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2013-04-08

隆元と軍法と新庄勢

だいたいの流れ:
大内義隆と陶隆房が仲違いし、隆房が義隆を滅ぼすために山口に攻め寄せた。
義隆はギリギリまで陶との和睦を願って果たせなかったため、
海を渡って再起を図ろうとしたが、悪天候に海路をはばまれてしまう。
義隆、そして付き従ってきた冷泉隆豊らは大寧寺に露と消え、
明日に託した若者たち、大内義隆の子息新介・三条中将らも、
翌日には捕らえられて殺されてしまった。

さて今回は、大内と陶から秋波を送られながら、あえて陶に与した毛利家の動きだよ!


安芸の国西条槌山城没落のこと(上)

安芸の国の西条槌山の城には、天野・平賀によって、
菅田越中守宣真・嫡子三郎左衛門尉宣種・大林和泉守・尾和備後守・材間の入道をはじめとして、
主立った兵たちが籠められていた。
そこに平賀新四郎隆保が三百余騎で馳せ加わり、無二の大内方として死を一筋に思い定め、
敵が攻め寄せてきたら一戦して快く死のうと待ちかけていた。

天文二十年七月八日、元就様は自身は吉田にいながらにして、
嫡男の備中守隆元様・次男の吉川治部少輔元春様を大将として、
福原・桂・志道・児玉・粟屋・井上・赤川・口羽らを差し向けた。
そのほか国人衆としては、熊谷・天野・香川・飯田・入江・石見出羽などをはじめとして
多くの者が馳せ加わり、総勢四千余騎で槌山表へと攻め寄せる。
同十一日には、その城を取り囲んだ。

隆元様は諸軍士に向かい、
「もし抜け駆けをした者があれば、たとえ抜群の働きをしようとも、皆刑罰に処す」と、
固く制法を出した。
吉田勢はこの法をしっかり守り、抜け駆けをする者は一人もいなかった。

しかし新庄の血気にはやる若者たちはこっそりと抜け出して敵城の切岸を上り、矢戦を始めてしまう。
しばらくすると敵が大勢出てきて散々に矢を射掛けてきたので、
新庄勢には怪我人が続出し、寄せ手は劣勢になった。
隆元様は坂新五左衛門を遣わし、元春様へと、
「お前の手勢が軍法を破って合戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と言って、もってのほかに激怒した。
元春様は味方に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

元春様は陶から贈られた近江黒という名馬にまたがり、矢戦を見物していた。
近江黒があまりに逸るので、二宮杢助(俊実)に口を押さえさせていた。
元春様が二宮に、「お前が行って味方を引き上げさせて来い」と下知すると、
杢助は「かしこまりました」と言って、鑓を持たせた小者を一人連れて駆けつけていく。
そこに、出羽元実の手の者で、安国紀伊守とばったりと行き会った。
安国は六十人ほど人数を連れていた。

安国は、「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけてまいりましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利をつけるよりはと考えて、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。

二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。

吉田勢も、楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・
桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
この楢崎は備後の楢崎の手の者だったが、武勇にすこぶる秀でていたので、
元就様が召し出して多くの知行を与えていた。

市允は前々から「元就様は私の武勇の誉れをお聞きになって召し出してくださった。
生きている間の名誉として、これほどすばらしいものはない。
しかし楢崎の数百人の勢のなかにいてこそ、
この市允は諸人より武勇が抜きん出ているといわれてきたのだ。
元就様のお手勢に属したなら、人並みともいえないかも知れない。
小さな勇を誇っていては、私は遼東の猪(取るに足らないものを誇る愚か者のこと)になってしまう。
なかなか先陣を預けていただけることはないだろう。
ただ討ち死にして元就様の厚恩に報謝し、私のこれまでの武名も廃らないようにしたいものだ」
と言っていた。

楢崎のこれまでの十三回の高名のうち七回は、
太刀で鑓のなかに突っ込んでいって勝利を得たというものだった。
今回も菅田三郎左衛門が粟屋・二宮と鑓を合わせているときに、
楢崎は楯一枚を軽々と提げ、右手に太刀を持って素早く走りかかっていった。
敵が鑓を突く隙に打ちかかったのだが、そこに敵の放った矢が脇壺をズンと射抜く。
楢崎がうつ伏せにドウと倒れると、波多野源兵衛尉が楢崎を肩に担ぎ上げて、
味方の陣の方へと引いていった。

こうしたところに、左の岸陰から、吉川衆の山県杢助・粟屋伯耆守・
朝枝藤兵衛尉などが同時に攻め上ってきて、散々に戦う。
菅田越中守は城戸を出て尾崎に仁王立ちになると、
両方へと勢を分けて出し、戦の下知をしていた。

そのうち粟屋・二宮も数ヶ所に手傷を負って危機感を覚え始めた。
すると佐々木弥七郎・高弥三郎・武永四郎兵衛尉などが鑓勢の脇から矢を射掛け、
エイエイと声を上げて攻め上ってくる。
二宮杢助はこめかみの脇をしたたかに突かれて眩暈がしたので、
少し息を整えようと、楯を引き寄せて一、二間ほど下がって後ろを振り返る。

すると、粟屋弥七郎が少しも引かずに、なおも進んで戦っていた。
二宮はこれを見て取って返し、鑓を入れる。
そのときどちらの矢なのかはわからないが、菅田三郎左衛門の兜の内を、後ろまで矢が貫いた。
さしもの鬼神のように見えた菅田も、矢場にガバッと倒れ伏す。
寄せ手はこれに勇気を得て、菅田の首を取ろうと競り上がり、勇気をふるって攻め戦った。

しかし平賀・天野の手の者には、名高い勇士が多数いる。
とりわけ、平賀の郎党の林与次・大田和与次という有名なつわものがいた。
彼らが進み出て緩急自在に散々に射立ててきたので、菅田の首は討ち取るとこができなかった。


以上、テキトー訳。続く。

激怒する隆元……新鮮(*´∇`*)
いや、なんかどうしてもウジウジしたイメージが脳内にね。
逸話のせいもあるけど、主に隆元が遺した書き物で印象に残ってるのが、
家臣たちの振る舞いを細かくチェックした閻魔帳みたいなやつでさ。
こうして、隆元がしっかりと当主らしく采配を振るっている話を読むと、
なかなかに新しい刺激をもらえますな。
元春も意外に大人しくお兄ちゃんの言うこと聞いてるしね(*´∇`*)ハァン

たぶん、隆元と隆景の方が注目されどころは多いんだろうし、
私も最初の方は、ここんちの長男と三男のやり取りに注目してたんだけども、
今は元春というか吉川中心の萌えになってしまっているので、
今回のようなツーショットは大歓喜です!!!

ちなみに史実だと、元春が隆元に「小太刀くれてありがとう」とか、
「連絡しなかったのは異議がないからなんですよ」とか、可愛い手紙を送っているので、
また書状群も読みたいな!
隆景の書状では、元氏(元春次男)に送られた書状がなかなか興味深そう。
内容はよくわからないけど、こんこんと説教してるのは伝わってくるというお手紙w
いつかちゃんと読めるようになりたい!>皿<

あとあと、今回の話も吉川衆が毎度のごとく吉川衆で、
軍法無視して抜け駆けばっかりしてるので、可愛くてしょうがない!
ただ元春は兄ちゃんの軍法に背くことになるので、胃が痛いだろうなw
カワウソ食え!!!
てなわけで、次回も続き。
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