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2013-01-20

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

うい~っ、webで見られる資料をダウンロードする作業を再開したわけですが(webだと読みづらいので)、
ひたすらクリックするだけで時間が流れる、この虚無感をどうしたらいいの。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
大坂石山の地を我が物にしようと押し寄せる信長、地の利を活かして防ぎ戦う門徒たち。
信長勢が攻め寄せるたびに追い散らしてきた本願寺勢だったが、
いよいよ信長本人が痺れを切らして、自らやってくるぞ!


大坂大寄せのこと

信長は、大坂表の味方が何度も利を失い、
その上原田備中守をはじめとして主力の兵が五百余騎討たれたと報告が入ると大いに腹を立て、
「では大坂を一気に攻め破って、原田の孝養としよう」と、京都を打って出た。
このことは、京都、そのほか伏見・鳥羽・淀あたりに住んでいる門徒たちから、
櫛の歯を引くように本願寺へ告げてきた。

大坂でも、顕如父子四人、そのほか一門・家老たちが集まって、
「信長は来る六日に大坂に総攻撃をかけてくるそうだ。
合戦の作戦を立て、どうにかして勝利を得よう」と会議をした。
そして総軍勢へも酒や肴、果物などを振舞った。

同五日、上人はあちこちの矢倉に上って、諸軍勢に対面した。
上人が「合戦の作戦は、それぞれの大将に言い渡してあるから、下知に従うように。
後生の道のことについては、一念発起、平生業成のものだから、
心配しないように」と言葉をかけると、皆ありがたさに合掌し、感涙を流した。

戦の準備としてあちこちの出城に勢を増やし、中でも鉄砲を大量に構え置いた。
諸軍勢六万余騎は大坂石山の城に立て籠もり、柵や逆茂木を五重に構えて、
その内側に五間ほどもある空堀深々と掘り、またその後ろに総掘をめぐらした。
合図は早鐘とも決まった。
浮武者(特定の戦列に加わらず、臨機応変に味方の援護をする)として、
下間三位・八木駿河守・鈴木孫市・同一楠・田辺平次・根来の小蜜茶・山田新介を大将として、
六万騎のなかから屈強なつわもの七千余騎を選出した。
この浮武者が敵にかかって一戦した後軽く引き、敵を引き寄せて
地の利を活かし勝負を決しようという作戦である。
そして本坊に籠もっている兵四万三千余騎は、先祖を調べ、人柄を吟味した、
敵に寝返る心配のない者たちであった。

信長は五日の日に河内の若江の城に着き、八万余騎を三段に分けて、
同六日の卯の刻(朝六時ごろ)に天王寺までやってきた。
勝曼の塔、木津、森の出城の者たちは、
「ここが最前線だから載り破られるわけにはいかない」と、
鉄砲に弾薬を込め、矢束を解いて待ちかけていた。
信長も、「これまで筒井や原田らが戦利を得られなかったのは、
あちこちの出城から打って出てきた援兵に不意を撃たれたからだ。
小敵であっても侮るなよ」と言って、出城ごとに押さえの兵を差し向けた。

こうしたところに、大坂の七千の浮武者たちが敵を引き出すために駆け出してくると、
敵の先陣へとしきりに鉄砲を撃ち掛けた。
寄せ手の先陣は佐久間右衛門尉・池田などだったが、敵が小勢だとわかると、
追い立てて高名しようと進んだ。
大坂勢には鉄砲の名人が多かったので、入れ替わり立ち代わり撃っていると、
寄せ手の前面の備えが撃たれてばらばらと倒れていく。
これに少々ひるんだ敵に、大坂勢七千余騎が一丸となってドッと突いてかかった。

佐久間・池田らは渡り合って散々に戦ったので、大坂勢は少々突き立てられ、
少しも進めずにさっと引いて元の場所に備えた。
信長はこの様子を見ると、「あんな小勢に時間をかけている場合か。
とっとと討ち取ってしまえ」と下知をなし、自ら真っ先に進もうとする。

羽柴筑前守秀吉はこの形勢を見ると、「この秀吉がいないときにこそ
御自らお手を砕いてくださいませ」と言って、一直線に突きかかっていった。
黒田・蜂須賀・中村・堀尾・尾藤・神子田などの者たちも真っ先に鑓を入れ、
「エイエイ」と声を上げて進んだ。これを見て、諸軍勢も一気に打って出る。

大坂勢はもともと敵を誘うために退いたのである。
羽柴という大剛の大将に突き立てられ、大坂目指して退いていく。
信長は大音声を上げて「この勢いに乗じて城になだれ込んで乗っ取ってしまえ」と下知をなし、
逃げる兵を徹底的に追わせた。
大坂勢七千騎は、かねてから引くべき場所を決めていたので、
七手に分かれて柵の内側へと引き上げていった。
敵は追いついて、柵の木を切り破ろうとする。
大坂勢は柵を破られまいと鉄砲をしきりに撃ちかけ、身命を捨てて戦った。

寄せ手は、昔から強将の下に弱兵なしと言われているように、
大将は信長、それに従うのは羽柴などの人々である。
足軽などに至るまで、勇気盛んな者たちだったので、射られても突かれてもひるまずに、
五重の柵の五寸や六寸の太い木を半分ほど揺り立て、固めてある縄はすべて切り破った。
五間余りの空堀は死人で埋め立てて平地にし、仮設の塀一重を隔てて楯と楯を突き合わせ、
幟と幟が交わるほどに近づいて攻め戦った。
あまりに間近に詰め寄られて、大坂勢は弓も鉄砲も役に立たなくなった。
鑓・長刀・太刀ばかりでの最後の勝負となった。
かろうじて鉄砲を撃ち出しても、その火は自分の身を焼くようなものだった。

敵味方の人々は交互に鬨の声を上げ、それは数百数千の雷電が黒雲を帯びているかのようであった。
けれどもまだ合図の鐘は鳴らず、寄せ手は勇み誇っている。
もう仮塀が打ち破られてしまうと、危機一髪に思えたところに、このときとばかりに、
顕如上人が「一声称念の利剣を揮い、八万四千の修羅を降さん」と、
赤い衣を着て高櫓に姿を現した。
これを見て、天台・真言・法相・三論・禅・浄土、諸宗誹謗の日蓮宗などの者たちは、
「あれを射伏せろ」と鉄砲で狙い撃ちにしたが、
猛勢が詰め掛けているので手元がまったく自由にならない。
筒先はあさっての方向を向き、上人の近辺に当てることさえままならなかった。

浄土真宗の門徒たちは、上人が姿を見せるや否や、撃つことはさておき、
皆頭を地につけて、すべての雑念を捨て、一心に
「阿弥陀如来、今回の我らの一大事、後生をどうか助けていただきたいと、
一途に阿弥陀如来に頼みをかけてきました。
その頼みをかけた一念のときに、私の往生は定まったと心得ております。
阿弥陀如来のお助けのご恩、ありがたく思います」と念仏を唱えだした。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えて感涙に咽び、
弓・鉄砲さえも地に投げ出しそうな様子である。

上人が金の団扇で敵の方をひらひらと指し示すと、宗門の者たちはこれを見てまた合掌し、
「このような道理を聞くことができ、入信できたのは、
ひとえに御開山様が世に現れてくださったご恩によるものだと聞いている。
真の善如識様が地上に権化なされたことをご恩だと、ありがたく存じて仰せ出だされたのだ。
わが命の一期の間、そのご慈悲をもって見守ってくださっていると思っております」と呟き、
鑓・長刀で突くことや切ることさえ忘れて、「南無阿弥陀仏」とばかり唱えていた。

城中の兵たちは、上人が出ると同時に、一命の惜しさも敵の恐ろしさも忘れ果て、
ただ一筋に「如来・祖師ならびに現在の上人のご恩に報謝するために討ち死にするぞ」と思い定め、
矢間から鑓を突き出す者もあり、まあた塀の破れから切って出る者もあった。
一気に敵をくじくために、命を塵芥よりも軽く思って防ぎ戦う。

こうしたところに、紫の絹に「南無阿弥陀仏一心不乱」と金泥で書いた旗をさっと差し上げると、
早鐘がジャンジャンと突かれた。城中の兵たちの働きがすさまじかったのか、
また早鐘に何か意味があるのかと臆病神が背後に乗り移ったのか、
何事かは知らぬまま、寄せ手は南東の方角から裏崩れして、南西の方へと退却した。
羽柴・佐久間・筒井などの諸将は言うに及ばず、
備えごとの将たちも「なぜ崩れてくるのだ。返せ、戻せ」と下知したが、
大勢が浮き足立ったので、吉野の滝を素手で堰き止めるようなもので、
総軍勢は一気にドッと瓜が潰れたようになった。
城中にいた浮武者七千余騎は、「それ見たことか。敵が退いてゆくぞ。
追いかけて討ち取ってしまえ」と、我先にと打って出る。

寄せ手は八万に余る大勢なので、引き返して防ぎ戦おうと思う兵は幾千万もいただろうが、
浮き足立った大群なので、共崩れになってしまった。
寄せ手が後ろも顧みずにひたすら逃げていくので、大坂勢は天王寺まで追い詰めて切り捨てにしていった。
けれども大坂では、「さしもの名高き信長なのだ、またどんなことを仕掛けてくるかわからない。
勝って兜の緒を締めよとは、こういうときのことをいうのだ」と気を引き締めた。
櫓ごとに鉄砲を構え、門・塀の担当はそこを離れずに兵を置き、門外には一人も出ずに控えた。

近国から集まってきた門徒たちは、あるいは老年、または年端もいかない子供も多かった。
志はあっても、籠城戦となれば親は子の足かせになり、
子は親に後ろ髪を引かれてしまうだろうからと、皆家の中に籠もる者もあり、
または山上高く上って大阪の方を見やり、戦況はどうなっているのかと心配する者もいた。
彼らはたまりかねて、二十人や三十人で連れ立って大坂の近くまで来ており、
それが方々から集まったので、一万人以上にもなった。

この者たちは寄せ手が引いていくのを見ると、岸の上や藪の陰から石で打ったり、
棒や竹竿、鎌、手斧で叩きかかる者もいた。
逃げることしか頭にない寄せ手には、竿も棒もすべて鑓・長刀に見えたので、
「ここにも敵がいる」「あそこにも伏兵がいた」と思って、
散り散りになって足の限りに逃げていった。

老武者や、肥え太っている者で馬とはぐれた者は疲れて倒れ伏し、
または休んでいた者もいたが、それを押さえつけて首を取り、鎧を取り、
鑓・長刀を奪い取って、集まってきた一万人の者たちの多くは一端の武者になった。
この勢いで老い衰えた足もしっかりとしたので、屈強な武者たちをその後も数多く討ち取った。
死んだ者たちは、こうして易々と老人や子供に討たれるような兵ではなかったが、
信長が邪険放逸で仏敵法敵となってしまったがゆえに、諸仏の冥罰を蒙ったのだろう。
骨折り損のくたびれもうけで、鯨魚が横を螻蛄や蟻に制されてしまったかのようだった。

こうして総軍が崩れて退いても、信長はなかなかの大将だったので、
天王寺に兵を引き入れるとすぐに軍士に下知をなし、
「この勢いに乗って大坂から逆に攻め寄せてくるかもしれない」と、
備えの用意をさせて待ち受けさせ、少しも臆した様子は見せなかった。
寄せ手は数千余騎が討たれ、大坂勢は十人も戦死しなかったということだ。
信長がこの鬱憤を晴らすためにまた攻めてくるのではないかと大坂勢が思っていると、
翌日の早朝に、信長は細川兵部大輔藤孝とともに若江の城まで退いていき、
敵の押さえとして天王寺に佐久間父子を残していった。


以上、テキトー訳。

ちょっとこの章は、私にとってはだいぶ衝撃だったわ……
まず信長、降格した原田でも、自分の部下はやっぱり大切なんだね。
あと秀吉、本願寺攻めにいたのね。
「この私がいるんですから、大将は引っ込んでてください!」とか、カッコイイじゃねーのw
黒田ってあるのは、クロカンさんのことよね?
いたの……ぜんぜんイメージなかった。けど、時期的にはいてもおかしくないのかな?
調べたい気持ちはあるけどとりあえず置いておこう。

衝撃的なのは、まあ一向宗の動きですよ。
正直ちょっと引いた_ノ乙(.ン、)_
顕如上人、顔出すだけで士気がおっそろしいことになるって、どんだけ。
読んでてゾクゾクして楽しかったけどね。
逆転大勝利とか、ドラマ性があるもんね。

あと、方々から集まってきた門徒の人たちもおっそろしいね。
棒・竿・鎌・手斧……正直、鑓・長刀よりも、こういうのが武器になってる方がゾッとする。
身近にあるものが立派な武器になるんだよね、というこを再認識させてくれるからね。

てなわけで、まだもうちょっと大坂の話が続くようです。
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2013-01-20

浅野幸長と黒田長政の話

吉川ネタなどを渉猟中に、たまたまナイス!なお話を見つけたので、
なんとなく訳して掲載。
しかし吉川関係ないよ。
ついったで呟こうか別のとこに投稿しようか迷ったけど、
呟くには長すぎるし、投稿するにはまとめ切れんので、こちらでw


黒田長政、紀伊に幸長の病を訪なう

浅野幸長が病のため江戸への参勤を控えていると、
ある日突然、黒田長政が小船に乗って紀伊の城にやってきた。
見舞いのためだというが、そのころの法度では、
大名は互いに国もとに見舞いに行くことを固く禁じられていた。
幸長は城に長政を招き入れ、終日話をした。

日が暮れて、「須本に船を着けているから、これから帰る」と言う長政を、
「この港は見た目とは違ってたいそうな難所で、小船でさえ簡単に出られないのに、
日が落ちてから大船で出るのは無理だ。泊まっていってほしい。
せっかく見舞いに来てくれた人に怪我をさせるわけにはいかない」と引き止める幸長。
長政はその夜の帰船をあきらめ、夜通し幸長と話をして、早朝に茶の湯をしてから出発した。

幸長も、自分の家老や物頭たちを船に乗せ、自分も乗り込んで、川口まで長政を送っていく。
道中、家臣たちを一人ひとり長政に紹介し、長政も彼らに言葉をかけた。
河口に着くと、長政は自分の船に乗り換えたが、
幸長は小姓の永原大膳を小船に乗せ、長政の案内のために差し出した。
そのとき幸長は、小姓に「大膳、絶対に沖を案内するなよ。
松江浜を通って加田の多倉崎へとお通しするように」と申し付けた。

さて永原の案内で船が進んでいくと、中松江で大波が一つ押し寄せ、
長政の船に覆いかぶさった。
何とかしのいで「やれやれ」と言っていると、また大波が来る。
大膳も大慌てになり、どうにか船に下知をして脱出させた。

須本まで到着すると、長政は大膳に色々と馳走して、
刀などを与えてから幸長のところに帰した。
幸長は川口浜で幕を張り、酒宴をしていたが、
「永原の船が見えました」と報告が入ると、幸長は大喜びでそれを待ち受けた。
大膳が着岸して、一通り別れの挨拶を済ませてきたと報告すると、
幸長は不機嫌になって、「それだけか」と尋ねる。

永原は赤面して、少ししてから話し出した。
「本日は困ったことがございました。黒田様のお船へと、大波が二つも当たったのです。
黒田様は屋形の戸を立てていましたので、あの程度では濡れなかったでしょう。
しかしそのほかの上士下士は、皆ずぶ濡れになっていました。
まったく難儀いたしました」と言う。

幸長はこれを聞くと上機嫌になり、
「よしよし、よくやった。それを聞きたかったのだ。さすがは我が小姓だ。
馬の先で役に立とうという者が、そんなことに気付かないわけがない。
あの筑前(長政)めは、家康の内意で見舞いに来ていたのだ。
この幸長が、江戸・駿府へ行かないのは悪意があってのことだと疑い、
様子を見てくるようにと申し付けたのだろう。ただの見舞いのはずがない。

もし明日にも幸長を退治するという話になったときは、
我が国の港ををよく知っているからと、筑前が西国から一番に船を出してくるだろう。
そうなったら大変だ。
今日こうして波を食らわせておけば、長政は「紀伊の港はなかなかの難所だ」と思うはずだ。
それに他の西国の奴らも、皆それを聞いて恐れるに違いない。
和泉方面から攻めてくるなら、敵は山越えをしなくてはならないから、
こちらが勝つに決まっている。

さてもさても、筑前めの肝を潰してやったわい。満足満足」
と言って城に入っていった。
(浅野長政公伝)


以上、テキトー訳。

おまいら、仲がいいんですか悪いんですかwww
幸長は深慮とかではなくて、ただ長政にいたずらしたかっただけじゃないの?
船旅多い長政が波くらいでビビるとは思えないし、
紀伊の地理知ってる人間なら他にいくらでもいるしな。
なんたってほら、長政は川に落ちても溺れながら敵と戦ったくらいの人ですしおすし。
ちょっとしたイタズラとして見ると微笑ましい気がする。

しかし長政、家康の密偵みたいなことしてんのな。
広家とのつなぎも長政だったっけ。よく働くこと。
広家も慶長12年には病気で参勤できなくて、疑われて、
長政が取り成してくれたから「ありがとう」って書状(しかも起請文)を送っていたはず。
まあ私は個人的に、この起請文には思うところあるわけだが。それは追々。

とりあえずこのお話は、近代デジタルライブラリーで読めます。
訳はだいぶ不安なので、気になったら原文をご参照くださいませ。

近デジ、たまに面白い話にブチ当たるからやめられない。
使い勝手悪いのに……><
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