FC2ブログ
2013-03-31

(頭が)ゆるふわ系☆義隆

今日は広尾の祥雲寺へ、黒田長政公のお墓を拝みにいってきました。
「行きた~い」と言いつつ、近いからいつでも行けると考えてた結果がコレですよ!
思い立ってから1年くらい延び延びになってたもんねwww だめすぎる_ノ乙(.ン、)_

さて陰徳記! だいたいの流れ:
陶隆房が主君大内義隆への謀反を決心すると、大内家中では杉・内藤といった重臣をはじめ、
義隆の近年の治世に不満を持つ者が大勢呼応し、
豊後の大友宗麟・安芸の毛利元就らも陶の呼びかけに応じた。
冷泉隆豊らが義隆に諫言するも、義隆は「陶と和睦をしたい」とのんびり構えている。

今回はちょっと長いので、2回に分けまする(・`ω´・)


義隆卿、山口没落のこと(上)

陶尾張守は、大友・毛利両家だけでなく、
備芸の国人やそのほか大内家の諸侍が皆一味同心してきたので、
「もう時節を待っているときではない。山口へ攻め入って義隆卿を討とう」と、
軍兵を集めて、天文二十年八月二十八日に山口に攻め込むと決めた。

杉伯耆守・同民部入道・同次郎左衛門・同治部大輔・
内藤下野守興盛・同弾正忠隆世は山口にいたが、
「陶が攻めてくると聞けば、冷泉・天野などが右田の嶽あたりまで駆けつけて防ぎ戦うだろう。
そうしたら杉・内藤はそれと入れ替わりに築山に攻め寄せ、
あっという間に攻め破ってしまおう」と、合図を定め、
そ知らぬ顔で髭を掻き撫でてそのときを待っていた。

こうして陶が近々山口に発向してくると聞くと、僧も俗人も町民も土人も、
「いったいどういうことだ。
この山口は琳聖太子以来一千年の間、敵が攻め入ってきた例がない。
こんなに急に災いが降ってくるとは、あまりにひどい」と、
家財道具を運び出したり、あるいは子の手を引き男は妻を背に負って、
人影の少ない深い山へと逃げようと、足に任せて分け入っていった。
強盗や山賊たちは、こうした情勢に助けられて、追いはぎをしたり持ち主を殺したりして家財を奪い取る。
山口の騒動は前代未聞の大きさになった。

同二十六日、将軍義藤(輝)公から使者が来た。
また豊後の大友左衛門入道宗麟からも使者が送られてきたので、
築山では海の幸や山の幸を集め、金銀珠玉を尽くして饗膳でもてなし、終日酒宴をしていた。
また小太夫という幸若舞の達人がいたので、志田烏帽子折などを舞わせると、
人々は皆舞を見聞きすることに熱中して、合戦のことは忘れ果て、口の端にも上さなかった。

同二十七日に、冷泉判官・天野・佐波・黒川などが義隆卿の御前に出て、大いに諫言をした。
「陶はすでに明日には山口に攻め入ってくるといって、あちこちの味方と話し合い、
合図の日を待っていると聞き及んでおります。
山口にいる面々にも、陶に内通して野心を抱いている者たちも多いそうです。
どうしてこのように何の緊張感もなく準備を怠っているのですか。
杉・内藤たちをお呼びになり、合戦の評定を行わなければなりません。
もしあの二人の者たちに野心があって呼び出しに応じなければ、
まずは彼らを討ち果たしてから、陶に向かっていって勝負を決しましょう」と言う。

義隆卿は、演若達多が「自分の頭がどこにもない」と大騒ぎした話のように慌てふためいて、
「陶がこれほどの悪逆を行うとは思いも寄らなかったのに、いったいどうしたらいいのか。
では軍兵を集めて築山を警固してくれ」と言った。
冷泉たちは「かしこまりました」と言って山口中から人を集めると、
兜をつけた兵達が六千余騎集まった。

しかし杉・内藤さえもが陶に味方しているとの風聞があったので、
ましてやもっと小身の者たちにどんな企みがあってもおかしくないと、
互いに心を隔てあい、ものの役に立たない様子だった。
杉・内藤のことも、何度も使いをやって呼び出そうとしたが、
「かしこまりました」とは返答しながら、自邸の用心だけをしている。

冷泉などの近習の者たちは、杉・内藤が弱きを捨てて強きになびいたことが憎らしく、
「まずはこの二人を討ってから、背後の心配のない状態で陶と一合戦しましょう」と進言した。
しかし義隆卿は、「杉・内藤にはまさか逆意はないだろう。
彼らを頼りにして無事にこの事態を切り抜けるようにしなさい。
たとえ杉・内藤を討てたとしても、味方の勢の半分以上もまた討たれるだろうから、
陶とまともな一戦ができるとは思えない。
大事な合戦を前にしながら、杉・内藤と合戦を始めようとは、まったく理解できない。
これは昔の平治の乱で、悪源太義平が源三位頼政と合戦しながら、山内を討たせたのと同じだ。
ただ何度でも説得して調略が切れないようにしていればいいのだ」と言った。

冷泉たちは義隆卿の言葉を聞いて、「謀は勇士にお任せくださればいいのに、
そうなさらないばかりか、ただ思いついたことをうかうかと仰せになるとはまったくひどい」
と頭を掻いたが、どうにもできなかった。


以上、テキトー訳。続きんぐ。

義隆が……ッ!
義隆が絵に描いたようなダメ君主すぎてつらい……を通り越してなんか可愛い、だと!?
この話の筋だと、たぶん本気で義隆は隆房と仲直りできると思ってたのかもしれない。
かなり純情な人なのかもしれない。だが……
隆豊目線で見てると、すっごくイライラするお!(^ω^#)
だがそんな手のかかる義隆さまがすk……いや、やっぱイライラするな。

隆豊の言い分にもどれだけの正当性があるのかというと、
見方によっては、すべてを自分の意のままにコントロールしたい系っぽく見えないこともない。
けっこう見方一つで解釈なんて180度変わるよね。
必ずこの解釈でなくてはいけない!てなものもないんだろうが、
やっぱ冷泉家は毛利に仕えて家が続いてるって強みがあるからな。
うがった見方をしてみたくなるんだよね。

見方で変わるといえば広家の関ヶ原のときの行動だとか、
あと最近知ったのは、毛利が秀吉に属したときに人質送ったときのことなんかだな。
世の中にはいろんな解釈のしかたがあるもので。

思考が亡羊とさまよいだしそうなのでこの辺で。
次回は続きです。
スポンサーサイト



2013-03-30

元就「大内方は消毒だ~!」

だいたいの流れ:
陶隆房は大内義孝への反逆を決心し、居城に隠居しながらも、
九州の大友宗麟・安芸の毛利元就らを抱きこむため、調略にいそしんでいた。
大内方からも協力の要請を受け取った元就は、
大内・陶のどちらにつくか、一族・重臣・同盟関係にある国人衆を集めて会議した。
そこで、陶に味方して大内を滅ぼした後、陶が滅びるのを待つ、
という結論に達した。


安芸の国頭崎の城が明け退くこと

元就様は、陶に味方した証がなければならないと考え、
平賀新四郎隆保が籠もっていた頭崎の城を攻めるため、
天文二十年七月(八月か)七日、その表へ出張した。

この隆保は小早川正平の叔父、常平の次男であったが、平賀太郎左衛門隆宗が養子に迎えた。
隆宗は陶に志を通じていたので、隆保は養父の隆宗に向かって、
「私があなたと父子の契約を固めてからというもの、
実の親よりもなお深く慈しんでくださいました。
それは天よりも高いものです。
しかし今、隆宗と分かれて陶に背き、大内に味方していることは、
不孝のきわみであり、五逆の罪を免れることはできません。

また国中がすべて陶に同心しているところに、私一人が大内に与したところで、
どうやって功を立てられるというのでしょう。
これは石を抱いて深淵に入るような自殺行為です。

しかしながら、私の父の常平は、
先年尼子民部大輔晴久が当国の吉田の城を取り囲んできたときに
戦利を失って敗軍しましたが、尼子に与して切腹いたしました。
そのとき私も殺されて当然だったのに、義隆卿がご憐憫を垂れてくださり、
命を助けてくださっただけでなく、隆宗と父子の契約ができたのも、
義隆卿のお口添えあってのことなのです。
隆宗のご芳志は言うに及びません。

ですから、私は義隆卿に命を助けていただいたので、
このご厚恩に報いるために命を捨てようと思います。
絶対に、隆宗に対して恨みを抱いているわけではありません。
不孝者と呼ばれることだけが口惜しく思います。

義隆が命を助けてくださった恩に報いて節を守り義に死のうと思えば、
慈しみ深い隆宗に対しての不孝になり、五逆の罪人となってしまいます。
また父に孝を尽くそうとすれば、義隆に対して弓を引き、矢を放って、
恩を仇で返す不義の名を後世に残すことになります。
これでは子孫の立つ瀬がなく、私の名にも傷がつきます。
何が是で何が非なのか、よくわかりません」と、涙に咽んだ。

隆宗は、「おまえはさすが、常平の子で、私の養子だ。
おまえが義隆卿から蒙ったご恩は言葉に尽くせない。
それに報いるために、強い陶を捨て弱い大内に与するとは、
義といい勇といい忠といい、どれもひとかたならぬものがある。
おまえのような人間を、仁義の勇士というのだろう。

私もおまえと一緒に死ぬべきなのだろうが、大内からさしたる恩を蒙ったことはない。
だから陶と一味して、平賀の家が続くように謀略をめぐらさなければならない。
おまえが大内に属すのは、まったく不孝などではない。
義を守って戦死しようとは、実に私の自慢の息子だ。
よいか、立派な戦をするのだぞ」と言った。
隆宗と隆保は互いに涙を押さえながら東西に分かれていった。

これが最後の別れだったとは、後になってからしかわからなかった。
隆保は武勇が優れているだけでなく、また心栄えも優雅な男だったので、
いつも柳原大納言資定卿を師として山口に下り、歌の道を学んでいたが、
今回討ち死にすると思い定めていたので、師に送った手紙の最後に、一首の歌を詠んだ。
「吹く風にたまりもあえぬ朝霧の消えての後の世をや頼まん」

さて、敵勢は山々に陣取り、まずはそれぞれの持ち場を決めて遠攻めにしてきた。
敵が次第に責め近づいてくると、
隆保は「城中の兵を残らず繰り出して、一戦して快く死のう」と言ったが、
家之子郎党たちは、「まずはここを去って槌山にいる菅田たちと合流し、
それから一戦なさいませ」と諌めた。

隆保はそれに同意し、八月二十七日に頭崎の城を出て西条槌山に入った。
それから菅田越中守・同三郎左衛門・大林和泉守などと一緒になって、
しばらくは山口の合戦の様子をうかがっていた。


以上、テキトー訳。

えっと、つまり、平賀隆宗にとってみると、
「義隆から押し付けられた養子を闇に葬るチャンス!」
ってことなんじゃないかと……ゲフンゲフン
いくら戦国時代は一族を二つに分けて、どちらが勝っても家が続くようにするのが
生き残りの秘訣だよ☆といったところで、このケースはなんか違う気がする。
隆宗「おまえは義隆に恩があるけど、私は大して恩ないし~」って、
ドライすぎるだろw
なんてまあ、うがった見方をしちゃいけないんだろうなw

しかし元就も、行動が早いね。
義隆捨てると決めたら、とっとと大内方攻めるんだもんな。

さてさてお次は、いよいよ山口の戦況……オラわくわくすっぞ!
2013-03-29

隆豊、キレる

だいたいの流れ:
文化に耽溺した大内義隆が冷泉隆豊にこっぴどく叱られたり、
大内家の権勢を握った相良武任と、重臣の陶・杉・内藤らが対立して
武任が逐電したりといろいろあったけど、
ついに来るところまで来てしまった……
陶隆房は主君義隆を討ち果たす準備のため、隠居して居城の富田へと引き籠り、
大友宗麟・毛利元就たちを抱きこむ。
運命の日はすぐそこまで迫っている。


冷泉、夜討ち会議のこと

歳月は老いの底より還しがたく、風雲は人の前に向かいて暮れやすし。
というもので、天文十九年も瞬く間に移りゆき、同二十年の春も半分が過ぎると、
義隆卿は残り少ない春の日を楽しもうと、
草鹿・丸物・小弓の勝負・笠掛・犬追物・田楽・猿楽などを日ごろよりも頻繁に催した。

あるときは鶯の声に引き寄せられて花の下で酒を呑み、
あるときはすがすがしい光を愛でようと月の前で茶を弄び、
霞を憐れみ、露を悲しみ、遊興ばかりに身を投じていた。
義隆卿の心は変わってしまって、陶を退治する計画は、まったく話にも出ないほどだった。
これは唐の玄宗皇帝が楊貴妃への愛に溺れ、
華清宮の温泉に浸かって歌舞遊宴に心を迷わしていた故事と同じだった。
その隙に禄山が反逆の兵を挙げ、ひたひたと迫ってきていることも、
玄宗皇帝はまったく知らなかった。

冷泉判官・佐波・天野たちはともに義隆卿の御前に来ると、こう進言した。
「陶の反逆はもう疑いようもありません。急いで御討伐なさってください。
これまでのご様子を見ると、反逆者を追罰なさろうとはせずに、
ただ隆房を調伏するための秘法を行われただけではありませんか。
どういうおつもりなのですか。
武略・計策を用いずに、調伏の修法だけで敵を挫けるのなら、
天台宗の座主や仁和寺の法親王といったような、
貴僧・高僧たちが天下の権勢を握っていなければおかしいはずです。

どうか、急いで杉・内藤をなんでもないような振りをして、呼び出してください。
そのまま取り押さえて人質を取り固めれば、彼ら二人は恩愛の契りを捨てがたく思い、
陶に味方する約束を翻してこちらにつき、忠戦に励むでしょう。

先手を打った者が相手を制することができるのです。
兵を預けていただければ、私たちが陶を討伐に向かいます。
この地を戌亥のころ(午後九時くらい)に打ち立てば、
寅の刻(午前四時ごろ)には富田の城に到着できます。

謀略のことを考えて、陶に恨みを抱いている者たちを前々から富田城内に確保しています。
若山に攻め寄せたならば、その者たちに火をかけるようにと命じるつもりです。
陶がどんなに勇将であっても、夜半に火をかけられて合戦になるとは思いも寄りますまい。
陶が逃げ場を失って慌てふためいているところを突き伏せ、切り伏せ、
ついには悪逆非道の陶の首を切っ先に貫いてご覧に入れます。

もしまた、我らが富田に攻め寄せるのが危ないとお思いでしたら、それはともかくとして、
杉・内藤を騙して呼び寄せ、人質をお取りになればよろしいのです。
彼ら二人が味方であれば、陶が何を考えたとしても、
山口へ攻め寄せてくることはできないでしょう。
自分の居城を攻め落とされないように籠っているのが精一杯のはずです。
そのように威が衰えて自分のことで手一杯になった陶など、易々と討伐できます。

もし事を引き延ばされ、陶が兵を率いて山口へ攻め入ってくれば、
味方が途中まで出向いて防戦をいたします。
そのとき杉・内藤が山口にいて、後ろから兵を挙げて所々に火を放ち、
不意に戦を仕掛けてきたなら、味方は逃げ散るしかなくなってしまいます。
このときはどうか一筋に思い切られ、興亡をかけた一戦をなさればよろしいでしょう」

義隆卿は、「冷泉の意見は、強剛な手段ばかりで柔和さがない。
時間はかかってもいいから、どうにか和睦をしたいものだ」とのんびりと構えたままだった。

隆豊は、「私が再三諫言をしてまいりましたが、まったくお聞き入れくださらない。
だから陶が居城に引き籠ってしまい、簡単に討てなくなったのです。
このような盲将に仕えて甲斐もなく戦死し、軍門に恥をさらすとは口惜しい。
義者は仁のない者のためには死なず、智者は暗君のためには口を開かないといいます。
私も、項羽に従ったものの、楚を捨てて漢に帰った陳平と同じような気持ちです。
どこかに賢将を見つけて仕えたいものですが、忠臣は二君に仕えない習いです。
恥を骸のうえにさらすとわかっていながらも、暗君のために死ななければならないとは口惜しい」
と、涙を押さえ、歯を食いしばって退出していった。

一方、陶隆房はというと、杉伯耆守重矩・内藤下野守興盛と心を合わせ、合図の日を待っていた。


以上、テキトー訳。

なん……だと。冷泉さんの説教なのに1日で読みきれる量だと!?
いや、それだけ事態が切羽詰っているということか……
そんな状況でも故事を引き合いに出して主君をdisる隆豊さんマジ隆豊さん。
「義隆さまのばかーっ!!!」ってなってる隆豊さん、可愛いです(*´∇`*)ハァハァ
言ってることはホント辛辣なんだけどねw
離れたくても離れられないって、それはもしや……恋?(ちがう)

いやしかし、笑えない状況だよ。
こんなときでも遊興に耽溺する義隆はマジでゆがみねえな。
なんていったっけ、こういうの。デカダン?
退廃的というか、古代ローマだかギリシャだかの貴族みたいで、
遠くから眺めている分には楽しそうだよなw

そういえば戦国武将はよく、敵を調伏する加持祈祷とかさせてたみたいだけど、
冷泉さんはさすが冷静だよね。駄洒落じゃないよ。
「そんなもんで敵が倒せるなら、とっくに坊主が天下取ってるわ!」
いや、ごもっとも。

まあ、義隆も本気で隆房を殺したいと思ってるわけじゃなくて、
本当は仲直りしたかったのかな、なんてね、ドリーム。

そんなわけで次章から、いよいよ情勢がキナ臭くなっていくようです。
2013-03-28

毛利家が陶に味方した理由

だいたいの流れ:
陶隆房は大内義隆への反逆を決心すると、居城の富田へ隠遁する振りをして
大友宗麟・毛利元就らを抱きこむ計画を立てた。
陶の陰謀に気付いた冷泉隆豊が義隆に陶誅殺を進言するも、
義隆は聞き入れずに、みすみす隆房を討つ機会を逃してしまう。
隆房は計画通り富田に引き籠り、大友・毛利らに使者を送った。

今回は、その知らせを受け取った毛利家の反応。


元就と隆房、一味のこと

さて、大内と陶が一触即発の状態になると、両家から早馬が来て、
元就様に味方になってほしいと言い送ってきた。
元就様が両家の書状を見ていたとき、御前には児玉三郎右衛門尉就忠が伺候していた。
「大内と陶からこのようなことを言い送ってきた。就忠はどう思うか」と元就様が問うと、
就忠は、「殿の思慮には及びませんが、陶と一味なさるのがいいと思います」と答えた。

元就様は、「この毛利家の興亡、身の浮沈はこのときにかかっている。
それなのに、口に任せて何も考えずに、陶に同心せよと言うのは、
まったく軽率きわまる」と言った。
児玉は、「なぜいまさら思案しなければならないのでしょうか。
大内と陶の仲が険悪になり、そろそろ戦争になるということでしたから、
どちらへ一味したらよいかは、前々から愚案をめぐらせておきました。
それを判断しなければならないときになって初めて考えるというのは、
それこそ深慮のないことでしょう。
殿が千度ご思案なさっても、陶に味方すると結論されるはずです」と言って御前を退出した。

児玉はそのまま熊谷伊豆守信直の館に向かい、
「大内と陶から、元就へとこのようなことを言ってきました。
私には考えていることがあります。信直はどのように思われますか。
もし私の考えと一緒なら、元就には私からその考えを申し上げます」と言う。
信直はしばらく目を閉じていたが、ややあって、「このように考えます」と答えた。
就忠は、「私の考えと寸分も違いません。まったく同じです。
やがてご一族や外様の国衆を集めて、評定が開かれるでしょう。
そのとき信直はお考えのとおりに発言なさってください。
私が『もっともだ』と同意しましょう」と固く約束し、自分の宿へと帰っていった。

元就様は、嫡子の隆元様・次男の元春・三男の隆景、
そのほか宍戸安芸守隆家・熊谷伊豆守信直・天野紀伊守隆重、
毛利家の一族郎党としては福原出羽守貞俊・桂能登守元澄・志道上野介広良・同左衛門佐元保・
口羽下野守通良・国司右京亮元武・粟屋右京亮・井上河内守・
赤川十郎左衛門元秀・児玉三郎右衛門・同周防守・渡辺太郎左衛門、
そのほか当家の耳目股肱の家臣をすべて召し集めた。
元就様は「大内・陶両家のうちどちらへ与すべきか意見を出してくれ。
皆、考えていることを残さず言うように」と言ったが、
皆口を閉じ、他人が話し出すのを待っていた。

こうしたところに熊谷伊豆守が座中をキッと見渡し、話しだした。
「皆様がまだ是非を決めていらっしゃらないようなので、
私の愚案の及ぶところを口に任せて吐き出すのは憚られますが、
貴命に応じてこの座に罷り出た以上は、まず私の考えを一つ残らず申しましょう。

私は、今回陶と一味してまずは大内家を滅ぼし、
その後陶を退治なさるのがよろしいと考えております。
義隆は文があっても武がない大将でいらっしゃるので、
何事も仁徳を大事にしようとなさり、刑罰が甘くなっています。
刑罰が甘いと民は驕る習いですので、法があってもまったく重んじられず、
国政も自然と乱れていくばかりか、陶をはじめとして義隆を弱将だと見透かして侮ってしまいます。
だから陶は相良を攻めて討ち取り、狼藉きわまる振る舞いをするのです。
これは皆が上を侮っているからなのです。

話に聞く桑氏の君とは、徳を修めたものの武を廃したことで、その国を滅ぼしたといいます。
今の義隆はその桑氏の君よりも劣っています。
もともと文を第一にして武を知らないだけでしたが、
近年は相良とかいう奸臣を重用したがゆえに、政道はつくづく邪なことばかりで、
諸侍が遺恨を抱き、下民が苛政に苦しんでいます。
杉・内藤をはじめ諸侍は陶に一味しているので、間違いなく大内は近々滅びるでしょう。

そして義隆を滅ぼした暁には、陶隆房は有扈氏の君主のように武を第一にして文を軽んじる将なので、
愛和の仁政というものをまったく知りません。
とりわけ人を賞することはほとんどないのに、刑罰だけは法よりも重くします。
だから、下の者たちが陶に懐くことはありません。
そのうえ驕慢で、すぐに他人を見下しますから、
杉・内藤さえも自分の手下のように扱うようになるでしょう。
そうなれば大内家の人々は皆陶の権力を妬み、陶の奢侈を憎むでしょうから、
ついには仲が悪くなり、そのうち同士討ちをしだして自滅を招くに違いありません。

そのほかの者たちは、これでは身の置き所がありません。
また妻子や一族を捨てがたくて、意志に反して隆房に従ったとしても、
義隆に恩を受けた者たちであれば、心は義隆に向いています。
そこで元就様が陶と合戦に及べば、主君義隆の仇を討とうと、多くの者が味方に参じるでしょう。
隆房を退治するのは容易いと思います。

また、大内に味方して陶を滅ぼすのであれば、
たとえ義隆が武の才能のない将であっても、手勢は陶の倍以上はあります。
それどころか、さすがに歴代の家人たちは、多少の恨みはあっても、
正真正銘の主君に従う者も多いでしょう。
陶は武があったとしても、主君を討とうとしているほどの悪逆の人なので、
人望にも背かれ、天道の怒りにも触れます。
攻めずともおのずと自滅するはずです。

ですから、大内・陶のどちらに味方するかで、相手を滅ぼす速度はまったく違ってきます。
どうか陶と一味なさって大内を滅ぼし、
それから陶をお討ちください」
信直がこう言うと、皆「それが一番いい」と賛同したので、
元就様はすぐに隆房に一味するとの返事を送った。


以上、テキトー訳。

ひいぃ……
ひいいぃぃぃぃ!!!
腹の中が真っ黒なのは元就だけじゃなかったよ。
信直に就忠まで、おっそろしいこと考えてるんだな!
陶に味方する理由が、「大内に味方して陶を滅ぼし、その後大内を滅ぼすより、
陶に味方して大内を滅ぼした後で陶を滅ぼす方が簡単だから」ときたもんだ!
なんつーか……こういう思考は私にはできんわ。
すっかり舌巻きました。そうきたか。
腹黒いとか悪どいとかそういうの抜きに、すごいなぁ。

そしてもう一つ驚いたのは、信直さんがキーマンだというところよね。
いや、語り癖があるのは、下巻で出てきたから知ってるけど。
元就に重大な決意をさせる役回りじゃない。
正矩がこういうポジションに信直を当てたってことは、
やっぱり熊谷家は、正矩の時代でも尊重されてたんだと思うのよ。
だからして、元春の嫁(熊谷氏)醜女説には、熊谷を貶す意図はまったくなかったはずだと思う。

あと、就忠さんが元就にズケズケ物言ってて面白かったw
元就「テキトーなこと言うなよ!」
就忠「テキトーじゃありませんよ前から考えてたからすぐ答えられるんじゃないですか。
   殿のバーカ!」みたいなwww
元就が家臣にやり込められてるシチュエーション、けっこう好きだな。
かわいい(*´∇`*)

ほっこりしたり背筋が凍ったりと忙しい章だったけど、
さてお次は……また冷泉さんが出てくるよってことはまた説教か!
2013-03-27

冷泉と陶の鞘当て

だいたいの流れ:
大内家では義隆の寵臣相良武任と、重臣の陶・杉・内藤らとが険悪になり、
ついに武任が争いを避けて山口を出奔した。
しかしなおも陶隆房たちと義隆の間の溝は埋まらず、
隆房は隠居するふりをして大友宗麟・毛利元就らを抱きこんで義隆を滅ぼそうと決意した。


陶の隠居、付けたり冷泉諫言のこと

陶尾張守は内々に安富源内に近づいて親しくなり、馬や太刀などを折りにつけ贈って、こう語った。
「この隆房は主君のことそれは深く考えております。
たとえこの身が滅びることになろうとも、政道の奸邪を正し、
近隣諸国が大内家の武威にさらに従うようになり、徳化に懐くようになれば、
御当家は末永く続くでしょう。
そのためにこの隆房がどんな刑罰に処されようとも、主君のために命を落とすことは、
忠臣として望むところです。
だから相良を討ち果たそうとしたのです。
そうすればすぐに義隆公から切腹を命じられると考えておりましたが、
そうされなかったのは、ひとえに亡父道麒の貫いた特別な忠勤に免じてのことでしょう。

義隆公から勘当されなかったとはいえ、まさしく朋輩の相良を討とうと企んだのは本当ですか。
武任は結局逐電してしまいました。
それなのに私が何の憚りもなく山口で暮らしているのは、不義不礼に他なりません。
ですから、私は子の五郎に家を譲って富田へ引き籠り、
座禅をしたり念仏を唱えたりしながら、後世の菩提のために暮らしたく思います。
他のことはせずに、この世でのつながりを断ち切って、野山で生を送りたいのです。
このことを、義隆公へとご披露くださいますよう、お頼みいたします」

安富はこれを聞いて、度々贈り物をもらっていることもあり、
また隆房の陰謀を知らなかったので、「たしかにそのように思っているのだろう」と思い、
すぐに隆房の存念を義隆卿に取り次いだ。
義隆は、「隆房の所存に任せる」と返答した。

隆房は騙しおおせたと喜んで、天文十九年十月七日に、
義隆に隠居の挨拶をするため、出仕することに決まった。
冷泉判官はこのことを聞いて、義隆卿に大いに諫言した。
「隆房が富田へ隠居するというのは、俗世の交わりを絶って
安らかに何事もなく生涯を送ろうとしているわけではありません。
これはきっと、自分の城に引き籠り、陰謀を企もうと考えているに違いないのです。

あの者が居城に引き籠った後では、企みに気づいて退治しようとしても、ほとんど不可能です。
幸いにも来る七日にお暇乞いと称して出仕してくるそうではありませんか。
お許しをいただければ、私が奏者を務めて陶と刺し違えます。
ただし、もしかしたら陶の郎党たちが殿中へと切り入ってくることもあるでしょう。
前もって佐波・黒川・天野らに仰せ付けて、その押さえを置かれ、
また御前にも気心の通じた勇士たちをあちらこちらに配置されて、
ご用心なさるのが肝要と存じます。
今陶を討たなければ、虎を育てて自ら憂いを残すのと同じです」

こう諌められて、義隆卿は「陶は近年は武任との所縁の件で私を恨んでいるとはいっても、
武任が逐電したのだから、これまでの遺恨も氷解しているだろう。
どうして今逆意を企てるというのか。確かな謀反の証拠はあるのか。
もし証拠もなしに討ってしまえば、自滅自亡を招く。
国を滅ぼし家を破るのは、人を失ったからこそである、とも言うではないか。
陶は当家の柱、礎とも頼む臣なのだ。

柱が弱ければ家も壊れ、宰相が弱ければ国が傾くという。
たとえ陶が謀反の兵を起こしたとしても、この義隆は一旦は和睦を結び、
君臣合体の道に専念しよう。
主君が臣と一体になれば国は栄え、主君が臣と歩みをそろえなければは国滅びるという。
私は和を大事にして、隆房と水魚のような関係になろう。
今陶を殺してしまえば、隆房を滅ぼすだけでなく、この義隆の身を滅ぼすことになろう」
と、隆豊の忠告をまったく聞き入れなかった。

隆豊は、「なんと意気地のない仰せだろう。
賢明な者はまだ物事が萌芽しないうちに遠くを見通し、
智者は物事の体制が整わないうちに危険を避けるという。
陶の謀反はもう露見しているというのに、
討伐を差し延べてはどうして退治しおおせることができようか。

だいたいにして義隆は、文には明るいものの武に暗いから、
部下を威圧することがないので、諸士はややもすれば義隆を侮ってしまう。
隆房は文には疎いものの武勇を備えているので、諸人は隆房を恐れている。
だから隆房は趙高・禄山よりも驕ってしまい、武任の首を刎ねてやろうなどと、
好き勝手に逆威を振るうのだ。

豪傑が政治を掌握すれば国の威は弱まり、
殺生の判断が豪傑に委ねられているときは国の勢いは減退し、
豪傑がこうべを垂れているときには国が長く続く、という。
たとえ隆房に謀反の企みがなかったとしても、今驕慢を戒めなければ、後で臍を噛んでも益はない。
まして、隆房はすでに逆心を抱いているのだ。

これを見抜けない大の盲目の将、義隆に与して身を滅ぼすのは、無念極まりない。
主君のために命を捨てるのは、まったく惜しむようなことではない。
隆房が富田に引き籠って謀反を企てたときには、義隆と一緒に死ぬ命。
どうせなら、今先立って陶と刺し違えて死に、義隆卿の救難を救いたい。
隆房の心がどんなに猛々しくても、力量はこの隆豊の十分の一もない。
来る七日に出仕したときに、奏者をする降りをして取り押さえ、刺し殺してやろう」
と心を一つに思い定めた。
二人の子供はまだ幼かったので、このことを遺言することもできず、
事の次第を筆の限りに書き置くと、陶の出仕を待っていた。

さて同七日、陶尾張守が隠居の挨拶のために築山へと出頭してきた。
前々から言い含めてあった宮川・深野・江良・野上など二百余人、下々に至るまで、
屋形義隆公を一目拝し、お別れをしようと、ばらばらと小庭まで押し入ってくる。

隆豊の思惑は外されてしまった。
たとえ陶を討てたとしても、義隆は何も用心していないので、
隆豊が陶を討とうとしている隙に隆房の郎党が義隆を討ってしまう。
そう考えて、隆豊は、千度刺し違えようと思ったものの、仕方なく怒りを抑えて取りやめた。

けれども、これから怨敵となる者を討たずに逃がす口惜しさに、
思わず両目からはらはらと涙を流した。
隆房は鋭い男なので隆豊の心中を察したのか、
「冷泉殿、何が悲しくてそんなに涙を流すのですか」と、苦々しく咎める。

隆豊は、「不審がられるのはもっともです。
しかしながら、近年はあなたが山口にいたというのに、
私は義隆卿の御前から少しも離れることができずにいたので、
千里を隔てた遠くにいるような心持でした。
それなのにあなたが富田に隠居されてしまうと聞きましたので、
今後はお見かけすることもほとんどないかと思うと、名残惜しく思い、
涙がこぼれ出てしまったのです」と返答した。

隆房は、「なんと、それほどまで私との名残を惜しんでくださっているのですか。
ありがたいご芳志です。志が合えば、たとえ呉と越でも兄弟のようになると言われています。
山口は富田からわずか一日で来ることができますので、
たとえ隠居はしても、折々には参会するつもりです。
それに、五郎長房をここに留めて置くので、何事もよろしくお願いいたします」と言って、
暇乞いをして退出していった。

こうして隆房は若山へ引き籠った(十一月二十七日)後、
豊後の大友左衛門入道宗麟へと使者を送った。
「義隆は相良の讒言に乗せられて、隆房を討ち果たそうとなさいました。
私が讒者の実否を糺して武任を取り囲み、首を刎ねようとしたのは、
義隆の国政の奸邪を取り除くためだったのです。
まったく私怨・私恨からではありません。

それに、この隆房に誤りのないことを一つ一つ説明しても、義隆はなおも心を解かず、
いよいよこの隆房の首を刎ねようと躍起になっています。
私も仕方なく、義隆に向かって一矢報いてから自害しようと考えております。
もし宗麟が罪もない隆房に憐憫を垂れてくださるならば、
御舎弟の八郎義長公に大内家を相続させてくださいませんか。
隆房は後見役となって忠勤を尽くします」
そのころ、筑前の麻生五郎が宗麟の勘気を蒙って豊後にいたので、隆房はこの人を通じて申し入れた。

また、義隆からも、「陶の暴虐がひどく、たちまち主従の礼に背いて謀反を企んでいるので、
この者を誅罰する予定でいます。
もし宗麟が一味してくださるなら、隆房を討った後、御舎弟の五郎殿を養子に迎え、
大内家を譲ろうと思います」と言い送られたが、
宗麟には深い考えがあったのか、陶と一味して、
義隆からの書状も一つ残らず陶の方に送っていた。


以上、テキトー訳。

いやいや、悔し涙を抑えきれない隆豊さん、いいね!
涙の言い訳が秀逸だよね。
「義隆さまのそばから離れられなくてあなたとはあまり会えなかったから」って、
隆房に対する当て付けですか? 当て付けだよね!?
これには隆房さん、イラッとしたんじゃないかなぁ(妄想)。

しっかし実に義隆は人の忠告を聞かない主君だなw
隆豊の話を聞かないだけなのかな? 武任の讒言は聞いてるもんな。
まあ、何度も長々とお説教かまされてれば、聞き流したくなっても仕方ないというか。

さてさて、お話は風雲急を告げる展開となってまいりましたが次章!
大内家の内乱に関しての毛利家の反応!
2013-03-26

隆房の決意

仕事関係でイライラ中(^ω^#)
さて酒飲みながら陰徳記で気持ちを鎮めようか。

だいたいの流れ:
大内家重臣たちと不和になっていた相良武任は、陶隆房らが自分を殺そうとしていると知ると、
大内義隆に「陶・杉・内藤に謀反の動きあり」と知らせたものの、
義隆の号令で陶らを滅ぼす計画は失敗に終わった。
武任は、「今内乱を起こさないことこそが大内家長久の要である」と考え、
争いの当事者である自分が陶らを避けるために、山口から逃げ出した。
山口では、大内家の先行きを暗示するように、さまざまな怪事が起こる。


陶隆房、陰謀の評定のこと

陶尾張守隆房は、杉・内藤といった人々を呼び集めてひそかに話し合った。
「相良遠江守が逐電したのは、きっと武任の本意ではあるまい。
義隆卿が武任に、『まずは吉見を頼って落ち延びよ。
一旦陶の鬱憤をおさめ、時節をうかがって隆房を滅ぼそう』と仰ったそうだ。

私に陰謀の企みがあることも、主君はお知りになっている。
またあなた方が私に一味していることも、相良がすべて報告済みだと聞いている。
となれば、将来は我々皆刑罰に処せられるだろうことは疑う余地もない。

このような暗君を頼むより、反逆を企てて義隆を討ち申そう。
とはいっても、義隆が山口にいらしてはどうにもこの計画はうまくいかない。

私は富田に隠居すると言ってお暇をいただき、若山へと引き籠る。
そこで大友左衛門入道宗麟、また芸陽の毛利右馬頭などを誘ってみる。
隆元は幸いにも興盛の婿だ。
元春はこの隆房と兄弟の契約をしているのだから、元就はこれらの縁を重んじて、
あなたや私に一味してくれるはずだ。

私が若山に籠もって、元就と示し合わせて山口を攻めると披露すれば、
富田と吉田の間には、大内家に一味する城は、一つ残らず一日の間に落城するだろう。
大友も私に味方すれば、豊前・筑前にいる大内家の武士は、
自分の城を大友から落とされないように守ろうとするだろうから、
義隆のために駆けつける者は一人もいないはずだ。
そのとき我ら三人の一族を抱き込めば、四、五千にもなるだろう。
この兵数で戦えば、勝利しないわけがない。

もし他家の人々でも味方になる者が多いなら、この隆房が山口に攻め入ろう。
そうなれば山口勢はあちこちに出て防戦するだろうから、
杉・内藤家の人々は山口のあちこちに火をかけ、後ろから旗を揚げるのだ。
大内勢は前後の敵に道を失って、四方へ逃げ散っていくだろう。
味方が勝ちに乗って逃げる敵を追い、山口に攻め入り、
お屋形様父子を討ち果たすのは簡単なことだ。

また、もし冷泉・天野などがお屋形様の命で富田に発向してくるなら、
興盛・重矩を先陣に申し付けるだろう。
そうなったら異議なく了承して、お屋形様を富田へ引き出し、
皆と隆房が心を合わせて討ち果たせばいい。
何も難しいことはない」と会議は一決した。

この計画が決まると、与力の者たちを集めだした。
問田の一族は陶の一門なので言うに及ばず、
鷲の津の一党は屋形に恨みを抱いている者たちなので、流れに棹と喜んで協力した。

八本杉と名高い者たちは、一門の惣領である重矩の下知に従った。
青景は義隆卿と隆房の仲を讒言した張本人なのでもちろん、
そのほか日ごろから相良を憎んでいた者たちは皆、
屋形にも恨みが深かったので、我も吾もと同調した。


以上、テキトー訳。

仕事で心がささくれ立ってるときに読むネタじゃなかったな。
上司と部下の不和の話……私の場合は状況を打開する力も頭脳も持ち合わせちゃおりませんがねw

隆房、ついにここまできちゃったか。
ちょっと前までは、「義隆が自分を討とうとするなら自害する!」とか言ってなかったっけ。
何が隆房の心を変えたのか。

しかしまあ、勝つための方法をぬかりなく計算してるところはさすがだよね。
「大友と毛利を味方につけよう!」ってか。
そういえば『陰徳太平記』では、このときの元就の態度について、
元になった『陰徳記』とは違う描写をされているそうだけど……気になるね!

さて次章、隆房と義隆と隆豊の三つ巴!?
2013-03-25

花見にかこつけて墓めぐり

ホントは2月の岩国旅行をアップしたいけれど、心の整理がつきませぬ←ダメ人間w
というわけで先日、東京にある吉川氏関連のお墓めぐりをしてきました。
桜の季節だしね……珍しく外出したくなったのよ。

事の始まりは、瀬川秀雄著『関ヶ原役を中心とせる吉川広家公』を読んで。
瀬川さんは、このほかにも『吉川元春』とかの著作があるのは知ってた。
学習院に勤めて、文学博士になった人らしい。

この『関ヶ原役~』に関しては、関ヶ原の戦いで吉川広家が取った手段を、
それに対する批判を挙げて弁護するといった内容も含まれているのね。
「東軍・西軍、どっちつかずの態度がよろしくない」って批判に関しては、
「広家一身のことであったならば卑怯極まりないが、至上の目的が毛利家存続だったため、
西軍に属しながら東軍に通じていたことは批判されるべきことではない」と断じ、
「広家が動けば西軍が勝利していた」との批判に関しては、
「決戦地とは程遠いうえ、徳川方から押さえの兵も置かれていたので、決着までに本戦場にたどり着けない。
また小早川勢の反逆で勝負が決しているから、どのみち結果は同じ」と言う。
「なぜ徳川本体が目前を通過しているときに叩かなかったのか」という批判には、
「毛利家存続のため、一兵も動かさないという誓紙を交わしている以上、動かすべきではない。
これは高松の陣で元春・隆景が秀吉に対して取った態度と同じである」とする。

もうね、広家スキーの端くれとして涙がこぼれた。
これはいつか、瀬川先生のお墓参りに行かねば!と思い立ったところ、
調べてみたら意外に近くにお墓があったんだよ。東京に。
それは、谷中霊園!

というわけで瀬川先生のお墓!!!
DSCN1023_convert_20130324211357.jpg
上野駅から歩いて行ったけど、折りしも花見客の混雑で、
上野駅は改札出るまでに時間かかった~!
それだけの混雑でも見る価値あるよね、上野公園。
人ごみを外れて谷中墓地へ。
ここも桜通りがあるから、花見客は多い。
管理事務所で墓所マップを入手して、いざ瀬川先生の墓参りに。
お墓に番地がついてて、マップもあるから、方向音痴の私でも難なくたどり着けました。
瀬川秀雄文学博士のお墓は、「乙10号22側」。
手を合わせて、博士の本に出合えた喜びと、お礼を念じてきました。

瀬川博士は、広家公が大正に入ってから官位を追贈されたことで、
広家に関する関ヶ原当時の誤解が解けたと著述されているけれど、
まあそんな簡単にはいきませんわな。
いつか広家公の事跡が認められんことを、私も祈っています!

んでまた、瀬川博士のお墓を調べていて行き当たったのが、
同霊園内に点在する吉川氏・岩国関連の人々のお墓。
ついでとは言わないけど、知識不足は大目に見てもらって、
わかるところだけ回ってきました!

吉川重吉さんのお墓↓
DSCN1028_convert_20130324211447.jpg
時代は下って、明治時代の吉川氏ですな。
幕末の岩国藩主、吉川経幹の子であり、最後の藩主となった経健の弟。
ハーバードに留学して外務官僚を務めたという、華々しい経歴。
彼が亡くなったときには、墓のそばに番小屋が建てられて、書生たちが50日間も寝ずの番をしたとか。
番地は、乙12号2側。

その右隣にあるのが、「吉川家之墓」と書かれているけれども、
重吉さんのお子さんの重国さんのお墓、らしい。
まさか東京で「吉川家の墓」にお目にかかれるとは……感激。
てなわけでパチリ。
DSCN1036_convert_20130324211716.jpg
とても静かなところで、押しかけて写真を撮らせてもらってるのが申し訳ない。
「岩国に行ってきましたよ。いいところですね」
「吉川氏がすごく好きなので、もっと調べたいです」
「八幡さんへの寄贈も拝見しました」
などと、とりとめもなく語りかけてみましたw
あまり前知識がなくてホントすみません><

吉川さんのお墓からは、桜並木がきれいに見えて……
DSCN1038_convert_20130324211901.jpg
この景色を見ながら眠れるとは、ちょっとうらやましくなったなぁ。

ちょっと気になったこと。
重吉さん、重国さんのお墓の囲いの中に手水鉢があったんだけど、見たことない家紋!?
DSCN1034_convert_20130324211621.jpg
これは……オモダカ?
とすると、毛利宗家から贈られたんでしょうか?
微妙にうねった、なんとも洒落っ気のあるオモダカで、かわいかった(*´∇`*)
後ろで灯篭が倒れたままになってるので、修復されることを祈ります。

そのほかにも、岩国ゆかりの人々としては、
玉乃世履初代大審院長(甲9号17側)、
藤岡市助工学博士、新庄吉生さんなども、谷中霊園近辺にお墓があります。
藤岡博士・新庄さんには、今回はたどりつけなかったけど、いつかリベンジ!
私が気付いてないだけで、まだ他にもいろいろある気がする谷中霊園。
とにかく、眠っていらっしゃる方々には、お騒がせして申し訳ありませんと言うほかないな……
静かに手を合わせることは許していただけたら……と思うのです。

是非また訪問させてください!
2013-03-24

大内家、滅びの予兆

だいたいの流れ:
文化に耽溺した大内義隆の寵を受け、権勢を掌握した相良武任は、
陶隆房・杉重矩・内藤興盛ら重臣と険悪になり、
彼らが自分を討ち果たそうとしていることを知ると、
「彼らは義隆を討つつもりである」と言って、兵を集めさせた。
しかし杉・内藤は恭順の意を示し、隆房は言い逃れしおおせる。
武任は、自分の隠遁が大内家を救うと考え、剃髪して密かに山口を出た。


山口、物の怪のこと

相良近江守武任が山口を逃げ出すと、騒動はようやく静まった。
しかし義隆と隆房の仲は依然として悪いままだったそうだ。
大内家が滅亡する予兆なのか、山口にはいろいろな怪事が起こった。

その昔、築山の客殿の庭に二本の松を植えたときに、
「大内家の繁栄はこの松で占おう。
千代までもと言われる松も、今日からは当家の武運長久にともなって万代を経よ」
と賀して植えられたと言い伝えられてきた。
本当に大内家の武運に引かれたのか、枝葉もよく茂って先年も続きそうなほど緑深く栄えていたのに、
たった一夜のうちに枯れてしまったそうだ。不思議なことである。

義隆卿は早朝に起きてこれを見ると、
「樹木が一夜のうちに枯れ果てる例は唐土にもある。
災いやあやかしは善政に勝らずともいう。
私は外では仁義礼智信の五常に専念して、内々には仏法僧の三宝に帰依し、
徳化を施し修善を勧めている。
私に何の不徳があってこのような怪事が起こるというのだ。
あやかしを見て怪しまなければ、そのあやかしはおのずと敗れるという。
なんでもない振りをしていたほうがいい」と、気にしない様子だった。

心ある者たちは、「国家が隆盛するときには必ず瑞兆があり、
国家が滅びるときには必ず怪事が起こるというから、
大内家にはよくない予兆が現れたのだろう」と言い合った。

義隆もただ事ではないと思ったのか、やがて氷上山で百日間休まずに護摩を焚かせた。
また山門の真珠院、吉野の山伏蓮華院に言いつけて、陶隆房を調伏する修法を行わせた。
またそのころ長門の国の俵山という所では、荒神が人に化身して、
「大内家は長く断絶して、防長豊筑の貴人も賤民も皆路頭に迷い、
上下の位は手のひらを返すように変わってしまうぞ」と、
未来のことをさも見てきたかのように語った。

また、義隆卿が龍福寺で歌の会を開いたとき、
どこの者ともわからない老僧が一人いて、義隆と話をしていた。
それは旧知の間柄のように親しげだったという。
供奉の者たちは「玉堂和尚の知り合いの僧だろう」と思い、
また玉堂和尚は「義隆卿が連れていらした僧だろう」と思っていた。
人々が題を決めて歌を詠んでいると、この僧は樰(あふち)という題で一首の歌を詠んで、
禰宜の民部丞右延へと、
「このように詠んだのだが、和歌のことはもとからよく知らないのだ」と言って、
短冊を一枚捧げた。右延が読んでみると、
「知るや如何に すえの山風吹き落ちて もろく樰の散り果てんとは」という歌だった。
右延がこの歌を吟じようとすると、その僧は掻き消えるように姿を消した。

右延は、「これは陶の反逆によって義隆が滅び果てるというお告げだろう」と思ったが、
このことを発表するのもどうかと考え、胸の内に秘めて人に語ることはなかった。
しかし、その座に居合わせた人々のなかには、この様子に気付いていた人もいた。
そのときは不思議に思うだけだったが、後になって「こういうことか」と思い知ったそうだ。

二、三日ほど経つと、また豪雨が降って風も強く吹いたが、
山口の築山から傘のような光るものが出て鯖山の方へと飛んでいった。
するとやがて富田の方から赤い浮雲が風に吹かれてきて、虚空でその光と行き会い、
やがて光は消えて地に落ちた。
赤雲は山口へと飛んできて築山の上に漂い、その後炎のように燃え立っているようだったが、
夜が明けるとだんだん薄くなって消えた。
これはただ事ではないと、築山では高僧を招いて様々な修法を行った。

冷泉判官隆豊は、「災いや怪事などいまさら始まったことではない。
近年の相良の出世こそが大内家滅亡の予兆だったのだ。
それを知らずに、今になって初めて見たかのように驚き騒ぐのは、愚の骨頂だ。
しかし、今すぐに隆房を討ち果たせば、大内家は安全だろう。
義隆を滅ぼす者は隆房だ。
今あの者を誅さなければ、後に危機に陥るぞ」と、歯噛みをしていた。


以上、テキトー訳。

なんだ、妖怪とか変化の者とかがワンサカ出てくると期待してのに、
そうでもなかったでござる(´・ω・`)
もっと天狗とかが跋扈しててもいいのよ?
いやでもしかし、赤い雲と傘のような光の攻防はなんだかちょっと、
何かを暗喩しているようで……
いや私の頭が沸いてるだけデスネw
どうでもいいけど義隆さん、どこの誰とも知らないおじいちゃんと仲良くしちゃいけません><

そういえば冒頭の松の話で思い出した、昔の話。
私がまだうら若き学生だった春、受験を数ヶ月後に備えた私たちに向かって、
始業式の日に担任の先生がこういい言いました。
「いいか君たち! この窓から見えるイチョウの木、あの葉が青々と茂り、
黄色く色を変えるころ、君らは人生有数の転機に直面する!
あのイチョウが葉を枯らすまで、君たちも全力全霊でがんばろう!
あのイチョウとともに!」
生徒と一緒に一喜一憂してくれる先生だったので、みんなその言葉を胸に勉強してきたんだけど、
夏休みが明けた二学期の始業式のこと。
……イチョウの枝葉が丸刈りにされてますがな!!!
どうしてくれる、私たちの青春!!! などと憤ったものです。
本当にどうでもいい話だったね。
幸先が悪くて逆に奮起したのか、そのクラスのみんなは、ほぼ志望校に進学できたよ!
まあ、思い入れのある木の成長ってのは、けっこう気になるものなんだよね。

私の恩人の家でも、保健所送りから引き取った犬に「さくら」と名を付けたものの、
一年も経たないうちに亡くなってしまい、
それきりその家の桜の木が花を付けなくなったとか。
不思議なこともあるもので。

てなわけで次章! 隆房の決意!
2013-03-23

武任「に、逃げるわけじゃないんだからねッ!」

だいたいの流れ:
大内家では義隆が文化行事に耽溺し、相良武任が権勢を握った。
冷泉隆豊が義隆に何度も諫言をしたものの聞き入れられず、
武任と陶隆房・杉・内藤らは不仲となっていく。
陶・杉・内藤は、武任を討ち果たそうと決意して、決起のときを待っていた。


相良遠江守、山口を落ちること

さて義隆卿は、陶・杉・内藤に不穏な計画があるとは夢にも知らず、
天文十九年九月七日から、犬追物・笠掛・丸物などの遊びを開催した。
そして同十三夜の名月を歌に詠もうと、香積寺で一晩中酒宴を催して歌を詠み、
詩を口ずさみ、思い思い、心任せに遊び戯れた。
義隆卿の詩はこれである。
「人和歌を詠み更に詩を賦す、一年両度月明の時、
今宵影は仲秋夕に勝れり、三四満ちること有り三五かく」

同十五日には今八幡・三ノ宮(仁壁神社)両社へ参籠する予定であった。
神慮を呼び起こすために管弦を催すべく、前もってその用意をしていた。
隆房は、「これこそ待ち望んでいた好機だ」と心に決め、忍びやかに軍勢を集めて、
「武任の館に攻め寄せて夜討ちをかけてやろう」と、その日を今か今かと待っていた。

たった二人で囁いたことさえ、いつの間にか天や地や人が知っているものが世の習いだというのに、
ましてや秘密裏にとはいえ軍勢を集めていたので、どうして隠し切ることができようか。
武任はこのことを漏れ聞くと、もってのほかに慌てふためいて急いで築山へと赴き、
義隆へとこう申し入れた。

「最近、陶・杉・内藤らが集まって、何らかの評定があったそうです。
何事だろうと思っていたら、この武任を討とうとしていると知らせてくれる者がありました。
なに、心配ございません。
あの者たちの手並みのほどはよく知っておりますので、矢一筋で敵の肝を潰し、
蜘蛛の子を散らすかのように追い払ってやろうと考えていました。
しかし実は、私を討とうとしているふりをして、義隆卿を討とうとしているらしいのです。
ご用心をなさってください」

義隆卿はこれを聞いて大いに驚き、両社へ参籠する予定を取りやめて、すぐに軍勢を集めた。
集まってきた兵としては、杉民部入道(興重)・同宇左衛門・青景越後守・
吉田若狭守(興種)・田子兵庫助・弘中三河守(隆兼)・狩野弾正忠・町野入道・
平井右京亮・豊田美濃守・右田左馬助・仁保右衛門太夫(隆慰)・三浦将監・
冷泉判官隆豊・佐波新介(隆連)・天野藤内(隆良)・岡辺右衛門(隆景)・
貫下総守(隆仲)・杉豊後守・江口五郎・阿川太郎(隆良)・黒川近江守(隆像)・
岡屋左衛門(隆秀)・清四郎・安富源内・杉森・小幡・羽仁などの五千余騎が、
同十五日の晩のうちから築山に駆けつけてきて、鎧兜をつけて弓矢を携え、四方を警護した。
山口の住民たちは「これは何事だろう。どうしてこんなに軍勢が集まってきたのか」と心配して、
家財道具を持ち運んだり子供を逆に背負ったりと、右往左往して慌てふためいた。

同十六日の夜半に、築山から陶の館へと討手が差し向けられると噂が立つと、
隆房は「以前から覚悟していたことだ。敵が攻めてきたら快く一戦してから自害しよう」と、
静まり返って待ちかけた。

杉・内藤たちは、「これまでの密事がどこから漏れたものか、
討ち取るつもりだった武任を討ち取れないまま、
逆に武任によって身を滅ぼされることになっては口惜しい。
まずは急難を避けて逃れ、命を永らえて、再びこの鬱憤を散じる機会を待とう」と考え、
「逆心など微塵もございません。ただの奸人の讒言です」と弁明して、
人質として自分の子供を差し出した。
義隆は「杉・内藤には嫌疑はない」と裁断した。

同十七日、義隆卿は陶安房守・杉民部入道・吉田若狭守を隆房の元へ使者として遣わした。
「相良武任に遺恨があるといって、相良を討とうとしているらしいが、
そのようなことは、たとえ相良にどんな罪があろうと、
一旦義隆に訴訟を起こしてから考えればいい。
そうせずに、頑なに相良を討ち果たそうとするとは不審きわまる。
これはおそらく、武任を討つ振りをして義隆を討とうという陰謀だろう。
もし申し開きすることがあれば速やかに弁明せよ」と伝えられた。

三人の使者が陶の館に赴いてこのことを告げると、隆房は
「武任を討つ計画とは何のことか、まったく思い当たりません。
ただ誰かが讒言をしたに過ぎません」と答えた。

義隆は再び、「では、最近富田から家人を召し集め、
兵具をととのえ、今にも打ち立つような様子だったのはどういうわけだ」と尋ねた。
隆房は、「家人を集めていたのは、氷上祭の大頭に当たっているので、
その担当を申し付けるためです。
兵具を用意しているというのは、まったく根拠のない虚妄です。
家人たちに鑓や弓を持たせているのを、讒言した者が大げさに語っただけでしょう」と諫言した。
義隆卿はその後は何も言ってこなかった。

さて相良近江守は天野藤内に向かってこう言った。
「陶尾張守は、この武任への私怨から国中を兵乱に陥れようとした。
これは義隆卿に対して不忠不義きわまりない。このうえは、私が他国に出奔する他ない。
そうすれば、義隆・隆房主従は和睦なさり、国も安泰だろう。
今私が魚鱗鶴翼の陣を固めて陶と戦えば、勝負がつかずに国中の兵を多く失ってしまう。
そうすれば、その機に乗って尼子晴久が備芸石の三ヶ国に出馬してきて、
味方の城郭を片っ端から攻略していくに違いない。
もしそうなったとして、陶が自分のために戦を続けていれば、
備芸石の味方を救いにも行けないだろう。

昔、畠山入道道誓が仁木右京太夫(義長)を討とうとして、
南方の官軍退治にかこつけて京都から天王寺へと馳せ下り、
諸将を集めて京都へと攻め入った隙に乗じて、和田・楠は城を出て、
紀伊・河内の敵城を攻め落とし、山名父子が美作の国を陥れたのと同じことだ。
私は主君に忠節を貫きこそすれ、自分の恨みを晴らしたいからといって、
敵に利をつける不義の戦をするつもりはない。

これは趙の廉頗が、蘭相如の権勢を妬んで辱めを与えようとしたときに、
蘭相如が車を引いて廉頗を避けたのと同じだ。
蘭相如は『強国の秦がこの趙に侵攻してこないのは、廉頗と私の二人がいるからだ。
今、廉頗と私の二頭の虎が戦ったら、潰しあいになってしまう。
私は国家の危機を避けるために、私怨は気にかけない』と言ったそうだ」

天野はこれを聞いて、「武任の仰せは実に忠志の至りです。
では、世が静まるまでしばらくの間は、どこなりとも隠居していらっしゃるといいでしょう。
陶の驕慢が甚だしければ先行きも長くありません。
百戦百勝は一忍にしかずと申します。
今はお気持ちを抑え、恥を忍んでひとまず他国に落ち延びなさり、
君臣合体が滞りなく行われるようになさるのがよろしいでしょう」と答えた。

武任はその日の夜半に龍福寺へと駆け込み、玉堂和尚に頼んで剃髪し、
墨染めの衣に身を包むと、その寺を忍び出た。
武任は石見の国の津和野三本松の城主、吉見大蔵大輔正頼を頼って忍んでいたが、
それでもまだ山口に近いからといって、筑前の国へと逃げ下った。


以上、テキトー訳。

自分が狙われてると知って、義隆に「あなたが狙われてます」と言っちゃう武任も武任だけど、
情勢不利と見るや人質出して尻尾振っちゃう杉・内藤も、
なんていうかみんな世渡り上手だな。
隆房なんてすごいよ! 義隆がぐうの音も出ないほどにすらっとぼけるんだもんね!
これまでのイメージではこういう腹芸?できそうにないイメージだったから、
ちょっと今回驚いたw いい意味で。

さてさて、義孝の号令で陶・杉・内藤を逆臣として滅ぼそうと考えていたであろう
武任の思惑はすっかり外されてしまって、自分が逃げることになった武任。
故事までならべてご大層な言い訳をしたわけだけれども、
スピーディーに出家・出奔してるってことは、ただ逃げただけと取るべきなのかな?
解釈のしかたがよくわからない……

さて次章は、武任が逃げた後の山口の様子……といっても、
たまに出てくる物の怪とかそういう類の話のようです。
けっこう好きだから楽しみ(`ω´*)
2013-03-21

さくっと連歌会

だいたいの流れ:
天文20年ころになると、大内家では、当主義隆が文芸に耽溺し、
権勢を掌握した相良武任と、陶・杉・内藤といった重臣らの反目が目立つようになった。
そんなときに連歌会のお話らしいです……
また隆豊さんのカミナリが……って、隆豊さんも遠ざけられたんだっけ。


安芸の国、厳島千句のこと

天文二十年の春のころから、京都の昌休・宗養、
そのほか名のある連歌師が山口へと下向しており、
同四月に帰洛使用としたところ、黄門義隆卿は、
「では厳島で千句興行を行おう」といって、皆でその島に立ち寄った。

この島の社人たちも皆連歌をかじっているとはいっても、
さすがにこのそうそうたる顔ぶれの中に入れる者はいなかった。
田(でん)の親尊(しかたか)という者が、
昌休・宗養などとも以前から付き合いがあったので、
その連歌衆に混ざった。この千句を三番まで書き記す。

天文二十年五月九日

   第一
浦遠く霞て奥津浪もなし(義隆)
塩干のいづこ春の雁金(親尊)
出る夜の月の友舟長閑にて(弥阿)

   第二
言の葉や千種に匂う春の花(寿慶)
絶ぬをかくる青柳の糸(昌休)
露ながら朝夕霞打ちはえて(能祐)

   第三
月や今朝春行水の渡舟(宗養)
藤咲山は江の緑なり(恕哲)
打なびき柳にかかる雨見えて(底閑)

   第四
外にやは帰る雲井の郭公(元理)
明やすき夜の月そいさよう(理文)
浦浪の行街杳に鐘鳴て(但阿)

   第五
近しちょう秋に取れし扇かな(昌休)
露置ならず花の床夏(底閑)
夕立の残れる雲に日は落ちて(親尊)

   第六
春といえば散る葉も風の柳哉(恕哲)
帰る燕の水遠き声(宗養)
川霧に家住麓暮初て(寿慶)

   第七
すめばすむ心や千里夜半の月(能祐)
砧(きぬた)の上の秋風の音(弥阿)
空に雁翅の霜や払うらん(元理)

   第八
夕より夜寒もしるし萩の声(底閑)
野は裏枯の露落る比(但阿)
男鹿ふす彼岡越の秋深て(昌休)

   第九
咲こすか春を憐の梅の花(親尊)
籬(まがき)の山の雪ノ下道(元理)
さえし夜の朝日かくれに鳥啼て(恕哲)

   第十
霜の上や雪もいつくし松の風(蒼(三条西公条))
目もあや杉の冬ふかき峯(寿慶)
滝の糸雲に一筋暮やらで(宗養)

   追加
五月雨は岩戸あけ初し雲間哉(但阿)
一声あえず行郭公(能悦)
春も今杉たつ陰の山見えて(能哲)


以上、テキトー訳。

ほぼ訳してないが。
歌は訳せないよねーw
みんなで歌を詠むって、優雅でいいだろうなぁ。
厳島だぜ。私も端っこで聞いてたい(*´∇`*)

連歌のやり方ってのがイマイチわかんないんだけど、
吉川の岩国藩でも連歌会は盛んに行われていたようで、
というのもだいたい香川家のせいwww ポエマー一族だよな。
岩国徴古館から『岩国藩連歌集』てのが発行されているので、
旅行に行ったときに買ってみました。
歌の良し悪しはわからないけど、むくつけき武士たちが
花だの月だのを歌に詠んでる場面を想像すると、かなり楽しめた。
楽しむ方向が違うよね、そうよね、ごめんね……

岩国では毎年正月に連歌会が開かれてて、
いつのころからか、第一の発句は必ず梅の花を詠んでるのはわかった。
私が旅行に行ったときは、ちょうど旧暦の正月くらいだったんだけど、
梅の花がきれいに咲いてて、そりゃいい匂いで(*´∇`*)

てなわけでそのときを思い出して私も一首。
「八重ひとえ むめの咲きたる 紅しろ黄 風の渡るを待ちて漫ろく」
お粗末!
2013-03-20

尼子の小星落つ

如水命日にちなんで如水ネタ眺めてみたんだけど、
いかんせん私の文才では特に面白いことが書けないので、今日も陰徳記。
とりあえず如水さんは広家を大事にしてくれてありがとう! 本当にありがとう!!!

だいたいの流れ:
天文19年から20年ごろのお話。
大内家では義隆が文化に耽溺しちゃったり、義隆の寵を受けた相良と
重臣の陶・杉・内藤らの仲が険悪になったりといろいろあるけど、
備後の大内・尼子戦線では、平賀隆宗が神辺城の杉原忠興を追い落として、
一応大内家の支配領域を広げたよ、といったところ。


久村玄蕃允、誅されること

安芸の国久村の住人、久村玄蕃繁安は、先年大内義隆卿が出雲に出征したときに、
吉川治部少輔興経とともに反逆を企て、尼子へ一味したので、
安芸へと帰ってくることができずにしばらく富田にとどまっていた。
義隆卿が興経を赦免したときに、久村も七枚起請を書いて天神地祇に誓い、
「絶対に二度と逆心を抱かない」と、相良遠江守を通じて義隆卿に嘆願して、
ようやく赦免され、戻ってくることができた。

しかし久村は香川左衛門尉光景と所領争いを起こし、何度も私怨の合戦におよんで、
たちまち流浪の身となってしまった。
そのうえ筋違いもはなはだしいことに義隆卿を恨み、
神辺城の杉原一族に一味して、近年は大内へと弓を引いていた。
しかし杉原が城を去ってからは、久村は備後の国をさまよい、
藤井の何某と共謀して尼子を備後へと引き出して大内の城を落とし、
自分の武功にしようとたくらんだ。

香川左衛門尉はそれを察知すると備後へと行って、親類の平賀隆宗とともに謀略をめぐらし、
ついに久村を生け捕って、すぐに元就様を通じて山口へと報告を上げた。
義隆卿からは「久村の首を刎ねよ」と命があり、
検使を一人派遣してもらったうえで久村を処刑した。

久村が城を落とされた顛末はこうだ。
さる天文十五年正月三日、玄蕃は三百余人を率いて、
香川の居城である八木の城へと夜中に切り入ってきた。
香川は、久村がこのような計画をしているとは思いも寄らずに油断していたので、
久村はまったく抵抗を受けることなく押し入ることができた。
香川は主従三十人ほどで城戸口に出て行って防戦したが、まったく危機一髪の状況だった。

久村が肩を射られて前進をとめたところに、
城中の者たちが駆けつけて香川勢は五十人ほどになったので、
久村は怪我を負ったこともあり、攻め落とすのをあきらめて退却していった。

その後は互いに足軽を出して日々戦っていたが、久村が怪我を治療して完治すると、
また八木の麓へと攻め寄せてきて、何度も合戦に及んだ。
勝敗は日によってそれぞれだった。

光景は、どうにかして久村を討ち取ろうと考えたが、
相手が大勢なので、なかなかそれもできずにいた。
同九月十九日、香川石見守・同右衛門太夫・江戸十郎兵衛らに五十余人を差し添えて、
八木川を夜中に渡らせ、久村の在郷の谷影や林の中に隠しておくと、
自分は百人ほどを率いて、まだ仄暗い明け方に久村の郷へと攻め寄せた。
足軽を数隊に分けて五、六ヶ所に火をかけさせると、郷の家がカッと燃え上がる。

久村はこのとき敵が攻め寄せてくるとは思いもしなかったので、
あっという間に在家を四、五十軒も焼き払われて悔しく思い、
すぐに城中の兵三百余騎を残らず引き連れて、
深入りしてきた光景の手勢を討ち取ろうと進んだ。

光景はかねてから計画していたように、遠矢を少々射かけると、
後ろを振り返らずに退却し、八木川を渡る。
久村は、「あれを見ろ。光景は我が手並みに臆して逃げ去ったぞ。
あれを討ち取って、今朝家々を焼き払われた無念を散じようではないか」と、
まっしぐらに追いかけてくる。

光景は都合のいいところまで久村を引き寄せるため、
八木の在郷の呉竹の茂みまで来ると取って返し、藪陰から散々に矢を射かける。
久村は大勢なので、竹の林の左右から打ってかかってきた。
光景はそこをも捨てて引き退く。
久村がなおも追いかけてきたので、光景は八木の館近くになって、
また取って返して防戦した。
光景は久村と無手と渡り合い、どちらも一歩も引かずに攻め戦った。

光景が時分を見計らって太鼓を打つと、山上でこれを聞いてほら貝が吹き鳴らされた。
この合図で、久村の山陰に隠れていた兵たちが動き出し、
一気に鬨をあげて久村の後を遮り、打ってかかった。
久村は前後を敵に挟まれて機を失い、兵たちはたちまち隊列を崩して逃げ惑った。
どうにかして自分の城に帰ろうとしたけれども、
道を遮られてはそれもできないので、足の限りに逃げてゆく。
光景は伏兵たちに後を追わせ、時分は久村の城を落としにかかった。

城中に残っていた兵たちが必死に抗戦したので、江戸三郎左衛門・藤川七郎次郎、
そのほか十七人が怪我を負ったが、無二に攻め入ったため、
城中の兵たちもついに持ちこたえられなくなって逃げ去っていった。
光景はすぐにその城を焼き払い、久村に協力した一揆勢を、あるいは殺し、
または一命を助けて人質を取り固めた。
これで久村は再び自分の城に戻ることができずに、
備後の国をさすらって生け捕られたのだという。


以上、テキトー訳。

というわけで、今回は作者の香川正矩による先祖称揚の章だったね。
嫌味にならん程度にこういうの突っ込んでくるから、正矩大好き(*´∇`*)
ただ、仏教説話の乱舞と故事引用はきついです。読者の能力的に。
いつか、香川の本拠地だった八木にも行きたいな。
ついでに熊谷の城があった可部も。
そこから奥が大変なんだわ。安芸吉川氏史跡とか、どうやって行こう(遠い目)。
私は車運転できないから、公共交通機関で移動できないところにはなかなか行けない_ノ乙(.ン、)_

久村の末路を読んで、こうして没落していった名も知れない小領主は、
数知れないほどいたんだろうな、と考えてしまう。
なかなかに物悲しいよね。中にはどん底から這い上がってくる人もいるけどさ。
毛利家だって久村のようになっていた可能性だってあるんだもんな。
でも久々の合戦記、楽しかったです!

さてお次は……歌会の話らしいよw さすが香川w
2013-03-19

相良の言い分

これまでのあらすじ:
相良武任は大内義隆の寵を受けて大内家の政道を握った。
しかし大内家重臣である陶隆房は軍事にまで口出しをする相良とたびたび衝突し、
その鬱憤は殺意にまで高まっていた。
これを耳にした武任は、身の行く末を案じて、自分の娘と隆房の嫡男五郎との縁組を望む。
義隆から相良家との縁談の内示を受けた隆房は、
僧から還俗した武任をさげすみ、陶家とは不釣合いだと激昂した。


陶・相良、不快のこと(下)

このことは 内密にされていたが、相良の味方をする人が聞いてしまい、やがて武任に密告された。
相良はこれを聞いて、「五郎殿の舅に、この武任では不足だと、隆房が陰口をたたいたようだ。
陶は当家代々の家之子なのだから、言うことは間違っていない。
しかし婚姻というものは、そのように貴と賤とを選ばなくともいいのだ。
貴賎を問題にするなら、帝の后には同様に帝王の皇女を立てるべきなのに、
代々の摂家や清華家はさておき、羽林名家の息女だとて后や女御になっている。
祇園の女御と名高い方も、もとは水汲み女だったというではないか。

また玄宗黄帝の后である楊貴妃は、楊玄タンの娘だった。
越王勾践の后の西施は樵の娘だというぞ。
最近の例では、義隆卿のご母公は内藤殿の息女なのだ。
義興朝臣にとってはまさしく臣下の息女ではないか。

相良は筑前の国人であり、公方の直の御家人なのだぞ。
最近は大内家の臣下のようになってはいるが、陶などはもともとから大内家の家之子ではないか。
俗姓陶、相良、どっちが優れていてどっちが劣るというのだ。
大内の家人である陶の舅として、公方直属の御家人の庶流である相良は、
過分ではあってもまさか不足ということはあるまい。

そして陶が、私が出家還俗の身でありながら、軍法などの会議に出席することが気に入らず、
仏事などを執り行ってさえいればいいと言ったのは、なおのこと忌々しい。
母の胎内から出家として生まれてくる者などいない。
頭を剃り衣を墨に染めれば出家となり、また還俗すれば武士ではないか。
『江南橘江北枳』だ。名は違っても、もともと同じなのだ。

それに出家だとはいっても、天台山の三千人の宗徒、
南都、三井寺の僧たちなどは弓矢を取っているではないか。
武蔵坊弁慶・筒井浄明・一来法師・五智院の但馬などは古今無双の悪僧だ。
また細川卿の律師定禅・赤松律師則祐もまた出家ではないか。

この武任は、いったんは衣を墨に染めたけれども、代々弓馬の家に生まれている。
還俗した私の勇も智も、隆房に劣ることは絶対にない。
代々武士の家に生まれたと自慢している隆房がこのような陰口をたたくとは、
姿形は武士かもしれないが、心は坊主や比丘尼のようだと思えるぞ」と、非常に立腹した。

これをまた隆房に告げる人がいた。
それから陶・相良は互いに虎狼のように心を隔て、どうにかして報復しようとばかり考えた。
これが大内家が永く断絶する元となった。
「人の評判を耳に入れるべきではない。
もともと仲の良かった者同士でも、かえって互いに恨みを抱く」
という言葉の指し示すものが今更思い知らされるようになった。

武任はいよいよ隆房に対する恨みを晴らそうと考えて、義隆へと言上した。
「陶の領地である周防の徳地三千貫、ならびに小周防は、
昔は南都東大寺・興福寺の寺領でありましたが、いつのころからか陶が申し受け、
その二つの寺には替地として、わずか十分の一にもならない場所を出して知行させています。
これを往古のようにお戻しになれば、
その二つの寺は大内家の武運長久・子孫繁栄のご祈祷を丹精こめて執り行うでしょう。
隆房へは長門の安武郡内を替地として遣わしてください」と強く勧めた。
これはただ、陶の所領を減らすための算段だった。

また相良は杉・内藤とも不仲だったので、武任は義隆へと申し入れ、
将軍から杉・内藤に対して直属の御家人のように笠袋・鞍覆を下賜されたものの、
本人たちに引き渡さなかった。これは興盛・重政が恨みを抱く第一の理由となった。

陶・杉・内藤はそれぞれ武任に対する恨みが山のようになったので、集まると必ず武任を批判した。
「邪臣が内部にいると賢臣が死ぬという。
武任がこの様子だと、我らが殺害されるのは目に見えている。
こうなったら皆一味同心して武任を討ち果たし、これまでの鬱憤を晴らそうではないか。
そうすればそのときは義隆から討手を差し向けられることになるだろう。
そうなったら、是非もなく自害しよう」と一決して、時節の訪れを待っていた。


以上、テキトー訳。おしまい!

ありゃりゃりゃ、なんとまあうまくゆかぬものよ……
いやいや実に、人づてに聞いた自分の評判てのはイヤなもんだよね。
目をつけた二人を仲違いさせるなら、
「誰々があなたのことをこんな風に言っていた」といって双方に悪口を吹き込むに限るね!
絶対使いたくない手段だが。
元就なら平然としてやりそう。
……はっ、もしやこれは元就の謀略によって……!なわけはあるまいがw

ちょっと面白いなーと思ったのは、相良のキャラクターが、
石田三成のイメージとかぶるというか。
私の脳内の石田三成じゃなくて、これまでのフィクションで練り上げられてきた石田像と。
似てるような……似てないかな? あんまり石田を調べてないので自信がない。
というか、主君に取り入って政治を操り政敵を讒言して蹴落とすのは、
古典的な奸臣像ってことなのかな。

ところで相良の娘に懸想した五郎ちゃんはどうなったんですかね。
もう話に出てこないんですかね。
前半のあの伏線は何だったの、正矩!?

さて、話はぜんぜん変わるけど、明日は黒田如水の命日だね!
だから祝日なんだね!(違う)
黒田を調べたいと言いつつ何もしてこなかったから、明日は黒田関係を渉猟したいのぅ(^ω^三^ω^)
2013-03-17

大内家のロメジュリ

だいたいの流れ:
大内義隆は文芸にのめりこんで武備がおろそかになり、それを家臣の冷泉隆豊に諌められた。
しかし行跡は改まらず、また隆豊は義隆にで重用されている相良武任の政道が邪道だと言って、
再び義隆に諫言する。
義隆はこれを隆豊の妬みから生じたものだと解釈して、隆豊を遠ざけてしまった。

てなわけで、今回は問題の相良さんと陶隆房が何やらモメているようです。


陶・相良、不快のこと(上)

陶尾張守隆房と相良遠江守武任の仲がこじれた。
それというのも、武任が自分の権威をいいことに、軍政・号令、その他の公事に至るまで、
評定の席で他人へのはばかりもなく、自分一人が正しいかのように声高に物を言っていた。
大内家の奉行人らも皆相良の威におもねって閉口していたので、
武任以外に口を開く者はいなくなった。

陶尾張守は西国では並び立つ者のいない侍大将で、
智も勇も世人に勝り、そのうえ文よりも武に偏った男だった。
我慢が足りずに、よきにつけ悪しきにつけ気の向くままに振る舞い、
他人の異見を容れない人だったので、
評定の席では、ややもすれば武任と論争が止まらなくなることが度々あった。

陶は内心では、「相良武任はもともと出家の身なのだから、文学を広く知っていて、
僧たちにも親しい者が多いだろう。しかし軍政・号令のことは露ほども知らないはずだ。
それなのに、いつも軍評定などの席でも、
当家の大身の面々を差し置いて傍若無人に振る舞い、荒言を吐いている。
自分が専門ではない軍事まで掌握しようとは、実に奇怪だ。
そのうえ自分の一族には、烏帽子子や袴着の契約だなどと言って、
自分の周囲の者だけは義隆へといいように取り成し、所領も宛行って録ももらえるようにしている。

しかし杉・内藤・私の一族などは、巧みに讒言しているから、
ある者は追放され、またある者は本願の所領を没収されてしまった。
だから大内家の侍たちは武任の気に入るようにとこびへつらうばかりか、
月代や衣紋のつけ方、しゃべり方、所作まで武任を真似ているのだ。
『智者に近づけば賢くなり、愚者に近づけば暗愚になり、
佞者に近づけばへつらうようになり、盗人に近づけば賊になる』と言うように、
武任を真似ている当家の諸侍たちは、武士道の志もすべて廃れ果て、損得勘定ばかりして
商売人のようになり、強者におもねることで世渡りをする人間のようになってしまった。
そして困窮しても媚びない者たちのことを、
『伯夷・叔斉といった聖人の清貧の心を学んだとはいえ、取るに足らない者たちだ』と、
散々に誹謗中傷している。

実に、『無欲な卞随や潔白な伯夷を濁り汚れた行いの人物であると言い、
盗跖や荘キャクのような盗賊を清廉な者であると称す』というのは、当家の諸侍の行跡だ。
これはひとえに武任一人の佞によるものだ。
あれが当家にいる限り、政道は邪道ばかりで、しまいには国が滅んでしまう。
主君のために命を投げ捨てるのであれば、戦場ではなくとも、忠志には変わりない。
今後再び武任が私に問答を仕掛けてくるようなことがあれば、それが何事であっても、
眉間を二つに切り破り、返す刀で腹を切って死んでやる」と、憤っていた。

武任はこのことを伝え聞いて、「隆房と仲違いしては、
将来的に自分の身が一大事に及んでしまう」と考えた。
そこで、「どうにかして陶五郎長房を婿にとって親しくなりたいものだ。
自分にとって大内家に根を張り地盤固めをする良い策略になる」と考え、
義隆卿へと内密にこのことを嘆願した。

義隆はこのことをどうしたらいいものかと悩み、はっきりとした返答をしなかった。
武任は、義隆卿の御台所の乳人である新少将という女房に自分の娘を近づけて
昵懇の間柄になっていたので、この新少将を通じて義隆の御台所に同様に申し入れた。
新少将がうまくとりなしたのか、御台所から義隆卿へと、
「相良の望みは実にもっともだと思います。よく計らってやってください」と後押しがあったので、
義隆卿も了承した。

さて、武任の娘は玉環・飛燕どころか毛嬙・西施をも超えた美人であった。
義隆卿は非常に好色な人だったので、当時の羽林名家の息女であろうと、
姿が美しく性格が穏やかでやさしいと聞けば、何かと強引に自分の側室に迎え取っていた。
そればかりか、西国・畿内で商売を営んだり農耕に励んでいる身分賤しい民の娘であろうと、
容色が美しければ、金銀珠玉をなげうって皆迎え取ってしまう。
そのような目にあった美しい婦人は数知れない。
しかし武任の娘に比べれば皆顔色を失うというほど、武任の娘の美しさは際立っていた。

陶五郎長房も内々にその娘のことを伝え聞き、
「ああ、この女を妻に迎えたいものだ」と思い、
女のほうでも「この男ならば」と考えていた。

あるとき義隆卿の御台所が滝の法泉寺の山桜を見に行こうとしたとき、武任の娘も誘われて随伴した。
陶五郎はどうにかしてその娘を一目見たいとずっと思っていたので、
ある女房につなぎをつけて忍び込み、垣間見ることができた。
噂で聞いていたことなど頭から飛んでしまうほどに美しく、たちまち恋に落ちてしまった。
それからというもの、陶五郎は恋慕の思いに焦がれ、
「ああ、出雲にあるという神のお恵みをいただいて、あの娘と妹背の契りを交わしたい」と、
山口に勧請されている神や仏に祈りをかけ、女との逢瀬を願った。

その後、義隆卿から杉豊後守興運・青景越後守隆著を通じて、陶尾張守隆房へと申し入れがあった。
「ご子息の五郎にはまだ妻がいない。相良近江守の娘と婚姻の契約をしてほしい。
隆房が了承してくれれば、武任にもそのことを言い聞かせよう」と言われて、
隆房は二人の使者に対し、「かたじけない上意でございます。
愚息五郎に申し聞かせてから、ご返事は後ほどこちらから申し上げます」と、特に含みもなく答えた。

しかし思いが内にあれば色が外に出るもので、両の眼は見る間に血走って真っ赤になり、
憤怒の気持ちが隠しようもなくなってしまう。
隆房はしばらくして溜息を二つ三つ吐き、歯噛みをしてもなおおさまらずに、
二人の使者に向かって思いの丈をぶちまける。

「五郎の縁者としては、当家にあっては杉・内藤・右田といった大身の家老衆などを挙げてくださるべきだ。
それなのに、あんな坊主上がりの相良の娘を五郎の妻にと仰せになるとは、まったく考えもしなかった。
舅とは親と同じではないか。
武任が五郎の親になるとは、過分なのか不足なのか、あなた方はどのように考えているのだ。
聞かせてくださらないか」と、扇で畳を叩きながらさも声高に吐き散らし、
両目から涙をはらはらと流す。

杉・青景もしばらくは何とも返答しなかったが、ややあって、
「隆房の仰せは実にもっともだと思います。
しかし義隆も、まず隆房のご内意を聞こうとなさって、私どもを遣わしたのです。
それなのに、このように腹を立てるとはもってのほかです。
あまりに短慮にすぎて、さしもの隆房の仰せとも思えません。
よくよくお考えになってください。
一言が出てしまえば駟馬も追う能わず(一度口に出してしまえば取り返しがつかない)
と言うではありませんか。
五郎殿やそのほかの一族の方々ともよくご相談になり、
その上でご返事を申されますよう」と言って退出した。


以上、テキトー訳。続く。

なんつーか、陶も相良もどっちもどっちって感じだねw
前の章の隆豊さんだけが非常にカッコよく描かれてるのは、
やっぱり毛利家に従って生き残って子孫繁栄したからなのかな、などと。

いやしかし、陶五郎ちゃんと相良の娘の恋物語、ちょっと気になるんですけど!
親父同士が非常にナカワルで、当人同士は互いに憎からず想ってるって、
まるでロミオとジュリエット……(*´∇`*)
ロマンチックでエエですのう。
どうなるのかな、この縁談。

でもこの章には腑に落ちない点が一つある!
好色でどんな手を使ってでも気に入った女を囲うという義隆が、
絶世の美人と噂の相良の娘にどうして手をつけないのか!
でかい矛盾だと思うんだが、正矩的にはそうでもないのかな?

なんとなくソワソワモヤモヤしつつ、次回も続きを読みまうす。
2013-03-16

冷泉隆豊の帝王学

日が開いてしまったけれど、仕事で帰りが遅かったり漢文につっかかってたりしたよ_ノ乙(.ン、)_
くさくさするので漫画に手を出したりもしていました。
やだ、『へうげもの』、広家ほっとんど出てこないけど面白いじゃないの……!
でも1コマ見っけたよ、広家(*´∇`*) ニョロニョロ兜にDQN顔だったwww

そんなわけで逃避しながら陰徳記。これまでのあらすじ:
大内義隆があまりに文化行事にのめりこむので、冷泉隆豊は諫言をし、
義隆もそれを受け入れたものの、改善は見られなかった。
また、義隆は相良武任を重用して政務の一切を任せていたが、
武任が身勝手な人治政治を行うので、隆豊はまた義隆に長い長い説教を始めた。
今日はその続きから!


冷泉判官隆豊、諫諍のこと(下)

「こうは申しても、相良と同じように物を考えてはなりません。
ただ倹約を重ねて民を豊かにし、国を富ませてゆけば、
財は求めずとも向こうからやってくるものです。

今の武任の政治を見ると、主君とともに贅沢を極め、民の財を貪り取っています。
賦課を重くして民が年貢を納められなくなったときには、年寄りの親をさらい、幼い子を奪い、
水龍といって、冬の寒風が肌を裂くような時期に、
水中に木を立ててそれに老親や幼子を縛り付けて水に漬けておけと獄吏に言いつけて、責め苛むのです。
何枚もの衣を着て炉のそばで火を焚いていてもなお身が凍え手がかじかむ時期だというのに、
この水龍の責め苦は想像を絶します。
脛まで氷に閉ざされて耐え難くなると、親は子の名を呼び、子は親を呼んでわめきだし、
あれこれと助かる手立てを考えては試しながら、むなしい望みを抱いて嘆き悲しむのです。
その有様は、まさに紅蓮地獄や大紅蓮地獄の氷にとらわれた罪人たちの叫びのようです。

これだから、民たちは武任の苛政は猛虎よりも恐ろしいと感じて、他国へと逃げ出しています。
そのまま国にとどまっている者たちも、貧しさに身を細らせ、
食事も満足にできないから農耕に励む力もなく、田畑は皆荒れていきます。
そうすれば年々租税は少なくなり、租税が減れば将もまた同じように貧しくなります。
これでは利など少なく、ただの大損です。
民の財を貪り取れば取るほどに、将の財産も乏しくなるということを、あの男は知りません。
武任の才知は女人のような浅知恵なのです。

民が貧しく空虚な国は、勢が一万は集まるべきところ、二千、三千しか集まってきません。
この二、三千の勢もまた貧しいので、進みやすい道を整備することもできずに道を失ってしまいます。
道がなければ他国に行きようがありません。
また我が国に敵が攻め入ってきたら、城を守るにも兵糧が乏しければ
軍勢を養うことができないでしょうから、敵兵の攻撃を防ぐ力がなくなります。
敵に攻められずとも城へすべて落ちてしまうでしょう。

こればかりか、万民は邪政に苦しめられているのですから、
侍なら徒党を組んで反逆し、民は背いて一揆をくわだて、
弓を引き矢を放って復讐をしようとするはずです。
『上が暴虐を行えば下はたちまち反逆する、重い刑罰がみだりに行われれば、民もまた国を害する。
これを亡国という』という言葉は、今の武任の政治そのものです。

過ちだと気づいたら、必ず改めさせてください。
政治に邪心を入れずに仁徳を施し、士を愛し民を憐れんでくだされば、国はおのずと富むものです。
国を富ませ民を豊かにする秘訣は、将が倹約を基本として贅沢を憎むことにあります。
智士や勇兵を召抱えるにも、仁政に力を入れる必要があります。
政治によって福が民に及べば賢人が国に帰り、福が虫けらにまで及べば聖人までもが戻ってきます。
賢人がいる国は強く、聖人がいるところでは、世界のすべてがわかるのです。
賢人を探し求めるには徳が必要で、正しいことを行うには道理が大切だと申しますので、
道徳仁義に専念し、政道におかしなことがないか、きちんと考えてください。

それに前代よりも領国があまりに大きくなっていらっしゃるからか、
備芸石の国人たちに対して、ひどく無礼な扱いが目に付きます。
礼は士の帰するところであるという言葉もあります。
勇士や謀略家を召抱えるには、礼を重んじなければいけません。

その昔、蕭何が漢王に対して、『韓信は国士無双です。
天下を争うときには必ず必要な武将です』と言いました。
漢王は蕭何の言葉を信じて韓信を招きましたが、そのときにはことのほか礼を尽くしたそうです。
また、燕昭王は台の上に黄金の山を築いて賢者を集め、郭隗に支持して礼を厚くして遇したからこそ、
楽毅が魏からやってきて、処辛が趙から移住してきました。
四方の賢者は皆この地に集まったそうです。

ですから、賢者は、明君が賢者を求めるやり方を必ず見ているのです。
清廉潔白な士はその礼儀に注目しているし、節義の士はその道理に注目しています。
それに、昔の言葉にも『道徳仁義に礼がなければ、紛争や訴訟にも礼が備わらずに解決しない。
君臣・父子・兄弟の仲に礼がなければ、国は揺らぐ』と書かれています。
すべてのことは皆礼を基本としております。

備芸石の国人のなかでも、毛利右馬頭元就・吉見大蔵大輔正頼・宍戸安芸守隆家は、
どれも数万の軍勢を統べられる良将の器を有した武士です。
軍勢を任せ黄金の山を築いてでも崇めるべきなのに、そうなさらないのは実に失策です。
当家の家臣の中では、陶尾張守が大強将の器のある男です。
君主は臣下を使役するのに礼をもってすると申しますので、きちんと礼儀正しくなされば、
陶もあなた様に対して忠をもって応えるでしょう。
それなのに、武任の言いなりになって、陶などの者たちにまるで取り合わないのでは話になりません。

道徳仁儀礼の五つは一体のものなのです。
『道は人が踏むものであり、そこに至る筋を忘れなければ、すべての道を使える。
徳は人が得るものであり、それを欲する人が使う。
仁は人が親しむものであり、慈恵側隠の心があればそれは遂げられる。
義は人が口に出すものであり、善を賞し悪を罰することで功を立て事を立てる。
礼は人がまとうものであり、日夜政務に励むことで人々の規範となる。
これらが人間の基本であり、一つでも持たないくていいというものはない』とも言われております。

この五常を正しく守り、賞罰を明らかにしてください。
人を見て賞を重くし、罰を軽くせよとも言います。
これも仁徳愛和の道に深く、確かにいいことなのですが、
賞罰の軽重も、同様に中庸を守るべきです。

恐れながら、あなた様の御行跡には、文はあっても武はないように見えます。
このようなことでは下々の者たちを御すことはできないと言い伝えられておりますので、
文武双方を大切にする将軍の才が望まれます。
もしまた文学の些細なことに拘泥してその真髄を知らないのでしたら、是非を論じることもできません。

いつも武任は、法を犯した重罪の者であっても、自分と親しい者であれば、
『罪が疑わしい場合は罰を緩くせよ』という言葉がこれが仁政の手本だと言って、緩くしてしまいます。
ですから下々が上を恐れることがなくなり、当家の法がひとつとして立ち行きません。
勧善懲悪だというならば、どんな些細な善でも賞し、軽微な悪でも罰さなければなりません。
そうしなければ善が広がり悪が衰退することはないでしょう。

現在武任が智人だ賢人だと言って推薦している者を見てみると、
皆悪知恵が働いてゴマすりばかりがうまい者ばかりです。
こうした者たちは、主君が乗り気になるのなら、士農工商すべてか苦しもうとも気にせずに進め、
気に入られることばかりを考え、後の災いさえ考えずに民の財を貪ります。
自分に都合のいい働きをする者を、主君を大切に思う忠功の者だといって推薦し、働かせます。
それどころか、国を富ませ民を楽にする徳を行おうとする者のことを、
主君をないがしろにして万民を救おうとするのはまさに逆臣であると讒言します。

一善を廃するときには多くの善が衰退する、一悪を賞するときにはすべての悪が集まる、とも申します。
諸善を廃し衆悪を賞する武任を重用なさるのですから、
きっと国が滅びあなた様の身まで失う時が到来したのでしょう。
どうか、『善はその助けを受け、悪はその誅を受ける。
さすれば国安んじて衆善に至る』という言葉を信じ、
近習・外様のなかから清廉潔白な士を選び抜いて政道を任せてください。
主君の賢明さを見せて、侮る下民を罰し、武任を速やかに処刑してください」

冷泉隆豊は言葉を尽くして義隆卿を説得した。
しかし義隆卿はこの諫言を少しも活かさなかったばかりか、
隆豊が武任の権勢を妬んでこのような讒言をしたと考えたので、
隆豊は義隆卿の御前から次第に遠ざけられ、武任はさらに出世した。

「鸞鳳は伏竄し鴟梟は翺翔す、闒茸尊顯せられて讒諛が志を得たり
(すぐれた人物が逃げ惑わなくてはならなくなり、悪徳の者が跋扈する、
愚者が一世を風靡して媚びへつらい、人を悪し様に罵る者が出世する)」と書き置かれたのも、
このような暗君の下であったろうと、あきれ果てるばかりである。


以上、テキトー訳。

えーとまず、武任さんのサドっぷりに引きました……
領民をいじめ抜いて税を取り立てるってのはよくある話だけど、
老人や幼児をさらってきて冬の水に漬けて泣き叫ばすとか。
しかもその行為に「水龍」って名前がついてんだよ!
ってことは何度も行われてるってことだよ!
そんなことしたって、出せないものは出せないのに、ただ「水龍」を楽しんでるだけとしか!
とまあ憤りながらも、物語の都合上オーバーに書かれてるんだろうとは思いつつ。
物語としてなら、こういうタイプのドS代官だの領主だのは好物なんですがw

しかし隆豊さん、博識なのはいいけど私の頭がついていけないよ~_ノ乙(.ン、)_
文句は正矩につけるべきか。正矩! 読みにくい!!!
しかし、「民が富めば税収も自然に増えて云々」て道理は、現代にも通じるよね。
税率は上げずに庶民の所得を増やす(貨幣経済下では消費を活発化させる)のが税収アップの秘訣だよ!
ということなんだろうな。
現政権は果たしてそういう方向に向かってくれるのか……
ボーナスだけでも増えるといいな! 消費するからお願い!!!

それはそれとして、この話を読んでて思ったんだけど、
義隆をまっとうな主君に教育しまくるゲームとかあったらやってみたいね!
主人公は義隆で、委員長隆豊ルート、蠱惑的武任ルート、昔の彼氏陶ルート、
享楽の観世三郎ルート、人材うなる毛利家ルートなどがありますがこれじゃただのBLゲーじゃねえか。
切腹_ノ乙(.ン、)_

さてさてお次は……あらまあウフフ。
陶隆房と相良武任の仲がこじれるみたいですぞ!
2013-03-13

戦国武将の政治経済入門?

昼間暖かくて風が吹いてたと思ったら、なんだか嵐が来て去って行ったようだ……
なんなん。春の天候って予想がつかなくてたまにこわい。

さてさて陰徳記、大内家は当主の義隆が文化方面に入れ込んでしまい、
冷泉隆豊が諫言をするんだけど、いまいち手ごたえなしって感じだった。
今回はその隆豊さんのお説教、再び!という感じ。
またもや長いので分けるよ!


冷泉判官隆豊、諫諍のこと(上)

帝範には、「文武二つの道のうち、一つを捨ててはならない。
時によってどちらに重きを置くかは変わる。
武人・儒士どちらも廃れさせてはならない」とある。
それなのに都督義隆卿は武道を捨て投げ出してしまって、
ただ詩歌管弦のみに心を寄せ、全身全霊で打ち込んだ。
そればかりか、相良遠江守武任という奸臣を召し使い、何事も武任に任せてしまったので、
大内家の諸侍は皆この相良の奸邪を憎み、義隆卿に恨みを抱くようになった。
だからついには家之子の陶によって、無残にも殺されてしまったのである。

その武任は、もともと義隆の右筆であったが次第に出世し、
今は大内家の政道はすべて武任の胸先三寸となった。
どんな五逆十悪の罪人であっても、自分の肥馬の塵を望み残盃の冷に従う者であれば、
その悪行を咎めずにかえって善だと褒め称え、功もないのにみだりに賞を与える。
また百戦百勝の忠臣であろうと、自分におもねらない者には
その忠功を取り消して罪科があると言い募り、罪もないのに殺したりした。
それどころか、義隆卿に気に入られているのをいいことに、
陶・杉・内藤といった者たちを自分の風下に追いやろうとばかりしていたので、
たちまち大内家の一族郎党たちと仲がこじれてしまった。

冷泉判官はこの様子を見て、「相良の奸邪は間違いなく大内家滅亡のきっかけとなる。
その国が滅ぶとき、天は乱す者とそれにおもねる者とを与えるという。
今これを諌めなければ、私もまたおもねる者になってしまう。
孝行者は親におもねらず、忠臣は君主にへつらわないという。
過ちを見たらすぐに諌め、死を省みないのが忠の至りだ。
もし骨まで粉々にされても恨むつもりはない」と考えた。
あるとき隆豊は義隆卿の御前に行くと、とりとめもなく四方山話をした後に、謹んでこう言った。

「こう申すのも恐れ多いのですが、大内家の断絶のときがきて、
義隆卿の御運はもう尽きかけているように思えます。
それというのも、相良遠江守のせいです。
あの人の行いを見ていると、智は非常に浅いのに欲はとりわけ深く、
その心は非常に邪で、人の善行を見ては眉をひそめ、人の悪行を聞くと笑いを漏らしているようです。

実に、賊臣というものは、その禄を貪り取り、自分のために組織を動かし、
巧言令色して主君の心をとらえ、朝から晩まで栄華を競い、一日中利欲にふけります。
さらに主君にこびへつらって、自分より立場が上の忠臣を憎んで奸邪の思いを抱き、
自分より富める者を恨んで、昇進させたい者には便宜を図りその悪徳まで隠し、
反対に失脚させたい者には過ちばかり言い立てて善行を隠してしまいます。
主君に対してはご機嫌取りばかりして主君の心をつかみ、恩顧を望み、
表向きは主君の悪行ということにして自分の威を振るいます。
主君とともに楽しみに興じて後の災いを顧みず、
ついには主君が不義に落ちても自分が栄えようとする。
これが賊臣の振る舞いであると言い置いた昔の人の言葉は、今の相良のことに他なりません。

そして陶・杉・内藤などが申すことはどんなことであっても、
『どうして苔むした古流なやり方をするのか』と言って、
十のうち一つ二つさえも取り上げず、自分一人の考えで新法を出しています。
厳しい政治を行い、いにしえの例を変え日常を変えてしまう、
君が佞人を用いれば必ず天罰を蒙る、この文章はとっくにご存知ではありませんか。

何であっても、古流なものはそれが最適だったからこそ、
代々の聖主明君も唐尭虞舜の道をなぞり、延喜・天暦の後を追ってきたのではないでしょうか。
近いところでは先代の義興の御政道が正しかったからこそ、近国が武威に属したのです。
それだけでなく、公方義稙卿の御後見として十三年もの間京都でお暮らしになり、
天下の政も義興卿の口入があって管領や執事の邪政を正すことができたのです。
人は皆五月の涼雨のようだと喜び、細川右馬頭頼之以来の後見役だと、
世を挙げて仁政に感心したものです。

最近の新法の何が義興のやり方に勝っているというのでしょうか。
相良の仕置きは、王安石の新法と同じではありませんか。
父の道を変えないのが孝行だと言われてきております。
ですから、古流の義興の政道を見習うのがよろしいでしょう。
十七条の憲法は末代までのお手本です。
秦の李斯が古来からの聖賢の書を燃やしたのは、善政の例でありましょうか、
はたまた邪政の例でしょうか。

ご当家は律儀に古流を守っていれば、世の人もますます心服するものです。
それなのにあの武任は、町人や商人のようにすべて損得勘定だけを問題にして、
世を治め民を撫育する仁徳を夢にさえ知りません。

軍に財なくば士来ずといって、勇士・智臣を招くにも金銀に勝るものはないというのに、
そのためにほとんど財を投じることはなく、
逆に田楽や白拍子などのためには湯水のように金を使っています。
それどころか、花見のための別荘だといって九層の台を築いて千本の花を植え、
月見の山荘だといっては三山の峰を眺めながら四季の月を愛でるために、
珍しい植物や奇妙な石を集めさせています。

それによって民の仕事が増えて、本来の農耕に従事する時間が奪われてしまい、
民は貧しくなり国は空虚になり、町には痩せこけた苗だけが満ちています。
民を愛するには赤子を思うようにという言葉があるのに、
いったい何の恨みがあって国民を悩ませるのですか。

『尚書』には、『民は国家の根本であり、根本がしっかりしていれば国は安泰である』とあります。
民が疲弊してしまえば国は揺るぎます。
国が揺るげば将も必ず滅亡することになります。
『軍に財なくば士来ず』という言葉は、武任の考えとは雲泥の隔てがあります。

まず大将が贅沢を極めることなく、茅茨剪らず采椽削らずを旨とした時代のように、
倹約を基本にしなければなりません。
一人が倹約を知れば一家が富み、王者が倹約を知れば天下が富むといいます。
諸士は上から学んで奢侈にふけることはありません。
奢侈にふけらなければ金銀や米、銭を無駄にしないので、貧しくなることはありません。
諸侍が富めば自然と民への賦課は少なくなり、賦課が少なければ民が富みます。
民が富めば国は揺るがないので、一国で一万の勢を集められるでしょう。
国によっては二万にもなるかもしれません。

勢が多くなるばかりか、敵国に攻め入るにしても、財の心配がなくなるので、
どんな軍策でも運びやすく、また我が国に敵を引き受けて籠城するにしても、
食料がたくさんあれば城を落とされることはありません。
敵国へ謀略智計をめぐらすにしても都合がよく、智士勇士を召抱えるにも便利です。
それに、家臣たちの忠節忠功の程度を確かめて恩賞を与えるにしても、
財がなければ兵が勇むことはないでしょう。
ただ言葉だけで誉めそやすのは婦人のやり方です。

録をしっかり与えていれば、義士も死をいとわないと言うではありませんか。
漢の高祖は賢人を召抱えるためには財を惜しみませんでした。
だからこそ高祖が危機に陥ったときには、紀信が身代わりとなり高祖のふりをして楚に降り命を捨て、
周苛は城を堅守して楚に降伏することなく死んでいったのです。
高祖のように禄を惜しまずに忠臣に与えたいとどんなに思ったところで、
財がなければそれもかないません。
ただ項羽が兵士たちを愛したように、傷を負った者の血を自ら吸い出し、
手ずから薬を与えるだけでは、功を賞する財を惜しんでいるように見えてしまいます」


以上、テキトー訳。続く。

うーん、こういう章を読んでると、自分がお説教されてるような気持ちになってくるよね~_ノ乙(.ン、)_
主君を正しい道に戻さんがため、粘り強く諫言を繰り返す隆豊と、
くどくどしいお説教をじっと聴いている義隆って、どっちが辛抱強いんだろう。
ちゃんと聞くだけえらいよね、と思ってしまうが。
いやね、私も読んでて大変なんだ……故事部分とかほぼ漢文だし、
私の能力ではちょっと手に余ります(´∇`;)

今回ようやく隆豊さんのうぃきぺをのぞいてみたけど、
主君にこんな大説教かましてるから、義隆より年上なんだろうと思ってたらさ、
いやいや、年下だったね。
委員長キャラで年下……イイな、からかいたい←ダメ人間w

ところで、このお話は江戸時代初期の思想が反映されてると思うんだけど、
法や経済の考え方なんかは、ちょっと考えさせられました。
「古くからある法は、それが良かったからこそ用いられ続いてきた」ってのは、
言われて初めて気付くもんだね。
時代によって変えなきゃいけないこともあるのは確かだけど。
そんでまた「十七条の憲法」にここでお目にかかるとはwww
私ももっといろいろ勉強したくなってきたぞ! だが眠い!

てなわけで次回も続きだが漢文が乱舞してるので更新は遅くなるかもね!
2013-03-12

ギャンブル・ブレイク

だいたいの流れ:
毛利勢は大内方の先陣として、尼子方である備後の神辺城攻略に向かったが、戦いは膠着した。
神辺城主、杉原忠興に遺恨のある平賀隆宗は、杉原の所領をすべてもらうという条件で、
向城に籠もって日々杉原勢と戦いを繰り広げていた。
毛利、大内方大将の陶らは兵を治め、平賀のことなど忘れたかのように、
毛利家の山口訪問、隆元の結婚、元春・陶の義兄弟契約、
そして吉川興経粛清などに忙殺される(鬱)。

平賀「おい、おれら忘れられてね?」
杉原「ちょちょちょ、こっちにもちゅうもーく!」

そんなわけで今回は、平賀さんと杉原さんのコントです。


備後の国神辺の城没落、付けたり目黒の最後のこと

さて、平賀と杉原は早三年も戦いに明け暮れていたが、杉原の城は落ちそうにも見えなかった。
平賀隆宗も方策はすべて尽き、勇気もすっかりしぼんでしまって攻める気持ちもなくなってしまい、
忠興に使者を送ってこう言い送った。
「近年、あなたと私は余人も交えず取り結んで合戦してきましたが、
勝負を決せないままいたずらに年月を送り、士卒を疲れさせるばかりでなく、
あるいは討たれまたは傷をこうむる者の数も夥しくなってきました。
こうして士卒に苦労をかけ続け、民を苦しめ続けるよりは、天を司る命星に運を任せて、
矢を二筋受けることにします。
命中すればこの隆宗の運の極み、外れたならばすみやかにこの城を明け渡していただきたい」
忠興は、「弓ならば、蚊の睫、蟻の目玉であっても、
目にさえ見えればたちまち射当ててやるぞ」と考えて、非常に喜んですぐに了承した。

これは天文十九年十月十三日のことである。
隆宗と忠興はたった二人で、共の者を一人も連れずに城の尾崎へと出てきた。
隆宗は床几に腰をかけ、九字を切り護身法を行って、「満々引弓射不著」と念じて待ちかけた。
実に、あづち(弓の訓練で的を据える盛り土)なりきって矢を待つような風情だった。
忠興は弓の弦をしっかりと張り、矢を二筋取り添えて指に挟むと立ち向かった。
矢を取って打ち番え、「仰せの通りに仕ります」と言う。

隆宗胸板をトントンとたたき、「こちらへどうぞ。
我が胸板に受け止めて、あなたの弓精のほど、また鏃の鉄の鋭さを試してみましょう」と、
にっこりと笑いながら立ち上がった。
士卒の苦労に替わってとは言うものの、中国に二人といない精兵の、
矢の一筋ばかりか二筋まで受けようという、隆宗の心中こそ不敵である。

その日は宵ごろになって北風が雲を運んできたので月の光が少し暗かったが、
ひとしきり時雨が降ると程なく空は晴れ渡り、寒月が冴え渡って木の葉に遮られることもなかった。
日中よりもよく見えるほどだ。
隆宗の鎧兜は金箔で飾り立てられてたので、月の光に輝いて、
忠興が予想していたより狙いやすそうである。
男はそこまで大きくはないが、肩の骨が高くそびえ、
左右の腕には獣のように真っ黒な毛を生やし、眼は蜂のように鋭く鼻の穴を大きく開いている。
金仏の不動明王が岩窟から出てきたかのようだった。

矢を放つ距離は一町ほどである。
月も明るく鎧もよく見えるので、射外すわけがない。
忠興はよく弦を引いて矢を放った。
弦の音はいつもより高く、手ごたえがあったので、忠興は「射当てたと思います」と言う。

隆宗は少しも騒がず、カラカラと打ち笑って、
「永の御籠城で気がふさがれたからでしょうか、御弓精も衰えたと見え、
一、二間ほど足りませんでした。
これまであなたは、一、二町のうちならば、
地を走る獣や空を飛ぶ鳥さえも、十中八九は射当ててきたと聞き及んでおりましたが、
一町以内に立っている人間を、これほど無念に射外すとは情けない」と嘲弄した。

実は最初の矢は、隆宗の刀脇差を雁俣ではさみ、太腹へしたたかに突き刺さっていたのだが、
隆宗は大の剛の者だったので、次の矢を放たせるために、
こうだましたのだという。

忠興は「届かなかったか」と知ると、二の矢はそれに少し気をつけて射ったので、
今度は隆宗の肩の上を掠るようにして通り過ぎ、後ろの石に当たった。
火がカッと迸り、鏃は砕けて飛び散る。
そのとき隆宗は十間ほど引き退いて、「約束どおり、この城を明け渡してください」と言った。
忠興は、一言の約束は金石よりもなお固いものなので、
仕方なく城中の掃除をきちんとして、同十四日に城を平賀に渡し、
自身は尼子を頼って出雲へと向かっていった。

こういうこととは夢にも知らず、尼子晴久は、
杉原忠興の城が危機に瀕していると知らせがあったので、
「今これを見捨ててしまえば備後の味方を失ってしまう」と考え、
目黒新右衛門に足軽五百人を添えて神辺へと遣わすことにした。
目黒はかしこまって、「今回私が備後に向かうことはかしこまりました。
私が罷り向かってあの城を堅固に守るだけでなく、
近隣を打ち従えて尼子家の御手に属すように忠戦に励みます。
それができなければ二度と出雲へは帰ってまいりません」と荒々しく言った。

目黒は自分の宿所に帰ると、妻子に最後の別れを告げて、五百余人の先頭に立って備後へと急いだ。
こうしたところに、道の途中で忠興と行き会った。
目黒が大いに驚いて、「忠興はどうしてもう下城しているのですか」と尋ねると、
宮内少輔忠興は涙を流してこれまでの経緯を語る。
目黒はそれを聞いてもってのほかに腹を立て、
「昔、西塔の武蔵坊は五戒を守ろうとしましたが、
『弓矢を取る身であれば知略謀計のために虚言しなければ立ち行かない。
となれば、妄語戒を守ることはできないだろう』と言ったそうです。
だいたいにして、敵方をだますために嘘をつくのは、
弓取りにとっては少しも恥ずかしいことではありません。
いかに平賀と約束したからといって、おめおめと城を渡すことがありますか。
兵家は昔から詭弁の道であるというのを知らないのですか。
知略謀計で偽りを言わずに、どうやって敵を欺くのですか」と怒った。

忠興は、「私もそのように考えましたが、天神地祇を起こしてのことですので、
天の照覧も恐ろしく、こうして下城してまいりました」と言う。
目黒は「忠興が下城したなら、神辺へ向かって平賀の陣に切りかかっても、
戦利がないばかりか多くの兵を失うことになる。
晴久に損をさせ申すのは不忠・不義の至りです。
かといってこれから空しく帰るのは、晴久の御前で申し上げた言葉が偽りになってしまう。
進退相窮まりました。

しかたがない、連れてきた足軽たちはここから帰して、
私は神辺へと向かい、平賀に検使を一人出してもらって、潔く自害いたそう。
そうすれば人数も損じることはなく、また私が申し出た約束にも違わない」と、
足軽たちを皆忠興につけて出雲に帰した。
そして自身は神辺へと赴き、このことを平賀に申し入れた。
隆宗は「なんという義士だ。このようなつわものが自害してしまうとは不憫だ」と、
感涙は袖で拭いきれないほどだった。

そして隆宗は目黒の望みのままに、隆宗は検使として坂新五右衛門を差し出した。
目黒は周囲の禅院に入って仏前で焼香三拝した。
そして庭へと飛び出ると立ったまま刀を抜き、「君と一言の約によりて臣が百年の齢を誤る」と、
古い詩を訳して口ずさみ、腹を十文字に切り破った。
そして膝を突いてかしこまり、「どうぞ打ってくれ」と言う。
坂新五右衛門はすぐに首を落とした。

平賀はすぐに丁寧に供養すると、首は故郷へと送った。
晴久はこの顛末を聞くと、「有能なつわものを無駄に失ってしまった」と惜しんで、
目黒の子供二人を召し出し、目黒の家は小身だからといって目賀田の家を継がせて、
二百貫ずつ所領を与えた。
子供たちは目賀田采女允、同段右衛門と名乗り、兄弟ともに父にも劣らぬ勇士になった。


以上、テキトー訳。

忠興と隆宗、仲いーな……(*´∇`*)ハァン
でも賭け事で勝敗決めちゃうってどうなの。いいの、そこんとこ。
んでもまあ、月夜の決闘って、なんだかウエスタンなカッコよさが漂うから、
読んでて楽しかったよ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
隆宗も、矢が当たってるのに嘘ついて、なんとか大仕事をしおおせたね。
これが肉を切らせて骨を絶つというアレか。

城とられたうえに目黒にしこたま怒られる忠興。
まさに泣きっ面に蜂www
ちゃんと城を掃除して明け渡したり、いい人なんだけどな。
いい人ってだけじゃ世は渡れないんだね。
腹黒さがなけりゃ。

元就が「そうだぞ、謀略が何より大事だ」とかしたり顔で言いそうだけど、
内臓真っ黒な人はちょっと黙っててください。
今回はなかなかに、胸のすく話だったんだから。
目黒もいい男だなぁ。

そんで、この目黒の子供が目賀田だよ目賀田!
岩国に「目賀田家住宅」って文化財があるけど、そこんちの先祖だよ! ヒャッホーイ!
尼子が滅びた後、毛利・吉川に従った人は多いけど、目賀田もそのうちの一人なんだね。
その人たちが正矩にこういう話を語ってくれたんだろうな……ムネアツ。

さて次章は、大内家の内情に戻るよ!
はたまた冷泉さん……てことはハイパーお説教タイムか_ノ乙(.ン、)_
2013-03-11

血塗られた系譜

さて、ガソリン入れてきました(訳:アルコール摂取)。

そんなわけで、朝のうちに読み進めといた陰徳記。
だいたいの流れ:
元春に家を譲って布川に隠居した吉川興経だったが、
元就は興経に逆意ありと確信して二重三重の討手を仕掛ける。
近臣である村竹の裏切り、そして熊谷・天野連合軍によって討たれてしまった興経。
これほど簡単に討たれたのも、勇士と名高い側近の手嶋内蔵丞が別件で吉田に呼び出されており、
不在にしていたからでもあった。
吉田でだまされかけて、討手をまいて逃げた手嶋は、主君が暮らす布川へと急ぐ。


手嶋兄弟最後のこと

さて、手嶋内蔵丞はというと、布川に帰って興経と一緒に死のうと思ったものの、
手嶋を討ちもらしたと聞いた者たちが、討ち取るために大勢駆けつけてきたので、
道を通ることができずに山伝いに逃げていた。
その夜が明け、ようやく布川へ逃げ帰ったが、興経の暮らしていた宿所はすでに焦土と成り果てて、
むなしく礎が残るばかりだった。

「これはどうしたことだ。興経はどうなったのだ」と思ってあたりの者に尋ねてみると、
「今朝方、熊谷・天野によって討たれてしまわれました」と答えが帰ってくる。
手嶋はたまらず涙をぼろぼろとこぼして
「なんと口惜しいことか。私が一緒にいれば一方を打ち破って、お命だけはお助けしたものを。
主従の契りが絶え果てたのか、敵に推し隔てられてしまったのは無念極まりない」と声を限りに泣いた。

しばらくして「興経が討たれてしまわれたところはどこか」と尋ねてその場所に行き、
生きている人に物を言うかのように掻き口説いた。
「あなたがおしめをしていたころからこの腕に抱いてお育てし、
片時も離れたことがなかった私が、最期のときだというのに、
敵に押し隔てられてしまうとは無念でたまりません。
今しばらくお待ちください。

西方十万億土にも及ぶ道を、どうしてお一人で行かせることができましょう。
追いついてお供いたし、三途の川は私が背負って渡り、
死出の山路の案内をして、閻魔の庁まで一緒に参ります」と言って念仏を十回唱え、
腹を十文字に切り破った。
介錯する者がいなかったので、自分でのどを掻き切ってうつぶせに倒れて死んだ。
これを見た人は、「勇といい義といい忠といい、肩を並べる者がないほどの振る舞いだ。
父の元経がたくさんいる郎党の中から選び出し、産屋のうちからそばに付けたのも道理だ」と、皆感心した。

内蔵丞には兄弟が四人いた。
又四郎・又五郎は市川刑部少輔経好に預け置かれた。
又七郎・又八郎はは、近隣の国へと興経の回文を持って行っていた。
「又四郎・又五郎は兄にも劣らぬ大の剛の者である。
生かしておいては千里の野に虎を放つようなものだ。
急いで討ち果たすように」と元就様が下知すると、経好はすぐに遠藤弥九郎を通じて、
「又四郎兄弟に少し話がある。こちらへ出てくるように」と伝えさせた。

二人の者たちは「承りました」と答え、同じ屋敷に住んでいたので、
すぐに遠藤と連れ立って出てきた。
前もって、稲原のある陰に討手の者を数十人隠し置いている。
もしかしたら討ち損じることもあるかもしれないと、別のところにも三十余人を隠れさせていた。
遠藤もなかなかの者で、手嶋兄弟のうちの一人は自分の手で討ち果たそうと思っていたので、
稲原の近くに来ると、太刀を抜くと同時に又五郎に切りかかった。
又五郎は早業打物の達人だったので、気付くと同時に太刀を抜き合わせて受け流し、
弥九郎を袈裟懸けにズンと切って落とす。

これを見て、あたりに隠れていた討手の者たちも、一斉に立ち上がって切ってかかった。
手嶋兄弟はこれを見て、「興経が討たれてしまったからには誰のために命を惜しもう」と、
大勢を左手に受け、右手に寄せ合わせながら散々に戦った。
数人切り伏せると左右に追い散らし、真っ赤に染まった太刀を打ち振りながら逃げようとした。

そこに市川経好が追いかけてきて、「手嶋兄弟よ」と呼ばわった。
「おまえたち二人を打ち漏らせば、私は後で処刑されてしまうだろう。
どうせ逃れることのできないこの命だ。
こちらに戻って私の首を打ってから、どこへなりとも落ち延びるがいい。
これまでの情けを打ち捨ててどこへ行こうと言うのか。戻れ」と言うと、
手嶋兄弟はこれを聞いて、「我らは命を惜しんで罷り退くのではありません。
向かってくる敵がいなかったので、そのまま落ち行こうとしただけです。
実に、これまで我ら二人を預かってくださった恩があります。
我らが逃げてしまえば経好お一人が罪に問われましょう。
これから立ち返って自害し、経好の恩に報いましょう」と、
兄弟一緒に帰ってきて、庭の上で腹を掻き切って死んだ。

又七郎・又八郎は翌年の春ごろに帰ってきたが、兄弟の様子を尋ねて事の顛末を聞いた。
「こうなっては、二人が生き残ったとしても意味がない。
人々は我らがそのときに国にいなかったことを知らないだろう。
兄たちは皆主君と同じ道に行ったというのに、
我ら兄弟が取るに足らない命を惜しんで逃げ出したのだといわれてしまえば、一門の面汚しになる。
五人そろって死を善道に守ろうではないか」と、刺し違えて死んでしまった。
根を同じくする者は枝を連ねるとは言うものの、
義を守り、忠に邁進した振る舞いは実に稀有なことであると、聞く者はすべからく感動し褒め称えた。


以上、テキトー訳。

だから私は乳人の後追い自害ってのには弱いんだって(´;ω;`)
赤子のころから腕に抱いて大切に育ててきた主君が死に、
自ら命を絶つ乳人ってのは、ちょっと言いようのない哀愁を感じてしまう。
最初にこのパターンに当たったのは、厳島合戦のときの陶主従だったっけ。
ものすごいインパクトだった。もちろん悲しい方の。

亡き主君が斃れた場所を尋ね当て、虚空に向かって掻き口説くとか、
いったい何の演劇ですか……! もう><。
救いようのない悲しみがあるから、こういう話は苦手。

手嶋の兄弟も、つらかったね。
五人兄弟ことごとく腹を切って果ててしまうとは。無念だったろう。
手嶋兄弟の怨念を恐れる心が、こうした言い伝えから見て取れるような気がする。
興経暗殺と一連の始末は、毛利家にとって暗部だったんだろうな。

ここに登場する市川経好は、興経を蟄居に追いやった、叔父の吉川経世の嫡男だったはず。
次男の経高は今田姓を名乗って元通りに吉川家に仕えるけれども、
経好はこの後、毛利の直臣になっているようだ。
旧来の吉川家臣の感情を思いやって元就が采配したのか、
それとも元就は最初から経好を取り立てると誘って吉川家に介入したのか。
このあたりも興味深いけれど、脳味噌の限界です。

さて次章、対峙したまま放置されてた平賀・杉原の話に飛ぶよ!
2013-03-10

白い犬と裏切り者と怪事

どうにか目次整えました(・`ω´・)
有言実行、誰も気にしてないだろうけど自分が一番ほっとしたw

さて陰徳記、これまでのあらすじ:
元春に吉川の家を譲って布川に隠居した興経は、元就に反逆を疑われ、
熊谷伊豆守信直・天野紀伊守隆重を差し向けられる。
また元就は興経の側近で手ごわい手嶋を別に呼び出して吉田で討とうとし、
興経が信を置いていた寵臣の村竹宗蔵を抱き込んで、興経殺害の命を与えていた。
手島の不在、村竹の離反、また熊谷・天野の攻撃の前に、興経は儚い命を散らした。

今回は、興経死後のお話。


興経最後のこと(下)

そして不思議なことが起こった。
興経がこれまで飼っていた白い犬が一匹、興経の墓所にやってくると、石を枕にして眠りだした。
はじめの二日ほどは誰も気にしなかったが、四、五日もの間その状態なので、
人々は皆不思議に思って、餌などを与えようとした。
しかしこの犬はまったく見向きもせず、ついに七日目に飢え死にした。
「この犬の、忠と義を守る心がもし村竹宗蔵と入れ替わっていたなら、
興経はこうして討たれることはなかっただろうに。
心無き白犬さえ恩に報いる心がある。それなのに人として生を受けた村竹の所業はどうだ。
伝え聞く別府・長田よりもひどいものだ」と、村竹を憎まない者はなかった。

こうして主の恩に報いようと殉死した白犬は、畜生道の苦難を逃れて仏性を得、
本有平常の道に至ったのだろう。ありがたいことである。

宋の太宗が亡くなったとき、その飼い犬は物を食べなくなって主人の墓に行き、
涙を流しながら鳴き続け、やがて衰弱して死んだそうだ。
見ていた者たちは皆涙を流したという。

また日本でも昔、物部守屋の部下である大連が、厩戸の皇子・蘇我馬子の部下の野見宿禰と戦い、
ついに跡見首赤寿(オムイテヒ)の放った矢によって討たれた。
このとき大連の家人であった捕鳥部万(ととりべのよろず)という者が将となり、
百人で難波の屋敷を守っていたが、守屋が滅んだと聞いて夜中のうちに馬に乗って逃げ出してしまった。
蘇我方は山に逃げ込んだ万を討とうと、数百人の衛士を派遣して万を囲んだ。
万はすぐに竹やぶに隠れ、縄を竹に結び付けて引き、竹を動かして敵兵の注意をそちらに集めた。
追っ手の軍兵は見事にだまされ、動く竹を指差して「あそこに万がいるぞ」と叫ぶ。
万はその兵たちに矢を放ち、ことごとく射当てた。

こうなると追っ手の兵たちも恐怖して近づいてこない。
万は弓を腋に挟み、山に向かって走り去った。
ところが敵兵の一人が疾駆して先回りし、川のほとりに身を低く構えて矢を放った。
この矢は万の膝に当たった。
万はすぐに膝に刺さった矢を抜くと弓に番えて射ったが、地に倒れ伏し、
「この万は、天皇の楯となるために武勇をあらわそうとしたのに、
聞き入れていただけずに、このような窮地に陥ってしまった。
話ができる者はここに来い。私を殺そうというのか、生け捕ろうというのか、聞かせてくれ」といった。

討手の衛士たちは先を競うように駆けつけて万を射ったが、万はその矢を払いのけ、
逆に放った矢で三十余人を射殺した。
そして持っていた剣でその弓を三つに断ち割ると、その剣も押し曲げて川の水に投げ込んでしまう。
それから万は、別に持っていた短剣で自分の頭を刺し、死んだという。

河内の国司が万の死に様を朝廷に報告したところ、
「万の死体は八つ切りにして八つの国にさらせ」と命があった。
河内の国司はすぐにその明にしたがったが、死骸を切ろうとしたところ、
雷が鳴って大雨が降りだした。
ここに、万が飼っていた白い犬がやってきて、伏せたまま天を仰いで吼えまわる。
そして万の死骸のそばに行くと首を噛み切り、頭を咥えると古い塚を掘り返して埋め、
そのそばにぴったりと寄り添ったまま飢え死にしたという。

河内の国司がその犬の行動に驚いて朝廷に報告すると、朝廷は非常に哀れんで聞き捨てることができず、
「その犬は世にも稀な犬である。後世に伝えるべきだ。
すぐに万の一族に命じて墓を作り、埋葬しなさい」と命じた。
これによって、万の一族は有真香の村に二つの墓を並べて作り、万と犬とを葬ったそうだ。
万の勇は興経と等しく、犬の行動もまた同じだった。
見たこともない昔のことまで語りだし、人は皆褒め称えた。こ
れだけでなく、だいたいにして犬というものは主人との別れを悲しみ、
あるいはまた恩に報じることも多いものだという。

昔、蘇我入鹿が上宮太子の眷属を滅ぼそうとしたときに、諸国の兵を集めていたところ、
播磨の国に牧夫という者がいて、召集に応じた。
この妻は世に超えて美しかったが心栄えはよろしくなかったので、
夫のいない間に夫の従者と密通していた。やがて夫は帰ってくる。
従者はこれまでの密事が漏れ聞こえれば自分が殺されてしまうと恐れ、
主君をだまし討ちにしようと考えた。

そこで牧夫に向かって、こう言った。
「とある山のなかに鹿や猪が多く集まっているところがありますが、まだ他の人は知りません。
私はそこに行って見てきたので道も知っています。
あなたと私と二人で、密かにその山中に行って、猟をしてとってきましょう。
このことは人には知らせないでください。
人が知ればあなたのものにはできなくなってしまいますよ」
牧夫はこれを聞いて「それは本当か」と大いに喜んだ。
もともと狩を好む男だったので、飼っていた黒い犬を連れて、
従者と一緒に山の中へと数十里ほど分け入っていく。

従者は「だましおおせたぞ」と思ったのか、高いところに駆け上がると弓を取り出して矢を番え、
「私は昔はあなたを主人としていたが、今は敵となった。
この山には猟場などない。私があなたをだましてここまで連れてきたのだ。
この一矢であなたの命を奪ってやる。もし思い残すことがあれば言え」と言った。
牧夫はひどく驚いて、「なんてことだ。まったく気付かなかった。
こうなっては何も言うことはないが、しばらく待ってくれ」と言うと、
腰につけて持ってきていた弁当を解くと二匹の犬を呼んで分け与えた。

牧夫は犬を掻き撫でながら、「おまえたちを飼ってずいぶんになるが、
まるで師弟のように愛しく思っている。だから私の言うことをよく聞きなさい。
これから私がここで死んだら、おまえたちはすぐに私の屍を噛み千切って、残さず食らってくれ。
それというのも、私は若いころから武勇の誉れ高く、だからこそ今回も蘇我の戦に召集されたのだ。
それなのに、従者にだまされて易々と山中で討たれたとあっては恥ずかしくてたまらない。
人々はきっと私の屍を見て指差して笑い、憐れむだろう。私にはこれが気がかりだ。
だから、私の屍を食い尽くしてしまってくれ」と言う。
「絶対にこの命に背くなよ」と掻き口説くと、
二匹の犬たちは与えられた飯も食わずに耳を垂れて聞いていた。

すると、一匹の犬が突如躍り上がって従者の弓の弦を噛み切った。
もう一匹も従者に飛び掛り、のどに噛み付いて殺してしまった。
牧夫は危機一髪で命を拾い、大いに喜んだ。
二匹の犬を連れて家に帰ると、妻を追い出してしまった。

牧夫は自分の一族を呼び集めると、「私はこの二匹の犬に命を救われた。
これからはこの犬たちを我が子として所領や屋敷を与えよう」と言ったが、
犬は寿命が短いので、やがて死んでしまった。
牧夫は「私は故郷に二匹の犬を自分の子として屋敷を与え、それが死んでしまった。
でも約束は違えるまい」と、自分の財をなげうって伽藍を建立し、
千手観音像を安置してその犬たちの冥福を祈った。
この犬たちの社は地主神となり、寺は犬寺と呼ばれたそうだ。
このような例は古今に多い。

それに引き比べ、村竹の振る舞いは畜生にも劣っている。
今生では天罰を免れず、子孫は永久に絶え果て、自身も眉や髪が抜け落ちてしまうことだろう。
来世は八大地獄に入って牛頭馬頭の鉄棒に打ち据えられるだろう。
そうなるに間違いないと、人々は皆村竹を憎んだ。

さて、吉川伊豆守・森脇和泉守はこのことを聞きつけると急いで由だ郡山に駆けつけてきた。
二人は涙を流し、「興経を討ち果たすのであればどうしてお知らせくださらなかったのですか。
隠居蟄居の身となったのですから、どうして反逆など企てられましょう。
こうして誅罰なさるとは、なんともお情けのないことです。

私たちも、興経に対して私怨があってこのように(興経から元春への家督相続)したわけではありません。
吉川の家のことを考えたからこそ、一旦は主従の間を乱すような振る舞いをしたのです。
確かに興経に楯突いたと同じようなものですが、本当は家のためを思い、
それに興経の不義を正すために行ったのです。
こうなったら私たちも、縁側の片端を汚して自害させていただきます」と大騒ぎした。

元就様はあれこれとなだめたものの、二人はまったくおさまらない。
そこに元就様の北の方が出てきて、
「伊豆守殿にとって興経は甥ですが、わたしにとってもまた甥です。
甥を殺されたのが無念だといって自害なさるのなら、私も女の身ではありますが自害すべきでしょう。
伊豆守殿、どうか私に免じて自害を思いとどまってください」と、
一度は怒り、一度は涙を流して説得した。
伊豆守はしぶしぶ自害を思いとどまったので、和泉守も強行することができずに涙を抑えて自害をやめた。

それから興経の亡霊が出て人々を悩ますようになった。
葦毛馬に乗った人影に出会った者たちは、十人が十人とも皆気絶して再び起きることはなかった。
もし百人の中で一人でも生き残った者がいたとしても、
心身脳乱し、正気のままではいられずに狂ったようになり、恐ろしい言葉ばかり言ったそうだ。
この怨霊を鎮めるために、一宇の社壇を建立して御崎大明神と崇めるようになった。

しかしなおも亡霊は人々を悩ませ続けたため、
京都へ使いを差し上して吉田殿へそのことを言うと、光大明神と名を改めた。
光と名づけたからなのか、その後はその社壇から傘のような光るものが飛散して
また諸人を悩ますようになった。
「これはきっと光と名づけたから名に応じたのだろう」と、また吉田殿に相談した。
その後は柔軟大明神と改めた。
そのおかげか、怨霊も静まった。その白犬も同じ末社に祀ったという。


以上、テキトー訳。おしまい!

犬にも愛される英雄興経、さすがです。
でもそれと村竹を比較して村竹をdisんのは筋が違うんじゃねーかと思うんだ。
命じたのは元就だし。断ったら村竹が殺されんの目に見えてるし。
まあいつの世も、罪だの悪徳だのを立場の弱い人間におっかぶせて幕引きにする、
そうやって生きていくしかないのかもね。

興経の怨霊ってのも興味深い。
1ヶ月ほど前に岩国に旅行に行ったわけだけれども、
そこで仕入れた資料にも興経を祀ったナンチャラが登場してたと思い出した。
吉川氏が本拠地を移した後も、なお恐れられ祀られた興経。
ずいぶんと、興経に対しては後ろ暗い思いがあったんだろうな、
というのが容易に想像できた。いわゆる荒神信仰だよね。
興経の他にも、岩国を平定する過程で殺した豪族なんかも荒神として祀られてるようだ。
次に行くときには、そのあたりの知識も少はしつけて行きたいな。

そうだ、あまりの衝撃で忘れかけてたけど、「元就の北の方」って、妙玖のことだよね。
「興経は自分の甥でもある」って言ってるし。
でもさ、妙玖ってすでにこれより5年前の天文14年に亡くなってるんじゃ……
ぎゃああああぁぁぁぁ!!!
ってまあ、ちゃんと正矩が考証をしていなかったか、
もしくは死没年は押さえていても、話の流れ的にこの人を登場させないと収まりがつかなかったか、
そんなとこなんだろうな。

さてさてお次は、「名刀を見たいから持ってきて」って名目で
吉田に呼び出されてた手島のお話だよ!
あわや討たれるというところで逃げ出して、主君のいる布川に向かおうとした手島はどうなったのか。
待て、次回!
2013-03-09

安芸の鬼神、死す

だいたいの流れ:
吉川の家を元春に譲って布川に隠居した興経だったが、
元就は興経に不穏な動きがあると見て、熊谷信直・天野隆重に興経討伐を命じる。
また、興経の郎党で腕の立つ手嶋は別に呼び出され、
だまし討ちにされそうだったが何とか逃げ出した。
天野はかつて目にした興経の馬術・弓術の巧みさ、力量を述懐し、
「どうやったら興経を討ち果たせるだろう」と不安に思ったが、
ついにその日が来てしまった。

この章は長いので2回に分けるよ!


興経最後のこと(上)

翌日の九月二十七日の朝、熊谷伊豆守・天野紀伊守は屈強な兵を三百余騎率いて、
興経のいる布川へ攻め寄せ、鬨の声をドッと上げた。
興経は手嶋が帰ってくるのが遅いので、何かあったのかと心配していたが、
そのとき門外から鯨波が聞こえた。

「これは吉田から討手が差し向けられたのだな。それならば一人も残らず射伏せてやろう」と、
用心のために密かに用意しておいた弓を二張手に取り、大矢も取り添えて広縁に出る。
寄せ手が門の外にいるのを見ると、大雁俣を取って番え、大きく弦を引いて射ろうとしたが、
すぐに弦が切れてしまった。
もう一張の弓を出して打ち番えようとしたが、その弦もまた切れてしまった。

興経はカラカラと笑い出し、「これほどまでに運が尽きなければ、
私が人の手にかかることはなかったろう。
天が私を滅ぼしたのだ。人を恨むべきではない」と、弓と矢をカラリと投げ捨てた。
右の手に三尺五寸の青江の刀を提げ、左には二尺八寸の盛家の刀を振りかざし、
広縁の際に突っ立って、敵が寄ってくるのを待ち受ける。

ところで興経の二張の弓の弦が切れたのは、村竹宗蔵という者の仕業だった。
この村竹はまだ若かったころ容貌が非常に美しかったので、興経にいたく愛された。
興経は、村竹がまさか裏切るはずはないと考えて布川まで連れてきていたのだが、
元就様から村竹に対し、「興経を殺してくれれば好きなだけ所領をやろう」と誘いがあったのだった。
村竹は「異議はありません」と了承したものの、興経を討つのはさすがに恐ろしくなって、
弓の弦を切りかけて青江の刀の刃をつぶしておいたということだ。

興経が弓をよそにカラリと投げ捨て、太刀を振りかざしたのを見て、
熊谷・天野は「さあ切り入れ」と下知をした。
寄せ手が大勢乱れ入ってくる。
このとき興経が「今ここに攻めてきたのは、福原・桂か、井上・児玉か」と尋ねると、
真っ先に進んだ兵は「吉田勢ではありません。
熊谷・天野が興経の御首をいただきに罷り越しました。
こう申す私は、熊谷の郎党、水落と申す者です」と言うや否や、切ってかかる。

興経は、「ではおのれらに私の手のほどを見せてくれるわ」と右手の方へ引き、
二振りの太刀を振り上げて甲の手返しにしたたかに打つ。
水落はドウと倒れてうずくまった。
これをはじめとして、寄せ手二十三人が同じところで切り伏せられ、
倒れた人で山ができたので、寄せ手はたまらず門外へとさっと引いた。

興経が盛家の刀で切っていれば一人残らず切り殺すことができただろうに、
寸が長く丈夫な青江の刀を頼みに思ったのか、青江で切っていた。
村竹が刃をつぶしていたので、少しも切れなかったのが残念である。
しかし太刀で打たれて皆倒れてしまったので、興経が切り殺したと思ってしまったのは仕方ない。
打ち伏せられた二十三人のなかで、熊谷の手の者一人が眉間を打ち砕かれて死に、
三人は腕を折られた。また天野の手の者も二人が片手を折られた。
そのほかの者たちはその場ではしたたかに打たれて気絶してしまったが、
後に治療したところ、皆元気になったそうだ。

さて興経は、「雑兵たちは皆追い払ってやったぞ。
こうなったら打って出て、熊谷・天野と相対して勝負を決しよう」と、門外へと切って出ていく。
寄せ手はあちらこちらで数十人切り伏せられ、バラバラと引いていく。
こうしたところに村竹宗蔵が、興経の背後から弓をキリキリと引いてヒョウと射る。
その矢は、興経の腰から小腹へと、貫通しそうなほどに突き刺さった。
興経はどこかおかしく感じたが、寄せ手の方から矢が射られたのだろうと思い、
抜き捨てようとしたがまったく抜けない。

こうしたところに、明石と言う女が走り出てきて、「この矢を抜きます」と言った。
興経は「後ろへは抜けないぞ。前へ押し抜け」と言った。
明石は「心得ました」と矢を前方に押すと、矢先が前方に突き抜ける。
興経は自ら鏃をつかんで前に引き抜き、矢柄は後ろに抜いた。
明石が手拭でしっかりと傷口を巻くと、興経は、
「おまえはこれまで頼りにしてきた若党より頼りになるな。
この志は冥土までも忘れないぞ。
このような深手さえ負わなければ、今ここで討たれることはなかっただろうに」と、
歯噛みをして仁王立ちになった。まるで門前の金剛像が睨んでいるかのようだった。

二宮十郎右衛門という奉行がいて、走り出てくると、
「私はずいぶん年をとってしまって、足も弱っているので、ご活躍の足手まといになりましょう。
今のお怪我はずいぶんと重傷のように見えました。
普通の人であれば、この矢一筋で動けなくなってしまうでしょうに、
少しも気になさっていないとは、これまでの武勇のほどがよくわかります。
しかしもし敵が一人もいなくても、この重症ではお命が続くことはなりませんでしょう。
敵がまた押し返して切り入ってくれば、
もう力も弱り目もくらんで敵の手にかかってしまうことになります。
私は家に火をかけて自害をし、冥土の旅のお供を仕りましょう」と言った。
興経が「神妙なことだ。さあ早く」と答えると、
二宮は「かしこまりました」と言って家の中に走って行った。
それから藁を集めて火をカッと吹き付ければ、あっという間に燃え広がる。
二宮はためらいもなく腹を切って、猛火の中に飛び込んだ。

こうしたところに杉原太郎左衛門は、
興経が傷の痛みに少しよろめいたところに走りかかって丁と切りつける。
興経は真っ向から渡り合って切り結んだ。
そこに、天野紀伊守隆重が「私も普通の人間よりは力が強い。
興経はすでに深手を負っているし、組み伏せてやるぞ」と思って、走り寄って組み付いた。
興経は太刀を持ちながら天野を掴んで投げ捨てようとしたが、
深い傷のために目もかすみ、足もよろめいてしまう。
しかし、世に聞こえた力持ちなので、ついには隆重を組み伏せて押さえ込んでしまった。

隆重の中間の与介という者が走りかかり、主人の上に乗っている興経を刀で二回刺した。
興経が弱ったところに隆重が「エイヤ」と押し返し、今度は上に乗って首を掻こうとする。
そこに熊谷の手の者、末田民部左衛門が駆けつけてきて、首を奪おうとしてきた。
隆重もなかなかの大力なので簡単に奪えそうにはなかったが、末田はまず与介を突き倒し、
それから太刀で隆重の首を少し切った。
隆重が切られて少しひるんだところを「エイ」と押しのけ、
末田は興経の首を押し切ると太刀の先に貫いて高く差し上げる。
「これまで鬼神のように恐れられてきた吉川興経の首は、熊谷の郎党、
末田民部左衛門が討ち取ったぞ」と呼ばわった。

すぐに吉田へと興経の首を持参すると元就様は大いに喜び、勧賞を行った。
さて興経の首は実検にかけられた後土中に埋められ、石を積み上げて墓所が整えられた。
多くの僧が呼ばれて、その後世の供養を執り行った。


以上、テキトー訳。続く。

うおお興経……!!! 立派な最期だったぜ。熱かった。
しかしすごいな。いろんな人が入り組んで物語を構成してるね。
まず、熊谷・天野に興経討伐を命じた一方、興経の側近をたらしこんで謀殺を命じていた元就。
黒い、黒いよ~さすがの黒さだよ。
素直に応じちゃう村竹もどうかと思うけど、二重に興経殺害命令出してる
元就の黒さにはかなうまいて。しかも寵童だった人にだよ。えぐい。
たぶん断ってたら、元就に殺されたと思う、村竹。

村竹がビビッてしまって弓の弦を切り、刀の刃をつぶし、
そして熊谷・天野軍と全面対決! 熱いね!
興経の問いかけに「吉田ではなく熊谷・天野の者だ」と答えたのは水落……
って、えっ? 水落ってとんでもないゴロツキじゃなかったっけ。
下巻でゴロツキっぷりの詳細が明らかにされてるあの人だと思うんだがw
村竹が刃をつぶしてくれたおかげで生き残ったんだねぇ(゚▽゚*)

村竹、後ろから矢を射って地味に活躍してくれてる。
そんでもって女人が活躍! 明石! 名前が残るのも珍しいよな。
この後の足取りも紹介されてればいいんだが、期待はできなそう。
二宮は年老いてもさすがの忠義者だね。

んでもって、興経の首に群がる有象無象。
ちょ、天野さんから奪い首してもいいの!?
首を奪うためなら隆重を殺してもかまわないって感じだったよね、末田。
こういうのは……まあ普通に横行してたんだろうな(遠い目)。

で、今日読んだ分で興経は死んでしまったわけですけれども、
この章はまだ続くよ! 今度は犬登場!
2013-03-08

OKITSUNE~天野メモリアル~

うふふ、すごくぐったりしてるわけですけれども、
こりゃ一週間の疲れもあるかも知れんけどだいたい花粉のせいだろ。
今日は凄まじかった。軽症の私でもひどいことになった><
皮膚まで痒くなるもんなんだねぇ……

元気を出すため、陰徳記。
流れとしては、元春の吉川家相続→興経の布川隠居→
元就が興経に不穏な動きありとして熊谷信直・天野隆重に興経討伐を命じる。
といったところ。
前の章では、興経の手の者で、腕の立つ手嶋という男が吉田に呼び出され、
そこで討たれるはずだったものの危うく逃げ出して命を拾った、というもの。

今日は、興経討伐を命じられた男たちが話しをしているところだよ。


興経、弓馬の噂のこと

さて熊谷・天野は三入の観音寺という寺に集まって興経を討つ策を練っていた。
天野は言った。
「信直もご存知のように、興経は力量が人より優れているだけでなく、
屈強で早業・軽業も達者、弓馬の達人、打ち物の名人です。
たとえ数千人で攻めたとしても簡単には討ち果たせないでしょう。

あるとき新庄の西禅寺の門前で競馬があって、私も行って見物していました。
興経の手綱さばき、猿が梢を渡るよりもなお自在に見えました。
興経に、『噂に聞いている曲馬を見せてもらえませんか』とねだったところ、
『たいしたものではないが』と言いながらも見せてくれました。
馬の草寸に仰向けに寝て鎧をはずし、鞍つぼに膝を組んで早足で走行させたり、
あるいは二頭の馬の間にぶら下がって、地面に置いた扇子や鼻紙を拾ってみたり、
または鞍の上に立ったまま全力疾走させたりしていました。

こういう芸はそう珍しくもないので、興経だけの得意技ではないと思って見ていたのですが、
興経は馬の腹帯を胸に抱えて解き捨ててしまうと、まっすぐに駆けてきました。
そして私の目の前でひらりと飛び、二、三間ほどのところにすっくと立ったのです。
いったいどういうことだと見てみると、馬は遠くに駆け去った後でしたが、
主の興経は、鞍と鐙を両足の間に挟んで立っているのです。

また、鞍を置いてある馬を一頭、馬場から出して、声を上げて手を打ちながら追うと、
馬はこれに力を得て、千里を一気に駆け抜けようと速度を上げます。
興経は道のわきに立って袴を高くたくし上げていましたが、
馬が自分のそばにやってくるとひらりと飛び乗ったのです。
アッと思って見ていると、蝶や蜻蛉が草葉にとまるよりもさらに軽々と鞍つぼに腰を落ち着けられました。
『これは人間業ではない。天狗が人に化けてでもいるのか』と、
思わずぽっかりと口を開けてしまいました。

それから興経は私と一緒に館に帰り、饗膳を用意してくれて酒肴を重ね、
酒宴もずいぶん盛り上がりいました。
亭主の興経も私もたくさん飲んで、肘を枕に寝転がり、
これまでのことや未来の話などをしていました。
そこに、里に猪が出てきたという報告が入ったのです。
興経は弓と矢を持って出て行ったので、私も一緒に行ってみました。

深い谷の奥に樫の木が群生したところがあり、雪が少し浅くなっていて、
そこに猪が四匹集まっていました。
興経は大雁俣の矢を番えてよく引いて射ったのですが、その矢は猪四匹すべての背骨を射切り、
勢い余って雪に突き刺さったのです。
これは二月の半ばのことで、山々はまだ雪に白く覆われ、里も雪に埋もれていました。

そこに里人たちが兎が一匹を追い立ててきて、裾野へと下っていきました。
興経は走ってこれを追っていくと、二、三町ほどの間で追い詰めて、
その兎をむんずと握って差し上げました。
『なんと恐ろしい早業だろう。とても人間の動きとは思えません』と誉めると、
興経も気分よさそうに笑って帰ってきます。

神鳥が一羽切り株の上にいたので、私は
『興経の弓の腕前はよく見せていただきましたが、どれほど正確に狙えるのかがわかりません。
見てみたく思いますので、あの神鳥を射落としていただけませんか』と言いました。
興経は、『当たるか当たらないかはわからないが、まずは射ってみましょう』と言って
矢頭をとって番え、十六、七間ほどの距離がある獲物を狙い済まして射出しました。
この矢は過たずその神鳥を真っ二つに切り割ったのです。
鳥の首と尾はその木の切り株の上に残ったままでした。

『なんとすばらしい精度でしょう。最近南蛮から渡ってきた鉄砲というものは、
どんな鉄の楯でも打ち砕くそうですが、その鉄砲で撃ったところで、鳥は逃げてしまうでしょう。
今の弓の精度は、鉄砲よりも勝っています。弓精といい、当たりの細やかさといい、
百歩のうちに柳葉を百や二百射抜いたという養由、
我が朝で昔から名高い八郎為朝・能登守教経なであっても、
あなたほどの腕前はないでしょう』と感心すると、
興経はにっこりと笑って帰っていきました。

それから一緒に吉田へと行ったところ、元就と対面した後で、
興経は弓を所望して、すぐに山の片岸に挟物を立てさせました。
興経が弓に矢を番えて射出すと、その挟物の真ん中をズンと射切り、
矢筈を一寸ほど残して岸へと突き刺さったのです。
次の矢は矢筈さえ見えないほど突き刺さりました。
元就も、『これは凄まじい弓の腕前だ』と大いに感心なさいました。
興経は、岸にめり込んだ矢を、たった二本の指で摘んで引き抜きました。
見ていた人は、『興経の力はまさに人間のものではないぞ』と、肝をつぶしたものです。

稀代の精兵と名高い孟賁・夏育さえ子供に見えるほどの勇士なのです。
たやすくは討ち果たせないでしょう。
もし一方を打ち破って逃げられてしまえば、あなたも私もこれまでの勇が無に帰すばかりか、
臆して討ち損じたのだと人に嘲笑われることになります。それは口惜しい。
どのような作戦なら、無事に討ち果たせるでしょうか」

天野紀伊守がこう言うと、熊谷信直は、
「いくら興経であっても、まさか鬼神ではないだろう。
人間として生まれたのだから、そう恐れることはない。
明日の未明に攻め寄せて一文字に切り入ろう。
そうすれば、興経は自分の勇を誇って堪えきれずに庭へ出てくる。
そのとき搦め手から攻め入って家に火をかけ、前後から大勢で長刀を使って囲んでしまえば、
いかに興経が九郎義経の早業・軽業を学び、弁慶・朝比奈ほどの力量があるといっても、
空を飛んで逃げられるわけでもなく、地をもぐっていくこともできないのだから、
すぐに討って取れるはずだ」と言った。

そのとき信直の若党、杉原太郎左衛門は、このころはまだ観音寺の新弟子で、
仏壇の下に隠れてこの話を聞いていた。
「さては元就が、興経を討つようにと、熊谷・天野に命じたのだろう。
こうなれば、私は明日人より先に布川へ行って、
名高い興経という大の勇士と一太刀打ち違えて今生の思い出にしよう」と考えた。
杉原はまだ宵のうちから布川へ行き、藪の中に隠れて、夜明けをいまや遅しと待ちわびていた。


以上、テキトー訳。

興経さん、パネエっす……技量もすごいけど、
「見せてくれ」と言われりゃもったいぶらずに腕前を見せるし、
誉められれば喜ぶし、素直でかわいい。
いい男だなぁ。というのが感想。

しかし天野もよく見てるのな。
今回は天野による興経とのデート回想回かと思った。
あれ、べつに妄想じゃなくて正真正銘のデート回なんじゃね?
二人で飲みすぎて寝転んで話してるとか、いいよね。
もうそれだけでイイよね!!!

さて、そんなにまで親しく交流していた天野が、
興経を討たなければならないとなって、逡巡するでもなく、
「どうやったらこの猛者を無事に討ち取れるでしょう」ときたよ。
冬場の気圧配置くらいのドライさ……微妙に惹かれてしまいまった。

そんなわけで、次の章、いよいよ興経の……(´;ω;`)ブワッ
2013-03-07

興経パパと元就パパと信直パパ

年度末トラブルと花粉は本当にカンベンしてほしいですね。
曜日感覚がおかしくなってる上にひどく眠いです_ノ乙(.ン、)_

さて陰徳記、これまで数回にわたって大内家の様子が描かれてきたけど、
今回は、元春に家を譲って蟄居している興経周辺のお話。


手嶋内蔵丞のこと

吉川治部少輔興経は、元春様へ家を譲ってからというもの、
わずかに侍を五、六人ばかり連れて、安芸の国の布川というところに、
いるのかいないのかわからないような様子でひっそりと暮らしていた。
大朝に住まわせていた妾、宮庄下野守の娘の腹に男子が一人できた。
興経はその子を溺愛し、膝の上から放さずに抱いて育ててきた。

その子の髪を掻き撫でながら、興経はこんなことを言った。
「おまえの元服のことは元就に頼むべきなのだろうが、あれは大江氏、私は藤原氏だ。
かたじけなくも大織冠の末裔として、大江氏に烏帽子親を頼むというのは、
弓矢を取る身は時の権勢に従うものだとは知っているが、なんとも口惜しいことだ。
当国には、四侍長といって、宍戸・平賀・毛利・吉川と、肩を並べてきた。
私が当主であれば、この同格の者たちの烏帽子子にすることは絶対にない。
隠居の身となって、困窮に身が細る有様となったとはいえ、元就とは契約したくない」
興経はこう言って、ひそかに山口へと人を遣わし、義隆卿へと袴着の契約を申し入れた。

ある人が元就様へと、「興経は実子である男子を義隆卿に契約されました。
これはきっと、大内の下知をもって吉川家の長に返り咲こうという陰謀に他なりますまい」
と密告したので、元就様は「これは由々しき一大事だ。
あの興経は人より抜きん出た大力量の猛将だ。
興経が権力を握って兵を持てば、誅罰しようにも簡単にはいかないぞ」と考えた。
元就様は、熊谷伊豆守信直・天野紀伊守に興経を討ち果たすように命じた。
両名は「承りました」と言って自分の宿所に帰っていく。

元就様が防長を切り従えてからは、勇士や謀臣も多く集まったという。
陶を討伐するまでは、熊谷・天野がまるで股肱の臣のように働いてくれたからこそ、
日ごとに武威が増してゆき、攻めれば取り戦えば勝つことができたのであった。

そして天文十九年九月二十六日、元就様から使者を通じて興経へとこのような伝達があった。
「御重代の三原の御腰物を見てみたく思うので、もしご了解いただければ、
大事な御刀のことですから、手嶋内蔵丞に持たせてこちらに遣わしてください」
これは、手嶋は大の剛の者だったので、興経と一緒にいれば、
興経を易々と仕留めることができないと思っての謀である。
興経はそういうこととは思いも寄らず、すぐに了承してその刀を手嶋に持たせ、
吉田へと送ったのだった。

兼ねてより定めてあったことなので、手嶋を粟屋三河守の宿所へと呼び入れ、
討手として遠藤・江田の二人に申し付けておいた。
まずは四方山話をしておいて、
「ところで吉川家重代の三原の御腰物とは、私たちもよく聞き及んでいる名物です。
少し拝見させていただいてよろしいでしょうか」と言い出す。
これは、その刀を抜いてみる振りをして、そのまま手嶋を切り払おうという策である。
手嶋は鋭い男で、このことを素早く察すると、
「これをご覧ください」と言いながらその刀を袋から取り出して渡し、
自分は少し下がっていつでも動けるように控えていた。

三河守が刀をスラリと抜いて眺め、「なんとすばらしい腰物でしょう。
聞いていたよりなお増してすばらしいと思います。
ここの刃のしおらしいこと、あそこのニエの愛らしいこと」と言って、
やがて討手に定められていた遠藤にその刀を渡した。

手嶋は自分の腰にさしていた三原の刀を引き抜いた。
「つまらないものですが、我が家に代々伝わる刀でございます。
私程度の持ち物ですので、できはそれほどよいものはありませんが、使い勝手は悪くありません。
先年、私の家に夜中に強盗が入ってきたことがありました。
私は、『これはどういうことだ。賊は困窮した家を襲うことはないと聞いていたから、
我が家へ押し入ってくるとは思いも寄らなかった』と思って、
枕の上に置いていたこの刀を手にとって振りかざし、そばに置いてあった兜をかぶって、
刀の忍緒を解きながら出合いました。

夜盗は熊手で私の手甲を引っ掛けて、エイヤと引こうとしましたが、
この太刀で切り払ったところ、熊手の柄を賊の手元に一尺ほど残してズンと切り落とせたのです。
あとで見てみると、柄は鉄でできていいたのですが、
それを少しも止まることなく切って落としていたのです。
その後夜盗を数人切り伏せましたが、どれも一打で仕留めて、
二打目が必要になることはありませんでした」
手嶋はそう自慢しながら、ちっとも刀を鞘に納めようとしない。
抜いたまま丁と持って、討手の二人の者たちをキッと睨みつけていた。

討手の者たちも隙をうかがいながら時が過ぎていったが、三河守は手嶋の様子を見て、
「この者はもう気が付いているな。騙して油断したところに組みつこう」と考えた。
三河守が三原の刀を鞘に納めて上座に置くと、
手嶋は「ではそろそろお暇いたします」と言って、ひらりと庭に飛び出して帰ろうとする。
討手の者たちは逃がすものかと追いかけた。
手嶋は手の者を六、七人召し連れていたので、そこかしこで返し合わせて切り払った。
手の者たちもいずれも劣らぬ剛の者ばかりで、主君を無事に逃がそうと後にとどまり、
討ち死にしていく。

その隙に手嶋は、「興経にも討手が向けられているはずだ。
死ぬなら一緒に死にたい」と、布川へと急いだ。
しかし追っ手に道を遮られ、深い山奥へ入って十死一生の難を逃れた。


以上、テキトー訳。

おいおいおいおい、息子溺愛して膝の上から放さない興経……
イイ! イイですよもっとやれ!
私の乳幼児抱いた男性センサーがビンビンに反応してるぜしかし!

そして元就、黒いね! さすが!
このあたりのお話は、後に正矩次男の宣阿が編纂して世に出した『陰徳太平記』では
ごっそり削られているとの噂を聞いたよ(読めよ)。
やっぱり時代が下るにつれ、元就の吉川家に対するやり方は、
否定的な捉え方をされるようになったからこそ隠されたんだろうな。
おキレイなだけってのもなんだか物足りないし、
こういうエピソードも面白いと思うけど。

考えて見ると、このへんのお話は元春の三人の父が揃い踏みってことか。
元就=実父、興経=養父、信直=舅だもんな。
いいですぞいいですぞ!

ちょっとゆっくり本に向かう時間が足りなくてモヤモヤしてますが、
とりあえず次回も興経のお話。

あと、次の休み中には下巻の目次を何とかします(・`ω´・)
宣言しとけば自分が逃げるわけにいかなくなるだろう。よし。
2013-03-05

隆豊「お屋形様のばかー!」 義隆「ご、ごめんね?(´・ω・`;)」

昨日、昼ごろまで、夜に会議があるってのをまるっと忘れててさ……
今日は朝起きて「あー、月曜日か。ユウウツ~」とか思ってたよ。火曜日じゃん!
トシって怖いね。

てなわけで陰徳記、これまでのあらすじ:
大内義隆は多才で博識で、精力的に文化活動に邁進していた。
あるときは高僧を招いて自らも修行に精を出し、
また歌道・蹴鞠・数寄の名人を呼び寄せては文化人との交流にいそしむ。
唐渡りの装束を山のように取り寄せて近習たちとコスプレしてみたり、
大陸の言葉で話すようになったり……するうちに、武備は廃れ、
大内家重臣はそろそろ堪忍袋の緒がプルプルしてきた。
冷泉隆豊は、義隆に対して諫言を始めた。

その長い長い隆豊のお説教の続きから。


冷泉判官隆豊、諫言のこと(下)

『木曽義仲は無双の勇将ではありましたが、儒学をまったく習得していなかったので、
帝一人を敬うことも知らず、下々の万民を撫育する道さえわきまえておりませんでした。
やがては君にも邪魔にされ、民にも背かれて、
国を出るときは五万余騎いた兵たちもついには散り散りになり、
最後の合戦のときにはわずか三千余騎だったそうです。

往古からの名将に、文武の二つのうち一つも欠けている者はいません。
けれども、乱れた世は武をもって治め、
静かな世は文をもって治めるものだと言い伝えられてきていますので、
このような乱世だからといって、武ばかりに傾注して文を捨ててはいけません。
国家太平となったときには、和歌・連歌・数寄・蹴鞠、
そのほかどのような道も知っていなくてはみっともないでしょう。

文といっても文字の学問ばかりのことではありません。
たとえ一文字も知らなくとも、政道に邪がなければ、それは周公・孔子の道といえます。
文字の些細な問題を気にしてはいけません。

私が陶入道道麒に武の学の奥義はどのようなものかと尋ねたことがあります。
道麒は、『大明に私情による贔屓がないように、
家之子郎党下々にいたるまで憐憫をそそぎ、恩を施すことだ。
家人はまるで慈母を思う赤子のように主人を思い、上下が親子のようになるのが一番だ。
なかでも智謀が人より勝り、勇猛さが世に抜きん出ている者を大切にして、
おべっか使いや奸人をすみやかに遠ざけるほかに奥義というものはない。
これは英雄の心をとらえるのにも適している』と申されました。
確かにもっともだと思います。

何事も、中の一文字に外れるべきではありません。
武も文もそのほかの技芸技能も、中庸を外れないようにする心得こそが大事なのです。
舜は禹にこの言葉を授けました。
『人心これ危うし、道心これ微なり、これ精これ一、まことにその中をとれ』と。
中庸の徳は、義隆卿は俊才博学でいらっしゃるので、
私が申し上げたところで智者の前の説法ですので、この三寸の舌先を弄するに及びません。

この隆豊の愚盲な身にふさわしい話をしましょう。
まず、武も中庸が大事であります。
源義経は、勇は頼義・義家・利仁などにも勝るほどの大将ではありましたが、
勇に誇って梶原の悪口をいい、そのほかの諸侍のことも侮っていました。
あまりに勇の優れた将だったので、平家が滅びて後は、
頼朝は自分の天下を奪う者は義経だと思っていたうえ、梶原が強く讒言したので、
ついに義経は奥州衣川で討たれてしまったのです。
もし勇の中庸さえ忘れなければ、頼朝の疑心を招かなかったでしょうに、
自分の勇を誇った結果がこれです。
『剛強、剛烈なだけでは、その国は必ず滅びる』といいますが、そういうことです。

また新田義貞は、勇も謀も尊氏より何倍も優れた名将でしたが、
運の極みだったのか、諸国の官軍が一挙して天下を覆そうとしたとき、
黒丸の城を放っておいて京都に攻め上っていれば、再び天下草創の功を立てられたでしょう。
それなのに、小事を気にかけてその城を攻め、
そのうえ鹿草の三百余騎にたった十七騎だけで戦ってついに死んでしまいました。
敵が大勢なので少し引き退いて味方の勢をの到着を待って戦っていれば勝ちは疑いもなく、
敵を滅ぼせたでしょうに、自分の勇を過信して敵を侮ったためです。
これも、勇に中庸の心得があれば無駄に戦死はしなかったでしょう。
中庸を忘れて勇ばかりを心がけたせいです。

戦いに大勝しようとして危ない行動を省みなければ、
運が天にかなって一度や二度は勝つこともあるかもしれませんが、
最終的には大いに利を失って、必ず身を滅ぼすことになります。
これも中庸、勝つには、自分の命を永らえて最終的に敵を滅ぼせばよろしい。
逃げる敵を追うのは百歩までというのも、追う戦いにも中庸があるということです。
武道でさえこの通りなのですから、遊びや小技芸は、
ほどほどにしておくに越したことはないと思います。

今の義隆卿のご行跡は、言ってみれば、公家が太刀の使い方を学び、
あるいは早業や力技ばかりで歌の詠み方を知らないようなもの、
出家した僧が仏法修行をそっちのけにして乱舞を極め、弓道に身を投じるのと同じですぞ。
このままでは、公家の道も立ち行かないし、出家の法も正しくはならないでしょう。

先年、浄福寺の真発意意伝学文のために京都へと差し上しておかれましたが、
内外学一字も学ばず、ただ小歌・尺八・蜘舞などを見て聞き覚え、
赤手拭で鉢巻をして、長い脇差の横へ大きな印籠の緒を長く結い下げ、
四条五条の河原の相模田楽・猿楽などに心を染めているといって故郷に連れ戻されました。
以後の見せしめのために重罪に処されたではありませんか。
この真発意とお屋形様のご行跡はまったく同じですぞ。
賢い人を見たら同じようになりたいと考え、愚かな者を見たら自分の身を省みるもの、
ということはすでによくよく学んでいらっしゃるではありませんか。

このようなとんでもないご行跡のままでは、あなたの行く末を見るのが悲しくて仕方ありません。
どうか私を、比干・伍子胥の例にならって刑にかけてくださいませ。
主君の横暴を諌めないのでは忠臣ではありません。
死を恐れて言うべきことを言わないのは勇士ではありません。
間違いを目にしたならば自分の死を顧みずにお諌めするのが忠の至りというものですので、
たとえこの身が車に引き裂かれたとしても、それこそ望むところです」と、
隆豊は涙を流しながら諌めた。

義隆卿はさすがによく物がわかっている人だったので、
「おまえの諫言は実にもっともだ。おまえの他に誰が私を諌めてくれるだろう。
これは父の左京兆の仰せだと思った。
今後は隆豊の言うように、武の学に専念して、賢人・哲人の臣を集め、
軍政号令の準備を余念なくして、他のことには目もくれないようにする。
もっとも道理なおまえの言葉は、私が死ぬまで忘れまい」と言った。

隆豊は涙を押さえ、「私は才もなく愚かな身で大そうなことを申し上げましたが、
それなのにこのようなご上意、まことにありがたきことでございます。
それに私の諫言を忘れまいとの仰せ、実にかたじけないことです。
しかしご自分のお立場すら忘れてしまうようなご様子ですから、
またお忘れになることもありましょう」と言った。
義隆は、「桀や紂が自分自身を忘れたという話を思い出してそんなことを言うのだろう。
ということは、私を桀や紂にたとえているのだな」と、恥ずかしくもまた口惜しくも思ったが、
ただ頷いて、「その諫言を守るようにしよう」と言って、御簾の中に入っていった。


以上、テキトー訳。おしまい!

隆豊! 最後一言多い! それ言っちゃダメな言葉!
「殊勝な振りしてどうせまた忘れるんでしょ」ってあんた……orz
せっかく心を入れ替えようと本心から思ったとしても、
こんな最後っ屁かまされちゃ、逆にひねくれちゃうよ。
義隆「わし、信用されてないね。フフッ……三・゚・(ノД`;)ダッ」

やー、でも堪えきれずに涙流して説教しまくる隆豊さん、ええなぁ。
叱ってる方がぼろぼろ泣いてるってのは燃えるよね。
きつい言葉を吐きながら、主君を傷つけてる自分の行いに、
隆豊自身も傷ついていたのだ、とかだったらもう禿げる。
大内家は萌えの宝庫やー(*´∇`*)

さてさてお次は吉川興経と元就が不穏な雲行きになりそうで。
ひいぃ。
2013-03-03

文武は車の両輪、鳥の両翼

えー……目次作りを再開して全部消えやがったのでテンションだだ下がりです。
自分の不注意が憎い_ノ乙(.ン、)_

気を取り直して陰徳記、これまで大内義隆の文学への傾倒を追ってきたけど、
そんな義隆に諫言する家臣がいたようです。
冷泉隆豊さん。下巻で化け物と同衾しちゃった元満のおとっつぁんだね。

長いので2回に分けまする。


冷泉判官隆豊、諫言のこと(上)

都督義隆卿は、このように諸道の奥義を究めようと、
小技能の道ばかりに心血を注ぎ、武の学問は廃れ果ててしまった。
軍政や号令の通達などはまったくなく、口にも出さないほどだった。

いつも唐人の真似ばかりして、大明から装束を多数買い求め、自分でも着てみたり、
近習の者たちにも着せて、言葉も唐人の言葉を使うようになった。
あるときは公家衆を招いての歌会や蹴鞠の遊びに終日を費やし、
またあるときは貴僧高僧を呼び寄せて論議・説禅・詩文の製作をして、
堺の古禅門や京の遁世者などを集めて、茶の厚薄や茶器の善し悪しばかりを評価しあった。
弓馬の備え、兵学の道は廃れ果て、
公家の成れの果てもしくは出家者のようになってしまったのは残念である。
「堯の子は堯に似ず」ということわざも、こうしたことを言うのだろう。

冷泉判官隆豊は義隆卿の行跡を見て、
「いよいよ大内家没落のときがやってきたぞ」と思ったので、
あるとき義隆に諫言した。

「今の屋形様の御行跡を見ておりますと、まったく夢とも思えず、幻とも考えることができません。
先代の義興公は、天下の武門の棟梁となってもおかしくない器であらせられました。
将軍義稙卿は京都を落ち延びてからこの山口に下向し、義興をお頼りになって、
ついに天下の権勢を司るまでになられました。
義隆卿のお暮らしを見ると、先代とは打って変わって、今は武家としての道がことごとく廃れ果てて、
坊主か茶坊主の成れの果てのようになってしまわれたのは、実に口惜しく思います。
義興の武威がいまだに残っているからこそ備芸石の三ヶ国が御手に属してはおりますが、
この行いがずっと続くのであれば、この三ヶ国はそう遠くない未来に尼子に切り取られてしまうでしょう。

優秀な親を持った子というものは、
たとえその子が人並みであったとしても親と比べられてしまうものです。
はるかに生まれ劣っていたなら、
もともと持っていた資質よりもなお不器用ということにになってしまいます。
親が世にも不器用者であれば、子が人並みであっても、親より優れた者だと言われ、
もともとの資質よりはるかに大きな評価を得られるものです。
こんなことを申すのは恐れ多いのですが、屋形様を先代の義興公と比較してみると、
花のそばの深山木とでも申しましょうか。

そうは言っても、義隆卿が飛びぬけて愚将だと言うのではありません。
楠次郎左衛門尉正儀は、当時は並び立つような大将もいなかったでしょう。
それなのにそのころ、足利の一族である仁木・細川・畠山、そのほか諸将は、
正儀の智も勇もまったく十分ではないと言っていたそうではありませんか。
日本六十余州を敵として、やがて京に近い河内に在城していながら、
尊氏・義詮の二代についに国を狭められなかったというだけでも、
古今無双の名将のはずなのです。

この正儀でさえ、父の正成が開闢以来三本の指に入る名将だったゆえに、
正儀は父にも似ず兄にも似ずと軽視する者が多かったのです。
太平記にも、正儀は嘲弄されているのです。
正儀を見てご自分の身を省みてください。
正儀のような良将でさえこの有様なのですから、普通の将ではどうなってしまうでしょうか。

尼子晴久は祖父の経久とさほど遜色のない大将だと聞いております。
そのせいか、備芸石の国人たちも、尼子の手に属す者が多い。
先年、富田へご発向なされて敗軍されたことを無念至極とは思われないのですか。
当家では二代、尼子は三代の間敵対しておりますが、
当家は今までは先代の武威が残っていたから、互角の勝負ができたのです。
今後は次第に国や郡を切り取られ、先祖代々の武功によって与えられた領国さえも、
易々と敵に取られてしまいますぞ。それではあまりに口惜しい。

今のご様子では、源頼朝・木曽義仲が東国や北国で挙兵して京都に攻め上っているとも知らずに、
いたずらに月の管弦、花の歌会などにばかり心を移し、
怨敵追討のことなど話題にさえしなかった平家と同じことになってしまいます。
転覆した車と同じ道を行く者は同じように傾き、亡国と同じことをする者は滅ぶと言うではありませんか。
孔孟の道は国家を治め、万民を撫育するための枢要です。
また猛々しい武士の心をやわらげ、目に見えぬ鬼神をも従わせるのが和歌の徳です。
そうは言っても、だいたい一通りその道を知ってさえいれば、
その深淵の奥義を究めなくても十分ではありませんか。

文武の二つは車の両輪、鳥の両翼と同じと言いますが、
今の日本はまったく乱れきっていて、六十余州は六十六人の国に分かれ、
皆他を滅ぼして自分の身を立てようと、戦国の七雄、魏呉蜀の戦争のような状態になっています。
諸葛孔明のような智士勇者を探し出して兵道の奥義を尋ね、天下草創の功を心にかけるべきなのに、
そうはせずに、数寄の名人や蹴鞠の達人と聞けば
どんな遠方からでも探し出して召し寄せていらっしゃいますね。
あるいは茶の湯の記・蹴鞠の書であるといえば、
数千万貫の銭をはたいてでも買い求めてしまわれます。

唐の賢王は、夢で見た姿を絵に描かせて伝説の賢人を捜し求めました。
あるいは草盧の三顧といって、蜀の劉備は三度も諸葛孔明の草庵に行って諸葛孔明を獲得しました。
数寄・蹴鞠の名人を探し出すよりも、謀臣・勇士を召し出してください。
茶の記・蹴鞠の書をお求めになるより、黄石公が子房に授けたという一巻の書をこそ探すべきなのに、
このようなお振る舞いばかりではあまりにみっともない。
武道の学、軍法の正しい道を定め、そしてますます研鑽を積んで、
それから余裕があれば和漢両朝の聖賢の書を学ばれるのがよいのです。

そうは申しましても、孔孟の道を学ばれることが悪いと言うのではありません。
先に申し上げたように、両輪・両翼のようなものですから、文学に暗くてはどうしようもありません。
文に疎ければ仁義令智信の五つの道を理解できません。
この五つを知らなければ、鳥や畜類と変わりありません。
人は古今に通ぜざるを牛馬にして相手にせずと申しますから、
とにかく五帝三皇の道を学ばないのはよろしくありません。
高祖も『馬上で戦争を生業とする者が詩や書を気にかけることはない』と言いましたが、
『大風の歌』もあります。文は貫道の器なのですから、
学得しなければ聖賢の道に通徹することはできません。
聖賢の道を知らなければ明将とは言えません』


以上、テキトー訳。続く。

ちょ、よったかさまってば、コスプレまでしてたのコスプレ!
いや、やりそうだな~とは思うけど、期待を裏切らないな。
中国大陸風の装束を着て、近習にも着せて、言葉も向こうの言葉を使って……
あれ、明治のころにもこういう外国かぶれがけっこういそうwww

まあここまでくると、家臣たちも堪忍袋の緒がピクピクいってくるもので、
そこでまず一番に切り込んだのが冷泉さんということか。
冷泉家は後に毛利に従って子孫を続かせてるから、こんな話が伝わったのかもしれないね。

陰徳記ではありがちだけど、まあ隆豊さん、説教なげえよ_ノ乙(.ン、)_
この続きと、こんこんと諭されたよったかさまの反応は、待て次回!
2013-03-02

義隆の才知と傾倒

ううう、今回の訳文見直したくねえ……
とりあえず今日の陰徳記は、大内義隆の文学への傾倒っぷりというか、
なんというか……うん。


義隆卿、諸道の淵源を究めること

従二位中納言義隆卿は非常に博識で、奥義を極めていない道などなかった。
孔孟の道に心を傾けては釈氏老氏の足跡を追い、難波津の道に足を運び、
浅香山の浅くはない流れを汲んで水上を正したばかりでなく、
廃れたものを復興し、荒れ果てた神仏三宝に帰依する心が深かったので、
防長豊筑の寺社仏閣を数百ヶ所に建立した。

中でも豊前の国の宇佐八幡宮、筑前の箱崎、安芸の厳島などの造営を遂げ、
そのほか分国の寺社領は昔の取り決めどおりに寄付した。
また仁和寺の真光院尊海僧正・皆明寺尭渕僧正・山門の宝善堤院豪仁法印・
醍醐山報恩院源雅僧正・三井寺勧学院のような貴僧高僧を呼び寄せて、
国家安寧・武運長久を祈祷する大法秘法を執り行わせたばかりか、
義隆自身も僧たちにその修験を学び、顕密両宗・倶舎・成実・律家などの奥義に至るまで極めていった。

あるとき義隆は、「一切の蔵経は月を指し示す指のようなものなのだから、
教義の違いなどは一度投げ打って、元の意味の活法に至りたい」と言って、
すぐに大徳寺の玉堂和尚を招聘し、龍福寺に五百余貫の寺領を寄付して、
朝から晩まで修行に打ち込んでいた。
あるときは六十回も棒で打たれる痛みに声を忍び、
またあるときは何度も蹴りをくらって倒れながらも怒りをこらえ声を呑み、
壁に向かって思考を止め、部下たちも連れて仏道に励んだ。
ついに忽然と猛省して、教内教外もろともに、一点の曇りもなく八面玲瓏(澄み切った心)になった。

歌道の師匠には飛鳥井大納言雅俊卿、有職方には日野(柳原)大納言資定・広橋大納言兼秀、
謡曲には持明院中納言基規卿、装束方には冷泉(高倉)院紹恵(範遠、宗紹)入道、
管弦には天王寺の楽師である東儀因幡・岡兵部、
外典の道は外記清三位(清原業賢)・官務伊治などを師として、
その道ごとに奥義を極めていった。曇った御世の鏡とでもいうような姿だった。

名将といえなくもなさそうだが、是を是とせず、武の一字を忘れ果て、
ただ空虚に文学にばかり耽って、その真髄に至っていないのが残念である。
文字を知らない輩でさえ、乱れた世の中を治めるには、武力をもって治めるしかないと知っている。
それなのに才知に抜きん出ている義隆が、このような乱世で「武」という字を忘れてしまっては、
自分の名を忘れてしまうのと一緒で、愚痴蒙昧よりもさらに劣る。

去る天文十五年の春のころから、柳原殿・持明院一忍軒(基規)・竹田法眼(定慶)・
神光寺などを講師として四書・七書・五経などの講釈を順を追って進めさせていたが、
義隆のそれらへの理解は思子・孟子の智よりも優れ、楚秦張儀の弁舌よりもなお勝っていた。
孔丘老聘の再来かと思われたほどだった。

あるとき龍福寺で禅問答があったとき、義隆卿もこれを聴講していた。
玉堂和尚が床に座し、竹箆(しっぺい)を拈じて、
ややあってから「言葉の及ばない最高の道徳のことを、私は浅学なので測りかねる。
ここに座して竹箆を拈じているものの、これはどのような格式であるか」問いかけた。
参集していた修行中の者たちが問答を終えて皆退出してから、
義隆は席を立って和尚の右で右に一回りした。和尚は「まるで曹渓大師のようだ」と言う。
義隆は今度は左に行くと、左に一回りした。
師が「まったく瓜二つだ」と言うと、義隆は真ん中で扇子を持ち上げ「和尚」と言った。
師は竹箆を拈じて「それでよい」と言った。

義隆は礼拝をして、「仏弟子の円悟禅師はこう言いました。
『あるときの一喝は今にも獲物に飛び掛らんと地にうずくまる獅子、
またあるときの一喝は金剛玉宝剣のように。
あるときの一喝は天下人の舌先を切り取るように、
またあるときの一喝は波が押し寄せたり引いていったりするように』と。
謹んで和尚に質問いたします。これは踞地獅子の一句でありましょうか」と言った。
師は「吹毛はまったく動かない」と言う。
義隆が「いつどのようにして」と言うと、師は「乾坤を揆乱して太平をいたす」言う。

義隆が「金剛玉宝剣の一句はどのように生ずのでしょう」と問うと、師は「斬」と答える。
義隆が「梵天に血を注ぐのですか」と言うと、師は「ずっと洗い続ければよい」と答える。
義隆が「長年洗ってまいりましたが、まだ清まりません」と言うと、
師は「このうちにどうしてなのかがあらわれている。清と説くのか、濁と説くのか」と答えた。
義隆は、「どちらにも定まりません」と言った。師は「千里眼でもうかがい知ることはできない」と言う。
義隆が「天下人の舌先を絶つ一句はどのように生じるのでしょうか」と問うと、
師は「仏祖が命を乞う」と言う。
義隆が「押す波、引く波の一句はどのように生じるのでしょう」と問うと、
師は「有条攀条である。法律がなければ前例にすがるものだ」と答えた。
義隆は、「どのようなときにも前例はありませんでした」と言ったが、師は「喫茶去」と言った。
義隆はすぐに礼をした。


以上、テキトー訳。

HAHAHAHA!!! やってきやがったよ、苦手な禅問答が!
よったかさままでズルイ……お色気要員だと思ってたのに。ひどい(´;ω;`)←おまえがな
よったかさま、何を話しているのか私には皆目わかりませぬ><
禅宗のお坊さんに会ってこの会話のことを質問してみたいもんだぜ。
あいにくそんな知り合いはいないがな。
ここは私が寺に……いや出家は思いとどまろう。

とりあえずわかるところだけ拾ってみると、
義隆が六十回棒で打たれたりなんだり、「こいつマゾか!?」と思えるような修行をしているけど、
これは「六十回棒で打たれて悟った」という昔の聖人の真似をしてみたりとかそんなんだと思う。
いや、よったかさまならそういうプレイという可能性も……(ないよ!)
あと喫茶去もといきん知ってる!
「お茶を点てるときも、それを飲むときも、そのことだけに集中して一生懸命になりなさい」
ってことだよね(受け売り)!

まあそんなこんなで目がしぱしぱするほど頑張ってみたので、
しばらく仏教話は出てこないといいな(切望)!
2013-03-01

義隆様「俺は年増でも構わず食っちまう男なんだぜ」

なんとなくの流れ……とやろうと思ったけどや~めた!
大体天文十八年くらいの山口の様子のお話ですよ~。
よったか様よったか様!


紹鴎の数寄、並びに観世宗摂の関寺小町の能のこと

そのころ天下第一の数寄の名人と名高い武野紹鴎一閑居士という禅僧が、
堺から山口へと下向してきていた。
義隆卿の傾倒ぶりはたいそうなもので、朝から晩まで数寄にばかり没頭した。
上を見て学ぶのが下の者たちというもので、大身から小身まで、
侍たちも皆数寄のことばかりを考えて、茶の器一つを買うといっては数千貫もの銭を費やし、
二畳台目、三畳台目の数奇屋を構えるといっては、いくばくかの金銀を投じた。
そうしているうちに、皆自然と貧しくなっていった。

こうして茶の器には何万もの銭を惜しむことはないのに、
兵具や馬具は破れようが折れようが修理もしない。
数寄には米や銀をなげうったものの、境目の城の塀が破れ堀が埋もれてしまっても、
補修をすることはなかった。

また観世宗摂もそのころ山口へ下っていたので
、義隆卿は、茶の湯と交互に乱舞の遊びを開催していた。
そのうち、紹鴎は堺に帰っていった。
宗摂も暇乞いをしにやってきたが、義隆卿は
「今回の滞在の間に関寺小町の能を見られなかったのは残念だ」と、強く所望した。

しかし宗説は「関寺小町は、私ごときではなかなかよく演じられません」と固く辞退する。
義隆はそれは残念そうに、鷹狩りのついでに宗摂を氷上まで送っていった。
宗摂は「お屋形様の義隆卿が、私のような猿楽師をこれほどまでに大事にしてくださるのは、
世にもまれなことだ。こんなご厚恩に報いることができるだろうか。
せめてお望みになっていた関寺小町の能をご覧に入れなければ」と、非常に喜んだ。

そして氷上の大坊で観世彦次郎・福王甚右衛門などを脇として、
高砂・真盛・関寺小町・椛狩・弓八幡などを疲労した。
宗摂らは実に天下に二人といない名人なので、なかなかに趣深かったそうだ。
あまりに感動した見物の者たちは上も下も袖を濡らし、
あるいは声を上げて「すばらしい、すばらしい」と叫ぶ声が鳴りもやまなかった。

義隆も感動しすぎたのか、ただ陶然と浸っていたが、五番の能が終わると、そのまま大坊で酒宴を開いた。
一座の観世三郎は、先年山口に下ってきたときはまだ十六歳ほどの花の盛りだったので、
花をかざす舞の扇は袂でさえもかぐわしく、
雲まで届くかという謡の声は月の都の舞楽かとさえ聞き違えられ、
近くにいる者はその姿の美しさに目を奪われ、遠くにいる者は麗しい声に心を惑わした。

義隆卿もそのときはとにかく三郎を気に入って寵愛も甚だしかったが、
現在は三郎も二十歳ほどになってしまったので、義隆卿の寵もすっかり薄れてしまっていた。
三郎も自分の身がすっかり盛りを過ぎて逞しくなってしまったことを顧みて、
この夜の酒宴にはただ階の近くまでいざり出ると、
中秋の名月を歌に詠みながら、背を向けがちにしていた。

義隆卿は、「これ三郎よ、そんなに月ばかり眺めるものではない。
過ぎれば人を老いさせるという。何か忌むべき理由があるのだろう。
しばらくは中に入って、今夜が最後の名残なのだから、酒の一つも飲んで酌をせよ」と命じた。
三郎は「かしこまりました」と言いながら、
まだ月ばかり眺めては、少しも打ち解けた様子がない。

義隆卿がまた、「三郎や、一節謡え」と声をかけたので、三郎は「承りました」と言って、
それは麗しい声を上げた。
「盛り更たる女郎花の草衣しおれたて、昔だに捨てられし程の身を知らで、
また姥捨ての山に出て面を更科の月に見ゆるも恥ずかしや、よしや何ごとも夢の世に、
なかなか言わん思わじな、思う草花にめて月に染まりて遊ばん」と謡った。

三郎の、義隆の寵愛が薄れた恨みはこの一曲にすっかり表現されていたので、
義隆は再び恋慕の思いを燃え上がらせ、「もう少しここにとどまってくれ」と袂にすがり引き止めた。
宗摂父子は秋が更け冬も暮れてまた春が来たころに、霞とともに山口を去っていった。
尼子・山名・赤松といった人々のところへも立ち寄ったので、
秋の半ばを過ぎるころにみ、月の都に入っていった。


以上、テキトー訳。


据え膳平らげるどころかおかわりしやがったよ、このお屋形様……ギリィ(某T房さんの歯軋りの音)
よったか様といえばその道で有名だけどホント期待を裏切らないな。
少年としては盛りを過ぎた三郎と、義隆の駆け引き(というか一方的に三郎の手練)、
堪能させていただきやした!
現代で例えれば、客の執心が薄れたホステスがカラオケで恨み節歌ったのがきっかけで
焼けぼっくいに火がついたような感じだろうか。矮小化しすぎか。
ていうか観世三郎って、元就が後年安芸に召し寄せた人じゃなかったっけ(うろ覚え)。

ちなみに、「関寺小町」というのは、晩年の小野小町を題材にした謡曲らしいね。
いつか聞いてみたいもんだ。
それに当時の猿楽師でも、演目の得意・不得意はあったんだね。
焦らしに焦らして義隆の関心を買った観世一座の抜け目なさといったら(褒めてる)!

さてさてお次もよったか様無双な感じですよ?
検索フォーム
カレンダー
02 | 2013/03 | 04
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
訪問者数