筆されたころには、
毛利家中では希薄だったんじゃないかと。
一方、家臣団が移っていった黒田などでは隆景マンセーのようだ。
あと秀元も隆景旧臣を取り込んでるから、秀元記なんかでは隆景がかっこいい。
まあ、ちゃんと読んでないうえ、現時点での勝手な印象だけどね。

そして安国寺ェ……敵キャラっぽい描かれ方はしょうがないとしても、
この人が隆景派なのは異論を待たないと思うなw
さぞかし吉川にとってはうるさい存在だったことでしょう。

兵法には詳しくないので、どっちの戦法がいいのかはわからん。
とりあえず吉川家が好きです(・`ω´・)

さて、続きもたっぷり元長ちゃん!
2012-11-13

うっかり雅楽允☆

だいぶ長いこと滞ってしまったけど、
おかげさまで毛利ナイト、大盛況で終了できました!
段取り悪くて申し訳なかったけど、皆さんが盛り上げてくださったおかげですん!!!
相談に乗っていただいてなおかつ記念品をデザインして提供してくださったT様、および
はるばる西国からお越しの上に、ずっと裏方でお手伝いしてくださったA様には
感謝してもしきれない……(*´∇`*)すき。
あと快くお店を提供してくださった東京のおっかさん&おとっつぁんにも感謝感激雨霰!
オフ会の模様も、ゆっくりできるときに報告したいと思います。
次の休日あたりにがんばるんば。

そんなわけで陰徳記。
だいたいの流れ:
織田方の尼子勢が籠もる上月城を取り巻いた吉川・小早川。
そして後詰に駆けつけてきた秀吉がいよいよ対陣!


杉原の手の者の忍び討ち、ならびに後詰勢が馳せ加わること

杉原播磨守は敵の陣を見渡しながら立っていた。
忍びの者たちを呼び寄せ、「おまえたちのことは、こういうときに忍討ちさせるためにこそ、
これまで他人の蔵を穿ち壁を破って盗みをしていたのも、少々は見逃してきたのだ。
秀吉の堅陣へと忍び入って、敵の用心のほどを確かめて参れ」と命じた。
「かしこまりました」と、徳岡久兵衛尉・佐田彦四郎・弟の神五郎・その弟の小鼠・
別所・三次兵衛尉・弟の雅楽允・安原神次郎・菊池肥前守など二十余人が、
五月初旬に高倉山の敵陣に忍び込んでいった。

そして思うままに紛れ込むと、一番に徳岡久兵衛尉が、
篝火の番をしながら居眠りをしている者一人の首を切って落とした。
その隙に残りの者たちはすぐそばの陣屋へと忍び入って、手に手に首を打った。
そのなかでも別所雅楽允は、帯びていた刀の丈が長く、そのうえ鍔も大きかったので、
つっかえたのか、首を落とそうとしてもなかなか落とせない。
こうしたところに勘のいい上方勢が気付き、敵が忍び込んできたのを聞きつけて、
「忍びが討ち入ってきたぞ」と叫んだかと思うと、我先に渡り合おうと集まってくる。

この気配を感じて、残りの二十余人の者たちは皆尾崎へと引き揚げたが、
耳を澄ましていると、別所がまだ首を切り落とそうとしている音が聞こえた。
佐田彦四郎は、「別所よ、鍔がつかえて切れないようだぞ。宙に浮かして切れ」と、
対面の山から声をかける。

別所はもっともだと思い、首を持ち上げて見事押し切った。
そこで別所は「杉原の郎党、別所雅楽允、この陣の真ん中で忍び討ちに敵を討って帰るぞ。
畿内並びに美濃・近江あたりの弱敵と同じようなものだと思われたなら不覚であったな」と
大音声を張り上げて叫ぶと、走り帰っていった。
敵は「あの男を逃すな」と追いかけてきたけれども、辺りは暗い上に不案内な場所である。
どうにもできずに、すぐに引き揚げていった。

その後、高倉山の陣には捨篝火や本篝火が隙間なく焚き続けられ、
まるで昼日中のように明るくなったけれども、
杉原の手の者たちは何度もそこに忍び込んで敵を討ち取った。
さすがに精鋭の上方勢であっても、安心して過ごせる夜はなかった。

信長は、「私自身もやがて上月表へと打って出て、
吉川・小早川をたちどころに討ち果たして見せるぞ。まずは秀吉に協力するように」と下知した。
「かしこまりました」と言って打ち立った人々は、
惟任日向守・筒井順慶・武藤弥兵衛尉・滝川将監などがいた。
四月二十八・九日のうちに出発して、五月の初旬には皆上月表へと着陣したので、
高倉山の勢は八万余騎に膨れ上がった。

その後に続いて出発した人々は、信長卿の次男の北畠信雄・三男の神部三七・織田上野介・
長岡兵部太輔・蜂屋兵庫・氏家左京亮・伊賀伊賀守・稲葉伊予守・佐久間左衛門尉などで、
一日二日遅れで、我も吾もと馳せ下っていく。
同五月七日には、中将信忠様・惟住五郎左衛門が三万余騎で出発した。
こうして信忠兄弟三人は摂津で信長卿の出張りの到来を待ち、
上月表へと下ろうとして、しばらく控えていた。
蜂屋・氏家・伊賀・稲葉・佐久間といった人々は、先立って上月へと下ってきたので、

同中旬のころには後詰の勢が日に日に数を増し、すでに十万騎を上回っていた。
この猛勢を見ては、いかに勇将の元春・隆景といえども一日と持ちこたえられまいと、
敵も味方も考えていたが、両将は少しも怯んだ様子もなく、盛んに城を攻め立てていた。


以上、テキトー訳。

杉原さんはまじで厄介な部下の使いどころを心得てるよなー。惚れる。
「大概どうしようもないやつらだから、失敗して死んでも惜しくない、
それどころか粛清の手間が省けて一石二鳥だぜ」くらいに考えてるんじゃなかろうか。
これまでの杉原さんのパターンだと。
非情なんだけど、けっこう好きなんだよな、この人。
いつか備後に杉原参りしに行きたい(*´∇`*)

あとね、別所さん……コントみたいだねw
首が切れなくて皆が退却してもまだ首切ろうとしてるとか。
佐田さんも「首は捨てて引き揚げてこい」じゃなくて「こうやって切るといいと思うよ~」とか、
そんなアドバイスしてる場合かよ! もっと早く突っ込んでやれよ!
しかし逃げ遅れたのをいいことに、きっちり存在をアピールしてくる雅楽允は策士。

そして大移動しはじめた織田勢……この動員力と、それを支える兵站の運用がすげえなぁと思う。
秀吉がそのへんのスキルをきっちり受け継いでるよね。
まあ朝鮮ではアレでしたけども。

さて次章! 元長ちゃんが吼える!?
2012-11-06

サルが来たぞーッ!

だいたいの流れ:
宇喜多を蹴散らして播磨は上月の城に入った尼子勢。その後ろ盾には織田の秀吉が。
宇喜多は輝元に援軍を乞い、南方を管轄する隆景が中心となって播磨への出征が決まる。
一方、独自に但馬の国人と示し合わせて京都攻めを目論んでいた元春は、
隆景の再三の要請により、但馬出張を後回しにして播磨への出馬を応諾した。


元春・隆景上月の城を取り囲むこと、付けたり秀吉後詰のこと

さて元春・元長が上月へ出張りすると定まったので、
輝元様・隆景は合図を定めて吉田と沼田を出発しようということになり、
吉日良辰を選んだところ、同(天正六年)三月十二日と定まった。
南方は隆景の管轄なので、輝元様の譜代の侍も多く駆けつけて従った。

その人々は、穂田治部大輔元清・天野六郎左衛門元正・宍戸安芸守隆家・嫡孫の備前守元好、
国人には三吉式部大輔・同新兵衛尉・高山入道久意・同五郎兵衛尉・久代修理亮俊盛・
古志清左衛門・有地美作守・栗原新十郎・楢崎弾正少弼・平賀太郎左衛門・その子息杢頭・
三村紀伊守・清水長左衛門(宗治)・草刈太郎左衛門・小笠原少輔・上原右衛門太夫・
田治部蔵人・比幡六郎兵衛尉・伊勢・細川一族・大石・志賀・杉次郎左衛門・仁保右衛門太夫・
三浦・吉田・朝倉・坂・福原・桂など、総勢二万余騎だった。

水軍は児玉内蔵丞・粟屋内蔵丞・村上八郎左衛門・浦兵部丞などが大船七百余艘を率い、
播磨潟・明石の浦・摂津・須磨の浦に船をかけ並べて海上を警護した。

元春様に従う人々は、嫡子の治部少輔元長・次男の左近允元氏・三男の民部大輔経言・
毛利七郎兵衛尉元康・毛利十郎元秋、
そのほか国人では山内新右衛門・同刑部少輔・益田右衛門佐元祥・羽根兵庫助・
佐波越後守・同又左衛門・津野駿河守・三沢三郎左衛門為清・子息の摂津守為虎・宍道五郎兵衛尉・
田賀吉六・天野紀伊守隆重・三刀屋弾正左衛門久祐・古志因幡守・湯佐渡守・
杉原播磨守・嫡子の弥八郎元盛・次男の又次郎景盛・有地右近・同左京亮・
南条伯耆守元続・尾鴨官兵衛尉元清・山田出雲守・小森和泉守・吉田肥前守・日野左近・
福原治部大輔・同藤兵衛尉・田利・小曳・周布・祖式・久利・都治・出羽・岡本・小策など
一万五千余騎が出雲の国の冨田を同日に出発し、美作の国の高田に着陣して、
隆景と合流して上月表へと出張りした。

これを聞いて宇喜多和泉守直家は、思うところあったので自分自身は病気だといって、
家之子の岡越前守・戸川肥後守・明石飛騨守・宇喜多七郎兵衛尉忠家・長舟紀伊守・
宇喜多信濃守・岡強介・沼本新右衛門・花房志摩守・同助兵衛尉・中村三郎左衛門・
伊賀左衛門進・富山半右衛門・市五郎兵衛・芦田五郎太郎・延原内蔵丞・宇喜多河内守・
小原入道の信明・楢原監物など一万四千余騎を差し出した。
総勢五万余騎が上月の城を取り囲むと、さながら稲麻竹葦のようだった。

元春様が二宮佐渡守に「鬨頭を上げよ」と言うと、二宮はすぐに上げた。
総軍五万余騎がそろって三度鬨を上げた。
その声は、上は非蒼非々蒼天、下は奈落の黄泉の底にまで届きそうなほどに大きかった。
元春様は敵に対峙すると、まずは自分が負けそうなところ、負けそうもないところの二つを工夫して、
それから敵に勝つための策略を練る。
今回もまずは羽柴の後詰対策として惣陣の周りに芝土手を高く築き、堀を深くして塀をつけ、
あちこちに柵の木を結い、乱杭を打たせて向城のように構えた。
いかに強敵の信長・秀吉がたとえ後詰に現れても、この陣を打ち破れるようには見えなかった。

元春から使者を通じて隆景様へと「羽柴筑前守は近日中に後詰にやってくるだろう。
だから惣陣周りを堅固に構えたほうがいい」と言い送ると、
折りしも長舟紀伊守・岡越前守が隆景の本陣に来ているところだった。
「秀吉はまずは三吉の三木へ攻め懸けてきました。
そこにあなたの御手勢の乃美兵部丞殿と別所殿が相談して一戦を遂げ、
たちまち突き立てて瓢箪の馬印の後ろを見ることができました。
秀吉はこれに大いに怒り、とにかく三木ともう一度一戦しようという心積もりらしく、
この地へはおそらく出てこないでしょう。ですから惣陣の構えはそれほど堅固でなくても構いません。
そのことはさて置いておいてください」と言った。
隆景はこれに同意して、元春の使者には「よくわかりました」と返事をしたけれども、
陣の構えはしなかった。

元春は、「秀吉は信長から中国攻めの先陣を任され、そのうえ播磨一国を与えられて、
その勢いは朝日が東から昇ってくるかのようだ。
自分の国の城で、しかも家城から十里も離れていないところを攻められて、
後詰に出てこないことがあろうか。
どんな弱将といえども、まず間違いなくそうするというのに、秀吉がそうしないわけがない。
足軽競り合いのような小さな合戦で別所に負けたからといって、
そんな小事を心にかけ、大事を差し置くことがあろうか。
今に見ていろ、きっと後詰に出てくるぞ」と言った。

羽柴筑前守は信長卿へと、「中国勢は数万騎を率いて上月の城を取り巻いてきました。
私がすぐに後詰に向かいたいところですが、敵は猛勢ですので、勝てる気がしません。
援軍を出してくださいませ」と申し入れたので、
信長はすぐに荒木摂津守を差し添えて、そのほかさまざまな兵を一万余騎加勢に向かわせた。
秀吉・荒木を両大将として、四万余騎が、同四月晦日に上月表へと打って出、高倉山に陣を張った。

このとき隆景様の陣は「構えを急げ」と騒いでいたけれども、
元春の陣は事前に構えは済ませていたので、物静かなものだった。
こうして惣陣の周りに柵を結い、内外の人の出入りを監視するために、
元春からは新見左衛門尉・森脇相模守、隆景からは楢崎弾正忠を付け置いた。
「すでに羽柴筑前守が後詰に来たということは、信長卿も続いて出張ってくるだろう。
後陣の大勢が到着する前にこの城を攻め落とせ」と、仕寄を隙間なく付け寄せて攻め戦った。
城中にも尼子家の鋭卒が残らず立て籠もっていたので、寄せ手の大軍をものともせず、ここを先途と防戦した。

秀吉が陣取っている高倉山の尾続きには、宇喜多の手から先陣は中村三郎左衛門、
二陣は宇喜多七郎兵衛尉忠家、その次は戸川平右衛門、
そのほか明石飛騨守をはじめとして備前・備中・美作の勢が一万四千騎が、
それぞれの陣を厳重に構えて、敵に馬を入れさせるまいと乱杭をしっかりと打ち付けていた。
その次には三吉・平賀をはじめとして備中・備後勢が陣を敷き、
それより少し小高い参上に隆景様が手勢ならびに毛利家譜代の侍たちを従えて、二万余騎で陣を取っていた。

元春様の手には、上月の山下の平地に下って、杉原播磨守父子三人が二千余騎で陣を取っていた。
その次は杉原の備えとして宍道五郎兵衛尉、
その後には天野紀伊守隆重・南条伯耆守元続・小鴨官兵衛尉元清・山内父子などが続いて陣を構え、
その後方の小高い峰に元春様が陣を据えていた。
どの陣も構えが堅固なので、たとえ信長が出張りしてきても、容易く攻め破られそうには見えなかった。

秀吉も今回が中国勢との初めての合戦で、どうにか敵に一塩つけてやりたいと思っていたので、
諸仏諸神に祈祷などをしていたが、五月十八日、紹巴法眼のところで連歌興行を行った。
発句は聖護院道澄であった。「常盤木も かつ色見する若葉哉」、
脇は秀吉の代句で、「夕景ふかき 夏山の露」、第三は紹巴で、「村雨の音し音せぬ月出て」と続き、
こうして百韻が成就したので、懐紙や酒などを紹巴が陣中へと送った。
秀吉も、敵より小勢だったので、大勢に見せかけるために月山に篝火を焚かせていた。


以上、テキトー訳。

ようやく秀吉と毛利家が初対陣! オラわくわくすっぞ!
交渉ごとでは、これまでに何度も接触してきたんだよな。
毛利の方から、織田との交渉には「羽柴殿で!」って指名してた形跡がある、という話をどこかで読んだっけ。
どこだっけな……

まぁ今回も、なんか元春と隆景がギスギスしてるわけで。
陣を張って即座に強固な構えを築く元春、対して敵が見えてから柔軟に対応する隆景。
どちらが優れてるのかはわからないけど、私は元春の戦法の方が安定感があって好きかも。
というかさ……このとき輝ちゃん何してたん……?
影が薄いよ! もっと出してやってくれたっていいじゃない正矩!

あと秀吉方面で気にかかったのは、神仏への加持祈祷の範疇として「連歌興行」が出てきたことだな。
連歌って、もっと社交だとか遊興のイメージが強かったけど、
神仏への祈祷としても広がってたんだね。
そういえば要所要所で連歌会って出てくるよな。
明智光秀が本能寺攻めするときにも連歌やってたし(陰徳記では)。
これまで意識してこなかったけど、なるほどねー、と思った。
もしかしたら、連歌師が生計立てるために広めたブームだったりしてねw

さて次章!といきたいところだけど、
明日あたりからオフ会準備に集中しようと思うので、
ブログの方はしばらくドロンするかもデス。
2012-11-05

元春・隆景の思惑

だいたいの流れ:
明智の元を離れて秀吉配下に入った尼子勢は、
宇喜多とドンパチしながらこれを拝して播磨の上月の城に入った。
このとき宇喜多は毛利に属している。
そろそろ毛利・織田の全面戦争になだれ込むか!?


中国勢、上月の城を取り囲むべく会議のこと

丹波の国の住人、赤井・波多野など数十人が一味同心し、元春へとこういい送ってきた。
「この丹波へと出馬してきてください。我らが先陣を務めて愛宕山へとよじ登り、
京都を見下ろして攻め戦えば、味方の勝利は手のひらの中にあります。
信長はおそらく本能寺にいて、軍勢は皆愛宕山へと向かい、洛外に陣取るでしょう。
そのとき洛中に味方の勢を忍ばせておき、合図を定めて、あちこちに火をかけて焼き払い、
不意に戦を仕掛ければ、どんなに勇猛な信長といえども、あっという間に逃亡するでしょう。
京都の戦いで勝利を得たら、逃げる敵の疲れに付け込んで安土まで攻め入り、
織田の一族をことごとく討ち果たしてしまいましょう。ぜひともご発足なさってください」

元春はこれを了承して、出雲・伯耆・石見の勢を集めて丹波へ向かうと定め、
侍二人を丹波へと遣わして、国人たちの練っている謀略を聞いてこさせた。
この合戦を確実に勝利に導く工夫もした。
赤井たちは「元春が了承してくれた」と大いに喜び、
「鬼カ城を補修して元春の本陣にしよう」と意気込んで、着々と鍬初めをしてすぐに完成させた。
そして元春の出張をいまや遅しと待ちわびていた。

こうしたところに、宇喜多和泉守直家から隆景へと、
「尼子孫四郎勝久・山中鹿介ら二千余騎が播磨の上月の城に立て籠もって、
美作の国に攻め入ろうとしています。
私一人の力で謀略をめぐらし、攻め落とすことも簡単ですが、羽柴筑前守が後詰に出てくるでしょう。
そうなれば由々しき一大事ですので、どうかこちらへご出馬ください」と言い送ってきた。
後から直家の謀略を聞くと、尼子に真壁を討たれ、また先日は秀吉に上月・矢嶋を討たれてしまったので、
毛利勢を引き出して尼子を退治し、その後元春・隆景を騙して討ち取り、
これを信長への忠節にしようという陰謀だったそうだ。
こういうこととは露ほども知らず、隆景は急いで吉田へやってくると、輝元様へこのことを相談した。

「尼子は以前からの当家の怨敵である。今これを退治しなければ、臍を噛んでも意味がない」ということで、
上月への出張りは決定した。
すぐに元春父子へと、輝元・隆景から
「丹波表への発向は中止して、まずは播磨へ上って上月を攻め落とし、
その後丹波へと攻め上ってほしい」と言い送った。
元春は、「上月へは私が罷り上るまでもないでしょう。
隆景が南方の勢を集めているのなら、宇喜多の勢を合わせて三万四、五千から四万にはなるはずです。
この兵力があれば、秀吉が出張ってきて後詰したとしても、味方が危うくなることはない。

私が出雲・伯耆・石見三ヶ国の勢を集めれば、一万五千から二万にはなるでしょう。
あちこちの押さえとして五千は置くとしても、残る一万五千の勢に、
丹波の国人たちもまた一万はいるでしょうから、二万四、五千になるでしょうか。
この勢で愛宕山へ上り、陣を据えれば、信長は我らに向かって対陣するでしょうから、
羽柴への加勢を送ることはできなくなります。
そうなれば秀吉の勢もそれほど多くはないのだから、後詰も十分にはできないはずです。
上月の城は十日以内に落城するでしょう。

上月を落城させれば、三木・神城らも大坂の門跡に大いに協力できるようになるので、
摂津の敵城の多くは城を空けて退却するはずです。
そのとき隆景が輝元の旗本勢と力を合わせて大坂へと漕ぎ上り、
門跡と相談しあって陣を張ればいいのです。

荒木などが信長に恨みを抱いているとも聞いています。
山伏を放って内意を聞いてみたところ、森乱丸の讒言によって信長の不快をこうむり、
たちまち深く信長を恨むようになったそうです。
味方に与してくれると現地を取ったわけではありませんが、はっきりと拒絶されたわけでもなく、
十中八九はこちらになびきそうな様子だったとのこと。
大坂・愛宕の両方から京都へと攻め入れば、荒木も味方になると申し出てくれると思います。
それに根来・雑賀の者たちももともと味方に志を通じているので、
これもまた張り切って加勢を送ってくれるでしょう。
信長と敵対してしまったからには、これから存亡をかけた決戦が始まると腹を据えて、
輝元・隆景も上月へ出張りなさってください。元春父子は丹波へ罷り上がります」と返事をした。

隆景は危ない戦を深く慎む良将なので、
「上月を間に置きながら、兄弟が二手に分かれて大敵の信長と存亡をかけた戦いに及ぶのは危ないと思います。
まずは上月を攻め落とし、それから二手に分かれて、元春は丹波へと上り、
我らは大坂へ攻め上った方がいいでしょう。丹波への出張りはそれほど急ぐことはありません。
荒木に味方になる気があるのであれば、もう少し摂津守の口約束を確かめるためにも、
固く誓紙を交わしたうえで約束を定め、それから京都に攻め上るべきです。
まずは上月にいらしてください」と、重ねて言い送った。

元春は、「荒木のことはたとえそうであるならよし、そうでなくても構わない。
荒木らを頼りにして合戦をするわけではない。ただ二手に分かれて攻め上ったほうが、謀の面でいいだろう。
丹波の国人たちは皆勢を三千と持っていない者たちばかりだから、
このことを信長が聞きつければ急いで討伐しようとするはずで、
そうなれば一国が五十日ほどのうちに滅ぼされてしまう。
赤井・波多野が滅んでしまえば、丹波へ上ることは難しくなる。
私は赤井・波多野と固く約束したのだから、丹波に罷り上がることにする」と強く言ったけれども、
「上月を攻め落としてからも上るべきではないと言っているのではありません。
危ない行動を控えて、確実な勝利を優先してください」と、吉田からも再三使者が送られてきたので、
元春様は心ならずも「わかった、播磨へ行こう」と返事をした。


以上、テキトー訳。

なんつーか、ここんちの兄弟はこれでいいのか?
いや、読んでる分には楽しいんだけど、
すっごく強引な弟に振り回されまくるお兄ちゃんみたいな、
なんかそんな風に脳内再生されてちょっと萌え……エホンエホンけしからん!
だいたいがこんな感じなら、新庄局がちょっとくらい隆景にツンしたっていいと思うんだ。
元春相手にして容赦なく要求を飲ませるS景さまステキだお(*´∇`*)
ていうか結局要求を飲まされるM春さんかわいいお(*´∇`*)

そんな戯言はさて置き、歴史にIFは厳禁だって知ってるけど、
このとき元春の思惑通りに動いてたら後の歴史がどうなったか、ってところは興味あるね。
元春が愛宕山から京都を狙って信長を引き付け、
その間に毛利・小早川勢で秀吉を撃破もしくは秀吉を京都と分断、くらいできていたならば。
まぁこのへんの信長の動きさえ頭に入っていないので、軽く言ってるだけだけど。
関が原IFよりはこっちのが的しぼれるし楽しそうだと思ったりして。

だいぶ夢見がちモードのまま上月攻めに突入すんぞ! オー!
2012-11-04

立原の静、鹿介の動

だいたいの流れ:
京都に集合した尼子勝久・山中鹿介・立原源太兵衛尉らはひらめいた。
「元春が倒せないなら隆景から攻めればいいじゃない。そうだ、播磨行こう!」
そんなわけで毛利方の宇喜多直家が兵を置いている上月の城に攻め寄せた鹿たちは、
恐れおののいて守将が逃げ去った上月城に難なく入ることができた。
直家から放たれた先陣は夜討ちで追い払ったものの、直家が数万で出張ってくると聞くと、
兵力差を懸念して一旦城を引き払うことになった。


秀吉、上月の城を落とすこと、付けたり勝久再びこの城に入ること

尼子勝久が上月の城を去ると、宇喜多直家が上月十郎(景貞)・矢嶋の何某(五郎七)を差し籠めた。
羽柴筑前守が二万余騎を率いて打って出、また上月の城を十重二十重に取り囲んだので、
城中の兵たちはたまりかねて、上月・矢嶋を差し出して、
残った者たちの命を助けてほしいとしきりに赤手を摺って頼み込んだ。
秀吉は絶対にこれを許さず、ことごとく生け捕って磔にかけ、蓑笠を着せて
「上総踊りというものでもやらせよう」と、火をつけた。
いっせいに「ああ熱い」「堪えられない」と叫ぶ声が上がり、
これを見る人々は、「これが本当の叫喚地獄の罪人の苦難だろう」と、
気持ちが落ち込み胸がふさがってしまう有様だった。
そのことがあってから、ここを「張付谷」と呼ぶようになったそうだ。

こうしてこの城に誰を差し籠めようかと思案しているとき、
山中鹿介が「私がまた立て籠もろう」と言い出した。
しかし立原源太兵衛尉がこれを強く諫めた。
「上月へ籠もるのは非常に難しいと思う。
この城は地の利があるわけでもなく、それほど険難でもない。
とりわけ道筋に張り出している美作との境なので、少勢はとても持ちこたえられないだろう。
私部の城の二の舞になってしまう。

私が考えたところ、宇喜多は先月、上月・矢嶋を殺された遺恨が胸裏に溢れているはず。
だから今度は、吉川・小早川を引き出してきて取り囲んでくるだろう。
そうなったら、味方は根絶するまで討たれ、将来に尼子の子孫を残せなくなる。
もう少し時機を見計らったほうがいい。
信長と輝元の和睦が破れたのは、当家にとって幸いだった。
きっと因幡・但馬・備前あたりで存亡をかけた一戦があるはずだ。
天下の将が一軍の将と戦うときには、天下の将が勝つものだ。
今は信長が天下の将だ。どうして毛利・吉川・小早川と戦って負けることがあろうか。
いかに智勇全備の両川といえども、大敗した後は勇も衰え智も磨り減って、
ただの凡庸な将になり下がるだろう。
もうしばらくは毛利家の戦の成り行きをうかがってみよう」

鹿介はこれを聞いて、「いやいや、そうではない。
この城が道に面しているからこそ、我らが立て籠もって美作方面からの往来をさえぎり、
信長卿への忠勤とするべきではないか。
信長と輝元の和睦が保たれていたときこそ、吉川・小早川に取り囲まれる恐れもあったが、
今は対立しているのだから、たとえ中国勢がこぞって我らを取り囲んだとしても、
秀吉が中国一円を与えられていて、見捨てられることはない。
もし秀吉一人で解決できないのであれば、信長を引き出してくるだろう。

城中にも有能な兵が二千余人もいれば、どんなに攻められても容易く落ちることはない。
信長卿は大勇将なのだから、かかって一戦するとなれば、吉川・小早川の敗走は間違いないだろう。
このときに毛利の根は絶たれ、必ず葉まで枯らしつくされる。
これぐらいのことはどんな凡庸な将や愚かな将でも知っているはずだから、
元春・隆景がこの程度のことを知らないはずがない。
ここまで遥々打って出てくることはまずあるまい。
だから我らが上月に籠もり、美作に切り入っていくのには何の心配もいらない。

宇喜多はもともと非常に卑怯な者なのだから、やがて毛利家の武威が衰えれば信長卿に属すだろう。
宇喜多が心変えすれば、備前・美作はことごとく毛利家に背く。
それから美作を経て出雲に入るのに、なんの邪魔も入らないはずだ」
と具体的に説明すると、勝久をはじめとして皆この意見に賛同した。
立原は「飛ぶ蛾が明かりの火に身を投げ、赤子が井戸に入っていくように、
運のきわまった者たちがこのような振る舞いをするとは口惜しい」と呟いた。

そして上月に立て籠もったのは、勝久を大将として、一族からは尼子助四郎氏久・日野五郎、
侍大将は山中鹿介・立原源太兵衛尉をはじめとして福屋彦太郎・亀井新十郎・吉田三郎左衛門・
河添右京亮・同三郎左衛門・同次郎左衛門尉・米原助四郎・目黒助次郎・月坂助太郎・平野源介・
屋葺右兵衛尉・津野守宗兵衛尉・宇山弥太郎・三吉五郎左衛門・小林神介・神西三郎左衛門・
熊谷(くまたに)新右衛門・大塚弥三郎・日野又五郎・田原右兵衛尉・太野平兵衛尉・
福山弥次郎・同内蔵丞・青砥助次郎・中井与次郎・片桐治部丞・渡辺内蔵助・江見平内・
加藤彦四郎・妹尾十兵衛尉・池田縫殿允・本田平十郎・野津次郎四郎・江見九太郎・
同源内左衛門・加藤新右衛門・安達治兵衛・弟の同慶松・目駕田采女允・同段右衛門・
寺本市允・法城寺理安・新藤勘介・秋里目・進左吉兵衛尉・馬田長左衛門・山佐民部太輔・
古志九郎次郎・高橋佐渡守など、屈強な兵が二千三百余騎が立て籠もった。


以上、テキトー訳。

相変わらず秀吉コワイっすねー(白目)。
天下人になってからラスボス化したんじゃなくて、
もともとそういう性質の人間だっただけじゃねーのかと。
こういう皆殺しが当時どれくらい人道に外れていたのかはよくわからないけど、
初めてシメる土地で徹底的に抵抗勢力を血祭りに上げるのは、
その後の支配しやすさを考えてのことなんだろうなー、などとぼんやり思った。
見せしめだよね……初めにこんな怖いことされたら、抵抗する気力も殺がれるわ。

そして久しぶりの尼子勢。立原源太兵衛が相変わらず苦労人でいい味出してるなぁ。
いっつも立原の言葉をちゃんと聞かない鹿ちゃん。
いや、ちゃんと聞いてはいるんだろうけど、意見を採択したりはあんまりしないイメージ。
謀略も戦闘も自分一人で仕切って突っ込んでくイメージなんだよな。
だからこそ鮮烈なのか。
どうでもいいけど、影の薄い勝久が輝元ちゃんと重なって涙が出らぁ(´;ω;`)
この二人は言いお友達になれ……そうもないか。

さて次章は、元春と隆景がゴタつくようだぞ! 期待!
2012-11-03

尼子「元春がだめなら隆景を倒せばいいじゃない」

だいたいの流れ:
毛利と織田がバチバチ火花を散らそうとしているとき。
火種は他にも燻っていた……!
今回はお久しぶりんこ、尼子勝久・鹿介のお話だよー!


播州上月の城へ勝久が入り給うこと

尼子孫四郎勝久・山中鹿介・立原源太兵衛尉たちは、京都に集まって会議をした。
「毛利家は軍事を二手に分けている。北方は吉川元春、南方は小早川隆景だ。
それで、近年は出雲・伯耆で元春と何度も合戦してきたが、
彼は勇智仁信忠を五材を備えていて、父の元就にも劣らぬ良将だった。
だから元就も大内・尼子・大友といった強敵・大敵を討伐しえたのは、
元春が孫呉の心構えを写し取ったかのような良将で、陣を張れば安定し、守れば固く、
戦えば勝つ方法を自分のものにしていたからこそ、多くいる子供のなかから選んで先鋒を任せ、
そのおかげで今がある。

北方の下口は元春の縄張りだ。
また元春に従っている郎党や国人たちのなかにも、熊谷・杉原・天野といった切れ者や勇士がいる。
将は文武を統べ、兵は剛柔を兼ね備えているので、我らは何度戦っても結局勝つことができなかった。

一方、小早川隆景は智信人勇厳を全備している大将で、国を治め民を撫育する器量が抜きん出ていて、
濁世末代の世の聖人とも言われるような将である。
しかし、用兵のやり方は元春に比べれば雲泥の差がある。
戦国には孔孟は用いるに足らずとも言うではないか。

これはもう、元春との合戦は置いておいて、南方へと下り隆景と合戦してみて、
その強弱を確かめ、どちらであろうとも我が軍が勝利できそうな南方へと向かってみよう」
ということになった。

これまでは惟任(明智光秀)の手に属していたけれども、
今回は変わって羽柴秀吉の手に属し、播磨路へと赴いた。
そしてそこから美作を切り従え、出雲へ入ろうという算段だった。

播磨の上月の城には、宇喜多和泉守直家が真壁の彦九郎を籠め置いていた。
勝久たちはここを攻めようとして、二千余騎で攻め寄せようとした。
このことが伝わると、真壁は大の臆病者だったので、取り囲まれては困ると思い、
取るものもとりあえず城を開けて落ち延びていった。こ
うなると、勝久・鹿介らは易々と上月の城へと入っていった。

真壁の弟の次郎四郎は、兄が逃げ帰ってきたのを悔しく思って、直家にこう言った。
「兵を三千ほどお預けいただければ、上月表へと罷り向かって一戦し、あの城を奪い返して参ります」
この望みを聞いて、直家は
「よく言った。城を捨て、守りを放棄したその恥を跳ね除けようとする者は、
身命を惜しまずに無二の勇をあらわすものだ。
兄が城を捨て逃げ出してきた恥を雪ごうと思い入れているなら、
きっとどうにかして激しい戦いを制し、敵を捕虜にしてくれるだろう」と、
屈強な兵たちを三千余騎差し添えた。

真壁はこの兵を与えられて大いに喜び、
「上月の城を落城させて鹿介たちの首を太刀の切っ先に突き刺して直家の首実検に入れるか、
さもなくば我が命を上月の一の城戸になげうつか。こ
の二つのうちどちらかだ」と、妻子にきちんと別れを告げ、
日蓮宗の題目を書いて笠印とすると、三千余騎の先頭に進んで、上月を目指していった。

その日はすでに暮れようとしていたので、上月城から六十余町離れたところに陣を据え、
合戦は明日しようと、馬の鞍を外し鎧を解いて休んでいた。
山中鹿介はこれを聞いて、
「真壁は兄の会稽の恥を雪ごうとしてこの城に向かってきている。きっと大勢なのだろう。
この城に引き付けてしまって囲まれてしまってからでは、後悔しても意味がない。
少勢で大勢を挫くには、夜討ちより最適な手段はない。
さあ、逆にこっちから攻め懸けていって、敵の不意を打ってやろう」と、
主力の兵八百騎を選りすぐり、合印、合言葉も定めた。

真壁は大勢なので、もし夜討ちで仕損じれば味方が皆殺しにされてしまうと思い、
真壁の追手を引き受けるために、加藤彦四郎が三百余騎で数十町を隔てて備えた。
神西三郎左衛門は五百余騎で、味方の夜討ちの勢と四、五町を隔てて、
味方が戦利を失い退いてくれば入れ替わって戦うか、または備えを固くして退きながら味方を助けるか、
先陣の戦の様子でどちらかに決めようと控えていた。
昼はよく目が見えるから旗などを目印にするものだが、夜は耳を頼りにするものなので、
太鼓や笛を合図にするものである。今夜の戦は、太鼓と貝で行おうと定めていた。

鹿介の八百の勢は、真壁の陣に攻め寄せてあちこちに火をかけると、一度にドッと鬨をあげて突入した。
これは天正六年正月の末のことなので、春というのは名ばかりで、
吹き付ける風もたいそう寒く、絶え間なく降り注ぐ雪は指を落とし肌を裂くような心地がして、
兵たちは身を縮めて伏していた。
それなのに思いもかけずに夜中になって敵が押し寄せてきたので、
鬨の声に驚いて騒ぎ出し、太刀や刀を捨てて、せめて命だけでも助かりたいと逃げ散っていったが、
鹿介の勢はあちこちでこれを追い詰め討ち取った。

けれども真壁は少しも騒がずに床机に腰をかけて、
「運は天にある。退いて逃れられる命ではない。敵と打ち違えて死ねや者ども。
思うに、敵は少勢であろう。たいしたことはない」と静まり返っていた。
とそこに、誰かはわからないが歩行武者が一人走り寄り、真壁を討とうとした。
真壁はこれをキッとにらむと、「感心な心がけだ」と言って、真正面から真っ二つに打ち破る。
安達治兵衛尉はこれを見て間髪入れずに切ってかかった。
真壁は安達を討とうとしたが打ち損じて、両膝を突いて倒れたところで、すぐに首を掻き切られた。
治兵衛尉は何度も武名を上げていたので、弟の慶松にこの首をとらせて、勝久には慶松が討ったと報告した。
そのほか、首は七十余り討ち取ったという。

そして上月の城へ引き返すと、宇喜多直家が数万騎で取り囲もうとしているとの噂があった。
城中には兵糧のたくわえがほとんどなかったので、
鹿介たちは「まずはこの城を引き払い、再び入城することにしよう」と、
勝久とともに摂津へと退いていった。


以上、テキトー訳。

やだっ、尼子さんたら、そんなに元春褒めたら照れるじゃない/////
いやいや、べつに私が照れるべきことじゃないんだけどw
まあね、「隆景に比べて元春は……」って言われ方してるのも何度か見てきたしね。
「元春に比べれば隆景の用兵なんて屁だ」みたいな言われ方を見ると、
ちょっと溜飲が下がるというか……さすが吉川系の軍記だよね(^ω^三^ω^)

そういえば上月城の攻防もまったく予習してないわけだけれども、
最初は宇喜多と尼子の小競り合いだったの???
というところをちょろちょろとぐーぐる先生に聞きつつ進んでいきたいわけだが、
果たしてそんな余裕があるかなぬふふふふ。

来週は自分が主催したオフ会の準備等もあるので、それで更新が滞るかもしれませんが、
まあそうなったら「てんぱってるんだな」と生暖かく見逃してください。
2012-11-02

香川・冷泉タッグ結成

宣言どおり更新が滞った……しゃーないしゃーない。

そんなわけで陰徳記。だいたいの流れ:
毛利と織田の和睦が敗れた。
大きな動きはないものの、国の端々で起こる小競り合いは続く。
そんな中、今回は淡路で一騒動あったようですぞ。


淡路の国岩屋の城のこと

淡路の役人に菅平右衛門・同新右衛門という者がいた。
父子ともになかなかの勇士で、ともに毛利家への志が深かった。
先年(天正六年二月)から岩屋の城に児玉内蔵太夫(就英)を差し籠めていたところ、
いったい誰が言い出したのか、
「菅父子が逆意を抱いていて、ひそかに児玉を討とうとしている」と告げる者があった。

児玉は大いに驚いて、「この国の者たちに背かれては、私は少勢なのだから、
この城に立てこもったところで、長くは持ちこたえられまい。
まずここを抜け出して大軍を率い、菅父子を討伐しよう」と、ひそかに船に乗って芸州に下ると、
輝元様へとこのことを報告した。
輝元様はすぐに元春・隆景へとこの件について相談をした。

「菅が謀反したからといって、これまで保ってきた城を捨てるのは、
武勇が十分でないと自ら言うようなものだ。
特にあの城は大坂の城への通路として必要不可欠なところでもある。
あの城へ立て籠もり、たとえ菅父子が反逆してこようとも、
彼らを抑え込んで城を堅固に守りきれる者は誰かいないか」と話し合ったけれども、
淡路一国を敵に回して、その上天王寺との間に挟まれているところだけに、
自分が籠もろうと言う者はなかった。

ここで香川左衛門尉広景はよくよく考えをめぐらせた。
「人が恐れて渡りかねている淡路へ漕ぎ渡ってこそ、勇も忠も人より勝っていることになる。
私が今岩屋の城へ立て籠もって、菅と一戦して勇をあらわしたいとは思う。
しかし私の手勢はようやく二百ほどだ。こればかりではどうにもならない」
と思ったので、従子(甥)の冷泉民部太輔元満の居館へと赴き、
「私はこう思うのだが、けれども自分の手勢だけではどうにもできない」と語った。

民部太輔は父の判官隆豊にも劣らぬ最強の勇士だったので、これを聞いて愉快そうに笑うと、
「私も今、あなたの考えたとおりのことを考えていたのだが、
自分の手勢だけでは不安に思っていたのだ。
これは啐啄同時底の機(鳥の卵が孵化するとき、雛が内側から、親鳥が外側から同時に殻をつつくこと、
絶妙な導きの形の意味)だと思う。さあ、一緒に連れ立って淡路へ渡ろう」と、
このことを輝元様に言上した。

すると輝元様は「淡路の国中がことごとく当家に逆意を抱いているというのに、
この二人が身命を顧みず立て籠もってくれるとは、忠勤の最たるものである」と大いに感賞した。
すぐに二人を御前に呼び寄せると、二人は
「このように私どもから申し上げたからには、淡路の敵に思い知らせ、
一国が元通り御手に属すようになるまでは帰ってまいりません」と言い切って退出した。

いよいよ船に乗ろうとしているときに、菅父子のところから使者が遣わされてきた。
「いったい誰が言い出したのか、我ら父子が中国に背いて信長に一味したという話を
児玉殿がお聞きになって、当国の岩屋の城を捨てて帰国なさってしまいました。
そのときわかっていれば、すぐに罷り出て身の潔白を証明したのですが、
お忍びで帰国なさったので、そのことをまったく知りませんでした。
私どもの身代は取るに足らないものではありますが、一度お味方に参ったうえは、
二心を抱くことなど絶対にありません。
芸陽に対して、逆心などひとかけらもありません。その証をお見せします」と、
愛する息女を人質として差し下してきた。

これで、冷泉・香川も安堵して、岩屋の城へと上っていった(天正六年閏三月)。
菅父子はますます忠志を篤くしたので、淡路一国には敵対しようとする者はなかった。
讃岐の香川も広景と同じ一族だったので、その縁も深く兵糧などを送ってくれた。

こうしたところに、佐久間の郎党たち一千人余りが天王寺から船に乗って淡路へと攻め渡り、
夜半に背後の山から切ってかかってきた。
香川左衛門は敵の夜討ちなど想定していなかったが、
なんとなくこの夜は胸騒ぎがすると感じて城中の夜回りをしていた。
そして敵をすばやく見つけると一番に渡り合い、たった二十人ほどで一の木戸まで押し返すと、
鑓で叩き立てて追い立てながら進んだ。

敵は一度は突き崩されたものの、香川らが少勢だと見ると引き返してきて切って入ろうとする。
香川の中間に源右衛門という力持ちの剛の者がおり、弓を取って散々に射掛けた。
江戸三郎左衛門・芥川七郎右衛門も横から鑓で突きかかって比類のない活躍をしたが、
江戸は肩、芥川は膝を突かれてしまった。
このままでは左衛門尉も危ないというところに、
鬨の声に驚いた冷泉が鎧を取って肩に打ちかけたまま、三十人ほどで後ろから駆けつけてくる。
「冷泉民部太輔である」と名乗ってまっしぐらに突いて出ると、
敵はたちまち押し立てられて浜辺へとサッと退いていった。
城からも新手が出てきて敵を十四、五人ほど討ち取ったので、
他の者たちは命からがら船に飛び乗ると、天王寺目指して退却していった。

この戦の後は敵が寄ってくることがなかったので、備中高松城落城の後まで持ちこたえて、
秀吉・輝元が和睦した後に芸陽へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

へぇ~、香川と冷泉って所縁あったんだ。知らなんだ。
冷泉さんてのは、大寧寺で臓物べちった人のお子さんで、
化け物とまぐわい、朝鮮で散っていったあの冷泉さんだね。
左衛門尉広景は、武田から毛利に鞍替えした光景の嫡男だね。
春継のお兄さん。いまいち印象薄いけどな……だって春継の方がんっがっぐっぐ。
いやー、広景も元満も、仲良しなうえにいちいちカッコよろしいな。
「あの国が従うまでは帰ってきません」宣言しちゃうとか、
少ない手勢で敵と渡り合って追い払っちゃうとか、ステキ(*´∇`*)

例によって下調べ不足であんまりよくわかってないけど、
淡路が大坂への海路を押さえる上で重要な拠点だっていうのは理解できた。
私は地理がわからんのが結構致命的だな。
地理も少しずつ勉強しようそうしよう。

そんなこって、次章は尼子情勢に戻り、いよいよ上月城の攻防に話が移るよ!
盛り上がってきたね、楽しみ!

とりあえず昨日は広家のお誕生日だったわけで。そっとおめでとう。
永禄四年十一月朔日……この年のはじめ(正月七日)に、長兄の元長が元服を迎えたわけだが、
どう考えてもこのあたりで仕込まれた子ですね本当にありがt(ry
いくつになってもラブラブな元春夫婦おいしすぎる(*´∇`*)ジュルリ
ていうかまぁ、結婚が早いからまだ広家産んでるのも余裕で三十代なんだなw
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