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2013-02-28

馬上の若武者、汝が名は元春

呑んできまった(*´∇`*)~*ウイック
酒はいいねぇ。心を豊かにしてくれる。懐は寒くなるがな。
しかしあと1週間くらいは納期に追われることはなさそうだな……だといいな。

時間があったので陰徳記。
だいたいの流れ:天文十七年~十八年ごろ、神辺の杉原忠興を平賀に攻めさせつつ、
元就・元春・隆景は山口の義隆のところに拝謁に行ったよ!
陰徳記では隆元も一緒に行ったことになってるよ!
そんでもって今回は、山口から安芸に帰ってくる元就一行の話。


右馬頭元就帰城、付けたり深野入道未来予言のこと

翌けて天文十八年三月十日、元就様父子三人は芸陽の吉田へと帰城してきた。
隆元様はしばらく山口にとどまった。
お供として、志道上野介広良・桂少輔七郎・赤川又三郎・児玉弥七郎・
興禅寺の了東堂などが近侍していた。

さて元就父子が山口を退出すると発表があると、
山口三万間に居合わせた貴人も賤民も僧も俗人も、それだけでなく近隣の男女までが、
山口・鰐石・鯖山・防府あたりまで群れ集って、肩を組んだり袖を触れ合わせながら見物した。
「大内家には近江黒(陶隆房から元春に贈られた名馬)に乗る者はいないから、
きっと元春が乗っていらっしゃるのだろう。
これを見てみたいものだ」と皆目を凝らしていたが、
そこに元春様が、金具に波岸を浮かばせた金覆輪藤の丸に三引領の金物を打った鞍を乗せ、
紫の濃房をかけて尻の革の引っ掛けに熊の皮の泥障をつけて、金鐙をかけて乗って出てくる。

近江黒は気質が荒いのでしきりに逸り、蹄を何度も打ち鳴らしながら足を跳ねさせて躍り上がる。
元春はそれを力任せに乗っていたので、近江黒の口は避け、
白い泡が左右に流れ出して轡を伝い、流れる血も混ざって薄紅になった。
二筋より合わせてかけていた手綱も役に立ちそうにはなかった。
これを見ていた老若男女はすっかり感心して、
「元春は器量といい骨柄といい、なんと勇ましい良将だろうか。
義隆卿が深く気にかけなさって陶と兄弟の契約を交わさせたのも道理だ」と、皆感嘆した。

見物の衆の中には、年齢が七十以上かと見える白髪の老翁が一人で杖にすがり、
群集に揉まれながら額から顎まで滝のような汗を流していた。
その老翁が鼻水を押し拭う様子を見ていた人々は、
「まあ、とんでもない年寄りが見物していること。
あんな老人は、ただ家の中に引き籠もって布団を担ぎ、埋もれ火に足をかざしながら、
煮た餅や煎茶を楽しみ、北枕で眠っていればいいのに。
起きたら念仏でも唱えるか、そうでなければ参禅学道に励めばいいものを」と、
憎らしげに思っていた。

老翁は意に介さず、辺りの者たちにこのように語ったそうだ。
「なんとまあ、元就の果報はすばらしいものだ。
少しずつ武威も盛んになり、いずれは中国の大将になるだろう。
きっと十年以内にそうなるはずだ。

国に意見する家臣がいればその国は必ず安定し、
家に意見する子があればその家は必ず栄えるという。
となれば、家の盛衰は子の賢・不肖に左右される。
嫡子の隆元は勇も優れているが、愛和の道にも深い理解があり、そのうえとりわけ孝行者だという。
舜王は孝をもって天下を治めたそうだから、隆元もまた数ヶ国を統治できる器だ。
次男の元春は智・仁・勇ともに備わった武将の器だと聞いている。
元就のもとに元春がいるのは、唐の高祖神尭皇帝に世民がついていたようなものだ。
三男隆景は才知が世に傑出した仁将の器だと聞く。
この私も、あと十年ほど生き延びて元就の行く末を見てみたいと思うよ。
これにつけても、隆元と内藤興盛との所縁が結ばれ、
元春と隆房の兄弟の契約が取り交わされたというのは、すばらしい謀だと思う。

しかし元就はもう五十を過ぎたようだ。
若いときは丹比でたった七百貫を領し、
その後二十七歳で毛利家を相続して吉田の三千貫を知行されたという。
大内・尼子という名大将、元就より百倍も大身の弓取りの間に挟まれていらしたからか、
元就自身はまだ一国の主にはなれていない。
きっとこの人は、大内を後ろ盾にして尼子を滅ぼしてしまうだろう。
もしこの人が備芸石の地を手に入れたならば、後々は大内の家に災いをもたらすだろう。
大内・尼子の両家が元就の手に属せば、天下に旗を挙げることだって簡単なことだ。

しかし元就の年齢ははや百の半分を過ぎてしまった。
天下の権勢をつかさどるまで、命が続くかわからない。これだけが元就の完全さを欠く。
ああ、この人の歳をあと十歳か十五歳若くして、
私もまた三十ほど若返って、行く末を見てみたいものだ。
そのときがくれば、このじじいの未来の予言はまるで神の子のごとくであると、
人々も思うだろうに」老翁はそうもっともらしく語ると、
涙を押し拭い、鼻汁を啜り上げ、杖にすがってよろめきながら帰っていった。
いったいこの老翁は誰だろうと思っていると、後に聞けば深野の入道という者だったということだ。


以上、テキトー訳。

深野の入道って誰やねん……?
思い当たる節がまったくないのが残念だけど、
元就や元春らのすごさを周囲のモブ的なキャラクターの口を借りて喧伝するというのは、
実によく見られる手法だね、正矩w

今回のハイライトは近江黒にまたがる元春だね!
キャーカッコイイ! こっち向いて!
私もそばに行ってバシャバシャ写真撮りたかったぜ……
うまく撮ったり撮った写真を整理する能力は欠けているんだが(だめじゃん)。
しかし暴れ馬に力任せに乗っていいものかどうかはちょっと疑問www

さてさて、次の章は義隆様が本領発揮するっぽいよ!
何の本領って、あれであすよあれ。
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2013-02-27

押しつ押されつ神辺合戦

うええ、予想的中で残業が引き続いてますよ。コンバンワ。

さてさて陰徳記、天文十七年ころの毛利家周辺の情勢という感じかな。
前回読んだのは、大内の陶隆房を大将に、毛利家の面々が尼子方の杉原忠興の神辺城を攻めたとこらへん。
元春が大活躍して杉原播磨守盛重と接戦するも決定力に欠け、
杉原に遺恨があるからぜひ任せてほしいという平賀隆宗に任せて、陶・毛利などは兵を収めた。

この間毛利家は元就・元春・隆景などが山口に下向して大内義隆に拝謁し、
隆元の嫁さんが決まり、元春と陶隆房が義兄弟の契約を交わした……というのは、
ずいぶん前に拾い読みしたお話。
今回はその続きから。


平賀・杉原合戦のこと

平賀隆宗・杉原忠興は、互いにいずれも劣らぬ大の剛の者だったので、
毎日打って出ては足軽競り合いをしていた。
同年十一月十九日、杉原播磨守盛重。同左衛門太夫が七百騎を率いて平賀の向城へと攻め寄せた。

盛重は、「足軽をそろえてこの城に籠もっているということは、
杉原の城を攻め落とすつもりだからだと聞いております。
それなのに、このように戦を決することもなく、
いたずらに日数を送っていらっしゃるのをよくよく考えてみると、
単にこの城が盗賊などに侵入されないように、用心のために籠もっていらっしゃるのですかな。

となれば、我が主忠興にとって、隆宗はとてもいい協力者です。
今後は盗賊を恐れることもなく、雨風の厳しい嵐の夜にも、
安心してくつろいで眠ることができます。
これも皆隆宗のご恩だと思います。
たった一人で我が城を攻め取ろうと仰ったというのは、
世の人々の口さがなさゆえの間違いでありましょう」と挑発した。

隆宗はこらえ性のない男で、
「播磨守め、憎いことを言うものだ。今から目にもの見せてやろうではないか」と、
五百騎ほどを率いて打って出た。
隆宗は弟の隆祐に向かい、
「あの敵を引き寄せて一人残らず討ち取ってやろう。
おまえは麓へと下って足軽をけしかけ、矢戦をして弱々しく引いてこい。
十分に引き付けたら、無二にかかって討ち取ってやる」と言って、
隆祐へと三百余騎を添えて山を下らせた。
自身は二百余騎で、旗を巻いて城の戸を出ると、道の途中に控えて待ちかけた。

さて隆祐は麓に駆け出て行くと、杉原の軍勢に立ち向かって矢戦を始めた。
一矢射ては引き退き、引き退いては一矢射て、四、五町ほども引いていくと
敵は勝ちに乗って山の半腹まで攻め上ってきた。
隆祐は「そろそろいい時分だ」と思って、自分がまず一番に取って返す。
これを見て、合図のために山頂に置いておいた者たちが太鼓を打ったので、
「やっと合戦のときが来たぞ」と、隆宗と二百余騎は右手の方の深い谷から真っ直ぐに駆け出し、
敵の横合いに切ってかかる。

杉原左衛門太夫・同播磨守は名うての勇士だったが、
敵の奇兵に不意を撃たれてはかないようがない。
たちまち押し立てられて、一度にどっと潰れてしまった。
隆宗は追いかけながら敵を五十余人ほど討ち取った。
「先ほどの言葉に似合わず、よくも逃げていくものだな。
さあ引き返してこい、左衛門太夫。戻ってこい、播磨守」と呼ばわったけれども、
杉原は取って返してもかないようがなかったので、城中目指して引いていく。

翌日、また敵味方で足軽競り合いをしていると、杉原播磨守はこれを遠くから眺め、
昨日の恥を雪ごうと、鑓一本に弓一張、太刀を持った徒歩の者を一人ずつ組み合わせ、
数百騎の足軽をそろえて、隆宗の本陣に無二に切ってかかった。
隆宗が少々油断していたうえ、兵数も少ない。どうにもかないそうになかったが、
隆宗はまさに最強の剛の者だったので少しもひるまず、
馬を一面に並べ立てて、しばらくの間は防ぎ戦った。

しかし敵は昨日の負け戦の鬱憤を晴らそうと、
敵陣を破れなければ戦死しようと一筋に思い切って戦っている。
それに杉原左衛門太夫は昨日の合戦で傷を負って臥せっていたが、
播磨守が出たと聞くと、具足さえつけずに馬に飛び乗り、五十騎ほどで後に続いてきた。
これでは隆宗には勝ち目はない。
隆宗は敵陣をキッと睨み、「どうやら担がれたな。一人として生きて城へ帰すな」と兵を鼓舞し、
ドッとかかっていく。さしもの杉原勢も四、五反ほど引き退いた。
隆宗は、「かかるも引くも時によるものだ。さあ今こそ引け」と下知をして、真っ先に退却した。
兵たちも我先にと引き退いた。

これを見て、盛重らは逃がすまいと追いかける。
隆宗は一番に取って返して追いすがる敵を払いのけてはさっと引き、引いてはまた取って返す。
そうしているうちに馬を射られ、危機一髪というところに、
向城から弟の隆祐が、「このままでは味方が皆討たれてしまう」と言うや否や、
四、五百騎で打って出てきた。

これを見て盛重は、「昨日のお返しは思う存分してやったぞ」と喜んで、
首を四、五十ほど討ち取ると、整然と兵を収めた。
隆宗は十死に一生を得て城に帰り、
「杉原には一度も背中を見せたことなどなかったのに、
あの播磨に不意を突かれて退却するとは、口惜しいものだ」と、歯噛みをして立っていた。

翌日二十一日、また足軽競り合いをしていると、隆宗はいつものように鉄仕立ての鎧を着て、
屈強な兵を三十人ほど選りすぐって敵の足軽を軽々と押し立て、
逃げ散る敵には目もくれずに、そのまま城中へと駆け込ませた。
そこで古い小屋に火をかけさせると、すぐに駆け出てくる。
城中の兵たちはこれを見ると、
「今の武者は隆宗だぞ。まったく油断していて打ち漏らしてしまった」と、
太刀や長刀を持って追いかけてくる。

平賀城へと入るときに、三の丸の堀の橋の下へと、誰かはわからないが一人隠れている者があった。
その者は、恐怖のあまりに隆宗とともに城に入らなかった。
なんという臆病者だろうと皆が思っていたが、実はそうではなく、
また敵が追いかけてきたときに、その橋の下から太刀で数人の敵の足を薙ぎ払ったので、
隆宗は無事に退却することができた。
後から「あれは誰だ」と尋ねてみると、坂新五左衛門だった。
そのころはとある事情があって吉田(毛利家)から離れ、浪人して平賀に身を寄せていたが、
こんな働きをしたということだ。


以上、テキトー訳。

杉原も平賀もかっこよろしいな(*´∇`*)
毛利方の平賀はもちろんのこと、杉原も毛利傘下に入ってから大活躍するんだけどね。
そんでまあ、つらつら調べているうちに面白い情報に行き当たったんだけど、
香川春継(『陰徳記』著者、香川正矩の祖父)の妻(継室)がね、
杉原盛重の娘だという系図があったんデスヨネ……本当かしら。
しかしこの盛重ageっぷりを見るにつけ、杉原の血が正矩にも受け継がれていると見てもいいのでは。
なんてことを思って読んでおりました。
あ、そういえば神辺城合戦は隆景の初陣という線が濃厚なんだっけ……?

香川家の詳しい系図はまだ行き当たったことがないので、岩国に行って某館に籠もりたいお!
しかしそこにある史料が毛筆でかつ崩し字だった場合、敗戦決定だお……!←読めない。
家臣筋の系図の翻刻刊行、手ぐすね引いてお待ちしておりますぜ徴○館さん!
森脇・小坂・宇都宮・宮庄なんかもよろしく頼みますホントに。
PDFデータベース公開とか……無理ですよねそうですよね。

さてさてお次は、山口滞在を終えた元就一行のお話だよ!
でも明日は、もし早く帰れたとしても、私は呑む! 呑むぞおおおお!!!
2013-02-26

若武者元春と陶兄さんと私の盛重

隆景の沼田相続読んで、ついでなので同じような時期のまだ読んでないところを埋めていくよ!
今回は、下巻を読んでてものすごく気になった杉原盛重の登場回っぽい。

物語の流れとしては、前回の隆景の沼田相続
吉川興経が家臣団と不和になって元春の吉川家相続決定
元春の嫁取り
元春の吉川家相続ときて、今回のお話。
合戦だ合戦だ! ひゃっほい!!!


備後神辺城合戦のこと

備後の国の神辺の城に、杉原(本姓山名氏)宮内少輔忠興(理興)という者がいた。
山名師氏の末裔である。
先祖の勇を受け継いで、力持ちの精兵ばかりだったので、近隣の者たちは恐れおののいていた。

先年、大内義隆卿が出雲に発向したときから尼子に属していたので、
備後の国人たちも皆杉原の武威を恐れて大内に背き、尼子に靡き従っていた。
そのため義隆卿は、忠興を討伐するために陶尾守隆房を大将として、防長の軍士五千余騎を差し上した。
安芸の国の御家人や役人らを統括して、毛利右馬頭元就父子四人(元就・隆元・元春・隆景)も
陶の手に加わったので、宍戸安芸守(元源)・同雅楽頭(隆家)・平賀太郎左衛門尉隆宗なども加わって、
八千余騎が神辺表へ出張した。
天分十七年六月二十日のことである。

忠興はなかなかの勇士だったので、大軍の敵を少しも恐れずに、足軽出して防ぎ戦った。
同二十三日、吉川治部少輔元春は、吉川家を相続してから今回が初めての戦になるので、
諸人の目を驚かす一戦をしようと、手勢の六百余騎を率いて敵城の麓へと攻め寄せた。
少し高い場所に馬を控え、足軽をあちらこちらに分けて放つと、民家に放火させた。

杉原忠興はこれを見て、城中には叔父の弾正忠を残し置き、自分は一千余騎を二手に分けて、
同名左衛門太夫に三百余騎を差し添えて放火を防ごうとしているように見せ、
寄せての足軽に無手と渡り合って散々に防ぎ戦う。
吉川の先駆けの兵たちは敵が小勢と見るや、勇み進んで我先に討ち取ろうと駆けつけ、
敵を漏らすまいと攻め戦う。

忠興はこれを見て城の後ろのほうから軍勢を下し、
茂っている林の陰からドッと叫んで元春の旗本へと切ってかかった。
一時に勝負を決しようと、揉みに揉んで攻め戦った。
忠興は前もって、兵たちにこう下知していた。
「戦に時間をかければ、元就が駆けつけてきて元春を助けるだろう。そうなれば勝利は得がたい。
どうにか一戦のうちに元春を討ち取るのだ。
いわゆる、『にわかにこれを用いればすなわち勝ち、おもむろに之を用いればすなわち負ける
(六韜 疾戦第三十三)』とは、こういうときのことを言うのだ。
皆が勇気を振り絞って死ぬ気で戦えば、我が方の勝利は疑うべくもないぞ」と鼓舞していたので、
杉原播磨守盛重が真っ先に進んで駆け入っていった。
吉川勢はあっという間に追い散らされた。

治部少輔元春は今年十九歳、勇気盛んな若武者だったので、敵の大軍にも少しも臆さずに、
大音声を上げて諸軍勢を勇め、采配を振るって下知をなした。
四百余騎の兵たちも、射られても切られても少しもひるまず攻め戦う。
けれども、杉原忠興の軍勢は大勢である。
それに不意を撃たれたので、吉川勢はどうにもかないそうになかった。
そこに、元春が鑓を引っ提げて真っ先に進み、敵を叩き立て数人を突き退け、身命を惜しまずに戦った。
杉原盛重が怪我をして少し引き退くと、これに力を得て吉川勢がしきりに進んで戦ったので、
さしもの宮内少輔忠興も、ついには戦利を失って引いていく。

これを追いかけると、忠興は城の作の間際で取って返して、しばらく防ぎ支えた。
そこに今田上野介・森脇内蔵太夫が、鑓を入れて突き立てる。
二宮弥五郎は弓を持って続いて進んでいたが、敵数人を射伏せたので、
忠興はまたここも破られて城中へと逃げ入っていった。

陶尾張守はその後すぐに元春の陣所へと来ると、
「今日はご自身で手を砕かれたからこそ、敵軍が敗北したのだ。
はじめの合戦であなたが敵を追い立てられたので、敵は恐怖して勇気を失っていることだろう。
この城は必ず落とせる。
しかしながら、自分の勇を誇って手ずから敵に鑓を合わせて戦を決するというのは、危ない行動だ。
今後は慎んでくれ」と言ったそうだ。

忠興はこの合戦に利を失って無念に思ったのか、その後また五百ほどで打って出てくると、
足軽競り合いを始めた。
宍戸雅楽頭隆家が、手勢の七百ほどを引き連れて馳せ向かい無手と渡り合って攻め戦う。
隆家の郎党の江田重介(元勝)という者と、
忠興の手の者で長田左京亮・壇の上監物という者とが渡り合い、鑓を合わせて防ぎ戦った。
そのほか宍戸家の中所(なかぞ)少輔四郎(元信)などが比類のない働きをした。
敵にも味方にも手負いや死人が数多く出たので、互いに戦を控えて左右にさっと引いた。
陶隆房は、「宍戸の働きは抜きん出ている」と大いに感賞した。

その後は仕寄をつけて昼夜の境もなく攻めたけれども、杉原忠興は近国無双の勇士だったので、
敵の大軍にも少しもひるまずに防戦した。
城の地は険難で将兵ともに剛強である。
それに城に籠もっている軍兵は千五百余人もいたので、どうやっても落城しそうには見えなかった。

平賀太郎左衛門尉隆宗は陶尾張守に向かって、
「私と忠興は、とある事情があって、これまでの遺恨が山のようになっております。
あまりにあやつが憎いので、あやつの所領をすべていただけるならば、
この隆宗一人の智略をもってして、忠興の城を落としてご覧に入れます。
あやつの頸を太刀の先で貫いて、これまでの鬱憤を散らしたいのです」と望んだ。
隆房は「それなら隆宗の所望に任せよう」と少々したので、
平賀は大いに喜んで、「では向城を構えますので、その援助をしてください」と言った。
隆房はすぐに全軍へと人足を差し出すようにと触れまわり、
向城を一通りこしらえて平賀に渡すと、陶・毛利・吉川・小早川・宍戸らは開陣した。

太郎左衛門隆宗は向城に八百余騎で立て籠もったので、
杉原宮内少輔はこのことを聞いて、
「平賀め、私に遺恨があるからといって、この城をたった一人で攻め落としてやると荒言を吐いたのだな。
憎い小男の考え方だ。
すぐにあいつを生け捕りにしてこの城の門外に引き据え、首を刎ねてやるぞ」と躍り上がり、
それは激怒したそうだ。


以上、テキトー訳。

ぐぬぬ、元春かっこええな……十九歳か。この歳ですでにパパなんだよなジュルリ
私は乳幼児を抱いた男性になんだかズキューンときてしまう癖があるので、
ちょっと若武者で若パパっていう元春は本当にツボなんであいすみませぬ。
脳内が一足お先に春爛漫です。
実際は鼻の頭が痛くなるほどに寒いのにな(暖房つけろ)。

杉原盛重と元春は、この後もいろいろあって固い絆で結ばれちゃうことになるので、
この邂逅はなかなかにおいしいですな。
好敵手としての出会い……どこの少年漫画だよ。だが好きだ。
盛重は元春より若いというか隆景と同い年くらいだったよね。
その年齢で命も惜しまずよく働くこと。

そんでまた、元春とこの次くらいの章で義兄弟になる陶さんですよ陶さん!
元春の陣まで来て「すばらしい働きだが、今後は危ないことはやめてね」ってアンタ。
気遣いというか優しさが意外なんだぜ陶さん。
いやたぶん山口に人質に行ってた隆元を遊びに誘ったりしてたから、もともと優しいんだろうけど。
これが伏線か! 伏線だったのか!!!
だから順番どおりに読み進めろってあれほど><

そんなわけで、次回は以前読んだ二章(毛利家山口下向隆元の婚礼)を飛ばして、
その次を読みたいと思いまうす。
目次見ると平賀・杉原の合戦だね。狙ったかのように今回の続きじゃねえか。
2013-02-24

【再開】 隆景の沼田相続

お久しゅうございます。
恥ずかしながら、ようやく舞い戻ってまいりましたヾ(*´∇`*)ノシ
約一ヶ月ぶりだな……お待ちくださっていた方には申し訳なく思います。
旅行も無事に済み、写真整理できたら旅行記もアップいたしまする。
写真撮る習慣がなかったからね、まさか自分が1,000枚近く撮ってるとは思わなかったんですよ。
舞い上がりすぎたなぁ_ノ乙(.ン、)_
旅行先で仕入れてきた資料読んだり他に気になる調べものしたりしてて、
写真整理も目次整備も遅々として進みませんわ……(駄目人間)

そんなわけで陰徳記、前回下巻を読み終わったところで中断していたので、
上巻の未読部分を、興味につられて飛び飛びに読んでいく生活に入ります。
今回は、ぱっと開いたところが隆景の沼田小早川氏相続の話だったので、そこを。
ちょっと短いけれど、リハビリも兼ねて今回はこの章のみで。


隆景朝臣、小早川家相続のこと

小早川又太郎正平は、今回鴟巣川で討ち死にしてしまった。
嫡子の又鶴丸繁平は、まだ幼かったときに三年も目を患っており、
それが原因で失明して盲人となってしまったので、小早川家は断絶の危機に瀕していた。

そこで、小早川の一族の乃美安芸守・梨羽中務少輔・椋梨二郎左衛門・小泉助兵衛などが会議をした。
「繁平は両目が見えなくなってしまわれた。
それにまた、一族の中にも当家を相続できるような器の者はいない。
世間の様子を見てみると、諸国は大いに乱れて戦争がやむときはない。

いま、この中国に、元就に勝る良将はいない。
きっと将来は、毛利家が備芸の二国を手中に収めることになるだろう。
ここで元就の御子息のうち一人を申し受け、正平公の姫君と婚姻を整えて、
小早川家の当主に据えようではないか。
これが当家を長く続かせるための策になるだろう。

又四郎隆景は、今は竹原の家を相続している。
あの竹原の家は、当家の先祖の土肥次郎実平五代の孫、竹原の政景から分かれたものだ。
血筋の根源をたどれば同じ流れなのだから、両家を合わせて相続なさればよい。
小早川は大身なのだから、苗字を小早川と名乗られたほうがいいし、
竹原からの婿をも併せて領するようなものだ」と衆議一決して、
元就様へとこのように申し入れた。

元就様は「神妙の至りである」といって、すぐに婚礼を整え、
隆景様を小早川家へと入婿させる契約を交わした。

又鶴丸は少年のころから盲目になったので、「来世は暗くて悲しい道に迷いたくない」と、
やがて出家して教真寺という寺で修行をしていた。
仏心宗(禅宗)に帰依して、教外別伝の極意を得ようと、朝から晩まで粉骨砕身していたところ、
和尚五位(『洞山良价和尚五位の頌』のことか?)を挙(こ)して修行していたとき、
夜中にカラスの一声聞くと、たちまち極意の兼中到を悟った。
「暗きぞもとのすみかなりける」と嘯いて、たちまち明暗の二つにこだわっていた心から離れ、
威音以前(想像もつかないほど昔)の本郷に至った。ありがたいことである。

田坂全慶・羽倉の者たちは、
「小早川家を隆景様が相続するのは納得がいかない。
たとえ盲目であったとしても、又鶴丸殿こそが当家の主君と仰がれるべきだ。
どうして隆景を小早川の当主として仰ぐことができようか」と不満を漏らしていたが、
このことはすぐに隆景様の耳にも漏れ聞こえてきて、そうした者たちの首をすべて刎ねたそうだ。


以上、テキトー訳。

すごいな……粛清の話もチラッと出てきたけど、全然ブラックじゃないや。
元春の吉川家相続の話も、ブラックな面はほとんど出てこなかったけど。
ウィキペディアの記事と比べてみると、とってもクリーンだね!
わぁい元就さん頼れるゥ!

乃美安芸守ってのは、元就の側室に入った娘だか妹を持つ隆興のことだよね。
すみませんホント小早川家のことには疎くて。
というか毛利・吉川についても、調べるにつれて
わからないことばかりが増えていくんだけどどういうことなのwww

ちなみにこの次の章はずいぶん前に読んだコレでござんす。吉川興経の話ね。
次回はどこ読むか未定です。
あと、今月・来月と、仕事が忙しくなってるので、毎日読める気がしないよ!
年度末のばか!!!
2013-02-04

生存報告

訪問してくださる方には大変申し訳ないのですが、
諸事情によりしばらくブログはお休みいたします~_ノ乙(.ン、)_

まあ一番でかい問題が、「上巻どこにしまったっけ?」ってとこなんだけどね(ダメすぎる……)
これを機に、少し積読の資料の山に目を通してます(探せよ!)

あと初の一人旅なども控えていて、ちょっと準備をがんばろうかな、と!
持ってく荷物はもちろん、旅先でどこに行って何を調べるかとか、そういう準備。

旅から帰って、上巻が見つかったら再開しますので、お待ちくださる方は気長に構えてらしてください。
ではでは!
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