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2013-01-25

押して押されて南前最前線

ちょっと会議に引き続き、突発トラブルがあったので日が空いてしまいまったが
私は生きてます(虫の息)。
岩国と北広島行くまで死ぬもんか(^ω^三^ω^)

さて陰徳記、だいたいの流れ:
織田が本願寺を大坂から追い落とし、毛利との緊張が高まるなか、
境目近辺では小競り合いが頻発していたようで、伯耆では南条元続兄弟が依然抵抗を続けていた。
同じころ、南方の境目でも動きがあったようで……


備中小倉合戦のこと

さて輝元様・隆景様は、備中小倉の城を攻めようと発向したが、
その城に付城を構えようとして、竹の庄に陣を移した。
福山に籠もっていた敵は、たまりかねて退散してしまった。
なので福山の城を接収して人数を入れ置こうと、有漢というところから福山へと陣を移した。
これを聞くと、一揆勢は皆自分の家を放り出して、小倉の麓へと集まっていった。

輝元様の馬廻の衆である、児玉小次郎元兼・粟屋与十郎元信・神田惣四郎元忠の三人を大将として、
同(天正八年四月十三日(十四日)の夜ごろに、在郷の一揆勢を薙ぎ捨てようと探し回ったが、
近隣には敵は一人もいなかった。
三人は、敵に会うまでは帰れないと考えて、若さゆえの血気盛んさで三里ほど走っていき、
夜が白々と明けるころに、小倉の尾首へとたどり着いた。

城中でもかねてから覚悟していたことなので、
弓・鉄砲三百余挺を抱えた者たちが峰や谷へと走り渡り、敵を射立てる。
寄せ手の足並みは乱れ、すぐに引き色になった。
粟屋与十郎は駆け回って、味方を勇め、乱れた備えを立て直そうとしたけれども、
なかなか簡単にはいかない。
けれど粟屋はなかなかのつわものなので少しもひるまずに、味方を勇めるために駆け回った。
そこに、敵が雨のように弓・鉄砲を射掛けてきた。
粟屋は体を射貫かれて馬から真っ逆さまに落ち、死んでしまった。

こうして一備えの大将が討ち死にして、そのうえ地理にも詳しくない。
夜中からどれだけ走ったのか、血潮の滾るままに遅れるものかと走ってきたので、
皆の体も疲れきっていて、しかたなく退却を始めた。

これを見て敵は、「兵法では、敵の疲れに付け込むのが一番いいのだ」とばかりに、
追いかけてきて散々に射立ててきた。怪我人や死人も多くなり、逃げ切れそうにない味方もいた。
児玉与七郎・奈古屋与七郎・井上源右衛門元勝・小寺右衛門・宇多田藤右衛門などは
ところどころで取って返し、敵と渡り合って討ち死にした。
神田惣四郎も四ヶ所に傷を負い、もう絶体絶命かと思われたが、
粟屋孫次郎が神田を自分の馬に乗せ、自分はしんがりを務めて退却した。
輝元様は孫次郎を大いに感賞した。

児玉小次郎元兼は、何度も取って返して敵を追い払い、味方を助けた。傷を数ヶ所負った。
しかし父にも劣らぬ大の剛の者だったので、少しもひるまずに小高い場所に上り、
「児玉小次郎なり」と名乗って控えていた。
これを見て、退却しようとしている味方の勢が同じ場所に数百騎馳せ集ってきたので、
敵はこの威勢に辟易して、かかってくることができない。
熊谷玄蕃はずっと児玉と一緒にいて、活躍した。

井上七郎兵衛尉も、何度も取って返しては大弓に大きな矢を番え、数人を射伏せた。
岡宗左衛門も高い場所に馬を乗り上げて下知をし、味方を助けながら引いていく。
なおも敵が後を追ってくるので、三沢摂津守の手の者で野尻蔵人という者が取って返し、
しばらく敵と戦っているその隙に、味方は遠くまで逃げ延びることができた。
河原六郎右衛門も取って返し、追いかけてくる敵を一人馬上から突いて落とすと、
その首を取って差し上げた。勇壮な振る舞いである。

山県三郎兵衛尉は粟屋与十郎と非常に仲のいい友だったが、
敵に押し隔てられて岡山まで退却すると、そばにいた者たちが
「なあ三郎兵衛尉よ、粟屋が討たれたのを知っているか」と声をかける。
山県は「なんと、与十郎が討ち死にしたのか。
日ごろから、死ぬときは一緒だと約束していたのに」と言って取って返し、
小倉の麓へ攻め寄せてたった一人で坂の途中まで上って行った。

「山県三郎兵衛尉という大の剛の者である。
とある理由があって、討ち死にしようと思ってここまで来たのだ」と名乗ると、
「なんと強い者だろう。自分が討ち取って高名してやろう」と、
二、三十人ほどが競って打って出てくる。
山県は討ち死にすると思い定めていたので、無二に駆け入って散々に戦い、
ついにそこで討たれてしまった。

敵も福山から引き上げていった。
この日討たれた者は、雑兵を含めて百三十余人だという(加茂崩れ)。
輝元様は味方が深入りしたことを聞いて、危ないと考えたので、本陣を五十余町ほど寄せた。
敵はこれを聞いて、深追いすることができなかった。

さて、福山は敵の方にせり出している山で、
しかもこちら側からは渡りづらい川を隔てていたので、地の利が悪いということで、
川より西の勝山に城を築いた。
五月三日、桂源右衛門・赤川次郎左衛門・岡宗左衛門、
並びに三村の郎党の竹井宗左衛門を添えて差し籠めると、
輝元・隆景は松山へと引き上げていった。

堀田の加茂(小倉)の城には、伊賀左衛門尉(久隆)が立て籠もっていたが、
直家は何を考えたのか、伊賀の家人の川原四郎右衛門という者を引き込むと、
「おまえが主君の左衛門尉を討てば、多くの所領を与えてやるぞ」とそそのかした。
川原は了承し、馬の血出をするのを口実にして、主人の左衛門尉を招き入れ、
毒を盛ったので、左衛門尉は翌日死んでしまった。

その子の伊賀与三郎は明石飛騨守の婿だったが、
その城にいた親類の誰かがこのことを知らせたのか、
伊賀の城を出て安芸の国へとやってきた。
「なかなかに大忠の者である」と、すぐに隆景様が所領を宛行ったそうである。


以上、テキトー訳。

おおおおお、負け戦、久しぶりだけどけっこうキツイな。
読んでて涙目になってくるわ。
慎重な景さまも一緒にいたのに、どうしてこういう軽挙があるのか不思議だけど、
輝元の馬廻衆が大将なら、まだ若いだろうし、
いつも輝元のそばにいるんだから、前線で戦う経験も積んできてないよね。
是非もなす。

さてさて、粟屋与十郎と山県三郎兵衛尉の美しい友情物語が出てきたね。
「死ぬならともに!」っていう友人同士って、ついつい裏読みをしたくなるよな……
おまえらデキとるんとちゃうんかい。
ええ、私の頭がくさってるからこんなことを思うわけですけれども、
この時代は男色なんて掃いて捨てるほどあるだろうし、穿ちすぎなわけでもないと思うのよ。

さあ、次の章は……とページをめくったところで愕然としました。
陰徳記の下巻、読み終わった……!!!
いや、訳が面倒な仏教話をすっ飛ばしたりしてるんで、厳密には終わってないけど。
ひいいぃぃぃ、上巻は読んでない章ばかりなので、次からはそちらを読むことになりそう。
どこから手を付けるのかは決めてません!!!←威張ることじゃない
あと、そろそろ目次もちゃんと整理したいと思います。
ちょっとずつやっておけばよかったなぁ……

ちなみに、今回の章の次の章はこちら
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2013-01-22

久々の伯耆戦線

だいたいの流れ:
ここ最近までは、信長と本願寺勢の合戦模様をダイジェストでお送りしたよ!
とりあえず信長は何度工夫して攻めてみても、石山本願寺が落ちないので、
朝廷に働きかけて(というか脅して)、顕如上人らをやっと退去させたのだった。

さあようやく毛利領近辺、今回は伯耆のお話だ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙


戸磨利の城合戦のこと

伯耆の国の戸磨利の城には、杉原播磨守の婿、
河口刑部少輔久氏がわずか百五十ほどで立て籠もっていたが、
もともと精鋭の勇士だったので、ややもすれば南条の兵とかけ合って追い立てていた。
元続兄弟は「いざ戸磨利の城に攻め寄せ、一夜討ちをして切り崩そう」と会議をすると、
武田源三郎を伴って、その勢三千余騎で、同(天正八年)十二月二日、河口の城へと攻め寄せてきた。

この城はそれほど険難な地ではない。
それなのに、河口は自分の勇を頼りに、わずかな勢で立て籠っていたのだった。
元続・元清らは、「河口久氏がいかに強いといっても、どれほどのことができるというのだ。
さあ乗り破ってしまえ」と下知をした。

南条の六組の組頭、山田越中守・南条備前守・一条市助・赤木兵太夫・
山田左介・同畔介などは我先にと攻め上がり、
門や櫓の下にぴったりとくっついて、一気に攻め崩そうとする。
河口が弓・鉄砲を間断なく撃ち出すと、寄せ手には死人や怪我人が数百人に及んだ。
寄せ手が浮き足立ったところに、城中から数百人が門を開けて突いて出てくる。
寄せ手は一たまりもなく、一気にさっと引いていった。

城中の兵は小勢だったのですぐに引き返したが、
そこに南条の郎党の山田佐助・豊岡左京亮・一条市助、
また武田の手勢の中原弥介・同市太夫が押し返し、敵を追って城中に入ろうとした。
しかしさすがに名高い河口刑部が、門櫓で下知をなしていたので、
「あいつの矢先に立てば、命を失うのは目に見えている」と恐怖して、
皆切岸の陰に控えていた。

中原市太夫ただ一人が門の前まで追い詰め、逃げ遅れた敵一人を突き伏せて首を取った。
これを見て、門櫓から久氏が、
普通の者が二、三人がかりでも張りきれないほどの大弓に大きな矢を番え、続けて三筋放った。
矢はすべて中原に当たったが、市太夫は武田の家に伝わる鎧、
南蛮鉄のかなめ物をつけていたので、体には一寸や五分ほどしか刺さらない。
中原は大の剛の者なので、矢が当たっても少しも騒がず、
討ち取った敵の首を打ち落とすと高く差し上げた。
「日来、出雲・伯耆・因幡・但馬では大の精鋭だと有名な河口刑部殿の矢を受けながら、
分捕りして帰る大の剛の者は、武田源三郎の郎党、中原市太夫であるぞ」と、
高く名乗りを上げて帰っていった。

これに勇気付けられて武田の手勢たちが攻めかかってきたので、
南条の手の者たちも我も我もと兵へ乗りかけた。
しかし城中の抵抗は強く、とりわけその夜は大雪が降って風も激しかったので、
弓を引こうにも太刀を握ろうにも、身は凍えて手はかじかみ、思うようにいかない。
皆仕方なく引いていった。

源三郎は中原の勇を感賞していたとき、「ところで河口の矢はどうだった」と問いかけた。
中原は「三つとも命中し、その上鏃が五分あるいは一寸ほど突き刺さりました」と答える。
武田は、「この鎧は、先祖の国信が五人張りの弓で精鋭に射させても、
一つとして貫通することはなかったのだぞ。
他の国ではどうか知らないが、我が日本では、この五人張りより強く弓を引ける者はいないだろう。
この鎧さえ着ていれば、楯を用意する必要はない。
素晴らしい勇士の重宝であるということで、これまで秘蔵されてきたと言い伝えられている。
それなのに、今回久氏の矢が貫通したということは、久氏は古今無双の精鋭に違いない」と、
舌を巻いて震え上がった。

河口はこれを夢にも知らず、夜のことなのですべて的をはずしたと思って、
「十間も離れていない目の前の敵を、三筋も射外したのは、我が生涯の恥辱だ。
もう弓をとっても意味がない」と言って、弓を粉々に切り折って捨ててしまったのだという。


以上、テキトー訳。

わーい! 杉原さんやー!!! と喜んでたら、盛重の婿さんの話だったね。
私のときめきを返せ。と思ったけど、なかなか楽しい章だった。
でっかい弓を軽々と引いて的(敵)に命中させるってのは、
何か当時すごく憧れられた技術なんだろうか?
市川さんも弓の名手だったような気がする(うろ覚え)。

つれづれと気になること。
・門櫓が標準装備だけど、いつから門櫓ってポピュラーになったんだろう?
・南蛮鉄の鎧って、まさか先祖代々の宝なわけないじゃん……?
・主君武田の重宝の鎧を、どうして郎党が着ているの?
とまあこのへんかな。勉強足りなすぎて気になることばかりだよ_ノ乙(.ン、)_

そして今回はオチが秀逸だね。
河口は勘違いから弓を壊してしまった……ってアンタ、短気すぎだと思うよ。

さて次は南方のお話。
だが私は明日の夜会議なので更新は難しいorz
2013-01-21

信長と本願寺の泥沼

だいたいの流れ:
信長は大坂の城を手に入れようとして、何度も本願寺に襲撃をかけたが、
地の利堅固で各地から馳せ集った精鋭たちや鉄砲の量などに押され、
戦利得られないばかりか、主力の兵まで討たれてしまう。
天正四年、ついに信長は総攻撃をかけたが、この合戦も大坂勢の勝利に終わった。


大坂所々の戦のこと

同(天正四年)六月十四日、本庄の出城で合戦があった。
同五年八月、天王寺と勝曼の塔の間で合戦があった。
敵味方が二千余り討たれたとのことだ。
天正五年・六年・七年の三年間、佐久間右衛門尉が本願寺に度々夜討ちをかけて忍びを入れたが、

あるときは開山の御影に汗を流し、または影供の鉢が二つに割れ、それにとにかく用心が厳しかった。
敵を数人討ったこともあって、また田甫の砦で何度も合戦があった。
端の坊を大将としたときは、小船をしっかりとこしらえて、
水上を自由に動き、敵の大船を打ち破り、比類のない勇を顕したそうだ。

中嶋では生嶋権五郎・北村新介・同新太夫が、武藤弥平兵衛と戦って勝利を得、
武藤を討ったことは大坂方には伝えられているけれども、
深手を負っただけだったのか、『信長記』には武藤は病死したと載っている。真実はわからない。

同六年、尼崎でも何度も合戦があった。
同七年三月十六日、大和田で合戦があったが、戦の途中で大地震が起こって馬が驚いてしまったので、
備えが乱れて寄せ手が逃げ崩れ、水に溺れて死んだ者が多かったそうだ。

また信長が貝塚に陣を据えたとき、紀伊の一揆勢ならびに根来寺の宗徒が二万程度で打って出たが、
紀伊の一揆勢が一戦すると、信長は七万余りの大軍だったので、
たちまち一戦に負けてクラカリ峠へと引き退いた。
このとき根来の宗徒は五千余りで山上に陣を据えていたが、
とても叶わないと思ったのか打って出ることはなく、ただ遠くから見ているだけだった。
これで紀伊の一揆勢は易々と討ち負けてしまったそうだ。

一揆勢は戦に負けたことを無念に思って、再び一戦して先日の恥を雪ごうと、
奥熊野の那賀郡の者をかき集めて、三万余りで打って出た。
信長は何を思ったのか、一戦もせずに早々に引き上げていったそうだ。

その後根来が寝返ったということで、雑賀の者たちが根来衆を討とうとしたところ、
根来衆が再三申し開きをしてきたので、赦免されたという。

雑賀口の一揆の合戦の配置は、総軍勢の監督は鈴木源左衛門、
先備えの大将は山内三郎太夫・高橋監物・西之口平内太夫・原平馬・天井浜主計、
他国の加勢の大将は鈴木孫市・的場源四郎・佐武源左衛門、
合戦で弱いところに加勢する浮武者の大将は高松三允・打越藤左衛門・津屋十郎左衛門・
高仏十郎次郎・土屋平次郎・和歌藤左衛門らであった。

那賀郡の配置はわからないので、尋ね聞いてから記そうと思う。
門跡が籠城している間の合戦の様子は、ここまで聞き及んでいる。
遠国なので詳しいことはわからない。再びよく知っている人に問うてみたい。


以上、テキトー訳。

久しぶりに出た、正矩の「遠国のことなのでよくわからない」w
こういう姿勢は、だいぶ好感が持てる。
わからないことをわからないと書ける勇気って、大事なんだね……
いや、たまにぶち当たる論文とかが、余計な補完やら推量で、
さも真実めかして書いてあったりするからさ。
しかしあれは確信犯だな。史料の曲解や恣意的な抜粋なんかをする先生方も多いよねw
こういうのに慣れて笑い飛ばせるようになりつつ、私も気をつけないと。

『陰徳太平記』を世に出した宣阿の代になると、
毛利家の物語もさらに深い意図をもって変造されていくようだけど、
いつか読み比べてみたいな。
もちろん、『安西軍策』や各種覚書、その他軍記なんかもね。
こういう方向に行くと、思想史まで絡んできて大変なことになりそうだけど、
まあ、いつかの夢ってことで。

さて次章、ようやく毛利家近辺の話に戻りそうな感じです♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
2013-01-20

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

うい~っ、webで見られる資料をダウンロードする作業を再開したわけですが(webだと読みづらいので)、
ひたすらクリックするだけで時間が流れる、この虚無感をどうしたらいいの。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
大坂石山の地を我が物にしようと押し寄せる信長、地の利を活かして防ぎ戦う門徒たち。
信長勢が攻め寄せるたびに追い散らしてきた本願寺勢だったが、
いよいよ信長本人が痺れを切らして、自らやってくるぞ!


大坂大寄せのこと

信長は、大坂表の味方が何度も利を失い、
その上原田備中守をはじめとして主力の兵が五百余騎討たれたと報告が入ると大いに腹を立て、
「では大坂を一気に攻め破って、原田の孝養としよう」と、京都を打って出た。
このことは、京都、そのほか伏見・鳥羽・淀あたりに住んでいる門徒たちから、
櫛の歯を引くように本願寺へ告げてきた。

大坂でも、顕如父子四人、そのほか一門・家老たちが集まって、
「信長は来る六日に大坂に総攻撃をかけてくるそうだ。
合戦の作戦を立て、どうにかして勝利を得よう」と会議をした。
そして総軍勢へも酒や肴、果物などを振舞った。

同五日、上人はあちこちの矢倉に上って、諸軍勢に対面した。
上人が「合戦の作戦は、それぞれの大将に言い渡してあるから、下知に従うように。
後生の道のことについては、一念発起、平生業成のものだから、
心配しないように」と言葉をかけると、皆ありがたさに合掌し、感涙を流した。

戦の準備としてあちこちの出城に勢を増やし、中でも鉄砲を大量に構え置いた。
諸軍勢六万余騎は大坂石山の城に立て籠もり、柵や逆茂木を五重に構えて、
その内側に五間ほどもある空堀深々と掘り、またその後ろに総掘をめぐらした。
合図は早鐘とも決まった。
浮武者(特定の戦列に加わらず、臨機応変に味方の援護をする)として、
下間三位・八木駿河守・鈴木孫市・同一楠・田辺平次・根来の小蜜茶・山田新介を大将として、
六万騎のなかから屈強なつわもの七千余騎を選出した。
この浮武者が敵にかかって一戦した後軽く引き、敵を引き寄せて
地の利を活かし勝負を決しようという作戦である。
そして本坊に籠もっている兵四万三千余騎は、先祖を調べ、人柄を吟味した、
敵に寝返る心配のない者たちであった。

信長は五日の日に河内の若江の城に着き、八万余騎を三段に分けて、
同六日の卯の刻(朝六時ごろ)に天王寺までやってきた。
勝曼の塔、木津、森の出城の者たちは、
「ここが最前線だから載り破られるわけにはいかない」と、
鉄砲に弾薬を込め、矢束を解いて待ちかけていた。
信長も、「これまで筒井や原田らが戦利を得られなかったのは、
あちこちの出城から打って出てきた援兵に不意を撃たれたからだ。
小敵であっても侮るなよ」と言って、出城ごとに押さえの兵を差し向けた。

こうしたところに、大坂の七千の浮武者たちが敵を引き出すために駆け出してくると、
敵の先陣へとしきりに鉄砲を撃ち掛けた。
寄せ手の先陣は佐久間右衛門尉・池田などだったが、敵が小勢だとわかると、
追い立てて高名しようと進んだ。
大坂勢には鉄砲の名人が多かったので、入れ替わり立ち代わり撃っていると、
寄せ手の前面の備えが撃たれてばらばらと倒れていく。
これに少々ひるんだ敵に、大坂勢七千余騎が一丸となってドッと突いてかかった。

佐久間・池田らは渡り合って散々に戦ったので、大坂勢は少々突き立てられ、
少しも進めずにさっと引いて元の場所に備えた。
信長はこの様子を見ると、「あんな小勢に時間をかけている場合か。
とっとと討ち取ってしまえ」と下知をなし、自ら真っ先に進もうとする。

羽柴筑前守秀吉はこの形勢を見ると、「この秀吉がいないときにこそ
御自らお手を砕いてくださいませ」と言って、一直線に突きかかっていった。
黒田・蜂須賀・中村・堀尾・尾藤・神子田などの者たちも真っ先に鑓を入れ、
「エイエイ」と声を上げて進んだ。これを見て、諸軍勢も一気に打って出る。

大坂勢はもともと敵を誘うために退いたのである。
羽柴という大剛の大将に突き立てられ、大坂目指して退いていく。
信長は大音声を上げて「この勢いに乗じて城になだれ込んで乗っ取ってしまえ」と下知をなし、
逃げる兵を徹底的に追わせた。
大坂勢七千騎は、かねてから引くべき場所を決めていたので、
七手に分かれて柵の内側へと引き上げていった。
敵は追いついて、柵の木を切り破ろうとする。
大坂勢は柵を破られまいと鉄砲をしきりに撃ちかけ、身命を捨てて戦った。

寄せ手は、昔から強将の下に弱兵なしと言われているように、
大将は信長、それに従うのは羽柴などの人々である。
足軽などに至るまで、勇気盛んな者たちだったので、射られても突かれてもひるまずに、
五重の柵の五寸や六寸の太い木を半分ほど揺り立て、固めてある縄はすべて切り破った。
五間余りの空堀は死人で埋め立てて平地にし、仮設の塀一重を隔てて楯と楯を突き合わせ、
幟と幟が交わるほどに近づいて攻め戦った。
あまりに間近に詰め寄られて、大坂勢は弓も鉄砲も役に立たなくなった。
鑓・長刀・太刀ばかりでの最後の勝負となった。
かろうじて鉄砲を撃ち出しても、その火は自分の身を焼くようなものだった。

敵味方の人々は交互に鬨の声を上げ、それは数百数千の雷電が黒雲を帯びているかのようであった。
けれどもまだ合図の鐘は鳴らず、寄せ手は勇み誇っている。
もう仮塀が打ち破られてしまうと、危機一髪に思えたところに、このときとばかりに、
顕如上人が「一声称念の利剣を揮い、八万四千の修羅を降さん」と、
赤い衣を着て高櫓に姿を現した。
これを見て、天台・真言・法相・三論・禅・浄土、諸宗誹謗の日蓮宗などの者たちは、
「あれを射伏せろ」と鉄砲で狙い撃ちにしたが、
猛勢が詰め掛けているので手元がまったく自由にならない。
筒先はあさっての方向を向き、上人の近辺に当てることさえままならなかった。

浄土真宗の門徒たちは、上人が姿を見せるや否や、撃つことはさておき、
皆頭を地につけて、すべての雑念を捨て、一心に
「阿弥陀如来、今回の我らの一大事、後生をどうか助けていただきたいと、
一途に阿弥陀如来に頼みをかけてきました。
その頼みをかけた一念のときに、私の往生は定まったと心得ております。
阿弥陀如来のお助けのご恩、ありがたく思います」と念仏を唱えだした。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えて感涙に咽び、
弓・鉄砲さえも地に投げ出しそうな様子である。

上人が金の団扇で敵の方をひらひらと指し示すと、宗門の者たちはこれを見てまた合掌し、
「このような道理を聞くことができ、入信できたのは、
ひとえに御開山様が世に現れてくださったご恩によるものだと聞いている。
真の善如識様が地上に権化なされたことをご恩だと、ありがたく存じて仰せ出だされたのだ。
わが命の一期の間、そのご慈悲をもって見守ってくださっていると思っております」と呟き、
鑓・長刀で突くことや切ることさえ忘れて、「南無阿弥陀仏」とばかり唱えていた。

城中の兵たちは、上人が出ると同時に、一命の惜しさも敵の恐ろしさも忘れ果て、
ただ一筋に「如来・祖師ならびに現在の上人のご恩に報謝するために討ち死にするぞ」と思い定め、
矢間から鑓を突き出す者もあり、まあた塀の破れから切って出る者もあった。
一気に敵をくじくために、命を塵芥よりも軽く思って防ぎ戦う。

こうしたところに、紫の絹に「南無阿弥陀仏一心不乱」と金泥で書いた旗をさっと差し上げると、
早鐘がジャンジャンと突かれた。城中の兵たちの働きがすさまじかったのか、
また早鐘に何か意味があるのかと臆病神が背後に乗り移ったのか、
何事かは知らぬまま、寄せ手は南東の方角から裏崩れして、南西の方へと退却した。
羽柴・佐久間・筒井などの諸将は言うに及ばず、
備えごとの将たちも「なぜ崩れてくるのだ。返せ、戻せ」と下知したが、
大勢が浮き足立ったので、吉野の滝を素手で堰き止めるようなもので、
総軍勢は一気にドッと瓜が潰れたようになった。
城中にいた浮武者七千余騎は、「それ見たことか。敵が退いてゆくぞ。
追いかけて討ち取ってしまえ」と、我先にと打って出る。

寄せ手は八万に余る大勢なので、引き返して防ぎ戦おうと思う兵は幾千万もいただろうが、
浮き足立った大群なので、共崩れになってしまった。
寄せ手が後ろも顧みずにひたすら逃げていくので、大坂勢は天王寺まで追い詰めて切り捨てにしていった。
けれども大坂では、「さしもの名高き信長なのだ、またどんなことを仕掛けてくるかわからない。
勝って兜の緒を締めよとは、こういうときのことをいうのだ」と気を引き締めた。
櫓ごとに鉄砲を構え、門・塀の担当はそこを離れずに兵を置き、門外には一人も出ずに控えた。

近国から集まってきた門徒たちは、あるいは老年、または年端もいかない子供も多かった。
志はあっても、籠城戦となれば親は子の足かせになり、
子は親に後ろ髪を引かれてしまうだろうからと、皆家の中に籠もる者もあり、
または山上高く上って大阪の方を見やり、戦況はどうなっているのかと心配する者もいた。
彼らはたまりかねて、二十人や三十人で連れ立って大坂の近くまで来ており、
それが方々から集まったので、一万人以上にもなった。

この者たちは寄せ手が引いていくのを見ると、岸の上や藪の陰から石で打ったり、
棒や竹竿、鎌、手斧で叩きかかる者もいた。
逃げることしか頭にない寄せ手には、竿も棒もすべて鑓・長刀に見えたので、
「ここにも敵がいる」「あそこにも伏兵がいた」と思って、
散り散りになって足の限りに逃げていった。

老武者や、肥え太っている者で馬とはぐれた者は疲れて倒れ伏し、
または休んでいた者もいたが、それを押さえつけて首を取り、鎧を取り、
鑓・長刀を奪い取って、集まってきた一万人の者たちの多くは一端の武者になった。
この勢いで老い衰えた足もしっかりとしたので、屈強な武者たちをその後も数多く討ち取った。
死んだ者たちは、こうして易々と老人や子供に討たれるような兵ではなかったが、
信長が邪険放逸で仏敵法敵となってしまったがゆえに、諸仏の冥罰を蒙ったのだろう。
骨折り損のくたびれもうけで、鯨魚が横を螻蛄や蟻に制されてしまったかのようだった。

こうして総軍が崩れて退いても、信長はなかなかの大将だったので、
天王寺に兵を引き入れるとすぐに軍士に下知をなし、
「この勢いに乗って大坂から逆に攻め寄せてくるかもしれない」と、
備えの用意をさせて待ち受けさせ、少しも臆した様子は見せなかった。
寄せ手は数千余騎が討たれ、大坂勢は十人も戦死しなかったということだ。
信長がこの鬱憤を晴らすためにまた攻めてくるのではないかと大坂勢が思っていると、
翌日の早朝に、信長は細川兵部大輔藤孝とともに若江の城まで退いていき、
敵の押さえとして天王寺に佐久間父子を残していった。


以上、テキトー訳。

ちょっとこの章は、私にとってはだいぶ衝撃だったわ……
まず信長、降格した原田でも、自分の部下はやっぱり大切なんだね。
あと秀吉、本願寺攻めにいたのね。
「この私がいるんですから、大将は引っ込んでてください!」とか、カッコイイじゃねーのw
黒田ってあるのは、クロカンさんのことよね?
いたの……ぜんぜんイメージなかった。けど、時期的にはいてもおかしくないのかな?
調べたい気持ちはあるけどとりあえず置いておこう。

衝撃的なのは、まあ一向宗の動きですよ。
正直ちょっと引いた_ノ乙(.ン、)_
顕如上人、顔出すだけで士気がおっそろしいことになるって、どんだけ。
読んでてゾクゾクして楽しかったけどね。
逆転大勝利とか、ドラマ性があるもんね。

あと、方々から集まってきた門徒の人たちもおっそろしいね。
棒・竿・鎌・手斧……正直、鑓・長刀よりも、こういうのが武器になってる方がゾッとする。
身近にあるものが立派な武器になるんだよね、というこを再認識させてくれるからね。

てなわけで、まだもうちょっと大坂の話が続くようです。
2013-01-20

浅野幸長と黒田長政の話

吉川ネタなどを渉猟中に、たまたまナイス!なお話を見つけたので、
なんとなく訳して掲載。
しかし吉川関係ないよ。
ついったで呟こうか別のとこに投稿しようか迷ったけど、
呟くには長すぎるし、投稿するにはまとめ切れんので、こちらでw


黒田長政、紀伊に幸長の病を訪なう

浅野幸長が病のため江戸への参勤を控えていると、
ある日突然、黒田長政が小船に乗って紀伊の城にやってきた。
見舞いのためだというが、そのころの法度では、
大名は互いに国もとに見舞いに行くことを固く禁じられていた。
幸長は城に長政を招き入れ、終日話をした。

日が暮れて、「須本に船を着けているから、これから帰る」と言う長政を、
「この港は見た目とは違ってたいそうな難所で、小船でさえ簡単に出られないのに、
日が落ちてから大船で出るのは無理だ。泊まっていってほしい。
せっかく見舞いに来てくれた人に怪我をさせるわけにはいかない」と引き止める幸長。
長政はその夜の帰船をあきらめ、夜通し幸長と話をして、早朝に茶の湯をしてから出発した。

幸長も、自分の家老や物頭たちを船に乗せ、自分も乗り込んで、川口まで長政を送っていく。
道中、家臣たちを一人ひとり長政に紹介し、長政も彼らに言葉をかけた。
河口に着くと、長政は自分の船に乗り換えたが、
幸長は小姓の永原大膳を小船に乗せ、長政の案内のために差し出した。
そのとき幸長は、小姓に「大膳、絶対に沖を案内するなよ。
松江浜を通って加田の多倉崎へとお通しするように」と申し付けた。

さて永原の案内で船が進んでいくと、中松江で大波が一つ押し寄せ、
長政の船に覆いかぶさった。
何とかしのいで「やれやれ」と言っていると、また大波が来る。
大膳も大慌てになり、どうにか船に下知をして脱出させた。

須本まで到着すると、長政は大膳に色々と馳走して、
刀などを与えてから幸長のところに帰した。
幸長は川口浜で幕を張り、酒宴をしていたが、
「永原の船が見えました」と報告が入ると、幸長は大喜びでそれを待ち受けた。
大膳が着岸して、一通り別れの挨拶を済ませてきたと報告すると、
幸長は不機嫌になって、「それだけか」と尋ねる。

永原は赤面して、少ししてから話し出した。
「本日は困ったことがございました。黒田様のお船へと、大波が二つも当たったのです。
黒田様は屋形の戸を立てていましたので、あの程度では濡れなかったでしょう。
しかしそのほかの上士下士は、皆ずぶ濡れになっていました。
まったく難儀いたしました」と言う。

幸長はこれを聞くと上機嫌になり、
「よしよし、よくやった。それを聞きたかったのだ。さすがは我が小姓だ。
馬の先で役に立とうという者が、そんなことに気付かないわけがない。
あの筑前(長政)めは、家康の内意で見舞いに来ていたのだ。
この幸長が、江戸・駿府へ行かないのは悪意があってのことだと疑い、
様子を見てくるようにと申し付けたのだろう。ただの見舞いのはずがない。

もし明日にも幸長を退治するという話になったときは、
我が国の港ををよく知っているからと、筑前が西国から一番に船を出してくるだろう。
そうなったら大変だ。
今日こうして波を食らわせておけば、長政は「紀伊の港はなかなかの難所だ」と思うはずだ。
それに他の西国の奴らも、皆それを聞いて恐れるに違いない。
和泉方面から攻めてくるなら、敵は山越えをしなくてはならないから、
こちらが勝つに決まっている。

さてもさても、筑前めの肝を潰してやったわい。満足満足」
と言って城に入っていった。
(浅野長政公伝)


以上、テキトー訳。

おまいら、仲がいいんですか悪いんですかwww
幸長は深慮とかではなくて、ただ長政にいたずらしたかっただけじゃないの?
船旅多い長政が波くらいでビビるとは思えないし、
紀伊の地理知ってる人間なら他にいくらでもいるしな。
なんたってほら、長政は川に落ちても溺れながら敵と戦ったくらいの人ですしおすし。
ちょっとしたイタズラとして見ると微笑ましい気がする。

しかし長政、家康の密偵みたいなことしてんのな。
広家とのつなぎも長政だったっけ。よく働くこと。
広家も慶長12年には病気で参勤できなくて、疑われて、
長政が取り成してくれたから「ありがとう」って書状(しかも起請文)を送っていたはず。
まあ私は個人的に、この起請文には思うところあるわけだが。それは追々。

とりあえずこのお話は、近代デジタルライブラリーで読めます。
訳はだいぶ不安なので、気になったら原文をご参照くださいませ。

近デジ、たまに面白い話にブチ当たるからやめられない。
使い勝手悪いのに……><
2013-01-19

原田、会稽の恥を雪ぐ

昨晩は眠気に勝てずに早々に沈没しておりました。
そして今日も22時ごろからすでに眠気が……_ノ乙(.ン、)_<ぐぅ
どういうことなの。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
信長と本願寺籠城衆の対決、第二ラウンドが始まった。
大坂は地の利堅固なので、織田勢は度々合戦に負けていたが、
前回の大将を務めた原田備中守(旧名:塙九郎左衛門)は、なかでもひどい負け方をして、
付城の天王寺を追われたばかりか、逃げ込んだ住吉までも焼かれてしまった。


原田備中守、討ち死にのこと

さて原田備中守は、大坂勢を寄せ集めの一揆勢と同じだと侮って、
一戦のうちに追い立て切り捨て大勇を顕し、人よりも高名を稼ごうと考えて、
うかうかとかかって戦った。
しかし一揆勢とはいえ、鈴木など、紀伊で昔から活躍してきた御家人や役人たちが相手なのである。
土民の一揆とはわけが違う。
その祖先を調べてみると、今信長の将として名を上げている柴田・筒井・滝川にも劣らず、
ましてや羽柴・惟任などとは比べ物にならないほどの者たちであった。

その者たちが、宗門の信心を固め、義だけを心にかけて防ぎ戦ったので、
原田はたちまち一戦に負けてしまったばかりか、天王寺の付城まで追い立てられ、
その上住吉まで焼き払われてしまった。
これまでの武名は泡と消え、人々に「戦下手」と呼ばれるようになった。

原田は、「こうなっては命の永らえても何の意味もない。
きっと先日の勝ち戦と同じように、天王寺に敵が攻め寄せてくるだろう。
そのときに十死一生の合戦を遂げ、行きようが死のうが、
とにかく会稽の恥を雪がなければ」と考えた。

信長はこらえ性のない荒大将なので、原田が二度も戦に負けたという報告を聞くと大激怒した。
「この大の臆病者をまた天王寺に籠め置いても、再び落とされて、敵に力をつけてしまう。
天王寺には佐久間右衛門尉父子が籠もるように。
原田は長岡・荒木らの手に従い、大坂勢を押さえて天王寺の城を堅固に築け」と言い送ってきた。

原田はこれを聞いて自分の陣所に帰ると、家之子郎党を呼び集めて、涙をはらはらと流した。
「私はこれまであちらこちらで勇名を馳せてきた。
これは誰でも知っていることだ。
けれども天命が尽きたのか、先日は二度も戦で利を失ったばかりか、
天王寺の付城を落とされてしまった。
このせいで信長公は天王寺の在番を変更なさり、佐久間に仰せ付けられた。

こうなっては人に向ける顔がない。
手勢だけでいいから、これからすぐに大坂に攻め寄せ、
諸人の目を驚かす一戦をして、討ち死にしたいと思う。
最期の様子をよく見ておいて、故郷に帰ったら妻子に語ってくれ」
原田がこう言うと、皆「これまでの御厚恩に、今こそ報いるときです。
今回は我らもお供して戦死いたします」と申し出た。

こうしたとき、信長から「木津の砦を乗っ取れ。
この城に味方の勢を入れ置けば、大坂を攻めるには都合がいい」と下知があり、
検使として猪子兵介・大津伝十郎の二人が派遣されてきた。
原田は願ったり叶ったりと喜んで、最期の盃を一族郎党と酌み交わし、
同(天正四年)五月三日に出陣した。

先陣は三好笑岸・根来の衆徒、そのほか和泉・河内の加勢の者、
二陣は原田備中守と定めて、木津へと攻め寄せていく。
木津の城からは、下間出羽守・八木駿河守・木津の願泉寺・江戸報恩寺・本多土佐守・
鈴木孫市・同一楠・田辺平次・山田新介・村上利介・山名内記・益田少将などが打って出て、
鉄砲で散々に撃ちかけてきた。

三好は信長に一味した証拠として参戦しただけで、自分の身に必要な合戦ではない。
根来・和泉・河内の者たちは、心は大坂に味方していたので、一戦するとすぐに退却した。
原田は、「こここそが私の戦死する場所だ。
華々しく戦って、末代まで名を残そうではないか」と手勢に下知をすると、切ってかかった。

三好らも助けに来て、未明から戦が始まった。
敵味方入り乱れ、切りつ切られつ攻め戦う。
原田は今日が最期とばかりに戦ったので、その威力は過日の十倍とも言えた。
勝負はわからなくなり、いつになったら戦が終わるとも予想できない。
ただ命を限りと思ってばかりいると、巳の刻(午前10時前後)ごろになって大坂から出火した。
町の家屋が数十間も焼け、煙がカッと天に上ったので、
木津勢は「これは何事だ」と心細くなり、少し退いた。

原田は、「さあ敵が引いたぞ。進めや者ども、一人も逃がすな」と真っ先に進んだので、
寄せ手は遅れるまいと追いかけた。
十二人の侍大将たちは武勇の誉れが傑出していたので、ここで取って返さないわけがない。
あっという間に馬を引き返し、ここを先途と戦った。

難波の出城にいた河那部主馬助・八木左近・森三河守・野里三右衛門・西川新太郎・
佐々木将監・荒木信西軒・中村壱岐守も七百余騎で切って出ると、
鬨の声をあげ、ここを押し破ろうとして進んだ。

寄せ手が引き色になってくると、原田備中守は大音声を上げて名乗りかけ、
益田少将と渡り合って散々に突き合ったが、前の深田に落ちてしまい、益田によって討ち取られた。
益田は首を掻き切って高く差し上げ、「原田備中守を討ち取ったぞ」と叫んだ(天正四年五月四日と)。
これを見て、塙喜三郎・同小七郎・氏家左近進・箕浦無右衛門も、同所で枕を並べて討ち死にした。

こうなっては寄せ手はたまらずに一気に退却したが、
そこここで大坂勢は寄せ手を数百人討ち取り、天王寺まで追い崩した。
武者の首もたくさん取れたという。
とるにならない武者は討ち捨てにして天王寺へ追い込み、
そこの堂を少し焼き払って引き上げていった。


以上、テキトー訳。

原田はいい男だなぁ……
前の章読んで「ダッセwww」とか思ってたけど、ごめんね。
まあダサいことはダサいんだけどさ。やるときはやるじゃないのさ。
信長のお叱りもきっと、原田の死力を引き出すための餌だったんだよね多分メイビー。
……いや、でもうーん……現場下ろされるってのは、だいぶキツいよねorz

最近本願寺の話ばかりなので、大日本古文書などをチラ見しながら、
毛利・吉川成分をチュウチュウと補充する生活です。
手紙も読んでると楽しいね! あんまりよく意味はわかんないんだけど。
広家の家臣宛の書状を主に眺めていたら、ちょっと元気出たw
「苦労をかけるね」とか「病気大丈夫?」とか、家臣宛だからこういうのが多い。
まるで自分に言われてるようで……(*´∇`*)ハァン

体調が思わしくない方、仕事に疲れてしまった方は、是非とも脳内で、
好きな武将が「其方打続辛労入察候、気分如何候哉」などという
自筆のお手紙をくれる妄想をしてみるといいんじゃないかな!
広家は右筆に任せた手紙でも、たまに花押を置くついでに直筆の音信を添えてくれたりするよ!
そういうのって……何かがみなぎる……

さて次も本願寺だぜ~_ノ乙(.ン、)_<キッカワ……
2013-01-17

魔王の瞳の向く先は

だいたいの流れ:
西国攻めの要衝にするために大坂石山の地を望んだ信長は、
これを拒否した本願寺勢と全面戦争に突入するも、各地から集まってきた門徒に堅守され、
逆に敗軍を重ねることになった。
そこで信長はまず、越前などの本願寺門徒を征伐するために越前などに出兵し、
しばらくは本命の大坂には攻め寄せなかったが、
いよいよ信長の目が本願寺に向くときがやってきた。
顕如は檄文を回して、籠城志願の兵を募る。


森口表合戦のこと

天正四年四月十四日、信長は本願寺を攻めるために、
長岡兵部大輔(藤孝)・荒木摂津守(村重)・惟任日向守(明智光秀)・
塙九郎左衛門(直政)(そのころは原田備中守と名乗っていた)・
筒井順慶などをはじめとして三万余騎を差し向けた。
この勢は石山を攻めることはせず、まず森口表、大海・飯満の二つの砦の城を攻めようと、
二手に分かれて攻め寄せてきた。

大海は鈴木伊賀守が大将で、わずか三百余騎で立て籠もっていたが、
一万五千の勢を引き受けると、鉄砲で散々に射立てた。
寄せ手の先陣は射立てられ、怪我人や死人が大勢出たので、
歯が立たずに虎口を空けて本陣へと引き返していった。
飯満の城も寄せ手が利を失って退却した。
その日伊賀守の手で鉄砲を三百発ほど放ったが、無駄弾は三発しかなかったと言い伝えられている。

総じて大坂の出城、中間村・鴫野・野江・桜の岸などの要害は、
そのころは東西北の三方を一里や二里の池や大沼に面していて、
この地を熟知していなければ往来も難しく、馬の蹄で通れるところはなさそうだった。
南方一口しか攻め入る場所がないので、信長は計略をめぐらし、
天王寺へ勢を差し向けて、中嶋から不意を打とうと、度々攻めてきたという。


天王寺合戦のこと

同(天正四年四月)十八日、織田勢は天王寺に柵の木を結い、
塀などをところどころに据えて向城を構え、塙九郎左衛門を大将として立て籠もると、
まず勝曼の出城を攻め落とそうとした。
勝曼までの距離はたった五町ほどである。
木津の出城から人数を少し出して、筒井順慶の手勢と鉄砲競り合いをし、
足軽たちも押しつ押されつ戦った。

これを見て勝曼の城にいた下間三位・同源五郎・同源七郎・津筑次郎八・
堀尾願西寺などが一気に打って出て、無二にかかっていく。
筒井の足軽勢を一人残らず討ち取ると、勝鬨をあげて勇んだ。
天王寺にいた塙九郎左衛門はこれを見て、
「この付城に籠もった当初から、一戦して一揆勢を討ち取り、軍神に捧げようと思っていたのだ」と、
真っ先に進んで駆け出していくと、「あの勢を討ち取れ」と下知をした。
勝曼の勢は折りしも勝ちに乗っていたので、まったく臆すことなく無手と渡り合い、
一歩も退くまいと勇気をふるい、ここを先途と戦った。

こうしたところに、木津の城に控えていた鈴木孫市・同一楠・土橋平次・
山田新介・村上利介などが、「味方を討たすな」と言って、無二に切ってかかっていく。
塙は左右に敵を受けて防戦しており、命もここまでかと見えたけれども、
鈴木・土橋らに不意を打たれてしまったのでかないようもなく、城中へと退却していった。

しかし今日構えたばかりの付城だったので、塀一重すら満足にできあがっておらず、
付け入られて簡単に攻め破られてしまった。
塙は住吉目指して退却すると、社殿を拝借し陣を据えて控えるしかなかった。

ここに、いったい誰がこんなことをしたのか、
一首の狂歌を詠んで住吉の鳥居の前に立てかけた者があった。
「我が家の飯(はん)くらう左衛門 甲斐も無く住吉さして引くやしめ縄」
塙九郎左衛門は、今回の出陣前に「原田備中守」という名になっていたが(天正三年七月三日改姓)、
大坂ではまだそれが知られていなくて、このように詠まれたのだろう。

同二十三日、羽柴筑前守・佐久間右衛門尉が数万騎を率いて打って出てくると、
木津・勝曼を抑えておき、再び天王寺に付城を構えた。
こうしたところに同二十六日、磯辺勝願寺・摂津の仏照寺・鈴木・一楠らを大将として、
和泉・河内の血気にはやる若者たちが、不意に住吉へと攻め寄せてきた。
彼らは諸社に火を放ってことごとく焼き払い、攻め入ってきたので、
塙は猛火にむせて防ぎきることができず、またここも打ち破られて、散り散りになって退却した。


以上、テキトー訳。

いやいやなんとも……しかし本願寺、ホントに強いなぁ。
信長も、こういう流れで見ていくと、すごく魅力的な人だと思った。
最初の戦で負けても、自分はどうにか脱出して体勢を立て直し、
敵の外堀を埋めるための出兵をして、再度挑みかかる。諦めないんだよね。
しかし相手は地の利堅固にして物資も潤沢ときて、今回もダメで、
結局最終的には朝廷の力を借りたというか脅して利用して解決することになるんだけどさ。

負ける度に何かを学んで再度挑戦する姿勢ってのは、なかなかに好感が持てるもんだ。
船戦だって、一度毛利の水軍に敗れてその対策を万全にしてから再戦したし、
今回の大坂籠城衆を相手にして学んだことは、多分鳥取城の戦いとかで生かされたりしてるはず。
物資の補給路を徹底的に断つところなんて、本願寺で懲りたからじゃないのかな。

覇王のようなイメージで見ていたときにはそれほど魅力を感じなかったけど、
この本願寺との対立の話を読んで、工夫を重ねる努力家みたいな面が見えて、
私はだんだん好きになってきたな、信長。
ていうか、だいたい出てくる人は好きになっていくよねw たとえ謗られてても。

そんなわけで、まだしばらく本願寺合戦が続くよ!
2013-01-16

将を射んとすれば

だいたいの流れ:
西国の押さえにするために大坂の地を所望した信長だったが、
石山本願寺の顕如は譲ろうとしない。
そこで織田勢は隙をうかがって石山の城を攻め取ろうとするも、
各地から集まって籠城を固めていた門徒たちに返り討ちにされてしまう。


信長公大坂を敗軍のこと、並びに信長、伊勢・越前へ働くこと

同(元亀元年九月)二十日、信長は大坂表を退陣するとの噂があった。
大坂の城中では、「もしかしたらこれは信長の謀略で、退陣と発表して我らを油断させ、
一気に兵を出して不意に城を攻めてくるつもりかもしれない」と会議をして、
あちらこちらの砦へと加勢を入れた。
「敵は大軍なのだから、一人も後追いをしてはならん。
もし敵を追いかけるときがきたら、それぞれの大将から下知をすること。
下知もなく敵を追った者は、法敵仏敵と同じである」と、固く掟を定めた。

翌二十一日未明より、信長の先陣は淀川に沿って上り、
一つの付城に軍勢を籠め置くと、江口に船橋をかけて静かに引き上げていった。
大坂では若武者たちが忍びやかに森口に打って出て、六千余騎が一緒になって、
吹田・鳥飼に合図して摂州嶋上下二郡の兵を整えた。

二十二日の午の刻、信長が江口をわたると見るやいなや、
太鼓を打ち、貝を鳴らし、一丸となって攻めかかっていく。
けれども天下の武将に備わったほどの信長なので、退き口もいかにも完璧で、
一備えずつ真ん丸になって退いていたが、
大坂勢が後追いをしてくるのを見ると取って返して、馬を一面に立ち並べ、足軽を先に立てて控えた。
大坂勢も敵の備えが思ったより固いので、切ってかかることができない。
寄せ手も退却途中の大軍なので、進むに進めなかった。

こうしたところに前田又左衛門・柴田修理亮・和田玄蕃などが集まってきて、
一揆勢相手と見るや、一発攻撃をして蹴散らそうと、手勢数千騎を率いて切ってかかってくる。
大坂勢は難なく一戦で突き立てられ、散り散りになって退却した。
討たれたものは数知れない。
大崩れになった敵を見て、寄せ手がなおも追いかけて一人残らず討ち取ろうとしていると、
寄せ手の付城の一つから火が出て、周辺の陣屋もすべて焼けてしまった。
寄せ手は大騒ぎになって、前後の備えが一緒に、我先にと逃げていく。

これを見て一揆勢はあちらこちらから鬨を上げて攻め近づいたので、
淀川に逃げ込んで水に溺れて死ぬ者もあり、またそこの一揆勢に討たれた者もあった。
名のある武士は討たれなかったが、雑兵たちは数知れぬほど討たれた。
江口から山崎までは、草も木も打ち砕かれたようになり、死骸が道に溢れた。
信長は少しも怯えることなく、山崎に一夜陣を据え、京都へと帰っていった。

さて門主はこの様子を聞くと、今回討ち死にした敵味方の追善のために、
同二十五日から七日間、三部妙典を読経した。一日に三回の法事を執り行い、
その自他不二平等利益の志はありがたいものだったという。

信長は、大坂に攻め寄せた二度の合戦に一度も勝利を得られなかったので、
攻めあぐんで考え込んでしまった。
しかし羽柴・柴田・滝川たちが、
「大坂の城はただの長袖(僧)たちの寄せ集めです。攻め破るのは簡単ですが、
伊勢・越前・紀伊の三ヶ国の門徒たちが心を合わせて立て籠もっておりますので、
味方は勝利できませんでした。
まず越前・伊勢・紀伊、それに加賀・近江・播磨の浄土真宗の者たちを攻め滅ぼせば、
大坂は攻めずとも落ちましょう」と大いに諫言した。
信長は「もっともだ」とこれに同意し、元亀二年からは大坂にはまったく出陣せず、
伊勢の長島願証寺へと同年七月から攻めかかった。

はじめの合戦では戦利を失って、氏家卜全が討ち死にした。
その後は一揆勢の城を数ヶ所攻め落としたけれども、
約束を破って一揆勢を鉄砲で数百人撃ち殺したので、
一揆勢は大激怒して数千人で信長の六、七万の勢に切ってかかった。
一揆勢はどうにか信長の旗本にたどり着こうとしたものの、信長の運が強かったのか、
一揆勢が主力の一族の陣を信長の陣だと勘違いして切ってかかっていったので、
信長はまったく無事だった。けれども一族は数十人討たれてしまった。

その姓名を聞いてみると、信長公の伯父の津田大隈守・その弟の半左衛門・津田市の助・
弟の仙・同六郎・同孫十郎・赤見左衛門佐・大野佐次八郎・佐渡民部太輔・
坂井七郎左衛門といった者たちである。
このときの大将は下間三位という者だった。
あちらこちらの合戦で三百余騎が討たれ、七十余人が大坂に籠もっていた兵のさきがけであった。

また翌年の天正元年八月十五日に信長が越前に攻め入り、
浄土真宗の門弟たちを征伐したという報告が入ると、顕如上人は、
「あの国を平定したら、信長はまた大坂へ発向してくるだろう」と考えて、諸国へ檄文を回した。
それにはこうある。

 「今回、越前へと敵が侵攻してきたそうである。
  こうなれば、当寺も一大事の籠城をすることになるだろう。
  どこにも頼ることはできないので、今回志を起こし、
  一筋に籠城しようという心がけのある者たちが相談して参上してくれれば、
  実にありがたく頼もしく思う。
  なかでも、いつも言っていることだが、仏法の集まりについては、
  信心を固めたならば、いよいよ緩みなくたしなむようにするといい。
  まだ信心していないなら、片時も早く入信していただければありがたく思う。
  なお、詳しくは瑞坊が申し伝える。あなかしく。

   (天正元年)八月二十五日
                顕如(判)
     紀州
     坊主衆中
     門徒中へ」

このように諸国へ檄文を飛ばすと、もともと信心が固い宗門なので、
我先にと集まってきて立て籠もり、兵糧を百里も先から運んできて、
鉄砲・弾薬なども十分に集まった。
また堀を掘り、逆茂木を備え付けて、いよいよ城を堅固に構えたとのことだ。


以上、テキトー訳。

なんとな~く学生のころを振り返ってみると、
そういえば確かに歴史の授業で信長の本願寺攻めとかあったよね。
という程度の知識だよね私は。
ああいう授業では、「何年に何があった」という流れは追うけど、
「どういう目的で」って部分が欠落していたのか、ほとんど印象に残ってない。
こういう部分に焦点を当ててくれれば、もっと興味をもって取り組めたのに。
そういう面では、軍記のような物語は人生を豊かにしてくれるわ……

いや何が言いたいって、毛利・吉川勢が出てこないのであんまり言いたいことはない(おい)。
でも、本願寺攻めを中断して越前攻めに転向した理由が出てくるわけじゃない。
将(本願寺)を射るには、まず馬(各地の門徒衆)を射よ、ってことだろ。
こうしたストーリーがあったほうがわかりやすいよね、とは思った。

とかなんとかボンヤリしながら読んでるけど、
まだまだ続きそうな本願寺VS信長。
この先もボンヤリ読んでいきます。
2013-01-15

池沼だけに泥沼合戦

昨夜は新年会だったわけだが、早い時間に始まったから早く帰れるとか思った私が馬鹿だったよ!
みんな年寄りなのに長時間呑むなぁ(遠い目)。愛してるぜじっちゃんたち!
このへんではありえないほどの大雪のなか、小さい店に馴染みの顔や懐かしい顔が集まって呑むって、
幸せすぎて私も呑み過ぎた_ノ乙(.ン、)_ 二日酔いがなくてひと安心w

だいたいの流れ:
信長は摂津の三吉一族を成敗するとして兵を出しながら、
実は本願寺を油断させておいて一気に攻め破る心積もりでいた。
しかし顕如はそれを察知、勢を集めて砦を築き、抗戦の構えに出る。
元亀元年九月十四日、ついに一戦の火蓋が切って落とされると、
大坂は僧俗老若男女一丸となって信長の大軍に抵抗し、大勝利を得た。


中嶋合戦のこと

さて寄せ手は最初の合戦で大勢討たれてしまい、
皆あちらこちらの付城に入って怪我人を治療していた。
そしてもう一度合戦して先日の会稽の恥を雪ごうと、
(元亀元年九月)同十八日、中嶋へ攻め寄せて、民家を一つ残らず焼き払い、
手に当たる老若男女をこれ幸いとばかりに討ち捨てにした。

大海の出城には鈴木伊賀守が三百余騎で籠もっており、
あちこちの普請を急がせていたが、敵の攻撃の様子を見て、
城には近所の人足たちを集めて大勢籠もっているように見せかけ、
自身は手勢を残らず率いて打って出る。
これだけでなく、飯満の出城の本庄からも、同様に続いて打って出た。

大坂ではこれを見て、「味方は小勢だ。
たとえ一戦に勝利できたとしても、留守に付け込んで城を取られてしまうかもしれない」と、
精鋭を選んで一万余騎を差し出した。
中嶋の者たちは皆出城に籠もっていて、地形も熟知していたので、
敵が思いも寄らないところから攻撃を繰り返した。
前からは撃ち、後ろからは突きかかる。
寄せ手は切り崩され、近くの堀や沼に追い込まれて何百人余りが討ち取られた。

本城から打って出た一万騎のつわものたちも皆中嶋へ渡り、
「味方の先陣が大勝利したぞ。敵は怒りに我を忘れて、
こちらの主力兵へと切ってかかってくるだろう。
待ち受けて戦えば、こちらの備えは堅固だから勝利できるはずだ」と言って、
弓・鉄砲の準備をした。

そこへと早々に、林新三郎・佐々内蔵助・井上・福富・湯浅・前田・堀などが、
大音声で名乗りを上げて一直線に切ってかかってくる。
大坂勢はここぞとばかりに渡り合い、ここを先途と戦ったけれども、
前田・佐々などという、漢の三傑にも劣らぬつわものたちに馬で追い立てられ、
散り散りになって退却した。

敵は背後に伏兵が置かれているかもしれないと思ったのだろう、
左右に目を配りながら、静かに跡を追ってきた。
城の兵は取って返すと池や沼を前に隔てて鉄砲を備え、近くまで引き付けて散々に撃つ。
寄せ手もまた追い散らすつもりで馬を入れようとしたけれども、
池沼なのでそれもできずに歯噛みをして控えていたが、怪我人や死人が五百余りに及んだので、
仕方なく腹立ちを抑えて引き上げていった。

大坂から打って出た鉄砲足軽は、二十五人につき一人の頭をつけ、
五十人を一組として、下知をして撃ちかけさせていた。
なかでも鉄砲の名人と名高いのは、蛍・小雀・下針・鶴の頭・発中・但中・
無二などという名を得た者たちだった。
彼らは越前・加賀・紀伊・丹波から集まってきた者たちである。
心も力も強く、目も利くので、無駄弾は一つもなかったと聞いている。


以上、テキトー訳。

しかし、本願寺強いな……
老若男女一丸となるってところがミソなんだろうね。
その代わり女子供や老人も殺されるわけだけど、普通の戦でも周辺農民らへの狼藉は横行してたそうだから、
あんまり変わらないのかも。
「この戦で死んだら上品上生に生まれ変われる」って心の支えがあっただけ、
この人たちは幸せだったのかもしれない。

今回興味深かったのは、鉄砲足軽の編成かな。
きちんと組織化されてるのがわかって面白いなー、と思った。
前の章で、本願寺には七、八千の鉄砲があったというようなこと書かれてたけど、
物資が豊富だったんだね。
鉄砲名人も出現するし。ホントに寺なのか疑問になってきた。
でも寺が武装するのはだいぶ前からなので、普通だったのかな。
……いや、普通じゃないよな、鉄砲の数。

さてさて、次章も引き続き本願寺の聖戦!
毛利・吉川成分が足りないよ!!!
2013-01-13

石山決戦の火蓋落ちる

さてさて陰徳記、お話は天正八年に信長と本願寺が和睦して、
顕如上人が大坂石山の本願寺を立ち退き、
抗戦に打って出た教如上人が信長にかなわずに大坂を追い出されたばかりか
父の顕如にまで勘当されてさすらった、というあたりまで進んだ。
今回は、その石山本願寺ではどのような戦いが繰り広げられていたのか、というお話。


信長と本願寺合戦のこと

本願寺が籠城している間、何度か合戦があったので、その様子を尋ね聞いた。
右大臣信長公は、大坂本願寺を城郭として利用したいがために譲ってほしいと持ちかけたが、
門跡が応じなかったので、
信長は「それならあの寺を攻め破り、上人父子を捕虜にして、死罪や流刑に処そう」と考えた。
しかしその宗門の徒弟たちは他の宗派とくらべて非常に信心が固かったので、
「やつらが心を合わせて立て籠もり、防戦に出てくれば一大事だ」と思った信長は、
どうしたものかと考えをめぐらしていた。

そのころ、三吉笑岸・同日向守・同備中守・同為三・同新左衛門・東条紀伊守・
篠原玄蕃允・奈良但馬守・岩成主税助・安宅神太郎・細川六郎・同右馬守らが、
摂津の野田・福島の両城に立て籠もって我が物顔でいた。
信長は、「これを攻め平らげると発表して、その城を陥落させると、
そのついでとでも言うように、不意に本願寺っを攻め破ればいい。
きっと顕如上人は三吉征伐をするつもりだと思って、他人事のように考えて、
何の用心もしないはずだ。
あっという間に大坂石山を乗っ取り、上人父子を生け捕るのは簡単だ」と、内々に会議で決めた。

そして元亀元年八月二十日、六万余騎を率いて摂津へと発向し、
野田・福島の周辺の家を焼き、天満の森・神崎楼の岸・上難波・下難波に陣を据え、
この両城を攻めるために、河口やそのほかあちこちに向城を構えた。
実はこれは、大坂石山を攻めるための謀略であった。

顕如上人は、智謀が人より傑出していたので、信長の出征を早期に察知した。
「今回の三吉の一族を征伐するというのは、この顕如の身の上の大事になるぞ。
その用心をせよ」と言って、一族や家老を呼び集めて軍議をした。
そして数ヶ所の砦を構えて軍士を入れ置き、在所在所へと忍びやかに使者を遣わして、
「石山本坊が早鐘をつくことがあれば、信長が攻め寄せてきたと考えてくれ。
石山に集まってこなくていいから、あちこちで翻弄しなさい。
敵が川を渡ろうとしたら、橋を落とし、船を流せ。陣屋には隙をうかがって火をかけよ。
おそらく、信長が今回このあたりへ出張りしてくるのは、三吉征伐が目的なのではなく、
石山を乗っ取るつもりでいるのだろう。絶対に油断をするなよ」と、
中島をはじめとして、摂津河内へと触れ回らせた。

そのほか国外にも知らせを送ると、下間・西川・鈴木・亀井・三井・田辺・
岡崎・藤井などという者たちが、数千騎を率いて馳せ集まってきた。
紀伊の根来の雑賀の者たちは、前々から門跡に心を合わせておきつつ、
表向きは信長へ加勢するといって、総勢一万余騎で、大坂と中島の中間に陣を取った。
鉄砲に玉を込めずに城に撃ちかけ、合図の言葉を決め、夜回りを厳しくして、
いいきっかけがあれば信長の本陣へと切りかかろうと、時節を待って控えていた。

さしもの鬼神をも欺く信長であっても、大坂の地の利はきわめて優れており、
人々もまた信心が固かったので、一戦に及んだらなかなか侮れないと思ったのか、
兵を出すことはなかった。
城中からは、なんとか策略を運んで敵の強弱を確かめようとして、
同九月十四日、森口方面の田を刈り取るために、足軽を四、五千ほど出した。
付城に籠もっていた佐々内蔵はこの様子を見ると、信長に注進した。
城から見ると、敵陣の旗色が変わったように見えたが、
信長が「あれを討ち取れ。願ってもない幸いだ」と下知したので、
佐々内蔵助・林新三郎・井上才介・福富平左衛門・野々村三十郎・湯浅神介・
野村越中守・金松又四郎などが、中島から川を一直線に渡って切ってかかった。

大坂側は、内々に用意していたことだったので、早鐘をジャンジャンと鳴らした。
途端に家々から僧俗老女たちが手に手に弓・鉄砲・鑓・長刀・を提げて打って出る。
城中では、今日一戦すると前もって作戦を立てていたので、あちこちの砦に兵を入れ置き、
鉄砲七、八千挺を二手に分けて、入れ替わり立ち代わり撃ちかけた。
寄せ手はこれに射立てられて、散り散りになって引いていく。
後陣が入れ替わって進んでくるのを見ると、紀伊の雑賀の鈴木孫一の一族、越前の下間の一族らは、
雑兵には目もくれずに、主力の兵と思しき備えへと切ってかかった。

敵も佐々・福富など皆大の剛の者だったので、ためらうこともなく無手と渡り合い、散々に戦った。
佐々・福富・湯浅・金松は、武者を討ち取って進んでいく。
けれども鈴木・下間の者たちも一騎当千のつわものばかりなので、
身命を惜しまずに切ってかかり、野村越中守を討ち取り、
勇み立って突き立ててくるので、寄せ手はたまらず引き退いた。

城中の兵たちは勝ちに乗り、逃げる敵をしきりに追いかけた。
寄せ手の大勢は一人残らず討ち取られてしまうだろうと思っていると、
前田又左衛門利家が取って返して鑓を入れ、敵を突き伏せ、
項羽・ハンカイを髣髴とさせるほどの勇猛さを見せた。
城の兵が追いかねていると、毛利河内守・湯浅神介・中野又兵衛尉などが助けに駆けつけ、
味方を守りしんがりを務めて退却していった。

信長の本陣である天満の森へも、その土地の者たちが紛れ込んで火をかけたので、
火柱を上げて焼け落ちた。
あちこちに潜んでいた一揆勢がいっせいに蜂起してドッと鬨を上げると、
寄せ手は裏から崩れて慌てふためいた。
これは一大事だと思ったのか、信長は本庄の向かいにある河口の付城へと入っていった。
その日、寄せ手は数千人が討たれ、手負いは数知れなかった。

城中では主力兵の首実験が行われたが、上人は、
「仏法を断絶させないため、また仏祖の恩徳に報謝するためだとはいえ、
このような防戦に及んで多くの人の命を奪ったのは残念で仕方ない」と、
墨の衣を涙で湿らせた。

こうして討ち取った首の中には、美濃の国の願誓寺から来た者たちが見知っていた顔もあった。
織田新八郎・氏家内蔵助・同九郎五郎・同助八郎・佐々小太郎・湯浅六・野々村喜太郎・
林新二郎・同新九郎・池田少太郎・同小次郎・福富十郎兵衛尉・酒井五郎兵衛尉・
金松仙・小川大八郎・塙小介・深川玄蕃・加納将監などである。
そのほかにも首は多くあったが、見知っていないので姓名を記さずにおいた。
この者たちは皆一騎当千の名を上げたつわものだったので、
「信長の遺恨は浅くないはずだ。
きっと再び攻め寄せてきて、鬱憤を散じる一戦を仕掛けてくるだろう」と、
あちこちに出城を構え、用心を厳しくした。

こうしたところに鈴木伊賀守が、
「今回は、敵は中島口から攻め寄せて勝利を失い、大勢討たれて退却していったので、
次回は天王寺口・森口あたりから攻め寄せてくると思います。
そちらの用心をするといいでしょう」と言った。
では天王寺に出城を構えようと支度をしていると、社人宮僧などがあれこれと文句を言うので、
五町ほど引き下がって勝曼の塔に城を築いて軍兵を差し籠め、
そのほか木津・難波・森・玉造・伝法・大海・飯満・鴫野・久宝寺・出江・小浜・
尼崎・花隈などに大将を配置して楼の岸・本庄を手堅く守備した。

さて本願寺に一味した宗門の者たちには、まず下間出羽守・同近江守・本多土佐守・
山名内記・河那部主馬助・八木駿河守・森左近・山田新介・佐々木承正軒・
同将監・細川主馬助・同和泉守・野嶋主水正・河崎水之助・今井権七・鈴木伊賀守・
荒木信西軒・同久蔵・上原伝内・同主膳・野坂一学・下村右近・村上利介・
嶋田河内守・野里三右衛門・益田覚也・藤井太郎右衛門・同藤内・平野大学・
堀尾西賢・下間二位・同源七郎・同源太郎・同源五郎・津筑次郎右衛門・
三林周防守・中村壱岐守などである。

僧では、端坊・東坊・正応寺・上宮寺・阿弥陀寺・無量寿寺・報恩寺・勝願寺・
妙安寺・如来寺・枕石寺・信楽寺・弘徳寺・寿命寺・常弘寺・浄興寺・法光寺・
常満寺・願誓寺・定専坊・願泉寺などである。

門跡の一門では、新門主・興門主・常楽寺・願入寺・円興寺・常称寺・光善寺・
顕証寺・毫摂寺・西光寺・本泉寺・松岡寺・勝興寺・瑞泉寺・本宗寺・願証寺・
光応寺・興行寺・真徳寺・本徳寺・恵光寺・願徳寺・超勝寺・教行寺・慈敬寺・
常願寺・証願寺・願行寺・光敬寺・興善寺・善福寺・明願寺・真宗寺などである。

この者たちが、あるいはそれぞれの方角に備え、または門下の意見を聞き集めて、
僧俗心を合わせて、あちらこちらの関を固め、城を守り、合図を定めて用心を厳しくした。
その様子は、信心の堅固さがなせるものに見えた。
本願寺の寺中には、下間の一族・御堂衆・奉行・諸士三千余人と雑兵五万余人の者たちが立て籠もり、
仏恩祖恩のために一命を投げ捨てさえすれば、来世は上品上生に生まれると、
何の疑いも持たずに一向に頼みをかけ、寄せくる敵を待ちかけていた。


以上、テキトー訳。

あら、意外と楽しかった。やっぱり私は合戦描写好きだな。
こう、金を鳴らした途端に、町全体が一丸となって、
老人や女たちまで武器を手に出てきて戦うっていうのは、
なんか一体感というのか、高揚感というのか、展開としてはかなり楽しい。
織田勢はさぞ肝を潰しただろうなぁ、と思ったら、
そんなに甘い人たちじゃなかったね。

気になる名前もちらほら。
前田利家……「鑓の又左」の本領発揮でかっこいい!
本多土佐守……いや、多くは言うまい(実はよく知らない)。
雑賀(鈴木)孫一もなかなかに素晴らしい。
まあどの人もよく知ってはいないんですけれども。
何年か勉強続ければ、わかるようになるかなぁ。なったらいいなぁ。
でも私の場合は狭いほうへ狭いほうへ行く癖があるので(恩師のお墨付き)、
そちらに興味が向くのはいつになるやらw

さて本願寺の合戦はこれでは終わらない。
次章も引き続きドンパチやってくれそうだぜヒャッハーーー!!!
2013-01-12

顕如・教如の仲違い

これまでのあらすじ:
信長は大坂の城を手に入れるために長年本願寺を攻めていたが、落城させることができず、
帝を脅迫して、本願寺に信長と和睦し城を明け渡すように、勅命を出させた。
顕如は下間一族らと相談してこの勅命に応じることを決め、
信長と固く起請文を交わして、城を退出することにした。
これに伴い、輝元が大坂の城に送っていた飯田越中守らが安芸へと戻ってきたのだった。


信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(下)

こうして顕如上人は勅旨に従って、また信長との約束を守り、
同四月九日、大坂本願寺を出ると、堺口の門を通り、木津から船に乗って、
翌日紀伊の鷺の森へと到着した。
この場所は雑賀孫一の所領だったので、雑賀はこれ以上ないほどに世話をした。

このように、下間一家の物の心得がある者が、信長との和睦を勧めた。
そのほかの、物がよくわかっていない若者たちは、
顕如上人が退城の決定をしたとき、子供の教如上人にこう勧めたそうだ。

「今回、信長などと和平を結んだのは、何を恐怖してのことでございましょう。
この十一年間、何度も合戦をしましたが、毎回追い崩して大勝利を得ています。
味方が敗軍したのはたった二回ではありませんか。
また戦ったとしても、どうして勝利できないことがありましょう。

教如上人は、是非ともここに残ってください。
もう一度信長と一戦して、命を限りに切ってかかり、
たちどころにあやつの首を剣の先に貫いて見せましょう。
そうすれば、憎い敵を滅ぼせるばかりか、仏敵法敵を退治することになりますので、
末永く正法が繁栄することでしょう。

信長は仏神三宝をも恐れぬ大悪人です。
今は起請文を書いて和平を願ったふりをしていますが、ひどい陰謀を企て、
隙を見て攻め寄せ、上人を討ち果たそうと考えているのは目に見えています。
どうか一筋に思い切ってください。
皆お味方に参って忠戦いたします」
教如上人はまだ若年だったので、何の熟慮もせずにこの者たちの勧めに乗り、
和平を破ってまた敵の色を立てたのだった。

これによって大坂六千余間の町人たちは、後日大変なことになるだろうことは顧みずに、
当座の財宝に理性を失って皆同心してしまったので、
たちまち顕如・教如父子は仲違いしてしまった。
教如は大坂にとどまったが、顕如は城を退出したそうだ。

こうして教如上人は大坂石山に籠もり、敵が攻め寄せてきたなら一戦しようと待ちかけていたけれども、
敵は大強将の信長でもあり、味方は父子の仲違いで散り散りになっていたので、
すでに軍兵は十分の一になっていた。
端城の勝曼の出城も陥落され、尼崎・花熊の城も攻め滅ぼされた。
木津の一城は堅固に守っていたが、これは父の顕如方だったので、さしもの教如上人も呆然としていた。

しかしこうしていてもどうにもならないので、やがて再び信長に和睦を申し入れた。
信長は、「教如は固い誓紙の趣旨に背いて籠城したのに、
今また和平を申し入れてくるとは、卑怯も甚だしい。
このままあの城を攻め落とし、上人以下ことごとく首を刎ねたいところであるが、
衣を墨に染めていることに免じて、赦免しよう。
たとえあちらに不義があって約束を破っても、私は起請文を破ることは絶対にしない」と言って、
教如を征伐するようには命じなかった。

「牛頭・馬頭よりもさらに恐ろしい信長のことだ、教如を助けようと思ったのではないだろう。
しかし事を荒立てれば、征伐も難しくなると考えて、
このように穏やかな調子で騙して生け捕りにし、誅殺しようとの謀略なのだろう」と思わない者はなかった。

さて信長は、「大坂の城を明け渡すならそれを受け取ろう」と言って、数万の軍兵を差し向けた。
これを見て、はじめは「敵が攻めてきたなら命を限りに戦って戦死しよう」と威勢よく叫んでいた者たちも、
取る物もとりあえず、皆あちこちに逃げ出していった。
さしもの教如も力及ばず、同八月二日に大坂の城を落ちていった。
しかし備前より上方は皆敵国である。紀伊一国だけが味方の国だったので、
その国へと落ち延びて、和歌の浦へと立ち寄った。

顕如上人はこのことを聞くと、
「教如を勘当したことは、私の個人的な感情からではない。
勅命に背き、信長との約束を破って大坂の城を保持しようとするのは、
凡人ですらあってはならないことだ。
それなのに、出家の身でありながら、仏神の照覧さえも顧みずに、
不義を企て、寺法に背いたのが第一の理由だ。

それに、今回は起請文を交わして和平を結び、安堵に胸を撫で下ろしたとはいっても、
教如がこのような卑怯なことをしでかして起請文を破ったのだから、
きっと再び信長から討手を差し向けられるだろう。

私がこう言うのは、死を恐れているからではない。
子の悪逆を、親でありながら知らないはずがないと、世の人は思うだろう。
知っていながら制止しないのは、親もまた不義なのだ。
罪もない親を、子でありながら不義の罪に陥れることは不孝の極みである。
これが二つ目だ。
弥陀・釈迦二尊の御代官となって、人に信心を固めるように勧める身でありながら、
子供のせいで表裏胡乱の悪名を着せられなければならないとは、口惜しくて仕方ない」と言った。
そしてこうした理由があって勘当したのだということを天子に奏上して、仲直りはしなかった。

教如上人は、この紀伊の国を頼りにしてきたのに、
和歌の浦のかたを波、芦辺はるかに潮満ちて、寄る辺もなく、
身を置く場所がないような島田の鶴のような気持ちになって、当て所もなくそこを離れた。
しばらくは美濃の国に隠れ住んでいたが、、それから近江の国へと移ると、
称名寺という浄土真宗の寺を頼って過ごした。
この僧は、木下半介にとっての兄であった。

大坂の門跡はこのような成り行きになった。
三木の別所も同年正月六日(天正八年正月十七日)に没落してしまった。
宇喜多は一昨年から毛利に一味する約束を変じて敵となっていたので、
南は備前、北は因幡から上方は、皆信長に一味した。
その武威は飛龍が天にいるようなもので、とても対抗できるとは思えなかったと聞いている。


以上、テキトー訳。

教如、やっちまったなぁ。でも秀吉の世になってから復活するんだっけ(うろ覚え)。
なかなかにしぶといよね。こういうしぶとさ、嫌いじゃないかもしれない。
木下半介って誰だ……秀吉の一族か。

毛利が頼りにしていた本願寺もこんなことになってしまい、
いよいよ追い詰められる鬱展開に突入しそうな気がして滅入ってくるから、
ちょっと違うことを考えよう。

最近入手した資料が、元長と恵雍の宗風についてだったり、
香川春継に関して詳しいものだったりと、個人的にものすごくどストライクなものだったので、
たいへん機嫌がよいです(*´∇`*)
杉原盛重がものすごく気になるんだけど、この関連は、
信頼できそうなものが手に入らなかったな……
ただ、香川春継の後妻が杉原盛重の娘らしい、という系図があったので、
陰徳記で盛重が称揚されてるのは、この縁もあってのことじゃないかと思いまった。
正矩が盛重の娘の孫って可能性もなきにしもあらず!?
香川の系譜は、残念ながら詳しいものに出会えていないので、
岩国に行く際に、ちょいちょ調べてこようかと思いまうす。

さて次章、本願寺と信長の合戦についてのようだよ。
まだ続くのかよ……と思ったら、これ以前の話のようだね。
しばらく毛利・吉川勢が登場しそうにないので、私涙目(´;ω;`)
いいもん、他の資料で吉川充するもん。
2013-01-10

本願寺「指きりげんまん!」

これまでのあらすじ:
毛利と織田は周辺の国人衆を巻き込みながらにらみ合っていたが、
信長のもう一方の敵である本願寺が信長と和睦し、
輝元が本願寺に送っていた兵たちが安芸へと帰ってきた。
信長と本願寺の和睦が成ったのは、信長が帝を脅して、
本願寺に「信長に従うように」との勅命を出させたからだという。
本願寺は勅命を受けて会議を開き、信長と和睦し大坂を明け渡すことを決めた。


信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(中)

そうして、やがて本願寺は、近衛の左大臣基信公、
ならびに庭田大納言殿・勧修寺の中納言殿の二人の勅旨に向かって、こう返答した。
「勅定の件は謹んで承りました。信長と和睦すべきという宣旨なのですね。
信長とは近年何度も合戦に及んでいますが、当方から兵を起こしたり旗を揚げたわけではありません。
信長が邪険放逸で、我が正法を滅ぼそうとしており、城郭を奪おうとしているのです。

このせいで、本尊の阿弥陀如来ならびに祖師の親鸞の恩徳に報謝し、
また我が正法が滅亡しないようにと、是非もなく防戦をしていただけなのです。
このことは三世の諸仏が降魔の利剣をお下げになられ、
天帝が修羅と戦われたことと同じではないでしょうか。
仏や天帝さえ魔軍を退けるために剣を揮い、戦に挑まれました。
ましてやこの濁世末代の坊主がそうしないわけがありません。
仏恩のために防戦をしたことは、拙僧の罪ではありません。

もともと法衣を着け、下々の愚かな衆生を教化する身でありますから、
国や郡を知行する望みはありません。この望みがないのですから、
どこかへ出張りして合戦をすることもありませんでした。
信長さえ我らに攻撃を仕掛けなければ、こちらから兵を起こすことはありませんでした。
願わくば、まず信長へと勅命をお下しになって、私が布教するための障害を作らず、
また我が寺に恨みを抱かず、永代安堵するとの起請文を仰せ付けください。
そのうえで再び勅宣をお下しくだされば、何としてでも勅命に応じ、
この城を退出いたします」

近衛の左大臣、ならびに二人の勅旨は急いで都に帰ると、
上人の勅命に対する返答を詳しく奏上した。
すると帝はすぐに信長に勅命を下した。

信長は願ったりかなったりなので勅命に従った。
これで本願寺は赦免の七ヶ条の奥に起請文を書き、血判を据えた。
日付は二月十七日である。

こうして忝くもまた天子から勅使を差し下して、信長の起請文を顕如上人へととどけてきた。
信長からもまた使者が遣わされ、
「勅定によって和睦したうえは、こちらにはまったく野心はない。
そのことは起請文に顕してある。こ
のうえで、なお上人の疑いを晴らすために」と言って、人質を差し出してきた。
上人は、「このうえは、いよいよ勅命に従おう」と答えて、
三人の家老にも起請文を書かせて差し上せた。その起請文は次のとおりである。

「起請文覚書

  敬白

一、今回、叡慮を仰せ出され御赦免のうえは、条件を相談して首尾万事を万事取り決め、
  表裏公事を抜くことはならない。
一、預け置かれた人質は大坂に申し置き、中国ならびに雑賀そのほかどこへもやらない。
  ただし、退城のときに警戒のいらないところまで同道させるが、すぐにお返しする。
一、雑賀の者たちは、御門跡が次第に覚悟するようにと誓紙を申し付けた。
  ついては、大坂と雑賀の人質は、中国そのほかどこへもやらないこと。
一、退城の期限は、七月の盆前である。
一、大坂退城のときには、花熊・尼崎、そのほかどこの出城も明け渡す。

 このことは、今回禁裏様より仰せ出されたことであるから、当寺が御赦免いただいた上は、
 この五ヶ条のとおりであり、違えることはない。この誓紙は、門跡が申し付けているので、
 条件は厳守すべきである。もしこの旨において偽りを申せば、
 梵天・帝釈・四大天皇・総じて日本六十余州の大小地祇、別して西方善逝阿弥陀如来、
 とりわけ当寺開山の罰を蒙り、今生は白癩・黒癩の病に蝕まれ、
 来世は無間地獄に堕在するものなり。よって誓詞このごとく。

   天正八年閏三月五日
               下間少進法橋仲之(血判)
               下間按察使法橋頼龍(血判)
               下間刑部卿法眼頼廉(血判)
     庭田殿
     勧修寺殿」

  ※この誓詞は、筆者、川那部周防守・杉原がこれを書く。
   立紙を二枚続けて、継ぎ目には井上入道が裏判を押した。

「今回は叡慮を仰せ出され、当寺を御赦免いただけることになったので、
 この五ヶ条を申し定め、年寄り三人に申し付けて誓紙を進上いたす。
 この件には、絶対に相違してはならない。
 そうすれば公儀の定めを覆してべっしんを抱くことはない。
 もっとも、直接誓紙で申し上げるつもりではあるけれども、
 寺の法によってこのとおりにしたのである。
 もしこの件を違えた場合は、この三人の誓紙と同様の罰を蒙るだろう。
 この旨を奏上していただきたい。

   後三月五日
               教如光寿(判)
               顕如光佐(判)
     庭田大納言殿
     勧修寺中納言殿」

  ※この二通は六条表門跡の控えの写本より、字の置き方など、
   原本のとおりに記してある。


以上、テキトー訳。あと少し続く。


fmfmなるほど、本願寺も、帝の命のままに従うだけではないのね。
ちゃんと要求すべきところは要求するんだ。
この時代の朝廷との付き合い方ってのが、よくわからないのぜ……_ノ乙(.ン、)_
まあ今でもよくわかっていないんですけれどね!
とりあえず、ピリピリしてる雰囲気が伝わってくるので、それは楽しい。
本願寺はだいぶ信長を警戒しているように見えるよね。
まあそんだけだけど。

そんなわけで、今回は大して面白くもない話だった。
次回も期待はできない……でも私、こうやってぼつぼつ読んでくって、自分で決めたんだもの。
微妙なテンションのまま待て次回!と行きたいところですが、
私は明日しこたま飲んでくるつもりなので更新はしません!!!
2013-01-09

オラオラな信長

いつもなら、だいたいの流れ~ってやるところだけど、
今回は前の章とほとんどつながりがないので割愛。
時期的には、天正八年か九年ごろのお話で、信長と本願寺の話題。
長いのでいくつかに分割しまする。


信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(上)

輝元から大坂本願寺に付け置かれていた飯田越中守、
そのほか多数の兵たちが中国へと駆け戻ってきて、
「顕如と信長が和睦して、門跡は城を退出して紀伊へと下った」と報告してきた。

その様子を尋ね聞いてみると、信長がどうにかして大坂を攻め滅ぼそうと、
自ら大将として打ち向かい、付城を構えて攻めても、その城は少しも弱る様子がなかった。
さしもの大強の信長も攻めあぐねて、これをどう打破すべきかと熟考を重ねたが、
「今は武力では大坂を降すことができない。謀略を構えてどうにか我が手に付けよう」と考え、
天正八年正月、正親町院へとこう奏上した。

「大坂の門跡とはこれまで戦争を繰り返しており、あの地において何度も防戦を遂げましたが、
地の利が堅固で、味方が敵城を陥落させることができませんでした。
このことはお耳に入っていることでしょう。
本来なら門跡を宥めてくださり、この信長の下知に従うように勅を発してくださってもいいのに、
そうはなさらないということは、大阪の上人のお味方をなさっているのだと存じ奉ります。
そうであるなら、また信長も朝家を恨むことになります」と、それは荒っぽく奏上した。

帝は大いに驚いて、すぐに公卿たちと会議をすると、
勅使として庭田大納言重保殿・勧修寺中納言晴豊殿を大坂へ差し下した。
近衛関白信基公は上人と親しい間柄なので、この人もまた下向した。

「本願寺は専修念仏の棟梁の身でありながら、柔和忍辱の法衣を脱ぎ、
武芸をたしなみ、甲冑をつけて弓矢を携え、信長と何年も合戦に及び、
敵味方数万の士卒を死なせてしまったことは、実に遺憾である。
急いで信長と和睦するように」との勅旨であった。

門跡は、すぐに下間の一族やそのほか譜代恩顧の者たちを呼び集め、
この勅定について会議を開いた。刑部卿・同少進などは、大いにこう進言した。
「現在、東西南北には勇将・智将は数多くいますが、皆信長によって城を追われ身を滅ぼし、
あるいは兜を脱いで軍門に下っております。

信長がこの寺を滅ぼそうとしているわけは、近年キリシタン宗が日本に渡来してきて、
諸人を邪法に勧誘しているからです。
ですがこの真宗はこの誘いを聞き入れませんでした。
それで京・大坂・堺・近江・越前において何度も論戦を行い、
公儀の許しを得て、あの宗の坊主を殺害しました。
このせいで、バテレン宗のイルマンたちが信長へと我ら真宗のことを讒言して、
当宗派を滅ぼそうと企んだのでしょう。これが第一です。

その次に、この寺は日本随一の名城なので、
信長はこの城を我が物にして軍兵を差し籠め、西国の押さえにするつもりで、
石山を所望しているのに、我らが与えないからです。
この二つの理由で、信長と当宗は現在戦争をしています。

けれども味方が利を失うことは稀で、何度も信長を追い立ててきました。
これは本尊の阿弥陀如来のご加護があったとはいえ、
紀伊の一揆勢が皆籠城して身命を惜しまずに防戦しているからです。
もし信長がこの城に押さえを置いて紀伊へと発向したならば、
越前で下間和泉守・同筑後守・鈴木出羽守などが滅びたように、
一揆の大将たちは皆討ち死にしてしまうでしょう。
そうなっては、この寺に長い袖の者たちばかり集まっていても、
一日も片時も持ちこたえることはできません。
どうか勅旨に従って、この城を信長に渡してしまってください。
信長もこの寺を城郭にするという望みさえかなえば、
強いて当宗門に攻撃を仕掛けてくることはないでしょう。

蓮如上人の大坂の御文にも、
『そもそも当国摂津東成都生玉の庄内大坂という場所は、往古からどのような約束があったのか、
去る明応第五の秋の下旬のころ、かりそめに住まい、この在所をはじめて見たときから、
一通りの坊舎を建立させ、当年で早三年の星霜を経た。
これはすなわち昔からの因縁が浅くないためだと考えている。
この在所に居住を決めた理由は、一生涯を心安く過ごし、栄耀栄華を好み、
また花鳥風月に心を寄せるためではなく、
無上菩提(完全な最上の悟り)のために信心潔斎する行者たちを賑わせ
念仏を申す衆生が増えるようにと思う一念の志からである。

またおそらく世間の人には偏執的な輩もいるだろうから、難しい問題が起きたときには、
ここに執着する心を捨てて速やかに退出するべきである云々』とあります。
ですから、蓮如上人のお言葉に従って、また勅命にも従って、
この城を明け渡し、仏法が滅亡しないように策をめぐらしてください。

ただし、信長は卑怯随一の邪将ですので、帝に奏上して、
この城さえ明け渡せば、今後この宗門を断絶させようとしたり、
また上人を殺害しようという企てをしないということを、
固く誓紙を取り交わしてから和睦した方がいいと思います」

この意見には、その場に集まっていた者たちが皆「もっともだ」と賛同したので、
顕如上人・教如上人父子もこの件に同意した。


以上、テキトー訳。続く。

朝廷を脅すとか、信長、パねえな。
このころの朝廷や貴族たちは、食べるものにも困るほど困窮していたようで、
官位なんかを金で売っていた(表向きは即位料などの献金を受け取って、お礼に授ける)ようだね。
元就や元春も献金して官位もらってたし。あれ、益田もだっけ。
まあ、大軍勢を擁する信長に睨まれたらひとたまりもなかろうて。
うまいこと権威を利用する信長、ここまでコワモテに描かれてると、逆に惹かれてしまうw

この権力と権威の分離、互いの依存の仕方なんてのも、勉強すれば楽しいんだろうな。
あと、本願寺の体制が、まるで大名みたいじゃない。
こういうのも、前知識がないもんで、ぼんやり読んでるしかないけど、
ちゃんと勉強すれば面白いんだろうな。
よく安国寺恵瓊が「僧でありながら大名になった」と言われたりする(最近は否定されてるようだ)けど、
本願寺のほうがよっぽど大名なみだよねって。

さてさて、次回も続きを読む!
全3回で終われるといいな……と思った矢先に、次回は不得手な手紙らしきものが見えたりgkbr
2013-01-08

因幡の駆け引き

だいたいの流れ:
毛利と織田の対立が表面化し、緊張が高まるなか、
境目を領する者をはじめとして、周囲の国人たちは動揺した。
伯耆の南条、備前の宇喜多は織田への従属を明らかにして、毛利三家とも抗戦している。
因幡の山名豊国はどっちつかずの態度を決め込んでいたものの、
毛利方に預けていた人質の実子を取り戻してしまう。


因州鹿野の城を明け渡すこと

因幡の鹿野(かの)の城には、芸陽から三吉三郎左衛門・進藤豊後守を大将として、
元春からは森脇内蔵丞・佐々木善兵衛尉が籠め置かれ、
山名大蔵大輔豊国とその家人たちの人質をこの城に置いていた。

そこへと、羽柴筑前守が山名を味方に引き抜こうとして、まず鹿野の城へと攻め寄せ、
隙間もないほどびっしりと取り囲んで、仕寄を組み上げて勢を籠め、じりじりと攻め近づいた。
もう乗り破られてしまいそうになったので、城中の者たちは絶体絶命の危機に瀕した。

どうにかして命が助からないものかと思っているときに、秀吉から使者が送られてきて、
「山名家の人質を渡せば、諸卒の命を助けよう。
もしそうしなければ、一人も残らず攻め殺してやる」と通達してきた。
三吉・進藤は、日ごろから名高い勇士だったが、命がよくよく惜しかったのか、
難なくこの要求を呑むと、豊国・中村・森下たちの人質を引き渡し、
命が助かったのを喜んで芸州へと帰ってきた。
秀吉はすぐに城を受け取り、城主の鹿野に亀井新十郎(茲矩)を添えて立て籠もらせた(天正八年六月)。

こうして、秀吉もしばらくは同国に滞在し、豊国を味方に引き込もうと、策略をめぐらしていた。
そこに、同国の味方が「秀吉が鹿野の城を取り巻いた。軍勢は一万四、五千程度だ」と告げてきたので、
元春様は、「これこそ願ってもない幸いだ。兵も少ないし、急いで打って出て、
手詰めの勝負を決しようではないか」と、先手勢だけで父子三人が打って出た。
そして出雲・伯耆の勢にも、「急いで八橋に集合するように」と通達した。

出雲の富田に到着して四、五日ほど滞在していると、早くも勢は四千ほど集まった。
「これから八橋に上り、杉原と合流すれば七、八千にもなるだろう。
そのまま因幡に上って対陣すれば、秀吉は退却することもできなくなるはずだ。
そのときに後陣の勢が次々に到着すれば、秀吉の敗北は決まったようなものだ。
もし敵が我らを少勢と侮って一戦を仕掛けてきたなら、それこそ望むところだ」と決まって、
富田を出発して八橋へと急いだ。

そこに、鹿野城は早々に降参し、城と人質を引き渡したとの報告が入った。
元春は、「臆病者どもが。あと五日こらえていれば、運を開くことができたのに」と歯噛みをしていた。
この悔しさもあって、是非とも秀吉と有無を賭けた一戦をすべきだとのことで、八橋へと到着した。
このことが秀吉に告げられると、秀吉は、
「今回は兵数が十分ではない。まずは退却して、来春に大軍を立ててから元春と一戦しよう」と決め、
因幡表を引き払って早々に但馬に上り、姫路城へと引き上げていった。
元春は、敵がさっさと引いてしまったのでどうしようもなく、八橋から芸州へと引き上げていった。


以上、テキトー訳。

秀吉のやり方を見ると、兵を引くにも駆け引きがあるんだなぁ、などと考えてしまう。
引き際はもちろん、相手の大将や軍勢の規模といった情報をいち早く仕入れて、
勝てる確証のない場合は、いとも簡単に退いていく。
戦争ってのは、半分は情報戦なんだなぁ、と、しみじみしたね。
胸のすくような合戦の場面が好きだけど、こういうのもなかなか。

そういえば、毛利家好きには秀吉嫌いが多いそうだ。
といっても、私の知ってる狭い世界の話なので、論拠はない。
私は、秀吉もけっこう好きだな。
敵だから腹が立つけど、こういう人物が味方にいると心強そうだ。
権力握っちゃうとやっかいだけどw
それにアレだよアレ。
女にのぼせてフラれるという、ルパンなみの黄金パターンが、なかなかお茶目。

そんなわけで次章は、上方の情勢のお話。
つまり本願寺VS信長ってわけだ。長い話になりそう……
2013-01-07

じわじわと追い詰められる南北

だいたいの流れ:
織田と毛利の対立が深刻化すると、毛利傘下からは、織田方に寝返る国人が相次いだ。
元春は北方の南条元続らを制圧しに出ていたが、
南前では、隆景の手勢と宇喜多の勢がにらみ合っていた。
宇喜多直家は、羽柴秀吉に援軍を請うている。
そんな折、両軍が競り合う蜂浜では、直家の弟忠家の嫡子が、
小早川勢によって討ち取られてしまった。

本日は短い章を二つ続けて。


備前の国蜂浜の城を攻めること

同(天正九年)三月下旬、隆景様は宇喜多七郎兵衛尉・沼本新右衛門が立て籠もっている
児島の城を攻めるために、沼田の城を打って出ると、児島の城を取り囲んだ。
その勢は一万余騎ほどだった。

城中はすぐに困り果てて、しきりに本国に注進が入ってきた。
宇喜多和泉守直家は、自力だけで後詰をするのは難しそうなので、このことを秀吉に嘆願した。
するとすぐに浅野弥兵衛尉を大将として、五千余騎を数百艘の兵船に乗せ、
「備前の国へ下って敵の背後を断ってこい。そのうえで秀吉が出張しよう」と発表した。

輝元様はこのことを聞くと、隆景に「とりあえず児島表から引き上げてきてくれ」と強く言った。
隆景も、「今回は折りしも兵力が少ない。再び大軍を催して秀吉と一戦しよう」と決め、
同四月中旬に児島を引き上げ、兵を収めた。

去り際に沼本新右衛門が後追いをしてきたので、
粟屋雅楽允をしんがりとして取って返して防ぎ戦い、
無事に退却することができた。


山名少七、逐電のこと

山名大蔵大輔豊国は非常に卑怯な人間だったので、
嫡子の少七に太田垣勘允という者を添えて、出雲の平田に人質としていたが、
「今の世間の様子を見てみると、織田信長が三十余ヶ国を切り従えて、
中国には羽柴筑前守を差し向けている。
秀吉の手に属している軍勢は二万以上で、そのうえ宇喜多、但馬の山名、
伯耆の南条など、皆ことごとく信長に一味しているのだから、
毛利家の武威は日を追うごとに弱っていくだろう。
となれば、この豊国もこれまでの契約を見直して、信長の幕下に属そう」と考えた。
平田に置いてある人質も、どうにかして取り返そうと思ったけれども、手段がなかった。

そこで毎年平田に下っていく山伏に頼んで、
「なんとか謀略をめぐらして、少七を因幡へと連れ帰ってくれ。
これがかなった暁には、数千貫の青銅を差し上げよう」と言った。
この山伏は、「そんなこと、お安い御用です。
私が周囲を騙して、お逃がしいたしましょう」と言って出雲の平田に行き、
ついに密かに少七を連れ出して因幡へと帰ってきた。
けれども豊国は戦の勝負をうかがったまま、しばらくは信長にも一味せず、
また毛利家とも手切れをせずに、どっちつかずの態度を見せていた。
情けないことである。


以上、テキトー訳。

今回は陰徳記のお約束には反して、
隆景が元春を引き込もうとしないので、どうしたのかと思ったけど、
天正九年三月というと、すでに経家が鳥取城に入って秀吉の襲来に備えているタイミングだよね。
元春も北方に檄を飛ばして、人数やらいろいろ集めようと苦心していたころだと思う。
時系列とつながりを追って書いてくれたら助かるのになーと思うけど、
そこは自分で補完して読んでいかなきゃならないんだろうな。
鳥なみの脳みそには負担がきついぜ……_ノ乙(.ン、)_

そして後段、山名の人質が取り返されてしまった……!?
あれ、でも重臣も人質送ってるはずなんじゃないのかな。
豊国一人の人質を奪い返したところで、山名の家全体が豊国に同意するわけないと思うけど、
どんなもんだろう。
しかし山伏ってのは使い勝手がいいよな。
元春も山伏の密偵使ってるだろ。

そして次章は、秀吉・山名が絡んでくるお話になりそうです。
仕事再開したけど、この調子で読んでいけたらいいな……
でもたぶん、毎日更新は無理な気がする_ノ乙(.ン、)_
あとあと、普通の本も読んでいきたいよ!ってのは欲張りすぎるなw
2013-01-06

与太郎、若さゆえの

明日から仕事だなんて信じたくない_ノ乙(.ン、)_
もともとダメ人間だけど、長い休みがあると拍車がかかるね!
でもケータイ乗換えの予定を犠牲にして、昨日図書館でとってきた資料をざっと読めたから満足しなきゃ。
そのうちこの資料のネタもそろそろまとめられたらいいな~、などという希望的観測でゲス。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
織田と毛利の対立が激化する中、毛利に属していた国人たちが次々と信長に寝返り始める。
伯耆では南条が態度を翻し、元春がその征伐に向かう。
備前でも宇喜多が織田方の態度を鮮明にして、隆景との全面対決の姿勢を示した。


備前の国児島の蜂浜合戦のこと

羽柴筑前守秀吉から、宇喜多への加勢として、
浅野弥兵衛(長吉・長政)に警固船二百余艘が差し添えられて送られてきた。
そして児島に一城を築いて宇喜多から人数を差し籠めるように言い送ってきたので、
宇喜多はすぐに蜂浜に城を構え、宇喜多七郎兵衛尉忠家・嫡子の与太郎が三千余騎で立て籠もった。

これに対抗するため、隆景は四十町ほど自領側の麦飯山というところを城郭として兵を入れ、
忠家を押さえるために、弟の穂田治部太輔元清を大将として、
有地美作守・古志清左衛門・村上八郎左衛門などを差し上せて(天正九年二月十四日)城の普請をさせた。
そこに忠家の手の者たちが、その普請を妨害しようとして、
毎日足軽をけしかけてきて競り合いが行われた。

あるとき蜂浜から足軽を出すと、麦飯山からも打って出てきて競り合い、野伏戦をしていた。
備前勢が次々に出てきて二千四、五百ほどの人数になると、こ
れを見て麦飯山からも「敵が増えてきたぞ。味方を討たすな」とばかりに、
二千人余りがかけつけて、宮の森というところで互いに身命を捨てて攻め戦った。

忠家の嫡子の与太郎は、「今日は味方が負けそうになっています。
急ぎ馳せ向かって味方の兵を勇気付け、一合戦してまいります」と、
鎧を取って肩にかけ、兜の緒を締めて、馬を引き寄せて乗ろうとした。
そのとき父の七郎兵衛尉は息子の鎧の袖をつかみ、
「もう少し待っていなさい。今日は少し胸騒ぎがする」と制した。
しかし与太郎は「味方を安全に引き取ってきます。危ない戦はいたしません」と言って、
その手を振り切って出て行ってしまった。

与太郎は五百余騎で駆けつけると、味方を鼓舞して突いてかかった。
麦飯山の勢が劣勢に見えたので、村上八郎左衛門が船からヒタヒタと上陸し、
手勢三百人ほどを魚鱗の陣に備えて、敵の真ん中へ横合いから突きかかろうと、鑓衾を作って控えた。
古志清左衛門は鑓を取ると大音声を上げて名乗りをあげ、敵数人を突き伏せた。
楢崎十兵衛尉も続いて鑓を入れる。
この楢崎は日ごろから、十人以上の力持ちだと評判だったが、
まさかそこまでではなくても、普通の者よりははるかに力持ちだった。
三間柄の鑓を軽々と提げ、敵を五、六人までは突き伏せた。
敵が引いた後は、のどが渇き息が切れて倒れていたそうだ。

有地美作守も鑓を入れて散々に突き合い、最終的には鑓を投げ捨てて、
敵と上になったり下になったりしながら取っ組み合っていたが、
敵の力が強かったのか、有地は取り押さえられて首を掻かれそうになった。
そこに有地の甥の同名次郎右衛門が駆け寄ってきて、敵を引き剥がすと押し倒し、
二刀で仕留めて主を助け、敵を殺してその首を切っ先に突き刺すと、高く差し上げた。

こうして皆が粉骨砕身して勇をふるったので、
備前勢はたちまち突き立てられて、一度にさっと退却した。
与太郎はこれを見て、「なんと口惜しいことだ」と味方を鼓舞し、
馬上で采配を打ち振るって下知をしながら駆け回った。
そうしていると、胸板を鉄砲で撃ち抜かれて、馬から真っ逆さまに落ちてしまった。

これを見て芸陽勢がここぞとばかりに進んできたので、
備前勢は前後の備えが一緒になって逃げていった。
与太郎は元清の若党、水川の何某という者が討ち取った。
一説には、瀬尾十太郎が討ち取ったともいう。
そのほか、七、八十人ほどの敵を討ち取った。

「それにしても水川が討ち取った武者は年齢が二十歳ほどだが、
容貌がとても美しくて、鎧や太刀に至るまで、普通の人ではない。
きっと今日の大将だったのだろう。その名前を聞きたいものだ」と思っていると、
やがて後からこれも若武者が一人走り寄ってきて、主が討ち死にした場所で戦って死んだ。
後に聞くには、与太郎の小姓、蜂屋宗十郎という者だったそうだ。

同日の夕暮れに、忠家から、「愚息の与太郎が今日討ち死にしたようだから、
死骸を返してほしい」と言ってきたので、「ではあの若武者は与太郎だったのか」と、
皆勇み立って一方ならず喜んだ。
与太郎の死骸は、すぐに鎧や太刀・刀に至るまで添えられて送り返された。

一説に、与太郎は馬に引かれて思いがけずに駆け込んできたのだともいうが、
これは事実ではないだろう。
馬に引かれて討ち死にしたのは穂田元祐だともいう。
これらの話は、再び調べなおしてみようと思う。


以上、テキトー訳。

忠家「与太郎オオオォォォ! わしの与太郎オオオオォォォ!!!」とはならんわけで。
親子が死に別れるのは、誰であれ、悲しいな。息子が先立つ場合は特に。
しかし与太郎、二十歳そこそこで散ってしまったのか。
いや、美形なのにもったいないとか思ったわけじゃ……ある。
とりあえず正矩は、「男色甚美ニシテ」って表現はやめていただきたい。
顔がきれいだったってことだろ! 無駄にソワソワすんだよ!
与太郎が死んだ後に小姓が駆けつけてきて死ぬってのも、切ないな。
若さって……

でもって忠家。「息子が死んだから死骸を返してくれ」って、申し入れするもんなんだな。
そんでもって敵も、由緒ありそうな武者の死体は、持ち物ごと保管しておくんだな。
この流れ、どこかで見たことあるぞと思ったら、長宗我部元親・信親父子だね。
あれは、返された鎧がズタボロで悲壮感がすごかったっけ。
それは置いといて、「分捕高名」っていうくらいだから、
死骸から色んなものを剥ぎ取るもんだと思ってたけど、そうしない場合もあった、てのが面白い。

あとなんとなく思い出したのが、だいぶ前に見た映画『トロイ』。
あの劇中でも、老いた王が戦死した息子の死骸を引き取りに行くんだよな。
あのピーター・オトゥールが透き通るような感じに年齢を重ねてて、
すごく切ないシーンだったなぁ、などと思い出した。

とりあえず今回、私のなかの死亡フラグ集に、
「危ない戦はしないと言って父を振り切って出て行く」てのが加わりました。
次章は隆景も出てくるよ!
2013-01-05

村上武吉の愛憎劇場

今日は久しぶりに図書館まで足を伸ばしてみたら、
混雑しすぎてシステムがダウンしたってよwwwww 盛況でなにより。
こうやっていろんな資料を漁っているはずなのに、一向に身につかないのは身の不肖ゆえですな_ノ乙(.ン、)_
両親には五体満足に産んでもらったっていうのに、ごめんよトーチャンカーチャン……

さて陰徳記、だいたいの流れ:
織田と毛利の対立が鮮明になると、伯耆の南条・備前の宇喜多が織田方へと寝返り、
元春・隆景らは、その対応に追われていた。

今回は、隆景配下の能島・来島村上氏のお話。


来島、信長公に一味のこと

来島出雲守(通昌)・徳居半右衛門(彦右衛門吉清)兄弟は、
伊予の国の風早郡を知行して、自国内ではなかなかに幅を利かせていた。
兄弟は相談して、「今の信長の鉾先には、天竺・震旦は別としても、我が日本でかなう者はおるまい。
毛利家もやがて戦い負けるだろう。
これまでは輝元に従っていたが、それを改めて信長に一味することにしよう」と決まった。
となれば、「誰かを京都に遣わして、信長にこの件の申し入れをしなければ」と話し合った。

そして出雲守は、京都の有名な寺社に詣でるということにして自分の母親を上洛させ、
老母から信長へと「私の子供は信長公のお味方に参じ、忠勤を貫きたいとの考えです。
これまで毛利家へ与し敵対していた罪をお許しください」と嘆かせた。
すると信長は「それは許そう」と言って、すぐに老母の上洛を許した。

さて、村上能登守武吉は、出雲守にとっては姉婿に当たる。
その老母にとっては婿になるので、老母は
「孫の掃部助元吉・同三郎兵衛尉たちも出雲守と同様に信長に降参させ、
伊予で過分の領地を申し受けよう」と考えて、そのことを密かに武吉に言い送った。

武吉はこのことを聞くと子供たちに向かい、
「私はいかなることがあっても毛利家に背いて信長にうことはしないと思い定めている。
その理由は、これまで土佐から長宗我部が何度も伊予に侵攻してきたとき、
河野家が滅亡の危機に瀕して、我らも御家の危機に陥った。
そのときに毛利家から何度も加勢を送ってもらえたから、当家は安泰でいられたのだ。
この厚恩をどうして忘れることができるだろうか。これが第一の理由だ。

また先年、筑前の国の立花の城を元春・隆景が取り巻いたときには、
私は病気にかかっていたので、周防の国の上の関にしばらく船をかけたままでいた。
来島道安はそれ以前(永禄十年)に死去していて、今の出雲守はまだ幼少だったので、
郎党の原太郎右衛門尉が九州へと警固船で下っていった。
そこで太郎右衛門尉が讒言を構えたのか、もしくは私が上の関に逗留して九州へは下らなかったからなのか、
私に逆心があると疑われてしまった。
そして立花の陣が開陣した後、隆景は来島の者たちに先手を命じて、
三年もの間、我が家城のむしの城を攻めた。

私にはまったく逆心などなかったが、そのことを申し開くことができずに、
いたずらに三年を送ってしまった。
その後小船一艘に乗り、大野兵庫一人を連れて、笛を吹き朗詠して逍遙していたが、
来島の城近くに船を寄せて、原太郎右衛門が言葉戦いをしかけてきた。
そのとき私は太郎右衛門に向かって、
『おまえが嘘を注進したから、心ならずも毛利家と対立することになってしまった』と言った。
原は、『なんとそのように思っていたのか。私はまったく讒言などしていない。
それなら、罪がないことを隆景に嘆くとよろしい。私が使者を務めましょう』と言って、
翌日に私のところにやってきた。
私もまた、『ではおまえによろしく頼もう』と返答した。
原はすぐに安芸の沼田に行くと、私に罪がないことを弁明してくれて、ようやく赦免を得ることができた。

それなのに今信長に一味してしまえば、輝元様・元春・隆景も、
『先年の大友との合戦のときも、武吉は時の勝負をうかがうために周防の上の関に滞留し、
どっちつかずな態度を見せていたが、今度もまた弱きを捨てて強きに付いた。
大の卑怯者だ』と思われるだろう。
今現在の不義のみならず、昔の逆心の疑いまで、虚を実にしてしまうことになる。
これではあまりに口惜しい。これが二つ目だ。

また、叔父の右近隆重は、毛利家に忠勤を貫いているから、
嫡子の八郎左衛門は今、備中の笠岡にいて、父よりもさらに軍功に励んでいる。
彼は天地が覆っても信長には与すまい。
私が毛利家に背けば、たちまち叔父・甥の仲でありながら、敵・味方に分かれてしまう。
私が今能島の家を相続できたのは、ひとえに叔父右近の厚恩なのだ。

そのことを話すからよく聞きなさい。
私が五歳のときに、父の山城守隆勝とは死に別れてしまった。
隆重が私の兄の宗太郎と私の二人を守り立てて、何につけても後見してくれていた。
そのころ、我が一族に村上義正という者がいた。
こいつは欲深く悪事ばかり思いつくやつで、我ら兄弟を殺して、
自分が宗領家の所領を奪い取ろうと考えて兵を起こし、何度も戦を仕掛けてきた。
隆重は智勇ともに優れていたので、戦のたびに勝利を得て、義正の城を乗り破り、
義正は自害するしかなくなった。

そのとき義正の家之子の村上左近という者が、自分の婿の何某とかいう者に向かって、
『おまえは年齢も義正と同じで、顔つきもよく似ている。
主君の命に替わって、矢倉に上り切腹せよ。
夜闇に紛れて、敵には見分けがつくまい。
義正が切腹したと思えば、敵は四方の囲いを解くだろう。
そのときに義正を逃がそうと思う』と言った。

その者はなかなかの義士で、『義正の命さえ助かるなら、私は死を恐れたりいたしません。
それこそ望むところです』と言うと、矢倉に上り、義正と名乗って自害した。
義正はそのとき、つまらない命をどうにかつないで、城から逃げ去ったのっだ。

その後、兄の宗太郎が因島の婿になったが、狂人のような人だったので、
自分の妻を刺し殺してしまった。
隆重はこれを機に宗太郎を殺して、私を取り立てて村上の家を相続させたのだ。

厳島合戦のときは、私はまだ少輔太郎という名で二十歳になったばかりだった。
まだ歳が若かったので、弓矢の道に勇はあっても、功が足りていなかったから、
右近隆重を後見役として頼みにしていた。
隆重の智計謀略が優れていたからこそ、古つわものである来島にも劣らず軍忠を重ねることができ、
元就から数ヶ所の所領を賜ることができた。
それなのに、今信長に与してしまえば、隆重とも敵対することになり、
これでは恩知らずの振る舞いになってしまう。

それに昔、能島・来島・因島が信濃から伊予へと下ってきたときには、
来島には二人の男子がいたけれども、果報がめでたかったがゆえに河野が婿にとって、
風早郡一万貫を賜り、紋も河野家の紋である傍折敷を許されて、傍折敷に三文字を使うようになった。
我が祖先は沖の島々を少し知行して、紋も円に三文字だった。
これさえ口惜しいというのに、今また来島の老母が上洛して信長へ一味することを言上としても、
自分の子である出雲守のことばかりよく言うだろう。
出雲守も、自分が謀略を構えて私のことを信長へ靡かせたとでも言うだろうから、
もちろん忠も来島より浅くなり、所領もまた少なくなるはずだ。
何につけても、とにかく信長へ一味することはしないぞ」と言って、結局来島には同心しなかった。

そして来島は老母を遣わして、信長に一味する旨を言い送った。
信長はすぐに了承し、来島から人質として村上彦右衛門を差し上せた。
信長は来島に対して能島を退治するように下知したので、
それからは能島と来島は、婿・小舅、あるいは叔父と甥が敵となって、数年間あちらこちらで戦った。

あるとき両島は大船を飾り立てて漕ぎ向かい、散々に戦っていたが、
来島のほうが大軍だったので勝ちに乗り、敵船を追い立てた。
能島三郎兵衛尉はこれを見て、三艘の船で敵船が勇み誇っている真ん中へと乗り入れて戦い、
最終的に勝利を得て、来島を一里ほど追い立てた。
その後数度の合戦では来島が戦い負けて、風ハイの城から逃げ出すと、信長を頼って京に上っていった。
しかし家之子郎党たちも皆散り散りになり、与介という中間ただ一人が離れずに付き従った。
この忠義が褒め称えられ、それからは名字を与えられて、浅川与介と名乗ったそうだ。

さて来島は、信長に付けば所領も多くもらえると考えていたのに、たった千石与えられただけだった。
「さしもの大忠を尽くしたのに、たいした恩賞もないのか」と言って、兄弟で元結を切っていたが、
羽柴秀吉が天下の武将になったときには、一万石を与えられたそうだ。
周防の大嶋の中、久可の東郷田の城には、来島が兵を差し籠めてあったが、
隆景が桑原たちに下知して攻めさせたので、彼らは降人に出て一命は助かったものの、
どこへともなく去っていった。


以上、テキトー訳。

えー……以前河野家の話を読んだときに、あまりのぐちゃぐちゃ具合に匙を投げたままになっていたけど、
村上さんちもなんだか込み入った家庭の事情があるようで_ノ乙(.ン、)_
もうちょっとわかりやすく歴史を構築してくれないかな。
無理な注文か。どうなってんのよ伊予。
一族同胞との戦いって、敷居が高いようでいて、接点が多い分きっかけはいくらでもあるし、
他家とのゴタゴタよりは、、簡単に争いに発展しやすいものよね、って。

そんでまあいつものごとく、本筋に関係のないところで気になったのは、
・右近隆重さんてかっこいいよね!
・武吉・隆重らと争った村上義正って、ウィキペさんを見ると義益だよね
・そもそも武吉は、元亀年間に毛利に敵対して包囲されたじゃなかったっけ
・村上氏の家紋が「傍折敷に三文字」「円に三文字」って印象はなかったなぁ
ってあたりで、そもそもあんまり調べないで読んでるので、
浅さはご勘弁くださいまし。

とりあえず次章……というか、明日も本読めるといいなぁ。
2013-01-04

南前の寝返り

だいたいの流れ:
織田と毛利の対立が続く中、境目の国人や豪族たちは、
織田につくか毛利につくか、その選択を迫られていた。
伯耆では南条元続・小鴨元清兄弟が織田への寝返りを明らかにし、
元春らとの対立を激化させている。
南では宇喜多直家が織田に内応したものの、隆景に擦り寄って、毛利が勝ったときのために布石を敷いていた。
しかしこちらでも、そろそろ不穏な動きが出てきたようで……?

そんなわけで本日は南前の情勢を二本立てでお送りしまうす。


横見のこと、付けたり冠山没落のこと

備中の国の冠山には、宇喜多直家から大嶋の入道が籠め置かれていたが、
検使として隆景から横見何某という者が付け置かれていた。

大嶋の入道は横見に向かって、「近年は直家が隆景公の御手に属して忠勤を貫いております。
しかしとある事情があって、直家は信長公へも馬を繋ぎました。
ですから、私としても直家に背いて中国へ協力申し上げることはできないので、
致し方なく敵になってしまいました。
まったく逆心を抱いているわけではないのですが、当国の住人たちが皆信長へ一味していますので、
我らだけが国中の動向に反しているわけにはいきません。
横見殿をここで討ち果たし、羽柴殿へとその首を捧げれば、
羽柴殿は『実に忠義者よ』とお喜びになるでしょう。

しかし、私としては中国に対して刃を向ける気持ちがこれっぽっちもありません。
ただ当家が長く続くように信長に属しただけなのですから、
横見殿を無事に本国へお送りしたいと思います。
船の用意も申し付けてあります。
水夫も手の者に申し付けたいところですが、
それは直家が承ってしまったら信長への聞こえが悪いと思いますので、
あなたがお手勢に仰せ付けてください。
隆景公の御前でよろしくお取り成しくださいますよう、お願い申し上げます」と言った。

横見は大の剛の者だと評判だったが、何があったのか、もってのほかに取り乱して震え声になり、
「御家を続かせるために信長へと一味なさったのですか。
侍はこういうこともよくあるものですから、隆景が直家を腹の底から恨むこともないでしょう。
どうか私のことは、これまでのよしみに免じて、一度本国に戻らせてください。
妻子の顔を一度見ておきたいのです」と、手を合わせて言った。

すると入道父子は、「横見はなかなかのつわものと聞いていたが、
実はそうではなくて、大の臆病者だったのか」と考えて、
「もちろんですとも。はじめからあなたのことは無事に国もとにお返ししようと思っているのですから、
ご安心なさってください」と返答した。
横見が「それなら、ご子息を一人人質として船のところまで同道させてください。
入道殿のお言葉に疑いを持っているわけではありませんが、
この地の豪族たちがどんな狼藉をしてくるかわかりません」と言うと、
入道は異議なく次男の小三郎を一人、人質として横見に渡した。

横見は、「さてもさても、入道殿のご芳志は大変ありがたく思います。
私どもをここで討ち果たしても不思議ではないのに、そうはせずに、
逆に船の用意まで仰せ付けてくださいました。
隆景に対してもご入魂の至りだと思います。
このことは、罷り帰った後に隆景にじっくりと申し聞かせます」と謝辞を述べて、
別れの盃を酌み交わし、その人質を伴って船着場へと退出していった。

横見は、入道が敵方に与すると聞いてこのような振る舞いをしたのは、
怯えたわけではまったくなく、とにかく騙して人質を手に入れようとする謀略だった。
そして六、七町ほど進むと、横見は振り返りざまに、
後ろについてきていた十六、七歳ほどの小三郎を抜き打ちに、一刀のもとに切り殺した。
大嶋入道は門のところに立って、横見たちの後を見送っていたが、これを見て大いに驚いた。

横見は大音声を上げて、「さても大嶋入道よ、たった今敵になった者を見逃し、
命が惜しいからと言って手ぶらで帰る者がいると思うか。
芸陽にはそのような腰抜けは一人もない。
今朝から怯えたふりをしていたのは、あなた方を騙すためだったのだ。
あなたの小さな子を、黄泉の旅路の僕となすために、ああして振舞ったのだ」と言うと、
立ったまま腹を十文字に掻き切って倒れ伏した。
これを聞いた人々は、「なんと大の剛の者だろう。謀略も完璧で、忠もまた類ない人だ」と、
皆大いに感心した。

このことが芸陽に伝えられると、隆景様は、
「では大嶋を攻め滅ぼし、横見の供養にしよう」と言って、
一万騎で打って出、冠山をあっという間に攻め破った。
大嶋入道父子、そのほか三百余人が討ち果たされた。


高畠、心替えのこと

備前の国の児島にいた高畠遠江守も羽柴秀吉へと寝返り、信長へ一味したいと言い送ることになった。
隆景が差し籠めていた粟屋四郎兵衛尉・豊嶋市助が二の曲輪にいたので、
本城に呼ぶと数寄をして茶の湯の後に、
「我らは毛利家に対してまったく逆らうつもりはありませんが、
宇喜多が信長へ一味してしまったので、当国の者として中国方につくことは滅亡を招くようなものです。
ですから、当家を続かせるために信長へ付くことに決めました。
御両人のことも、国もとへとお送りいたします。
そのために関船を三艘用意してあります」と言った。

粟屋・豊嶋は、「そうですか、信長に一味するのですか。
侍は渡り物なのですから、そんなこともありましょう」と言いながら、
キッと目配せをして、高畠を二人がかりで人質に取り、船着場まで一緒に連れて行くと、
そこで暇乞いをして帰っていった。

二人の者たちが船を進めていると、鞆より少し上の三郎の沖で、
来島の海賊船が五艘乗りかかってきた。
粟屋・豊嶋はどちらもなかなかの勇士だったので、
散々に射立ててついには敵船に乗り移り、一艘を乗っ取ってしまった。
海賊たちは、命を捨てては何を盗んでも意味がないと思ったのか、後も振り返らずに逃げていった。
豊嶋・粟屋は、「きたない海賊度もめ、引き返せ、戻って来い」と呼ばわったが、
海賊たちは耳にも入れずに逃げていく。

二人は今度は、「この臆病者どもめ、どこへ逃げるというのだ、引き返せ」と、足を上げて挑発した。
海賊の法で、足で挑発されたら、命を失ったとしても引き返さずにいることはできない。
よってまた取って返して命を限りに散々に戦ったが、今度は互いに勝負がつかず、
引き分けになって引いていった。


以上、テキトー訳。

あらやだ、検使を討ち取らずに船まで用意してくれるなんて、
直家さんてば紳士……(*´∇`*)
これも万一毛利が勝ったときのことを考えての工作なんだろうなぁ、とは思うけどw
ホント抜け目ないってか、こういうとこが政治家としてホント優秀だよな、と思う。

それにしても横見さんは何やってんすかw
若い子を切り殺して自分も切腹しちゃうって、どういうメリットが?
横見「悲しいけどこれ、戦争なのよね」ってことか!
まあ、敵に付いたやつに何もしないで帰るってのができなかったんだろうとは思う。
この人の死をきっかけに、隆景も強い態度で攻めることができたわけだしな。

高畠の章の粟屋・嶋田コンビは高畠本人を人質に取るしな……
最後まで信用せずに気を抜かないってのは大事なことなのかもね。
個人的に海賊船と戦うシーンが面白くて好きだな。
足で挑発されたら引き返して戦わなきゃいけないとか、おかしな法があるもんだね、海賊。
足を上げて挑発するって、具体的にどんな感じなんだろうね?
私の脳裏をよぎったのは、はっぱ隊とか「びっくりするほどユートピア!」のアレなんだが。
もしくはY字バランスでも可。船上でY字バランス……難易度高いぜ。
あと隆景本人が足を上げて挑発したら、別の意味で吸い寄せられそうだぜヒャッハー!

さて、次章は来島さんや村上さんちの話みたいだよ。
2013-01-03

粟屋兄弟のやんちゃ

だいたいの流れ:
織田方に寝返った南条を追い詰めるべく、あちこちに向城を構えた吉川勢。
その前線では、毎日のように足軽競り合いが行われ、
地元の人々が迷惑……じゃなかった、熾烈に火花を散らしていたよ!


伯耆の国、岩倉の合戦のこと

天正八年正月(五月)、岩倉の城主である小鴨左衛門尉元清の手の者たちは、
嶋田の城へと足軽をけしかけ、毎日戦っていた。
城中には勝寿院が立て籠もっているので、自分の勇を誇って毎度のように打って出て、敵を追い立てた。
元清もまた大勢を岩倉から繰り出して、押しつ捲くりつ戦った。

これを聞いて、元清の勢を待ち伏せして討ち取ろうと、
同二月二十二日、吉川衆の今田中務・伊志源次郎をはじめとして、
四百余人が大宮というところに三ヶ所に伏兵を置き、
そばの山の上には森脇市正を置いて、敵が伏兵のところを通りかかったら合図の貝を吹くことにした。
その貝の音で伏兵が一度に身を起こし、敵を討ち取る算段になっていた。

さてここに、粟屋源蔵・弟の朝枝与三太郎という者がいた。
どちらも父の源蔵にも劣らない大の剛の者だったが、二人ともまだ二十歳ほどの若者だったので、
血気盛んで自分の勇を過信して
「当家には他にも多くの人がいるというのに、
どうしてあの出雲牢人の森脇に合図の貝を吹かせ合戦の駆け引きの下知をさせるのか、
理解できない」と憤っていた。
そのうち、伏していた場所の近くに、白木綿をかけてある神々しげな森があることに気づいた。
分け入ってみると、古い神社がある。
粟屋兄弟は神前に詣でると、狛犬などというものを取り出して遊び戯れた。

こうしたところに、嶋田の城の小鴨四郎次郎・勝寿院利安らが足軽勢を出して
敵の南条勢を誘い込もうとしていると、
また岩倉の城中から血気盛んな足軽たちが二百人ほど出てきてヒタヒタと嶋田勢を追い立て、
伏兵のいる場所にうかうかとやってきた。

森脇東市正はいい頃合だと思って合図の貝を吹いたが、鳴らなかった。
「なんとも不思議なことだ。今日の戦は凶かもしれない」と思って、六、七人で吹かせたけれども、
貝はうんともすんともいわなかった。
伏兵たちは合図の貝が鳴るのを待っていたけれどもなかなか鳴らないので、
合図を待たずに起き上がる者もいた。
あるいは「敵がちょうどいいところに来たのに、これ以上待っていられない」と起き上がって、
切ってかかっていく者もいたので、皆思い思いに立ち上がると、まちまちに打ってかかった。

敵は小勢だったのでひとたまりもなく、皆我先にと逃げていった。
伏兵たちは勝ちに乗って、しきりに逃げる敵を追いかけていく。
たちまち、岩倉の麓まで追いかけてしまった。

小鴨元清は、「今日はなんとなく、足軽競り合いの様子が心配だ」と思って、物見を出していた。
するとその物見が馳せ帰ってきて、「あそこの森の中に伏兵がいます」と報告してくる。
元清は、「そういうことか」とひとりごちると、屈強な兵を五百ほど繰り出した。
真っ黒に固まって弓・鉄砲を前に立て、味方を助けようと山を下ってきたところに、敵とぶつかり合う。

元清は「よし、やったぞ」と弓・鉄砲をしきりに撃ちかけたが、
敵には弓・鉄砲が一挺もなかったので、ただ的にされて射られるばかりだった。
今田中務は無双の精鋭だったので、大弓に大きな雁俣を番えて散々に射掛けると、
たった一矢で敵を多数射貫いた。
矢種を皆射尽してしまって、もう後は三筋ばかりしか残っていなかったが、
小肘が回るほどに引き絞って切って放つ。
その矢が石に当たって火花がカッとほとばしり、鏃は砕けて飛び散った。
敵は、「なんとものすごい弓の勢いだろうか」と肝をつぶした。

細田源允が石の陰に隠れて見ていると、今田は矢を取って弓に番え、
引き絞って射ようとしているところだった。
細田は、「あの矢を放ったところに走りかかって、一太刀浴びせてやろう」と考え、
じっと見つめていると、今田はそこを狙い済まして矢を射った。
すると細田の隠れている石のところに命中し、細田の肩から尻まで、
肉と皮とを引っ掛けて射抜かれたのだった。
これを見て後ろの味方は細田を肩に引き担ぐと、味方の陣へと帰っていった。

今田のそばに控えていた粟屋市允が「今田中務が仕留めたと見えたぞ」と声高に名乗る。
中務がまた矢を取って弓に番え、引き放とうとしたところに、
敵が雨のように弓・鉄砲を射掛けてきたので、誰の矢ともわからないが、
一本の矢が今田の首をしたたかに貫いた。
さしもの大器ちの中務も、深手を負ってしまったのでその矢を抜いて捨て、
郎党の肩に担がれて命からがら退却した。

粟屋市允と、市川雅楽允の郎党の永峯彦兵衛尉の二人が後に残っていると、
敵方から「安部太郎右衛門尉」と名乗って、鑓を振ってかかってくる者がいた。
二人の者たちは太刀を抜いて切りかかり、しばらく防戦をしていたけれども、
後ろから敵が大勢続いてくるのを見ると、二人は安部を少々切り立てて、そのまま退却しだした。
敵が勝ちに乗って追いかけてくるのを見ると、粟屋源蔵は、
「他の者たちは恐れて逃げても、この源蔵は敵に背中を見せるものか」と取って返し、
大勢と渡り合って散々に戦い、数人を突き伏せた。
しかしその体は金属や石ではないので、矢傷や鉄砲傷を数ヶ所負って、その場所で討たれてしまった。
笠井作允も同様に取って返して討ち死にした。

朝枝与三太郎は兄が討たれたということを夢にも知らずに退却していたが、
ある者が「おまえの兄の源蔵が討ち死にしたが、知っているか」と言った。
朝枝は涙をぽろぽろとこぼして、
「枝を連ね根も同一な仲なのだから、兄が死ぬのなら一緒に死にたかったのに、
思いがけずに敵に押し隔てられて死に遅れてしまった。無念極まりない。
骨肉同胞の契りを違え、どうしてたった一人で死出の三途の山を越え、川を渡すことができようか。
同じ冥土の旅までも一緒に行って、安養不退の浄土にいらっしゃる父母にもお会いしたいものだ」と、
たった一人で取って返していく。

粟屋新三郎という者は、「若い者を一人で討ち死にさせるのは口惜しい。
私も一緒に行って、来世までの朋友の交わりを固めよう」と、
同じように取って返して、敵の真ん中に駆け込んでいって戦った。
与三太郎は安部太郎右衛門が鉄砲で撃ち殺した。
新三郎は散々に戦って切り死にしたという。
森脇市正・市川雅楽允・佐々木豊前守などが助けに駆けつけ、
また内藤平左衛門尉も引き返してきて戦い、敵を数人討ち伏せると、
敵はここから引き返して岩倉の城に入っていった。


以上、テキトー訳。

なかなかに強い抵抗を見せる南条勢。
これだけ持ちこたえられる兵力があるなら、単身信長に下って毛利の矢面に立っても大丈夫だね。

さて今回目を引いたのは、尼子さんちにいたはずの森脇市正さんが活躍しとる♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
私も「えっ、もう!?」と思ったけど、やっぱり譜代の家臣からしてみると、
重要な役目をつい最近まで敵方にいた新参に持っていかれるのは面白くないようでw
粟屋・朝枝兄弟はいったい何をしているのかwww
ぶーたれたと思ったら、近くの小さな祠を発見してお参りするまではいい。
狛犬を引き出してきて何やってんすかw

けれどこの兄弟、それが是か非かは別として、なかなか志も強く、
美しい兄弟愛を見せてくれるじゃない。
願わくば、生きてその絆を続かせてほしかったところだけれど。
血肉を分けた兄弟であっても争いあい殺し合い、油断のならないことのある家もある一方で、
この兄弟のような濃い結びつきもあるんだねぇ。

しかし、普通はどちらか一方が生き残るように算段するものじゃないんだろうか。
うーん、厳島合戦のときに、強硬に同行を主張して
「死なばもろとも」の覚悟を見せた隆元の例もあるから、珍しいことじゃないのかもしれないね。

さて次章、隆景・宇喜多サイドのお話になるよ!
2013-01-02

織田VS毛利、境目の合戦

だいたいの流れ:
織田と毛利の対決が表面化してからというもの、
境目を領する南条・宇喜多などは、巨大な勢力二つの間で揺れ動いていた。
無二の毛利方だった南条宗勝の死後、元続・小鴨元清兄弟は織田に寝返り、
宇喜多直家も、隆景・元春の暗殺に失敗すると、双方の情勢を注意深くうかがっている。
元春たちは、南条勢を攻め滅ぼすために、伯耆の仕置きを厳しくしていた。

今回は少し短めの章を二つ連続でお送りします。


羽衣石の城の向城を構えられること、付けたり宇津吹の城合戦のこと

吉川元春・同元長・同経言らは、羽衣石の付城を築くために伯耆へと打って出ると、
数ヶ所に城を構えた。
まず高野宮の城には山田出雲守、松カ崎の城には小森和泉守、
条山には岡本大蔵・日根兵部少輔、また南条(小鴨)元清の籠もっている岩倉城の向城には、
宇津葺に羽根兵庫助元安・牛尾大炊助・北谷刑部少輔、
島田の城には正寿院の西堂利安・小鴨四郎次郎(経春)らを差し籠めた。

こうして元春父子は芸陽へと引き上げていくと、
南条兄弟はそれから宇津ふきの城へ攻め寄せて攻め破ろうとして、
南条伯耆守元続・同左衛門尉元清らは三千余騎を率いて宇津葺へと攻め寄せた。

これは天正七年十二月二十三日のことで、雪が急に降り出して、
兵たちは手足が凍えてしまったので、弓を引いたり鉄砲を捧げ持つことができなくなった。
城中では、下戸は餅を煮て腹いっぱいに食い、上戸は酒を温めて好きなだけ飲んだ。
そうして敵が近づいてくるのを待ち受けていると、元続・元清はしきりに太鼓を打ち、
采配を打ち振るって、「かかれ」と下知した。
寄せ手の兵は、「エイ、エイ」と声を上げて進んだ。

城中から羽根・牛尾・北谷、そして元春から検使として置かれていた二宮杢助が、
散々に敵を射立て、突いて出て行く。
敵がひとたまりもなくさっと引いたところに、
城中から牛尾大炊助・卯山善四郎が、逃げる敵を追っていった。
南条の郎党の一条猪介が取って返して牛尾と散々に突き合っていると、
卯山善四郎が駆け寄って、一条の胸板をしたたかに突いた。
一条は下の川に突き落とされてしまった。

このまま水中でできしてしまうかと思われたが、一条は屈強な水練の達人だったので、
具足をつけたまま泳ぎ上がってきた。
命が助かったのを幸いに帰っていくのかと思いきや、
猪介はかかることばかりを考えて引くということを知らない猪武者なので、
また取って返してもとのところにやってきた。
「牛尾、卯山よ、先ほどの鑓勝負に決着がつかなかったのが口惜しくて、またやってきたぞ」と、
にっこりと笑って駆けてくる。
牛尾・卯山も至強のつわものなうえ、敵一人に対して自分たちは二人だということもあって、
勇ましく進んで渡り合った。
そのまま火花を散らしながら戦っていたが、二対一なので、ついには一条が討たれてしまった。

そして、城中の者たちはその翌日に、昨日の合戦の鬱憤を散じようとして、
それに南条がまた何か仕掛けてくるかもしれないと、山の麓に柵の木を結いめぐらしていた。
そこに、南条の組頭の赤木兵太夫の嫡子で大力という者が、馬で攻め懸けてきた。
この馬が極めて頑強だったので、力強く手綱を引いても一向に止まらず、
大力の意図に反して、柵の木を結ってあるところまで来てしまった。
城中の者たちはこれを見ると、「やった」とばかりに駆け寄って大力を馬から引き摺り下ろし、
数人がかりでそこで討ち取ってしまった。
城中の者たちは、「南条との初めての合戦に勝利を得たのみならず、
またこうして思いがけずに敵を討てたのは、軍神の加護があったからだろうか。
先行きが楽しみだ」と、皆勇みに勇んだ。


但馬の国、竹田の城合戦のこと

羽柴筑前守秀吉・その弟の美濃守秀長は二万余騎を率いて但馬の国に発向した。
この国の竹田の城には太田垣軍監が立て籠もっており、この太田垣は無二の毛利方だったので、
羽柴勢はこれを攻めようとしてひしひしと取り囲んだ。

この軍監は西国無双の勇士として名高い、丹波の赤井悪七の甥であった。
悪七は兜に唐の冠をつけたものを用いていたが、
敵は唐冠の兜を目にしただけで戦わずに逃げ出すほどの剛の者だった。
赤井は最強の名を得た者だったので、近隣には赤井をはばかって、唐冠の兜を用いる者はいなかった。

軍監は伯父の悪七に向かい、
「今日の合戦では、唐冠の兜を私に貸してください」と言ったが、
悪七はカラカラと笑うと、「唐冠の兜はおまえに貸してもいいが、
私の指一つ分の働きさえ、さて、できるかどうか」とからかった。
すると軍監は、そのとき十七歳だったので、「私を若輩だと思って、伯父でありながら侮っているな」と思い、
意固地になって、「私が悪七殿がこの兜を着けていたときほどの働きができなければ、
八万大菩薩もご照覧あれ、ここに帰ってきて悪七殿に再び対面することはありません。
この兜には絶対に恥をかかせません」と言う。
悪七は愉快そうに笑って、「おまえがその心意気でいるのなら喜んで貸そう」と言うと、
すぐにその兜を渡した。

軍監はこの兜を受け取るとすぐに身に着け、三千の敵に対してたった五百の勢で駆けつけると、
一戦して大勝利を得た。
敵を数人討ち取って三十余町を追い崩してから帰ってくると、
軍監は「どうです悪七殿、兜には一通りの働きをさせることができたと思いますよ」と言った。
悪七は大いに感心し、その兜は軍監に与えられた。
それから後、あちこちの合戦で、軍監は何度も勇を顕した。
これほど強い将がなので、秀吉の猛勢さえ恐れずに、自分の城に籠もって堅固に守りを固めていた。

こうしたときに羽柴美濃守が先陣として、五千余騎で竹田の城の虎の丸というところへ攻め上がり、
一息ついて城中をキッと見上げた。
太田垣は屈強な兵五百余人を前後に立てて、門を開けてまっしぐらに打って出てきた。
寄せ手の大軍は、「おっと軍監が出てきたぞ。思っていたよりも小勢だ」と言って、
我先に討ち取ろうとして渡り合った。
太田垣は万死一生と思い定めていたので、敵が射っても切ってもひるまずに、
無二に切ってかかっていった。
寄せ手は猛勢だったけれどもたちまち一戦のうちに突き立てられて、一度にさっと引いた。
太田垣は勝ちに乗って逃げる敵を追い、山の麓まで追い下し、
屈強な兜つきの首を三百余り討ち取った。
そのほか雑兵も数知れず討ち取った。

秀吉は激怒して、翌日、二万余騎を五段に備え、またその山の上へと攻め上っていった。
軍監はその日三度打って出て、三度の戦すべてに勝利した。
寄せ手は大勢の味方をあてにして、自分が危なくなるような戦い方はしない。
軍監は、小勢なので最初からかなわないと思っていたので、
快く一戦して討ち死にしようと心に決めていた。
そうして命を投げ捨てて戦ったので、毎度勝利を得て、手に手に首を提げて城中に帰っていった。
秀吉も軍監の勇気を侮りがたいと思ったので、また今度攻め落とそうと考えて付城を構え、
やがて兵を引き上げていった。


以上、テキトー訳。

前回の御伽噺のロマンチックさがかけらもないほどの小競り合いなわけで。
なんというか、名前に獣の文字が使われてる人はアレやな、というのが前半の印象。
真冬に胸板を突かれて川に落ちているというのに、
泳ぎ上がってきて戦場に戻ってくるとにっこり笑って、「決着をつけにきたよ」って、あーた。
そんなネジの外れた少年漫画のキャラクターみたいな……ねぇ。
でも好きだ。
こういう描写そのものが、生き生きしてて好感が持てるんだ。

そして後半、天空の城として有名な竹田の城だね。
私は不勉強で、ここの城主のことなどまったく知らないままこの話を読んでいたけれど、
伯父さんと甥っ子の心温まるというか血潮の滾るやりとりに、すっかりホの字。
若い者を年配の者たちがからかったりしながら成長させていくんだねぇ。
若い太田垣も、ガッツがあって頼もしいこと。

さてさて、次回も続き。相変わらず南条勢と吉川勢がわちゃくちゃやってるみたいだよ!
2013-01-01

羽衣石山と御伽噺

ハイのハイのハーイ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
あけましておめでとうございます。
昨年中は拙ブログにご訪問くださり、ありがとうございました。
本年も懲りずにお付き合いいただけると幸いです。
突っ込みとかお待ちしておりますので、よろしければ……!
まあそんなに興味を引ける記事は書けないんですけどね_ノ乙(.ン、)_

さて、一年の計は元旦にあり!
あんまりよく読みこめてねえが(毎度のことだよ!)、陰徳記を読もう!
流れとしては、織田と毛利の抗争が本格化したところで、
南条・宇喜多など、毛利方についていた境目の領主たちが織田に寝返り始めた時期だね。
今回は、南条の本拠地である「羽衣石」という地名の由来のお話だよ!


羽衣石山のこと

南条の家城の山は、昔は崩れ岩と呼ばれていたが、
南条豊後守宗勝の父、紀伊守宗晴が改めて羽衣石山と名づけた。

そのわけを調べてみると、この南条の先祖がこの場所を知行していたので、
この山に仮住まいしていたときのこと、ある夕方に一人の女房と行き会ったという。
その女は豊かな髪がまっすぐに伸びて美しく、月のような顔立ちも輝くばかりに艶やかだった。
翠の黛は峰から吹き降ろす強風に消え、紅の裳裾は道の露にしおれて、
たたずんでいる有様がこの世の人とは思えなかったので、
「これはおそらく楚の襄王とかいうやつが、夕方の雨、朝の雲に統を焦がしたという巫山の神女に違いない。
もしくは天の川の紅葉の橋のあたりで契りを結ぶという織女か、そうでなければ、
もしかしたらこの山に住むという大天狗が人に化けて私を誑かそうとしているのかもしれない」と、
心を千々に乱して考えをめぐらせていた。

しかし「いや、天狗でも野狐でもあるまい。きっとこのあたりの裕福な家か貴族の家の人が、
深く家の中で大事に育ててきた娘あたりが、思うことがあって隙を見て出てきただけかもしれない。
私は妻がいない独り身なのだから、春の花や秋の月を愛でても心の傷になるばかりで、
むなしく年を重ねてきた。
浮かんだ雲や流れる水を見ても楽しくもなく、無駄に日を過ごす独り身の悲しさ、
つらさに袂は朽ち、痩せて帯が長くなってしまった。
なんとか伴侶を得たいものだと、寝ても覚めても思っていたところだ。
きっとこれは八雲立つ出雲の国にいるという、縁を結ぶ神様のお助けだろう」と思いつくと、
心は乱れ立つばかりだった。

ちょうどあたりには道を通る人もなかったので、ハッと走り寄ると女の腕をとらえ、
「なあ、それにしてもあなたはいったいどんな人なのだ。
これほど高貴なお姿なのに、どうしてこのような山道に踏み迷っていらっしゃるのか」と、
あれこれと言い寄ってしっかりと見つめた。
すると遠くから見ていたよりもなおいっそうに、姿は花よりも麗しく、肌は玉よりも滑らかだった。
女はそれは恥ずかしそうな風情で、しばらくは何も返事をしなかった。

南条はますます心を定めかねて、
「どうしてそんなに恥ずかしがっていらっしゃるのです。
さあ、お名前を聞かせてください」と責めた。
女は顔をうつむかせて、とても恥ずかしそうに、名前さえ言わない。
その風情からは、源氏物語の夕顔が花のかんばせを曇らせて、
上の空で「影や消えなん」と詠んだ心が思い起こされる。
光源氏が「朧月夜にしくものぞなき」と呟いた人と弘徽殿の細殿で取り交わした扇に
しみ込んだその人の香り、飛鳥井の舎人が問いかけたというその昔まで、
今は身の上に白波の、寄る辺もあらぬ有様を、見るに思いのまさり草、末葉に結ぶ白露の、
消え入りぬべきかんばせに、心の中が思いやられて哀れだった。

南条がなおも「名乗ってください」と責めると、女はようやく口を開いた。
「それほど怪しまないでください。私はこのあたりから近い里に住んでいる女でございます。
先年、この国で乱が起こったときに、父母とは生き別れになってしまいました。
まだこの世に生きていらっしゃるのか、または死んでしまっているのか、それすらもわかりません。
自分の親の住んでいたところですから、心のない草木までもがいとおしくて、
深い蓬を掻き分けながら、三年ほど住んで、親の帰りを待っていました。
山を行く川の流れは昔と変わらなくても、時が移り世が変わると、栄えていた者は衰え、
あったものはなくなって、私も父母に再び会うことができずに、今まで過ぎてしまいました。
その悲しみは天が荒れ地が朽ちても尽きるものではありません。

それに、最近は長築地も崩れて屋根も傾き、部屋も朽ちてきましたし、
門を守る人手もないので、誰かが私の蓄えを奪い取ったり、夜に忍び込んでくるのもとても簡単です。
けれども盗人という輩でも、心ある者は貧しい家のことなど心にもかけないものだそうです。
考えてみれば、一日を暮らす富がないことこそ、かえって身を安全に守る方法だとわかりました。

私の父が自ら丹精して庭に植えた木がありますが、
主はないのに、梅の花は春を忘れずに咲き出します。
花が言葉をしゃべる世の中だったらいいのにと思いながら、
立って見たり座って見たりしたけれども、それで昔のことがよみがえるわけでもないので、
こんな露のような命が消えもしないで、どうして私ばかりがまだ生きているのだろうかと、
涙ばかりが流れ出てくるのです。

花橘の深い香りは私の母の袖の匂いと同じだろうか、などと、
母のいない世で母を偲ぶ形見にして、木陰を歩いては物思いを慰めていたのに、
その橘の木さえ里の人に切り倒されて薪にされてしまいました。
庭の中には角のある牛を放し飼いにし、まがきのあたりには草刈のための馬をつないで、
農婦と同じような暮らしに成り果てました。
日が暮れると梟の鳴き声がほのかに聞こえるだけ、日が昇っても人気はほとんどありません。
狐などという恐ろしい獣がよく通りかかりますが、それでも寂しくてたまりません。

それでも、最初のころは乳人の女房などが皆昔のよしみを忘れずに何くれとなく世話を焼いてくれましたが、
次第に彼女たちを召抱えることもできなくなってしまったので、皆別れ別れになってしまい、
今は一人になってしまいました。
もうどうしようもなくなって、荒れ果てた家を出てきたものの、
行くべきところも涙に紛れて思い出せず、歩き慣れない道に疲れ果ててしまいました。
道野辺の露の玉の緒が絶えてしまえば何の助けもないこの山中に、
今日まで三日間迷い歩いているところです」
女は涙ながらに掻き口説き、この世の頼みの綱は絶え果てて、
誘い引く水があればついてきそうな様子である。

南条はいよいよ心を乱して、
「私がここで行き会ったのは、宿世の縁が浅くないからこそでしょう。
どうか私の粗末な庵にいらして、そこでしばし足を休めてください。
その後で、どこへなりとも、行きたいところへ送っていきましょう」といった。
この女房は、「これほどまでに零落してうらぶれた私を、
そのように憐れんでくださるとはありがたい」と言いながら、
顔を赤らめてとても恥ずかしそうにしていた。
その風情は、薄い紅の花桜が露にぬれてますます色を鮮やかにさせるかのようだった。

南条は、「どんな人の妻であろうが娘であろうが、
今はもう、生きて物思いに押しつぶされるより、この人のせいで身をズタズタに裂かれたとしても、
どうにかして吉野の山に流れている川の名の、妹背の契りを結びたいもだ」と思って、
走り寄ると女を背負おうとした。
するとこの女はたおやかに寄りかかってくる。
その様子は柳の枝が風に靡くような感じで、袖からはただならぬいい香りがした。
南条はまるで、梅が咲く峰に分け入って木陰にいるような気分だった。

南条は、人攫いや盗人と間違われて里の人に捕らわれてはかなわないと、
道で人とすれ違うときには女を深い草むらの中に隠しておき、
どうにかして自分の家へと連れ帰った。

こうして比翼連理の睦言なども交わし、二人で年月を重ねていると、家は次第に富み栄えていった。
それだけでなく、上等な生地の衣のことを考えると、
買い求めてもいないのに櫃の中にそれが満杯になっていたり、
山の幸や海の幸のご馳走を思い浮かべると、これも食材入れの中にいつの間にか入っているのだった。
あたかも、妙なる服が自然に身にまといつき、味のいいご馳走が自然に満ち溢れてくるという、
経に描かれた極楽浄土のようだった。

南条はさすがに考えた。
「この女はきっと仙女か天妃にちがいあるまい。
噂にだけ聞いている唐土の薫永は非常に親孝行だったから、
天がこの人を憐れんで、織女を遣わしてその人の妻にすると、
一日にたくさんの絹を織らせて家を富み栄えさせたという。
また文簫は仙女の彩鸞と結婚することができて鐘陵に帰ったが、文簫が貧しかったので、
彩鸞は孫面の唐韻を写した。
その際、飛ぶように筆を運んであっという間に完成させると、これを売って金に替え、
その金が尽きるとまた唐韻を写して売ることを繰り返し、暮らしていた。
その後夫婦二人で一匹の虎にまたがって千人の世界へと帰って行ったそうだ。
こうした昔の例を思えば、私が手に入れた妻も、こうした仙女なのかもしれない」

南条がなんとも不思議に思っていたところ、女房が持っていた、なんとも不思議な衣を見つけた。
その折り目はまったく乱れずに、色もきれいなまま褪せていない。
「どう見ても人間の宝とは思えない。きっと織女が織ったものだろう」と思えた。
春に花の枝にかけてみると、東風の力を借りずに花がほころび、妙なる色香をその袖に移す。
夏にまとえば手で払うまでもなく、群れ集う蚊の羽音を聞かずに済み、
扇で風を送らずとも、水の中にいるように涼しい。
秋には月の出ていない夕暮れにこの衣を着れば、大して待たずとも袖にさやけき月の影を宿す。
冬にこの衣を着ると寒風に身を犯されることもなく、病気にもならない。
火に近づかなくとも、春の陽光のような暖かさに包まれるのだった。

南条はいよいよ怪しく思って、
「これは杜蘭香が張碩の家に降り立ったときに用いた類のものに違いない。
となると、この衣は伝説の中にだけ聞く『天の羽衣』などというものだろう。
この衣を妻が持っていれば、妻は雲の上へとのぼっていき、
もといた仙宮へと帰ってしまうかもしれない」と考えて、柱の洞の奥深くに隠してしまった。

この女房は衣を隠されると非常に悲しげな様子になって、
最初は陰でこそこそと涙を流し、袂を絞っていたが、
そのうちついに堪りかねて、夫に自分の素性を暴露した。

「もう何も隠し事はいたしません。私はこの天上の仙女なのです。
あなたとは過去の契りが浅くなかったからか、もしくは私自身に罪があったからか、
人間界に落とされて、あなたと夫婦になりました。それから三年がたちました。
あなたと私とは、すでに偕老同穴の縁がしっかりと築けています。
私はそろそろ、もとの故郷に帰りたいのです。
これまで仲睦まじく過ごしてきたのですから、情けをかけてあの衣を返してください」と、
女房が涙ながらに掻き口説くと、南条はこれを聞いて、
「確かに疑いようもなく、この女は仙女なのだ。
私とこのように深く契る仲になったのは、神仏の思し召しだろう」と、
世にもありがたくも嬉しくも思えたので、その衣をさらに深く隠してしまった。

こうして年月が過ぎていくと、その女房はやがて具合が尋常ではなくなって、
月を経て日は満ち臨に及んだ。
そして男子が一人、安らかに生まれたのだった。
南条の喜びようは半端ではなく、
「私自身は身分が低いが、母は天津乙女なのだから、生まれてきた子供はただの人間ではあるまい」と、
丹精をこめて養育した。
この子供は背も高く力も強くて、七歳のころには世人の十六、七歳よりもさらにたくましく育っていた。
きっと成人すれば天下無双の勇士になるだろうと、
父はいよいよ末頼もしく思い、母も慈しみ深く育てていた。

あるときこの子は父に向かい、
「そういえば、母御前のお持ちになっていた天の羽衣というのは、
人間が手にできる宝ではないそうですね。
世の人々がそう申すものですから、私も一目見てみたいと思います。
どうか、チラッとだけでも見せていただけないでしょうか」と言った。
南条は子供を愛する気持ちが深かったので、
「ではおまえには見せてあげよう。
この衣を母に返してしまうと、母はもといた仙宮へと帰ってしまうだろうから、
ここにあることを絶対に母には知らせるなよ」と、よくよく口止めをして、
柱の中から例の衣を取り出すと、子供に見せたのだった。

その後母はこの子に向かい、
「おまえは、私の持ってきた天の羽衣というものを、
父御前が隠しておいてある場所をちらりと見たそうですね。
きっと隠してある場所をよく知っているのでしょう。
私にも少しだけ教えてちょうだいな」と、問いただした。
すると子は母に向かい、「仰せのように、私は父御前にねだってその衣を目にしました。
だから隠してある場所も知ってはおりますが、父が深く隠すようにとおっしゃいましたので、
母上にお知らせすることはできません」と答えた。

すると母は、「父が私に隠しておけと言ったことはきちんと守るのに、
この母が教えてくれということには背くのですか。
どちらも同じ親だというのに、女の身ほど悲しいものはない。
我が子にさえ侮られてしまうとは、世間の人々が女を数に入れないのは道理だわ。
今からは、おまえは父一人の子供となりなさい。私の子ではない」などと掻き口説いて、
一度はすかして一度は恨み言を言った。

いとけない子供は困り果てて、「私が母上に教えたということは、父には言わないでくださいね」と言って、
その衣が入れてある柱を教えてしまった。
女房は一方ならず喜んでその柱の中から衣を取り出すと、服の上に重ねて着た。
その途端、空に舞い上がり風に吹かれて留まることさえせずに、
雲の上まではるかに上っていってしまった。

南条は外出先から帰るとこのことを聞いて、
「もとはといえば、私が子供を愛する心にほだされて、
衣を隠しておいた場所を教えてしまったのが悪かったのだ」と悔いた。
「こんなためしは私ばかりではない。
昔、近江の国に織女が降りてきて水を浴びていると、そのあたりに住んでいた男が、
女の脱いだ天の衣を取り上げてしまった。
織女は天に帰ることができずに、その男を頼って妻となって暮らしていたが、
子を産んで何年たっても、天上に帰りたいという気持ちは失われることはなかった。
それでいつも涙に暮れていたところ、その男が外に行っている間に、
子供が父の隠していた天の衣を取り出してきて母にあげてしまった。
女はすぐにこれを着て天に昇ってしまったそうだ。
この心は古い歌で、『余吾の海きつつ馴れけん乙女子が天の羽衣干しつらんやは』と詠まれている。
こうした例を知りながら、幼い子供に衣のありかを教えてしまった私の心が愚かだったのだ」
と何度も悔いたが、その甲斐もなかった。


その天女が上っていったところは、神坂(かんさか)というところだった。
大きな夕顔があったが、そこから上っていったので、
今でもその夕顔が枯れ残っているところに柵を結いめぐらし、白木綿をかけて崇めている。
このような由来があって、崩れ岩と呼ばれていた場所を「羽衣石」と改め、
「羽衣石」と書いて「うえいし」と読ませるようになったという。
また、この城が千代も万代もつづくようにと、天の羽衣がまれに現れて撫でたとしても尽きぬ心を含ませ、
払石のずっと先の世までも、と喜びをこめた意味もあるのだという。


以上、テキトー訳。

合戦のお話から一転、御伽噺へ!
こうして読むとアレだな、天の羽衣伝説って、けっこう各地にあるんだね。
そんでもって、こういう話の実際のところって、
「女房が男作って出てった」ってのが美化されただけなんじゃんっがっぐっぐ><

子「お父さん、お母さんはどこに行ったの?」
父「母さんはな……母さんは、実は、天女だったので天に帰ったんだよ……><」
というね。さすがに女房に逃げられたってのは、男として外聞が悪いわ。
女房が逃げざるを得なかった理由は様々あるんだろうけれど、
何パターンもこういう話があるとなると、つまりそういうことなんじゃないかと。

天女伝説は、すばらしい女房だともてはやされていた女が、
自分の子供を顧みずに、あっという間に天に昇っていってしまうという筋書きに、
長いこと違和感を感じていたわけなんだけれども、
こうやってその一端を一通り読んでみると、
家庭を捨てて逃げていった女房の話なのかな、などと、得心がいったw

そんなわけでちょっとロマンチックな羽衣石の由来。
次章は、まあそんな羽衣石近辺のお話ですよ。

とりあえず今年も、吉川家をはじめとした毛利家の面々と関係者たち、
陰徳記を著した正矩、そして香川一族を愛することを誓います!!!
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