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2013-04-30

隆房以前の陶家

さてすっかり輝元の命日を忘れていたんですが
輝元が亡くなったのは、寛永2年4月27日ですな。そして葬儀が5月13日。
新暦のときにでも輝ちゃん追悼スペサルでもやるか……

というわけで今回はひっさびさの陰徳記。
どこまで読んだっけ……?
とりあえず陶隆房が大内義隆を滅ぼして、大内家の権力を握ったって流れだったよな。
それで実は主君殺しに至った原因を作ったのが杉重矩の虚言だったとかで、
杉も滅ぼし~の(このへんは史実と大きく隔たりがあるらしい)、
隆房は実名を「晴賢」と改め、また剃髪して「全薑」と名乗った、という感じ。

今回は、隆房の前代の陶家のことと、大友宗麟の弟を大内家当主に迎えたあたりの章を
2章続けてお送りしまうす。


陶兵庫入道、嫡子次郎を殺すこと

陶尾張守入道全薑は主君義隆卿を討ち果たしたことで、神明仏陀の神罰を恐れて当然となった。
さらに「養父の入道道麒が草葉の陰で怒っているだろう」と、
全薑は先々のことが恐ろしくなった。

道麒入道には次郎という一人の子がいて、器量骨柄も世に優れ、実にすばらしい若侍だった。
しかし、ややもすれば自分の才能を鼻にかけ、義隆卿を見かけると、
「隋の煬帝の詩にでも出てきそうな大将だな。
この人は武士が主君と仰ぐべき大将ではない。
出家くずれか流浪の公家のようなことばかりしているではないか」と、
眉をひそめて嘲笑っていた。

父の入道は、「嫡子の次郎は武も文も全備しているし、
そのほかの芸能の道だって、弓馬は達者だし乱舞にも堪能、
詩歌・管弦に至るまで、人間がたしなむべき道では一つとして劣ったものなどない。
このような末法の世には稀有な才能だ。

しかし自身が勇ましく熟慮できるからといって、それを鼻にかけ、
主君の義隆卿を何かにつけて侮っているようだ。
これは非常にまずい。天の呵責を受けることになろう。
『春秋左氏伝』にも、『内では君主の過ちを諫め、外では君主のすばらしさを称揚するものだ』
と書いてあるというのに、次郎の振る舞いときたら、この入道の心にはまったく適わない。
きっと将来は、義隆卿の政道にほんの少しでも私情が入れば、
次郎は大いに恨みを抱いて、いつか復讐しようとするかもしれない。
まったくどうしたものか」と思い悩んでいた。

そんな折、越前から幸若太夫が下向してきたので、義隆卿は非常に喜んでもてなし、
「烏帽子折」を所望した。
太夫が広縁で手拍子を打ちながら舞うと、
聞いていた人々は貴人も賤民も皆感動にたまりかねて涙で袖を濡らした。

陶の入道は自分の宿に帰ると、嫡子の次郎を呼び寄せ、
「おまえはいつも舞を好んで舞っている。幸若の音曲を学んでみるか」と問いかけた。
次郎は、「私が幸若を真似るのは、実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、
父の命であれば、似せて舞ってみましょう」と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
父の入道も、「わが子ながら、なんと器用なものだろう」と感心したが、
これでさらに主君のことをないがしろに言うようになるだろうと、簡単に想像がついた。

またそのころ、大明国から義隆卿に書簡が届いた。
義隆卿はすぐに香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、父の入道は自宅に帰ってから次郎を呼び寄せ、
「おまえは今日の書簡の内容をだいたい覚えているか」と問いかけた。
すると次郎は「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。
しかし推量で内容を当ててみましょう」と言って、硯の埃を払うと墨をすり、
筆を墨に染めてサラサラと書き始めた。結果、一字一句の間違いもなかった。
入道が「それを読んでみなさい」と言うと、次郎は立て板に水を流すかのように読み進める。
父の入道は、「次郎は人間ではないのかもしれない。菅原道真の再来なのだろうか」と、
ただ呆然としていた。

その後も入道は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、
また義隆卿を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の入道は、「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、
大内家の頭痛の種になるかもしれない。
主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶入道は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせた。
入道にとっては妹の子に当たるので、養嗣子にむかえたとのことだ。
その入道は十六歳から屋形に近侍し、最後まで他家には見向きもしなかったそうだ。
『礼記』に「人の臣下となっては外に交わることなく、二君に見えることなし」と書かれているのも、
この入道の生涯と同じことである。
道麒入道は、主君に対して二心を抱かなかったために、
可愛がって大事に育てたたった一人の子を殺し、忠節を尽くした。
これは異国にも稀なことだろう。我が国でも聞いたことすらない。

それというのに、当代の隆房は義隆卿に恨みを抱いて反逆を企て、
ついに主君を討ち果たしてしまった。
それどころか、摂政関白殿をはじめとして多くの公卿を討ち、悪逆の限りを尽くした。
そのため神の怒りに触れてたちまち天罰を蒙るばかりか、
亡父の入道の怒りも深く、不孝の罪を免れないだろう。
陶の行く末は恐ろしいことになりそうだと思わない者はいなかった。


左京太夫、山口入りのこと

さて、陶入道全薑は、豊後の大友左衛門入道宗麟の弟である八郎義長(初名晴英)を迎えるため、
陶安房守隆満・杉勘解由判官・飯田石見守(興秀)・陶尾張守の郎党の伊香賀民部少輔を差し下した。
八郎義長は同二月中旬(十一日)に豊後を出た。
供奉の者としては、橋爪美濃守(鑑実)・同小太郎・吉弘右衛門太夫をはじめとして、
五百余騎が付き従ったという。

同三月朔日に周防の多々良浜に着いた。
その昔の琳聖太子の吉例を踏襲して、この場所に二日間逗留し、同三日に山口に入った。
陶入道全薑が執事として国中の政治をつかさどった。
義隆に一味した者たちは所領はすべて没収され、
隆房に同調した者たちへの恩賞として与えられたので、たちまち栄枯があ入れ替わった。

毛利右馬頭元就様にも、今回陶に味方した行動が評価されて、
安芸の国の佐藤郡が、己斐の川を境として与えられた。

こうして備芸石の三ヶ国のつわものたちは、みな義長の手に属した。
義長はやがて八郎という名を改め、左京太夫と名乗るようになった。
両雄相争うのが世の習いだからか、陶と杉・内藤たちの仲は悪くなっていったという。


以上、テキトー訳。

ほうほうほう、これまで陶家って調べたことなかったけど、
軽くウィキペってみたよ。
まず、陶入道道麒とは陶興房のこと、次郎とはその長男の興昌のことかな。
『陰徳記』では隆房が養子だとされているけど、実子(次男)らしいね。
長男の興昌については、父の興房が暗殺した説もあるんだね。
もしやその説の出所はこの陰徳記……?

しかし陶次郎さん、いわゆる神童というやつだったのね。
プロのパフォーマーばりに歌ったり踊ったりする子供や
おそろしく暗記物の得意な子供って、いつの時代もどこかにいたんだねw
その自慢の息子が主君を軽んじるからと手にかけてしまう道麒……
まだ若かったのに、教え諭して導くって方法はなかったんだろうか。
子殺しの話はたまに出てくるけど、切ないね。

そんでもってさくっと国入りしてる大内義長。
義長についてはよく知らんし、取り立てて言うこともないな。
ちゃっかり領土を広げてる元就さんさすが元就さん!

さてお次は、大寧寺のお話っぽいよ!
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2013-04-27

寺社領と観音と僧と俺とおまえと大五郎

GW前がこんなに忙しくなるとは……(愚痴)
それと会社の課題が楽しくてつい夢中になってしまって、
古文に向かえる状態じゃなかったよ!

てなわけで今日は、『陰徳記』でも書状類でもなく、別の文書を読んでみようかと。
『続・岩邑怪談録』という、岩国徴古館発行の冊子に、
ちょっと気になる記事を発見。
そいつをチョイと今風に訳してみようっていうかコレ、わりと読みやすいから、ついw

「岩邑」シリーズは、江戸時代に岩国藩で編まれた記録で、『怪談録』ってのは、
そのなかでも社会面的な記事を集めた編纂物みたい。
都市伝説のようなものの他に、寺社の話も載ってるので、
今回はそちらから、とあるお寺のご本尊に関する話題を。


10 普済寺の十一面観音

この観音は、もとは安芸の国の新庄の日の山城の麓、
和皮というところに桑願寺という臨済宗の寺があって、その本尊であった。
この桑願寺の住持が死んでしまったことで、
同所の西禅寺の住持は二宮佐渡守の弟①であったが、
西禅寺を隠居して「ホウオウケン」という庵にいたので、
広家公がこの人を桑願寺にお据えになった。

また、吉見次郎兵衛(元頼、文禄三年、石見の三本松で討ち死にした。
吉見三河守広頼の嫡男。正室は元春公の娘であり広家公の妹②である。
この室は文禄元年死去、法号「雲岩秀梅禅尼」)の妻が早々に亡くなってしまったので、
芳珪君(熊谷氏、雲岩秀梅君の親=元春室)がこの位牌に釈迦を添えて、
生前の御部屋を差し添えて桑願寺へと寄付した。
このため、桑願寺に昔からあった本尊の観音は脇立てにして、この釈迦を本尊に据えた。

その後広家公は出雲に所領替えとなり、雲住寺という住持を取り立てた。
そのため日の山の所領は、わずか部屋付きで五千石となった。
その内二千石は元氏公(広家の次兄)へと分与された。
こうして従来とは変わってしまったので、
西禅寺・桑願寺・洞泉寺の三つの寺はもはや立ちゆかなくなってしまった。

そこで御部屋預かりとなっていた二宮甚右衛門へと、侍従からこのことを嘆願すると、
甚右衛門は、「西禅寺は元氏公の領内なので、
元氏公に嘆願すればどうにかしてくださるだろう」と言った。
住持はすぐに元氏公へと願い出た。
住持は杉山へと参るようにとのことだったので、その地へと行った。
「杉山の西堂」というのはこの僧である。

桑願寺の住持は老人だったので、程なくして亡くなった。
その跡には、洞泉寺の住持が据えられた。
慶長の年の関ヶ原の一戦が終わると、広家公が岩国に移転することになって、
一時期由宇村に居住していた。
岩国に洞泉寺を建立することになり、桑願寺の住持は、
その釈迦と秀梅君の位牌を持って岩国に来ると、洞泉寺へと入院した
③。
そのため日の山の桑願寺の観音はその跡地に捨て置かれ、寺も民家となった。

そのころ、近所の「石」というところの商人が、
日の山に捨て置かれた観音を拾い、粗末な藁屋に置いていた。
その商人の子供は十二、三歳の男子だったが、急に熱が出てうなされだし、
「私は吉川代々の守り仏である。早く吉川殿のいるところへ連れてゆけ。
さもなくばこの子の命を奪ってやる」と言い出した。

親夫婦は驚いて、「吉川殿はどこにいらっしゃるのですか」と問う。
すると「周防の国の由宇という場所である」と答えがあった。
親夫婦がその観音を運ぶ用意をすると、病人であった子供はたちまち元通りに快癒した。
その商人はすぐに由宇村へと向かい、
由宇村へと広家公にお供していた出雲の雲住寺の住持のところへと行って、
事の次第を語った。
住持も不思議に思ってその観音を受け取り、鳥目銭などを商人に与えて、故郷に帰した。

その後、今の普済寺――森脇飛騨守が建立したものであるが、以前は無量寺といった――には、
寺は建立したものの本尊がなかったため、
安芸の国からもたらされたその観音が洞泉寺の仏壇の脇に置かれていたので、
これを譲り受けて無量寺(普済寺)へと据えることにした。


以上、テキトー訳。

とまあ、岩国の普済寺の本尊の観音の来歴をまとめたものなわけだけど、
おそらくハイライトとしては、不思議な現象が起こって観音様が商人の子供に乗り移り、
「自分を吉川殿のもとへ連れて行け」と言い出したってあたりなんだろうな。
マユツバ? けっこう!
しかし子供を人質にとって庶民を脅す観音様が受け入れられているあたり、
このころの宗教観が見え隠れするというかw
観音様も祟るんだねぇ。

私が気になっている部分は、下線部。
①「西禅寺の住持は二宮佐渡守の弟」ってのは、もしかして元長と仲良しだった
恵雍さんのことだったり……?
と思ったけど、別の僧侶のことかもしれないね。
だがしかし、「ホウオウケン」かどうかはわからないけど、
広家の出雲時代には、恵雍さんは西禅寺を離れて石見の寺(霊光寺)にいたらしいこと、
広家が岩国に移ってから、恵雍さんも岩国に招かれたらしいことはわかってるんだ。
このあたりは下線部③と一致する気もするけど、恵雍さんが入ったのは、
洞泉寺じゃなくて永興寺なんだよな。やはり別の僧侶のことかな?
広家が恵雍さんに対して、二宮佐渡守の子供の病気や死亡について気遣う手紙を送っているので、
恵雍さんが二宮佐渡守の縁者かもしれないと強く思っていただけに、追跡調査をしたいところ。

あと、下線部②では、広家の母(元春の妻、熊谷氏)が
吉見家に嫁いだ娘の弔いを依頼しているわけだけれど、
この娘の出生?がなんとなくあやふやなんだよな。私が得ただけの情報では。
「養女」としている文献もあるんだ。
ただ、南条元続に嫁がせた「元春の娘」ってのが確実に養女で、
こちらは今田家の実の娘らしいので、文献上ではそれと混同されているのかも?
これも追跡調査したい案件。

ああ、家中系図を拝見したいなぁ……
2013-04-22

輝元さんの縁談の進め方③

もう、勢いついでに縁談関連の書状読んじゃおう。
今回は、輝元が竹姫に送った教訓状。
嫁ぐにあたっての注意事項とか、そもそものこの縁談の意義を説明したものだね。


●毛利宗瑞(輝元)教訓書(毛利家文書1186)

 ※この文書は、元和二年七月、輝元から娘に送られたものである

この縁談について、おまえは相手がふさわしくないと思っているかもしれない。
家中の者のなかにも、そのように考えている者もいるだろうが、
私が思うに、それは間違っている。

以前、日頼様(元就)も仰せになられていた。
それにその後、御所様(徳川家康?)も、そのような話をなさっていた。
これは、それに適ったことなのだ。
偉い人の考えることはたいていよいことだから、私はこの縁談を決めたのだ。

そもそも、国を司る者は、まず一番には自分の身を律し、行儀よくするのが肝要だ。
そしてその次に、家中を治め、家が長く続くようにすることが大事だ。
その上で、自身の器量しだいに、他人に国を取られないように心がけ、
また果報があれば自分のできる範囲で他国に戦を仕掛けるものだ。
自分の身と家中がまとまらなければ、何をしてもうまくいかない。
元就も御所様もそう仰っていた。
私は家中の調整が大切だと思ったから、この縁談を決めたのだ。

当家では、秀元・吉川がとくに大事なので、このように運んだ。
そのほかの者では、深謀遠慮というものもなく、通り一遍のことしか考えないから、
一時の欲ばかりを追い求めてしまう。

また、他国との縁辺となれば、思い通りにはならないだろう。
もし東の果てに嫁ぐことにでもなれば、こちらの役には一つとして立たない。
家中が堅固に結束していれば、良くも悪くも、
先祖へのご奉公としてこれ以上のことはないと思って、こうしたのだよ。

一、吉川の家に行くからには、あの家の法度に従うこと。

一、また私が個人的に思っていることは、表には出ないけれども、
  娘はおまえ一人なのだから、手放してしまうことはできない。
  そのうえおまえは生まれつき短気なのだから、
  他国に住むことなどまったくできはしないだろう。
  家中にいれば、よくなっても悪くなっても対策を打ちやすい。
  このことはおまえにも思い当るところがあるはずだ。

一、二人(竹姫・広正)の協力が、ともかく肝要である。
  何か腹が立つことがあっても、ぐっと我慢するべきだ。
  だいたいはそれで収まるものだ。
  そしてじっとこらえて、それでも仲が元に戻らないときは、私に言っておいで。

    付けたり、ここまで申したように、吉川はただの家臣とは違う。
    この縁辺は家中の固めなのだから、生半な分別ではうまくいかないかもしれない。
    家のためだということを心に留めておいてくれ。

一、吉川の家中の衆には、丁寧な物腰で応対しなさい。
  相手が「かたじけない」と思うように振舞うこと。
  その心得が何より大事だ。

一、家中の衆と応対するときに、同じ位の縁辺などのように考えてはいけない。
  少し自分の位の方が上なのだということを忘れてはいけない。
  また、家中でも、その身分や分限によって応対することが大切だよ。

一、女房衆たちも、自分勝手にしたり雑な仕事をしないように、
  内々の使い方を工夫することも大切だ。

一、人が誰かのことを悪く言ってきても、よく見聞きして糾明しなさい。
  人が何やかやと言ってくることに、むやみに腹を立てないように。

一、誰かと会うときには、たとえ腹が立つことがあったとしても、
  穏やかに丁寧に応対しなさい。

一、周りに人がいるときに、退屈そうな顔をするものではない。気をつけなさい。


以上、テキトー訳。

うーん、輝元、やっぱり好きだな。
すげえいい父ちゃんじゃないか。
「夫婦二人で支え合いなさい。腹が立ってもぐっとこらえなさい。
 それでもうまくいかなかったら、お父さんに言いなさい」
ホントこの人、なかなかの人格者だったんだと思うよ!

家のため云々てのは、この時代のこの身分なら当然というか、
取り立てて注目すべき考え方でもないよな。
よく、「この時代の女たちは家のために犠牲にされて自由な結婚も許されず不幸だった」
みたいな論調を見かけるけど、ありゃ個人的に好きじゃない。

①家のために自由を許されなかったのは男も同じだバーロー
②「自由恋愛だけが唯一の女の幸せ」という偏見に満ちた前提に拠っており、非常に不快
③そんな粗末な物差しで、人様の幸不幸を勝手に断じるな!
主に↑この↑理由で、ホントこの論調は嫌い。
でも、歴史学者にもこういうタイプがいるから、たまにがっくりくる。
そういう思潮が当然だった時代もそう遠くないから、仕方ないのかもしれないね。

まあ論文読むときとかには、書き手や編者の背景にも留意しましょうということで。
軍記や伝記も同じことが言えるけど(めんどい)。

そうそう、今回の手紙で面白いと思ったのは、
他国への侵攻が「果報次第、自分次第」という考えのもとに行われていたという点かな。
恨みつらみとか深い欲望のようなものじゃなくて、ずいぶん軽いノリだなオイ。
「手に入りそうだからとりあえず攻めとくか」って感じなんだろうか。
意外とドライですよね……
2013-04-21

輝元さんの縁談の進め方②

いやいや、日が開いてしまった><
それというのも、
水曜:夜会議後、夜行バスに乗り込んで京都へ
木曜:休暇をもらっていたので、京都で朝から観光(*´∇`*)
   第一の目的は特別公開中の黄梅院、その他、伏見・東福寺・耳塚・北野天満宮などを散策
金曜:夜行バスで東京に戻って出勤、飲み屋に土産渡しに行って結局飲んでバタンキュー_ノ乙(.ン、)_
土曜:会社関係のスポーツイベントがあって当然飲み会もあってバタンキュー_ノ乙(.ン、)_
という強行軍でしたのよw 年齢と体力考えてから行動すればいいのにな。
とりあえず阿闍梨餅とすぐきうめえwww

まあ書状読むのに詰まってたことは詰まってたわけで、今回もかなり不安な訳だけど。
前回は、広家息子と輝元娘の縁談について、輝元から秀元に事情を説明した手紙(案文)を読んだ。
今回は、同件について、輝元から家老の福原広俊に宛てられた書状の案文だね。
縁談そのものの了解をとろうというものではなく、細かい条件の話みたいだ。


●毛利宗瑞(輝元)書状案(秘府明和抄書)

元和二年 御案文(福原広俊宛)

広家から祝言についていろいろ言ってきている件について、
おまえにも相談があったようだから、いちいち書く必要はないだろう。
この件について、私の一存で返事をすることはできない。
長門(秀就)にも伝えて、そのうえで返事をするつもりなので、その件についてだ。
だいたいのことは、長門がこちらにいる間に意見を聞いておきたい。
前後してしまったけれど、おまえはどう考えているだろうか。

一、広家は自分の知行について付立(帳面?)や遣方(割り振り?)を帳面に書き付けてきた。
  私が思うに、こんなことはしなくてもいいと思う。広家の分限はよく知っている。
  このことを最初に察しておいてほしい。

一、今このように言ってこられると、私が縁談を強制しているようだ。
  公役のように言われるのは、互いに体面が悪いと思う。
  家中の者たちが知れば、この縁辺が私にとって不足であると悪口を言う者も出てくるだろう。

  この縁のことは、お互いにまだ子供が生まれていないころ、
  雑談の中で「子供が生まれたら、公儀から縁談がこないうちにおまえに進ぜよう」
  などと、ふざけて言っていた。
  その後広家は山口で、佐世(元嘉)を通して、以前に私が言った言葉があるものだから、
  是非ともに縁辺を結んでくれと、強く申し入れてきた。

  私は、「そういうときがきたら、公儀から淡々と縁辺が仰せ付けられるだろうと思う。
  公儀から縁辺のことが仰せ出されなければ、家中では秀元などの他に釣り合いの取れる衆はいない。
  秀元はまだ子供がいないから仕方ない。
  そのときがきたら、広家と私との仲のことをなんとかうまく言って、
  互いのため、家のためにも、もちろんそのことは忘れない。
  広家の言うようにしよう」と答えた。

  またそれからも度々言ってきたので、
  「その件については、井四郎右(井原元以)を通して詳しくきちんとした返事をする」と、祝儀を申した。
  広家も知っているはずだから、今は言うに及ばない。

  広家がそのとき佐世を通して言ってきたことには、
  「たとえこちらとの縁辺が調った後であっても、公儀から仰せ出されれば、
  広家としてはまったく依存がないので、どんなことでも家のためになるように、先々まで努めます。
  広家はこのことを絶対に忘れません」と言ってきた。

一、だいたい祝言などというもので、仁であれ不肖であれ、
  こちらから娘などの堪忍分(化粧料?)やその他の造作を申し付けるなど、聞いたこともない。
  これは違ったことだから、たとえを用いなければならないと思って言うことだ。

  私は先年、十ヶ国をも領する身分だったが、今は二ヶ国になってしまった。
  そのうえ長門の縁辺などを幕府に申し上げて仰せ付けられたことは、
  実にありえないことだと思っていたけれど、
  もちろんながら、お引き受けできないと断ることなどできない。
  家が無事に続くかどうかはこれにかかっている。
  妻子を養うにも、また家中の者たちを養うにも、前よりずいぶん大変だ。

一、公役についても、人並みより多めに引き受けてきたが、今までは特に問題は起きていない。
  また耕作に適さない土地に関しても、他の国よりも多くあるのかもしれないが、
  諸大名が誰一人としてこの問題を言い出さないので、
  私程度の者が人並みに言い出すわけにもいかない。
  このことはわざわざ言う必要はないし、このあたりは皆そんなものだ。

  また、私の家中にも、二百石持ち・三百石持ちといった人々に、公役や人数などを知らせて、
  役目を選んで申し付ければ、十分の一さえ揃えるのが難しい状況であっても、
  一人として断るような者はいない。
  それ以下の者たちのことはよくわからないが、
  上中下ともども、このような我慢は同じようにしているのだ。
  だから、それぞれが帳面をつけて見せてくるというわけにはいかないだろう。

  それはその家中の間で助け合ってしかるべきだ。
  しかし、私がそのように言って目を通さないでいれば、
  広家も納得できずに腹を立てるだろうと考えて、一見したのだ。
  だいたいのところはこのようなものだった。

一、ただ私の一存ではどうにもできないことなので、意見を聞いてみようと思ったのだ。
  おまえはこの件をどう思っているだろうか。気になっている。

一、ここまで申したように、私の一存で返事ができる案件ではない。
  私の身上でさえも、今は長門の心次第なのだ。そのことは皆知っているだろうし、
  いよいよそういう運びになってきた。
  とりわけ最近は私が病気なので、あまりあれこれと口を出せないし、
  何を言ったところで確かなことは言えない。
  とにかくおまえの考えを聞かせてほしい。そのためにこの書状を送った。

          福 越(福原広俊)へ

くれぐれも、とにかく結局は長門に相談しなくては返事をすることができない。
このことは、おまえが私の身になったつもりで、よくよく理解してほしい。
とても頼りに思っているよ。


以上、テキトー訳。

何となく状況を察するに、どうやら金のことでちょっとモメてる感じだな~、といったところ。
これについて状況を補足してくれそうな書状が、下の広家から輝元奉行人に宛てられた書状。


●吉川広家書状(毛利家文書1182)

上書「榎 伊豆(榎本元吉)殿
   山 吉兵衛(山田元宗)殿 御宿所        吉 蔵人(吉川広家)」

先ほどはお目にかかれてよかったです。
私が内々に申したことは、七月の御祝言が延期にならないようにと考えてのことで、
他意はありません。
そのことをよくよくご理解いただき、御前での披露をよろしくお願いします。

先ほど申したことは、御姫様の賄方として幾許かのご協力をお願いしたいということではありません。
御姫様が召し使っていらっしゃる御人数相応に、
殿様(輝元)にご推量いただいて仰せ付けていただきたいというだけです。
もし万が一、大出費だとお考えになられてはと心配して、申し上げました。
なお、使者から口上で言わせます。恐々謹言

     五月二十七日                広家


以上、テキトー訳。

つまり、竹姫と広正の祝言が7月に行われることに決まって、輿入れの際の実務的な話が進み、
竹姫付きの人たちの給料について、毛利家の方から出してほしいとか、
そんな要求が広家からあって、それで輝元が悩んでたわけね。
輝元としては、出してあげたかったのか、それとも出したくなかったのか微妙だけれども、
結局、秀就と連名で、五千石の化粧料を姫に与えてるんだよな。
これはお付きの人たちの給料とは別なんかな?

そんなことよりも、私がまず注目したのは、
お互いに子供がいないときに、ふざけて『子供が生まれたらおまえにやるよ』
とか言ってたんですか!!! 輝元さん!!!
アナタ罪な人!?!?
まあ輝元は、秀就が二の丸のお腹にできたときも、
「生まれた子が男だったら馬に踏み殺させる」とか言ってたという話を聞いたしな。
正室とか叔父様とか、いろいろ憚るところがあったんだろうな……

あと、秀元宛の方と比較して「あれ?」と思ったのは、下線部。
これが、秀元宛の書状では、一旦書いた後に消されてたんだよね。
秀元宛には、佐世を通じてのやり取りとか、昔の話も出てこない。
なんでだろうなぁ。今回は、宛先が福原だったからかな?
福原といえば、関ヶ原のときには広家の内通に同心してるし、
その後も広家の養子(益田元祥・広家姉の子)に娘を嫁がせてるし、
対秀元としては広家と結束してそうな感じなので、
輝元が広家と仲良しアピールしても問題ない相手のはず。
とりあえず輝元は、相手に合わせて、開示する情報を慎重に選別してたのはわかったw

さすが輝元さん!!!

さてお次、何を読むかは決めていない。
2013-04-16

輝元さんの縁談の進め方①

すっかり書状にはまっております(・`ω´・)
今回は、輝元から秀元宛の書状の案文。
元和二年、輝元の娘の竹姫を広家の息子の広正に嫁がせることになって、
秀元の了解を得るための手紙の下書きらしい。

今日は元就じいさまの西暦の誕生日だって!?
おめでとう! こんなお孫さんを育ててくれてありがとう!!!


●毛利輝元自筆書状案(毛利家文書1188)

※この書状案は、元和二年に輝元から秀元に送られた書状の案文である

こちらで直接話をしようと思っていたが、
おまえが上国していたときには別のことで忙殺されていたので、遅くなってしまった。
内談したいことがあるので、この者を差し下す。

お姫の身上のことだが、二の丸でのときに、
おあちゃ様(阿茶局)にお任せしようということになった。
あるいは家中で縁組をすることになったなら、
おまえ(秀元)の子息などへこそ嫁がせるのがいいのだろうが、
おまえにはまだ子息がないので、そうすることもできない。

以前、広家が自分の息子とお姫を結婚させてほしいと言っていて、
そのときは、お姫を家中に置くことに決まったらそのときに申し入れてくれと答えていた。
最近は広家からその話を持ち出してくることはなかったし、
また公儀からの縁談があるかもしれないので、承知しておいてほしいと申したところ、
広家はこう言ってきた。
「そうなっても少しも異論はありません。
御家のためですから、ともかく大きな利点を優先すべきだということは
少しも忘れてはいません」とな。

それに、宗休(毛利元政)に対しておまえが内々に、
「どこに遣るにしても、よく調べないといけない」と言っていたが、
そのとおりのことも言っていた。

最近の情勢は、他家も当家も安泰とは言えない状況だ。
前もって周到に準備しておかなければならない。
あのお姫は、体も弱いし異常なほど気が短い。
他国などへ嫁がせるのは、あまりに気が引ける。

男である秀就でさえ、縁辺などを結んで後悔しているのだ。
何かよくないことをしでかして、家の崩壊を招かないかと、日夜心配で仕方ない。
このうえ、あのお姫を他国などへ嫁がせ、もし何かあれば、
女の身であるのだから、取り返しのつかないことになるだろうし、これでは老後の心配が絶えない。
他国への縁談は、まず考えられないのだ。
となれば、家中に置いておけば、それほど大事にはならないだろうから、そうしようと思っている。

こう言うと、私が最初から広家に嫁がせたくて、そのように運ぶために、
こんなことを言っていると思われるかもしれない。
しかし神に誓って、そういうこではないのだ。
もうおまえには私の心の内がわかっているだろうから、
私の言っていることには納得できないかもしれないが、私の身にもなってみてほしい。
藤七郎(秀就)のことだけでも困り果てているというのに、
お姫まで事情を知らない人と所縁を結んでしまえば、家が滅亡してもおかしくない。
まったく進退きわまるとはこのことだ。朝に晩に、それはそれはヒヤヒヤしているのだよ。

お姫が丈夫で心穏やかであったなら、心配があっても望みもあるだろうに、
体も弱く、正気ではない気性に生まれついてしまった。これは一大事なのだぞ。
家中の者であっても、誰かに嫁がせるのは遠慮したいくらいだ。
このあたりで、心の奥まですべてさらけ出して相談しておきたかった。

というわけで、広家のところに嫁がせることにする。
こちらの手元に置いておき、どうもうまくいかないようであれば、
私の元へ呼び戻すのもやりやすい。
おまえに子息がいれば、こんなに悩まなくてもすんだかもしれない。
これも私の運の悪さだ。

お前と私の仲のことは、どんなに離れていても、
心は隔てないと神文に誓ったし、その言葉に嘘はない。
だからそのことは全く心配しないでほしい。
私が生きているうちは、おまのことは何なりとも
希望に沿うように協力することは言うまでもない。


以上、テキトー訳。

ポイントとしては、
①竹姫は阿茶局(徳川家康の側室)に縁辺をまとめてもらう予定だった。
 ※阿茶局は、数年前の秀就の縁辺を取り仕切ってる
②竹姫は生まれつき体が弱く、さらに何らかの精神疾患を抱えていた。
③輝元としては、竹姫を他国に嫁がせれば家の滅亡を招くと考えて、
 何かあっても姫を連れ戻しやすいように、家中に嫁がせるつもりでいる。
④竹姫の嫁ぎ先としては秀元のところが理想的だが、秀元には子息がないので、
 広家も望んでいることだし、広家のところに嫁がせる。
⑤公儀から縁談があれば、家のためにしかるべき措置を取ることに、広家としては異存がない。
⑥秀元のことは、今までと変わらずに大事にするよ!
というあたりかな。

なんとなく言い訳がましいというか、
「これしか方法がないんだから、内心反対でも了解してね!」
という心情が見え隠れするというか。
私も翻刻しか読んでないわけだけど、けっこう推敲の跡があって、
輝元がずいぶん気を遣ってる様子が見て取れるw
秀元と広家は、方や廃嫡されて別家になったとはいえ輝元の養子、
方や毛利両川と謳われた吉川家の当主で、
協力しつつも反目し合う、運命のライバルといったところかな。
仲が悪かったようで、慶長10年末ごろに輝元の仲介で和睦してるのね。
その一方に姫を嫁がせるとなれば、そりゃもう一方に気を遣うよな……w
たぶんそれだけじゃないんだろうけど、私の理解がついてゆかないので、そういうことにしとく。

これと比較しいたい書状があるので、次回も書状を読む予定。
今後更新が滞ったら、どこかでつまづいているということですw
2013-04-15

愛すべき人々

さてさてうふふ。久々に毛利家文書を眺めたのです。
手紙ではない(と思う)けど、輝元の覚書に、
広家と話したことをメモしたものがあったので、それを読んでみた。
まあ例によって、かなり思い込みの激しい自分なりの訳になってしまったけれども。
だって主語とか目的語とかがわからないから推測するしかないんだもの。

輝ちゃんがすごくいいこと言ってる気がするんですよ、今回。
輝「ちゃん」じゃねえな。輝元さんだな(`・ω・´)

「覚書」という体裁だけど、読んでみて、
輝元から秀就へのメッセージなんだろうなと感じたので、そんな風に訳してます。
時期的にはおそらく、秀就が国入りを果たした慶長16年末以降、
広家が「如券」を名乗るようになった元和元年以前のどこかだと推測。


●毛利宗瑞(輝元)自筆覚書(毛利家文書1189)

「広家へ申したる条々」

一、私は広家にこう言った。
  「おまえはあまりに控えめすぎて、実は内心腹が立っていたのだ。
   私はおまえが若いときから見知っているから、そういう人間だということはわかっている。
   その私でさえ、ときには腹も立つというのに、
   秀就はお前の性格など少しも知らないのだから、頼りにならないと思っているだろう。
   だから、自然と誤解も生じるはずだ。
   秀就と広家が意見交換をしないままだと、だんだん疎遠になっていくだろう。
   そういうときに両方に悪口を吹き込む者が出てきては、一大事だ」

一、私がそう言うと、広家はこう言った。
  「仰せはもっともなことです。
   けれどもこれはそもそも、生まれついての性分です。
   そのうえ若殿様はまだお若いのでことさら大切に思っております。
   少しでもお気に障ったらいけないと考えて、控えておりました」

一、また私はこう言った。
  「もちろんそれもわかるが、しかしそれは人によるものだ。
   この間のことは、私が一通り聞き出して、すべて承知している。
   秀就は、おまえに物事を相談しているのに、
   おまえが何も言い出さないから、とてもがっかりしたようだ。
   とりわけ内々に相談しているときには、いつも遠慮ばかりして発言を控えてばかりだと、
   何でも悪い方にとってしまうものだ。
   何事であっても、顔を合わせて、互いに考えを言い合わなければいけないよ。

   それに、長門(秀就)の気に障りそうな話題なら、
   豊前(児玉豊前守景唯、秀就の母方の伯父)を通して言えばよい。
   何につけても豊前に相談するようにと申しているではないか。
   とはいえ、直接話をすることが人の命(一番大切なこと)なのだから、
   くれぐれも心の隔てがあってはいけない。
   そう心がけることが大事なのだよ」

一、広家はこう言った。
  「私は病気がちで引き籠ってばかりいるので、頻繁に出仕することができません。
   だから若殿様は、私を心の捻じ曲がった者だとお考えになると思います」
  だから私から伝えてほしいと言っていた。
  私は、
  「そのことは早々に私から伝えよう。気にすることはない。
   もちろん私や秀就が呼んだときでなくとも、
   用事があれば、夜でも夜中でも来て話してほしい」
  と言ってある。

一、結局のところ、おまえ(秀就)が威圧的だからなのだ。
  人が心安く物を言えるようでなければいけない。
  この前に萩に来たとき、おまえが人を恐怖させる態度だったから、
  広家もまだ萎縮している。
  私はこう言った。
  「秀就はちっとも恐ろしくなんかないぞ。安心してくれ。
   今はこの前とはすっかり変わっているから、我らをもっと心にかけてほしい。
   長門の心持ちも、前とはがらりと変わっている。
   何でも大事に考えているよ。
   おまえとの間柄で、遠慮などされてしまったら、まったくがっかりしてしまう。
   きちんとそのことを心に留めておいてくれ」

  そのように言ってあるから、私が広家に言ったことが違ってしまわないように、
  おまえもよく身を慎んで、気を引き締め、
  たとえ山が崩れかかってきても、
  私が申したことを一筋に心がけるのが大切だよ。
  私の言ったとおりにせずに、無分別でいたならば、
  この御家は滅亡すると肝に銘じなさい。
  御家がよくなるのか、それとも悪くなるのかは、おまえの心一つにかかっているのだ。


以上、テキトー訳。

なんてことなの。
輝元がナイス上司でナイス父親じゃねえですかかちくせう><
自分の跡継ぎと信頼する重臣の間を、ちゃんと取り持ってたんだね。
輝元はこれだから好き!!!
馬鹿だのなんだのdisられることの多い人だけど、
こういうのを読むにつけ、なかなかの人格者だったんじゃないかと思うんだ。

あと新しい発見。
ヒイさんてば、輝元から見ると「遠慮がちにすぎる」性格だったんだそうな。
そうだったの……? 世間的にもそういうキャラクターってイメージはないよね。
あんまり自分から話さない広家を、輝元が突っつき突っつき意見言わせてたのかなw
また新たな一面を発見ということで、私としては大満足の覚書ですた(*´∇`*)

これを契機に、少しずつ書状類とか読んでいきたいな。
広家の息子広正と、輝元の娘竹姫の縁談に関連した書状類が気になってるんだよな。

しかし輝ちゃん、よく広家のこと見てるなぁ。
これは、愛?(腐)
2013-04-14

山口の賛歌、そしてろくでなし

なぜだろう。前回から引き続きシャンソンめいたタイトルに……

実は私さっき会社メール開いてみたら月曜提出の課題が出されてることに気づいたんですけど
あーたコレ金曜の終業後に送ってくれてんじゃないのさ。
土日もたゆまず会社メールチェックしろってかバーヤバーヤ_ノ乙(.ン、)_

それはさて置き陰徳記。前回のあらすじ:
大内義隆は家臣の陶隆房に滅ぼされちゃったけど
それはそれとして山口ってとこは琳聖太子以来すっごく栄えてて太守もいい人ばっかりで
とにかくこの世の楽園みたいなところだったよ!
というお話の続き。


山口興廃のこと(下)

「田舎は人の心も偏屈で、言葉もなまっていて聞き分けづらい。
都の人に交われば、曲がった心もまっすぐに、なまった言葉も聞きやすくなるだろう。
花に遊ぶ鶯の舌は、花がなければよい鳴き声にならない」といって、
町一町につき京童を六人ずつ呼び寄せて住まわせた。
さまざまな芸事の達人や、いろいろな職の名人、彫物・織物・建築に至るまで、
都の名家の庶流の者たちを呼び寄せた。

また道々にも、「石が敷かれていなければ車がぬかるんで通りづらい」と、
山口の五里四方まで、深さ五尺ほどの小石を敷き詰めた。
道端の並木の柳、園に匂う千本の桜、花の錦の色深く、
織物は暮れの雨を織り込んだかのようで、裁ちものは春風に吹かれたように美しく整う。
山口の春の日は花見の車が道を軽快に走り、
朝倉の秋の夜は西に傾く月が岩群の中の路をはっきりと照らす。

川の流れ、山の峰々、何を見ても絶妙で、
大海を硯にして須弥山を筆としてこの風景を写したとしても、
たった一本の毛を大渓谷に落とすがごとく、たった一滴の水を大山に垂らすがごとくで、
実にその美しさは再現できないものだった。
「絵に描けず讃に及ばず」というのは、こういうことを言うのだろう。

昔、大内弘世が都にいたとき、鞍馬、八瀬、大原の物売りたちがが
薪に花を折り添えて出てくるのを見て、
「思えば山中はすっかり春の色に染まっている。一面の若葉、そして半分は花の色。
道のわきの桜を折り添え、薪や重き春の山人」という古い詩歌を口ずさんでいた。
そこに十二、三歳ほどの童たちが走り出てきて、
「その花を一枝おくれ」と言って、手に手に貰い受けると、それはうれしそうに遊びだした。
弘世はこれを見て、「姿や言葉だけでなく、心もさすがに花の都の人だ」と感心した。

弘世はやがて国に戻ってくると、
「山々に住んでいるきこりたちは、薪に花を折り添えて持ってくるように。
また山口の童たちは、その花をもらってかざして遊ぶように」と触れを出した。
太守の命令なので、男も女も花を手折って頭に挿す。
遊び好きの子供たちが先を競ってこれをもらい取っていくと、
二月の雪が袖に舞い、それは珍しげで楽しそうだった。

しかし初めこそ太守の言いつけを守っていたものの、時間が経つと、
「花をくれ」と乞う人はいなくなり、また、たまに「山桜を一枝欲しい」と言い出す人がいても、
薪に添える物売りもいなくなった。
この成り行きを見ていた弘世は、「人の心とはなんとつまらないのだろう。
山の石ころのようだ。田舎住まいとは憂鬱なものだ。
この田舎の果てに都を移そうなど、
顰に倣った東施(成功した人の真似をして失敗すること)のようになってしまうだろう」と、
大きな溜息をついていた。

昔、平将門が関東八ヶ国を手中に収め、相馬の郡に都を立て、
自ら親王を名乗って百官卿相を召抱え、叙目を執り行ったことに
いささか似ているような感があるが、
この弘世朝臣は、文武兼備、克己覆礼、将軍の武命を重んじて忠戦に励み、
固きを破り利を砕き、また万民の塗炭を救い政道は正しく、奸を除き邪を憎んだ人である。
高くして危うからず、満ちて溢れず、万国はまるで、
あたかも草が風に吹かれるように、弘世に靡き従った。

その子々孫々に至るまで、子は父の業を継ぐ習いだからか、古今に傑出した名将ばかりだった。
そのなかでも義興は、代々の先祖よりもなお突出して、道徳仁義礼の五つを全備していたので、
恵林院義稙卿の後見として天下の危機をよく助け、天下の憂いを取り除いたという。

しかし当代の義隆卿は、武道の道をすっかり忘れ果て、
意味のない公家との交友にばかり現を抜かし、
花の陰に馬をつなげたまま一日を過ごしたり、
楓の林に車を止めて月を眺めながら詩を吟じ歌を詠んでばかりいた。
または弓矢を投げ捨てて蒲団を抱え座禅をしたり、念仏を唱えたりもしていた。

それだけでなく、陸羽・盧同の跡を慕い、宇治・栂尾の茶の味を楽しみ、
「趙州は茶を飲んで七百甲子を保ち、潙山は茶を摘んで悟りを開いたという。
それならば、黄頭碧眼の秘訣は茶にあるのだろう」などと言っていた。
唐土の祖師の墨蹟や日本の徽翁一派の筆跡の、反古一枚を買い求めるために多額の銭を費やし、
古びたひょうたんを見ては、「これはきっと、数空しという顔渕のひょうたんだ」などと褒め称え、
いびつな茶器を手に入れては、「これよ、これこれ、天目山の産物だろう」と、
そんな物のためにいくらでも金銀をつぎ込んだ。

もしその金銀で忠戦を貫いた軍士を賞していれば、
兵たちの勇気も日々増して、生きながらえるのは恥だとばかりに、必死に戦っただろう。
何も考えずに費やす金は泥や砂と同じだという言葉は、このようなことを言うのだろう。

これだけでなく、義隆はいつも酒色に耽り、遊んでばかりいた。
酒を泉のように注ぎ、佳肴を山のように設け、昼はもっぱら飲み暮らし、
夜は一晩中燭を灯して遊び狂った。
国家が衰退し、万民が苦しんでいることなど、まったく気にかけてもいなかった。
ひどいことである。

「酒とは沈んだ気持ちを払ってくれるものだ。
だから忘憂君と名づけて、人間の八苦を酒で消そう。
また酒は百薬の長ともいうから、医学の妙術や換骨の霊法も、すべて酒に秘められている。
不老長寿の法など探すに及ばない。人間は楽しんで長く生きられればそれでいい。
これは酒の徳である。
清きをもって聖をなし、濁りをもって賢をなし、酔わずをもって醒はないと言うではないか。
となれば、孔孟の道も中庸の徳も、みなこの酒から起こっている。
国家を治める枢要は、酒以上のものはない。
天下泰平を成し遂げられる武将は、必ず酒をたしなんでいるものである」などと言ったこともあった。
みっともないものである。
人間万事酔えば泥のようになるとはこういうことだろう。

たしかに酒には十徳という別名があるとはいえ、すべてを失うきっかけになるのもまた酒である。
禹王の時代になって儀狄が酒を作ると、禹はそれを飲んであまりのうまさに呻り、
「後の世には酒のせいで国を滅ぼす者が出るだろう」と言って、儀狄を遠ざけたという。
上代の聖王はこれほどしっかりしていたのに、
義隆は酒に溺れて「良将のたしなむものだ」とまで言ったとは、口惜しいものである。

一人の心は一千人、一万人の心に影響するもので、大内家の諸士は皆義隆のやり方を真似して、
上は暗く下はへつらい、政道には一つとして正しいものはなかった。
武道が廃れ果ててしまったので、侍は主君を侮り、民は領主に背き、
強臣の陶に易々と討ち果たされてしまった。
生前の恥を万国に流し、死後の悪名を後世に残すことになり、残念なことである。
先祖代々心を砕き、匠の手を借りて大造営して飾り立てた寺社仏閣の棟々は、
あっという間にはかなくも焦土と化してしまった。甚だ遺憾である。


以上、テキトー訳。おしまい!

「あなた~の燃える手で~ 私(山口)~を抱きしめてェ~」かーらーの!
「ろっくーでなっし~♪」でした。
大内家に似合うな、シャンソン。こんなにハマるとは。
今度私もカラオケで歌ってみよう。
しかしよったかさまのdisられっぷりはパねえな。
デカダンな義隆は、個人的には大好物なんだが。酒に関してはいい友達になれそうだ。
大して義興のageられっぷりは何だろう。
やっぱ太守として優秀だったから、土地の人たちに愛されてたのかな?

あと、弘世たんカワイイです弘世たん!
「みんな都人の真似して薪に花添えて歩いてよ!」ってさ。
くそかわいいです!

とりあえず次は軍記物離れて文書類を読みます!
読むぞったら読むぞ! すべて自己流だけどな!
2013-04-13

時には昔の話をしようよ

久々に手紙や書置きを眺めながらウンウン呻っているよ!
なんだろう、あの当事者にしか伝わらない感は。もどかしい!

さて陰徳記、山口に討ち入った陶が大内義隆を滅ぼし、
虚説を講じて陶に反逆を起こさせた杉もまた成敗されたところだけど、
今回は、山口という土地の昔のお話。
美文すぎてぜんっぜんわからねえぜ!

なので2回に分けます(´・ω・`)


山口興廃のこと(上)

山口というのは、そもそも琳聖太子以来二十四代、一千余年に及んで、
歴代の太守は、武備を整えて帷幄のなかで謀略を怠らなかった。
千里離れた場所でも勝つことができたし、攻めていけば堅城などなく、
戦う相手をものともしない。
敵国はこの武威を恐れ、盗賊たちも恐れて近付かなかったので、商人や旅人が多く訪れていた。

また内政では文徳を修めて領民を撫育し、税や賦役を軽くして、
民の衣食が充実するようにしたので、士農工商に至るまで富み栄え、
すべての人々の生活が満ち足り、しっかりと多くの蓄えもできるようになった。
だから三万間もの広さに民家がひしめき、寺社仏閣も三百以上建ち並んだ。

そのなかでも太守が代々居住している築山というのは、
驪山宮を髣髴とさせ阿房殿にも勝るかというほどで、
赤い門や輝くばかりの楼閣が百件も軒を連ね、甍を並べて、
まるで宝石をちりばめたかのようだった。

花見のための岡の館は、水殿雲楼ごとに春を楽しめるようになっており、
月を眺めるための鈎殿は、早くから秋を満喫できるようになっている。
中でも防長石の三国の太守となった左京太夫弘世以来、代々の太守は栄華を極めていた。
花の都を山口に移して、西の都として栄えさせることが生きている間の使命、
また死後の名声を高めることになると考えたので、
氷上の大坊を天台山になぞらえ、諸仏諸神を勧請して、
「私の土地に冥加を注いでください」と、丹精をこめて祈念した。

本尊は妙見大菩薩であり、本宮を東に向けて建て、下宮は南に向けた。
本堂には釈迦・文殊・普賢、四大天王の像を安置し、神殿や仏舎を広々と豪華に創建した。
東西の二塔、鐘楼、輪蔵、経蔵、長日の護摩堂、法経堂、八幡の社壇は赤い玉垣は月に映え、
やわらかな月明かりがはっきりと闇を照らした。
三十番神の宝殿は花の白木綿がまぶしかった。
山王七社の宝前は灯火が明るく、キネカ鼓が元気に打ち鳴らされる。

百以上ある僧房は、門を並べ甍を重ねてそれぞれ檀家を抱え、競い合って繁盛していた。
三千の衆僧たちは天台の教法を学び、議論を活発にした。
また真言秘訣を修して、天下泰平・国土豊穣を祈願した。
神主たちは袂を束ねて神に供え物を捧げ、四季の祭礼の中でもとりわけ春の大祭は、
歩射・舞童などを行って、管弦の音が絶える日はなかった。

山は天にそびえ、川は滔々と流れ、木々は緑に茂り、
その奥の森林は静かに泰然として一点の俗塵もなく、清浄結界の霊地だった。

文明十八年の春のころ(八月十六日)、新たな瑞夢によって当山の額は、
かたじけなくも宸筆を染められ、勅願所の宣旨が下された。
また国清寺・香積寺・法泉寺・妙華寺は、近くは日域洛陽の五岳を移し、
遠くは月氏海上の巨叢を慕いつつ、宗門の特徴も打ち出して、
全国から三千もの修行僧たちが集まり、八万細行を修め、
鷲嶺の灯火を分かちて熊耳の雲に立て、四七二三の跡をつぎ、
南頓北漸の会を催し、棒を行い、喝を下し、宗門の者たちを激励した。

あるいは人気のない山の上に草庵を編み、または川辺の昔からの渡し場で往来する人々に説法した。
禅の智が大いなるものだからか、座禅をする合間には、
軒端の月の影とともに読経の声が朗々と響いた。
窓のそばの雪に照る光で勉学に励む者もいた。
智恵の花が盛んに開き、宗門の枝葉も茂るようになると、
一度参詣した者は悪を断って善の道に進もうと改心し、仏法に帰依して手を合わせたそうだ。

闢雲寺の後ろにある滝の音はまるで五時の説法の声のようで、滝の水を汲む人は心が洗われ、
金花山頭の松の風はいくつもの琴を爪弾いた調べのようで、聴く者の汚れた耳をすすいだ。
また乗福寺というのは、その昔、清拙和尚が来朝してからしばらくの間はあったものの、
このときの開山である鏡空主座が出世したときに、帰雲瑞気が門庭に霞み、
あっという間に異世界から優曇華の花の香りが漂ったという。
「昨夜周防千嶂の雪、独り見る乗福一峯青きことを」と称されたのも、この寺のことだそうだ。

宮野の妙喜寺は洛西の西芳寺を模して作られた。
島に見立てた池山が寄せ来る波に浮かぶ姿は、まるで君山春水のようで、
「大湖三万六千」と称えられた唐土のことまでもが、目の前に再現されているかのようだった。
流れに遊ぶ鴛鴦は、波に浮く靴のよう。
岸辺に咲く山吹が春の終わりを惜しむように色香を増す。
夏には涼しげな木々の葉に宿った白露が風もないのに零れ落ち、
それが水面にはねて、魚が遊んでいるかのようで、
水影も暗い芦原に潜んでいる虫たちは、月の出ない宵を知っているかのようだった。

塵さえもない庭の表には、植木の葉が生い茂り、
もみじを散らそうと吹き降ろす山風は疎まれた。
まるで絵に描かれたかのような冬山や、その後ろの雪の松、
香りのない花は色深く、月影のないさまも絶妙で、人々や墨客の目を喜ばせ、
思わず詩を口ずさまない者はなかった。

清水の春の晩、夕暮れの鐘の音とともに散る花は空に舞い上がって雪のように降り注ぎ、
木々の間を吹き抜けていく風も寒くはない。
祇園祭の山車、綾羅錦繍の装いは、夏山の緑に引き立ち、茜さす陽光が全てを紅に染めていく。
恵み深き神風は、伊勢の内外の瑞垣の長久を祈るためにあちらこちらへと移っていく。
願えばここもかく楽の、初瀬の寺の奥深く、朝な夕なに秋霧の、
古川野辺のその景色、杉の木の間によく似合う。
八幡の御山、多賀の神祠、そのほか洛中洛外にありとあらゆる寺社仏閣が、
一宇も残らず山口に移された。


以上、テキトー訳。つづーく!

いやー……形容やたとえが多い文章がこんなにつらいとは。
何も考えずに読む分には、きれいな表現が並ぶし、リズムは快調だし、言うことないんだが。
私程度のレベルで訳そうと思うと、なかなかね。
でも「継続は力なり」で、読み始めのころよりはまだましになってる、はず。

山口っていいところだったんだね。まるでこの世の極楽?
いやたぶん、今もいいところなんだろうが。
というか、日本各地ってわりといいところばっかりだよね。
私の故郷も、今住んでる町も、いいところだぜ!
岩国も通津もいいところだったぜ!!!

そういえば何となく読んでた書状集に、広家の歌が載ってて、
故郷の新庄を偲ぶ歌だったんだけど、
「梅よさくらよ 庭の遣り水」って下の句に泣きそうになったよ!
何度も見た、そしてこれからは見ることのない、
生まれ育った場所の風景が、広家の頭にはまざまざと蘇ってたんだろうなぁ。

てなわけで次回も続きだす。ちゃんと読めるかな……?
2013-04-12

おざなりな因果応報

昨夜は久々に歴クラ仲間と酒飲んでしゃべり倒してましたー!
くそー! 楽しかった!!!
最近twitterは、特定の話題が苦手になってしまい、TLを読むのが苦痛で、
フォローを外してみたりRTを非表示にしてみたりいろいろやってみたけどやっぱりダメで、
別アカウントで完全独り言を続けているので、ホント話ができたのは久々だった(*´∇`*)
楽しかったですお(*;ω;*) また飲みに行きたいな。

てなわけで陰徳記、これまでのあらすじ:
陶隆房は主君大内義隆と仲違いし、大友や毛利などを味方につけて、
ついに義隆を滅ぼした。
しかし、隆房と義隆が仲違いしたそもそもの原因は、
杉・青景による心ない讒言が生み出したものだった。

前回の章の続きと、その直後のひどく短い章をお送りしまうす。



陶入道、杉重矩を討つこと(下)

こうして陶は、防長豊筑の大内家の諸侍を膝元に引き据えたかのようにして、
しばらくは山口に滞在し、思いのままに国政を執り行っていた。
そこに、「義隆卿・武任のお二人が陶を滅ぼそうとしたというのは、まったくの虚説だ。
ただ杉・青景が武任を憎んでいたのだ」という噂が立った。
陶入道もこのことを気にしていた。

武任が山口を逃げ出す際に、「私は陶尾張守の身上を讒言したことはまったくありません」と
七枚の起請文を書いて龍福寺の玉堂和尚に預けており、
玉堂和尚が山口を逃げ出すときには、それは香積寺へと送られていた。
義隆卿もまた山口から逃げる際に、「私は陶に誅罰を加えるつもりはまったくない」ということを、
これも起請文にしたためており、それは世間の浮説を弁解した十三ヶ条からなっていた。

陶全薑はこの書を見ると、「なんということだ。
義隆卿にも武任にもまったく過ちはなかったというのに、
私は杉・青景の讒言を信じ、主君を殺してしまった。
口惜しくてならない」と思った。

そこに、粟田入道静意・右田左近将監をはじめとして、
「杉・青景の讒言だというのは紛れもありません」と、度々陶に訴える人が出てきた。
陶入道もひどく後悔して、「では讒言をした者を討ち取って、
冥土にいらっしゃる義隆卿へと、私には罪がないことを申さねば」と考えた。

天文二十一年正月中旬、陶は自分が大将となり、三千余騎を率いて、

杉もなかなかのつわものなので、「陶が攻めてきたら、一矢報いてから腹を切ってやろう」
と覚悟して、家之子郎党を集め鏃を磨いて待ちかけていた。
主君を讒した天罰があたったのか、これまでの武勇とは打って変わって臆病風に吹かれ、
陶が山口を出たと聞くと、取るものもとりあえず自分の宿所を逃げ出し、
長門の国まで逃げていった。

それまで付き従ってきた家之子郎党たちは、
「このような臆病者を主と仰ぎ、無駄死にをするよりは、
命を永らえて出家した方がまだましだ」と考えて、一人またひとりと離れていった。
杉が長門の厚狭郡へと着いたときには、たった七、八人にまで人数が減っていた。

杉は仕方なく長興寺へと逃げ込んで籠もったが、陶が逃がすまじと追いかけてくる。
杉は最後の一戦をすることもできず、腹を十文字に掻き切って死んだ。
若党二人も同様に自害した。陶は杉の首を取ると、すぐに山口の後ろ川原で獄門にかけた。

紹閑は夜闇にまぎれて堺へと逃げ上り、また青景は義隆卿の怨霊に悩まされたのか、
やがて心乱れて気が狂ってしまい、苦痛に苛まれたまま足掻いて死んだ(弘治二年討死)。
こうして杉・青景の有様を見るにつけても、
きっとこの次は陶入道が滅ぶ番だと思わぬ者はいなかった。


備後の国、志川滝山城没落のこと

備後の国、外郡の志川滝山の敵城を攻めることとなり、
天文二十一年七月、元就様父子四人はその表に打って出た。
どう二十三日、毛利・吉川・小早川三家の兵たちが一気に攻め上っていく。
城中にも屈強な兵が籠もっていたので、身命を捨てて防ぎ戦った。
吉田勢の坂新五左衛門・遠藤左京亮などが傷を負った。
吉川勢もそこで十九人が矢傷・鑓傷を負ったが、
手負いや死人を踏み越えて攻め入ったので、たちまち乗り崩して敵を討ち果たした。


以上、テキトー訳。

隆房「なんてことだ! 杉にだまされて主君をころしてしまった!!!(棒)」
てことで、なんともモニョる話になってしまったね……
この展開がなければ、多少はいい話だったかもしれないのに。

次の章は、いくらなんでも短すぎないか?
何も特筆すべきことがなかったのかな?
その代わり、次の章がだいぶ長いみたいだけど。

明日はお休みだからゆっくり読むか(*´∇`*)
気持ちを切り替えて、久々に手紙もちゃんと読みたいな。
イイ手紙があったんですよ……!!!
2013-04-10

悲劇の始まり、真の黒幕

だいたいの流れ:
陶隆房は、大内義隆が相良武任を重用して、
大内家譜代の重臣たちが軽んじられたことなどから義隆・武任らと仲違いし、
ついに挙兵して、義隆を大寧寺にて自害せしめた。
ちなみに毛利元就はさっくり陶側についたよ!

さてさて今回は、「実はこんな真相があったんだよ~」というお話。
いまさらそんなこと言われても!

微妙に長いので2回に分けるね!!!


陶入道、杉重矩を討つこと(上)

陶尾張守は近国では無双の勇将だったが、この人には生まれつき深謀遠慮がなく、
きわめて腹黒い男だった。
取るに足らない者の虚言であっても、聞くや否や怒り出してしまい、
人が弁解しようともまったく聞き入れることをしない。
それがいつもの態度で、これはもはや業病のようなものだったので、
根拠のない讒言を信じ、主君義隆卿を殺したばかりか、
自分自身も神罰仏罰を蒙って易々と討ち取られ、子孫も永遠に断絶して、
暴虐の名を先年の後まで残すことになった。浅ましいことである。

その話を紐解いてみると、相良遠江守はもともと才知や芸が人よりも優れていたために、
都督義隆卿は何でも相良の裁量に任せていた。
だから大内家の諸侍たちは皆相良武任の肥馬の塵を望むようになった。
相良自身には驕りはなくとも、杉をはじめとした大内家の重臣たちよりも権威が高まってしまった。

杉・青景たちはもともと賢者を妬み能吏をやっかんで、すぐに排斥したがる者だったので、
ましてや武任のような佞臣の権威が自分以上に高まったとなると、これを深く恨みに思った。
杉・青景らは、「今、当家の重臣のなかで相良を滅ぼせる者として、
陶尾張守以上の者はいない」と考え、
さまざまに相良のことを讒言して、陶に相良を殺させようとした。
このせいで、相良が滅びただけでなく、杉も滅び、陶も滅亡し、
大内家が永遠に断絶してしまった端緒なのだという。

杉・青景は、義隆卿に出仕して帰るときには必ず陶の館に足を運び、
「相良武任め、今日は屋形の御前で尾張守のことを讒言していましたぞ。
こんなことを言っておりました」などと、聞いてもいないことを口に任せて言うときもあった。
また「武任はこのような証拠のない罪を尾張守のことだとしてでっち上げ、
義隆卿の御前で申していました。
実に『虎狼も何ならず』と歌に詠まれたことも、今のようなことなのでしょう」などとも言った。

しかし陶ははじめのうち、「仰せはもっともですが、
養父の道麒入道は、『主君がたとえ主君らしくなくとも、
おまえは絶対に臣の道を固く守るように。
この入道が死んだら、念仏の一遍もいらない。僧の供養もいらない。
ただ、主君にお仕えして、ほんの少しの間も忠功の志を忘れるなよ』
といつも申されていました。

私としては、いかに武任が讒言したとしても、私はそれを問題にしたくありません。
ただ忠義と功名だけを心にかけることにします。
義隆卿も武任の讒言を信じて、私を滅ぼそうとするはずがありません。
主君は日々孔孟の道に心を傾けていらっしゃるから、政道も陽光のように明るいのです。
かえって讒言をする武任のことを、器が小さいと憎むことでしょう」と、
少しも杉・青景の虚言を信用しなかった。

杉伯耆守も青景越後守も打つ手がないかと思われたが、
義隆卿のそばから離れずにいつも近侍している堺の紹閑という数寄者がいたので、
まずは何となく親交を重ね、仲良くなると杉・青景らと兄弟の契約をして、
骨肉同胞のように昵懇になった。

その後杉・青景は、「それにしても、あなたは相良武任の驕慢ぶりを憎いとは思われぬか。
きっと当家を滅ぼすのは武任だと思うのだが、あなたはどう思う」と探りを入れる。
その茶の湯入道は、「私も実にそのように思っていたのですよ。
武任は自分の才智を鼻にかけ、また主君の御前をいいことに、
人を人とも思わずに、何でも好きなように振舞っています。
私のような者でさえ武任を憎いと思うのに、ましてや当家の重臣の皆様は、
さぞ憎々しくお思いでしょう」と答えた。

杉・青景はついに好機がやってきたと考えた。
「あなたは陶尾張守のところに行って、相良が主君の御前で尾張守を讒言していたと言ってほしい。
あなたは相良の讒言を聞いていないかもしれないが、我ら二人は何度もそれを聞いているのだ。
それに武任はいつも、こんなことも言っている。

『近年の出雲への出陣以来、軍役に金銀を費やし、
義隆卿の金庫が心もとなくなっているのですから、何事も倹約を心がけなくてはなりません。
そうしなければ、主君をはじめとして、
首陽山に登って蕨を採って暮らしたという伯夷・叔斉のようになってしまいます。
戦の役に立たない者は、皆召し放ってしまえばよろしいのです。
今のこのような乱世に不必要なものは、龍福寺の玉堂和尚、
堺の数寄ぶった古入道たち、昌休・宗養の弟子連歌師たち』などと指を折って数えだす始末だ。

きっとそのうちに武任は、自分の言うことなら何でも聞いてくれるからと思って、
義隆卿に何かにつけてこのことを讒言し、あなたを堺へ追い返そうとするだろうと思う。
当家に代々仕えてきた家之子郎党のことばかりか、
あなたのように出家して陸羽・盧同の道を慕う衆のことまで悪く思っているようだ。ひどいものだ。

武任が陶のことを讒言していると、我らから隆房に知らせたのだが、
運の尽きなのか、まったく聞き入れてもらえない。
あなたは陶とも茶の湯の師弟の契約をしているのだから、陶のためを考えてほしい。
それにたくさんいるあなたのお連れの衆のことも考えてくれ。何の遠慮がいるものか。

陶に対して、相良がこのような讒言を構えて、
他人を滅ぼそうとしていることをきちんと話して聞かせてほしい。
隆房は、人のためならば自分の頭脳や目玉を投げ出してでも救おうとする人だ。
きっと悪人を追い払って善人を取り立ててくれる。
これは当家譜代の諸侍のためになるばかりか、
ひいては義隆卿の御家が長く続くための礎となるのだ」と語った。

紹閑はもともと茶の湯の器の入手ばかりに心を傾け、
数寄者の名声を高めることに心血を注いでいたので、
杉・青景から金銀を山のように与えられたことを非常に喜んで、
後の難を顧みずに、すぐに陶の館に向かった。

隆房に取り次がれ、時候の挨拶も終わると、
「お人払いをしてください。少しお話したいことがあるのです」と言い出した。
陶はすぐに伽の者や小姓たちを遠ざけると、紹閑のすぐ近くにいざり寄り、「何事だ」と尋ねた。
紹閑はもともと杉・青景に言い含められたことを、二時ほどまことしやかに語った。

尾張守は、「たとえ本当に武任がそんなことを言ったとしても、
義隆卿はまさかお信じになるまい。しかし、さすがに人の心の奥は見抜けない。
主君は何と仰ったのだ」と問うた。

紹閑は、「義隆卿も武任の讒言を信じて、あなたを誅罰するとお定めになりました。
杉殿・青景殿も、このことを相談されたそうです。
あのお二人は、きっとあなたにお知らせしていないことでしょう。
ただ主君の命を守って、いかにあなたを滅ぼそうかと考えているはずです。
どうか絶対に、このことを世人に知らせて、私を承認だと仰ったりしないでください。
あなたとはこれまで数寄道の指定の契約をしていたからこそ、
自分の身の後難を顧みずにお知らせしたのですぞ」と言った。

陶尾張守は、「ふむ、杉や青景が言っていたことと符合している。
義隆卿が私より武任を重んじたとは口惜しい」と大いに腹を立て、
それから逆意を企て、ついに義隆・武任を討ち果たしたのだという。


以上、テキトー訳。続く。

ちょっとちょっとー! キャラがブレてんぞwww
こういうのを見るにつけ、その人の人格や行動原理なんかは、
当時のプロパガンダや経てきた時代に存在した倫理観、
人口に膾炙されてずいぶん変遷してきたんだなー、などと思いつつ。

今回の話が、陶が杉を討つ大義名分につながっていくんだね。
というわけで次回は、杉さんの最後になるね。
ネタバレは章タイトルで済んでるんだから書いても大丈夫だよねw

どうでもいいけどまたもやちょっとした旅行計画を立てているんですが、
何から手をつけたらいいのか皆目わからねえよ!
寝ろって話だなzzZ
2013-04-09

毛利家中のいざこざ?

前回までのあらすじ:
陶と大内の敵対が表面化すると、大内の傘下の国人たちは、どちらに属すかを迫られた。
毛利家は陶に一味すると決め、ご近所の平賀隆宗も同様だった。
しかし隆宗には義隆に押し付け……もとい、斡旋してもらった養子の隆保がおり、
この隆保は義隆の恩に報じるため、大内方となって養父らと敵対を決める。
隆保は西条槌山の菅田(大内方)らに合流し、籠城した。
すぐに元就から、隆元・元春を大将として、四千余騎が差し向けられた。
隆元は抜け駆け禁止の軍法を定めるも、元春配下の新庄勢が抜け駆けし、混戦となる。


安芸の国西条槌山城没落のこと(下)

寄せ手の粟屋・二宮なども数ヶ所傷を負い、城中でも菅田が討ち死にしたので、
互いに進むことができずに、引き分けとなった。
このとき、二宮杢助と山県杢助とは、鑓の一、二番を争った。
こうして粟屋・二宮らは抜群の働きをして数ヶ所の手傷を負ったが、
隆元様・元春様はいつもなら士卒の功を賞して、傷を負った者を涙ながらに撫でてくれるというのに、
今回は固く定めた軍法を破っているので、使者さえも送ってくれなかった。

その夜元春様は、隆元様へと、宮庄次郎三郎元正を遣わした。
「今回、手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これによって味方には九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。

しかし、一歩引いて愚案をめぐらしてみると、
今回は陶と一味してから、初めての合戦ということになります。
その証として一戦してもよかったのではないでしょうか。
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。

しかし隆元様は、「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、
許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春様もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

隆元様・元春様は、武永四郎兵衛尉を遣わして、元就様に戦の様子を報告させた。
元就様はすぐに武永に対面して、「くわしく様子を聞かせてくれ」と言った。
武永は、粟屋・二宮の鑓働きの様子や、そのほかの諸卒の働きを細々と語る。
元就様はすっかり上機嫌になって、「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。

元就様は愉快そうに笑って、「軍法を破ったことは不義の至りだが、
今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として、一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。

元春様への返事にも、「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ、神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」とあった。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んでからというもの、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
今回粟屋が鑓を合わせて、坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元様の近習頭だったので、旗本を離れることができず、
また抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就様の近習頭だったので、隆元様の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
療養のため寝込んでいるところへと案内も通さずに乗り込んでいった。
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。

その後、仕寄をつけて井楼を組み上げ、間断なく攻めていると、
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。

平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かって、
「私が打てと言うまでは打つな。
もし私の合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。
そのときになって私を恨むでない」と言った。

新四郎が客殿に出て座ると、大林も続いて出てきた。
隆保は刀を抜いて西に向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切った。
そのまま臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は菅田たちに向かって、「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。
どうすれば私は死なないでいられるだろう。硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言った。
すぐに硯と料紙が整えられた。

新四郎は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者はたちまち首を打ち落とした。

大林はこれを見て、「平賀殿の御自害はなんと立派だったことか。
私は年老いて腕も弱っているから、なかなか潔くはできないだろう」と言った。
そして腹を一文字に切り、「さあさあ」と言ったので、そこで首が打ち落とされた。
大内家の者たちは尾和をはじめとして、皆送り返された。
これを聞くと、天野民部は志和の城から下ってきて、元就様の手に属した。


以上、テキトー訳。

今回は気になることがいっぱいだったな。
粟屋・二宮が怪我したって何度書けば気が済むの? アピールしすぎwww 
まあ、この二宮の覚書が「陰徳記」の母体の一つになってるから仕方ないけどw
しかし、隆元・元春は負傷者に対して涙を流して撫でてくれるんです!?!?
うおおおお聞き捨てならねえ! ちょっと私も毛利家か吉川家に仕官してくるわ!

あと、元春から隆元にお使いに出された宮庄元正!
もともとの宮庄家当主は興経に肩入れして粛清されてるんだけど、
その跡に入れられた、福原さんちの人ですね! 元亀四年に亡くなっているらしい。
その宮庄家に次に入れられたのが、我らが広家(当時経言)ってことで。
ちなみに経言が「宮庄は分限少ないから小笠原に婿養子に入るわw」ってなった後は、
熊谷さんちの春真さんが宮庄家を継ぎました。翻弄されまくり><

そんでもって、隆元に部下たちの不始末を赦免してほしいと懇願する元春おいちい。
強硬に許さない隆元も新鮮で楽しい。
そしてメタ次元から介入する元就まじ元就><
このやり方は、現場の大将の決定権が甘く見られることになるので、
あんまりよろしくないんじゃないかと思う。
隆元かわいそうじゃねえか。おかげで二宮たちは助かったわけだけどさ。

まだあるよ! 坂と粟屋の意地の張り合い逸話が可愛いよね!
これを収めた坂のスマートなことといったら。くそう、いい男だな。
張り合ってたライバルにつきっきりで看病なんかされたら、クラクラきちゃうじゃない//><//
そのまま愛が芽生えてしまえ!

たぶん最後。隆保の切腹が壮絶すぎて私は。
自分で自分のモツを切り刻むだと!? お料理教室じゃねえよ!?
そのうえ普段と変わらない筆跡で歌を詠むだと!?!?
臓物を天井に投げつけた隆豊さんもどうかと思ったけど、
これはもう人間じゃないよ!?
戦国時代の人々はおっそろしいなぁ(棒)

というわけで次章、また山口のお話になるようです。
2013-04-08

隆元と軍法と新庄勢

だいたいの流れ:
大内義隆と陶隆房が仲違いし、隆房が義隆を滅ぼすために山口に攻め寄せた。
義隆はギリギリまで陶との和睦を願って果たせなかったため、
海を渡って再起を図ろうとしたが、悪天候に海路をはばまれてしまう。
義隆、そして付き従ってきた冷泉隆豊らは大寧寺に露と消え、
明日に託した若者たち、大内義隆の子息新介・三条中将らも、
翌日には捕らえられて殺されてしまった。

さて今回は、大内と陶から秋波を送られながら、あえて陶に与した毛利家の動きだよ!


安芸の国西条槌山城没落のこと(上)

安芸の国の西条槌山の城には、天野・平賀によって、
菅田越中守宣真・嫡子三郎左衛門尉宣種・大林和泉守・尾和備後守・材間の入道をはじめとして、
主立った兵たちが籠められていた。
そこに平賀新四郎隆保が三百余騎で馳せ加わり、無二の大内方として死を一筋に思い定め、
敵が攻め寄せてきたら一戦して快く死のうと待ちかけていた。

天文二十年七月八日、元就様は自身は吉田にいながらにして、
嫡男の備中守隆元様・次男の吉川治部少輔元春様を大将として、
福原・桂・志道・児玉・粟屋・井上・赤川・口羽らを差し向けた。
そのほか国人衆としては、熊谷・天野・香川・飯田・入江・石見出羽などをはじめとして
多くの者が馳せ加わり、総勢四千余騎で槌山表へと攻め寄せる。
同十一日には、その城を取り囲んだ。

隆元様は諸軍士に向かい、
「もし抜け駆けをした者があれば、たとえ抜群の働きをしようとも、皆刑罰に処す」と、
固く制法を出した。
吉田勢はこの法をしっかり守り、抜け駆けをする者は一人もいなかった。

しかし新庄の血気にはやる若者たちはこっそりと抜け出して敵城の切岸を上り、矢戦を始めてしまう。
しばらくすると敵が大勢出てきて散々に矢を射掛けてきたので、
新庄勢には怪我人が続出し、寄せ手は劣勢になった。
隆元様は坂新五左衛門を遣わし、元春様へと、
「お前の手勢が軍法を破って合戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と言って、もってのほかに激怒した。
元春様は味方に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

元春様は陶から贈られた近江黒という名馬にまたがり、矢戦を見物していた。
近江黒があまりに逸るので、二宮杢助(俊実)に口を押さえさせていた。
元春様が二宮に、「お前が行って味方を引き上げさせて来い」と下知すると、
杢助は「かしこまりました」と言って、鑓を持たせた小者を一人連れて駆けつけていく。
そこに、出羽元実の手の者で、安国紀伊守とばったりと行き会った。
安国は六十人ほど人数を連れていた。

安国は、「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけてまいりましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利をつけるよりはと考えて、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。

二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。

吉田勢も、楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・
桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
この楢崎は備後の楢崎の手の者だったが、武勇にすこぶる秀でていたので、
元就様が召し出して多くの知行を与えていた。

市允は前々から「元就様は私の武勇の誉れをお聞きになって召し出してくださった。
生きている間の名誉として、これほどすばらしいものはない。
しかし楢崎の数百人の勢のなかにいてこそ、
この市允は諸人より武勇が抜きん出ているといわれてきたのだ。
元就様のお手勢に属したなら、人並みともいえないかも知れない。
小さな勇を誇っていては、私は遼東の猪(取るに足らないものを誇る愚か者のこと)になってしまう。
なかなか先陣を預けていただけることはないだろう。
ただ討ち死にして元就様の厚恩に報謝し、私のこれまでの武名も廃らないようにしたいものだ」
と言っていた。

楢崎のこれまでの十三回の高名のうち七回は、
太刀で鑓のなかに突っ込んでいって勝利を得たというものだった。
今回も菅田三郎左衛門が粟屋・二宮と鑓を合わせているときに、
楢崎は楯一枚を軽々と提げ、右手に太刀を持って素早く走りかかっていった。
敵が鑓を突く隙に打ちかかったのだが、そこに敵の放った矢が脇壺をズンと射抜く。
楢崎がうつ伏せにドウと倒れると、波多野源兵衛尉が楢崎を肩に担ぎ上げて、
味方の陣の方へと引いていった。

こうしたところに、左の岸陰から、吉川衆の山県杢助・粟屋伯耆守・
朝枝藤兵衛尉などが同時に攻め上ってきて、散々に戦う。
菅田越中守は城戸を出て尾崎に仁王立ちになると、
両方へと勢を分けて出し、戦の下知をしていた。

そのうち粟屋・二宮も数ヶ所に手傷を負って危機感を覚え始めた。
すると佐々木弥七郎・高弥三郎・武永四郎兵衛尉などが鑓勢の脇から矢を射掛け、
エイエイと声を上げて攻め上ってくる。
二宮杢助はこめかみの脇をしたたかに突かれて眩暈がしたので、
少し息を整えようと、楯を引き寄せて一、二間ほど下がって後ろを振り返る。

すると、粟屋弥七郎が少しも引かずに、なおも進んで戦っていた。
二宮はこれを見て取って返し、鑓を入れる。
そのときどちらの矢なのかはわからないが、菅田三郎左衛門の兜の内を、後ろまで矢が貫いた。
さしもの鬼神のように見えた菅田も、矢場にガバッと倒れ伏す。
寄せ手はこれに勇気を得て、菅田の首を取ろうと競り上がり、勇気をふるって攻め戦った。

しかし平賀・天野の手の者には、名高い勇士が多数いる。
とりわけ、平賀の郎党の林与次・大田和与次という有名なつわものがいた。
彼らが進み出て緩急自在に散々に射立ててきたので、菅田の首は討ち取るとこができなかった。


以上、テキトー訳。続く。

激怒する隆元……新鮮(*´∇`*)
いや、なんかどうしてもウジウジしたイメージが脳内にね。
逸話のせいもあるけど、主に隆元が遺した書き物で印象に残ってるのが、
家臣たちの振る舞いを細かくチェックした閻魔帳みたいなやつでさ。
こうして、隆元がしっかりと当主らしく采配を振るっている話を読むと、
なかなかに新しい刺激をもらえますな。
元春も意外に大人しくお兄ちゃんの言うこと聞いてるしね(*´∇`*)ハァン

たぶん、隆元と隆景の方が注目されどころは多いんだろうし、
私も最初の方は、ここんちの長男と三男のやり取りに注目してたんだけども、
今は元春というか吉川中心の萌えになってしまっているので、
今回のようなツーショットは大歓喜です!!!

ちなみに史実だと、元春が隆元に「小太刀くれてありがとう」とか、
「連絡しなかったのは異議がないからなんですよ」とか、可愛い手紙を送っているので、
また書状群も読みたいな!
隆景の書状では、元氏(元春次男)に送られた書状がなかなか興味深そう。
内容はよくわからないけど、こんこんと説教してるのは伝わってくるというお手紙w
いつかちゃんと読めるようになりたい!>皿<

あとあと、今回の話も吉川衆が毎度のごとく吉川衆で、
軍法無視して抜け駆けばっかりしてるので、可愛くてしょうがない!
ただ元春は兄ちゃんの軍法に背くことになるので、胃が痛いだろうなw
カワウソ食え!!!
てなわけで、次回も続き。
2013-04-07

そして遺された者たち

えー、昨日は老骨に鞭打って怪しい天気の下で運動してたうえ、
ついついのせられて深酒をしたため沈んでました_ノ乙(.ン、)_
酒と女は2ゴウまでとはよく言ったもんだぜ。
でもまだ即日~翌日に筋肉痛が来るから、ちょっと自慢!
しかし筋肉痛が持病に影響するのはどうにかしてほしい。

さてさて陰徳記、だいたいの流れ:
ついに陶隆房が大内義隆を追い詰め、義隆は船で逃げようとするも悪天候のために断念し、
大寧寺で自害する。
それまで付き従ってきた冷泉隆豊らも義隆の自害を見届けて寺ごと遺骸を燃やし尽くすと、
寄せ手と散々に戦って、あるいは自害し、または討ち死にした。
とりわけ、冷泉隆豊の最期は立派だった。

今回は、最後に義隆が大寧寺の異雪和尚に頼んで逃がそうとした人々のお話。


三位中将殿・大内新介最後のこと

二条の尹房公の御曹司である三位中将殿・大内新介・持明院一忍軒・小幡四郎らは、
異雪和尚とともに後ろの山に分け入っていたが、兵たちが追いかけてきて、
とある岩陰にいたところを探し出されてしまった。

兵がすぐに討とうとすると、異雪和尚は兵に向かって、
「ああこれ、急いで事を仕損じるな。
私が隆房と深く師弟の契約をしていることは、世のすべての人が知っている。
だから義隆卿は、理を曲げてこの愚僧に新介殿をお預けになり、
出家させるようにと、昨日の夕方におっしゃったのだ。
また、三位中将殿は陶の敵ではないのだから、討つ理由がない。
もうしばらく待ってくれ」と言った。

すると新介が「義隆はどうなったのですか。どちらに行かれたのです」と問う。
追っ手の者たちは、「昨日、大寧寺で御自害されました」と答えた。
新介は、「もしかしたら父御前も落ち延びていらっしゃるかもしれないと思ったからこそ、
ここまで逃げてきたのです。
義隆が自害なさったのなら、陶がそれを許したとしても、私が生きる意味はありません。
たとえ僧になったとしても、人々に、
『これが大内の子だ、義隆の嫡子だ、父が討たれたというのに落ち延びて露のような命を拾い、
身の置き所がないから出家したのだ』などと言われては、みっともないと思います。
我が身の恥となるばかりか、先祖二十四代の名折れです。

昨日大寧寺で、私も死ぬと申しました。
天野藤内と岡辺右衛門にこっそり打ち明けたところ、彼らは
『義隆も自害したということにして、寺に火をかけ、後ろの山に分け入っていただき、
落ち延びていただくことになっています。
幼い人々を連れていなければ、昨日門司の関を越えられたでしょうに、
二人の若者が不憫で思うように道を進めず、急げなかったのです。
だからこれからは、二手に分かれて逃げるのですよ』と言ったのです。

私もそれを信じて逃げてきましたが、口惜しいことです。
親子なら、一緒に死ぬべきだったのに」と、涙を流して言った。
「もう陶の返事を待つまでもない。今ここで自害しよう。
私の首を取って陶に見せれば、勧賞してもらえるだろう。だ
からおまえたちに頼みたいことがある。私の母上はまだ山口近辺にいらっしゃるだろう。
これを最後の形見として渡してほしい」
新介は自分の髪を少し押し切ると、身に着けていた守り袋に入れて渡した。

その後、三位中将殿に向かって、「あなたは何も恐れることはないでしょう。
陶に言って、都にお帰りなさいませ。
隆房は私のことを逃がさないでしょうから、私はここで自害いたします。
これまで仲良くしてくださったことは、来世までも忘れません」と言った。
新介はすぐに小幡四郎を呼び、「私の首を打て」と差し伸べた。
小幡四郎は「かしこまりました」と肌脱ぎになると、新介の首をためらいもなく打ち落とし、
返す刀で自分の腹を切り破って死んだ。
新介は十二歳、小幡四郎は十五歳だったという。

鳳の子は鳳だという。
武士の家に生まれた者は、幼いとはいっても死ぬべきところで間違いなく死ぬ。
あわれなことであった。
このような歳でさえこれほどの振る舞いをしたのだから、
成長した暁には新介は良将の名を得て、小幡は良臣の誉れを得られただろうにと、
人々は皆涙で袂を濡らした。

三位中将殿も自害しようとしたが、そこを押さえられて討たれてしまった。
一忍軒はそこから逃げ出そうとしたため、
兵たちは一忍軒を取り押さえて首を打ち、頭を石の上に転がした。
兵たちは「流れに枕し石にくちすすぐ、という言葉がありますが、
石の枕は冷たくて、さぞ寝心地がよいでしょうな。
あなたの口はずいぶん悪くて、いつも人のことばかり義隆卿に悪し様に言い募っていらした。
その報いを今思い知ったことでしょう」と言って、
死骸の胸の辺りをしたたかに踏みつけて通っていった。

さて、豊筑の地で義隆に味方していた者たちにも、すぐさま討手が差し向けられた。
杉豊後守興運・太宰少弐興連・子息の弾正忠隆景は、
若杉山に籠もって「一矢報いてから死のう」と呼ばわったが
、国人たちは皆心変わりしてしまったので、
しかたなく若杉山から逃げ出して、津屋の村で討たれてしまった。
小幡山城守は、津和野の吉見正頼を頼って逃げていったが、
陶の兵たちが追いかけてきたので、木賊原で自害して死んだ。
そのほか龍崎加賀守・城井入道・野中何某なども皆討ち取られた。

相良遠江守は、自分の居城の東関山に引き籠もって一戦しようと思っていたが、
三隈の水無山にいた波多野をはじめとして、多くの者が陶に一味してしまったので、
居城に入ることもできず、また津和野に留まることもできずに、筑前の国へと逃げ下った。
そこで花尾の城に立て籠もり、陶が攻め寄せてきたら一戦して死んでやろうと考え、待ちかけていた。

陶尾張守はすぐに野上隠岐守房忠に三百余騎を添えて筑前へと差し下した。
立花・宗像といった人々もこれに従って、総勢三千余騎で花尾の城へと攻め寄せる。
相良は家之子郎党たちが皆このことを聞いて逃げ出してしまったので、
一矢報いることもできずに、やがて腹を掻き切って死んだ。
野上が武任の首を取って山口に送ると、陶は首実検を行って
「積年の鬱憤を晴らしたぞ」と、上機嫌になった。

こうなると、防長豊筑の四ヶ国は、完全に陶の下知に従うようになった。
横紙を裂くほどの隆房も、さすがに主君を討ち果たしたことで天の冥罰が恐ろしくなったのか、
実名を改めて「晴賢」と名乗り、頭を剃り上げて、法名を全薑と号した。
薑(はじかみ)は西に伸びる植物なので、薑の字をつけたのだという。
これは平相国清盛が入道したときと同じだと思わない者はいなかった。


以上、テキトー訳。

幼い子らまで皆殺し……いや、非情なんだけど、仕方ないね。
成長して挙兵しないって確約はないし、平清盛も見逃した子供(源頼朝)に
転覆させられてるからな。
三位中将はとばっちりだけど、生かしといても特に利益にならないなら、
不安の芽は摘むに越したことはないわけで。

新介は、小さいのにしっかりしてるな。12歳だってよ。
うぃきぺさん情報だと7歳なんだぜ、このとき。
7歳ではさすがにこの物言いはできないから、12歳設定で読んだよ。
まあ、12歳くらいになれば、一通り論理立てたしゃべり方ができるようになってくるよね。
そして側に仕えてる小幡四郎が15歳か。
12歳の主君を介錯して、自分も腹を切って死んでしまうとは。立派だったね。
小幡氏は、一族の女が元就の側室に入ってるね。子供はいなかったようだけど。

そんでもってある程度落ち着くと名を改めて出家する隆房さん……
薑ってのは、つまりショウガのことだよね。
しばらくショウガ食べるときには隆房のこと思い出しそうだわ。
好きなんですよ、ショウガ。
なんて、どうでもいい話は置いといて。

次章は隆元と元春が出てくるよー!
2013-04-05

露のように、雷のように

さて昨日は深夜帰りですぐ寝てしまったけど、
どうにか一週間終わったぞ!

陰徳記、だいたいの流れ:
主君の大内義隆を討つと決心した陶隆房に同心する者は多く、
義隆はそれまで暮らしていた山口の築山を逃れ、九州に逃れるつもりでいた。
しかし警固に当たる冷泉隆豊らとも息が合わず、慣れ親しんだ近臣も次々と逃げ出してゆく。
どうにか船に乗るも、折からの悪風で進むことができずに、
自害を決心して陸に漕ぎ戻った。

ついによったかさま、最後のときがやってまいりました。


義隆卿の自害、並びに大寧寺炎焼のこと

義隆卿は主従十三人で瀬戸山崎へ船を漕ぎ戻し、陸に上がると、
道場原の一本松を心細げに打ちながめ、白潟港などというところを過ぎ、深川の称名の市を通った。
するともう鷲津の一族が早くも追いついてくる。

義隆卿は雨のように矢が放たれるのを見て、
「流れ矢に当たって死ぬよりは、引き返して討ち死にしよう」と、馬の頭を引き返させた。
すると、鷲津の者たちはさすがに代々仕えてきた主君だからなのか、
皆バラバラと地に這いつくばって頭を垂れ、かしこまった。
義隆がまた背を向けると、それを追いかける。
二、三度そんなことを繰り返しているうちに、ほどなく大寧寺へと入ることができた。

大寧寺では異雪和尚がすぐに出てきて、
「それにしても定めなき世のためし、盛者必衰の習いとは申しながら、
今このようなご様子を拝見するとは、夢とも思えず現実とも感じらせません」と涙を流した。
義隆卿は、「私の武運は尽き果ててしまった。
家人の陶によってこのような身に追いやられるとは、口惜しいことだ。
こうなっては、今生の心残りもない。
ただ来世こそは、よいところに至りたいものだ。

まずこれまで同道してくれた、二条の関白殿の御若君である三位の中将殿・
持明院入道一忍軒・我が愚息の新介のことを、よろしく頼みたい。
どこかの岩陰、木の陰へと隠しておいて、はかない命を助けてほしい。
二条殿・一忍軒は折を見て京都にお帰しし、またあの新介のことは僧にでもさせて、
私の後世を弔わせてくれ。
一人の子が出家すれば、その一族縁者は皆天に生まれることができると聞くから、
未来永劫の苦しみを逃れて、都卒店に生を受けられるだろう」と言った。

異雪和尚は、「その三人のことはご安心ください。
私が預かって筑紫の方までお供いたし、はかないお命をお助けいたします。
最後の一念によっては悪い道に落ちるものです。
しかし、即身即仏の契りをなされば、三塗地獄に入ってもまるで物見遊山をしているようなもので、
餓鬼畜生地獄に入っても責め苦を味わうことはないといいます。
外に向かって仏を求めるべきではなく、もし仏を求めれば仏を魔に摂らせられ、
もし祖を求めれば祖を魔に縛せられ、
森羅万象虫けらに至るまで、仏性を備えていないものはないのです。
ましてや人間に仏性がないはずがありません。間違いなく成仏解脱できますよ」と言った。
義隆卿が三拝して、「どうか道号を授けてほしい」と言うと、和尚はすぐに「瑞雲珠天」と名づけた。

和尚が湯漬けを出してくれたので、皆でそれを食べているとき、冷泉判官が箸を取り直した。
「これまで再三諫言をしてきましたのに、お聞き入れくださらなかったから、
今こうして逆臣によって国を追われ、身を滅ぼそうとしているのです。悔しくてなりません。
あのときお許しをいただいて、隆房と刺し違えていれば、
聖琳太子から二十四代も続いた大内家が断絶することはなかったでしょうに」と、
涙を流して歯噛みをした。

天野藤内はカラカラと笑って、「運が尽きると、さしもの勇士も心を乱して、
どうしようもないことを言い出すものです。
義隆卿の世であるからこそ、日ごろ申し上げてきた意見をお聞き入れくださらなかった、
などと責め立てることができて、今後の御名のためにすることができるのではないですか。

もうこれが最後だというのに、主君の不足を申し立て、戻ってこない月日を悔やんでも、
それは意味のない愚痴でしかありません。
今は、敵が攻めてきたら皆潔く討ち死にすることだけを考えていればいいのです。
ほかに何を思うというのです。冷泉殿ともあろうお方の仰せとは思えません」と言った。

隆豊は、「実に無様なことを申しました。若い人々の前だというのに恥ずかしい。
先ほど、最後の一念によっては永遠に六道四生を流転すると聞きました。
私も最後の一念で修羅道に生を受けようと思います。
そして八万四千の眷族を引き連れて陶の首を取りに行き、
近ければ三年、遅くなっても七年のうちには獄門に晒してやります。
もし陶が七年以上生きたならば、隆豊の亡霊はいなくなったのだと思ってください。
ああ、伍子胥の例にならって、両目をくりぬいて敵城の東門に掛けておいてほしい。
その目で陶の週末を見届けたいのです」と言った。
その、目をカッと見開いて歯を食いしばる様子は、修羅の三目もこのようなものかと思われて、
それは恐ろしげだったそうだ。

こうしたところに敵が大勢大門のところに攻め寄せてきて、ドッと鬨の声を上げた。
冷泉判官はすっと立ち上がると、大弓と大矢を携えて門外に立ち向かう。
「今ここに攻めてきているのは、陶・杉・内藤か」と問うと、
敵は「いや、杉・内藤の若党でございます」と答える。

冷泉判官は「これから義隆卿がお腹を召されるところである。
逆意を構えたからといって、このようなときに狼藉はするな。
しばらくそこに控えて、雑兵たちを抑えていろ。
家人とは、悪逆非道であっても主人を真似るものなのだから、
これから蒙る天罰さえも省みず、主君の御自害を妨げようとするかもしれない。
この隆豊の弓の腕前はよく知っているだろう。
矢種が続く限り、太刀の刃が堪える限りは、私が相手をしてこの門の中には入れないぞ。
一言の返答しだいによっては、矢を放ちかけてやる」と言った。

寄せ手はこの返答に迷ったのか、しばらくは何も言わずに誰かが口を開くのを待っていたが、
六十歳ほどに見える男が進み出てきた。
「冷泉殿の仰せはもっとも至極でございます。
たとえ自分自身の遺恨が積もり積もったために逆賊に一味したのだとしても、
まさしく先祖代々仕えてきた主君の御自害を妨げることなどありましょうか。
お心静かにお腹をお召しください。それまでは私が警固をいたしましょう」と男が言う。

冷泉が、「よくぞ申した。名を聞こう」と問うと、男は、
「これなるは、先年奸人の讒言のせいで刑罰に処せられた鷲津の一族でございます。
御勘気を蒙った身として、何の面目があって名を名乗れましょう。
雑兵たちが乱れ入ってこないうちに、どうかはやく御自害なさってください」と言った。
隆豊は、「それでは鷲津殿、よろしくお頼みいたします」と言って急いで立ち帰った。
そしてこのことを義隆に伝え、「自害なさってください」と促した。

義隆卿は仏前に向かって焼香を三拝してから、腹を一文字に掻き切る。
冷泉判官は、「ああ、ついに御自害なさったか」と言うや否やその首を打ち落とし、
そのまま障子や畳などを重ねて、香の火をカッと吹きつけた。
異雪和尚は、自分は若君たちを連れて後ろの山に隠れていたが、
代わりに死骸を供養するようにと、同じ寺の僧を一人残し置いていた。
この僧は義隆卿の側近くに使えていた者の子だったので、涙を押さえているばかりだった。
冷泉判官が、「これまで見届けてくれたことは、重ね重ねありがたい。
もうこれまでだ。早くお逃げなさい」と促すと、この僧も仕方なく深い山へと隠れていった。

そのうちに火が燃え広がっていくと、智翁和尚を開基として、
仏殿や山門、庫裏や方丈、草堂法堂にいたるまで、
鷲津弘忠が家宝家財をなげうって華麗に作り上げた大伽藍も、
兵火によって一宇も残らず焦土となってしまった。悲しいことである。

冷泉隆豊らは、棟木が焼け落ちるまでは義隆卿の死骸を守っていたが、
もはや敵が乱れ入ってきたとしても火の向こうにある義隆卿の首を取ることができないと確信すると、
すぐに走り出て経蔵へ上り、寄せ来る敵を待ち受けた。
敵がこれを見て、自分こそが討ち取ってやろうと乱れ入ってきたところに、
隆豊は真っ先に進んできた兵を射伏せた。

これをはじめとして、散々に矢を射っているうちに、数人を射殺した。
そうなれば近づく者もなく、この間に、長く続いた大寧寺の建物や義隆卿の遺骸は、
一片の煙となって消えてゆく。
隆豊はそれを見て一首の歌を詠み、小指の血で一切経の表紙に書き付けた。

「見よや立つ煙も雲も半天に誘引いし風の音も残らず」

こんな歌を詠んでいる場合でもあるまいに、日ごろ慣れ親しんだ道でもあり、
また黄門定家卿の末裔だからなのか、このような状況でも歌を口ずさむ心立ては、
ずいぶんと優雅なものであった。
武道にも歌道にも優れ、千人の英、万人の雄とも呼ばれるべき人だったと、
さしもの横紙を裂く陶隆房も鎧の袖を濡らしたという。

義隆卿をはじめとして、皆時世の詩歌があったのだが、煙となってしまったのか、
後世に伝わっているものはない。

さて、冷泉たちの矢種が尽きると、寄せ手が間近に攻め寄ってきた。
冷泉判官隆豊・天野藤内隆良・黒川近江守隆像・岡部右衛門隆景・禰宜民部丞右延・
大田隠岐守隆通・岡屋左衛門隆秀などは、思い思いに切って出て、火花を散らして攻め戦った。
隆豊は名高い大力量だったので、太刀をまっすぐにかざして、向かってくる敵を二人切り伏せた。
右延も敵の突く鑓を払いのけて切り伏せ、多くの手傷を負いながらも、
ついにその場でぼろぼろになって死んだ。
そのほかの者たちも、いずれも劣らぬ勇士だったので、皆向かってくる敵をよく討ち取った。

冷泉は味方が皆討たれてしまったのを見ると、
「もうこれまでだ。敵の手にはかかるまい」と、経堂の中へ走り入って腹を十文字に切り破った。
そして自分の臓腑を掴み出して天井に投げつけ、自ら喉を描き切って死んだ。
今でもその経堂には、隆豊が臓腑を打ちつけたところだという血の跡が残っている。

こうして天文二十年九月一日、いったいどんな日だったのか、
大内家はこれで断絶し、琳聖太子の末裔も根を絶ち葉を枯らしてしまった。
哀れなことである。


以上、テキトー訳。

ああ、ああ、ああ。なんていう。
ついに死んでしまったか。義隆も隆豊も。
なんだか胸がいっぱい。

お小言の連続でちょっと辟易してた隆豊さん。好きだったよ。
最後もかっこよかったね。
最後の晩餐のときにまで嫌味言うこともないだろって思ったけど、
人間らしくてなんだかいいなぁ。
向かってくる敵を射伏せ切り伏せて、割腹し、腸を天井に投げつけるとかは、
だいぶ人間離れしてるけれども。
あと、戦いながら血で歌を書き付けるとかね。なにやってんですかもう><

義隆は、どんな気持ちで旅立ったのか。
隆豊は、どんな気持ちで介錯したのか。どんな気持ちで主君の遺骸が燃えるのを見守ったのか。
この死の瞬間に、すごいきらめきが凝縮されてるような感じがして、
少し雰囲気に当てられてしまった。
酒も飲んでないのに酔っ払うとは……

少しびっくりしたのは、義隆をはじめ「辞世の句が残されていない」ってとこ。
そういえば、だいぶ前に読んだ、陶隆房の最後にも、辞世の句は登場しなかったな。
義隆のもの、隆房のものとして伝わってる歌は、
いつごろどのように伝達されたのかってのにも興味がわいてきました。
歌といえば、吉川経家の辞世も、なんか真贋があるらしいので、いつかそれも調べたい。

とりあえず今夜は、物語に酔ったついでに、少し酒かっくらって寝るぞー!
明日は悪天候の中で運動しなきゃならんかも知れんので_ノ乙(.ン、)_
お願いします中止にしてください(´;ω;`)
雨天決行は承知してるけど嵐の中でやるべきじゃないと思うの。
2013-04-03

最後の賭け

だいたいの流れ:
いよいよ陶隆房が大内義隆を討ち果たしにやってくるとなって、騒然とする山口。
大内家の家臣たちも大方が陶に同心してしまった。
義隆はギリギリまで和睦を望んだもののかなわず、
妻と別れ築山の館を出て、法泉寺へと落ち延びる。
しかし義隆を警護するために集まった冷泉隆豊らとは足並みそろわず、
掻き集めた兵も大半が逃げ散り、これまで目をかけてきた側衆までもが、
一人、また一人と逃げ出していくのだった_ノ乙(.ン、)_

ちょっと折れそうな心にズキンとくるな、この展開。


義隆卿難風に遭い給うこと、並びに公家衆最後のこと

義隆卿は法泉寺を出ると、糸伊根・朝倉・大坂を越え、八小路の谷を足に任せて進んでいった。
三位中将殿・新介殿は、日ごろはちょっとした遊びに出るにしても輿や車を使っていたので、
いつもはたった百歩すら自分の足で歩くことはなかったというのに、
今はきこりさえ辟易するような深い山道を、徒歩で踏み迷っている。
足から流れ出る血で落ち葉が真っ赤に染まり、まるで紅葉を踏んでいるようだった。

秋の半ばも過ぎているので、露が落ちてきたかと思えば通り雨が降り、
落ちる涙と争うように、袂が乾く暇もない。
峰の木の間から見える白雲を見ては敵の旗かと肝を潰し、
深い谷に隠れている猿の声を聞けば追っ手の声かと震え上がる。
涙ばかりが溢れてきて、道もはっきりと見分けられない。
あちこちで一休みしたり転んだりと、満足に歩けない様子だった。

このままでは敵に追いつかれてしまうと考えた岡辺右衛門尉は、
綾木というところで小荷駄の馬を二頭奪い取り、二人の若者を乗せた。
下山田というところを過ぎて、長門の国の岩永の即心庵という寺へ入り、
食事を整えたが、若者たちは不安と疲れで胸がいっぱいなのか、まったく手をつけない。

正午になるとこの寺を出て、カマ・岩渕・秋好などというところを通って
深川の大寧寺を左に見ながら、大津の三隅の松を過ぎ、
通嶋の後根壱岐守という船頭を頼って落ちて行った。

その壱岐守は若狭へ行っていて留守だったので、
仕方なくその浦の人々に「船を提供してほしい」と頼んだ。
しかし落人だとわかっていて船を出す者などいなかった。
義隆卿が「まったくどうしたらいいのか」と呆然と立っていると、
後根壱岐守の家人たちが、
「先祖代々仕えてきた主君がこのような有様になっているのを見ながら、
船を貸さないことなどできない。
明日は陶によって罪科に問われようとも、かまうものか」と、小船を一艘貸してくれた。
義隆卿一行はそれに乗って、二、三里ほど漕ぎ出した。

この場所(仙崎)は、海上が広々としていて島影もなく、入日の光は波に沈む。
その向こうは唐土だという。
いつも潮の流れが速く船路としては危険なところだったが、
義隆の運が尽きたのか、にわかに空が掻き曇ってきた。
矢よりも鋭い突風が北から吹きつけて、波濤は天まで翻り、
すぐにでも船が転覆してしまいそうになる。

義隆は、「皆はどのように思っている。
大内ほどの者が、運が尽きて家人に国を追い出され、
矢の一つさえ交わさずに逃げ出したのは、末代までの恥になる。
今となっては、法泉寺で死ねばよかったと千度万度悔いても、まったく意味がない。
そのうえ、船に乗って逃げようとして、海底の水屑となったと言われては、
その悪名は泥の上に土を塗りたくるようなものだ。

さあ、ここから船を漕ぎ戻して、出てきた浜辺に戻り、
追っ手が近づいてきたら、一矢報いて戦死しよう。
もし敵がまだ近づいていなければ、深川の大寧寺へ行って、そこで自害しようと思う。
あの寺は石屋和尚を開山として、清浄な結界が張られている聖域だ。
死骸を仏法繁栄の地に埋めれば、きっと修羅道の苦患を逃れることもできよう」と言った。
供奉していた者たちもこれに賛同し、心細い様子でもとの地に漕ぎ戻っていった。

昔、九郎太夫判官義経が頼朝と仲違いをしたとき、九州の方へ落ち延びようと、
渡辺神崎から船に乗ったものの、平家の怨霊が海上に現れ出て、
たちまち猛風荒波が船を転覆させようとした。
義経はしかたなくもとの港へ漕ぎ帰り、吉野山に分け入ったそうだ。
そのときの様子もこのようだったのかと偲ばれて、哀れなものだった。

三条殿は義隆卿が深川の方へと行ったと聞くと、その後を着いていこうとしたが、
途中で一揆勢に打ち殺されてしまった。
各務は湯田の縄手で、陶安房守隆満の手勢に討ち取られた。

二条の左大臣尹房公は、法泉寺を迷い出ると、深い谷をのぼって山を越え、
神明山の後覚雄寺という寺へ入ったが、
そこで杉勘解由判官の手の者と行き会って、刀や脇差を奪い取られた。
それから「お腹を召されよ」と勧められたものの、尹房公は、
「私は武士ではない。陶も私に対して恨みはないだろう。なぜ自害しなければならないのだ。
内藤興盛の方へ言い送ってあることがある。その返事によっては自害しよう。
しばらく待て」と言った。
しかし邪険放逸な荒くれ者たちだったので、取り押さえられて首を掻かれた。
享年五十八歳だったという。

昔、平資盛が摂政松殿基房の車と行き違ったときに下馬しなかったため、
松殿の供奉の者たちが資盛を馬から引き摺り下ろし、散々に恥辱を与えた。
祖父の入道相国(清盛)はこれを聞いて大いに腹を立て、
兵たちを遣わして松殿が出てくるのを待ち受け、随身の元結を切ったり散々に暴行したうえ、
車の中へ弓の筈を差し入れて御簾を切り落としたという。
これは世に類なき悪逆と言われてきたが、今回のことについては、
かたじけなくも大織冠(鎌足)の末裔である摂政関白という高貴な人が、
このように戦に巻き込まれて横死したということは、
世が末世になったとはいえ、実にひどいことであった。


以上、テキトー訳。

おおお、天候にまで謀反されてまったのね、よったかさま(´;ω;`)
ホントこうなってくると、不憫すぎて何も言えん。
一緒に逃げてる人も大変だよね。
肉体的にもつらいけど、精神的なものが特に。
精神的なつらさって、肉体にも大きく影響するもんな。

公家の皆さんもなんだか大変なことに……
待遇のいい仮宿を見つけたと思ったらそこが火薬庫だったとか。
運が悪かったよねぇ。
まあ、きっと来世はいいことあるさ!

以下、どうでもいい近況なんだけど、
最近朝の4時とか5時とかにふと目が覚めて、目覚ましが鳴るまで
朦朧とした状態で夢を見ていることが多いデス。
つまり、夜によく眠れていない!
ちょっとこれが続くとヤバイというか現在でも疲労感がたまっててマズイ。
背中のバキバキ感が物語ってる。もともと悪い首にも響いてきた_ノ乙(.ン、)_
季節の変わり目だし、私もトシだから、ついに自律神経がイカれたかな。
もう少し様子を見て、改善しないようだったらとっとと医者に行こう~><
ていうかこういう問題は何科にかかればいいのさ……

そんなわけで睡眠を大事にしたいので、眠くなったらすぐさま寝る生活をしようかなと。
更新は途切れ途切れになるかもしれないけど、健康あっての物種ですから!
まあ継続して読んでらっしゃる方もいないだろうから、大丈夫(・`ω´・)
2013-04-02

義隆と、周囲の男たち

だいたいの流れ:
陶隆房が大内義隆に反逆した。
冷泉隆豊らは、築山の館に籠もって一戦を遂げるべく準備をしていたが、
義隆は側近の諫言に従って法泉寺に退いてしまう。
慌ててその後を追う隆豊ら。
しかし集めた兵力は、定まらない方針辟易してか、半減してしまう。


義隆卿、法泉寺落ちのこと

さて、ここまで供奉してきた三千余騎の兵たちも、
このような弱将に与して易々と討ち死にするのは堪えられないと思ったのか、
夜半のうちに二千余騎は逃げ散って、縁を頼って陶の手に属した。

陶尾張守隆房は、義隆卿がすでに山口から逃げ去ったと聞くと、
九州へ渡らせては由々しき一大事になると考えて、
取るものもとりあえず、富田のや若山を打ち立って、その日の夜に山口に入った。
杉・内藤らが待ち受けていたので合流し、五千余騎で、同二十九日の正午、
法泉寺の門の外まで攻め寄せると、鬨の声をどっとあげた。

寺に居合わせた兵は五百余騎に過ぎないので、はかばかしい防戦ができるとは思えない。
義隆は、山の手を固めている冷泉判官・黒川近江権守・佐波新介・江口五郎の方面へと、
阿川太郎隆保を遣わした。
「寺の中の兵が皆逃げ出してしまって兵がいない。皆ここに集まってきてくれ。
同じところでどうにかしよう」と告げると、皆山の手から法泉寺目指して下ってくる。

阿川太郎は日ごろから、自分は人よりも十倍力持ちだと自慢していて、
「山狩や川狩を生業としているから、敵の五人や十人は簡単に殺せる」とうそぶいていた。
義隆はその話をまともに信じたのか、阿川を深く信頼して、弓百張の大将にした。
それほどの男なのだから、今回は諸人の目を驚かす合戦を見せてくれるだろうと、
人々も頼もしく想っていた。

冷泉たちが山を降りた後に阿川が残っていたので、
もう合戦を始めるつもりだろうかと人々が思っていると、
阿川は鎧を脱ぎ、笠をかなぐり捨てて、山伝いに逃げていった。
これを見て、諸軍士も我先にと足に任せて逃げ出してしまった。
こうなっては法泉寺でまともに一戦する兵力もない。

義隆卿は二条左大臣尹房公に「和睦の仲介をしてほしい」と頼んだ。
尹房公は「陶たちはなかなか承知しないでしょうが、まずは申し入れだけでもしてみましょう」と、
法性寺殿・外記殿を使者として内藤下野守興盛のところへと遣わした。

「義隆は隠居して、子の新介に家を譲り、
国の政道を陶・杉・内藤の三人に任せるつもりです」と告げると、
内藤はこれを聞いて、「もう三日ほど早く仰せくださっていたなら、
陶に申し聞かせて和睦する道も開けたでしょう。
しかしこれほどまでに差し迫ってしまうと、どんなにこの興盛が申したところで、
隆房は絶対に聞き分けますまい。
使者のご両人は、何の問題もないので、ここにとどまればよろしい。
義隆卿にはご自害しか残されておりませぬ」と、冷徹に返答した。
二人の使者も、後は何も言うことができずに、怒りを抑えて帰っていった。

しかし陶たちも、実際に主君を討ち果たすのも空恐ろしく感じたからか、
寺にしきりに使者を送って「切腹なさってください」と申し入れてはくるものの、
力任せに攻め入ってくることはなかった。
隆房は家人たちに「相良・冷泉をはじめ、
義隆に味方している者たちの家をすべて焼き払え」と下知し、
攻め寄せて家々を打ち壊し、資材や家財を奪い取っていく。

それどこか、築山・隆福寺・浄光寺・求聞持堂、そのほか寺社仏閣を数十ヶ所も焼き払った。
また何者が言い出したのか、「その寺の阿弥陀像は閻浮檀金でできている」
「この堂の釈尊は赤栴檀だ」と言うや否や、
欲の皮の突っ張った者たちは、「これが金仏だろう」「あれが赤栴檀だろう」などといって、
仏像の髪を切り取り、指をもいでいく。
山口にありとあらゆる堂塔の諸仏像がその被害に遭った。

同二十九日、大内家代々の什書などを入れた箱を一つ抱いて、
今八幡の宝殿に持ってきた者がいた。
その者は箱を神光寺・宮司の二人に渡すと、「これを納めておいてくれ」といって、
掻き消えるようにいなくなったという。

さて、大内義隆は法泉寺で自害するつもりだった。
しかし清の四郎が大いに諌めた。
「ここで易々と自害なさるなど、口ほどにもありませんな。
ひとまず九州の方へと落ち延びて、豊前・筑前の家人を集め、
この鬱憤を晴らすための戦をするべきです。

昔の右大将頼朝は土肥の杉山の合戦に負け、そのときはたった七騎になりましたが、
最終的には六万騎を集めて、驕る平家を滅ぼしました。
また、大納言尊氏は都の合戦で利を失い、
九州の多々良浜の合戦ではたった三百余騎しか手元にいませんでしたが、
ついには天下を握る武将となりました。
これはみな、命を永らえさせたからこそです。
どうか、早く落ち延びてください」

義隆卿はこれを聞いて賛同し、二十九日の夜半、
二条殿の若君・三位中将殿(良豊)・義隆の御曹司である新介を先に立てて、
法泉から逃げ出した。

清の四郎は、自分が諌めた義隆を見送ると、しばらく後にとどまった。
皆は「この男はきっと、これまでの重恩に報いようと、
防戦しながら死ぬつもりなのだろう」と考えたが、実はそうではなかった。
四郎は鎧兜を脱ぎ捨てて、菅の小笠で顔を隠し、
どこで手に入れたのか破れた墨染めの衣を着て、
乞食僧のような格好になると、敵の間を紛れ出て行った。
とある民家の床下に隠れていたところを探し出されたが、
柱にしがみついて出てこないので、鑓で突き殺された。みっともない振る舞いである。

また、安富源内は、少年のころは春の花のような顔つきが艶やかだったので、
義隆の男色の寵愛は甚だしかった。
昼はいつも近くに座らせ、夜はいつも枕を並べて寝たもので、片時の間も離れることがなかった。
だから義隆は馬の足を止めて何度も安富を待ったが、結局やってこない。
義隆卿は「源内は討たれてしまったのだろうか。
以前から、死ぬときは一緒だと約束していたのに、先立ってしまったのか」
と涙を押さえて落ちていった。
しかし安富は死んだわけではなく、山口の方へと忍び出ると、
内藤下野守を頼って、取るに足らない命を助けてもらっていた。口惜しいことである。

佐波新介は敵に押し隔てられて義隆卿に供奉できなかったので、
一方を押し破って石見の国に向かっていた。
伊雲という土地で一揆勢が「落人がいるぞ」と取り囲んでくると、
新介は「憎いことをする奴らめ。逃げる者は放っておいてくれればいいものを」と散々に戦い、
敵を数人切り伏せると、ついにそこで討たれてしまった。

また隆福寺の玉堂和尚は、敵が寺の中へと乱れ入ってくると、
使用人や小僧に至るまで皆殺しにし、伽藍を焼きたてて乱暴狼藉に及んだので、
たちまち紫の法衣を脱ぎ捨てて破れ衣を身につけ、乞食のふりをした。
そして破れ椀に義隆から与えられた方衝を割って底に敷き、その上に焦げ飯を入れると、
それを食べながら外に出て行く。
乞食の姿を真似ているので、人もこれを見咎めることはなく、あえて引き止める者もいなかった。

玉堂和尚はそのまま忍んで都に上り、割って持ち出した肩衝を継ぎ合わせて、数万貫で売却した。
それからその肩衝は玉堂と呼ばれるようになり、
玉堂和尚は「欲堂和尚」と呼ばれるようになった。
その肩衝は、今でも世に伝わる天下の名品だということだ。


以上、テキトー訳。

あわわわわ……なんなんだ、この逃げ足の速いっつうか変わり身の早い連中は!
いや、変わり身が早いならもっと早期の段階で逃げてるか。
いよいよ見捨てるしかなくなったってことなんだろうか。
しかし義隆……(´;ω;`)ウッ
男色の寵愛深かった安富も、玉堂和尚までも。
ちょっと言葉が出てこないね。

でも玉堂和尚はなんかちょっとひどすぎて逆に好きかもしれない。
こういう欲望の強さと小賢しさ、しかも僧という身で、ってのが、
なんか世の中ってのをよく表してるような気がしてね。
「命あっての物種」ってことなんだろうなぁ。あと金な。

そういえば漫画の「へうげ」にも、こういう坊さん(商人?)が出てきたけど、
どことなく憎めないんだよね。
抜け目のなさ、生き汚さに強い生命力を感じるというか。
ちなみにどうでもいいけど「へうげ」の宗箇さんカワイイ(*´∇`*)

ハァ……冷徹な内藤さんも萌えるなぁ←ダメ人間。
さあ、次も続きを読むよ~!
2013-04-01

混沌の大内家

エイプリルフールらしいですが、いつものように進めるお!
しゃれた嘘をつくセンスが皆無なんだお(^ω^三^ω^)

前回のあらすじ:
陶隆房をはじめ、大内義孝の治世に不満を抱いていた大内家臣、
また豊後の大友宗麟・安芸の毛利元就らが決起し、義隆を討ち取ろうとした。
義隆は陶との和睦を望んでいたものの、もう情勢が覆せないと知るや、
もってのほかに周章狼狽する。
冷泉隆豊がこれまで諫言してきたことも、すべて無駄になってしまった。


義隆卿、山口没落のこと(下)

黒川・岡辺などはこんなことを言った。
「味方はわずかな勢なのだから、戦いに利を得ることは十のうち一つもあるまい。
それというのも右田の坂へ打って出て防ごうとすれば、
杉・内藤が後ろから旗を揚げて襲い掛かってくる。
また築山に立て籠もって戦った場合、取り囲んできた敵が町屋に火をかけて焼きたててくれば、
煙にむせ、火に追い立てられて、防ぎようがない。
どうにかして滝の法泉寺へと義隆卿をお連れして、敵を一方面に引き受けて合戦をしよう」

佐波新介は、「とても勝ち目のない合戦なのだから、
義隆卿が一歩でも退いてしまったら、末代までの恥になります。
ただ築山に立て籠もって、矢種が続く限り、太刀が折れるまで防ぎ戦って、
弓が折れ矢が尽きたならば、義隆卿は自害なさってください。
そのときに皆でお供します。

譜代重恩の者たちはことごとく主君に背き、逆臣に与するようになってしまったのですから、
どんなに険難の地に立て籠もったとしても、もう意味などないではありませんか。
平家が都落ちして西海で溺死したことを、惨めな行いだとは思われないのですか。
家人によって屋敷を追い出され、見たこともない野山に踏み迷い、
卑しい農夫・きこりの手にかかり、死骸を獣たちに食い荒らされるのでは死んでも死にきれない。
武将たる人物は最期こそが大事なのです。
たとえ逃げることができたとしても、死ぬべきときを逃しては、勇士良将の恥となります。
一筋に思い切られ、この屋形でご自害すると決めてください」と、心の内をぶちまけた。

冷泉判官・天野藤内も、「佐波の言うことがもっともだと思います。
どうか一筋に、この屋形で有無興亡をかけた一戦をなさるとお決めください」と賛同した。
すると義隆卿も、「どちらの意見にも考えさせられる」と言って帳の中へ入っていった。

安富源内・清四郎などは、自分の命惜しさに、
「いや、まずは滝の法泉寺へお逃げください。寡兵で大軍を迎え撃つには、
険難な隘路でなくてはかないません。
法泉寺にご本陣を据えられれば、皆で観音寺の求聞持堂に詰めて守りを固めます。
こうすれば敵は破ることができないでしょう。

吉見正頼は智勇全備のうえ、勇気も勝っており、大勢の敵でも虫けらのように考えている人ですから、
加勢に駆けつけてくれるでしょう。
先日も、陶が山口に攻め込んできたら後詰するようにと、
正頼に重ねて仰せになっていますので、正頼もきっと依存はありますまい。
吉見が山口へ加勢のために発向したと噂が立てば、陶はたまらずに退却するか、
そうでなくてもなんとか和睦に持ち込もうとするでしょう。
どうか法泉寺へお退きください」と進言した。義隆卿もこの意見に賛同した。

やがて義隆卿は御台所を呼び寄せて、
「私の武運が尽き、逆臣の陶によって攻められるので、この地を離れることになった。
あなたも一緒に連れて行くべきだけれども、十のうち七、八は戦に利はないだろう。
そのときはひとまず九州へと落ち延びるか、そうでなければ石見の国へ引き退いて、
吉見大蔵大輔正頼を頼り、豊前・筑前の兵を集めて、この鬱憤を晴らそうと思う。
その道中にあなたを連れて行くのは、落人の身となっては難しい。
あなたは女の身なのだから、咎めを受けることはあるまい。
どこへなりとも落ち延びて、世が静まるまで待っていてくれ。
私が戦利を失って道端の露と消え果てたなら、経や念仏を唱えて、私の後世を弔ってほしい」と、
心細げに掻き口説いた。

御台所はそれを聞くや否や義隆卿の鎧の袖に取りすがった。
「どうしてそんなに恨めしいことを仰るのですか。
これほどに世が乱れている今、足の限りに逃げ出して、
歩き慣れない道芝の露を踏み分け迷う私の姿を見れば、誰もが落人だと気付いてしまいます。
盗人や悪い心持の者たちに、肌を隠す衣さえも剥ぎ取られ、
生きながら恥をさらすことになってはたまりません。
たとえ道中は隠れきることができても、末山の奥に身を隠して甲斐なき命を永らえていれば、
邪険放逸の隆房が必ず探し出そうとするでしょう。
そうなったときには、『あれが義隆の妻だ』『新介(義尊)の母だ』などと言われて
人々に後ろ指を指され、浮名を流すことになってしまいます。
それはあまりにみっともないでしょう。

一本の木の下にともに宿ったり、同じ川の流れを汲むことも他生の縁が浅くないからだと言います。
長い年月をともに過ごし、腹の内まで互いに知っている私たちの縁の深さは言うに及びません。
どうして片時でも離れて暮らしましょうか。
たまに遊びでお出かけになるときでさえ、一夜あなたが帰らないときには、
そのたった一夜で千年も過ぎてしまったような気持ちになるのです。
いつだってあなたの面影が頭の中にあって、少しの間だって忘れたことはありません。

それなのに、いつまた会えるかもわからないのなら、
どうせ白雪のように消えてしまう命なのですから、同じところで死にたいのです。
そして偕老同穴の契りを、来世まで絶やさずに結びましょう。

それに、あの新介も連れて行きましょう。
私たち二人で話さずに懐に抱き、膝に乗せ、寒さが身にしみる夜には自分の衣を脱いで着せ、
吹きすさぶ風から守ってやりましょう。
濃く影を落とす夏の日には扇で涼しい風を送ってやり、いとおしみ可愛がって育てましょう。
そうやって先年の春を経るという松の枝のように行く先長く栄えてほしいと思っていたのに、
どこにも行く当てのない旅の空に放り出され、敵の手に捕らえられてしまうかもしれないとは。
後に残された私はどうでもいいと思ってそんなことを仰るのですか。
私は、身こそ女に生まれましたが、心は猛々しい武士にも劣らないはずです。
どうか一緒にお連れください」

御台所が涙ながらに掻き口説くと、さすがに義隆も妻を想う気持ちにほだされて、
どうしようもなく立ちすくんでいた。
そこに安富源内がやってきて、「敵はもう右田の嶽を越えたとの知らせがありました。
何をなさっているのですか。早く出発なさってください」と言う。
義隆は、妻がすがっている袖を引ききると、北の門から馬に乗って、法泉寺へと落ち延びていった。

冷泉などのつわものたちは、築山で戦死しようと決意し、
鎧の上帯をしめ兜の緒を固く結んで待っていたが、
「義隆卿は法泉寺に落ちてゆかれました」と知らせてくる者があったので、
「これはどういうことだ」と慌てふためき、取るものもとりあえず、法泉寺へと駆けつけた。
これを見て、六千ほどいた兵たちの半分は逃げ散って、
たった三千余騎が法泉寺に追いつき、観音寺・求聞持堂、そのほか山上に陣取る。

昔、平家の惟盛が富士川で右大将頼朝と一夜対陣した際に、水鳥の羽音に驚いて逃げ上ったそだが、
これは世にもまれなみっともない振る舞いだと、今の世でもあざ笑われている。
それは、敵と川を隔てて対陣していれば、そういうこともあるだろう。
しかし今回は、まだ敵が居城を出たとの情報も確かめないうちに、
こんなにも乱れて逃げ出しているのだ。こんなことは聞いたことも見たこともない。
義隆卿の臆病は、後にも先にも似たような例さえありえないだろうと、蔑まない者はいなかった。

父の義興は非常に名高い名将だったのに、当代の義隆の振る舞いは、あまりに見かねるものであった。
堯・舜は聖人であったが子供の丹朱を同じように教育することはできず、
禹・湯には徳があったが子孫の桀・紂に受け継がれることはなかった、
という故事も、このようなことを言うのだろう。


以上、テキトー訳。

よったかさまェ……なんだろう、このダメさかげん。
下巻で目にした大友義統と双璧をなすくらいのだめんずっぷりじゃないのかしら。
女房との別れもきちんとできないとは。
といっても、こんな状況できちんと女房と別れられる男なんて、
そうそういないと思うけど。

いや、ようやくウィキってみたけれど、この「御台所」っていうのは、
山口に身を寄せていた公家の娘だったらしいね。
この時代の公家さんも災難だなぁ……
武家の女ならそれなりに覚悟があるのかも知れんが。
いや、公家・武家で覚悟を量るのは間違いかもね。

妻との問題を別にすれば、今回の突っ込みどころは、
「逃げるなら逃げるで、きちんと周囲に相談なり通知なりすること!」
ってのに尽きるな。
冷泉さんたちも振り回されすぎで哀れになってきた(´;ω;`)

さて次章、法泉寺での話になりそうだね。
だんだん最後のときが近づいてくるのです(´;ω;`)
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