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2012-12-31

傾城の美男子VS広家ちゃん!

さてさて押し迫ってまいりました、年末!
大晦日だなんて信じたくない……
そして陰徳記の訳文ストックも今日でおしまい。
明日から更新できるかな~ハハハ~_ノ乙(.ン、)_あぁ……

だいたいの流れ:
織田・毛利の敵対が緊迫感を増すと、境目の領主たちはどちらにつくべきか、翻弄されることになる。
毛利方では、南条元続・小鴨元清兄弟、宇喜多直家などが織田への寝返りを画策していた。
南条は一族の九郎左衛門の強い主張で決戦に打って出て一戦のもとに敗北し、
当主兄弟は城に籠もったまま命を永らえていた。
宇喜多直家は、美作で吉川の勢力と城の取り合いをしていたが、
表面的には隆景に擦り寄って、毛利とのつなぎも保持したままでいる。
なんとも微妙な情勢下、どう動くのか。


備中の国四畦の忍山城没落のこと

宇喜多直家は、美作の国で数ヶ所の城郭を攻め落とされ、
兵を数百人討ち果たされたことを非常に無念に思っていたので、
備中の忍山に宇喜多信濃守・岡剛介を籠め置き、
「どうにかして、毛利家が兵を入れている城を、一ヶ所だけでも攻め取ろう」と
謀略をめぐらしていることがわかった。

そのため、まず忍山を攻め落とそうと、天正七年二月中旬に、
毛利右馬頭輝元様・吉川駿河守元春・嫡子の治部少輔元長・次男の左近允元氏・
三男の民部大輔経言・小早川左衛門佐隆景が二万騎を率いて、
備中へと発向し、忍山を攻める算段をした。
宇喜多・岡も屈強な兵を一千余騎要していたので、
「城の立地は堅固だ。兵たちは勇士ばかりだ。
敵がたとえ何万騎で攻めてこようとも、絶対に落とされるものか」と、鏃を磨いて待ち受けていた。

吉川元春は三男の民部大輔に二千余騎をさし添え、
「備前から加勢が駆けつけてくるとの報告があった。物見として見回ってくるように」と命じた。
経言はあちこちを見回り、それから城の近くまで押し寄せて敵の兵の強弱を確認していた。
そこに、「宇喜多が岡を見捨てまいとしており、岡越前守・長船紀伊守が五千余騎を率いて、
今日中にこの地へと着陣しそうです」と半納の土民たちから注進が入る。

経言がそちらに対応するために引き返そうとすると、
城中から宇喜多信濃守・岡剛介が一千余騎で打って出て、ひたひたと取り結び、足軽をけしかけてきた。
経言は「願うところだ」と喜んで、鉄砲をバラバラと打ち違えると同時に、無二に馬を入れた。
岡も、経言はまだ二十歳そこそこの若武者だったので、たいしたことはないと考えて侮り、
無手と渡り合って一気に打ち破ろうと攻め戦った。

経言は智仁勇の三徳を兼ね備えており、祖父の元就様や父の元春にも劣らぬ良将だったので、
少しも騒ぎ立てずに諸軍士に下知をなし、宇喜多・岡を見据えて打ってかかっていった。
信濃守はたちまち一戦に打ち負けて、城中目指して退却した。
経言は「敵に息を継がせるな」と言って、続いて追いかけていくとすぐに城の麓を焼き払い、
それから引き退いた。
その日、輝元様たちが忍山を取り囲むと、順次仕寄を付けて攻めることに決まった。

こうしたときに経言は、下清左衛門という者を呼び寄せ、
「おまえは敵の隙をうかがって、今夜中にどうにかして城に火をつけてきてくれ。
火の手が上がったら私が一番に乗り込んで、宇喜多・剛を討ち果たしてやろう」と言った。
下は「かしこまりました」と言って出発すると、その日の深夜になって城中に忍び込み、
たちまち城に火をつけた。

前もって用意していたことなので、経言が一番に城に乗り込み、
「吉川経言、この城に一番に攻め入ったぞ」と名乗りを上げる。
輝元様の旗本勢、小早川衆やそのほか中国八ヶ国のつわものたちは、
「なんと、経言の手勢が城に攻め入ったぞ」と言うや否や、皆我先にと切り入っていった。
城中の兵たちは、夜中に思いも寄らぬ攻撃があり、城内からは火が上がって、
外からは敵が攻め込んでくるので、慌てふためいた。
取るものも取り合えず逃げていく者や、向かっきた敵に渡り合って討ち死にする者もいた。

信濃守・剛介は、「なんと口惜しいことだ」と思って必死に切って回っていたが、
ついにそこで討ち取られてしまった。
この城で討ち取った首は五百三十余りにもなった(天正七年十二月二十五日落城)。
夜陰にまぎれて逃げていった者も多かった。
これを聞くと、岡越前守・長船紀伊守も途中から引き返し、備前へと上っていった。


以上、テキトー訳。

天正七年だと、まだ直家が隆景との音信を再開させる前のことになるのかな。
全面対決とまではいかないものの、あれこれと小競り合いが頻発していた時期なんだろう。
このへんは私の脳みその処理速度が追いついていないので、どういう情勢なんだか……?

なにはともあれ経言ですよ! 経言ってのは広家の初名だね! 広家大好き!
戦国時代の代表的な美男子、岡剛介を追い詰めたのが経言って筋書きは、なかなかにムネアツ。
岡剛介の生死ははっきりしていなくて、その後の戦でも
剛介の存在がほのめかされている史料などがあるらしいので、
この忍山の決戦のときに死んだと、断定はできないとのこと。

あ、ちなみに元春次男の元氏も登場してるけど、この人も名前を変えていて、
元春・元長が亡くなるころまで、「元棟」という名前だったと思う。
元長も初名は「元資」だね。天正二年~三年ころに、元長に改名してるけど。
その点で、元春・元長は、広家(経言)・元氏(元棟)のことを、
「広家」「元氏」と呼んだことはありえないわけで、
そういう面で、私は最近人気のゲームとかに違和感を感じてしまうだろうなー、と思ってしまう。
それだけじゃないけどw 話がズレてしまった_ノ乙(.ン、)_

今回も直家は、部下が討たれたのが悔しくて行動を起こしたり、
大事な部下を見捨てまいと援兵を送ったりしているのが、とても印象的。
もっとドライなイメージがあったけれど、最近はなんとなく違うのかな、と思えるようになった。
身内(舅や婿など)を謀殺するイメージが強いけど、
直家にとっての本当の身内というのが「部下」に限定されていると考えると、
とても身内思いの、執念深い人物だなぁ、などと。

さて、次章は南条の羽衣石の話になるけど、たぶんおそらく訳に詰まりそうな話でね。
まあ、ぼちぼちがんばっていきます。

ともあれ、本年中にご訪問くださった皆様、大変お世話になりました。
ずいぶん励まされました。
また来年も懲りずにお付き合いいただけると幸いです。
来年が皆様にとってよい年でありますように!
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2012-12-30

家族ぐるみの戦法指南

だいたいの流れ:
上月城を攻め落とし、織田の援軍を撤退させ尼子再興軍を滅亡させた毛利家だったが、
備前の宇喜多直家、伯耆の南条兄弟など、境目の国人衆の寝返りに手を焼いていた。
元春自身の出馬により宇喜多勢が兵を引き上げたので、そのまま南条攻めを敢行した元春だったが、
先陣の杉原播磨守盛重の采配によって、抗戦に出た南条九郎左衛門は討ち滅ぼされてしまう。


杉原・天野、長郷田合戦の批判のこと

元春様は、南条の家人の家まですべて焼き払うと、やがて八橋へと引き上げていった。
]皆一緒に集まって、今回の合戦のことなどを話していた。
天野紀伊守隆重は杉原に向かって、「今日の盛重のご活躍は、今に始まったことではないけれども、
備えの立て方といい、川の渡り方といい、まったくありえないほど素晴らしかった。
愚息の中務元明にも、後学のためにあなたをよく見ておきなさいと言っておきました」と褒め称えた。

盛重は、「私のやり方はそう珍しいものではありません。
狐は虎の威を借ると言うように、後陣に虎よりも勇猛な元春公が控えていたからこそ、
先陣に進んだこの盛重は狐だと知りながらも、敵は敗走していったのです。
南条元続・元清たちが自分で打って出ていれば、
少しは手ごたえもあったでしょうに、実に残念です」と答えた。

すると元盛は隆重に向かって、「九郎左衛門も盛重と一戦しようと思うほどの者ですから、
これほど易々と打ち負けて、一合戦もできずに敗北してしまったのは、
彼の武勇が拙かったからではないでしょう。
謀略が十分ではなく、備えの立て方が悪かったのだと思います。
彼の失敗はどこにあったと思いますか。後学のために批評して聞かせてください」と言った。

隆重は、「それは確かにそうかもしれませんが、元続兄弟が出てきたとしても、
盛重と一戦することはできないでしょう。九郎左衛門など言わずもがなです。
ただ備え方が悪かっただけでもありません。
将の良し悪しにかかっているところが大きかったのでしょうな」と言った。
盛重は、「そう仰るのは、私がここにいるからでしょう。
まず後輩たちが武の道を学べるように、九郎左衛門の失策を一つ一つ挙げてみてください」と言う。
隆重は、「では思いつくまま言ってみますが、あまり参考にはなりませんよ」と前置きして、語りだした。

「九郎左衛門は、勇気はあるとはいっても、
和漢の兵法を学んでいなかったがために、その道を知らない。
敵が猛勢で、しかもそれほど深くない川を隔てているときには、
川を渡すまいと川のそばに出てきて防戦するのは実によろしくない。
宇治・瀬田のような川ならば、川のほとりに出て敵を誘導し、
底をも知れぬ深い瀬を渡るように仕向ければ、敵は空しく水底の藻屑となる。
こうした作戦もあることはある。

しかしこの長瀬川は、人が渡れる浅瀬が三ヶ所にある。
それを渡すまいと防いだとしても、敵が後陣に大勢続いているのだから、威圧感も強い。
敵が次々に足軽を進め、競いかかって進んでくれば、
弓・鉄砲の者たちは打ち立てられ、射立てられて引くしかない。
そうなると、味方は勇気がくじかれてしまい、後陣の勢も勝ち目がないと思って、
退却することばかりが頭を占めて、敵に立ち向かう心がなくなってしまう。
だから、今日のように易々と追い崩されてしまったのだと思う。

また、武田が備えていたところは、幸いにも地の利があって一戦すれば勝てる場所だった。
しかし総軍が崩れてしまうとこれも仕方なく逃げるしかないので、
これを頼りにしてはいけなかったとも思う。
九郎左衛門に智があれば、川を隔てた合戦では半途を撃つということは、
三歳の幼子でも知っていることなのだから、前の川端にに馬で懸かれる場所を残して、
古来から伝授されてきたように、敵が半分ほど渡ったところで半途を撃てば、
もしかしたら勝利を得ることができたかもしれない。

盛重も半途を撃たれまいとする謀略はあっただろうから、ここでも勝利を得られないと判断したら、
あの里は森林、なかでも竹林が多いところなのだから、勢をいくつにも分けて伏せておき、
千人くらいで川原に出て、敵が川を渡るのを一度防ぐふりをしてすぐに退却するといい。
敵は勝ちに乗って追いかけてくるだろう。
そこであちこちから伏兵たちが自分たちに都合のいい場所で敵を引き受け、どっと起き上がり、
左から撃ったり右から撃ったり、または前を遮り後ろを塞いで攻め戦えば、
たちどころに敵を討ち取ることができるはずだ。

そして、今日武田が備えていた谷に勢を隠しておいて、
敵が里へと深々と踏み入って在家に放火しようとしたときに、
合図の旗かまたは太鼓でもって連絡して、伏兵を繰り出すのだ。
そのときにまず峰に伏兵を上らせてから鬨の声を上げ、足軽たちに鉄砲を激しく撃ちかけさせれば、
敵の大多数は慌てふためいて備えを乱すだろう。

そうなったら前後左右から伏兵が叫んでかかっていけば、まず間違いなく敵は逃げ出していく。
どちらにしても、もう少し大勢で備えていれば、
川へ向かった敵のやり方によっては、対抗のしようはある。
今日の九郎左衛門は川端に詰め寄って、敵にとって好都合な場所に備えていたから、
川際で防戦するしかやりようがなかったのだ。
これだけ手法が悪いのだから、ついに一戦もできずに易々と追い崩されるのみならず、
多くの兵を失い、自分自身も死ぬことになった。

しかしこれは仰せにしたがって、我が心の赴くままに申したことだ。
さきほども言ったように、盛重が場合に応じて対応を変えるだろうから、
どのみちかないようなどなかったのだ」
隆重がこう語っている間、元盛は大いに感心して聞き入っていた。

すると今度は元明が盛重に向かって、
「ご子息の元盛の勧めで愚父の隆重が考えを述べました。
今度は盛重が、こういう場合に勝てる方法を教えてください。
私も学んで後々に役立てたいと思います」と言う
。盛重は、「では元明の仰せだから、愚蒙な我が身を顧みずに、
残らず考えを述べましょう」と、語り始めた。

「隆重が言われたように、敵がきちんと作戦を立てていたら、
私も敵が思い通りに動けないようにしようと考えて、
今朝の虎の刻から足軽をこっそりと放ち、敵の様子を見てこさせていました。
しかし敵は珍しいことをするわけでもなく、ただ南条の館に集まっているということだったから、
早いうちに勢を山上に攻め上げることはしません。
武田が控えている山上へ一勢押し上げて、里の様子を目下に見下すように備えていたなら、
敵が鬱蒼とした林や竹の中に隠れていようとも、すべて発見できます。
まして谷の陰に伏兵を置いていたら、白地に西施(越の国の美女)を置いているようなもので、
味方の勝利は間違いありません。

こんなことでは、南条は怯えきっていて長郷田に兵を出さないだろうから、一戦もできないだろうと思って、どうにか敵を誘い引き出そうと思って、
山頭へは軍勢を上げませんでした。

私も前々から、まず味方が山上に備えるべきだと考えて、
河口刑部少輔久氏・吉田肥前守の二人に勢を分け与え、作戦を言い含めておきました。
そうして山上に一手の備えを固めてから、敵の出てきそうな道三つには、
それぞれの道へと足軽を前に立てて攻め入っていけばいい。
宍道正義と私は後陣に控え、敵の戦法をうかがいながら備えれば、
敵はひとたまりもないだろうから、一戦のうちに勝利を得られると思っていたのです。
しかし我らがこうもきっちりと準備をしてしまえば敵は出てこないだろうとハッと気づいて、
今朝のように川を隔てて備えたのです。

もし元続自身が、私が先陣にいるのを見て、城を出て戦いを挑んできても、私の旗本勢で切り崩せます。
それは卵を山で押しつぶすようにに簡単だろうと思って、それを待ち望んでいたけれども、
元続が臆して出てこなかったのが残念です。

だいたいにして戦というものは、敵がやりそうなことを予想して、
前もってその対策を考えておくのが軍法の基本です。
戦をどのように運ぶかは、前もってあれこれと言っておけますが、
敵を制する方法は言葉では表しづらいのです。
他の人が水を飲むのを見て、その水が冷たいか暖かいかを知るようなものです。
敵により、時によって変わるものなので、前もってどうこうとは言いにくいのです。

今思いつくままに言ったことは、絵に描かれた餅が飢えを満たさないのと同じです。
兵法の千章万句は敵をやっつけて敵に負けないためにありますが、
すべての兵書を学得したとしても、以心伝心の妙にはかないません。
敵を敗北させることはさて置き、敵がいろいろな戦法で自分を陥れようとしたときに、
自分が敵の機を察して、逆に敵を破ることが兵法における最大の要で、
以心伝心の妙、金剛の本質なのです。

これを法戦場(異宗派同士の討論)になぞらえてみると、
異教徒が仏に『有言を問わず、無言を問わず』と言ったとき、仏はじっとそのままでいました。
また異教徒が手に雀の子を握って、仏に
『私の手の中の雀は死んでいるか生きているか当ててみろ』と言うと、
仏は門に乗り、『私は出るところか入るところか』と問いかけました。
異教徒は言葉にならずに礼拝をしました。

こうした話のように、仏が異教徒に対してやったような感じで、
機を読んでに敵を打つといいと思います。
『問いは答えにあり、答えは問いにある』とも言いますから、敵の作戦によって備えを決めます。
しかしこれは、敵の様子を見ないうちには備えないということではありません。
前もって、まるで敵に対峙しているかのように備えを固くしておくべきです。
そして敵の備えや敵の戦法に応じて変化させることについては、
前もってあれこれと指示できるものではありません。
大内家が全盛だったときに定めおかれていた『器水の陣・器水の備え』
というのを習得するといいでしょう」

盛重がこう語ると、元明は「その器水の陣・器水の備えとはどういうことですか。
教えてください」と言ったが、
そのとき元春から呼び出しがあったので、盛重は元春の御前へと出て行った。
隆重父子も自分の陣へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

いいところで終わってしまったな。「器水の陣・器水の備え」って何なんだぜ……
もしかしたら陰徳記前半に答えはあるのかもしれないけれど、
まだ読んでないのでなんともはや。

しかし、杉原父子・天野父子が戦法論議をしているのは、胸がホコホコするよね(*´∇`*)
たぶん例によって正矩がウンチク垂れたかったからこういうエピソードを入れたと思うことにするけど、
知識の継承のしかたの一端がわかって、たいへん楽しい。
やっぱりほぼ口伝なんだろうなぁ。
子供の若殿世代が、父親のベテラン世代にお話をねだって学んでいくってのは、
なかなか心の温かくなる話だね。

毛利家でも……と思ったけど、若いうちからすんなり結婚して子を産み育て、
きっちり家庭を築いているのは吉川くらいか。
隆元は早死にしたし、隆景には子供がいないもんな。
それはそれでいいんだけれども、少し寂しい。

さてそんなわけで、今日実家に帰省してきたわけだけれども、
明日更新できるかどうかはよくわからないし、今だいぶ酔っ払っていてなんともはや。
とりあえず次章は、我が経言ちゃんが美男で有名な岡剛介を追い詰めるらしいよ!
てか直家と普通に戦争するんかい!?
2012-12-29

あっぱれ杉原! あっぱれ左近!

昨夜は納会で呑んでいたよ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
仕事は終わったが実家に帰省するミッションが残っていて気が重いです。
年賀状? 知らね。

さて陰徳記、これまでのあらすじ:
織田と毛利の対決が幕を開け、境目では宇喜多直家・南条兄弟らが織田への寝返りを図っていた。
宇喜多は美作で吉川配下の軍勢と敵対していたものの、隆景と関係修復を図り、
元春が出馬してくると兵を引き上げていく。
元春らは宇喜多との決戦がなくなると、その足で南条討伐に向かった。
南条元続は対決に消極的だったものの、一族の九郎左衛門が決戦を主張し、
長瀬川をはさんで、吉川の先陣の杉原盛重らと対決することとなった。


伯州長郷田合戦のこと(下)

さて杉原父子三人、ならびに宍道の手の者たちは長瀬川を隔てて弓・鉄砲で競り合った。
なかでも宍道の郎党の寺本市允などが真っ先に進んで散々に射立てたので、
敵が退却しそうな気配になった。
杉原はかねてから川を渡って一戦しようと思っていたので、多くの兵を討たれないために、
勢を三つに分けて川を渡るように定めておいた。

杉原は馬上で団扇を打ち振り、「味方の勝利は決まったようなものだ。
敵はもう退却するようだぞ。渡れや者ども」と下知をした。
上の瀬は宍道、中の瀬は杉原父子三人、下の瀬は吉田肥前守・河口刑部少輔らが、
川の水へとサッと入って渡っていく。

南条勢はすでに引き色になっていたので、九郎左衛門は馬を乗り回し、
「たいしたことはないぞ、敵は小勢で後陣も続いてこない。
皆水底へと追い込んで、魚の餌にしてしまえ。かかれ、かかれ」と下知をした。
しかし兵たちは、杉原の勇は味方だったころから知っている上に、
中の瀬だけに馳せ向かって、ここに渡ってきたら一戦しようと一隅だけを守っていたところ、
上中下からいっせいに渡ってきたので、取り囲まれてはかなわないと思ったのか、
後も顧みずに引いていった。

南条元続は広瀬若狭守を、
「今日無二の戦いをさせて九郎左衛門を討ち死にさせるわけには行かない。
お前が行って制してこい」と遣わしていた。
しかし広瀬は味方がすべて退却してしまったので、快く合戦できずに口惜しく思ったのか、
たった一人馬上で下知をして引く味方を制していた。
しかし誰も聞き入れないので、もう討ち死にしかないと思ったのだろう、
「広瀬若狭守」と名乗り、一歩も引かずにいた。

そこに吉川勢の大草神右衛門という者が走りかかり、広瀬の高股をズンと切り落とす。
さしもの若狭守も馬からまっさかさまに落ちた。
しかし大の剛の者なので、倒れたまま太刀を抜き、
大草が首を取ろうと駆け寄ってきたところを狙って、膝をしたたかに切りつけた。
大草が薙ぎ倒されて起きようとしている間に、若狭守の首は杉原の手の者、
安原民部少輔が打ってしまっていた。

広瀬は安原をキッとにらんで、「私は広瀬若狭守という。元春もご存知だ。
きれいに首を打てよ」と言って、立派に打たせたという。
こうして南条勢は先陣が引いてしまったので、後陣の武田も山上から引いていった。

南条の者たちは山沿いに引けば無地に逃げ延びられたのに、川沿いの崖へと逃げていったので、
道が狭くなって後ろの者たちがつかえてしまい、逃げることができなくなって、
あちらこちらで討たれてしまった。
南条九郎左衛門はよさそうな難所で取って返し、快く一戦をしようと考えて味方とともに引いていたが、
乱れ立った味方にいくら下知をしても引き返す者はいない。
もうこうなったら討ち死にしようと思い、羽衣石の麓の柵を結んであるところで取って返した。
そこに杉原の郎党の久須磨市允が渡り合って、難なく討ち取った。

吉川衆の小坂次郎兵衛尉は太刀で敵を追いかけていたが、敵が鑓を提げて取って返してきたので、
小坂は太刀でそれを払いのけ、たちまち敵を討ち取った。
同じく吉川衆の境七郎右衛門・朝枝新兵衛尉、三刀屋の郎党の羽倉右吉などが、
敵の首を打って差し上げた。
杉原の手勢も、菊池肥前守・進孫次郎・佐田彦四郎・同小鼠などが分捕り高名した。
その日の首は百五十以上になったという。

又次郎経言の手の者たちは合戦が終わってから駆けつけてきて、
今日の合戦に参加できなかったのを悔しがり、羽衣石の小屋を焼き払おうとしに行ったが、
一条市助の手勢が打って出てきて競り合いになったので、それを押し込めて数人討ち取った。
寄せ手では井下源七郎・小谷四郎次郎が討たれた。

杉原の郎党の菊池肥前守の嫡子に、左近という者がいた。
十三歳から何度も分捕り高名をしていたけれども、
人々は「あんな小童にそんな働きができるものか。
きっと父の肥前守が首を取って与えたのだろう」などと言って、左近の高名を信じなかった。
左近はこれをひどく悔しく思っていたのか、今回は父には同道せず、
高名の証拠にしようと思って、佐田小鼠と一緒に行動した。

左近は南条の郎党の一条新五郎という者と渡り合い、散々に戦ってついに切り伏せると首を掻き切って、
「佐田よ、見たか」と呼ばわった。
小鼠は、「いつものこととは言うものの、今日の活躍にはびっくりした」と感じ入った。
左近は、「私は十三歳のときから今年十五歳になるまで、
何度も分捕り高名したというのに、人はまったく信じてくれない。
今回あなたと一緒に来たのは、これまでの人々の疑いを晴らすためなのだ。
私の鬱懐は晴れた」と喜んで、その首を郎党に持たせると厳重に隠させ、
日ごろから口の悪い安原民部や入江大蔵に会って、目にもの見せてやろうと考えた。

そして何も手に持っていないふりをして帰ってくると、その二人を探した。
すると安原・入江が連れ立って盛重の本陣へ行くところに、ばったりと行き会った。
安原はキッと左近を見て、「どうした菊池殿、今日は分捕りなさらなかったのかな」と言葉をかける。
入江も「肥前守殿とは別のかかり口なのだから、高名などできるわけがありませんな。
父の尻について歩いている者は、一人で高名などできないものだ」と言った。
左近はこれを聞いて、「あなた方などは、ややもすれば他人が取った首を奪い取って、
自分が高名したかのように振舞うのが常だから、そのようなことを言うのだろう。
父と一緒ではないからといって、高名しないわけがないだろう」と言い返した。

安原・入江はカラカラと打ち笑い、「減らず口はいいから首を出しなされ」と言うので、
左近は郎党に隠して持たせていた首を持ってくると二人の前に放り出し、
「これをよく御覧なさい。一条新五郎と名乗っていたところを切り伏せ、首を取ったのです。
証人は佐田の小鼠です。
これまでの私の高名を、父から首をもらったのだとあざ笑われたのさえ口惜しく思っていたのに、
今またそのようにからかわれるとは無念の限りです。
これでも口に任せて私を罵りたいなら罵ればいい。
私の年来の敵はあなた方だ。
父に首をもらったかもらっていないか之証拠として、二人の眉間を二つに切り割り、
その首を切っ先で貫いてから是非の問答をしようではないか」と言うと、
三尺ほどある太刀の鍔元を二、三寸ほど開いて、大きな眼をカッと見開き、二人をじっと睨んで立った。

安原・入江は、若い者が勇気を振り絞ったのに感じ入り、
それにさきほどの嘲弄もただの悪ふざけだったので、左近のこの荒い言葉に怒る気持ちはなかった。
「いやいや左近殿、今日のご武勇はこの世になかなかあるものではないと思いますぞ。
これまで、父の肥前守が取った首をもらったのだろうとからかったのも、ただの悪ふざけです。
今日申した言葉も例外ではありません。どうか許してください。
これまでの戯言は、このような大の武勇を引き出したいがための餌なのですよ。
我らがいい餌をまいたからこそ、このような出群の勇を釣ることができました。
これは我ら二人の功労です」と言う。
左近はこの言葉に腹を治めて、「子陵は釣竿で乾坤を伸縮させ、
あなた方は悪ふざけで人の武名を釣ったのか」と、どっと笑うと、去っていった。

人々はこれを伝え聞いて、「昔の小式部は『大江山生野の道』と口ずさんで、
自分が日ごろ詠んでいた歌が母の作ではないかという疑いを晴らした。
今の左近は佐田という友人とともに、自分の高名が父の仕業だろうという嘲りを退けた。
小式部は容貌の端麗な女が学んだ敷島の和歌の道、
左近は武名が世にもまれなつわものがたしなんでいる技だ。
桃の林は紅深く、李花は白く清らかだが、それぞれ質は違っても、
実に珍しく妙なることは同じだなあ」と、感心しない者はなかった。


以上、テキトー訳。おしまい。

杉原さんてばステキ♪ヾ(。>▽<。)ノ゙
いやはや勝ち戦ってのは読んでて胸がスーッとするね!
しかし南条勢の手ごたえがイマイチなので(´・ω・`)ションモウリ
広瀬若狭守は九郎左衛門を止めに行ったんじゃないんですか。
自分が思いっきり戦って死んでたら世話ないわ。
ミイラ取りがミイラになったって、こういうこと言うんだっけ?

経言の手の者は残念だったねー。
決戦に間に合わなくて悔しいからって嫌がらせしに行くあたり、ちょっと好き。
好戦的なのは、父親や兄ちゃんと一緒だな、経言。
でもたぶん、元春の説教状ではこういう行為を咎められてたんだろうな。
「逃げ遅れた雑兵の首とっていい気になってるんじゃないよ。
負けそうな情勢をひっくり返すような活躍してみなさいよ」ってな。
無茶言うぜ。

そしてニューカマー菊池左近ちゃんですよ!
13歳からバリバリ戦に出てて、15歳の今までに何度も高名してるって、すげえ。
周囲の大人たちにからかわれて、一泡吹かせてやろうとするとか、かわいいな、左近。
父親の菊池肥前守は、上月城で秀吉と対陣していたときに、
佐田兄弟と一緒に忍び働きしてた人だよね。
忍者の子……ゴクリッ(よからぬ妄想が駆け巡っております)

さて次章、杉原父子と天野父子が対談をするようです。
家族ぐるみでキャッキャしてる話も大好物!
2012-12-27

元春が稲薙ぎしたそうにこちらを見ている……相手をしますか? 南条「」

だいたいの流れ:
上月城の戦いで織田を退却させ尼子を滅亡させた毛利勢だったが、
南では宇喜多直家、北では南条元続兄弟の寝返りが露見する。
宇喜多は隆景に擦り寄って、毛利が勝ったときのためにきっちり保険をかけた。
しかし美作では、宇喜多勢と吉川配下の勢の小競り合いが続いていた。

今回は長いので分割。


伯州長郷田合戦のこと(上)

吉川元春が八橋から芸州の新庄へ帰陣したところ、
宇喜多和泉守直家が二万余騎で美作に侵攻してきて、
また荒神山を取り誘い祝山・升形を攻めようとしているという報告が入った。
元春は八千余騎を率い、同八月二日に美作へと発向した。
すると直家は美作表を引き払い、備前岡山へと引き上げたと注進がくる。
元春が四十曲あたりから引き返し、出雲の富田へとやってきて
美作・伯耆の様子をうかがっていたとき、南条兄弟の逆意が露見した。

同(天正八年)八月九日、元春・元氏・経言父子三人は、総勢八千余騎を率いて出雲の富田を出発し、
東伯耆の羽衣石の城の麓へと、稲薙ぎのために打ち出た。
元長様は風邪を引いて臥せっていたのでしばらく出雲の国にとどまり、
香川兵部大輔を大将として、松岡安右衛門をはじめ旗本の勢を差し添えて向かわせていた。

こうして元春が八橋に着陣すると、
由良の城に立て籠もっていた一条東市助は城を捨てて羽衣石へと逃げ入った。
ここには、杉原播磨守盛重のもとから木梨中務を入れ置いた。
同十三日、元春父子三人が茶臼山へ本陣を移すと、
先陣として杉原盛重・嫡子の弥八郎元盛・次男の又次郎景盛、
ならびに盛重の与力である宍道五郎兵衛尉正義が、総勢二千五百余騎で長郷田表へと打って出て、
民家に放火して稲をことごとく薙ぎ捨てた。

こうしたところに南条備前守の嫡子、九郎左衛門が二千余騎で打って出てきた。
これを見て、因幡の国の住人、武田源三郎が五百余騎で駆けつけ同じく続いて備えた。

南条元続は元春が自ら大将として発向してきたと聞くと家人たちに向かい、
「元春と対等の兵数があれば十死に一生を賭けた合戦をしようと思うが、
敵はおそらく一、二万騎はいるだろう。
私の勢は、因幡から加勢が加わったといっても、三千四、五百ほどでしかない。
不利な一戦をして敵に利をつけるよりは、城中に籠もって、
城を落とされないようにしているのがいいと思う。
落城しなければこちらの勝ちだ。
そのまま信長の後詰を待つのが勝利を得るための謀略となる」と言った。

諸侍たちは皆、「ごもっとも」と賛同したが、九郎左衛門が進み出て、
「いくら元春でも、まさか鬼神ではないでしょう。
愚案をめぐらすに、今回も杉原が先陣だと思います。
杉原は己の勇を過信して後陣の勢が続くのを待たず、一文字に長瀬川の流れを乱して渡ろうとするはず。
そこを、渡し口に向かっていって杉原の勢を皆川へと追い込み、一人残らず討ち取ってしまいましょう。
先陣が破れれば、どんなに勇猛な元春といえども、機を失って一戦もできないでしょう。

それにまた元春が二の合戦を自分の旗本勢で行おうとしてきたら、
それこそ望むところなのですから、十死一生の合戦を遂げましょう。
もしくは、盛重が思ったよりも猛勢で、しかも備えが堅固で味方がかないそうになければ、
勢をさっさと引き上げて山上に備えればいいのです。
地の利を利用して戦えば、味方の勝利は決まったようなものです。
もし元春の本陣を破ることができなければ、杉原の杉原の一手を追い散らしてから、
そのままサッと引いて城中に入り、味方の勝機を高揚させてから城を固く守ればよろしい。
敵は一戦に負け、二の合戦をすることもできず、さぞ歯噛みすることでしょう。

もし元春が負けて腹を立て、羽衣石へと無二に攻めかかってくるなら、それこそ味方にとって幸いです。
散々に射立てて、死人や怪我人が多く出て敵が浮き足立ったところを見切り、
無二に山下へとかかって負い崩すのです。
さしもの良将と名高い元春に一塩つければ、敵が再度この城を指さすことはないでしょう。
今日の合戦は私にお任せください。危ないことはありません」と言う。

心得のある老臣たちは、「どうして元春と一戦できるなどと考えるのか。
無意味に防戦一方になって、敵に利をつけるだけだ。
役に立たない謀だ」と制する者も多かった。

しかし九郎左衛門はそれなりに武勇の誉れのあるつわものなので居丈高になり、
「毛利家に対して反逆を企てたほどの者だというのに、
元春が初めてこの城を攻めてきたときに一戦もせず、
山下に放火されたまま、鬱々と城中に引き籠っているほかないのなら、
どうやっても勇将の元春に対して、一日だって城を持ちこたえられません。

敵に当方が臆していると思われるのが口惜しくないのですか。
それほど元春が鬼神のように恐ろしいのなら、どうして敵対するとお決めになったのですか。
元通り毛利家に従っていればよかったではないですか。
今こうして矛楯に及んだのであれば、一文字に思い切って、
骸を必死の戦場に晒そうと思い定めていなければ、易々と攻め滅ぼされてしまいます。
今日は勝っても負けても激しい一合戦をするべきところです。

この九郎左衛門としては、すべき合戦をしないのは、
勇気智謀がないことになってしまいますので、
臆病神に侵された人々には与しません。
今日元春を追い崩すか、それでなければ私の首を敵に取られるか、
二つのうちに思い定めております。
我こそはと思う者たちはついて参れ」と言うと、
その座をサッと立って緋縅の鎧を身に着け、月毛の馬に乗って、
手勢の郎党百余人を連れて出て行った。

南条家の兵たちも我もわれもと付き従い、皆長郷田表へ出て行ったという。
「九郎左衛門の言うことは、確かに勇士の手本である。
軍事に携わる者はすべき一戦を外さず、身命を捨てて名を万世に残すことが本望である」と、
感心した者も多かった。


以上、テキトー訳。続く。

おー、元春が出てきたのを察して素早く勢を引き上げる直家さん、お見事!
「元春に逆らうわけじゃないですよー」ってポーズだよね。
処世術に長けてるなぁ……惚れ惚れするわ。

そして割を食った南条。戦の準備が整った吉川本体が集中攻撃にきやがった。
元続は、同時に宇喜多が反乱するって目算でもあったのかな。
援軍を確保できる状態でもないのに、吉川勢を一手に引き受けて勝てる見込み……あったのか?
直家の動きが南条を追い込んでいるかのように見えて……流石直家(・`ω´・)bグッ

さてさて、珍しいことに、元長が風邪ひいてお留守番だってさ。
春継が名代の大将だって!? 一門衆でもないのにマジですか???
などと言いつつニヤニヤが止まらない私がいるよ!
病気=看病フラグだねデュフフ☆とか考えているよ! ばかだね!!!
あと春継が活躍してると普通にうれしい。大好き。
でも稲薙ぎかぁ。ちょっとこれは、現代感覚だとアレだな。
「とりあえずビール」みたいな感覚で「とりあえず稲薙ぎしとけ」って戦……
農民はホント迷惑するね。ちょうど収穫時期だろうに。

あと話の中心の南条九郎左衛門だけど、気持ちだけでやっちゃってホントにいいのかな。
さて吉川勢と頼もしい国人衆は、これに同対抗するのか、待て次回!
2012-12-26

宇喜多の動向

だいたいの流れ:
織田と毛利の初の睨み合いが終わったが、ほっとする間もなく、
宇喜多直家・南条元続らが信長に寝返ったことがわかり、
元春たちはその対応に追われていた。
元春は北方で南条との宥和をはかり、また美作の宇喜多領を攻めたが、
一方で隆景は、擦り寄ってくる直家と再び交友を始める。

元春「解せぬ」

というわけで、本日は短い章二本立て。


宇喜多、升形の城を取り囲むこと

宇喜多和泉守は、明石・岡・長船といった家之子郎党たちに向かって、
「先日は元春に荒神山の城を攻め落とされ、とりわけ主力の兵たちが大勢討たれて無念でたまらない。
高田の城に付城を構えて攻め落とそうと思うが、どうだ。
そうなればまず升形の城を一気に攻めて乗り破りたい。
そうすれば高田も攻めずに落ちよう。
いずれにしても、荒神山の返報を思うさまにして、我が欝懐を晴らし、
また討たれた者たちの供養としよう」と言って、総勢二万余騎で高田表へ打って出た。

直家は、升形の尾首へ打ち上がって陣を据えた。
城中には吉田肥前守に、検使として元春から森脇一郎右衛門尉が添えられて籠め置かれていたが、
いずれも劣らぬ剛の者たちなので、寄せ手の大軍に少しも臆さず、
わずか五百余騎で静まり返って待ち受けていた。
直家が「いざ、この城を一気に攻め落とすぞ」と言うと、
弟の七郎兵衛尉忠家は、「吉田・森脇は、死を一途に思い定めていることが、
外から見てもわかります。この城は易々とは落ちないでしょう。
たとえ無理に攻め破っても、味方にも死人や怪我人が大勢出てしまいます。
今回は兵を引き上げてください」と諫めた。

直家はこの意見に同意して、高田近辺まで退却した。
城中は十死を逃れて一生を得ることができた。
こうして直家は高田に陣を据え、また荒神山を接収して、花房助兵衛を入れると、
升形・祝山の両城を攻め落とすべく謀略を練り、会稽の恥を雪ごうとしていた。


塩屋左介討ち死にのこと

さて美作の国の祝山には、熊谷伊豆守信直の四男、三須兵部少輔と、
塩屋豊後守・その子左介・同杢助らが籠め置かれていたが、
二の丸に籠もっていた猪俣平六がたちまち心変わりしたので、この城はもう保てないかに見えた。
しかし三須・塩屋父子は無二に戦死の覚悟を決め、
猪俣と鑓を合わせて、ついに二の丸から追い出してしまった。
その後花房助兵衛尉が荒神山から打って出てきて、何度も競り合いをしたけれども、
三須は大強の者なので、戦のたびに勝ちに乗った。
こうなると一揆勢まで鬼神のように恐れるようになって、近郷の者たちはその武威に服した。

あるとき祝山から塩屋左介が出てきて、里の中にあった風呂に入っていたが、
中間一人に十文字鑓を持たせただけで行った。
人は皆、「無駄に風呂に入るものじゃない。
もし敵が出てきたら、たちまち討ち果たされてしまうぞ」と制したけれども、
左介は自分の勇を過信して、「ここ数年備前尾の者たちとは何度かやりあって、
手並みのほどは見せてある。左介と聞けば五里も十里も逃げていくだろうさ。
私に立ち向かってこようとする者など一人もいるものか」と、散々に荒言を吐いて出かけた。

このことを、半納(境目の土地で対立する領主に半分ずつ年貢を納めること)の土民たちが
花房助兵衛尉に密告すると、助兵衛尉は大いに喜んで、
すぐに精鋭二百余人を荒神山からヒタヒタと下してその風呂屋を取り囲んだ。
塩屋はこれを見て、「荒神山勢などたいしたことない。
私の手並みは日ごろからよく知っているはずなのに、性懲りもなく来たものだ」と言って、
白い湯帷子をもろ肌脱いで、十文字を引っ提げると突いて出た。

寄せ手はこれを討とうと渡り合ったが、ここかしこで十三人が突かれてしまうと、
あとはあえて近付こうとする者もなく、ただ遠くから矢を射掛けてきた。
塩屋は「こんなところで空しく射すくめられて死ぬのも口惜しい。
私が十文字を持っているから、敵は恐れて近寄ってこないのだ。
仕方ない、これは打ち捨てて太刀で切り死にしよう」と思ったのか、
十文字を投げ捨てると太刀を抜いて仁王立ちになり、
「備前の臆病者ども、鑓は捨てたぞ。さあここに集まって生け捕りにしてみろ」と叫んだ。

敵が大勢集まってきたので、塩屋は太刀で数人切り伏せたけれども、
敵は鑓数十本で突きすくめてきた。
塩屋の心は勇ましかったものの、地面を掘って地中に入ることもできず、
点に飛び上がることもできないので、ついにそこで討ち取られてしまった。
首は、花房の郎党の難波六右衛門というものが打った。

花房は、「このような勇士は、今の世では見たことも聞いたこともない。
昔の物語の中にしかいないと思っていた」と大いに感心し、
その日の夕方に、死骸を父の塩屋豊後守へと送り届けた。
左介には勇があり、花房は情け深いと、人々はそれぞれに褒め称えあった。


以上、テキトー訳。

前の章で隆景と直家が仲良くしてたところだったのに、どういうことなの。
直家は隆景とは手を結んで、元春とはガチで戦争する気だったの。
とはいえ、これらの物語は時系列どおりに描かれているわけではないのよな。
手を抜かずにまじめにお勉強しろって話ですなハハハ……_ノ乙(.ン、)_

ところで、やはり登場しました花房助兵衛尉さん!
この人は広家と仲がよかったらしく、書状も残ってるね。
宇喜多騒動だか秀次事件だか何やかやのあおりをくって
東国に左遷されてたときがあって、そのときの書状。
その後も大坂の陣で広家らと徳川のつなぎに活躍したようで、
おそらくその当時のものと思われる黒田長政からの書状に、
「花房助兵衛尉のところで落ち合おう」みたいなことも書いてある。
これだけ仲良くしていると、やっぱりかっこよく描かれるんだなw
いや、実際かっこよかったのかもしれないけど。

左介はね……どうしてそこまでして風呂に入りたかったのか。
というかみんなお風呂大好きなの?
これまでもたまに風呂ネタ出てきたよね。
元春も敵地で信用できない国人のところに泊まったとき、
風呂で無防備なところを襲われるかもしれないというのに、
警備を厳重に固めてまで風呂に入ったしw
お風呂大好き吉川勢……もうみんなで温泉旅行にでも行ってしまえばいいのに!
のぞきたい! あわよくば背中を流したい!!!

あらぶるのはここまでにして。
さてさて、次章も直家と南条に悩まされる元春だよ。
2012-12-25

隆景と直家の理解の及ばぬ関係

だいたいの流れ:
毛利と織田の記念すべき初の全面戦争が上月表で行われたが、
羽柴秀吉をはじめ織田の勢が退却することとなり、毛利勢は無事に上月尉を攻め取った。
しかし南では宇喜多直家の反逆が露見し、北では南条元続の反乱が起こる。
元春は出雲・美作方面に注意をめぐらしていたが、
一方そのころ隆景と直家は……?


隆景・直家、対面のこと

宇喜多和泉守直家は、元来表裏第一の邪将なので、
先年黒沢山で反逆を企て、元春・隆景を討ち取ろうとしたにもかかわらず、
その後は一向に敵対する様子も見せず、信長に従いながらも、
「もし毛利家が勝利を得たならば、また毛利家の手に属そう」と考えていた。

そこで洲波隼人入道如慶を芸陽の沼田へ差し下して隆景の下に置き、
「直家は露ほども逆心を抱いていなかったのに、いったい誰が讒言を構えたのか、
隆景が謀反を企てているとお聞きになり、早々に黒沢山を引き払われてしまったので、
直家は面目を失ってしまいました。

私が先年浦上宗景と鑓を交えたときには、毛利家が援兵を出してくださったからこそ
浦上を滅ぼすことができました。
その後三村元親らとの合戦が数年に及んだときには、
輝元・隆景が備中表へご出陣くださって、あの一族を滅ぼすことができたのです。
その後羽柴筑前守が上月を攻め落として美作へと入るか、
または岡山あたりへ侵攻するかと定めたときには、
元春・隆景がご出馬してくださって大軍を引き連れてきてくださったからこそ、
直家が今でも安全に暮らしていられるばかりか、
播磨・美作・備前・備中のなかで数ヶ所を知行できているのです。
これはひとえに毛利家のご厚恩に他なりません。

それなのに、いかに直家が偏屈だとしても、
どうしてこのような重恩を忘れることができましょうか。
ご当家に対して反逆する意図があるならば、直家の武運の冥加はたちまち尽き果ててしまうでしょう。
どうか讒言をした者の言葉を究明なさって、元通りにご憐憫を垂れてくださいませ」と、
何度も申し入れてきた。

その後岡越前守を差し下し、
「直家の申し入れを聞いてくださるならば、備前の児島までいらしていただけませんか。
直家も罷り出て対面いたしましょう」と言うので、
隆景は「それならば」ということで児島へと上り、同六月十三日に宇喜多和泉守直家と談義をした。
和泉守は吉光の名刀を一腰、黒月毛の馬を一頭献上してきた。
そのほか小早川家の重臣や近習といった者たちにも数々の宝物を贈った。

それから直家は洲波入道如慶を沼田に駐在させ、
「何か隆景の御用があればすぐに言い送るように。この直家の力の及ぶかぎり協力するぞ」と言い含めた。
また安国寺瓊西堂にも同様に頼み込んだが、虚堂の筆跡と名誉の迫門の肩衝をつかませたので、
安国寺は「万事ご安心なさってください。
この小僧がいる限り、毛利家は別心を抱かないでしょう」と返答した。
けれども隆景様は末世の聖人と呼ばれたほどの名将なので、どうして直家に騙されることなどあろうか。
洲波にも心を許したりしなかったが、上辺は打ち解けたようなふりをして対応していた。

元春様は常に、「隆景が洲波と何くれとなく未だに付き合ってるが、理解できない。
直家はきっと毛利家と手切れすると、すぐにでも岡山を取り詰められて、
自分が一大事に及ぶのを嫌って、とやかく騙そうとしているのだろう。
信長が播磨の三木の別所や大坂の城などを攻め落とせば、加勢も大勢つくだろう。
それでなくても、秀吉だけでも後詰に来てしまえば、上月の二の舞になってしまう。
また大坂・三木が残っているうちは信長がはるばる出張してくるわけにはいかないのだから、
その両城の敵が滅びるのを待つために、あれこれと騙して狐が化けたような振る舞いをしているのだ。
とっとと洲波を誅殺してしまえばいいのに。
心を許していなくても、中国の様子をうかがって、あれこれと直家に報告しているはずだから、
生かしておいても益はない。

それにあの安国寺に、多少賢いからといって心を許しているのは、これもまた理解できない。
よくよくこの者の行跡を見ていると、狡賢くて欲深く、仁道をまったく心得ていないし、
人より飛びぬけて驕慢な大奸人だ。
きっと将来は、当家の傷になるような侫僧だ」と言った。
けれども元春は、たまには安国寺との付き合いもしたが、
元長様は安国寺を非常に憎んでいたので、折につけ眼に角を立てて睨み付けていた。

安国寺は行く行くの自分の身が心配になり、
「元春父子にはああして嫌われたとしても、隆景様は柔和第一の名将だ。
隆景様を頼れば我が身も安泰だ」と考えて、
奉行や頭人、侍従たちに至るまで、肥馬の塵を望んで擦り寄った。
隆景もこの僧に侫智があるとは知っていたけれども、
なかなかに賢いので、あれこれと召し使ったのだった。


以上、テキトー訳。

とりあえず当面戦争を避けようとしてるように見えるよね、隆景も直家も。
隆景としても、南前での宇喜多直家の影響力は欲しいというところだったのかも知れんと思ったけど、
このあたりはまったく勉強してないんだった……_ノ乙(.ン、)_
けっこうめまぐるしく情勢が移り変わるから、私の脳みそでは処理しきれません。

そういえば今日、直家の援助で建てられた寺(重要文化財)が全焼したってニュースを見たけど
12月25日は、西暦換算した元春の命日でもあったりw
古くから守られてきた建物が失われたのは残念ではある。
けれども、形あるものはいつか失われるって、昔から言われるじゃない。
そのときがきたのかな、などとぼんやり考えていました。

しかし吉川家の安国寺に対する評価はアレよね。
安国寺は一種のスケープゴートだと思ってる派だけれども、
なんかホントに当時から安国寺が毛嫌いされてたかのように思えてくるから不思議。
物語ってのは怖いね。
ちなみに私は恵瓊の手紙が面白くてけっこう好きなので、
こうしてひたすらdisられてるのは悲しかったりもする。

さて次章は……ここがなんとも不思議なんだけれども、
隆景と手を結んでいるかに見える直家は、吉川には敵対心むき出しのようで?
そんなよくわからん情勢の一幕です。
2012-12-24

吉川衆「move! move! move! move!」

だいたいの流れ:
上月城を攻め取り、初の対織田の正念場を勝利で飾った毛利勢だったが、
南では宇喜多直家の裏切り、北には南条元続の裏切りが露見し、元春たちはその対応に追われていた。

というわけで、久々に生き生きとした合戦です!
聖夜? 知るか。
今日は私の好きなプロレスラーのお誕生日です。


美作の国、所々の城没落のこと

さて、宇喜多直家が信長に寝返ったので、その領国を攻め取るべく、
翌年の天正八年二月初旬、毛利右馬頭輝元様・吉川駿河守元春様・嫡子の治部少輔元長・
三男の民部太輔経言・小早川左衛門佐隆景らは、総勢三万余騎を率いて美作の国に発向すると、
宇喜多が勢を入れ置いてある方々の城を取り囲んだ。
宇喜多は沼本新右衛門に下知して、大寺畑・小寺畑・篠吹の城を接収させ、
大寺畑には直家の婿の江原兵庫佐に羽柴筑前守から送られた加勢を付けて入れ置き、
篠吹には市五郎兵衛尉を差し籠めた。

そして同九月、小寺畑(城番芦田太郎と)を取り囲み、尾首に仕寄をつけて攻め近づいていくと、
朝枝源次郎が一番に攻め上り、比類のない戦いをして討ち死にした。
今田玄蕃も同様に先を争って戦ったが重傷を負った。
同十二日には城中がたまりかね、兜を脱いで旗を巻き、降参してきた。
彼らは大寺畑へと入った。同十六日には大寺畑を取り囲み、
尾首からは輝元様の旗本勢と隆景の手勢が仕寄をつける。
川の方からは元春の手勢が仕寄を寄せた。

これを聞くと、砥石山の城は取り囲まれないうちにと考えたのか、城を空けて逃げ出したが、
吉川勢がいち早く追いかけて数十人を討ち取った。
こうしたところに大寺畑の城中では謀反人が出て、
高田の城にいた楢崎弾正忠(元兼)のもとへと密かに内通してきた。
「お手勢を切岸まで寄せてください。そのとき城に火をかけます。
火の手が空中にほとばしったら、一気に乗り崩してください」と言うので、
楢崎はすぐにこれを了承して合図の火を待っていた。

さて取り決めていた日程になり、寅の下刻(午前四時ごろ)ほどに城中の小屋から火が出たので、
楢崎が一番に駆けつけて切岸へと寄っていく。
ここには、直家から富山半右衛門が使者として遣わされていたので居合わせていたのだが、
味方を励まして散々に射掛けさせた。
城中の者たちは、「敵は襲ってくるし小屋からは火が出ている。これはかなわない」と思い、
皆逃げようとして門の外へと出てきた。
これを富山が制したので、立ち戻ってきた者も多かった。

吉川衆が切岸へ迫ろうとして上ってくるのを味方だと思ったのか、
逃げ出そうとしている敵が三十人ほど城中へ入って行き、
長刀を持った兵が後ろをキッと振り返って、手を上げて招いた。
吉川衆は、「味方はもう城中に乗り入ったのか」と思って、間近に寄っていった。

城中からはこれを見て、矢先をそろえて散々に射掛けてきたものの、
最初は霧が濃く漂っていて敵のいる場所さえわからなかった。
東雲がほのぼのと明けてゆくと朝霧も吹き払われ、
寄せ手が切岸に付いてすぐ近くまで迫っているのが見えたので、
敵はここぞとばかりに射立ててきた。

吉川衆の松岡安右衛門・境外記・児玉市助・同朋の少阿弥たちは同じ場所にいたが、
少阿弥が立ち上がり、
「なあ市助、味方には鉄砲が一挺もない。これでは的にされて射られるばかりだ。
鉄砲衆を呼んで、あの矢間を撃とう」と言った。
それを敵が狙っていってきたので、少阿弥は一矢で死んでしまった。
松岡安右衛門も怪我を負い、また楢崎弾正忠も手傷を負ったので、
この城を乗り破ることができずに退却した。

その(十七日)仕寄を間近に寄せると、江原兵庫助は城から逃げだして、篠吹の城へと引いていった。
この城には、市三郎兵衛尉・嫡子五郎兵衛尉・芦田五郎太郎など三千余騎が立て籠もっている。
すぐに取り囲もうとしたが、江原は城を空けて備前を目指して退却していった。
これを見て岩屋の城も空け退いたので、その後は宮山の城を取り囲んだ。
宇喜多から羽柴筑前守秀吉へと使者が送られ、
「毛利三家が美作へと侵攻してきて、味方の城を次々に攻め落としていきます。
どうか援軍をお送りください」と再三言い送ったが、
秀吉は何を思ったのか、「今回は出張できそうにない。
もし岡山近辺へ打ち出てくるならば、秀吉が後詰に向かおう」と言って、美作には出張してこなかった。

こうして宮山の城を攻めている途中、在郷のそばに風呂があり、
寄せ手が毎日入りにきているのを知って、城中から打って出て、
風呂の用意をする人足たちを討ち取ろうとした。
これを見て江田新右衛門・山県源右衛門・同次郎右衛門などが鉄砲を手にして助けに駆けつけてきたので、
敵はさっと引いていった。

敵は竹が茂っているところに籠もると、江田たちがかかってくるのを待ちかける。
城中からは、味方が難儀に及んでいるとわかると、次々に七、八百人ほどが打って出てきた。
元長はこれを見ると自ら一千余騎を率いて打って出てきたので、
城中の者たちはたちまち押し立てられて退却していく。
これを追い詰めて、門の前まで攻め寄せた。
城の者たちも、敵が引くなら追いかけるつもりで、手に手に鑓を構えて控えていた。

寄せ手の血気盛んな者たちが門前近く攻め寄せて柵の木を切り破ったとき、
井下左馬允・森脇弥五郎・小笠原源次郎右衛門らが怪我を負った。
城の備えが堅固なので、そのまま乗り破ることはできなかった。
元長様の下知で、鉄砲を段々に備え、敵を打ち払いながら少しずつ引いていくと、
まったく備えが乱れないので、城中の者たちもあとを追ってはこなかった。
その後さらに詰め寄っていくと、宮山の城は明け渡され、敵は命からがら備前へと逃げ上っていった。

こうして毛利三家は同四月初旬に芸州へと引き上げたが、
輝元様・隆景は南前への仕置きのために備中へと出て行き、
あちこちの境目の城に兵糧などを入れて、やがて開陣した。


以上、テキトー訳。

おー、なんかどこかで見かけた名前が……と思ったら、
大寺畑の城にたまたま来てた富山半右衛門というのは、
だいぶ後のことだけど、広家が宇喜多の娘を娶る際に、
嫁さんに付けられていた人じゃなかったっけ。
何かと縁のある人はかっこよく描かれてるのねw
こうやって敵対してた人たちが、所縁を結んで仲良くなるってのは、
なんだか嬉しくなってしまうものだけど……今は合戦!

朝の暗いうちに切岸に迫り、矢玉の降り注ぐなか攻め近づいていく吉川衆、いいわぁ。
なんか、戦争映画のワンシーンに出てきそうっていうか、そんなのあったよね。
題名が思い出せないけど。
しかし少阿弥、自分で「的にされちゃうよ」って言いながら立ち上がるのはどうなの。
的にしてくれてと言ってるようなものじゃない。
そしてやっぱり死んじゃうフラグだったわけで……合掌。

あと気になるのは、風呂です! そこか!
これまでも何度か風呂が登場してるけど、戦争中でも近くの風呂に通ったりするのね。
みんな風呂好きなんだな。
このころは蒸し風呂が主流だったようで、「風呂を焼く」という表現だったよ(陰徳記では)。

てなわけで、次章、直家さんの怪しい動向を追う!
2012-12-23

YAMADA危機一髪

前回のあらすじ:
織田と毛利が全面戦争に突入し、その境目となる伯耆では、南条元続兄弟が織田に寝返ろうとしていた。
しかし、先の宗勝の代から南条配下の有力国人であった山田出雲守重直は、これを元春から聞かされて仰天。
南条を攻めると意気込む元春父子をなだめ、元続をそそのかした旧尼子家臣の福山を討つことで、
南条攻めを思いとどまるように説得した。
そして山田は伯耆に帰ると、宗勝の遺言を持ち出して、毛利家に忠節を尽くすようにと、
こんこんと元続に諭し、元続はこれにぐうの音も出なかった。


南条元続、山田出雲守を討たんと欲すこと(下)

その後元続はまた一族郎党を呼び集め、
「山田出雲守は無二の元春方だ。こいつがいるうちは、謀反もやりづらい。
どうしたらいいと思う」と相談した。
すると南条九郎左衛門が進み出て、
「とにかく信長に一味なさるおつもりなのでしたら、まず山田出雲を討つのがよろしいでしょう。
元春が今お父上の宗勝の忠に免じて今回の謀反を許してくださったとはいえ、
結局は当家を憎く思われる鬱憤はお忘れにならないでしょうから、
兵乱がおさまってから、元続の身が大事に及びましょう。
高いところを飛んでいる鳥が死ねば、弓はしまわれるものですし、
敵国滅びて謀臣滅ぶとも言いますから、忠臣ですらこのような扱いを受けるのです、
謀反を企んだ元続はいったいどうされるのか、考えるだに恐ろしい。
どちらにしても当家は安泰とはまいりません。
どうか一筋に思い切ってください」と言った。

この提案に皆「もっともだ」と賛同して、山田をおびき寄せて討つことに決まった。
そして使者を送ると、「相談したいことがあるので登城してきてほしい」と山田に言い送った。
しかし山田と親しくしている誰かが
「このような陰謀がありますので、今日の登城はお気をつけください」と密告していたので、
山田の家人たちは「今日は登城をお取りやめください、
やすやすと討たれてしまえば、無念で仕方ありません。
こちらに引き寄せて一戦し、快く死ぬほうがいいでしょう」と諫めた。

山田重直は、「いやいや、今登城しなければ、南条備前父子は私が臆したと言ってあざ笑うだろう。
それは口惜しい。だから無二の覚悟で登城しよう」と言う。
家老たちは、「大器ある者は小さな傷を気にしないものです。
どうか人がとやかく言うことなどお気になさらず、登城をおやめください」と言ったが、
重直は「元続や家老の者たちの勇のほどは私がよくわかっている。
私に太刀打ちできる者など一人もおらん」と言って家を出た。
主君と一緒に死のうと心に決めた家之子郎党三十余人も、妻子に別れを告げて、
今日を最後と思い定め、主君について出発した。

さて元続は、山田重直に対する討手には山田左介・同畔助・一条東市助などという
一騎当千の兵を選び出して言いつけて言いつけていた。
三人の者たちは話し合って、「出雲守を呼び入れて侍の番所で討ち果たそう」と決めた。
そこに出雲守の若党三十余人が、少しも身を顧みない様子で座敷に入っていってみると、
元春から羽衣石の検使として置かれていた境山城守も客間にいて、主室に元続・元清兄弟がいた。
かねてから、山田出雲守を討つときには、境山城守も一緒に討とうと取り決めていたのだろう。
けれども出雲守の郎党三十余人が、無二に死を思い定めた心意気が顔つきに表れていたので、
いかんともしがたく、元続兄弟も気圧された様子だった。

その後、たいした会議もなかったので、出雲守は暇乞いをして自分の家に帰り、
やがて南条に使者を遣わした。
「今日のご様子はまったく納得がいきません。
福山を討ったことをまだ恨んでいらっしゃるのですか。私にはまったく別心はありません。
元続のご不義を元春が宥恕してくださるようにと思ったからこそ福山を討ったのです。
これもひとえに宗勝のご遺言を守り、元続のためを考えてこのように取り計らったのです。
この重直に、これ以外の考えはありません。
元続もこれにご同意くださるなら、互いに神文を交換して、水魚の交を約しましょう」と言い送った。
元続は「私も何の異存もない」と言って、すぐに起請文を取り交わし、
これ以降も互いを大事にしようと誓い合った。

こうして山田は家之子郎党たちに向かい、
「これまでは皆、ここにいることが不安でならなかったろう。
しかし今は、元続と私は和睦の約束をしたのだ。何も用心することはない。
さあ、早く宿に帰りなさい」と言った。
家人たちは一同に、「仰せはごもっともでございますが、しばらくはご用心なさってください。
元続は表裏第一の人なのですから、誓紙に書いたことを破って、
騙して討とうとしているかもしれません」と言う。
山田出雲守が「たとえ元続が私を騙しているのだとしても、これは神文に書いたことなのだから、
天の采配に任せよう。もう用心はいらないからな。
早く帰って、これまでの疲れた心をいたわれよ」と言うので、家人たちはようやく自宅に帰っていった。

さて、南条は家人たちを呼び集め、
「今日山田を騙しおおせてやったぞ。さあ、今夜中に夜討ちをかけてしまおう」と命じた。
南条伯耆守元続自ら一千余騎を率い、山田の館を取り囲むと、鬨の声をどっと上げた(天正七年九月一日)。
出雲守は、頼りにしている郎党たちを皆家に帰してしまったところだったので、手勢はなかった。
けれども出雲守は鑓働きをすること九度、首を取ったのはいくらとも数知れないほどの勇士だったので、
少しも騒がずに鎧を取って肩にかけ、兜の緒を結ぶと大庭へと躍り出た。
そして近習たちを呼び寄せると、
「我ら父子は今宵討ち死にするだろう。
だからあの強力・宮寿の二人の子供たちは、お前たちが肩に担いで後ろの山に逃げ、
どうにかして元春様の庭へと捨ててくるのだ。
あの方は義にあつい将だ。きっとお見捨てになることはあるまい」と言い含めると、
妻子を山の中へと逃げさせ、自分と嫡子の蔵人とは、大手口へ切って出た。

寄せ手は日ごろから山田父子の手並みを知っている。
出雲守との名乗りを聞くと、あえて近づいてくる者もなかったので、
一方を打ち破って、夜半にまぎれて逃げ切った。
南条の手勢にも名のある武士が多かったので、
「出雲守父子の勇に臆して討ち漏らしてしまっては無念のきわみだ。たいしたことはない」と、
我先にと追いかける。
これを見て、山田の郎党は主君を逃がそうとした。
山田長左衛門・同入道一朱・椿勝左衛門・長谷川次郎左衛門・佐々部九郎左衛門、
そのほか中間二人があちらこちらで引き返し、敵と渡り合って討ち死にした。
その隙に山田父子は虎口の難を逃れ、因幡の鹿野城へとたどり着くことができた。

南条の手の者たちは山田の館に討ち入り、後ろの山にも分け入って、
逃げ遅れている者がいるかもしれないと、くまなく探した。
山田の子供を背負って山に入った者たちは、さすがに命が惜しくなったのか、
そのあたりの谷の茂みに子供を捨てて逃げ去ってしまった。
母や乳人、侍女たちは、「これはどうしたものか」と呆然としながら、
木の陰や岩陰に隠れていたので、はじめは追っ手の者たちも気づかなかった。

強力はすでになかなか賢くて、物事をわきまえていたが、宮寿はまだ幼くて、
もうすぐ敵に捕まるかもしれないということを理解できず、母と少しも離れないようにと、
「ねえ母上、こちらへ来てください。こんな暗い山道へ、何をしにきたのですか。
どうして乗り物とかいうやつが出てこないのですか。
乳人は何が悲しくて泣いているのでしょう。
父はどこにいらっしゃるのですか」などと言ってワッと叫んだ。
それは、狩場の小野の隻鶉が、鳴いたばかりにその声で巣が知れて、命を失うようなものだった。

南条の手の者たちは「不思議なことだ。幼い子供の泣き声がするぞ。
きっと山田の一族だろう。急いで生け捕って勲功の賞にあずかろう」と、我先にと探し出した。
捕まえてみると、まぎれもなく出雲守の子供だったので、すぐに元続の前に引き据えられた。
南条は子供たちをじろりとにらみ、「憎い山田の子だ。すぐに首を刎ねてしまえ」と命じた。

山田と親しくしていた者たちは、「罪もない幼い者たちをどうしようというのだ」と思って、
山田の縁者が捕まっているところに訪ねてきてこのことを告げた。
母も乳人も「まったくどうしたらいいのか」と悲しんだが、
今年九歳になる強力は、年齢よりも大人びて心栄えも立派だった。
父の勇を受け継いだのか、少しも怯えた様子はなく、弟の宮寿の髪を掻き撫でて、
「宮寿よ、これから首を刎ねられることになるが、絶対に悲しんではならないぞ。
父の命に代われるのだから、喜んでも喜び足りない。
臆して人に笑われ、父の名を汚すなよ」と語りかける。

母も乳人もこれを聞くと、「今の言葉はなんと頼もしいのでしょう。さすがあの父の子供だわ。
こんなに類まれな言葉を残していっては、後々まで思い返されて悲しくなるじゃないの。
この幼い子に何の罪があるというの。情けのない元続め。
父の宗勝の代から、重直が命を捨てて忠を貫いてきたというのに。
その恩賞さえなく、今こうして情けのない振る舞いをするとは、恨めしくてならない。
けれども人望にはそむいても、これまで大山大権現へ、
子供の行く末が安泰であるようにと深く祈り続けてきたのだから、
その恩恵が現れたりしないものかしら。

この国に伯耆と言う名がついたのは、その昔稲田姫(クシナダ姫)が大蛇(ヤマタノオロチ)に
呑まれそうになったとき、深い山奥まで逃げてきて、
『父様はいきていらっしゃるだろうか。そうなると、女人の母様があの大蛇に呑まれてしまったのかしら。
そんなことになっていませんように。母よ来てください』と呼ばわったことから、
『母来の国』と呼ぶようになったそうだもの。
昔は大蛇に命を奪われそうになって、今の私は敵に捕虜にされている。
状況は違っても思いは変わらないはず」と、遠い昔を思いながら、
まるでつい最近のことのように光る涙をこぼした。

そして子供たちは夜明けに殺されることに決まったが、
南条備前守をはじめとして、数人が新庄に人質を置いていた。
山田の子供を殺せばその人質たちも殺戮されるのは明白なので、
「出雲守の子供の一命を助けてください。
もしその子たちの首を刎ねれば、我らの子供もまた首を刎ねられてしまうでしょう。
そうなっては、我らは生きる意味がなくなってしまいます。
ただ新庄に罷り出て、子供の命に代わって自分が死のうと思います」と強弁したので、
さすがに横紙を裂く南条にもどうしようもなくなった。

山田の子供の命を助けると塗込めの蔵の中に幽閉し、厳しく警固を張り巡らせた。
元春から検使に付け置かれていた小寺左衛門允も蔵に押し込まれていたが、
小寺は見張りの者たちに酒を大量に飲ませ、
その者たちが前後不覚になって深く寝入ったところを見計らって、忍んで逃げ出していた。
境山城守は無二の覚悟でいたが、南条は何を思ったのか、境を無事に新庄まで送り届けた。
こうして山田出雲守の子供たちは、翌年の九月末日に南条備前守の次男源四郎と中村八郎左衛門といった、
新庄に置かれていた人質たちと交換され、互いに十死に一生を拾った。
南条が山田を討ち漏らしてからは、反逆は隠しようがなくなったので、
由良の城に一条市助を入れておき、敵が寄るのを待ち受けていた。


以上、テキトー訳。おしまい。

いやいや山田さん、説教がうざ……じゃなかった、重厚なだけじゃなくて、
腕に覚えのある人なのね。アニキ……(*´∇`*)ハァン
こういう気骨のある人物像ってのは、見ていて清々しいな。
盛重とかね!←まだ言う

山田の子供の強力も、九歳とは思えないほどしっかりしてるね。
こんな子が殺されるかもしれないってなったら、そりゃ母親は狂乱するよ。
いや、賢くなくても、子供は子供だもん。
しかしちょっと「弟の髪を掻き撫でて」ってあたりの描写にソワリときた……w
腐っててサーセン><

別件で家譜を眺めていたら、元続に娶わせられた元春の養女(吉川経久の娘)のことが書いてあった。
天正七年正月、南条に逆意ありということが察せられて、その娘さんは安芸に連れ戻されたそう。
その後、今田経忠(今田経高の子)に再嫁したようで。
えーっと、吉川経久と今田経高が兄弟だから、いとこ同士で結婚したことになるのね。
うふふふふ、系図楽しい(*´∇`*) あんまり理解できてないけどw

さて次章は美作近辺の情勢のようだす。
2012-12-22

山田さんのお説教

だいたいの流れ:
上月表で全面対決となった織田VS毛利、今回は織田の撤退で毛利側の勝利かと見えたが、
備前の宇喜多直家が離反し、また伯耆でも南条元続兄弟が織田に寝返った。
これに大激怒した元春・元長は南条討伐を決意したものの、
南条と縁の深い山田重直のとりなしによって、今回だけは許すこととなる。
元春の命で、山田は南条をそそのかした、元尼子家臣の福山次郎左衛門を討ち果たした。

長いので分けまする。


南条元続、山田出雲守を討たんと欲すこと(上)

南条伯耆守元続は、山田が福山を討ったと聞いて怒り心頭し、事の次第を糺した。
山田出雲守は南条に向かってこう言った。
「謀反を思い立ったのでしたら、私に一言でもお知らせくださればよかったのに。
輝元・元春に恨み言があるのなら、そのことを愁訴して、
その遺恨を瓦解氷消させることだってできました。
それで輝元・元春が当家に対してますます礼を失するようであれば、
そのときはどんなことでも思いのままになさればよろしい。
それなのにあの福山めが、自分の立身出世のために言い出したことを真に受けて、
私に一言の仰せもなかったのが口惜しくて仕方ありません。

宗勝が去る元亀二年(天正三年)にご逝去されたときも、歴々の家老たちが控えているなかで、
宗勝は国人の私に対して『何事も元続の後見をしてやってほしい。
もし元続が、恨みがあるからと言って少しでも毛利家に背こうとした場合は、
当家の弓矢の冥加が尽き果てるばかりか、この宗勝が草葉の陰から恨みぬいて、
七代先まで勘当すると考えてくれ」と仰せになられました。
その真意は、こういう事態に至らなくとも、いくらでもお話いたしいます。
このことは宗勝が朝に暮れに仰せになっていたのですから、
まさか忘れていらっしゃるわけはありませんな。

そもそも、ご当家が毛利家で厚恩を蒙っていることは、いかなる言葉をもっても語りつくせません。
というのも、去る大永四年に、尼子伊予守経久によって山名殿は伯耆を追い出されて、
肥後の国の宇土の屋形を頼って下国なさいました。
そのときに、ご亡父の宗勝も伯耆を追い出され、但馬へと上ったのです。
私の親である長田石見守をはじめとして、伯耆の国人たちも皆但馬へと逃げ上り、
本領をすべて尼子に奪われてしまいました。

そして宗勝も私たちも布施の山名左衛門佐殿を頼って暮らしていたのですが、
山名左衛門佐殿は弟君を討ち果たしてしまわれました。
その弟君は菖蒲という白拍子に深く情をかけていらっしゃいましたが、
その白拍子は良夫をわけもなく討たれて口惜しく思ったのでしょう。
京都へ上って三年が過ぎたころにまた伯耆の布施へとやってきて、左衛門殿に面会を申し入れました。
左衛門殿はすぐに白拍子を召し寄せて、終夜酒宴を催しましたが、左衛門殿が盃を遊ばせているときに、
その菖蒲は扇を開いて美しい声で歌いながら舞い終えると、左衛門殿の袂にすがって、
『ただいま私が酒肴にひとさし舞いましたのに、受けてくださいませんのね。意地悪な方』と、
酒を一杯注ぐふりをしながら、帯の端に入れておいた毒を取り出しました。
それをうまくごまかしながら銚子の中に入れると、その酒を左衛門殿に飲ませたのです。

左衛門殿は一口飲むと、『この酒は匂いが悪いな。これを飲んでみよ』と言ったので、
御前にいた伊秩玄蕃允が『では私が』と言って、盃一杯に注がれた酒を飲み干しました。
玄蕃允は、『本当にこれは匂いがよくない。温めなおしてお持ちしましょう』と言うと
その座を立って内に入り、酒を替えてきました。
その後酒宴が数刻続いたころ、玄蕃は大の上戸でしたので、腹の中の毒をすべて吐き出して、
命に別状はありませんでした。
左衛門殿は、その夜のうちに亡くなってしまいました。
そして菖蒲という白拍子は、夫の仇をとったと喜んで、すぐに京都へ帰っていったのです。

このように、頼りにしていた山名殿も亡くなってしまわれたので、
宗勝も私もどうしようもなくなって因幡の国へとやってきて、
山名但馬守殿から守護に命じられていた武田山城守を頼って暮らしていました。
この武田は、とある仔細があって若狭で牢人し、それから下ってきて客人としてもてはやされ、
右の上座にいて、それはそれはもてはやされていました。
この山城守のもとにいたときに、あちこちの合戦で宗勝が何度も武功を立てたのです。
私もその年の正月五日に青屋で一戦があったとき、一日二度の合戦で首を二つ討ち取りました。
それから八月までその戦は続き、毎月二度は手に鑓を握って、首を十三取ることができました。

この忠勤によって出世もできたはずでしたが、すぐに橋津合戦が起きて、
武田山城守は戦いに負けてしまい、すくも塚で自害して死んでしまいました。
このとき宗勝も私も十死一生の難を逃れ、山城守の嫡子高信を頼っていきました。
しかし本国に帰ることなどできそうもなく、ただ一日一日と時ばかりが過ぎていったのです。

そのころ、元就様の武威が日に日に盛んになっていき、
いつの間にか尼子家は出雲一国に取りつめられていました。
宗勝と私が、元就様に本国を安堵していただけるように頼みこんだところ、
すぐに憐憫を垂れてくださって再び本国に帰ることができたのです。
これはひとえに毛利家のご厚恩でございます。
もし元就がこうしてくださらなかったら、今でも私たちは路頭に迷って飢えに渇いていたことでしょう。
いまこうして伯耆半国の主となれたのは、当家が勝ち取ったわけではなく、
ただ元就公の恩賞にほかなりません。

だから宗勝は、ご臨終のときにも、先ほども申しましたように、
『毛利家のことを当家の氏神と同じように敬うように。
もし別心を抱けば天道の誅罰を蒙り、その身は滅び果てる』と仰せになられたのです。
このことはとっくにご存知ではありませんか。
それから私が新庄に罷り越し、吉川式部丞(経久)殿のご息女を貰い受けたいと元春様に申し上げたら、
元春はすぐにその女人を養女にして、元続に娶わせてくださいました。
これほど親しくしてくださっているというのに、
福山にそそのかされて謀反を企てるなど、まったく話になりません。

今回は、当家はすぐにでも押し潰されたとしても文句は言えない立場ですが、
いったんご婚姻のご契約が成立したのです。
この旨に元続が背いたとはいえ、元春様は一度は怒りを抑えてしかるべきだと、
まったく律儀なお考えで、福山だけを討ち取ることでお許しくださったのです。
これほどまでに義を重んじてくださる元春に対し、
手のひらを返すかのように、敵になったり味方になったりと、胡乱なことをなさいますな。
父の宗勝入道殿もあの世で、一族の面汚しだと、頭を抱えていらっしゃるでしょう。
どうか、早々に過ちを改めて、毛利家に一味する約束を固く守ってください。
毛利家から当家に与えられた恩を考えると、今回当家がそれをあだで返しているのですから、
口惜しくてたまりません。
恩を知っているからこそ人なのです。恩を知らぬのは畜生です。

智度論の片端を紐解くと、こんな話があります。
ある人が山に入り、木を切っていましたが道に迷ってしまいました。
さらに豪雨にあい、日も暮れて腹も減り、凍え死にしそうになっていると、
あちこちから悪い虫や野獣がやってきて、その人を殺そうとします。
この人はその難を逃れるため、とある洞窟の中に入っていきました。
すると洞窟の中には一頭の大きな熊がいて、この人はこの熊を見て、
肝をつぶして洞窟から出て行こうとしました。
しかし熊が『おまえさん、私を恐れないでほしい。ここは暖かいぞ。ここに泊まっていけ』と言ったので、
この人は熊の住処に籠もっていることにしました。

七日間も雨がやまないので、出ることもできずに空しく日を過ごしていましたが、
熊が木の実やきれいな水を与えてくれたので、
この人は七日の間、飢えたり渇きに苦しむことはありませんでした。
そうして雨がやんで晴れてくると、熊はその人に帰り道を丁寧に教え、そしてその人に向かい、
『私は多くの罪を犯していて、たくさん恨みを買っている。
もし私のことを問う人がいれば、絶対に私を見たと言わないでほしい』と、何度も念を押しました。
その人は、『絶対に人には話さない』と、固く約束しました。

さてその人が帰り道を急いでいると、道で猟師に行き会います。
その猟師は『お前はどこから来たのか。獣を見なかったか』と尋ねるのですが、
その人は、『熊を一匹見かけましたよ。しかし私はその熊に恩があるので、
あなたに熊の居所を教えるわけにはいきません』と答えます。
猟師はこれを聞いて、『お前は人間だろう。同じ人間と仲良くすべきなのに、
まったくそうしようとせずに、どうでもいい畜類の熊を惜しむのは間違いだ。
お前が私に熊の居所を教えてくれれば、熊を獲った後、たくさんわけてあげよう』と言います。

その人はこれを聞いて、たちまち欲が出てきて心を変え、
すぐに猟師を連れて熊の住処まで案内してしまいました。
猟師は喜んですぐにその熊を殺し、
そして『熊の肉をその者に多く分け与えるから手を伸ばして取れ』と声をかけると、
その人の両肘は両方とも落ちてしまったそうです。

また梅檀樹経にはこんな話があります。
伊那離国に五百人の人がいて、海に入って宝を取って商船に売ると、歩いて帰ろうとしていました。
深い山道で日暮れになってしまったので、その場所に泊まって、
翌朝早くに出発しようと、前々から決めていました。
四百九十九人は皆連れ立って出発しましたが、たった一人だけ寝過ごしてしまい、
友人たちが帰ったことに気づきませんでした。
たちまち友人を見失って、そのうえ雪に降られて道に迷い、どうしようもなくなったので、
天に向かって泣き叫びました。

ここに大きな檀香樹があって、その樹の神様が、
『そこの困っている人よ、ここに泊まっていきなさい。衣食を与えてあげよう。
春になったら出発するといい』と言うので、その人はここに足を止めると、三ヶ月も暮らしました。
その人は樹の神様に感謝して、『おかげさまで命拾いをいたしいました。
しかしまだ、このご厚恩にまったく報いておりません。
私の親に言って、またここに戻ってこようと思います』と言います。
樹の神様は、『では、きれいな金と一つの餅をもらおう』と答えました。
その人は、『どうかこの樹の名前を私に教えてください』と言いましたが、
神様は『それは問わないでくれ』と言います。
その人はまた、『私はここで三ヶ月も暮らしたのです。樹の神様のお情けを思えば、名残も尽きません。
もし私が本国に帰りつけたら、樹の恩を称揚したいのです』と言いました。
樹の神様は、『梅檀香という名だ。根や葉は、人のあらゆる病を治す。香は不思議なほど遠くまで届く。
だから人々はむさぼるようにこの樹を探そうとする。絶対にこのことを人に話すな』と答えます。

やがてその人が故国に帰りつくと、時の帝王が病に倒れており、
その梅檀香が病に効くと言って、捜し求めさせていたのです。
もしその樹を見つけてくることができれば、諸侯の地位を与え、王の娘を妻にくれるというのです。
その人はこの莫大な褒美を耳にすると、樹の神様の厚恩をたちまち忘れて、
すぐに王宮に行って『私はその梅檀香の在り処を知っています』と言いました。
帝王はすぐに近臣を呼ぶと、その人に案内させてその樹を切らせることにします。
使者はその梅檀香の樹下に至ってみると、枝が見事に生い茂っているので、
これほどの名木を切ってしまうのはもったいないと思って、切るのをためらってしまいます。
すると樹の神様が空中から現れて、『いいから私を切りなさい。
切ってから人の血を塗り、肝や腸で覆ってくれれば、また元のように生い茂るだろう』と、
使者に言いました。

使者はこれを聞くと、ようやくその樹を切りました。
すると木の枝がその案内をした人の上に落ちてきて、その人は死んでしまいました。
樹を切った者たちは相談して、樹の神様のお告げどおりに、その人の肝や血を祀ったところ、
その樹はたちまち再生して元のように生い茂りました。
切った樹を車に載せ、国に帰って帝王にささげると、王の病はたちまち平癒したそうです。

このような例を知っていれば、秀吉から信長へと連絡を入れ、
国を与えるだの荘園を与えるだのという方便に騙されて、
毛利家の厚恩を忘れて弓を引くなどということは、天罰が恐ろしいとわかるはずです。
これはまさに、熊の肉を手に入れようとして両腕を失った男や、
諸侯に出世しようとして木の枝に殺された男と同じ所業ですので、
きっと天罰を免れられずに、間違いなく滅亡するでしょう。
天罰は人によって遅速はありますが、世の人々には今日からでもあざ笑われるでしょう。

今は信長が天下の将ですから、その威は隅々にまでとどろき渡っています。
毛利家はわずか八ヶ国の将ですので、勢いが劣っているからといって年来の厚恩を忘れ、
敵に下ったとしても、信長は、『毛利家に対して二心を抱いたのだから、
将来的にはまた我が恩も忘れて敵に与してしまうだろう』と考えるはずですので、
さしたる恩賞もいただけないでしょう。
敵であって強い者は味方にしても心強く、敵であって二心がある者は、
味方にしてもまた二心があると思うのは当然です。

漢の高祖は、項羽の武将である丁公が、自分と敵対していたときに自分を見逃したから、
自分の世になって丁公が拝謁してきたときに、
『丁公は臣としては不忠である。項羽に天下を失わせたのはこいつだ』といって丁公を切り殺し、
『後の臣下たる者たちは、丁公を見習わないように』と言いました。
これも丁公に二心があったからです。
どうか宗勝のご遺言に従って、毛利家へ無二の忠戦を貫いてください」

山田出雲守が涙ながらにこう諫めると、元続はしばらく物も言わずにいた。
出雲守も言いたいことをすべて言い終えると、退出していった。


以上、テキトー訳。続く。

うわー、すごい勢いのお説教だな。
元続もさぞ閉口したろうに……w
熊の話や樹の神様の話は、なんだか子供向けのおとぎ話みたいだな。
こんな話をこんこんと諭される当主……シュールwwwww
「恩を知らないのは畜生」って言葉にぐっときました。
でも畜生だって恩くらい知ってるぜ。

でもそうか。山田は南条の父ちゃんとずっと苦楽を共にしてきたんだね。
だから元続にも強く出れるのか。
こういう重臣の存在ってのはありがたいけど、厄介な面もあって、
新当主とそりが合わないと、けっこうお家騒動の火種になったりするよね。
吉川家も、古くからの重臣と興経の方針が合わなくて、当主が無理やり隠居させられたりしたもんな。
どっちにも言い分があって、どっちが正しいと言えないだけに、なんとも切ない。

さて、次回も続きをしょぼしょぼ読むよ!
2012-12-20

南条、離反の発端

だいたいの流れ:
上月表での織田と毛利の対決は、織田の撤退によって幕引きとなった。
尼子勝久の切腹・山中鹿介の殺害で尼子再興軍は絶えたものの、
今度は上月攻めを進言した宇喜多直家が毛利に離反し、元春・隆景を亡き者にしようとする。
元春・隆景はその陰謀を回避したものの、次は伯耆でよからぬ動きが。


南条兄弟、逆意のこと

さて南条伯耆守元続は、尼子家の牢人の福山次郎左衛門尉という者が
折りにつけ諫めてくることがもっともだと思ったので、
妾腹の兄の小鴨左衛門進元清、そして南条備前守・その子九郎左衛門・山田越中守・同左介・
一条東市助・赤木兵太夫などの一族や家老の者たちを呼び寄せて、相談した。

「今の天下の成り行きを見ていると、
戦国の七雄、十二諸侯が各地を滅ぼして自分が頂点に立とうとした故事に似ているように思う。
しかし信長卿の武威は日々に募り、日増しに盛んになっていって、
強秦が六ヶ国を滅ぼし四海を掌握した勢いにも似ている。
これまでは毛利家に一味してきたが、さあ、信長の幕下に属すことにしようではないか。
褒美に伯耆一国を貰い受け、憎き杉原盛重の首を刎ねて、喜びに眉を開こう。
皆はどう思う」と問いかけた。

皆、「元続のお考えが一番よろしいと思います。
今は、日本六十余州の七、八割は信長の手に属しております。
東には武田四郎(勝頼)ばかりが信長にたて突いているとはいえ、
先年(天正三年)長篠で戦利を失ってからは、いるのかいないのかもわからないほどになって、
もうすぐ滅亡することでしょう。
北では長尾喜平次景勝が天下(信長)に馬を繋いでおりませんが、
佐渡・越後のたった二ヶ国だけの身代ですから、信長と正面から一戦できるはずがありません。
これも数年のうちには信長に降参するでしょう。

西は毛利家だけが信長と敵対して、近年はあちこちで戦をしていますが、
上月の陣中からは宇喜多が信長に属し、元春・隆景を討ち取ろうとしました。
ということは、現在は毛利家の領国からも、備前・美作・備中の三ヶ国が信長に属したことになります。
残ったのは八ヶ国しかありません。
たった八ヶ国の勢で、三十数ヶ国を手にした信長と戦っても、
いっとき勝ちに乗ることはあるかもしれませんが、最終的には大軍の前に滅び果ててしまうでしょう。
そのときが迫ってから味方になったとしたら、ただの降人ですので、たいした恩賞にもあずかれません。
まだ毛利家の武威が残っているうちに、羽柴殿について天下に御馬を繋がれるとよいでしょう。
信長も、元続が味方に与せば、中国征伐が速やかになると大いに喜ばれるはずです。
これは片時でも急いでお決めになられませ」と、一同に賛同した。

元続は、それではということで、福山次郎左衛門の手引きによって、
秀吉に「味方について忠勤に励む」と言い送った。
秀吉がこれをすぐに信長に取り次ぐと、
信長は「実に神妙の至りである。さらに忠功に励んでほしい。
伯耆・隠岐・出雲の半国を宛行おう」と言った。
南条は大いに喜んだが、時機をうかがっていて、まだ毛利家に敵対することは明らかにしなかった。

南条は秘密裏に播磨の姫路へと飛脚を送っていた。
はじめは人々もそれと気づかなかったが、度重なると人目について、
一人は杉原播磨守が放っていた手勢に捕らえられ、一人は三沢摂津守によって生け捕られてしまった。
この密使たちは、すぐに二人のもとから元春へと引き渡された。
密使の持っていた書状を開いてみると、南条が羽柴秀吉に通じて信長に馬を繋いだ証拠が明らかだった。
これを見て元春様は大いに怒り、「南条の謀反は疑いようがない。
しかし山田出雲守(重直)は当家に対してとても志の深い者だ。
山田を呼び寄せて事の仔細を尋ね聞こう」と言って、すぐに山田を呼び寄せた。
山田出雲守はすぐに伯耆を出立して、芸州の新庄へとやってきた。

元春様は山田に面会するとすぐに、
「なあ山田よ、南条が謀反を企んでいるのはすでに露見しているのだ。
お前が知らぬわけはないな」と言った。
山田は非常に驚いて、「そのようなことがあるはずがありません。誰かが嘘を申したのでしょう」と言った。
元春は「これを見れば、嘘か本当かはっきりわかるだろう」と、
密使の持っていた元続の書状を数通差し出した。
山田がすぐにこれを見てみると、疑いようもなく、元続の正判と筆跡が見て取れた。

山田はかしこまると、「元続がこのような逆意を思い立ったことは、私は少しも存じておりませんでした。
私は元春公に対して無二の忠勤を貫く覚悟ですから、元続もそれをよく知っております。
きっと私が賛同しないとわかっていたのでしょう。私にはまったく知らせがありませんでした。
これは偽りではありません」と言って、天神地祇に誓って起請文を差し出した。

その後出雲守が言うには、「この書状を見てみますと、『福山次郎左衛門からお伝えします』と、
どの書状にも書いてあります。福山というのは、もともと尼子家の者でございますから、
これまでの恨みを晴らすために、もしくは自分の出世のために、
元続兄弟が秀吉に一味するように諫言を重ねたのでしょう。
これはまったく、南条の心底から出たことではないはずです。どうかお許しください。
私が罷り帰って南条兄弟に諫言をし、野心を抱かずに忠勤に励むように申し付けます」とのことだった。

南条もこのことを聞いて、どうにもならないと思ったので、津村左京亮・その弟の宗次郎を差し出して、
「逆意など毛ほどもありません」と弁明してきたが、元春父子はまったく許す様子はなかった。
「羽衣石に発向して南条を討ち果たす」と言っていたが、山田出雲守があまりに詫び言を繰り返すので、
「山田のこれまでの忠節に免じて、今回だけは許すことにしよう。
となれば、急ぎ福山次郎左衛門を討ち、南条はもう一度人質を差し出すように」ということになった。
山田は「かしこまりました。そのことを元続へ申し聞かせ、すぐに福山の首を刎ねて参ります」と答えた。

元春は、「いやいや、南条がこれを聞けば、気を回して福山を逃がしてしまうだろう。
福山を討った後で南条に言い聞かせよ」と言い含める。
山田はこれを了承し、「お定めのとおり、いずれにしてもかしこまりました。
しかしそのようにすると南条は激怒して、私を討とうとするでしょう。
ですから、できましたら南条に申し聞かせてから福山を討ちたいと思います」と言う。
元春様は、「山田は私にその命をくれると、これまでの数通の誓紙で言っていたな。
ならばここでお前の命を私にくれ」と言った。
山田出雲守は、こうなったら辞する言葉もないと思ったのか、「かしこまりました」と言って別れを告げ、
翌天正七年四月中旬に伯耆へと帰っていった。

さて、南条の家人たちは長く山田に会っていなかったので、皆山田のところに行って、
「なあ山田殿、これまでは長い間瘧病を患っていたそうだな。
とても心配していたのだが、早く快復して帰ってこられたのだ。めでたいことだ。
そうそう、元続の逆意のこと、元春が激怒なさってこの城へ発向なさっていると聞いている。
当家の滅亡はこのときと思うのだが、元春はそのことをなにか仰っていただろうか」と尋ねた。
山田は、「確かに私は長く瘧を患っていたが、あれこれと保養をして、ようやく快気できた。
元続の御逆意のことを元春がお聞きになって、南条家を退治することになったのだが、
私があれこれととりなして、今回は元続さえ別心がなければ、元春は疎意にすることはないとの仰せだ。
こうして無事に弁明しおおせて、再び皆と会えるとは思っていなかったが、
こうしてまた会えるとは、嬉しくて仕方ない」と言って、
日ごろ親しく付き合っていた者もそうではない者も皆客殿に招き入れて、旅先の話に花を咲かせた。

さて、かの憎き福山は、三日が過ぎたころにやってきた。
山田は「これこそ願うところだ。どうにか騙して討ち取ってやろう」と思ったので、すぐに福山に対面した。
「福山殿、ずいぶん長いことお話もしませんでしたが、今回のご訪問は珍しいことですな。
さあさあ、こちらにお入りください。芸陽の様子でも詳しくお聞かせしましょう。
幸いにもここに廿日市の幸松太夫が罷りおりますので、ひとさし舞でも聞いていってください」と、
打ち解けた様子で言うと、
福山は「今回が初めてというわけではないが、ご丁寧にありがとうございます。
仰せになるまでもなく、しばらくこちらにお邪魔して、新庄のお話をお聞きしたいと思っていたのです。
このようにご丁寧に招いてくださるのですから、
もちろんお言葉に甘えさせていただきます」と、客殿に座した。

山田は、「でしたら、たいしたものはありませんが、夕飯をご一緒しましょう。
私は料理を申し付けてまいります。戻ってくるまで、囲碁でもなさっていてください」と、
碁盤を差し出した。
長安伝左衛門という者が「お相手をいたしましょう」といざり出て、
互いに手を緩めず、丁々発止と対局した。
福山が一心に心を囲碁に傾けているのを見て、山田出雲守はいい頃合だと思い、
家之子の山田十右衛門をけしかけることにした。

十右衛門は剣術の達人で、早業を得意とする屈強な者だったので、
「十右衛門が最初の太刀を打ち、二の太刀は重直の嫡子の蔵人がせよ」と言い含めると、
十右衛門は座敷へと出て行った。
「碁の勝負はどうなっていますか」と声をかけると同時に、十右衛門は抜き打ちに丁と切り、
まだその刀も引き抜かれないうちに、蔵人が続けて切りかかる。
さしもの福山も太刀の柄に手をかけることもできずに、やすやすと討たれてしまった(天正四年七月か)。
この様子を見て、福山の若党たち十数人は皆門の外へと逃げ出ていったが、
前もって手はずを言いつけてあったので、追いかけて一人残らず討ち果たした。
そして福山の嫡子の弥六という者は宿所にいたのだが、
すぐに山田外記・大谷玄蕃允・塩冶新允・山田利兵衛尉などを差し向けて、
取り囲んで押し入ると、なんなくその嫡子も討ち取ることができた。


以上、テキトー訳。

南条、盛重と何があったんwww ←拾い読みしてるからちゃんと把握できてない。
元続「憎き杉原盛重の首を刎ねて云々」
という小さなことがらに引っかかるくらいに、最近盛重フィーバーです。
盛重かっこいい!
うぃきぺさんによると、盛重が南条宗勝を毒殺したって逸話があるそうだが、創作だそうな。
正矩もいろいろな逸話を渉猟してるから、この宗勝毒殺説を下敷きにしてるのかな。

ともあれ、南条氏は宗勝が死んで元続が相続したあたりから、毛利家とのつながりが弱くなってたんかね。
伯耆あたりじゃ織田VS毛利の最前線だから、どんなに絆が強くても、
武威の強いほうにつくってのは、大して珍しい話じゃないし間違った選択でもないもんな。
元就の娘が嫁いでる草刈だってんっがっぐっぐ。

元春の山陰地方に暗雲が立ち込めてきましたが、オラわくわくすっぞ!
2012-12-18

直家さんとコニタンが、であった~

だいたいの流れ:
上月城攻めで尼子を滅ぼし、織田勢を退散させた中国勢だったが、
播磨には宇喜多直家の陰謀が渦巻いていた。
吉川・小早川両将を饗応すると偽って討ち果たす直家の計画は、
その直前に家臣の明石と弟忠家によって密告され、
惜しくも元春・隆景には逃げられてしまった。


戸川肥後守上洛、付けたり小西弥九郎のこと

宇喜多直家は狡賢い邪将だったので、
「毛利家に完全に背いてしまったら、もしまた信長が戦利を失ったときに困る」と考えて、
しばらくはどちらともつかない態度を見せていた。
このことに関して、一族郎党を呼び集めて意見を出させたが、皆口を閉ざして発言を譲り合っていた。

ここに戸側肥後守(秀安)が進み出ると、
「京芸(織田・毛利)の合戦の勝敗はどのようになるかと愚案をめぐらしますに、
直家が信長と一味なされば、大国三十余ヶ国が信長に従うことになります。
一方、毛利家は九ヶ国だけになってしまいます。
しかもこの九ヶ国はいずれも小国で、石高も少ない。

まず長門・周防・石見・出雲・伯耆・安芸・備後・備中・美作半国を合わせても百五十万石に過ぎず、
信長の領国は、近江だけでも八十万石があり、
但馬・越前を合わせた三ヶ国ですでに百五十万石はあるでしょう。
当然、残った二十余ヶ国を加えれば毛利家の倍にはなります。

天下の将と一国の将とが戦うのですから、勝つのは天下の将に決まっています。
どうか信長に馬をお繋ぎください」と言った。

すると明石・長船・岡・延原・沼本なども、皆この意見に賛同した。
そして戸川肥後守に「上洛して、信長の幕下に属すことを申し入れて参れ」と命が下ったので、
戸川は上洛して小西寿徳のもとに宿を求めた。

戸川は寿徳に対面して、
「宇喜多和泉守が信長卿へ馬を繋ぐことを申し入れるために、私は上洛してきたのだ。
最近の情勢では、信長卿への取次ぎとして、
柴田・惟任・惟住・滝川・筒井・羽柴・佐々といった人々の中で、
誰を頼んでこのことを申し入れたらよいだろう」と相談した。

寿徳は戸川に向かって、
「直家が天下へお味方なされば、中国平定も速やかに進みましょう。
信長としては願ってもないことですから、どの方をお頼みしても、信長はすぐに了承なさるはずです。
とはいえ、最近では信長卿の配下の人々の中では、
羽柴筑前守秀吉ほど信長のお気に召した人はいません。
この人を間に入れれば、ことは速やかに済むでしょう」と答えた。

戸川は「ともかく寿徳の計らいに任せることにしよう」と言って、
すぐに秀吉に対してこのことを申し入れた。
秀吉がすぐに信長卿にこれを披露すると信長卿は大いに喜んで、
「直家が味方に属し忠勤を貫いてくれるとは、まさに神妙の至りである。
さらに粉骨砕身してくれれば、戦功の代償に応じて報奨を宛行おう」と言った。
戸川にも数々の贈り物が与えられたので、戸川は喜び勇んで馳せ帰り、信長卿の返事を直家へと伝えた。

直家は、「こうなれば私も急いで上洛して信長に対面し、中国攻めの先陣を承ってこよう」と心に決め、
出立の支度に取り掛かった。
「それにしても我が国の者たちは京都のことには不案内だ。
信長卿をはじめとして、あちこちへの進物の支度は誰にさせればよいだろう」と、
それができる人材を選ぼうとした。

そのころ、小西寿徳の子供の一人が備前の魚屋弥九郎という者の養子になっており、
弥九郎自身は入道して小西の子供に「弥九郎」と名乗らせて家を譲っていたので、
この者がいいだろうと皆が言うので、直家はこの者を召し連れて行った。

直家は上洛するとすぐに秀吉に連絡を取り、信長卿に謁見してしばらく京に逗留した。
秀吉はまだ「猿」と呼ばれていたころから寿徳のところを宿にしていたので、
弥九郎とは幼友達で、直家から秀吉への使いは弥九郎に任されていた。

やがて直家は自国に下り、弥九郎を京都に留めておいて、物聞きとして使うようになった。
弥九郎は才覚ある者だったので秀吉にも気に入られてあちこちの合戦にもついていくようになって、
勇も人より優れていたので、やがて秀吉の家人となり、小西弥九郎と名乗るようになった。
これが後に「小西摂津守行長」と呼ばれる人である。

その父の寿徳は、秀吉が天下を掌中に収めた後に堺の浦に住まうようになったが、
今でもその子孫たちはそこで暮らしているという。


以上、テキトー訳。

いろんな縁でいろんな人が出会ってるんだねぇ。
しかしコニタンと秀吉は幼友達かぁ……
どうもこのへんの人間関係がまだピンとこないんだが、
いかに狭い方向に目を向けているかが丸わかりだね!

直家さんはもっとワンマンなイメージがあったんだけど、
けっこう家中で話し合ったりとかしてたのかなぁ。
直家像を考えていくのも楽しそうだなぁ、などと。

さてさて、風邪を悪化させないように早く休むのでこのへんで退散。
次章は南条元続が何かしでかすようだけど、
明日は夜中まで会議なので更新はたぶんできないです!
2012-12-17

上月の別れ

昨晩は20:00くらいから睡魔に襲われて朦朧としており……
気がついたら朝だったわけだが、これは……風邪だね! たぶん!
投票所でウイルスもらってきたかな? 今回は気管支炎になりませんように!

さて陰徳記、だいたいの流れ:
病が癒えたといって上月攻略の祝辞を述べに来た宇喜多直家は、一方で信長とも手を結んでいた。
直家を討ち果たすべきと主張する吉川父子・国人衆を、理で押さえ込む隆景。
国人衆との当初の約束を履行すべく、但馬に向かおうとする元春だったが、
隆景の再三の要請によって、もう少しだけ南前への侵攻に付き合うことになった。
しかし行軍の途中、無二の毛利方であった中村(直家の婿)が、直家によって討たれてしまう。


両将、黒沢山を引き払われること

さて中国勢は黒沢山から中村が討たれるのを見て、「これはどういうことだ」と怪しんでいたところ、
その日の夜半ごろになって、明石飛騨守のところから弟の勘次郎が遣わされてきて、
「直家は逆意を構え、明朝に八幡山で両将を討ち果たすつもりでいます。
そのようにお心得ください」と、密かに告げてきた。
また、直家の弟の七郎兵衛尉忠家のもとからも、同じような密告があった。
忠家は、直家は実の兄でありながら、表裏第一の者だと考え、直家に心を許すことなく、
対面するときには着物の内側に著籠(鎖帷子?)を着て会っていたそうだ。

両将は、「それなら明朝にこの陣を引き払い、再び兵を出して宇喜多を滅ぼそう。
宇喜多が今もし平地に陣取っていたなら、今夜中に逆に攻めて討ち果たすのも簡単だろうが、
本人は八幡山に立て籠もり、兵たちが山の麓に陣を固くしているから、勝利は確実ではない」と決めた。
そして翌朝、黒沢山を引き払うために、鶏が夜明けを告げるころに兵糧を使い、
出立の準備をして夜明けを待った。

東雲がたなびいてほのぼのと日が昇ってくると、元春・隆景から武者三騎が八幡山の麓の陣へと遣わされた。
三騎の者たちは陣の一町ほど手前に馬をかけると、
「少々話がある。どなたでもいいので、ここまでおいでください」と言った。
陣中では、「両将からの使者がおいでだ。陣中へ入らずにこんなことを言うとはおかしいな」と言いながら、
我も我もと出てきた。

三騎の者たちは、「元春・隆景が言うには、
直家は毛利家の重恩を忘れ、元春・隆景を討って信長への貢物にしようと陰謀をめぐらせて、
今朝八幡山で饗応をしたいなどと騙してきたことは、是非も及ばぬ次第である。
だからこれからこの陣を引き払い、芸陽へ罷り下ることにした。
直家もきっと、こういうなりゆきになったのを残念に思われるであろうから、
こっちへ攻め寄せてくるといい。一戦しようではないか。
もし道すがら追いかけて一戦するのであれば、隆景は多数の警固船を尺志・名波あたりに置いてあって、
そこまで行って、船で備中まで下る予定であるから、尺志あたりへおいでになるといい。
元春は陸路で下るので、あとをつけてくればいい」と言い送った。

隆景は元春へと、「私は船で帰るつもりです。元春は陸路を行くのですか」と言った。
元春は、「前夜にも言ったように、関船を三艘貸してくれるとは聞いている。
しかし私一人が無事に引き退いたとしても、諸卒を捨てていっては、これから生きる甲斐もない。
どちらにしても、兵たちと存亡を共にする」と答えた。
すると隆景は、「敵は場所柄に精通しているのだから、道の思いもかけないところに伏兵などを置き、
不意を突いてくることもあるでしょう。どうかご用心ください」と言う。
元春は、「直家の程度など知れている。狐が化けたような者だ。
私に対して一戦しかけてくることもできないだろう。安心してほしい。
とはいっても、私は慢心しているわけではない。道々の警固を万全に申し付けてある」と言って、
兄弟は東西へ別れていった。

隆景は謀略に優れ思慮深い良将なので、もしかしたら敵が鉄砲隊などを伏兵として置き、
狙ってくることもあるかもしれないと思い、
自分の鎧は井上又右衛門に着せて自分は井上の鎧を身に着け、馬も乗り換えていた。
井上は大将のふりをして先へ進み、隆景は供奉の者たちに混じって進んだ。

元春は陸路を進んだので、敵が伏兵を仕込んでいたらいけないと、
三刀屋弾正左衛門久扶・湯佐渡守が一千五百余騎で、味方よりはるかに先立って物見をしていた。
谷が深く切れ、峰がそびえている怪しそうなところは、
永禄のころに本庄の城を攻め取ったときのように、峰ごとに勢を分けて備え、深い谷を真上からのぞきこみ、
将が通り過ぎるのを待った。

先陣の三沢三郎左衛門・嫡子摂津守が弓・鉄砲を前に立てて進むと、
小鴨・正寿院・岡本・佐波などが次々に続いた。
そしてしんがりは杉原播磨守父子三人が二千余騎で続いたが、いつもの備えとは違って、
一番先に旗を備え、その次に自分の旗本を配置し、
追う敵があったなら最初にぶつかる一番最後には鉄砲を立て、その次に長柄、
その次に侍たちが馬一騎に弓を一挺ずつ持っていた。
これは、敵が後を追ってきたら取って返すために、
一番最後の鉄砲がすぐに敵に対応できるようにした備えであった。
これは元春の工夫によってこのようにした。

そして盛重の次は宍道五郎兵衛尉で、盛重の相備えとなるので、宍道も同じように備えた。
その次は天野紀伊守、そして益田越中守をはじめとして、
周布・出羽・富永などの勢が、それぞれ備えを固くした。
元春の旗本から後ろの勢は皆、杉原のように備えて、敵が後ろからかかってきたら、
一足踏みなおせば先は鉄砲・弓・長鑓・侍旗の順に備えられるようになっている。
元春の旗本は前後左右から不意を突かれないように、弓・鉄砲などを備えてぎっしりと固まって進んだ。
明石飛騨守は、弟の勘次郎に人数を六十人ほど添えて、一日ほどこれを送っていった。

道の途中で直家の領国の勢が雲霞のように馳せ上っていくのに、何度も行き会った。
その日は延原に到着して、すぐに延原弾正忠・同内蔵丞に宿を提供してほしいと使者を送って申し入れると、
弾正父子は「もちろん承ります、かしこまりました」と、道まで迎えに走り出てきて、
袴の脇を高く上げ、道の脇にかしこまった。

その後延原が饗応の膳を整え、風呂などをたいて進めてきた。
元春が湯浴みに行こうとすると、家之子郎党たちは、「それはどうかと思います。
もし浴室で延原が討とうとしていたらどうなさるのですか」と諫めたが、
元春は「直家でさえ後をついてきて討つことができなかったのに、どうして延原に討たれるというのだ。
それに用心はよく言いつけておく」と言って、旗本勢に厳しく警固を申し付けたので、
おいそれと討たれるようには見えなかった。

それから美作の高田に着いた。
ここからは味方の国になるので安心して、国人たちを皆国もとに帰したのだったが、
南条は一人陰謀を抱いていたので、暇乞いの際には自分は参集せずに使者を送って言上して、
高田の奥万行山というところを越えて自分の国へと帰っていった。
杉原・三沢・三刀屋などの出雲・伯耆の者たちは、皆ここから自分の城に帰っていった。


以上、テキトー訳。

へえ、陰徳記では隆景が直家の魂胆に気付いたって筋ではなく、
明石さんと忠家さんが忠告してくれたってことになってるんだね。
送ってくれる明石さん、やっさすぃ~♪
しかしその後も直家に従いながら、元春たちにこんな警告をしてくれるってのも不自然な気がするが、
いつか自分が直家に狙われたときのことを考えて、恩を売っておいたってことなのかな。

そんでまあ、撤退するときの捨て台詞がいいじゃない。
「こういう経路で帰るから、襲ってくるといいよ!」
かっこいいなw
兄の身を心配して船を貸すと申し出る隆景、
兵たちと生死を共にすると決断する元春……こういうシーンもいいなぁ。

さて、イレギュラーな朝の更新になってしまったから、
とっとと仕事に行かねば!
2012-12-15

ナチュラル・ボーン・景さま

なんだか神西の女房の話が長かったせいで、これまでの流れをすっかり忘れている……
20P近くもあったんだよ、普通の章は2~3Pなのに。ひいぃぃぃ。

そんなわけで、舞台は秀吉を蹴散らし、尼子勢を降伏させて切腹させ、
あるいは討ち取った後に戻るでやんす。


宇喜多直家心替えのこと

宇喜多和泉守直家は、上月落城以前は、病だといって自分は出張せず、
弟の七郎兵衛尉忠家、家之子の戸川・明石・長船などを差し出して、勝負の行方をうかがっていた。
信長卿父子が後詰として出張してくると聞くと、直家は
「京勢は何万騎になるのか見当もつかない。きっと中国勢の敗北は間違いないだろう」と考えて、
甥の宇喜多与太郎に洲波隼人入道如慶を添えて、「お味方について忠勤に励みます」と言い送った。

そのころは、三位中将信忠が播磨の須磨にいたので、すぐに宇喜多の二人の使者に面会して、
「味方についてくれること、実に神妙の至りである。
中国を制した暁には、備前・備中・美作、
それに播磨のなかで今支配下に置いている土地も宛行おう」と約した。

さて直家は病が癒えたと称し、上月表へ打って出てくると、
元春父子・隆景へと、「上月の城を無事に攻め落とされたばかりか、
羽柴藤吉郎を退散させられましたこと、両将の謀略が優れていただけでなく、
勇でもまた勝っていたからこそです」と祝辞を述べ、馬や太刀を献上した。
直家は隆景に面会を申し込んだので、元春様も隆景の陣所に言って、ともに対面した。

元春様は隆景様の陣所に行く前に、森脇市郎右衛門を遣わして、杉原播磨守盛重に
「宇喜多直家が今日この陣に到着し、上月落城の祝辞を述べたいらしい。
盛重も同道して隆景の陣へ行こう。早々にこちらまで来てほしい」と言い送った。
森脇はすぐに杉原の陣所へ行って、
「元春からの使いとして市郎右衛門が参ったとお伝えください」と案内を請う。
入江大蔵がすぐにこれを盛重に伝えた。

盛重は即刻森脇を陣の中へと招き入れると対面して、まだ森脇の口上も終わらないうちに、
「今森脇殿が元春からの使いとしておいでになったわけは、仰せになるまでもない。
この盛重には見当がついている。
宇喜多直家の逆心が明らかになったから、私に討ち果たせということだろう。
お安い御用だ」と言った。

森脇は、「いえそうではございません。
隆景の陣所にて、ご兄弟が一緒に直家に対面するだけです。
元春は盛重も連れて行くつもりなので、私を遣わしたのです」と答える。
杉原は、「これは思ってもみない仰せだな。
直家の逆心は、まるで鏡に映したかのように明らかだ。
今あの者を討ち果たさなければ、あとになって臍を噛んでも無益だ。
元春・隆景は、これに気付かない愚将ではないはずだが。
まあいい、今はそう言っているが、私が参った上でなら、宇喜多を討てとの仰せがあるだろう」と、
すぐに森脇と連れ立って本陣へと赴いた。

盛重は元春に会うとすぐに、声を潜めて
「直家の逆意は疑いなく見えておりますがどうして今のうちにあれを討ち取らないのですか。
直家がこの陣から帰ってしまえば、きっと敵意をむき出しにしてきます。
そうなれば、備前・美作の二ヶ国は秀吉の手に属すことになります。
ぜひとも私にお命じください。難なく討ち果たしてご覧に入れましょう。
もし危ういとお考えであれば、ご本陣よりも援兵を出してください」と言った。

元春は、「そうなのだ。私も宇喜多は離反の決断をしたと思っている。
お前も知っているように、先日も疑わしいことがあって人数を三千ほど延原の方へ差し向けたことがあった。
このことは、お前たちの他には知っている者はいない。
それに、京都に潜伏させている山伏たちも、宇喜多は信長と一味したとの情報をつかんできている。
それについて、昨夜元長と一緒に、隆景へとこのことを再三言ってあるのだが、隆景はこう言うのだ。

『たしかに先日の一戦のとき、宇喜多勢が高倉山へ切りかかっていれば、
我が方がまたたく間に勝利を得て秀吉を敗退させることはたやすかった。
それをただ遠くから見ていただけなのは不審千万であるけれども、
直家が病気であの陣にはいなかったのだから、有無をかけた一戦を慎んだのは、
宇喜多の家老たちの過失ではない。
となると、これを逆意の証拠とも言いがたい。
そのほかに何か証拠があるのですか。証拠もないのに取り押さえて討ってしまうのは、
無法者のすることです』とな。

そのとき元長が、『それほど宇喜多には野心がないと考えていらっしゃるのならば、
どうして先日私が夜討ちの提案をしたときに、備前勢の心の程が不安だといってお止めになったのですか。
これまで仮病をつかっていたのは間違いないでしょう。
備前に潜伏させている者たちも、直家が信長へ内通したと報告してきています。
どうか今のうちに討ち果たしてしまってください』と荒っぽく言ったのだ。

隆景は『どんなにそう言われても、私にはそれが名案だとは思えない。
それに今直家を討てば、宇喜多の一族郎党が八郎秀家を取り立てて羽柴と一味して、
美作・備前の二ヶ国は羽柴の手に入ってしまうだろう。
この二ヶ国を敵に取られてしまえば、中国の武威は次第に衰えてしまう。
今直家を討つということは、昔悪源太義平が平治の合戦のときに兵庫頭頼政に逆心があると考えて、
河原表で一戦して須藤滝口を攻撃させたのと同じだ。
頼政も身を全うするために、逆臣と一味することを変じたものの、他でもない一門なのだから、
義平に向かって弓を引き、矢を放って逆襲することはなかっただろうに、
義平は自分の武勇を誇って散々に悪口を言いふらし、追い散らしたあとはとりつく島もなかった。
だから頼政は平家に馳せ加わって源氏を攻めたのだ。
義朝・義平はいかに勇猛でも、ついに戦い負けてその身を滅ぼした』と、強く制した。

吉田の数人の家老たちも、『隆景の仰せがもっともだ、元長の言うことは短慮である』と言うので、
しかたなくあきらめることにした」と話した。盛重は頭を掻いた。

その後直家は、洲波隼人を遣わして隆景・元春へとこう申し入れてきた。
「今回、上月表では秀吉が敗北いたしました。
ですのでこの機に乗じて南表へ出馬され、一働きなさって、味方を勇気付けてはいただけませんか。
後詰さえしていただければ、働きは直家の手の郎党に申し付けます。
私は先日上月で多くの郎党たちを殺されたばかりか、
上総踊りなどといって、生きたまま火をつけて焼き殺されたのが返す返すも口惜しいのです。
南表へ打って出ていただければ、播磨の敵城はすべて開城することでしょう。
もし敵が打って出てきたならば、大坂の門跡や紀州の一揆勢も巻き込んで、
前後から攻め立ててあっという間に切り崩してしまいましょう」

この強い申し入れに、両将は「仰せになりたいことはよくわかった。返事は後日いたしましょう」
と返事をしたので、安国寺・洲波隼人がこのことを直家に伝えた。
直家は「とにかく恵瓊殿をお頼みしておりますので、どうかおとりなしをお願いします」と言って、
贈り物を数多く与えた。

隆景はやがて元春の陣所にやってきて、「直家の申し出をどのように思いますか」と聞いてきた。
元春は、「私は先日も申したように、丹波の国の国人たちと固く約束をしているのだから、
これから丹波へと向かうことにする。南方への出張はできない。
南前へは、隆景の手勢と吉田の旗本勢で行けば二万騎以上になるだろう。
直家の勢も一万を有に超えていると思う。合わせて三万以上はいるのだから、勢に不足はないだろう。
私の勢を加える必要はない。

信長は智略に優れて、とくに手早い戦を得意としている大将だ。
丹波の国人たちが元春を引き出したということはすぐに伝わるだろうから、
私が出張しないうちに信長が丹波に向かってしまえば、
丹波には手勢を三千と持っている侍はいないのだから、
きっと一日のうちにばらばらと滅び果ててしまうだろう。
国人たちが死んでからでは、何を言っても意味がない。
片時でも急いで丹波へ上らなければ」と、強く言った。
これで、南前への出張は隆景だけと決まった。

元春は「さすがに隆景だけ出張させるのも心配だ」と思ったのか、
また直家から「これから丹波へ向かわれるのですか。
しばらくは上月表にとどまって、嫡子の治部少輔元長を出雲・伯耆・石見に送って、
かの地に留守居している兵を集めさせて、高田までお上りになってはいかがですか。
それに松山に輝元様がいらっしゃるのですから、
お立ち寄りになって上月の合戦の様子をお伝えになってください」と言われたので、
すぐに上月表を出発して松山へと急いだ。

こうしたところに直家は隆景、また安国寺を頼んで、
「元春もぜひ南前へと出張してください。隆景お一人でも勢の不足はありませんが、
中国勢の半分は丹波へ上り、また半分はこの国の南前へ出張していると噂になれば、
人々は勢が少ないだろうと思うことでしょう。
そうなれば、敵への聞こえもまずいと思います。
ここは理を曲げてご出馬なさってください。
ほんの少し脅かして、そのまま勢を引き上げますので、
一月もかからないうちにご帰陣できるでしょう」としきりに申し入れてきた。

隆景から元春へこのことを伝えると、
「そういうことなら隆景の言うとおりにしよう。
しかしながら、宇喜多の本心がどうも怪しいから、まず一度引き上げて、
それから出張するといい」と答えた。

すると安国寺は「宇喜多は洲波入道と私を使者として、先年七枚もの起請文を書いて、
隆景へと提出しているのです。逆意など毛ほどもあるわけがありません。
もし逆意を企てていたのならば、上月が落城しないうちに寝返ったほうがよいではありませんか。
今は上月が落城し、秀吉が敗退しているのです。離反など思いつくはずもありません。
宇喜多がこれほど申していることをお引き受けくださらないなら、
きっと直家も警戒されていると感じてしまうでしょうから、
忠に励むこともなくなり、敵方に与することもあるでしょう。
どうか直家の言うとおりにしてください。
丹波へのご発向は、数十日引き延ばしても問題はないでしょう」と反論した。

隆景もこのことを元春に申し入れ、強く主張してくるので、
元春はさすがに隆景を失望させるのも忍びないと思ったのか、
「それならとにかく言うとおりにしよう」と、南前への出張を決めた。

そして両将は上月表を出発し、同(七月)下旬に黒沢山へと到着した。
直家は、明石飛騨守の家城の八幡山でもてなしをしようと、前々から日を定めてその用意をさせていた。
これは実は饗膳を両将にすすめようというつもりではなかった。
八幡山へと招き入れ、両将を討ち果たそうとの陰謀であった。

さて饗応の日は八月三日と決まっていたが、同二日の夕刻に、
直家は美作の三星の城主、婿の中村三郎左衛門の陣へ攻め寄せて、あっという間に討ってしまった。
中村もなかなかの勇士なので、敵を多数討ち取ったそうだ。
これは、中村が無二の中国方だったので、もしその陰謀のことを両将に密告でもされたらと考えて、
このようなことをしたそうだ。
これはどういうことかと、人々は怪しく思ったものだが、陰謀が露見した後、
「自分の婿を罪もないのにこのように討つとは、直家は表裏第一の邪将であるだけでなく、
情けも知らない野蛮人、悪逆非道の悪将だ。恐ろしい報いを受けるだろう」と、皆嘆きあった。


以上、テキトー訳。

景さま……マジ景さま。なんだろうこの押しの強さ。
負けないで元春! そしてくじけないで元長!!!
元長の「夜討ちの提案したのに却下されちゃったよハハッ」って手紙を思い出すと切なくなるねん。

あと、杉原盛重さん、やっぱすげえ好きだ!
使者の口上も終わらないうちに「俺にあいつを討てって話だろ、わかってる」とか!
この人は子供の不祥事で家が絶えてるってのに、なんでこんなに持ち上げられるんだろう。不思議。
ほんとにすごく愛されてて、ヒーローみたいな存在だったのかなぁ、
などと思うと胸が熱くなるけど、たぶん杉原家断絶後に吉川に吸収されたという家臣たちが、
こういう称揚をしてたんじゃないかなー? わかんないけどな。
あまりにキャラが生き生きしてて、ホント杉原愛してる。
不憫な元長も、押しに弱い元春も愛してる!!!

いやまあ、今回は両川のやりとりがかなりあって、安国寺も安定の悪役で登場してるので、
ホントおなかいっぱいなお話だったよ!
直家さんな! すがすがしいほどに悪い人だな!
この人は「悪人」てのが褒め言葉なんじゃないかと思うほどの人だ。
それでも、ひどい殺され方をした部下のことが無念だってのは、ぐっときたなぁ。
方便かもしれないけどさ。悪い人がちょっといいことをするとものすごく印象がよくなるっていう、
あの法則だね! 知ってる!
2012-12-14

女たちの主従の契り

昨夜はせっかく本読む機会があったのに、ついったに張り付いてしまってダメにしちゃったね。
とりあえず、岩国空港開港、おめでとうございます!!!
というかありがとうございます!!!!! ヒャッホー!!!!!
それに昨日12月13日は、吉川経家の元服の日でもあったんだね(*´∇`*)

さて陰徳記、これまでのあらすじ:
上月城で切腹して死んだ神西の女房は、ともに死のうと言ったもののなだめすかされ、
京都に落ち延びて出家した。
同じ出雲出身の勾当という盲人と仲良くなって悲しみを慰めていたが、
勾当のところに親しく出入りしている不破という男が、神西の女房に一目惚れしてしまった。
やがて不破は勾当を脅して女房に話をつけてくれるように頼み込み、
勾当は不本意ながらも女房を説得した。
女房は反発したものの、勾当は聞き入れず、
女房は不破との縁談を承知した振りをして、どうにか言いくるめて勾当の居所を去った。


神西の女房のこと(6)

女房は乳母を呼び寄せると、「このようなことがあったのよ。
あなたも知っているように、この世に生きていればこのようなこともあるかもしれないと思って、
上月で夫と一緒に死んでしまおうと何度も言ったのに、
あれこれと言いくるめられて、そのうえ刀まで取り上げられてしまった。
それで思いに反して自害をやめ、今までつらい命を永らえて、このような悲しい目にあってしまった。
今は何とでも言えるけれど、女の身なのだから生きていく手段がない。
だからといって、取り押さえられて無理やり妻にされ、他の男に添ってしまえば、
草葉の陰で我が夫と同じ道に行きたいと言ったことまで、嘘偽りのように思われてしまう。
これではあんまりよ。

名も知らない東夷に娶られるよりは、頼りにしている御仏のいらっしゃる西の空に至りたく思う。
私は今夜中に死んでしまおうと覚悟を決めた。
あなたは後に残って、一返の念仏でも回向して、後をよく弔っておくれ。
それでなくても女は五つの障りの罪が深いというのに、
迷いの雲が厚くて心は月の光を失い、長く闇のなかで迷うことになるね。
悲しいものだわ」と、涙ながらに掻き口説いた。

乳母はこれを聞くと、「これはなんと情けのないことを仰るのですか。
あなたが産屋でお生まれになったときからこの手に抱いて、成長なさるお姿を見てまいりました。
自分が年寄りになっていくのも忘れ果て、あなたが成長なさるのを嬉しいと心から思い、
片時も離れずにきたのです。
雪が降って霜が凍る冬の夜は、寝床を暖め衣を重ねて寒風を防ぎ、
水無月の、土さえ避けるほどの日照りの日には、扇であおいで涼しい風を送り、
丹精こめてお育てしてまいりましたのに。

今あなたが先立ってしまったら、老いた私がただ一人生き残っても、
たとえ百歳まで生きられたとしても何の楽しみもありません。
春は花に寄り添ったお姿を思い出し、秋は月に浮かんだお顔ばかり思い出すでしょう。
悲しみばかりが増えすぎて、草の葉の末の露が消え残り、
物思いに沈まなければならないのでは、あまりに悲しい。
私もあなたと同じ道にお供をして、渡る川の深い流れも御手を取って越え、
来世も同じようにあなた様に仕えられるのであれば、少しは思いも晴れましょう。
どうして私を後に残していくなどと仰るのですか」と涙に咽んで倒れ伏した。

また、もう一人の侍女のお才という者もこれを聞いて「乳母が仰ることが道理です。
私だって、荒くれの熊の出る奥深い山、鬼の出るという遠い島であろうとも、
あなた様さえいらっしゃればお供しようと心に決めて、これまでおそばから離れずに参りました。
八雲立つ出雲から、今は九重の中までも付き添って参ったのですよ。
あなた様が死んでしまったら、どうして私も後に残りましょう。
あなた様が七つ、私が五つになった春のころから、おそばを離れずにお仕えしてきたのですから、
お名残はいつまでたっても忘れるなどできません。

しかし、私もまたあなた様や乳母と同じように死んでしまえば、
誰が七日ごとの弔いをしてくれるでしょうか。
しばらくは私が後に残って、これまで身近に使っていた調度品などを高僧に献上し、
後をきちんと弔ってから、その後で参ります。しばしお待ちくださいませ。
こんなことを申しますが、露の命を少しの間惜しむわけではありません。
恋慕の思いが深く、あなた様が六道に迷ってしまったらいけないので、
一本の卒塔婆だけでも供養をして、少しでも苦しさを和らげようという意図でございます。
それでこのつらい世にしばし留まるともうしていっるのです」と、消え入るように泣き出した。

神西の女房はこれを聞くと、「私は貞女の道を守り、
とんでもない浮名で後生を汚されたくないという思いが深いから、こうして一筋に思い定めたの。
お前たち二人まで私のために命を失うことになったら、嘆いても嘆ききれない。
同じことなら、後に留まって私の菩提を弔っておくれ。
そちらのほうが、ともに同じ死出の道に赴くよりも志が深いものだし、
その功徳は黄泉の国の底までも届くものでしょう」と涙ながらに制したけれども、
二人の者たちは一向に了承しない。

「そこまで意志が固いなら仕方ない。もう止めても甲斐はないのね。
では、一緒に最後のお勤めをしましょう」と仏前に行って、経を読み念仏を唱えた。
女房は神西の遺影の前に座り、そばの硯を引き寄せて塵を払うと、夫の画像のそばに、
「蓮葉の台の上にまで暫し 来ん世も同じ契り絶えずは」と書き記した。
そして乳母とともに忍びやかに宿を出て、桂川のほとりに行き、岸の陰に座すと、
身に着けているお守りから弥陀の尊像を取り出し、苔を払った岩の上に置き、手のひらを合わせ、
「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不捨」と唱えた。
それから女房は小指を切って血を出し、その血で岩に
「世を海のあまとなる身は御仏の深き誓いの網に漏れじな」と書いて、
乳母に「行きましょうか」と声をかけた。
乳母は「さあ、お供いたします」と答え、互いに手に手を取って、波の底に入っていった。

徐君宝の妻の趙氏という女は、岳州が敗戦すると敵に捕まり捕虜にされたが、
汚されまいと心に誓い、壁に詩を書いたという。それはこうだ。
「漢上の繁華、江南の人物、尚宣政風流を遺す、緑宗朱戸十里銀鈎を爛、
一旦刀兵斉く旌旗を挙げ、百満貔貅を擁し長馳して歌楼舞?に入る、風落巷を捲り、
愁う清平三百戴き、典章文物地を掃いて倶に体す、幸いに此の身未だ死せず猶南州に容す、
破鏡除郎何に在る、空しく惆悵して相見るに由無し、
今より後断魂千里、夜々岳陽楼書、罷りて水に赴きて死ぬ」とあったそうだ。

また李景文の妻の彩鸞は、賊父の嗣源を殺そうとしたとき、一旦は父の命で賊に従ったものの、
辱めを受けまいとの思いが強かったので、賊とともに桂林橋を通りかかったとき、炭を拾って壁に向かい、
「一人桂林橋下の水のみ有り、千年妾が心の清さを照見す」という詩を書き記して、
流れに身を投じて死んだそうだ。
彼女たちは壁に詩を残し、この女房は岩に歌を書いた。
昔は桂林橋の下の川に清い心を誓い、今は桂川の淵に妹背の盟約を深くした。
和漢の隔たりはあるといっても、貞節を守って死んだ点で、同じできごとだと、人々はみな感涙を流した。

お才という侍女はこの様子を見ると、眩暈がして心ここにあらず、
泣きたくても涙は出ず、叫びたくとも声が出なかった。
もう誰もいなくなったところに倒れ伏して、気を失ってしまった。
しかししばらくして気がつくと、「それにしても言う甲斐のない心だこと。
前々からこうなるということは知っていたのだから、いまさら驚いてなるものですか」と心を制しながら、
周囲の家を尋ねていった。
「このようなことがあったのです。せめて死骸を引き上げてはいただけないでしょうか」と頼むと、
近所の人たちが驚き騒いで集まった。

しかしどこに死骸があるのかわからない。
水練の達者な者が水に入って担ぎ上げてみると、主従二人して手を取り合って水の泡と消えていた。
「これはどうしてこんなことになったのか」と尋ねると、お才という侍女は、
「このようなことがあって、私の主人である人がこのように成り果ててしまったのです。
不破殿が恨めしい。勾当殿は情けのないこと。我が君を返してください、命を返してください」と、
声の限りに泣いた。

ずっとそうしているわけにもいかないので、お才は二人の死骸を引き取ってきた。
誓願寺には以前から師弟契約のある貞安という高僧がいたので、この人を招くと、
火葬をして七日ごとの弔いを丁寧に執り行った。
お才は布施にするものが何もなかったので、身に着けている衣を脱いでその高僧に献上した。
貞安はこれを見ると、「気持ちはありがたいが、あなた他に着物を持っていないでしょう。
着物がなければ、風を防ぎ寒さをしのぐことはできないと思います。
ここはお気持ちだけもらっておきましょう」と、衣を差し返した。
お才が「他にないものを差し上げるのが最上の気持ちの表し方なのですから、どうかお納めください」
と言うので、上人は「ありがたいお気持ちです」と涙を抑えながらその着物を受け取った。

上人はこう言った。
「昔、毘婆戸仏が世に出たときに、一人の比丘尼がいました。
町に出ては人々を勧誘して仏のところに赴かせ、説法を聞いて布教したりしていましたが、
あるとき、きわめて貧乏な女人がいました。
夫婦でたった一枚の衣を共用し、夫が着物を着て出かけるときには、
女房は裸のまま留守を守っていたのです。
女房が出かけるときには夫が裸で家にいいます。
教化のために比丘尼はその人の家に行って女房に会い、こう言いました。
『仏はめったに世出てくるものではないので、説法を聞く機会はあまりありません。
このような好機はありませんから、どうぞ説法を聞いてお布施をしてください』

女房は比丘尼を待たせておくと、夫に『お布施したいのです』と言いました。
夫は『そう言うが、こんなに困窮しているのだ。布施できるものなどないぞ』と答えます。
女房は、『前世で布施をしなかったから、今生でこのように困窮しているのです。
今布施をしないのであれば、今後いつできるというのですか。
できれば、私はこの一枚の衣を布施にしたいと思います』と言いました。
夫は、『私はお前と一緒にこの一枚で暮らし、交互に衣を着て出入りしながら生活の糧を得ているのだ。
お前がこれを人にやってしまったら、死ぬしかない』と言います。
女房は、『生きていれば必ず死ぬものです。
布施をしなくても死ぬのだから、後生に少しでも望みを託しませんか』と言いました。
夫はこれをしみじみと聞くと、比丘尼を家に入れて衣を渡しました。

比丘尼は『仏にお会いになって渡したらいかがですか』と言いましたが、
女房は『私たちの持っている衣はこれ一つで、他にはないのです。
みっともないので、ここで脱いでお渡しします』と答えました。
比丘尼はこの衣を受け取ると、呪願を説いてから仏のところに戻り、
大衆(だいしゅ、仏弟子のこと)にこのことを話し、
『布施として、これほど清浄な衣畳は他にありません』と言いました。

そのとき国王が夫人とともに仏の説法を聞きに来ていたのですが、
夫人はすぐに身に着けていた飾りを外すと、その女房にそれを贈りました。
また王も、自ら衣を脱いで、その夫に与えました。
この功徳のおかげで、その女房はそれから永遠に悪道には堕ちませんでした。
そして貴人たちとも交流して住暮らすようになって、たくさんの衣服にも恵まれるようにまでなりましたが、
この義のために出家して悟りを開いたそうです。
このような経説もあるので、今あなたが一枚の衣を布施をしたその功徳によって、
本日供養した尊霊は言うに及ばず、あなたもまた成仏解脱は間違いないでしょう。

だいたいにして、あなたのような貧しい方が供養をなされば、
大福長者がどんなに珍しい宝物をなげうつよりも、その功徳は深いものです。
『阿闍世王受快(決?)経』にはこうあります。
あるとき阿闍世王は燈明を仏に供養することにしました。
それを知った貧乏な老婆は、人から二銭を貰い受けると、油を買いに行きました。
油屋の主人は貧しい老婆を哀れんで、二合しか買えないところ、三合を恵んでやって五合を渡したのです。
貧しい老婆は、『もし自分が仏のように悟ることができるなら、
夜通しこの光明が絶えないように』と誓願して去っていきました。

そして他の明かりが消えたとき、その貧しい老婆の光明だけが消えなかったのです。
翌朝になって仏が目連に言って明かりを消そうとしたところ、
袈裟で覆っても扇いでもその光は消えませんでした。
また荒ぶる神が風を吹かせてもなお消えない。
上は梵天を照らし、その明かりは三千世界を照らしました。
仏は、『およしなさい、これは未来の仏の光明功徳である。
お前のようなやりかたではどうもできない。この仏は須弥燈光如来という。
その仏の世界は、衆生が暗いところを照らすために光があるのだ』言いました。

またそれだけでなく、優曇女は紙一枚を仏にささげて三十二相を得て、
壮厳花女は麦三粒を観音に捧げて、とんでもない金持ちの家に生まれ変わりました。
鉢羅花女は大豆六粒を観音に捧げて三千世界の王となり、
金剛女は麻の実を三粒観音に捧げて?利天になり、
摩耶女は母のために一宇の経を書いたので、母は地獄の苦しみから逃れることができました。
このような例もあるのです。
あなたももちろん後生は成仏できるでしょうし、主君の女房や、
ほかにその志を回向なさっている故人の霊たちは、みな成仏解脱できるはずです」

これを聞いたお才は感涙し、この言葉を胸に、また仏前に参って念仏を唱えると、
主君の女房の菩提を丁寧に祈った。

その後、お才は上人の前に来て十念を授かり、涙を流して立っていたが、
やがて桂川に訪ねていくと、主君の女房が沈んだ場所に身を投げて死んでしまった。
貞安上人はこのことを耳にすると墨染めの衣の袂を涙で濡らし、
急いでお才の死骸を引き上げて土中に埋めると、三人の女たちの後生菩提を深く弔って、
四十八日間は念仏説法して回向発願し続けた。
世の人々は皆このことを語り合い、聞く人は皆涙で袂を湿らせた。
それだけでなく、かたじけなくも雲の上(帝?)までこの話が伝えられ、
「弓馬の家に生まれる者は、女性の身であってもこのように義を思って、
命を軽んじるのだな。哀れだ」と感心したのだという。
女御や更衣、百官卿相にいたるまで、皆袂を絞った。
その身ははかなく苔の下に埋もれたとはいっても、名は紫の台の上まで聞こえたばかりでなく、
千年の後までも残り続けた。悲しくも美しい話である。


以上、テキトー訳。おしまいー!!!

ふぅ……いやしかし長かったね!!!
本当にあった話がベースなのかどうかよくわからないけど、
正矩がでっち上げるとしたら根拠が弱いよな。
敵の神西の女房を主人公にする根拠が薄弱だもんな。

今回面白かったのは、女性たちの間にも主従の意識が強くあったことをうかがわせるような描写。
乳人は、男でも女でも同じようなことを言うね。
「オムツをしてたときからこの腕に抱いて、あなたの成長ばかりを楽しみに生きてきた」ってさ。
泣かせるじゃないの、乳人。

あと、お才は、男性に照らし合わせてみると、近習のような存在なんだろうか。
7歳の主君に5歳から仕えるって……ゴクリッ
アリなの、ねえそれってアリなの?と、労働基準法に慣れきった頭では考えてしまうわけさ。
でも考えてみると、好きな武将たちにも同様に、
幼いころから見守ったりついてきてくれた家臣たちが当然いるわけだよね。
夫婦よりも長いこと一緒に暮らしてきたんだもん、そりゃ「主従は三世の契り」って言われるわな。

さてそんなわけで次章、ようやくキナ臭くなってきそうだぜヘヘイヘイ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
待ってましたの両川、そして直家さんが登場するよ~~~! てことはアノ話だw
2012-12-10

貞女の一存

これまでのあらすじ:
上月表で切腹した神西の女房は、自分も夫とともに死ぬと言い募ったものの、
説得されて京に赴き、出家して夫の菩提を弔うことにした。
同国出雲出身の縁でよき話し相手となった勾当。
その知り合いで信長の馬廻である不破は、勾当の宿を訪ねたとき、
すでに尼姿となった神西の女房に一目惚れし、勾当にその女房との仲介を頼み込む。
いったんは断ったものの、自棄になった不破に身の危険を感じた勾当は、
不破に恋文を書かせて女房を呼び寄せる。


神西の女房のこと(5)

勾当はいつもよりも親しげに女房を招き入れた。
女房は勾当のいつもの部屋へ入るとすぐに、半分開けてあった真木戸から外が見えた。
先の庭の見渡す限りに植えられた紅葉が、最近の時雨に打たれても散り残っていて、
その色はさらに深く染まり、二月の花よりも強い紅色だった。
霜の底でわずかに残っている菊は凍えきり、一本咲いている撫子の色も寂しげに枯れ、
草の裏にほんの少し残っている虫の音も、いつまでの命かと、女房の身の上に重なって物悲しかった。

中に島を作って石を渡らせ、水を走らせている池の辺りには、松に藤の蔦がまとわりついている。
「心なき草木ですら、枝を連ねる契りはあるのだなぁ」とうらやましくなり、
女房はまた涙で袂を濡らした。
生きていたころをには憎かった人でさえ、亡くなってしまうと恋しくなるのが世の習いだというのに、
それは睦まじかった妹背の仲なのだから、
こうして目に触れるものがことごとく涙を誘う種になるのも道理だと、
見る人もつられて涙をこぼすのだった。

その後勾当はその女房に向かって、
「実はとてもよいお知らせがあるのですよ。
それは何かといいますと、織田信長は現在天下の主となって、
西は播磨、東は三河の国まで切り従えていらっしゃいます。
日本に二人と肩を並べる人もいません。
あと三年ほどの間に、日本六十余州はすべてあの方が手の内におさめることになるでしょう。
毛利家の人々も滅びるはずです。
そうなれば、信長卿の馬廻の若殿たちも、皆一国の主となられることでしょう」と言った。

女房は「信長卿によって毛利家が滅ぼされるというのは、夫の仇ですから、
女の身としても嬉しく思います。
そうはいっても、仇が滅びたとしても夫が二度と生き返ることはないのですから、
このように出家して仏の満ちに入った身では、浅ましいとしか思いません。
それに、いいことも悪いことも、知らん振りをして聞き流すのが世捨て人の作法なのですから、
信長卿の馬廻の殿方たちが国の主になったとしても、
露ばかりも嬉しいとも、また悲しいとも思いません」と答える。

勾当は、「それがですね、馬廻の何某とかいう人が、あなたの姿を一目見てからというもの、
心も空に上っていくようで、このままでは体ももたないほどになったので、
私に何とかしてほしいと仰せになったのです。
あなたも、帰らぬ夫との別れを悲しんでいるままでは、かえって妄執も深くなります。
また人の嘆きを深く身に負えば、後の世の障りともなりましょう。
どうかその人の望みをかなえてやってください。

そうすれば、行く末は一国の主の御台所と崇められるばかりか、
こうして話を通した私の家まで富み栄えて、『何某の検行殿』などと呼ばれるようになりましょう。
そうなれば嬉しい。これもひとえに、生国の出雲の神のお恵みでしょう。
これまでのお嘆きはもっともですが、夫に先立たれてまた別の人に嫁すのも、
この世では珍しいことではありません。
国の主の妻となってから、寺でも建立し、僧を集めて供養をなされば、
これこそ真に神西殿のお弔いになるでしょう」と言った。

女房は聞くや否や、「なんとひどいことを仰るのですか。
我が身は賤しくとも、貞女の道を守るという志は、
たとえ末の松山が波の底に沈んだとしても変えるつもりはありません。
それなのに、なんて憂鬱なことを耳にしたのでしょう。
すでに髪を剃りこぼして衣を墨に染め、ひたすら仏の御名を唱える法の道に踏み込んでいるというのに、
いまさら煩悩の絆に繋がれようとは、恨めしいことです。
以前も夫と同じ道に赴こうとして、私も死のうと思いました。
けれどあれこれと宥めてくれた夫が恨めしい。
あのとき命を絶っていれば、このような悲しいことも聞かなくてすんだのに。


唐土の凝の妻は、夫が一国の司、戸参軍とかになったそうですが、
その夫が病に倒れて亡くなると、妻は幼い子を連れて故郷に帰りました。
旅の途中で宿を借りようとしたところ、女が一人で子供を連れているのを見て、
宿の主人は素性怪しみ宿を貸しませんでした。
しかしすでに日も暮れているので、女はどうしようもなくその宿を去らずにいたところ、
主人はその腕をつかんで追い出しました。
女は天を仰いで、こう嘆きました。
『私は妻となったのに清く貞節を守ることができませんでした。この手が人につかまれてしまった。
しかし手一つのことで我が身もともに汚されるべきではありません』と、
すぐに斧を握ると、自らその腕を断ち切ったということです。
その宿の主は何も好色な思いがあったのではなく、
ただ宿を求める女を追い出そうとして腕をつかんだだけです。
それでさえ、汚されたと悲しんだのです。

私は花鳥の装飾に彩られた玉書を送られ、『うき節茂き川竹の一夜の契』などと責められて、
浮名を流すことになるとは恨めしい。
魏の曹文叔の妻、令女のように耳を削ぎ鼻を割ってしまいたい。
しかし父母に生んでもらった体に傷をつけるのも不孝だし、
そんな姿で世を生きるのも恥ずかしい。
生きるには物憂い世の中です。命がここで終わってしまえばいいのに」と、
衣を引き被って泣き伏してしまった。
その後は、なんと掻き口説こうとも何の反応も見せない。

勾当は大いに腹を立て、「人間は木石ではないのだから、必ず情を持っているものです。
せめてその人になびかないまでも、この恋文に一筆の返事くらい書いたらどうですか。
それにこの盲人が申すことに、返事くらいしてくれたらどうですか。
あなたが先立った夫を恋しいと感じるのも、あの人があなたを恋しいと思うのも、
思慕の思いは同じではないですか。
あなたは別れを悲しみ、あの人は会えないのを嘆き、
内容は少し違いますが、恋路という点では同じです」と、
一度は目を怒らし、一度は目に涙を浮かべて掻き口説いた。

しかし女房は泣き伏したまま顔を上げることもせず、涙に咽ぶばかりだった。
「思いだけでは死ねないということ、それに昔から
『また生まれてきたときに婦人の身となることなかれ』と言われてきたわけも、
自分の身で思い知りました。
夫と死に別れた悲しさから出家をして仏の道に入ったというのに、
こんな思いも寄らないことが起きるとは、きっと天魔の意地悪に違いありません。
天に縁がないばかりか、仏果の縁も尽き果ててしまうとはあんまりです。
南無三世の諸仏のなかでも、昔から頼りにされてきた阿弥陀仏よ、
これまでの願掛けが空しいものでないのならば、私の命をここで断ち、
九品蓮台の上に迎えてください」と、あたり憚らず声の限りに泣き叫んで、
その様子はあまりに哀れだった。

勾当もさすがにかわいそうに思って、その後は何も言葉をかけずに、
その好色な男を呼び入れて、このことを話した。
その男はこれを聞いて激怒すると、「それなら多少強引になってしまっても仕方ない。
今夜あの女房を取り押さえて、私の宿舎に迎え取ってやろう。
はじめこそ抵抗するだろうが、月日が経つにしたがって嘆きもしなくなるだろう」と声高に吐き散らした。

これを女房は壁を隔てて耳にして、「今は逃げ道がない。どうしよう」と思ったが、
とあることを思い出した。
「唐土の文興の妻で王氏醜々という者がいたが、陣吊眼という者が乱を起こしたとき、
章川というところを攻め、文興は兵を率いて戦って討ち死にして、王氏は敵に捕らわれてしまった。
この女は義を第一に守って辱めを受けたくないと思ったので、嘘をついて敵を騙し、
『私の夫を葬るまで待ってくれればお前に従おう』と言った。
敵はこの言葉を信じて王氏を解放した。
王氏は夫の市外を背負って帰り、薪を積み火を起こして、その火が燃え盛ってきたときに、
王氏は火中に身を投じて死んだと、そう聞いたことがある。
私も不破とかいう男を騙してまず我が家に帰り、それからともかくも身を処そう」と考えた。

女房が「ねえ勾当殿、お伝えしたいことがあります」と呼びかけた。
勾当は「この二、三日というもの、湯水にさえ触れていない人が声をかけてくるということは、
少し気持ちも弱ってきて、他人の嘆きを哀れと思ってくれたに違いない」と喜んで、
「何事でしょうか」と答える。
女房は、「これまであなたが道理を尽くして仰ったことも、実にもっともなことだと思ったのです。
世の中の常として、昨日までの淵が今日は瀬になるもの。
私は先ほどああ言いましたが、夫への操立てを一夜にして変じてしまえば、
みっともない浮名を流すばかりか、後の世もで笑われてしまうと思っていたのです。
いやがって返事をしませんでしたが、今ではかえってあなたの心中が推し量られます。
ひたすらに想ってくださる方の心を破るのも、その報いが恐ろしい。
今回はともかくも、勾当殿の仰せに従いましょう。

しかし、夫のために阿弥陀経一千部、念仏百万返を唱えると誓願しているのです。
念仏はもうその数を満たしているのですが、弥陀経はあと三百ほど残っています。
これも、あと一月ほどで成就すると想います。
この願掛けが成就したならば、どんな日のどんな時間でも、仰せに従いましょう。
あまりに図々しい頼みなのですが、経を読み終わったときには、
高僧をお招きして経の供養を行いたく思います。
しかしそれは、私のような身では思うに任せません。
そのときは、この供養のことも勾当殿をお頼りしてもよいでしょうか」と言った。

勾当はあまりに嬉しくて、「気持ちが落ち着かれましたか。お経の供養のことはもちろん、
堂や塔の建立であろうと、お安い御用です。
勾当も参ってお経を聞くことにいたしましょう。
念仏の一返も唱えて、知遇の縁にもなりたいと思います」と答えた。

女房は、「心ならずも他の方に会ってからでは、夫の後生の弔いも、
世の交わりに紛れて怠ってしまうでしょうから、今のうちに心静かに執り行いたいのです。
その間に、肩にさえかからない黒髪も少しは長くなることでしょう。
今の姿でその方にお会いするのは、身の程が見せ付けられるようで恥ずかしくございます。
それに周囲の人たちも、一度尼となった身でありながら
あまりに軽率だと嘲笑うでしょうから、それも口惜しい。
せめて髪が結べるようになるまでは待っていただきたく存じます。
しかし勾当殿にお任せした身なので、私のため、
またその方のためによきように取り計らってください」と、
さも本心からのように言って、自分の宿へと帰っていった。


以上、テキトー訳。まだ続く!

しかしまだやってんのかというか、よく泣き叫ぶ連中だなとか、
まぁ少々食傷気味なわけです。
合戦はまだか合戦は。
いちいち唐代の故事を引っ張ってきたり、
このころの教養人の恋愛は大変だねぇ。

というか、この「貞女」だの何だのって思想は、戦国時代からあった感覚なのかなと、
今回疑問に思ったわけだ。
昔から普通に存在してた概念だとすれば、ここまで畳み掛ける必要はないじゃない。
正矩が成長するころに幅を利かせ始めた思想なんじゃないかと思うけど、
思想史、とくにフェミ関連はあんまり踏み込みたくない領域なので、
空想程度にとどめておこう。

さて、機転を利かせてどうにか貞操の危機を脱出したかに見える女房は、
しっかり逃げ切ることができるのか。
早いとこカタつけてくれ~(飽きた)!
2012-12-08

恋の作法(ただし戦国)

いやはや。昨日は広家の誕生日(西暦)&結婚記念日(西暦)だったので
しこたま酒を飲んできたよ!
嘘です。ただの忘年会です。なんでこんな日に限ってorz

そうそう、吉川家コピペ改変botを製作したので、
そのうちPCサイト上のツイッターリンクは、そちらに切り替えようと思います。

さて陰徳記、全然終わる気配のない神西の女房の話。
これまでのあらすじ:
上月城で切腹した神西の女房は、自分も一緒に死ぬと言い張ったものの、
夫に必死に説得されて、京都へと上り尼となった。
勾当という出身国の同じ知己を得、四方山話をして悲嘆を慰めていたが、
あるとき勾当の知り合いで信長の馬廻の男、不破という者がこの女房を見初めた。
不破は恋の病にやつれ、このまま死ぬよりはと一大決心をして、勾当に手引きを頼むことに決めた。


神西の女房のこと(4)

勾当はすぐに対面して、「最近は公事が忙しくてお暇がなかったのですか。
なかなか連絡ももらえなかったから、どうしていらっしゃるのかと心配しておりました。
今日おいでくださって、まことに嬉しい」と客人の不破を招き入れ、四方山話を始めた。
なんとなく、男の話す声が力弱く苦しげだったので、
勾当は「おや、もしかしてお加減がよろしくないのですか。お声に少々元気がありません。
私は目が良くないので、あなたのお姿の様子はよくわかりませんが、
苦しそうなことはよくわかります」と言った。

不破は、話を切り出すのにちょうどいいと思って、
「そうなのです。不思議なことがあって、重い病を身に抱えてしまいました。
あなたがそう仰るので、『色に出にけり、我が恋は、物や思ふ』と詠まれた歌を思い出しました。
そうそう、過日ここへ罷り越したとき、西の庇の方から女の声が聞こえてきて、
読経や念仏をしていたので、どんな者だろうと思って垣間見たのです。
その女人は、尊げに仏を飾り、弥陀経を半分開いて忍びやかに読んでいました。
その様子は、『音に聞く松ヶ浦島今日ぞ見る むべも心ある海士は住みけり(後撰和歌集)』
と詠まれた歌のようで、つい見とれてしまったのです。

するとその人は『我をともなえ山の端の月』と独りごちて涙を流したのです。
おそらく深い嘆きに身を沈めているのだと思いますが、
いったいどのような人なのですか」と尋ねた。

勾当は、「あれは、出雲の国の住人の神西という人の妻でしたが、
夫は播磨の上月の城で自害いたしました。
夫との別離を悲しんで尼になり、いつも仏の御名を唱えて、
夫の後生善所を祈っていらっしゃるばかりです。
私とはとある縁があって、よくここにも出入りしています。
なんともありがたい話し相手ができたものです」と答えた。

不破は「では今は夫がいないのか。人妻であれば、どんなに心を寄せても甲斐はあるまい。
夫と死に別れて独身だというのは嬉しいことだ」と思って、勾当に近寄った。
「なあ勾当殿、頼みたいことがあるのです」と言うと、勾当は「何事です」と答えた。
「私はもう重病にかかっていて、長生きできるとも思えません。
けれども私の命を助けてくださるか、はたまた殺すかは、勾当殿のかかっているのです」
不破の言葉を聞いて勾当は胸が騒ぎ、
「私は天を司る命星ではありませんから、人の命を生かすか殺すかは、
心のままにできることではありません。いったい何を仰るのですか」と言った。

その男は「いやいや、先ほど申した女の姿を垣根の隙間からたった一目見たときから、
静まることのない恋とかいう病が身にひしと取り付いてしまいました。
寝れば夢に見、覚めれば会うことができたとしても、
一人誰も知らないところで想い焦がれているだけでも悲しいというのに、
私の場合はあの人の面影はたった一度見た記憶の中。
私の心の苦しさを、わかっていただけるでしょう。

昔の世の聖人でさえ、時には失敗することがあるというのに、
私のような愚かな者が、このような道に迷っているのを哀れと思っていただけませんか。
もしできるなら、私とあの人の縁をつないで、私の命を助けてください」と、
涙もぬぐわずに掻き口説いた。

勾当は、「これは思ってもみない仰せです。
あの女房は、夫に先立たれた嘆きのためにというのはもちろんのこと、
このようなことを耳にしないようにと、ああして出家なさったのですよ。
そのうえ仏の教えに身を任せ、修行に精を出しているというのに、
それを妨げるなど、釈迦牟尼如来の御心を損ねてしまうばかりか、
三世の諸仏の罰を蒙ることになりますよ。ああ恐ろしい。

今生の恋慕が罪深いばかりか、将来は阿鼻大地獄に落ちてしまいます。
それを悲しいとも恐ろしいとも思わないのですか。
こんなことを仰せになるなら、この勾当にもこれからは会いにこないでください。
あの女房の弥陀の誓願に願をかけ、安養不退の仏の国へ往生したいと思っていたのに、
こんなどうしようもない頼みを引き受けて、ともに邪淫の罪を身に受ければ、
釈迦仏が八相成道をなそうとなさったときに、
大六天魔王が淫らな女の姿に身を変えて邪魔をしようとしたことと同じになってしまいます。
こんなひどいことをする人とも知らずに、これまで親しくしてきてしまったとは、
とても悔しい」と言った。

男は大いに腹を立て、「私はもうこんな思いには堪えきれずに、
露ほどの命を全うできるとも思えなかったのだ。
釈迦牟尼仏の御心を損なうならそれでいい。三世の諸仏の罰だって、当たるなら当たればいい。
一目見た女と一夜の契りを結べれば、たとえ身は粉になったとしてもかまわない。
どうしようもない恋路に犯されて無駄死にするのもどうせ同じ道だ。
こうなったら勾当殿を刺し殺し、またあの女房も我が手にかけて、
今生は縁がなくとも、来世では同じ蓮の台に座る縁を作ってやろう」と、
一度は怒り、一度は言葉を和らげて言った。

勾当も「これではとても断りきれない。
いやだといえば自分の命も失われ、彼女にもつらい目にあわせてしまう。
それではあまりに悲しい」と思って、
「そうですか。それほどまでに思い入れていらっしゃるか。
今ではかえってあなたの心の中が痛ましく感じられます。
では、かなわぬまでも、彼女に少しばかりこのことを知らせることにしましょう。
まず文をしたためてください」と言った。

男は大いに喜んで、あの晩にほのかに見た有様、
この気持ちが本気だということを、心の限りに書きつくして、
「海士の住む浦の初島わずかにも見しより濡るる我が袂かな」と詠んだ。

勾当はこの玉書を懐におさめると、すぐにその女房に使いを出し、
「最近はお互いに連絡も絶えておりました。
そのように引き籠ってばかりいるより、こちらにいらっしゃいませんか。
その方が、物憂い気持ちもいくらか晴れましょう」と伝える。
女房は、「尋ねてくる人もいないのに、
勾当がこうして折につけ絶えず連絡してくれるのは、本当にありがたいこと。
これまでは冬立ちの時期の常とはいいながら、時雨の誘い引く軒の木の葉が
ほろほろと落ちるのを見ては袖を涙で濡らし、
板間に吹き込む霰の夜に一人寝ていても夢さえ見なかったから、
物思いばかりがいや勝って籠もっていたのだけれど。
せっかく呼んでいただいたのだから、おうかがいして人に会い、
物思いを慰めることにしましょう」と、すぐに勾当の宿へと赴いた。


以上、テキトー役。終わりが見えにゃい。

へぇ、勾当、盲人だったのか。
それはそれとして、この不破って男はもうwww
いや、現代でもこういう人いるし、よく身内を人質にしての立て籠もり事件なんてのもあるけど、
似たような行動原理というか思考回路なんだろうなぁ。
人間なんて、時代が変わってもそう変わらないものなんだね。
このころの思想としては、古代の人は聖人で、
時代が下るにつれ人間は劣化していった、みたいな認識なんだっけ?

なんかとんだ修羅場がこの後も続くけど、
まぁなんとなく読んでいくよ。
早く合戦シーン来い!!!

そうそう、今日覚えた言葉。
「くじのたふれ」【孔子の倒れ】孔子(こうし)のような聖人君子でも、ときには失敗もするということ。
へぇ……(・∀・)
2012-12-06

戦国版「ラブストーリーは突然に」?

今日はようやく一息つけたので読書(*´∇`*)
でも明日がヤマなんだよねー……ほぼ毎日読んでたころが懐かしい。

さて、これまでのあらすじ:
上月城に籠もった尼子勢は援軍の秀吉ら織田勢が引き上げてしまったので落城を余儀なくされた。
降伏にともなって切腹した神西三郎左衛門は籠城に女房を連れてきており、
女房もともに死にたいと主張したが、神西はこれをどうにか思いとどまらせた。
女房は郎党たちに連れられて上京し、浄土宗の僧の説法を聞いて、浄土宗に入って出家した。


神西の女房のこと(3)

神西の女房は、朝の雲を歌に詠んでは消して「(夫の)煙の行方のようだ」と悲しみ、
夕方の雨を聞くにつけても、「あれは死に別れた夫の涙だろうか」という気持ちになった。
池の水面に浮かんでいる鴛鴦(おしどり)が仲良く羽を並べているのを見ても、
「心などない鳥類ですら妹背の契りは浅くないようだ」とうらやみ、
軒端に燕が一羽飛んでくると、まるで自分を見ているようで哀れに思った。

かの衛敬瑜の妻の李氏も、夫に先立たれた。
その家にはつがいの燕が巣を作って住み着いていたが、あるとき雌燕が一羽だけで帰ってきたのを見て、
妻は「お前も私と同じように夫と死に別れたのだな」と、その燕の足に紐を結んで印にした。
また翌年もその燕はやってきて、李氏の家に巣を作った。
その次の年も、そのまた次の年も、変わらずに燕はやってきた。
李氏は詩を詠んだ。
「去年は一人で去っていき、この春にまた一人で帰ってきたね。
亡くなった人への情愛が重すぎて、別の誰かとともに飛ぶことができないのだろう」

さらにまた明くる年にその燕は李家にやってきたが、李はすでに死んでしまっていた。
燕はその家で鳴き悲しんだので、人々は哀れに思って、
李が死んだこと、そして葬られた場所を燕に教えてやった。
燕はすぐに李の墓に飛んで行くとそこで鳴き悲しみ、ついに何も食べないまま死んでいった。
人々はたいそう燕を哀れんで、李の墓のすぐそばに埋葬してやり、
燕塚と呼ぶようになったそうだ。

神西の女房は、「私も軒端の燕に印をつけたいものだけれど、
また来る春に私が生きているとも限らない。
そんなことをしてもしょうがない」と、心細げに掻き口説いた。
ずいぶん哀れな有様だったようだ。

さて、昼はずっと写経や読経をし、夜には遅くまで念仏を唱える修行をして、
「南無幽霊出離生死頓証菩提」ととなえ、三世の諸仏に回向をしていたが、
流れ落ちる涙は一向に止まらなかった。
袖はぼろぼろに朽ち果て、床は深い海となったが、
「夫の姿を夢でさえ見れないとは悲しい」と、思慕の煙が胸に満ち、つらい嘆きを繰り返していた。
信濃にあるという浅間の嶽ほど浅ましいほどに痩せ衰えてしまって、痛々しい様子だったという。

ここに、松尾の勾当とかいう者がいた。
出身は出雲の国の白潟あたりだったので、同国出身のよしみで、
神西の女房のところへと度々やってきていた。
女房もこの者に向かって悲しみもつらさもすべて話して、せき上がる胸の思いを吐き出していた。
こうなると、その女房も念仏読経の暇を見てはその勾当を尋ねて行き、
いつも仲良く話をするようになった。

織田信長の馬廻に、不破将監などという好色な男がいて、
いつもその勾当のところに出入りしていた。
あるときまた不破が勾当を訪ねてきて、夜が更けるまで話をしながら酒を飲んでいたが、
夜もだいたい半分が過ぎた。
勾当がいつもいる部屋より少し西の方に母屋の庇があり、
いつも人がいるところにも見えなかったが、そこから女の声がして、
とてもひっそりと経を読み念仏を唱える声が聞こえてきた。

その好色な男は、「いったい誰だろう。
勾当の女房はときどき肴を持って出てくる。もともと娘などはいなかったはずだ。
きっと勾当の所縁の者だろう。一目見たいものだ」と思ったけれども、
勾当の心中もわからなかったので、おいそれと紹介を頼むわけにもいかず、
あれこれと思いをめぐらせていた。
やがて何か思いつくと、勾当に酒をしきりにすすめ、勾当を酔いつぶしてしまった。

勾当が泥酔して寝てしまうと、その男は端の方から退去するふりをして庭に下り、
足音を忍ばせて西の方へと忍び入っていく。
竹で編んだ垣根の隙間、童子たちが踏み開けたのだろうところから忍んでいって、
前栽の陰に隠れて中の様子をうかがった。
折りしも秋の半ばだったので、植えてある萩は枝を伸ばし、萩や女郎花なども真っ盛りに咲き誇り、
その香りもとても趣がいい。
菊のつぼみの露もかぐわしく、虫の声が哀れを誘って、月の光もそれは艶やかだった。
初雁の一声が響く夜半の空、なんとなく物悲しくなってくる。

その女房は灯りの前で経を読んでいたが、傾く月の影に心誘われ、
雁の初声も珍しくて心にしみたのか、経を巻きながら手に持って、
肘掛の方へと体を傾け、外のほうを見やって、
「月は如来の右の脇士ともいうから、罪障りの雲を晴らし、
後の世の闇をも照らしてくださるのでしょう。ありがたいこと」とつぶやいて、
しばらくそのまま外を見ていた。
「紫の雲の行方の西の空に我をともなえ、山の端の月」と独りごちると、
思わずあふれ出た涙で墨染めの袂を濡らす。

その様子はひどく魅力的で、物思いにふけっている様子で頬杖をついている姿は、
物悲しくもあり、優美でもあった。
「薄雲(『源氏物語』)」の入道の宮(藤壺)という絶世の佳人の面影も、
きっとこういう感じだったのだろうと、見たことのない昔の人にまで思いを馳せてしまう。
その男は女房に見とれて余所見もせず身じろぎもしなかったが、
「この人は深く物思いに沈んでいる様子だ。いったいどんな憂いを抱えているのだろう」と、
女房の心の中を想像して、もらい涙に袂を湿らせた。

その女房は、夜の勤行を怠っているわけにはいかないと、また仏の御前に行くと、
香をたき灯りをつけて阿弥陀経の紐を解き、
「従是西方過十万億、仏土有世界、名曰極楽、台有仏、号阿弥陀、今現在説法」
と忍びやかに読経を始めた。
その声の麗しさ、姿の清らかさは、仏・菩薩が人の姿を借りているのか、
または韋包希夫人の再来かとも思えた。
男は心が塞がるような、走り出したいような気持ちになって、
「いったいどんな人にこれほど思い入れて仏に仕えているのか」と問いかけたくなったが、
「これほど精進している道を邪魔するのも罪深く、
それに家の主の勾当が目を覚ましてこちらにやってきたら恥ずかしい」と思って、
ひたすら気付かれないように後姿を見つめるばかりだった。
しかしあんまり長居をして人に見咎められるのもどうかと思い、やがて帰っていった。

それからというもの、男はその読経している女の後姿が頭から離れず、
念仏を唱えていた声が耳の底に残って、嘆きの底に伏し沈み、物思いにばかり暮れていた。
このままどうにかなってしまいそうで、自分の心さえ思うようにならず、
体が弱っていく自覚はなかったが、帯がずいぶん余るようになって、
ようやく痩せ細ったことに気付いて驚くのだった。

「こうして人知れず物思いに耽って死んでしまうよりは、
せめてこのように思っていたことだけでも知らせてから死んだ方が、後生の妄執も浅くなるだろう。
けれども誰を頼ってこのような話を告げるべきなのか」
男は日々思い悩んでいたが、数日経ったころ、想いはいや増しになり、
「もう死んでしまおう」と思い立った。
「しかし我ながら、なんと儚い心だろう。
天下に何か事が起きれば、主君の信長卿の先手に進んで、屍を刃の上にさらし、
名を戦場に上げようとばかり思い入れてきたというのに。
それが無駄な恋患いで死んだとなれば、これまでの忠志など跡形もなくなり、
魂は愛欲に犯されて六道四生に迷うことになる。
もう、恥も外聞も捨てて、あの勾当にひたすら頼み込んでみよう」と考えると、
男はすぐに例の宿所へと赴いていった。


以上、テキトー訳。まだ続きますが何か。

不破「あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら!」
っていうか、二人は恋仲じゃないですしおすし。
男の絶賛片想い中ですし。

いやいや、12月のこんな時期にこんな話だなんて、あんまりよ正矩!
まあ読むスピードは自分のせいなんだけどw
そっ、それに道行くカップルが羨ましいとか、そんなんじゃないんだから!
鬱々とした仏教話が続くかと思いきや、意外な方向に進んでいったので、
なにやらカウンターパンチくらった気分です_ノ乙(.ン、)_

しかし「一目見たあの人が恋しすぎて死にたい!」だなんて、
信長の馬廻のくせして……可愛いな、不破w
さて次回、不破は見事に当たって砕けられるのか!?
2012-12-04

宗教勧誘は間に合ってます

前回からすっかり時間が空いてしまったけど、
体調不良と忙しかったのとただぼけっとしてたのと、いろいろ重なったから。
それに漢文過多でよくわかんないんだもん(´;ω;`)

とりあえず前回のあらすじ:
上月城落城の際に腹を切った神西三郎左衛門。
籠城についてきていた妻も、夫と一緒に死出の旅路に赴こうとするが、
三郎左衛門の必死の説得で、女房は自害を思いとどまり、城を落ちていった。


神西の女房のこと(2)

こうして、神西の郎党たちは、その女房を身支度させて京都まで連れて上っていき、
とあるところに宿をとった。
女房は「出家をするのだから尊い知識人のいらっしゃるところに連れて行ってほしい」と言うので、
郎党たちは、「そういうことでしたら、何でも仰せに従います。
同じ御仏の教えではありますが、八宗十宗などといって、
さまざまな流派に分かれていると聞き及んでいます。
さて、どちらの宗門のお寺へお連れいたしましょう。
どこであろうとも、仰せのままにお連れしますぞ」と応じた。

女房がどこの寺がいいだろうと考えていたとき、念仏宗の僧が一人居合わせたのだが、
女房に向かって説法を始めた。
「とにかく女の身ほどつらいものはありません。
五障三従の罪が深く、十方の浄土にも入れてもらえずに、三世の仏の国からも厭われて、
仏となれるときは来ないのですから。
五つの障りというのは、勇猛で我欲が強くなければ男として生まれることができたのに、
雑多な欲望が強いために女人となってしまったので、帝釈天になれないこと。
清浄の行を行って垢や汗をかかないのであれば、四等の心を修め、四禅を尊んで梵天ともなれるのに、
邪淫をきわめて節操がないからこそ女人となり、梵天にはなれぬこと。
十善具足の三宝を敬い、両親に孝行をすれば魔王にもなれるのに、
軽率で従順ではないではないばかりに正教を毀損して女人となり、魔天にもなれないこと。
菩提道を行い、慈悲の心を修めれば輪王となれるのに、
清い行いがないために女人となり、転輪聖王にはなれないこと。
菩薩のような心をもって、一切の念を断ち切り、無我の境地を解せば成仏できるのに、
色欲に執着してしまう業のために女人となり、仏にもなれない。
これを五障というのです。

また毘尼母経にはこうあります。
『女人が出家しないから、仏の正法が千年続くべきところ、今は五百年も減じてしまっている』とか。
宝積経には、『女人は地獄の使いでありときどき仏の種子を断じ、見た目は菩薩のようなのに、
内面は夜叉と同じだ』とあります。
一度女人を目にすると、功徳を見失うこともよくあって、
たとえ大蛇を目にしたとしても、女人を目にするべきではない、とも説かれています。

こうした経文を見ると、女人が成仏できないのは嘆いてもしかたのないことにも思えますが、
古い言葉にも、『仏性は男女に隔てない。真理を識得すれば女もすなわち男となる』とも言われています。
また、法華経の堤婆品には『変成男女』のことが説かれていますし、
薬王品には『女としての本分を尽くせば、二度と女に生まれることはない』とも説かれています。
また仁王経には『多くの女人が姿を現して神に通じる』ともあります。

しかしそれは大昔の女人のことで、彼女らはとても優れていました。
今は濁った世の中で、末法の世の人間では、公は行きません。
倩女という娘から魂が抜け出たという話もあります。
また、劉鉄磨のような、利発で悟りを思うままに開いた女人だって、いくらでもいるとか。

我が朝では、橘后が弘法大師に密教について、
『法をよくわかっている者はいるのか』と問いかけたそうです。
弘法大師はこう答えました。『大唐に物心宗があり、これは達磨大師が伝えてきたものです。
だから彼の地に行きたいのです』と答えました。
この空海は、まだ見聞は浅かったのですが、日夜励んで、ついにこの道を究めました。
しかしこれらは皆、本来の教えとは別に伝わっているものなので、
愚かな女の身で、どうして仏性を悟ることなどできましょうか。
祖師の意図するところには到達できないと思います。
阿弥陀如来は、五劫思惟生因、十八本願に、すでに十方の衆生を救おうと誓っていらっしゃるのですから、
それに女人が含まれていないわけがありません。

弥陀経には、『もし善男善女がいるならば、阿弥陀仏の教えを聞け。
その名前を心に、一日から七日の間、一心不乱に唱えれば、その人が臨終のときには、
阿弥陀仏が多くの聖人たちとともに降臨してくださる。
その人々が目の前に姿を現せば、人は生命が終わるときに心を乱すことなく
阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる』とあります。

また阿弥陀如来は、誓願の三十五に、とりわけて女人の往生を誓っています。
その文には、『私が十万無量不可思議を会得したら、諸仏世界は私の名を唱える女人のために開かれる。
歓喜して往生を信じ菩提心を起こし、女の身を厭うことはせず、
寿命が終わってからまた女の身に生まれることはない』とあります。
ですから、善導の説にも、『弥陀の本願の力があるからこそ、女人も仏となることができる。
まさに命が終わろうとするときに、女人から男子になれるのだ。
弥陀が手を差し出し、菩薩が身を支えてくれて、宝の花の上に座ることができる。
仏に導かれて往生すると、仏の世界に入り、ついに悟りを開く』といいます。
また、『もし弥陀の願力に頼らなければ、すべての女人はどんなに長い時間がたったとしても、
未来永劫女の身から解脱することはできない』とも書かれています。

韋堤希夫人は、如来が光明を放ち、十万仏土を現したとき、西方浄土を選んで西方の修行をしました。
依報が終わり、正報が始まって、第七華坐観に至り、仏は阿難と韋堤希に対して、
『よく聞いて、善を思念しなさい』と告げました。
仏はこの者たちを理解させ解脱させるために、苦悩を取り除こうとしていたのです。
『おまえたちはこれを会得し、大衆に説いて聞かせなさい』と言ったとき、無量寿仏が空中現れます。
観世音菩薩と大勢至菩薩の二大士がその左右に侍っていました。
盛んに光り輝いて、つぶさには見えません。
どんなにたくさんの閻浮檀金(砂金)であろうとも、この色とは比べ物になりませんでした。
韋堤希は無量寿仏を見て、その足に触れて礼をしたそうです。

また十六観を説き終わったときには、韋堤希は五百人の侍女とともに、
仏の身と二人の菩薩を見ることができたそうです。
心に歓喜がわきあがり、確然として大悟し、無生忍を得たそうです。
五百人の侍女たちは、阿耨多羅三藐三菩提心を発し、その国で生きることを願ったそうです。

阿弥陀の世に超えた悲願は、この濁世の下々の衆生を助けてくださる、親しみやすく修めやすい法なのです。
平等覚経には、『閻浮檀金を投じて、大きな仏像を一万三千体、千度造る功徳より、
念仏一返の功徳の方が勝る』ともあります。
ですから、あなたも弥陀の本願に願をかけ、誓願寺に行きなさい。
俗世を去って念仏三昧の暮らしに入り、夫の後生をよく弔うとともに、
自身の厭離江戸・欣求浄土の祈りも捧げるとよいでしょう」

念仏僧がそう言うと、神西の女房は、「では浄土宗に帰依しましょう」と答えた。
すぐに郎党たちを連れて誓願寺に参詣し、それから高僧に手ほどきを受けて出家した。
緑の黒髪を剃り落とすと、「その昔は振分髪も悪くないと思っていたのに、
今は打って変わって、『たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ(後撰集)』
という気持ちがよくわかる」と、袂で顔を覆って泣き伏してしまった。
その様子は、見るだけでも心が痛むものだったという。


以上、テキトー訳。まだ続く。

まー……坊さん、よくしゃべるなぁ。
毎度おなじみ女人成仏の話は、一通り読んだだけでうんざりしてるので触れないw
こうグイグイこられると、私なんかはがっつり引いてしまうと思うけど、
神西の女房はよくこの坊さんの宗門に入る気になったねw
アレかな、あまりにまくし立てられすぎて、正常な判断力がなくなって、
とりあえずこの状況から解き放たれたいと思うばかりに高額契約をしてしまう、
一種のセールストークと似たような効果があるのかな、この種の説法って。

というか、この女房はたぶんいい年だろうに、宗派の意識とかが薄かったのかな。
さあ出家しようって段階になって、ようやくどの宗派にするか悩むとかw
なんかおかしい……これくらいが普通だったのかしら?

とりあえず頭が疲れたので今日はこのへんで。
今週も夜はいろいろバタバタしてるので、週末まで更新できそうにない……_ノ乙(.ン、)_
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