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2012-11-24

勝久の尋常なる最期

だいたいの流れ:
織田の中国攻めの先鋒として、秀吉の傘下に加わった尼子勢。
宇喜多と争っていた上月城を奪取すると、毛利家に攻められるのは目に見えていたものの、
秀吉の援軍を頼りに、上月には尼子勢が籠もることになった。
果たして上月を中国勢が取り囲み、秀吉は大軍をともなって後詰に駆けつけたが、
六月二十日の一戦で利を失うや、織田方の後詰は尼子を捨てて兵を引き上げてしまった。


上月城没落のこと

さて尼子孫四郎勝久、そのほか上月に立て籠もっている兵たちは、
杖とも柱とも頼みに思っていた羽柴筑前守・荒木摂津守などの後詰の人々が、
たった一戦で利を失ったばかりか、あっという間に敗北してしまったので、
網に捕らわれた魚のように、何もすることができずにただ嘆息しているばかりだった。

山中鹿介は使者を遣わして、元春・隆景へと、
「今回上月へ入ったのは、勝久・源太兵衛、そして私が望んだことではまったくない。
ひとえに神西三郎左衛門のせいである。だから神西一人を切腹させるので勝久たちの一命を助けてほしい」
と、しきりに申し入れてきた。
両将からは、「鹿介が言いたいことはよくわかった。
神西一人を切腹させて、他の人々の命を助けてほしいというのはよくわかるが、
羽柴・荒木・筒井といった諸将が後詰に駆けつけてきて対陣することになったのは、
五畿七道に隠れのないことだ。
だから、大将の勝久が切腹しないことには、都や田舎、遠国までの聞こえも悪いと思う。
勝久・氏久・神西・加藤の四人が切腹すれば、山中・立原といった人々の一命は助けることにしよう」
と返事をした。

鹿介は再三に及んで「勝久には罪がない」と断ったが、両将は絶対に納得しなかった。
「勝久が切腹しなければ、上月に籠もっている軍勢をことごとく攻め殺す」と主張したので、
こうなったらしかたがないということで、鹿介は勝久に向かい、涙を流しながら告げた。
「これまであなた様のお命が助かるようにと再三申してきましたが、元春・隆景がまったく承知しません。
これ以上どうしようもなく、ご運の極みだと思ってください。
どうかこれからご自害を遂げてください。

私も冥途のお供を務めたいと思いますが、ここは相手を騙して敵方に降るつもりです。
敵の中でも当家に対して何度も非道なことをしてきたのは元春です。
降参していけば元春から盃を与えられるはずですので、そのときに隙をうかがって走りかかり、
元春と刺し違えて、尼子家の鬱憤を晴らして見せましょう。
私にこのような思惑があって敵方に降るとご存知なければ、
私がただ甲斐のない命を惜しみ、不義の降伏をしたと思われるでしょう。
それではあまりに口惜しい。
けれども、すぐに死出の旅路のはじめ、三途の川で追いついて見せます。
そのときこそ、私が今申したことの首尾を明らかにいたします。
今はこうなってしまったので、どうか一筋に思い切ってください」

勝久は、「私は墨染めの衣を身に纏い、道なき道を行脚する生涯を送るところだった。
しかしあなたのご芳恩によって、こうして尼子家の大将の名乗りを上げ、
数万の軍兵の命を司ることになった。
今こうして自害するのは弓矢を取る身のさだめなのだから、露ほども恨みには思わない。
きっと過去の宿報がよくなかったのだろう。
私が自害して諸軍士の命が助かるのならば、これは実に将たる者が死ぬにはふさわしい道だ。

あなたが元春と刺し違えて尼子家の重恩を報じようと思ってくれるのは、
まことにもって、忠といい勇といい義といい、実に浅からぬことだ。
しかし元春も智謀が世に超えた将なのだから、
たやすく刺し違えられるほど用心を緩めることはあるまい。
めったなことをしでかして、敵に嘲笑われないようにしてほしい。
どうか命を全うして、毛利家へ仕えながら時節をうかがってくれ。
諸国に尼子の流れ者が身を潜め跡をくらましているかもしれない。
それを探し出して大将に仰ぎ、再び当家を興隆させてくれ」と答える。

その後勝久は、ともに従ってきた兵たちを呼び集めた。
「皆の者、よくぞこれまで霜雪に身を痛めながら粉骨砕身し、あちこちで忠戦を貫いてくれた。
今もこうして籠城を遂げてくれているのも、重ね重ねありがたい志だと思う。
私が一度でも本望を遂げられれば皆にもこれまでの忠志に報いることができたのだが、
弓は折れ矢は尽きて、もうこのような身になってしまってはしかたがない。
けれども皆が尼子家へ忠志を尽くしてくれたことは、天の鏡は曇っていないのだから、
ゆくゆくは皆、天の加護を得てで富み栄えるだろう」

勝久はこれまでの忠の浅深を整理して、今まで身に着けていた太刀、刀、
そのほか金銀珠玉のたぐいをすべて取り出すと、
「これは勝久がいなくなった後の形見にでもしてくれ」と、それぞれに分かち与えた。
さすがは尼子家の武将として仰がれた人の振る舞いだと、皆袂を涙で濡らした。

さて同(天正六年)七月二日、神西三郎左衛門尉が城の尾崎へ出て自害すると発表したので、
諸軍勢が群れ集まって見物した。
神西はやがて城中を出ると、雪のような袖を押し脱いで、太刀を抜きながら非情に美しい声を上げ、
鐘馗の曲を舞いながら、よく通る声で謡った。
「哀れなりける人界を、いつかは離れ果つべき」というところを、
「今こそ離れ果てけれ」と、少し謡い替えた。その声の下から腹を十字に掻き切って倒れ伏す。
なんと立派な自害だろうと、見ていた人々はドッと歓声を上げた。

同三日、勝久が諸卒に盃を与え、そして客殿の真ん中に畳を重ねて座った。
従子の助四郎氏久、加藤彦四郎たちも次々に並んでいた。
勝久は左右を見て、最後の盃をまず鹿介に与えようと、タプタプと注いで三度傾ける。
助四郎氏久の前におくと、太刀をスラリと引き抜いて、
「皆聞いてくれ。私はもともと東福寺にいて、仏法や商いの道ならば、あらかたその奥義に到達している。
最期の一句を挙(こ)そう」と剣を捧げ持つと、
「宝剣手に在り殺活の時に臨む、これはこれ殺活自在の底、如何これ勝久末期の一句、
よく久しくして自ら言う、すべて来たり劃段す千差の道、南北東西本郷に達す」
と言うや否や、腹を十文字に掻き破り、「早く首を打て」と言った。
池田甚三郎が抜いた太刀を振り上げたと見るや、勝久の首が前へと落ちた。

助四郎氏久は「さすがは大将のご自害でございます」と、続いて腹を切る。実に潔く見えた。
加藤彦四郎は庭に躍り出ると、立派に自害して倒れ伏した。
池田も勝久の死骸の前にかしこまると、「しばらくお待ちください、お供いたします」と、
同じく腹を掻き切って床に伏した。
山中鹿介は、涙を流しながらこれらの人々の首を集めると敵陣に送ると、
自身は見苦しいものを片付けて、城の掃除をしっかりとした。
立原源太兵衛尉は病気だったので、この日の暮れにひっそりと下城した。

翌日の四日、城から出てきた人々は、まず一番に日野の屋形五郎である。
そのころ十六、七歳ほどだったが、紅の帷子に金の日の丸を刺繍したものを着て、白い綾で鉢巻をしていた。
連れている兵百人は皆鎧兜をつけ、鑓・長刀の鞘をはずして、鉄砲には切り火縄をかけ、
弓には矢をつがえて、堅固に用心して出てきた。
そのほか法城寺など、一勢ずつ出てきたが、いずれも兜の緒を締め兵具の鞘をはずし、
敵がもし騙して討とうとしてきた場合の用心を厳しくして、四方に目を配っていた。
敵がもし「あっ」とでも言えば、すぐに切りかかって死のうという気概が外に顕れていた。

山中鹿介は諸軍勢がすべて城から出ると、それから手勢を六十ほど前後に立て、
鎧もつけず弓を袋にしまい太刀をさやに納め、鉄砲の火縄には火もつけずに、
何の用心もしていない様子で出てきた。
すっかり油断した体で、鹿介は膝より少し長い越後の帷子を着て、半足(あしなか)を履き、
荒身国行の刀をのしつきのまま横にさし、なんでもない様子で出てくる。
すぐに城の山下の他の中に柵が結い回され、仮屋を作ってそこに鹿介が入れ置かれた。
警固の武士も数多く置かれ、隙間なく守護された。

山中鹿助という名高い武士を見ようと、多くの人が集まってきて見物した。
その中で、岡宗左衛門という者が鹿介を見物にきていた。
岡があんまり睨むので、鹿介は憎らしいと思ったのか、
「そこにいるのは岡宗左衛門か。敵方にいたときにあちこちで岡という名を聞いたときは、
きっといかめしい男だろうと思っていたのに、
今その姿を見てみれば、聞いていたよりずっと痩せ男ではないか。
名を聞くのと面を見るのでは、違うものだな」と言う。

岡はカラカラと笑って、「私は勢が少なく力が弱くても、心にある勇は大の男にも劣らないぞ。
あなたこそ、山中鹿助という名だけを聞いていたときには、
智も勇も人より傑出しているのだろうと思っていたのに、
甲斐なき命を延ばすために、譜代相伝の主の命を失わせ、
自分は恥も捨てて頭を下げ、よく降伏してきたものだ。
よくよく命が惜しかったらしい。聞いていたより雲泥の差がある。
勇もなく、義もなく、忠もない大の臆病者だ。
男ぶりはあなたの方がいいが、心栄えはこの岡の十分の一にも及ばない。
人の価値は男ぶりの良し悪しではない。心の勇を忠こそ肝要だろう」と言った。

鹿介はこれを聞いて、「この小男はずいぶんと舌が柔らかい。
これほど利口だからこそ、小男のくせに人々にその名を知られたのだな。
さっきの口ききの小賢しさで、人々に『岡』と呼ばれるわけがよくわかった」と返した。
それからは互いに近寄って話などしたという。

その後鹿介は、警固に当たっていた吉川衆の大草因幡守という大男に対して、
「あなたは大きくて力量も優れていそうだが、私はそんな人が何百人いようとも、
打ち破って退こうと思えばいつでもできる」と言った。
因幡守は、「鹿介というのは、兵の千人も率いていたときは恐ろしくもあったが、
今はこのような身になってしまわれた。
一対一の勝負とあって、あなたほどの男ならば、数十人でも小脇に挟んで息もできなくしてやるぞ」と返す。

鹿介はその後後藤何某に向かい「芸陽の武士を少しからかってみようと思ったのに、
皆口が小ざかしくて、かえって私が言い負かされてしまった。
無意味なことを言い出したものよ。運が尽きると心まで落ちるものだ」と言ったそうだ。

その後鹿介は元春父子に対面するために出て行ったが、予想とは違って、
なかなか刺し違える機会はなかった。
まず元春・元長は一間隔てて座していて、その次に宮庄二郎三郎・今田中務など、
家之子郎党が数十人も居並んでいた。
そして盃を与えられるときには、媒酌人は二宮杢助、肴は二宮右京亮などが太刀をたずさえ、
鹿介が少しでも目の色を変えたなら取り押さえようという顔つきである。
そのほか奏者の者たちも厳しく用心を固めていたので、さしもの鹿助も、ただ頓首しているしかなかった。

それから隆景に会って、やがてもとの宿に帰ってきたが、
輝元様から「鹿助を守護して松山まで連れてくるように」と、
粟屋彦右衛門・山県三郎兵衛尉、そのほか五百余騎が遣わされてきた。
鹿介は二人の使者に伴われ、自身は信長から与えられた四十里鹿毛という名馬に乗って、
総勢六十余ばかりで、備中の国の松山へと下っていった(七月十日発)。


以上、テキトー訳。

どこまでもどこまでもどこまでも元春に食らい付こうとする鹿介、
宿報と悟って自分のさだめを受け入れ、遺していく家臣たちに仁愛を注ぐ勝久……
尼子さんち、陰徳記を読むごとに、どんどん好きになっていったよ。
こうして会えなくなるのはすごく寂しい。
神西、勝久の切腹もすばらしいね。
首を送って掃除までして出て行った鹿介も。
滅びの美しさってのは、海外ではあまり理解されないそうだけど、確実にあると思う。

鹿介と中国勢のどーしようもないやり取りで、少し回復したw
何やってんすか、もう。
こういう話が残ってるってことは、長く敵対してた中国勢の人たちでさえも、
「俺、あの鹿介とこんな話したんだぜ~」ってのが自慢話だったんだろうね。
鹿介は長い時を経てかなり偶像ちっくな人物造形がされてきたけれども、
こういう話を見るにつけ、確実に当時の一種のヒーローであったのは間違いないんじゃないかと思った。

あと、個人的に好きなのは、鹿介と元春の対面シーン。
吉川の家之子郎党が揃いも揃って、「主君に指一本触れさせるものか」って感じに
ピリピリしてんのがGood!
殿様大好きな吉川衆かわいいよ吉川衆(*´∇`*)

そんでもって次章、いよいよ鹿介が……(ノд・。) うぅ、やだよぅ><
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