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2013-05-30

届かなかった手紙

すっかりサボり癖がついてしまっただけで、私は生きてます。

さてさて今回は、書状読む前に石見吉川家についての情報を整理してみるよー!
私が気になってるのは系図なので、まずは系図だな。


◆石見吉川家の系譜◆

まず、駿河時代の吉川氏始祖から追ってみると、
①経義→②友兼→③朝経→④経光と続き、
この次の⑤経高が正和二年(1313年)に安芸の国大朝本荘に移る。
ここで経高は末弟の経時を駿河に残し、
他の弟たちを引き連れて安芸に引っ越すわけだけれども、
その弟たちが分家となっていくのね。
経高:安芸吉川初代
経盛:播磨吉川初代
経茂:石見吉川初代
経信:境氏吉川初代

惣領の安芸吉川は、
⑤経高→⑦経秋→⑧経見→⑨経信→⑩之経→⑪経基→⑫国経→⑬元経→
⑭興経→⑮元春→⑯元長→⑰広家→⑱広正……と続く。
石見吉川は、
①経茂→②経任→③経世→④経氏→⑤経義→⑥経康→⑦兼祐→
⑧経典→⑨経安→⑩経家→⑪経実→⑫正実……と続いた。
こうして見ると、本家―庶流の関係とはいえ、
元春・元長や経安・経家の代から、ずいぶん以前に分岐しているのがわかる。
私が追ってる時代は16世紀後半だから、
支流が分岐して250年くらい経ったころってことになるのか。気が遠くなるな。

石見吉川初代の経茂は、安芸の国の大朝本荘鳴滝村の地頭職を拝命した。
そして石見の最有力豪族、益田氏の一族である永安氏兼祐の孫娘「良海(夜刀)」と結婚した。
この妻が領有していたのが石見の国の長安本城の一部およおび津淵村で、
経茂は妻の領地を受け継いで石見に移り、邇摩郡の殿村に居館を構え、
ここに石見吉川氏が誕生したわけだ。一時「津淵」姓を名乗っていたこともあったとか。

代々領地を運営していたが、七代兼祐のときに大内氏に仕え、
津淵村から所領替を命じられたが、伝来の地を取り上げられることへの抵抗なのか、
以後は諸役を拒んで出陣せず、領地没収の憂き目に遭う。
八代経典は大内義興に臣従して失地を回復し、
九代経安も大内氏に仕え、その滅亡後は毛利氏に仕えた。
この流れの中ででようやく津淵村に回帰し、福光城に入ることができた。
……経安に関係する書状類は愁訴の用件が非常に多いけど、
父祖の代の経過を見てみると、加増にこだわる気持ちもわからんでもない。

実はこの経安、経典の実子ではなく、経典の妹の子供で、
父は久利郷(義興から経典に与えられた地もこの一部)の豪族、久利淡路守だった。
経安は幼いころは余七郎という名で、初名を経冬といった。
経典の男子兼栄は早世したため、妹の子である久利余七郎を三女の婿として、
石見吉川を継承させることにした。
こういう女系の相続形態はわりとよくあるよね。

さてここで。最近ようやく私がたどり着くことのできた系図の登場だよオロロ~ン!
でもwebってどう表記したらいいのかわからんな……
とりあえず出会った系図とその他いろんな情報を混ぜてアップしちゃいます!

【石見吉川九代 経安】永正十七年~慶長五年十一月二十七日(★1)
(幼名:亀寿丸 余七郎 左近将監 和泉守 初名:経冬 法号:盛林)
 久利淡路守と吉川兼祐娘(吉川経典妹)との間に生まれる。
 天文十年十二月五日、吉川経典の婿養子となり譲状を受ける(石見吉川家文書25)。
 天正二年四月五日、嫡子経家に領地を譲り渡す。
 天正九年に経家が没した後は、経家の遺児たちを養育する。
 天正十三年、隆景・元長が上坂した際に追従し、その帰りに高野山にて出家。
 慶長五年十一月二十七日、福光城で没す。享年八十一歳。
 福光浄光寺に葬られる。
  妻:吉川経典の三女(永禄二年七月十日死去)
  子:女子……久利左馬助の妻、妙法と号す
    女子……小坂越中守(★2)の妻、妙心と号す
    経家……石見吉川十代

【石見吉川十代 経家】天文十六年~天正九年十月二十五日
(幼名:千熊丸 小太郎 式部少輔)
 九代経安と経典三女との間に生まれる。
 弘治三年五月、石見銀山を攻略して安芸新庄に帰る元春に、修行のために預けられる。
 一つ年下の惣領家跡継ぎである鶴寿丸(元長)とともに育ち(★3)、
 永禄三年十二月十三日に鶴寿丸より加冠を受けて元服(石見吉川家文書130)。
 永禄五年十一月、父経安とともに出雲月山冨田城攻めに参加して初陣を飾る。
 永禄十一年正月五日に元資(元長)より式部少輔に任じられる(石見吉川家文書131)。
 天正九年、鳥取城督として織田信長の将羽柴筑前守秀吉に降伏し、
 十月二十五日、城内の真教寺にて切腹。享年三十五歳。
 鳥取城青木局に胴体が葬られたが、後に現在の円護寺内の墓所に移された。
 鳥取市戎町の真教寺に明治期まで位牌(殉死者の位牌も)があった。 ※現在は未確認
 殉死者:郎党の福光小三郎・若鶴甚右衛門、与力の坂田孫次郎
  妻:境左衛門尉経輝(境氏吉川十代)(★4)の娘(寛永三年七月十三日死去)
  子:女子(あちゃこ)……石見都野弥次郎(★5)の妻、後に武安十兵衛に嫁す
    経実……石見吉川十一代
    家種……宮寿丸 采女正 慶長五年八月、伊勢阿濃津城攻めで戦死。
    家好……竹松 与右衛門 兄の家種死後、その跡を継ぐ(★6)
    女子(かめ五)……福富与右衛門の妻
    女子(とく五)……粟屋加賀守の妻
 
【石見吉川十一代 経実】元亀元年(★7)~元和六年四月二十四日
(幼名:亀寿丸 小次郎 勘左衛門尉 初名:経盛 法号:宗宅)
 十代経家と境経輝の娘との間に生まれる。
 天正十一年八月十八日、元長より加冠を受け、経盛を名乗る。改名時期不詳。
 天正十三年、四国征伐で初従軍。
 文禄元年、朝鮮出兵で初陣。
 慶長五年八月二十四日、伊勢阿濃津城攻めで重症を負い、
 京都で療養中に関ヶ原の戦いが終わる。同年末ごろ石見に帰国し、岩国に移る。
 六百石を与えられ、吉川家の家老として活躍。
 元和六年四月二十四日に没す。享年五十一歳。錦見の普済寺に葬られる。
  妻:不詳
  子:正実……石見吉川十二代(縁辺についてはコチラ!)
    正知

〔注〕
★1 ウィキペディアでは大永2年~慶長5年10月21日となっているが、
  没年月日は手元の資料の日付を採択し、それより生年を導いた。
  同年十二月一日付で広家から経安に送られた書状が存在するので、
  ウィキペディアの通り10月21日に死去していれば、
  その報は11月中には広家に届いているはずだから。
  なお「岩邑年代記」でも、十一月二十七日に没した、とある。
★2 小坂越中守は、『陰徳記』には広家の乳人として登場するが出自は不明。
  吉川家文書・石見吉川家文書ともに小坂氏の名前が散見されるので、
  おそらく石見の豪族と思われる。
★3 手元資料には、元長とともに育ったのは「四年間」とあるが、
  立花城攻めの後に送られたと思われる元長→経家の書状に、
  そのころまですぐ近くで暮らしていたと思われる文言があるため、
  永禄年間はずっと新庄で暮らしていたのではないだろうか。
★4 経輝その人に関してではないが、経輝の甥に境与三右衛門尉がいる。
  与三右衛門尉は元長の奉行人でもあり、新庄の西禅寺で親交を深めた
  恵雍・元長・経家・香川春継といったグループに加わっていた可能性も。
  経家の妻の従兄弟という縁からか、与三右衛門は鳥取城の端城、丸山城に籠もり、
  『陰徳記』では私の心を掻っ攫っていきました_ノ乙(.ン、)_
★5 都野弥次郎は『萩藩諸家系譜』にも見える石見の豪族、都野三左衛門家頼。
  慶長二年十二月二十二日に朝鮮の蔚山で討死。
  武安十兵衛についてはわからないが、同姓の人が輝元から温泉津の奉行を命じられているので、
  その一族の人だと思われる。
★6 家好は鳥取の池田藩に仕えたようで、
  その末裔に落語家の五代目三遊亭円楽師匠(本名:吉河寛海)がいる。
★7 手元資料では生年が「永禄十一年(1668年)」となっているが、
  同資料の「元和六年(1620年)四月二十四日経実五十一才で歿す」という記述と計算が合わない。
  信頼が置けるのは没年の方だと考え、生年を元亀元年とした。

私が現時点までに調べたところでは、以上!
ふえぇ~、予想外に長くなってしまった……こりゃ時間かかるわけだわ。
でもできれば、経実の妻の素性も知りたいんだぜ。

さて、一応「諸家文書」カテゴリに入れてるから、書状読まなきゃね。
慶長五年十二月一日付の、広家から経安に送られた手紙を読んでみたい。


●吉川広家書状写(石見吉川家文書100)

いつも取り紛れてしまって悪いとは思いながら、その後連絡していなかったね。
こちら(上方)は特に問題はない。様子はあれこれと聞いていることだろう。
何度も言うが、今回、津の城(伊勢)における
勘左衛門(吉川経実)の手柄はすばらしいものだった。
大きな怪我を負ったけど、全快してそちらに戻ったそうで、喜ばしいことだ。
あなたもさぞ喜んでいることと思う。
あなたも来春には周防に下ってきてくれるだろう。
私もそのときには下国できると思うから、会ったらいろいろ話をしよう。
恐々謹言

     (慶長五年)十二月一日     広家
          盛林(吉川経安)参

なおなお、勘左の手柄は本当に言葉にできないほどだ。
無事に下向したのだな。本当によかった。かしく


以上、テキトー訳!

日付は12月1日。経安はこれより少し前、11月27日に帰らぬ人となっていた。
関ヶ原の乱の戦後処理で、先祖代々固執してきた本領を離れなければならないことになり、
経安の悲しみはいかばかりだったかと思う。
岩国には移らずに本領で死ねたのは、よかったというべきなのかな。
おそらく京都で怪我の療養をしていた経実が無事に帰りついたとの連絡があって、
広家がこの手紙をしたためたのだと思うから、最期に嫡孫には会えたんだろうな。
それだけが救いというか……

経安の死を知った広家も、すごく悲しんだだろうな。
会いたかったと思うんだ。
この後広家は、経実やその子供たちをとても大事にしてたようで、
正実の妻に元春の孫娘(毛利宗家永代家老の娘)を娶わせたり、
経実の病気を心配する書状がたくさん残ってたり、
死の間際に経実を思い出して、正実に「おまえのお父さんには本当に助けられたよ。
経実が生きてる間に言ってあげられなくてごめんね」と言ったような書状を残したりしてる。
私はこういう結びつきに弱いな。

そんなわけで、これからはまじめに更新したいと思いますが、
ちょっとしばらく忙しくなるので、どうなるかは風まかせ~!
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2013-05-25

じっちゃんから孫たちへ

いやいや、日が開いてしまった><
久しぶりに生プロレス見たり、飲み仲間との約束があったりしてたんですよ(リア充アピール

そんでもって、最近、石見吉川家のわりと詳しい系図にぶち当たったきっかけで、
経家ダイスキ熱がぶり返してきているので、その辺の話題を漁りたくなりました。
そして新しく購入した本に読解のヒントが満載だったので、
ここぞとばかりに経安の置文にチャレンジ!

これは経家が鳥取城で果てた後、
残された子供たちのために、経家の父である経安が書き記したものだね。


●吉川経安置文(石見吉川家文書103)

「子孫披見のため、これを書き置く   経安」

ここに、義昭将軍が、織田上総介信長を討伐するため、備後の国の鞆の浦に移られてきた(天正四年)。
毛利右馬頭大江輝元朝臣は副将軍に任じられ、併せて
小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子もその命に応じ、
都(信長)と田舎(安芸=輝元)との間で、何年間も戦争が繰り広げられた。

そうしたとき、因幡の国の守護である山名大蔵大輔豊国(鳥取城主)の家中の者たちが信長に背き、
芸州に味方するようになった。
そのとき、吉川家の惣領である元春・元長の貴命に従い、
私の息子である式部少輔経家が、因幡の鳥取城の城督として立て籠もることになった。

去る(天正九年)三月十八日に経家が鳥取城に入城すると、
織田上総介の先陣として、羽柴筑前守秀吉が五万余騎を率いて、
同年七月十二日に、因幡の鳥取まで進軍してきた。
秀吉は鳥取城の三里四方に柵を結いめぐらし、川のあたりには乱杭を打ったり逆茂木を並べ、
そのうえ川の底には縄網を張り巡らせ、諸陣の櫓には太鼓・法螺貝・鐘を配備した。
あちこちに焚かれた篝火は、万灯会さながらだった。

こうして、昼夜を問わず戦いが行われた。
実に、時間というものは人を待ってはくれないものだから、
月日が経つにつれて城中では方策がなくなっていき、兵糧も次第に尽きていった。
そうなると城兵たちは、あるいは牛馬を食べ、ついには人肉までもむさぼりだした。
獄卒・阿修羅・羅刹による責め苦もこのようなものかと思えるほど、
目も当てられぬ有様で、前代未聞と表現してもまだ足りないほどだった。

城中は芸陽勢の後詰を待っていたのだが、遠い因幡のことであるし、
大きな大河を隔てていたので、味方の勢の努力むなしく、
天正九年十月二十五日に落城した。
経家は三十五歳であった。

経家はたった一人で腹を切って、数千人の軍兵を助け、
その名誉を都にも田舎にもとどろかせた。
敵も味方も皆感動し、その戦は終わった。

当家の子々孫々の末代に至るまで、この名誉に比べられるものはなかろう。
愚息の軍功を数え上げたりすることは恐れ多いことではあるが、
一族の者たちがこの末法の世において、さらに上を重んじ、
忠節を尽くすことが一番大切だと思うので、
経家一生の格別の名誉を記し置く。
また、郎党二人(福光小三郎・若鶴甚右衛門)、与力一人(坂田孫次郎)が
そのとき経家に殉死している。

この一巻の書は、他家の者に見せてはいけない。
子孫たちに見せるために、経安が記し置いたものである。

     天正十年壬午二月十三日     和泉守藤原経安
          吉川亀寿丸殿(経実)
          同次男宮寿丸殿(家種)


以上、テキトー訳。

安様ェ……_ノ乙(.ン、)_
この人は、石見吉川家文書とか吉川家文書とか読んでると、
なんか愁訴ばっかりしてる印象なんだけど、
一人息子の経家を実に大切に思っていたんだな、というのが伝わってくる気がする。
経家は最期に臨んで父経安に遺書を書いててさ、それが形見分け注文なんだよね。
本家の経言(後の広家)に送ってるのも形見分けの依頼だし。
あと元春・元長宛(実際の宛名は本家家臣宛)の遺書も愁訴だし←このへんは実に経安の子w
実務的すぎんだろ(´;ω;`)

おっと、経安の話だった。
なんだか書面を見ると、経安もすぐに死んでしまいそうな感じで切ないんだけど、
べつにフラグじゃありませんから!
経安は、関ヶ原の乱が起きた慶長五年十二月、
防長に移ることなく、居城であった福光城で亡くなってる。享年八十一歳。
孫の経実が立派に成長するまで、しっかり存命してたんだよ。

この書置きで印象に残るのは、子孫たちに対して、
「ますます上を重んじて忠勤に励んでほしい」と望んでいる点だった。
石見吉川家というのは吉川一族のなかでもちょっと特殊で、
元春が養子に入る以前から安芸吉川家とは距離を置いていて、
わりと独自に行動してたらしい。
興経が尼子にフラフラしていたころも大内に従ったりしてるしね。
それに経安自身は久利家の出身なんだよね。母は石見吉川家だけど。
女系の縁で石見吉川家八代である経典の婿養子となったようだ。

大内が滅んでから毛利配下に属しているので、
ここでもまだ安芸吉川家から独立した性格を保持していたんだと思う。
天正九年時点の領地の安堵状も、石見の本願地に関しては輝元から、
新庄の領地については元春・元長から安堵を受けている。
だからこの時点でも、安芸吉川家から独立して毛利家に従っていたはず。
あと、経安は元春だけでなく、隆景を通じても愁訴してるし。
もっと言うと、天正十九年の安芸吉川家(広家が出雲の月山富田城主に)の領地替えのときにも、
広家や輝元に近侍している僧侶が、石見吉川家の知行がそのまま保持されるように周旋しているから、
関ヶ原の乱の前までは、この独立性は保たれていたんじゃないかな。

だから経安が文書中で重んじるべきとした「上」というのは、
毛利家のことなのかな、などと思いながら読んでおりました。
とりあえず安芸吉川家の元春・元長が惣領である、
という認識に立っていたということは理解できた。

しかし……経実(亀寿丸)がわりと無鉄砲な感じに育ったのは、
じいちゃんがこんな調子だったからかしら、とも思わんでもないw
朝鮮では、戦いの最中に味方が退却していってるのに、
「大将の下知があるまでここを動かん!」とかやってたり(陰徳記)、
関ヶ原の前哨戦である伊勢阿濃津城攻めでは、
全身に五ヶ所もの傷を負うほど奮戦したり(実話)。
ちなみに弟の家種(宮寿丸)は、このとき戦死したらしい。
父の名は大きいし、養育してくれたじいちゃんも
「上様のためにしっかり働いて来い!」って感じだと、頑張る子になっちゃうのかも。
私としては、経実のそういうところが、大変愛しいわけですけれども。

石見吉川家……しばらく読み込んでみようかな。
2013-05-22

老父母と息子

昨夜は放置していた史料に目を通したり、
診断メーカーで遊んでいたりして、実に有意義な時間をまったり過ごしておりました。
あと最近、石高・貫高・現代の貨幣価値換算をざっくり知ったので、
毛利家・吉川家を企業として考えた場合の年商とか算出していたら、
時間があっという間に経ってしまったね。

一石=一貫=10万円程度、半公半民という風に考えて、単純に計算すると、
中国百万石の大名である輝元は、だいたい年商500億円のグループ企業総帥、
出雲ほか十万石を領する広家は、その子会社の年商50億円規模の会社社長、
ちなみに一万二千石の益田は自社のみで年商6億円くらいかな、とか。
広家の隠居料は5千石だから、年商2億5,000万くらいの中小企業程度の規模かな、とか。
現代の貨幣価値に換算しながら書状などを読んでいっても面白そうだよね。

それはどうでもいいとして、今回読んだのは、
広家から広正に妻の病状を伝える手紙でやんすよ↓


●吉川如券(広家)自筆書状(吉川家文書1320)

追って申す。内(広家継室、若林貞綱女)の気分は、
ここ二日ほどで次第に少しずつ快方に向かっている。
昨日また瘧が出て、日中は熱はそれほどなかったが、
食事が摂れなくて、夜に入って少し熱が出た。体中が苦しいと申していた。

これまでの様子は、先にも申したように、おそらく瘧であると思うところだ。
一日ごとに熱が出る。
常々病気持ちなので、休みの日であってもすっきりと快くはならない。
今は土用八専に暑気も加わっているから、疲れがたまっていたのではないかとのことだ。

素庵などが申すには、それほど熱気が強くなりそうな気配はないという。
食べないままに日が経てば病状が重くなって弱ってしまうだろうとのことだ。
一昨日は祈祷もした。
また少々まじないもした方がいいというので、
万徳院などに相談して、行えばいいとのことだ。

おまえが上方に上る件は聞いている。
一度帰ってきてから上方に出発すればいいと思うが、
越州(福原広俊)が病気でそちらを空けることができないとのことで、気の毒に思っている。
こちらのことは油断なく行うよ。恐々謹言

     六月十二日         如券(吉川広家)
          美濃殿(広正)参 御返事

なおなお、現在の病状は、震えの心に虫が大半のように見える。
虫と熱気を往来する加減の虫があるのだろう。
先述したように、どの医者も悪性ではないと申しているから、その点は安心してほしい。
いつであっても、脈などが少し違うようなことがあれば知らせるようにするから、
それまでは安心していてくれ。
薬はあと二日ほどは今のものがあるので、また変えてみたりもするかもしれない。
その点も気をつけているよ。
食事をしっかり摂らせるのが大事だということだ。
そのうちいい知らせができるだろう。かしく


以上、テキトー訳。

体調が悪い女房の様子を、独立した息子に詳しく書き送る親父(*´∇`*)イイワァ
こういうのを見ると、心があったかくなるのでうれしい。
広家は自分が病弱だからかわからないけど、
家臣や周囲の人たちの病気のこともすごく心配してるよね。
父や兄を看病して看取った経験も大きいのかもしれない。

奥さんが罹患した瘧というのは、今で言うマラリアのことみたいだね。
現代ではマラリアのもとになる原虫は熱帯・亜熱帯地域にしか生息していないみたいだけど、
この当時は日本にもいたんだろう。元就も罹患してたみたいだしな。
今では身近にない病気だけに、こうして症状が詳しく書かれてると、想像しやすいね。

ともあれ、家族仲睦まじいようで満足此事候♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
2013-05-20

元長にーさんのお説教

元長書状で大笑いして、いつか現代語訳してみたいと思っていたやつがあったので、
今回はそれを(*´∇`*)

簡単に説明すると、吉川の庶流で親類衆筆頭である宮庄家というものがあり、
そこを相続した次郎太郎春真に対して、元長が送った教訓状だね。

宮庄家は、元春の養子入り当時、
もともと興経に仕えた正統の宮庄家当主(実名失念><)がいたけれども、
興経に関するいざこざで粛清されてしまった。
しかしこの名跡を失うわけにはいかないので、
元春はそこで、吉田から連れてきた福原元正(広俊の次男)をして「宮庄」を名乗らせた。
元正は元亀年間に没したので、その跡に元春の三男、次郎五郎経言(後の広家)が入った。
そして天正八年に石見小笠原氏から経言に養子入りの引き合いがあり、
宮庄家の分限の少なさに不満を抱いていた経言は宮庄家を返上し、
小笠原氏への養子入りに向けて準備をしだした。

またぞろ当主を失った宮庄家に入ったのが、次郎太郎春真というわけだね!
ちなみにこの春真は、熊谷信直の次男直清の三男らしいよ。
元長や広家にとっては、母方の従兄弟に当たるね。
もはや宮庄家とはほとんど縁もゆかりもないけど。
翻弄される悲運の宮庄家ェ……

まあそんなわけで、当主がコロコロ挿げ替えられるわりに
わりと名跡である宮庄家を相続した春真ちゃんに、
元長にーさんから言いたいことがあったようです↓


●吉川元長書状写(吉川資料館蔵文書第二号)

一、今ごろ申すに及ばないことではあるが、おまえについて思っていることを書き付けた。
  詳しくは口上で述べる。

一、おまえは以前もそれほど軽くはない身分であった。
  今となって(宮庄家相続)は、もう当家では親類衆の筆頭である。
  以前も、万事において分際に応じた嗜みが必要だと思っていたが、
  これからはいよいよ身を慎んでくれないと困る。

一、諸人が追随できる立場ではないのだから、もう少し堂々とした態度で、
  それほどへりくだらないようにしなさい。
  とはいっても、人には丁寧な態度で接しなさい。

一、だいたい人間というものはおまえに限らず、ものを過ごしてはいけない。
  そして言葉で器用者か不器用者かがわかるものだ。
  特に陣中などにあっては、夜となく昼となく、
  思いがけない者が陣屋の陰にいたりするのだから、よくよく用心をすること。

一、元春や私のところに来るときでも、小姓や近習のような振る舞いをして、
  人に軽んじられたり侮られるようになっては、
  おまえ自身のことはもちろんながら、当家の秩序を乱すことになってしまう。

一、家中の者たちを使うときは、今回は役目のはじめになるのだから、
  人々が勝手なことができないように、
  またそれほど手が空いたりしないように取り計らいなさい。
  外聞が上々になるように心がけるといいよ。

一、心安い者たちとの交際のときであっても、あまり手足を伸ばしたりして、
  少しでも不思議なことや変わったことを話してはいけない。
  人はどうであれ、おまえ自身のたしなみが肝要なのだ。
  最近は、他にもそういったたしなみを身につけている人がまったくいなくて、本当にけしからん。

一、おまえは、一昨年だったか、額を広く剃り上げていて、これはよろしくないと思っていた。
  その後は普通になってきたから、最近の調子で問題ない。
  何についてもこのようなご分別が肝要だよ。
  一度の間違いは大目に見ることにしよう。

一、少し出歩くときでも、共を二、三人ほど連れ歩くようにしなさい。
  また少しでも自分の居所を離れるときは、
  陣中であっても家であっても、その心得を忘れないように。

一、最近では年長の者も若い者も噂話ばかりして、まったく困ってしまう。
  そうして他人の口真似・手真似をしたり、他人の噂話をすることがはやっているが、
  これはもってのほかであって、やってはいけない。

一、よその年寄・親類衆はどうであれ、などと、参考にしないのはいけない。
  当家の方をよその衆に合わせていきたく思っている。

一、また、最近では馬鹿っぽく軽々しい口をきくのがはやりだが、
  そうした者には人も付け込みやすい。
  そのような者たちと頻繁に寄り合って仲良くなるのは、いかがかと思う。
  もっとものの道理をわきまえている者と仲良くするようにしなさい。

一、衣類や道具などに関しても、おかしなことがないように、
  その程合いをよく考え、気をつけるようにしなさい。

一、くれぐれも大切なことは、たいしたことでなくても、
  しかるべき人に尋ねてから行うようにしなさい。
  自分の考えだけで進めては、間違うことも多い。

一、これらの条々が耳に痛く感じようとも、よく聞きなさい。
  誰にでも通じるように言ったことだから、
  おまえにとっては思い当たることと思い当たらないことがあるだろう。
  おまえほどの身上ではない者に対しても、ここに書いたことは当てはまる。
  おまえは、大方のことは分別しているだろうから、あと少し努力すれば十分立派になる。
  今後は私も、何についてもおまえの指南を受けるようにしよう。
  それではまた。以上

     五月十六日     元長
          次太(宮庄春真) まいる


以上、テキトー訳。

元長さんの説教っぷりが、なんとも元春の教訓状(対経言)に似ていてニヨニヨできるね!
「変わった格好をしない」だの、「共を連れ歩きなさい」だのw
「この意見が気に合わなくてもちゃんと聞きなさい」ってとこまでwww
天正八年か九年のものだろうと思われるけど、元長はそのころ三十代半ばか……
「最近は誰もがきちんとした分別がなくてやんなっちゃう><」とか、
歳の割りに年寄りくさいね!

ここで少し注目したいのは、元長がこの教訓状を送ったのは、
春真の宮庄家相続という契機があったからなんだよね……
つまり何が言いたいのかというと、元春が経言に送った教訓状も、
何か契機があってのことじゃないかと思うんだ。
おそらくは石見小笠原氏相続の問題に絡んでいるんじゃないかとエスパー。
まだちゃんと調べ切れてないから、「カン」のようなものだけど。

そもそも広家は、よく「どうしようもない問題児だった」と評されて、
その証拠物件として元春の教訓状が挙げられるわけだけれども、
教訓状が送られた前後関係を無視して書き立てられることが多い。
というか、不幸にも私はそういう本にしか当たったことがない。
手紙が書かれた経緯を無視して、結論ありきで持論に合うところだけ抽出し、
我が意を得たりとばかりにdisる学者先生も学者先生だ。
何の恨みがあるというのか。

私が思うに、本当にどうしようもない問題児だったなら、
耳に痛い教訓状を後生大事に持ってたり、
あまつさえ自身の恥部が残るというのに子孫に伝えたりするだろうか。
というわけで、教訓状の前後関係問題は私の中でけっこう大きなテーマなので、
しょぼしょぼまとめを進めていきたいと思っています。
集中力が続かずに脱線する性格を矯正したいもんだぜ……_ノ乙(.ン、)_
2013-05-19

元祥さんと元長おにいちゃん

久々に図書館に行ってみたところ、欲しい本が増えました_ノ乙(.ン、)_
全部読みたいからコピーなんてやってらんねーって感じ。
さて、どこでポチるかなー。古本でしか手に入らないのがつらい。
物欲に燃えたからかモニターを睨みすぎたからか、
昨日から今日にかけて、これまた久々に持病が出てきて死んでたよ……

さて、相も変わらず陰徳記を離れて書状群読んでます。
今回は吉川元長から益田元祥に送られた書状をエンヤコラ。

もともと益田氏は、陶の縁者だったのと、
仇敵の吉見氏(領地争いがパなかった)が早々に毛利と結んだので毛利と対立していたものの、
元春の扱いで、元祥の父藤兼のときに毛利傘下に入ったんだよね。
これに関しては元春と元就の連携が取れていなかったらしく、
元春が和睦をまとめてきたら、元就が「吉見にどう言い訳すんの!」って怒ったらしいw
益田を潰して係争地を吉見にあげたかったってのが、元就の本音だろう。

そんでどーにかこーにか毛利に食い込んだ益田氏は、元春の娘を娶ることに成功し、
それからは毛利家に忠実に、元春の手に属して活躍した。
元長にとっては、元祥は義弟に当たるわけだ。
元長はだいぶ元祥に心を許していたのか、天正六年にはこんな↓起請文まで送っている。


●吉川元長書状(益田家文書384)

詳しく返事をありがとう。また申したいことがある。

一、輝元に対して、これからもずっと懇意にしようという気持ちが一番大事である。

一、ご父子(益田藤兼・元祥)と我ら親子(吉川元春・元長)の仲がこうなった上は、
  内外の大事・小事について、我らから相談をさせてもらうことになる。
  いわれのないことだと思わないでくれれば、私から毎回何かと連絡を入れよう。
  「もしかしたらこんなことがあるかもしれない」と思うことがあったら、
  とにかくこちらに知らせてほしい。
  またおまえからも何か言ってきてくれなくては困る。
  いい加減なことを言ったり、仲間はずれにしたりはしない。
  この件は申すに及ばない。ただただ、
  内外ともに心安いこと、息のかかるほど近くにいるのがいいことだと思う。
  差し出がましくなってはいけないなどと、遠慮はしないでくれ。

一、輝元の分国がどれほどになろうとも、隆景(小早川)(※後から書き入れてある)・
  元政(天野)・元清(穂田)・元康(毛利)・私の父の四人、
  そのほかでは、ご父子(益田父子)・隆家(宍戸)父子(元秀)・
  信直(熊谷)が毛利一家の衆である。
  この衆の仲については、たとえ少し考えが違ったとしても、
  同じように行動しなくてはならない。
  たとえ人から許し書きがあったとしても、それで覚えを失うようになれば、
  諸人も見限るようになり、ゆくゆくは身をも家をも失うことは歴然としている。
  また天道も必ず見放すだろう。古今の世情をよく考えてみてほしい。
  それに、この衆が結束していれば、四、五カ国程度なら固く保つことができるはずだから、
  それほど世間の情勢を恐れることはないと思う。

一、だいたいにして、上代から今の世までも、人々は親しい仲を裂こうとしてくるものだ。
  それに気をつけて、用心するのが肝要だ。
  どんな理由があっても、怪しい話を聞いたならば、すぐに糾明してほしい。
  またこちらからもすぐに申し入れよう。

一、あまりに言わずもがなのことなので、書面に書くのもどうかと思ったが、あえて書いた。
  もしそちらが一大事に及んだならば、私は無二に協力しよう。
  おまえも私に協力してほしい。

  ここに述べたことにもし偽りがあれば、梵天・帝釈天・四大天王、
  日本国中の大神祇、八万台菩薩、本寺鎮守、春日大明神・厳島大明神、
  氏神である安芸の吉田祇園・牛頭天王、石見の一宮大明神・瀧蔵大権現、
  とりわけ大日覚王・金剛大薩埵、勝軍地蔵、摩利支尊天、
  別して八大祖師並びに以下の諸大徳・先師代和尚、などの罰を蒙るべし。

  この旨をもって、私の心中を知ってもらいたい。
  それではまた、いろいろと話をしたい。恐々謹言

     天六(天正六年)五月二十日     元長
          元祥 参

  悪筆で読みづらいと思うが、文意がわからない箇所や誤字脱字があれば言っておくれ。
  それを聞いて返答しよう。
  この書状は特に内々に送っているので、誰にも見せないでほしい。


元長さんさすが元長さん! 懐こい人だなぁ。というか何かあったんか……?
天正六年五月ごろというと、上月城の尼子勝久・山中幸盛を囲んでいるころかな。
表題には書かれていないけれど、「悪筆云々」とあるということは、元長自筆だろうか。
年齢的には、元長が三十一歳、元祥が二十一歳といったところ。
元祥が家督相続するのは、まだ先の天正十年のことだから、
どういう意図で家督前の元祥にこの起請文を送ったのか、気になるところではある。
誰にも内緒で義弟に何を吹き込もうとしてたんですか元長さん!?!?
あと、隆景を後から書き足してるあたり、モニョモニョするね!

そしてお次は、おそらく同年末のものと思われる書状↓


●吉川元長書状(益田家文書383)

近日はあまり話しをしていなかったね。
こちらから申し入れるべきだったけれども、いろいろとやることがあったんだ。
まずはこの表の諸事の定めについて、
盛重(杉原)からまだ返事がないものだから、まだ決められない。
使者が今日か明日には帰ってくると思う。
播磨のことも、珍しいことは起こっていないだろうか。その後連絡が来ていない。
輝元(毛利)が年内に出張すると聞いていたが、もう少し延期されるようだ。
また会ったときにいろいろ話をするつもりなので、まずはここまで。
恐々謹言

     十二月十九日     治部少輔 元長
         元祥

なおなお、あれこれとしているうちに、はや年も暮れてしまったが、
おまえたちが帰陣し、また我らも罷り帰れば、また五十日も六十日も暇になるだろう。
今回は陣所が遠くて、考えていることを切々と相談できず、残念だった。
来春おいでのときは、ぜひとも近くにいて、ときどき話をしたいね。
同じ気持ちならうれしく思う。
また、いつもいつも申しているように、何事も急がなくてはならない。
この書状は読んだら燃やしてくれ。
また、政慶(宍道)がこちらに来るそうだが、
そちらに連絡がいっているかどうか、聞かせてくれ。かしく


「もっと頻繁に会って話したかった(´・ω・`)」って、
アンタ元祥のカノジョですか元長にーさん!!!
この人の書状は、人懐こくて感状がダダ漏れてて好きすぎる!
益田のことを考えるつもりが、元長に引き込まれていく……そして脱線。

輝元のみならず、元長にまでこんだけ好かれる元祥も恐ろしいよね。
元長は文武両道というか、むしろ文系オタクの節があるから、
その話し相手として好かれるには、それなりの教養とか持ち合わせてないと難しそう。
まだ二十一歳なんだぜ……このころからきっと優秀だったんだろうな。

さてお次、年代は少し飛んで、天正十四年のもの↓


●吉川元長書状(益田家文書390)

なんといっても、今回のご自身の太刀働きは、
実に比類なきもので、粉骨の至りである。
私がそちらに参って申すべきではあるが、差し障りがあってそうできないので、
まずはこの者を遣わして申し入れる。
よって太刀一腰・馬一匹を差し上げる。差し当たってのご祝儀ばかりである。
いずれも拝顔のときにお話しよう。恐々謹言

     (天正十四年か)十一月九日     治部少輔 元長
          元祥 御陣所


以上、テキトー訳。

最後の書状は、秀吉の号令で行われた九州征伐のとき、宇留津城攻めに関するものだと思う。
元長が「差し障りがあって行けない」というのは、
小倉城で病床にあった元春の看病をしていたため。
吉川衆は元春・元長・経言といった大将格は不在のまま人数だけ出していて、
十一月七日に黒田孝高・小早川隆景らとともに、宇留津城を攻め落とした。
そこで元祥が活躍したと!
頭もよくて戦もできるなんて、ホント羨ましいなちくしょー!

元春はこの後の十一月十五日に永眠するわけだけど、
そのころの元長書状なんかも悲痛でたまんないんだよな……
そのうちちゃんと読まねば。

ともあれ、義兄に心底気に入られる元祥が垣間見れて、
なんとなく幸せでござる(*´∇`*)
2013-05-17

益田と経家後裔の縁辺

よし、益田熱が続いているうちに、
もう一件、益田のまとめをしておこう。

まず、元祥と元春娘(七尾局、益田の上)の間に生まれた子供たちを羅列。
・長男【広兼】文禄4年8月12日、20歳で死去。妻は吉見広頼の女、子供は元尭。
・次男【景祥】筑前の国宗像氏の養子となったが連れ戻され、隆景に仕える。
     寛永7年7月13日死去(享年54歳?)。妻は児玉元良女、後室は毛利元鎮女。
・長女【千林?】堅田大和守元慶室。寛永13年12月25日死去(享年49歳)
・三男【家澄】家敬とも。吉川広家の養子となり、後、吉川家臣となる。
     関ヶ原の戦後処理でいったん人質に差し出されるも、
     「甥子の人質に及ばず」と差し戻される。
     妻は福原広俊の女。寛永20年12月15日、岩国で死去(享年54歳)
・次女【室生】児玉淡路守元恒室。明暦元年12月24日死去(享年61歳)
・三女【?】吉川勘左衛門正実室。寛永19年10月4日死去(享年43歳)
・四女【種子】宍戸善左衛門元貞室。寛永3年5月14日死去(享年23歳)

今回読むのは、この三女が吉川勘左衛門正実に嫁ぐ際の、
元祥とその室のお手紙。
この吉川正実は誰かといえば、鳥取尉で秀吉の兵糧攻めに遭い、
見事な切腹を果たした吉川経家の孫なんだね!
秀吉自身も後々まで経家の後裔のことを気にかけていたし、
毛利家中でも、経家の一族(石見吉川家)はヒーロー扱いだった模様。
その正実に、広家は元春の孫(自分の姪)を娶わせたかったんだろうな(*´∇`*)

で、↓が広家の申し入れに対する元祥の手紙ざんす。


●益田元祥書状影写(石見吉川家文書183)

先日この地において仰せ聞かされた私の娘の件で、
(輝元の)内諾を得られたとお知らせくださり、重ねがさねご懇意かたじけなく存じます。
先日も申し上げたように、殿様(輝元)が納得されれば、私は少しも異議はありません。
娘を一人進め上げることにいたしましょう。
この件を(広家に)心得ていただきますよう。
恐々謹言

     二月九日     益玄(益田元祥)
          森志(森脇志摩守)


わりとそっけないけど、取次ぎ役宛じゃこんなもんかな?
↓は、元祥室(広家姉)から広家宛の手紙。


●益田元祥室(吉川氏)消息影写(石見吉川家文書184)

丁寧なお手紙をありがとう。よく見ました。
こちらの五もじ(娘)を一人ほしいということですね。
とにかく私は、あなたのご家中のためになるならば、
何であってもお計らい次第にと思っていますよ。
玄蕃殿(益田元祥)も返事をしていると思いますが、
五もじ二人のうち一人を差し上げることになるので、どうかよろしく頼みます。
ゆくゆくのことも、あなたの御家中にいるとなれば、万事心安く思っています。
詳しくはこの平右衛門殿へ申してあります。それではまた。

     二月九日     萩より わかさ宿
          ひろ家様 参

なおなお、以前玄蕃殿同様に私にも話してくれなかった理由については、
よくよく聞き届けました。


以上、テキトー訳。

最後の追伸の内容は当事者にしかわからんてヤツだけど、
姉ちゃんが弟(広家)のこと信頼してていい感じ(*´∇`*)
それに夫のこと「げんばんどの」って書くんだぜ。もゆる……

さてさて、それにしてもかなりざっくりした縁談だよねw
「娘二人のうち一人あげる」とか、相手のこととか一切書かずに
「あなたの家中にいれば先々も安心ね♪」とか。
結婚する当人たちより、家筋だとか親の都合が最重要事項だって再認識させられるわ。
善悪の問題じゃなくて、こういう感覚が普通だったってことを、たまに忘れそうになるからさ。
そのたびに思い出さなきゃ(`ω´*)

日付しか書かれていなくて、年がわからないけれど、
私の推測では、慶長十五年のことなんじゃないかと思う。
理由としては、元祥室が慶長十五年十月に死去しているから、それ以前なのは確実。
また、正実の元服も同年六月なので、慶長十五年の正月あたりから、
正実の元服と嫁娶りについて準備が進められていたんじゃないかと。
この手紙は、まだ内諾段階だから、
正実が元服を済ましてから結婚させるつもりだったんだと思うな。

元祥娘は、死没年と享年から逆算すると慶長五年生まれで、十五年当時で十一歳。
正実の生年を判断できる史料に出会ったことがないのでわからないけど、
こちらも同い年かひとつ上くらいだったはず。
そう考えるのは、正実の父の経実が、慶長三年まで朝鮮に渡っていたから。
もしかしたら渡海直前にできた子ってこともありえるかも。
はっきりと生年がわかる史料がほしい(´;ω;`)
まだ私、経実の妻も知らないんだ……
しかし最近、懸案だった経家の妻の出自が、同じ吉川氏庶流の境氏だとわかったので、
少し満足しました。
2013-05-16

毛利家のミスターパーフェクト

はははは。またもや脱線に脱線を重ねてたどり着いた書状を読むよ!
今回は益田! 益田ダイスキ!!!
広家の三歳年上の義兄だよ!
あと広家の娘の夫のひいじいさんでもあります……なにそれこわい……

益田元祥略歴:
・大内傘下の石見領主、益田藤兼の次男として生まれる
・大内義隆が滅び、陶と毛利が対立したときには藤兼が陶方に一味(縁者なので)
・元春の調略で毛利に降り、元春の娘を長男の嫁に契約する藤兼
・長男が死亡したため、家督と婚姻契約は次男の元祥にスライド
・藤兼・元祥は吉田に訪問して元就を接待&ここで元祥が元服
・だいたい元春の手に属して各地を転戦、元祥は元長から「自身の太刀働き比類なし!」との感状もらう
・元春・元長没後は広家にぴったりと寄り添って活躍
・完全なる吉川方かと思いきや、次男を隆景に仕えさせる
・長男が夭逝するも、次男を補佐に立て嫡孫を守り立てる
・朝鮮から帰朝の後、輝元の信頼を受けて事務方でも活躍
・関ヶ原の乱の最中に、家臣が毛利秀元の小姓と喧嘩沙汰を起こすが、すぐに落着
・関ヶ原の直後、家康から「所領安堵するから毛利家を出なよ」と誘われるも断固ことわる
・関ヶ原の戦後処理(主に金銭・返納米問題)をてきぱきと処理
・借金まみれになった毛利家の財政を立て直しかつ貯蓄までする
・元春の娘(七尾局)との間に十代から四十代まで三男四女をもうけ、後室との間にも男子二人
・子供たちすべてがそれなりの地位を得たり有力者に嫁いだり
・八十三歳の大往生

なんかほかにもあった気がするけど思い出せん。
この人の有名なエピソードは、江戸初期の毛利家の財政立て直しと、
あと輝元に献上した名物「益田壺」を石田三成に横流しされた話かなw
とにかく家柄良し、ツキも良し、武功も良し、算術にも長けているうえ、
義にあつく、親類縁者・家中への思いやりもすばらしく、処世術も満点、
長寿で繁殖力も強いというパーフェクトぶり。
この人がなぜあまり有名にならないのか、ホント不思議……

とりあえず今回読んだのは、慶長四年の毛利家中一斉所領替え問題のときのもの。
この所領替えは、朝鮮出兵などで宙ぶらりんになっていた秀元の処遇問題
(輝元の養嗣子になったけど実子が生まれたので所領をもらって別家を立てる約束)
に端を発していると記憶してるけど、勉強不足なのでいまいちあやふやです。
でもつまりは毛利家傘下のすべての家臣・国人衆を対象に、領地の配置替えをするってこったね。
その件で、益田元祥が輝元の奉行人である榎本元吉に申し入れたのが↓の書状。


●益田元祥書状(毛利家文書(1270)

(端裏書)「榎中太(榎本元吉)様 人々御中     益玄 元祥」

罷り下ってから、お会いしていませんでしたね。
内々に話をしておりました所領替えのことで、ご内意を承り、安堵いたしました。
家筋の者たちを散らさずに、今までは余分に抱えておりましたが、
なんといっても、まだ皆を召し放たずに連れて新しい土地に移り、
ときどきご奉公を致したいと考えて申し上げたことです。
ですから、私が自分勝手にしたいわけではありません。

悪所であっても、内の者がついて参りそうな土地もあるでしょう。
よい場所であっても、内の者たちが行きたがらない土地もあります。
悪所であってもいいので、内の者たちが行きたがるような
土地を仰せ付けてくださいますように、お願い申しあげます。
今まで抱えてきた者たちを放免しなければならないとなると、実に困ってしまいます。

先日も申したように、石見では那賀郡が私の知行地の上に続いた土地です。
江之川を隔てており、銀山周りの障害にもならない場所です。
ですから、先年広家様があの地を返上したときには、皆にお配りになって、
ご公領などは少しも置かれませんでした。
これをご了解いただければ、下々の者たちが残らずついてくるはずです。

また、私の知行地の下に続いているのは、長州阿武郡です。
現在は宍道・桂五郎左・宰相(秀元)様の御小姓衆に与えられているあたりです。
こちらは悪所であり、現在知行している衆も、
「今回替えていただかねば公役をこなすことができない」と申されるような土地です。
しかし我らにとっては近い場所ですので、内の者たちも付いてくる気になるでしょう。
人々が欲しがっている他国の土地よりは、こちらを望んでおります。
もしもし広家様へお与えにならないのでしたら、私に与えていただききたく思います。

もう一方は吉賀郡、また山代五個八個などが、私の知行地と地続きです。
これらのうちどれかへと替えていただければ安心できます。
また筋目の船頭たちを多数抱えておりますので、少し海に面した所でなければ、
私が抱えて行くことはできません。
もし先に挙げた土地すべてを蔵入地に仰せつけられ、誰にもお配りにならないのでしたら、
周防の内で、富田に引き加えて都野郡の内から仰せ付けてくださいますようお願いいたします。
人々が欲しがる佐波郡などは、人数を連れて引っ越すことなどなかなかできない場所です。
その事情は、先日もお話しした通りです。

とにかくよく(輝元の)御機嫌を見てこのことを申し上げていただき、
ここに述べた内のどれかに内諾をいただいて、安心したく思います。
もうだいたい配置が決まってからでは申し上げても手遅れになるので、
御沙汰もない今のうちに申し上げたいと思います。

長老(安国寺恵瓊)を通じて申し上げるべきなのでしょうが、
内々に申したように、もし(輝元の)御機嫌に配慮せずに強硬な態度で申し上げられたら
私が迷惑することになりますので、あなたにお頼みしているのです。
しかしながら、何かあったときのために理屈が合うように、
大筋のことは以前に申しておきましたので、それはご承知置きください。

また、那賀郡のことは、時代にもよると思いますが、
石見あたりに城取りなどを仰せ付けられるのであれば、銀山の山吹城と、
那賀郡のうちの小石見あたりに、一城仰せ付けていただかなくてはいけない場所がらですので、
そのような配置替えの障害になってしまうでしょうか。
その問題がなければ、那賀郡を私にお配りいただけるように申し上げたいところです。

たとえ城の守りを仰せ付けられたとしても、私も妻子は残らず広島に居住しておりますので、
仰せ付けられたならば十分に武具や弾薬、兵糧などをしっかり準備して、
もしものときに安心していられるようにしたうえで、きちんと馳走いたします。
こうした件は差し出がましく申し上げるようなことではありませんが、
あなたにはお伝えしておきます。
もしかしたら城の件で那賀郡を私に仰せ付けられないということがあればと思って
申したまでですので、ご理解ください。

この書状をご覧になって、何かのついでに(輝元へと)口上でご披露いただけますよう、
お頼みいたします。
重ねがさね、またお会いしたときにお話をさせてください。恐惶謹言

     (慶長四年)四月二日     元祥
          榎中太(榎本元吉)様

なお、現在の那賀郡の給人は、周布・久代瀬兵衛・都野・尼子殿、
それに元政様もお持ちでいらっしゃいます。
阿曽沼・三加賀・平市允・木原次郎兵衛・御末様もです。
私も先の検地で二千石ほど持っていますので、これもお心得ください。
元氏もお持ちです。


どうよ、この理詰めっぷり!(ドヤ顔
希望をA案・B案・C案と出していって、却下される理由まで推測して先手を打つという
手回しのよさ……これだけで「デキる!」ってわかる気がするんだ。
んでもって、「家中の者たちを手放したくないから」という理由で
希望の土地を選ぶところがいいじゃない。なんというオトコマエ。
個人的に気になったのは、「益田の妻子は皆広島に居住してる」ってとこかな。
それと「尼子殿」が領地を与えられているわけだが……
そういえば義久・倫久兄弟は、永禄九年に元就に投降した後、
軟禁状態ではあるけど、輝元に手厚く保護されてるんだよね。
そして義久には子がなかったので、倫久の子が「佐々木」を名乗り、
毛利の被官になっていたはず。
あと益田、安国寺のことは取次ぎとしてあんまり信頼してなかったのねw
これは朝鮮でのアレコレが関係してそうw

で、この書状を受け取った榎本は輝元に見せちゃったらしく、
輝元がそれに答えているのが↓の書状案(榎本宛)。


●毛利輝元自筆書状案(毛利家文書1271)

 ※この文書は、前掲の第1196及び第1270号文書と照らし合わせるに、慶長四年のものである

益玄(益田元祥)の書状をよく読んだ。
まったくあの人はしっかりした人だ。
これからも協力してほしく身内にもしたいと思ったから、
松寿(秀就)の母の妹を修理(益田景祥、元祥の次男)に娶わせるのだ。
そのことをあちらもよくわかっていて、内意としては、ずいぶん歓迎してくれているらしい。

今回の所領替えに関しては、内々に仲良くしている衆も、
思いもよらないことを言ってきているが、何とか話を濁して返答を引き伸ばしている。

あの人(元祥)の所領を替えるつもりはない。
表向きは、贔屓をするようなことをしたらいろいろとまずくなるので、
なんとなくそのままにしておこうと考えている。
これに関しては益玄にも言ってはいけないよ。
ただ、「あなたに関しては所領替えは行われそうにないので、
ご心配なさいますな」とだけ言っておけばいい。
これからも疎意なく、身内として親しくしていきたいという旨は、
内々に語って聞かせてくれ。よろしく。


輝元が元祥にベタ惚れな件……すっごい褒めてるね!
景祥が児玉元良の娘を娶ったのには、こんな経緯があったのか。
縁談の時期もつかめて満足!
家康が元祥の引き抜きを打診したときに、
「毛利家には景祥を置いていけばいい」って提案したのは、
この所縁があったからなんだろうな。

そんなわけで、↓は所領替えの発表が済んでから、元祥が提出した起請文。


●益田元祥起請文(毛利家文書1196)

 ※この起請文は、神文以下は熊野牛王宝印の裏を返して記してある

謹んで言上いたします。

一、今度の御分国のことについて、御父子様(輝元・秀就)おそろいになり、
  直接仰せ聞かされました。実にかたじけなく存じ奉ります。
  この件は他言いたしません。

一、私の身上のことについて、佐石(佐世元嘉)を通して、内々にご内意を申し聞かされました。
  とりわけ、この春には御分国の衆は皆所領替えを仰せ付けられましたが、
  私のもともとの知行は替えないとの佐石への御書は、
  外聞も実にかたじけなき次第であり、これ以上の言葉が出てまいりません。

  そのうえ七内(益田景祥)の縁辺などもお気遣いくださり、
  あれこれと本当にかたじけなく、申し上げれば限りがありません。
  このご厚恩は先々も少しも忘却せず、
  殿様(輝元)・松寿様(秀就)へ無二のご奉公を遂げる覚悟であります。

一、縁者・親類、そのほか仲のよいどんな者であっても、
  公儀に対して悪事を企てた場合には、私は同意いたしません。

これらの条々は、私の心底からの言葉ですので、もし私を讒言する人がいた場合には、
お尋ねになられ、真相を究明したうえで判断していただければ幸いです。
もし私がこの旨を一つでも違えることがあれば、

  梵天・帝釈天・四大天王、日本国中のすべての大小神祇、
  とりわけ厳島大明神・杵築大明神、別して氏神の八幡大菩薩、
  春日大明神・摩利支尊天・天満大自在天の御神罰を、
  子々孫々までこうむることになるでしょう。
  よって起請文件のごとし。

     慶長四年六月二十一日     益田玄蕃頭元祥(花押・血判)
          佐世石見守殿


以上、テキトー訳。

「ご厚恩は先々も少しも忘却せず、殿様・松寿様へ無二のご奉公を遂げる覚悟」
ってのが、泣かせるねぇ……この言葉、ただの飾りじゃないんだもん。
ホントにしっかりこれを守って貫いたところがすごいよ。
家康が「安堵する」って言った十万石の所領を捨てて、貧乏大名についていったんだよ?
たった十分の一の身上になっても、自分の言葉を守ったわけだ。
なかなかできないと思う。
裏を返せば、これほどの男をそこまで惚れさせる輝元も、すごい人だと思う。
 〔追記:どこかで読んだ地誌の内容を、記憶をたどって書いちゃいましたが、
     益田の毛利八カ国時代の分限は、12,500石だったようです。
     元祥自身が遺言状に書き残してたわ_ノ乙(.ン、)_〕


元祥に関しては、「牛庵覚書」という書物があって、
これは元祥自身の覚書なんだけれども、ものすごい長文_ノ乙(.ン、)_
いつか自力で読みたいと思います!!!
あといろいろこの人の周辺で気になることも多いので、
そのあたりも追い追い……
2013-05-13

輝元が公式でかわいすぎる

どうも。
広家と刀ネタをあさってみようと思ったら、
どういうわけか輝元書状に絡め取られました。

輝元さん好きだ……_ノ乙(.ン、)_
慶長三年に、輝元が朝鮮出兵中の広家に送った書状を見てみよう。


●毛利輝元自筆書状(吉川家文書723)

元次(宍戸)が帰朝したので、おまえの書状が届いたよ。

一、今回はお手柄だったそうだね。まったく比類ないことだ。
  それに私があげた刀で高名したそうで、うれしく思っているよ。
  よく切れたんだってね。安心した。

一、ウルサンはとりあえずそのままにするということだけど、本当かな。
  とにかく早く帰朝しなさい。安国寺にもせっついているんだよ。急いでおくれ。
  なにはともあれ、このことだけが気にかかっている。
  雨山と待っているよ。ではまた。恐々謹言

     (慶長三年)二月十八日     右馬 輝元
           広家 参 申給え

  こちらの表は変わりないよ。(秀吉が)醍醐の花見をなさるということで、
  女房衆の支度が大変だったけれども、他には珍しいことはない。
  急いで書いたので、まずはここまで。


●毛利輝元自筆書状(吉川家文書724)

そちらの表で存外に在陣が長引いており、気遣いや苦労が続いているね。
なかなか言葉には尽くしがたい。
体調はいいかな。いつも気にしているよ。

一、先日のそちらでの様子について皆から御注進があったが、
  (秀吉の)御機嫌が悪くなってしまった。
  秀元からいいタイミングで丁寧な報告書が届き、
  増右(増田長盛)が目を通して御前で申し上げたところ、
  (秀吉の)御機嫌も上々になり、かたじけなきお定めをなされたそうだ。
  秀元がよくやってくれて安心した。

一、あちこちの城の普請を、とても気にされているようだ。
  城主を置いてしっかり任せたら、皆帰朝するようにという御意である。
  普請を請け負った者は、何かあってはいけないので、帰朝はしないようにということだ。
  なにはともあれ、一刻も一刻も早く戻ってきておくれ。
  雨山と待っているよ。

一、そちらの表では、おまえ一人がそこに残っているが
  、秀元とよく相談して気遣いをしてくれているね。
  元政(天野)もそろそろそちらに到着するだろう。

一、こちらの表は変わりないので安心してほしい。
  私がこちらにたった一人でいるときの気遣いを想像してみてくれ。
  それに私は不調法で、なおかつ病人だ。年齢ももう五十に近いのだから、くたびれてしまった。
  本当に大変だよ。何をやっても失敗してしまうんだ。推察してくれ。

一、正月の後巻のときは、おまえ自身が手を砕いて高名したとのこと、
  申すまでもないが、実に活躍しているね。
  元次が話してくれたから知ることができたんだ。本当に危ない局面だったんだね。
  お手柄だった。

  私があげた刀を使っていたとのことで、喜んでいるよ。
  今回おまえの役に立てて、本当によかった。

一、おまえの留守は無事だよ。安心してくれ。
  あとはおまえが上洛したときにいろいろ話をしよう。恐々謹言

     (慶長三年)四月二日     輝元
          広家 参

以上、テキトー訳。

輝元……こんな感じの上司がいたら、私はがんばっちゃうね。
「一日でも早く」じゃなくて、「一刻も早く」帰ってきてくれとか、たまらん……
「ほんの少しでも早く顔が見たい」だなんて、
まるでスケコマシですね輝元さん。
体調も心配してくれてて、こういう気遣いがさすがというほかない。
自筆でこういうことを書き送ってくれる上司、
ついていきたくなってもしかたないよね((o(^-^)o))

それで刀のことだけど、輝元が広家に贈った刀で広家が敵を仕留めたのが、
輝元からするととても嬉しかったようで。
物騒な話ではあるけれど、ちょっとホンワカしました。
わざわざ、「輝元から賜った刀で高名を果たしたんだ」と宍戸に自慢する広家も広家ですよねって。

そこでふと気づいたこと。
これは朝鮮出兵のころの書状だけれど、
広家の高名について、帰朝した宍戸元次が報告しなければ、
その戦功は明るみに出なかったかもしれないという状況について。
安国寺や石田・大谷といった人々は無視を決め込んでいたんだろうか。
このあたりもちゃんと把握しなきゃいけないと思いつつ、延び延びになっとりもす。
石田三成襲撃事件も、ウルサンの処理方法についての対立が原因だと聞いたこともあるし。
ちゃんと勉強しようね……

今回は輝元さんの圧倒的なかわいさに脳みそをやられているので、
だいたいここまで。
そのうちちゃんとテーマ立てて書状読みたいな(^ω^三^ω^)
2013-05-12

閑話休題☆親類刀談義

最近書状に没頭しているわけですが、
正矩への愛が薄れたわけじゃありません。
ただ広家が出てこないからモチベーションが……
そんでもって、以前は読めなかった書状が
だんだんわかるようになってきたのでおもしろくてつい><;
やっぱり書状を理解するには、その背景を把握してないと難しいと痛感したりw

この休日は気になるテーマ二つをどっちつかずな感じで追いかけつつ
おまけに脱線を繰り返していたので、何も進んでいないよ!
ダメ人間だね!!!

てなわけで今回は、脱線中に見つけた広家ちゃんの息子宛書状をば。
たいしたことじゃないんだけど、好きなんだよ、こういう書状。


●吉川如券(広家)自筆書状(吉川家文書1322)

江庵からもらった刀のことだけど、
越中殿(益田元尭)が欲しがっているとの知らせが届いたよ。
飛騨殿(毛利元景)も欲しいって言ってるんだよね。
何度か言われてるのに飛騨殿には譲ってないから、最近は言ってこなくなったけど。

越中殿にこの刀を譲った場合、たとえば
飛騨殿には「無理矢理持っていかれたんだよ」と言い訳したとしても、
飛騨殿は内心恨みを抱くことになるだろうね。
まったく困ったものだ。

だから、両方に譲らないのが一番いいと思うんだ。
「鳥飼」「三原」の刀をおまえに譲ってからは、私が持ってる長脇差はこの刀だけだし。
「いかり切」なんかは短くてね。
ひとつ差す分には、この刀くらいしかない。
おまえからもらった「あおい」は、もう一回か二回は寸を詰めなくては、
どうもしっくりこないんだよね。

越中殿が欲しがるのは無理もないことだけれども、
こういうわけで私は困ってしまっているので、うまいこと断っておいてね。
よろしく頼んだよ。恐々謹言

     七月五日      益庵 如券
         美濃殿(吉川広正) 御返報

なおなお、おまえにも見せたように、代金の高い刀なので特に言いづらいのだが、
三原の末のものなので、その出来や刀の切れ味はすこぶるいい。
薩摩の山男なら八十人をただ一刀ずつで切り殺せるほどの刀だ。


以上、テキトー訳。

書中に出てくる毛利元景は、広家の次兄元氏の嫡子で、
益田元尭は益田元祥と広家の姉の孫……親戚いっぱいで楽しそうだなぁ。
今回は益田元尭から所有の刀を「譲ってほしい」と言われたけど、
以前から甥っ子にも断ってるし、自分が使う長脇差がこれしかないので譲れないという趣旨。
でもなんとなく書面を見てると、元尭にはちょっと譲ってやってもいいな、とか思ってそう。

広家はわりと刀をコレクションするの好きだよね。
当時の武将なら当たり前なのかもしれないけど。
京都で家臣にいい刀を探させて、高価だったけど買い取らせた刀が、
以前信長所用の太刀だったとかね(「振分髪」命名:幽斎)。
減封されて台所が厳しいのに、そうした名品だけは手放さなかったりねw

この手紙のときは広家は隠居の身分で、家宝の刀はみんな広正に譲った後。
ほかの刀は短すぎたり長すぎたりと、注文が多いw
隠居して剃髪してるはずなのに、刀差して歩くんですか広家さんwww

こういう、日常のホントなんてことない話題が好きです。
あぁーもう吉川家とその周辺かわいいなちくしょう_ノ乙(.ン、)_



【追記】
別件で家譜を漁っていたら、この刀のことと思われる記事を発見したので。
この刀は小笠原江庵という人が広家に贈ったもので、銘は「八重桜」というらしい。
そしてこれは、広家が家臣(今田以什)を手討ちにしたときに使用されたそうな。
そして吉見就頼に譲られたのか、吉見家に伝わったらしいよ!
やっぱり刀は美術品である前に実用品であるべきなのね……
2013-05-10

元和三年、人質改め騒動④

記憶の奥底に引っかかっていた書状を探していて出てこなくてキィーっとなり、
ようやく見つけ出したものの、今回追っている事件には直接関わりのないものだったので
がっくりきている_ノ乙(.ン、)_

そんなわけで元和三年の吉川家人質騒動、書状を拾いながら流れを追ってきたわけだけれども、
今回は拾いそびれていたいくつかの文書をあらためて拾ってみる。

まず、秀忠上洛に合わせて人質究めがあることがわかっており、
福原広俊があらかじめ毛利家人質リストを提出していたようだ。
それが↓


●福原家証文(文庫「巨室」14)

一、長門守(毛利秀就):慶長七年に江戸に罷り下る
            ただし、妻子ともに江戸に在住すること
            付けたり、お心付けとして毎年米二千俵づつ拝領

一、吉川内蔵人(広家)……知行は三万五千石
   証人:同名善兵衛(二十九歳)を長門同然に差し出した
      重ねて証人として、同名六左衛門尉(二十五歳)を差し出す
      現在この二人が江戸に在住している
      お心付けは最初から与えられていない

一、毛利山城守(元倶)……知行は六千石
   証人:兄弟の弥一郎(元種)(十七歳)を差し出す
      お心付けはなし

一、宍戸備前守(元続):知行は六千石
   証人:実子の左介(元高)(十三歳)を差し出す
      お心付けはなし

一、福原越後守(広俊)
   証人:実子の左近(元俊)が当初から江戸に在住
      お心付けはなし

一、堅田大和(元慶):お屋敷を拝領し、妻子ともに在住
           お心付けはなし

 この状況に間違いはありません。
     (元和三年)六月一日
          御年寄中様


こうやって並べてみると、当主本人+妻子が在江戸というのが秀就、
そして堅田元慶(輝元側近、関ヶ原一乱の責任を問われて、戦後から死ぬまで江戸に留められる)の二人。
毛利元倶・宍戸元続・福原広俊はいずれも兄弟か実子を江戸に置いていて、
吉川家の優遇っぷりがよくわかるね。
「同名」の者を二人置いているけど、いずれも重臣の子だし。
当主の二親等以内ではない。
こりゃ、事情をよく知らない人が見たら、「なんで吉川だけ?」ってなって当然だよなw

そんでもって下の書状が、輝元・秀就から広家へと
「相応しい人質出してね」という趣旨(ズバリ本題は口上のみ)のお手紙。
他の書状と少し離れて収録されてたから見逃してた><



●毛利宗瑞(輝元)・同秀就連書状(吉川家文書1275)

江戸証人のことについて、御奉行衆が申されたことがあるので、
この者を遣わせる。
どうか納得をしてもらいたい。
公儀(幕府)から仰せ出された後では、よくないと思う。
詳しくは使者の者たちから口上で言わせる。
恐々謹言

     (元和三年)九月二十九日     長門守 秀就
                      右馬  宗瑞
         広家 参


差出の日付が九月二十九日ということは、
で取り上げた福原広俊の請書(二十八日)を踏まえたうえで、広家に命じていることになる。
ということは、福原が「広家様の人質は彦次郎殿(毛利就頼)で十分でしょ」と言っているので、
最初から「彦次郎を江戸証人に出せ」という要求だったんだろうと知れた。

そして以下、後に広正が毛利家に提出したという書物に、
この件の顛末が載っておりました。
ただし私はその書物自体にはたどり着けなかったので、
「吉川家譜」に引用されているものを孫引きしておるよ_ノ乙(.ン、)_



●広正から御本家(毛利宗家)へ差し出した御書物

「毛利隠岐(就頼)が幼少のとき、
 台徳院様(秀忠)から江戸に差し出すようにとの命令があったと、
 毛利甲斐守(秀元)から宗瑞様(輝元)へ申し上げられた。
 その件を広家に仰せ聞かされたところ、それ以前からの取り決めを、
 福原越後(広俊)が詳しく宗瑞様へ申し上げたので、
 福原の証言を甲州へ仰せ聞かされると、その後御沙汰はなくなった」


以上、テキトー訳。

広正の書物ってやつは、広正がそのできごとを解釈したうえで
なおかつ毛利家に提出するものとして相応しいように書かれているから、
そのままするっと信用するわけにはいかないよね。
「秀忠からの名指しでの要求」ってのは、当時の文書と噛みあわないし。
でも、「その後は何の沙汰もなかった」ってのは事実だろうから、
吉川家の人質騒動は自然消滅したみたい、ということはわかった。
あと、やっぱり輝元・秀就からの吉川家への要求は、
「彦次郎を出せ」ってことだった可能性がより濃厚にw

まとめてみると、
・元和二年に徳川家康死去、翌三年に徳川秀忠上洛
・秀忠上洛に合わせて京都に終結した諸侯に対して、幕府より人質究めが行われる
・人質究めの過程で、毛利家中の吉川家からは、当主近縁の人質が出ていない点が注目される
・幕府の役人が吉川家の人質に目を付けたことで、
 毛利家としては、幕府から催促や咎めがある前に、
 吉川家から相応の人質を出させようとする
・輝元・秀忠は人質交渉の実務に当たった福原広俊に相談、
 関ヶ原の戦後処理過程で家康・秀忠が吉川家の人質を免除した経緯を確認
・福原はそうした事実を強調しながらも、新たに人質が必要であるならば
 広家末子の彦次郎で十分だと回答
・輝元・秀就から広家に対し、彦次郎を江戸証人に出すように要求
・広家は毛利家からの使者に対して人質の件を了承
・広家は経済的な余裕がないこと、また嗣子広正の将来を慮り、
 広正に対して「人質は出せないが、自身が江戸で秀就に奉公すると返答せよ」と指示
・広正は広家からの指示通りに毛利家に返答する
・輝元・秀就は広家・広正・福原からの回答を受け、秀元と相談
・吉川家の人質の件は、とりあえず現状維持に……
といったところかな。

秀元の陰謀説は確実というわけじゃないから、そっとしとこう……
本当だったとしても、私が秀元の立場なら同じ提案をせざるをえないだろうし。
決して意地悪したかっただけじゃないはずだよ。
福原・益田元祥・児玉景唯らが帰国してしまって、
自分一人で幕府との交渉しなきゃならんのだったら、責任重いもん。
下手打つわけにいかないもん。
慎重になりすぎて悪いということはない。

というあたりで、今回の一連の考証を終了したい。
長々とお付き合いくださりありがとうございました~!
2013-05-09

元和三年、人質改め騒動③

元和二年、家康死去→翌三年、秀忠上洛。
これに合わせて諸大名も京都に集まり、江戸に置いている証人の改めが行われた。
吉川からは当主の近縁の人質が出ておらず、
秀就に対して、「この件で幕府からつっこまれたらヤバイですね~」と
そそのかす者がいた(おそらく秀元)。
秀就は慌てて、幕府から難癖をつけられないうちにどうにかしようと、
吉川に対してふさわしい人質を求めてくる。

広家はそれを承知し、「現当主である広正の意向を聞いてきちんと返事をする」と回答。
そして広正には、「新たに人質を出す経済的余裕もないし、これからのおまえのためにも、
おまえ自身が秀就様が江戸に行くときにお供してご奉公すると返答しなさい」と指示。
また「秀元は吉川の足を引っ張ろうとしているから十分気をつけなさい」とも。
広正もそれを承知した。というところまで追ってきた。

今回は吉川への援護射撃というか、
関ヶ原の戦後処理で人質関連の交渉に当たった、福原広俊その人の文書。
「請書案」てことは、福原が輝元(宗瑞)・秀就に提出した文書の写しかな。


●福原広俊請書案(吉川家文書1319)

   越後殿(福原広俊)より萩様(輝元)への御請けの案書

申し上げます。

一、江戸証人お究めの儀について仰せ聞かされました。
  今回のことは御代始めのために改めて行われたのでしょうから、
  とくに申し上げるに及びません。
  これ以前も何度かお究めがあったことです。
  ですから、佐渡殿御父子(本田正信・正純)のところへ参ってすべてお話し、
  私が書き物を仕上げておきました。

一、広家様の人質に関して、大御所様が
  「その必要はない。吉川・福原は人質など出さずともよい。
  しかしながら、家中の決まりということならば、とりあえず誰かを置いておくといい」
  とお定めになり、佐渡殿から何度も聞かされております。

  そのように心得てこれまで過ごして参り、ときどきは江戸や駿河からもここへと申し上げ、
  また江戸で若殿様(秀就)へも申し上げました。
  しかしその頃は、若殿様は「また何か福原が騒いでいる」とお思いになられていたので、
  お耳にも止まらなかったのでしょう。もちろん覚えてなどいらっしゃなないはずです。
  今回の初めてきちんとお聞きになって、仰天なされ、
  お究めがひときわ厳しくなると思し召されているのです。
  
  第一、そのようなお究めをなさっている衆が、
  自分の手柄か威厳がかかっているかのように申されているのです。
  この件は、それほど重大な問題ではないはずですから、ご安心なさってください。
  何を申したところで、佐渡殿(正信)がいらっしゃらない(元和二年六月死去)ので、
  申しても仕方ありません。
  上野殿(正純)はその時々によって間に合わせで物を仰せられる方ですので、
  確実な話はできません。

一、広家様のご子息のことは、彦次郎殿(毛利就頼)をお出しになっても、
  ひときわもっともなことです。
  そうすれば公儀に対しても問題ありませんし、
  ご家中で何かとご算段なさる必要もないでしょう。

一、左介様(広正)のご縁辺、また在国のことについて、
  これ以前に決定されたことを申し上げ、つぶさにご了解を得ています。
  この件については、公方様が私を呼び出されて、
  吉川のせがれのことを確かにお聞き届けくださいました。
  大御所様もそれでよいとお定めになりました。

  江戸でのことは、これもまたすぐに注進してきました。
  ご存知の通りですから、これ以前のことも書きません。
  この時分、誰が申したことであっても、
  しかるべきことはそのようにお沙汰なされるのが肝要と存じ奉ります。
  申すに及ばないことではありますが。
  このことをよろしくご披露ください。恐惶謹言

     (元和三年)九月二十八日          福原越後(広俊)


日付から想像するに、秀就が京都から萩に帰ってきた後、
広家に人質の要求をするのと同時進行で福原に問い合わせてたんじゃないかな。
広家が秀就からの使者に返答するとき(十月三日)に、
この写しが広家の手元にあったかどうかわからないけども、
「彦次郎を出す」という選択ではなく、広家は「広正を秀就に江戸で奉公させる」という選択をした。
これなら対外的に「人質」って扱いにもならないし、
毛利家にも家中の一門衆にも面目が立つし、すばらしい発想の転換!?

ついでに、広正に最初の三通の書状を送った(十月三日)後、
広家から広正に送られた書状を見てみよう↓


●吉川広家自筆書状(吉川家文書1307)

追って申す。
これまでおまえ(広正)が江戸に参らなかったので、公儀の御代はじめの今になって、
おまえも役儀はじめ(秀忠上洛の際の挨拶)となったのだ。
所縁(輝元娘との婚姻)などについての長州様(秀就)への御礼も、
おまえが江戸に参上して申し上げるべきだった。
だから、本来なら去年参上すべきだったのに、そうしなかった。
今年のことは定まっていたとはいえ、長門様へのご奉公という名目ではなく、
公儀(秀忠)が在洛されていたからだった。

長門様が来年江戸にお下りになるとき、おまえがこちらに居残っていてはよろしくない。
「今回の問題は江戸で解決しましょう」と申せばいいのではないかと思う。
とにかくおまえが江戸に滞在すれば、失脚する心配はないだろう。

私も以前、女(妻?)ともども伏見に在番していたことがある。
このとおりに分別してもらいたい。
なお、この者たち(使者)の口上を聞いて、彼らと相談してほしい。
恐々謹言

     (元和三年)十月五日         蔵人 広家
          又(又次郎、広正)参       蔵


以上、テキトー訳。もうちょっとだけ続く。

まず言いたい。
わりと言いたい放題ですね、福原さん!!! シビレル!
「たいしたことじゃないのに大げさに騒ぎやがって」みたいなw
「私は秀就様にちゃんと申し上げたんですがね、聞いてなかったんですね」ってとこは、
心が荒れているというか、怒りの念を感じたよwww
それにさりげなく「本田正純も役に立たねーしよー」みたいなこと言ってるしw
こういう、物怖じせずに直截に物を言う人って好きだな。
そういえば佐野道可事件のときの福原の書状も、
なんだかイライラが伝わってくるような調子だったと記憶してるけど、
ちゃんと読んでないんだよな。いずれまた……

そして広家。
「よく考えてみれば、早めにおまえを江戸に行かしとくべきだったよね☆」っておいw
「お父さんも同じ道通ったんだから、がんばってね」みたいなそういう……
まあ広正も無事に家督相続したし、将軍へのお目見えも済んだし、
結婚もして毛利宗家の縁者になったしで、頼れる存在になってきたってことなんだろうな。
プラス、このころには竹姫のおなかに広正の子供が宿ってたはずなんだ(翌年二月誕生)。

そんでこの問題が最終的にどういう決着になったかというと、
決定事項が明記してある書状を見つけられなかったので確実とは言えないけれど、
彦次郎は人質に行ってないし、
その後広正が度々秀就とともに江戸に行ってる様子が見て取れるし、
当時吉川の江戸証人だった家臣の師弟は、
広正の長男の長松(吉川広嘉)と入れ替わりで国もとに帰ってきている。
ということはつまり、広家の提案したとおりにことが運んだってことだね。
めでたしめでたし?

次回はこの問題の「解」というか、今さらながらあさった家譜にヒントがあったので、
これまで漏らしていた情報を拾っていきたいです……
とりあえず、今日までに見つけたものは、およびに追記しときました。
もっとちゃんと調べてから取り掛かれよっていう……_ノ乙(.ン、)_<ムリダ
2013-05-08

元和三年、人質改め騒動②

のつづき!

関ヶ原の戦後処理で、「吉川家からは人質いらないよ!」と徳川家康・秀忠から
江戸に置く証人を免除されて二十年近く経った
(とはいえその間、吉川家も重臣のの子弟を人質として江戸に置いていた)。
元和二年に家康が亡くなり、翌年に秀忠が上洛した際、人質改めが行われた。
そこで改めて、「吉川家からは当主の近縁の人質が出ていない」ということが
毛利家中で問題になった(公儀から文句を付けられてはたまらないため)。
そこで秀就から広家へと、「公儀から言われる前に、ふさわしい人質出してね☆」という命が下る。

広家「いまさらそんなこと言われても……両御所様には不要だって言われたし。
   それに新たに人質出す経済的余裕なんてうちにはないよ!
   広正、これからはおまえが江戸で秀就様にご奉公するという方向で始末をつけてくれ!
   どうせこんなことは、秀元のやつが難癖つけてきたんだろ。
   ついては内緒の話を別紙に書いておくね☆」

てなわけで、今日はその「別紙」と思われるものをテキトー訳。
日付は①の書状の1ヶ月前だけど、広家が書き間違えたかあるいはわざと違う日付にしたか、
もしくは翻刻の際に間違えて掲載されちゃったか、三つのうちのどれかだと思うよ。


●吉川広家自筆書状(吉川家文書1313)

これらのことは大事なことなので、申しにくいことではあるが、
おまえのために書にあらわした。気をつけて取り置くように。
返事のときに、この書状はこちらに返してくれ。

一、あちら(毛利秀元)の計画としては、おまえや私、
  越州(福原広俊)の一族・児豊(児玉景唯)の一族・
  益玄(益田元祥)の一族の者たちのことを、
  公儀(幕府)や長門様(秀就)の御前で申し妨げ、
  公の場に出づらいように仕向けて、
  後々は何でも自分の好きなように事を運ぼうとしているように見える。

一、宍戸殿(元匡)・兵庫殿・伊賀殿はとりわけ若輩なので、
  山城殿(毛利元政)に何でも相談して、そのつながりで志摩殿(毛利元景)・
  山内殿・伊豆殿やあちらの取次ぎなどと話を詰め、皆同じようにしている。
  吉大蔵殿(吉見広長)のことについては、
  私も何年も対面したいと榎伊豆(榎本元吉)を通じて申し上げているけれども、実現しなかった。
  けれども甲州(秀元)が申し入れたら対面がかなって、
  扶持米などもやって召し置いているそうだ。

一、秀元は、御家の歴々の重臣たちをのけ者にして、公儀をたった一人で切り回し、
  他には肩を並べる者がいないかのような振舞いをして、
  公儀・内儀ともに、好きなように取り仕切ろうという腹積もりだとの噂だ。

一、人々は囁くように、「龍造寺の鍋島のようなやり方で、
  他国ではありえないことだ」などと言っているそうだ。

一、あの人(秀元)は黒筑(黒田長政)に対して、どのような態度を取っているのか。
  筑州はあの人のことを聞いて、最近はあちらには連絡していないという。
  去年、江戸から益玄が下ってきたとき、殿様(輝元)に詳しく事の次第を報告していた。
  私にも同様に話してくれた。
  これはそれほど疎遠な仲というわけでもないのだから、何を考えているのかということだった。

一、おまえなどが直接公儀と連絡ができないように、秀元は手回しをしてくるだろう。
  そうしているうちに、ゆくゆくは大事になるのではないかと思う。
  それというのも、殿様は頑健でいらっしゃるとはいえ、
  もうずいぶんお歳もとられているから、明日のことはわからない。
  もし何か事件でも起きれば、萩にいるわけにもいかないだろう。
  またこちらも問題が山積みだ。
  大夫殿(福島正則?)が隣国のことを何かにつけ讒言しないとも限らない。
  自国のことでも、油断を絶やさずに気をつけていなければならない。
  これからはおまえの才覚にかかっているのだ。
  私の言ったことを肝に銘じ、公儀のことをしたり自分の身上を保ったりしなさい。

一、人質を出したならば、さらに公儀にへつらうことができる題目は、もうないはずだ。
  あの人(秀元)が考えているのは、こちらに賦役を多く課し、人質を出させて、
  これで公儀の手前面目をほどこして、
  おまえのことは、宍戸殿や山城殿などと同じような地位に貶めようという考えなのだろう。

一、私は若いときから病み疲れてしまい、もうへとへとに草臥れ果てた。
  あと数年しか生きられないろう。
  だからおまえが気遣いをしてしっかり働き、これから御家や自分自身の身上のため、
  またはこれ以上外聞を失わないように、がんばってほしい。

  私がそれを見て一日でも長く心穏やかでいられるようにしてくれれば、
  私が生きているうちに他の孝行をどんなに尽くしてくれるよりも、
  私にとってそれ以上の安堵はないのだ。
  そうしてもらえたら、どんなに感謝することか。

  こう申すのも、家のためなのだ。私のそう長くない人生のうちで、それ以上の喜びはない。
  このことは、静かに繰り返し繰り返しよく考えて、承知してほしい。
  この使いの衆にも相談してみて、彼らの申すことをよく聞いてくれ。

一、ここまで私が言ったことがおまえの心にかなわず、意見をしたいこともあるかもしれない。
  その場合は、二日ほど逗留の予定でこちらに帰ってきてほしい。
  これは当家を立ち行かせるための最初の思案どころなので、おろそかに思ってはいけないよ。

一、そちらでは乳人やその他の人たちへも、絶対にこのことについて話をしてはいけない。
  使者が帰るまではよくよく用心しなさい。
  備前に勘左・次郎兵衛を添えて遣わせる。
  これは大事な書き物であるから、気をつけて取り扱うこと。  以上

   (元和三年)九月三日         広家(花押)
         佐介殿(吉川広正)参


つまり……
広家「秀元ったらナニサマなのアイツー!!!」
ってところだけど、よく考えてみてほしい。
後ろ盾の実父(元清)・隆景が亡くなったとはいえ、
秀元は輝元の養子やで……
ああ、だから対立しようとせずにかわそうとしてるのか。

この広家の言い分に対する広正の返答が、以下↓



●吉川広正自筆請書(1318)

証人のことについて仰せ下されたとおり、いずれももっともに存じ奉ります。
私が十三日に「お受けします」とご父子様(輝元・秀就)に申し上げたところ、
甲州(秀元)がすぐにおいでになるということで、
甲州とご内談なされ、そのうえをもって仰せ出されることになると、
ご父子様から御裁定をいただきました。

一、長門様(秀就)が江戸にお下りのときに、私がお供いたしますと申し上げました。
  これも先述のご返事と同様だとお使いの衆が申されていましたので、
  まずこの両人を差し上せます。

一、こちら(萩)の様子を見て、そちら(岩国)へと
  二日ほどの逗留で罷り上がるようにという件は、承知いたしました。
  また書状は二通ともお返しいたします。
  なお、勘左衛門・次郎兵衛に口上にて申しておきましたので、詳しくは書きません。
  このことをよろしくご披露ください。恐惶謹言

     (元和三年)十月十八日         左介 広正(花押)
          祖九右(祖式長好)


以上、テキトー訳。もうちょい続けてみよう。

今回の広家の書状で、広家の、秀元に対するあからさまな警戒心が知れた。
それでも積極的に秀元に報復したり失脚させようという意思が感じられないところが、
私の救いというか……反面、つまらなくもある。
もし自分が秀元だったならば、暖簾に腕押しというか、
あまり手ごたえのない相手のような気がしてw

広正は素直にお父さんの言うこと聞く子だなぁ。
でもはやり書状では消化しきれず、直接話したいことがあるようで、
萩から岩国に帰ってくると言っている。

広正の返書は、「祖九右」という宛名になっているけれど、
内容的には広家宛のもの。
取次ぎ役の宛名なのに内容は当主宛というのは、隆元から元就宛の書状でも見られたから、
親子間であってもそういう慣例なんだろうな。

祖式九右衛門尉長好という人は、石見小笠原氏庶流の豪族、祖式氏の分家の人。
本家の代替わりのときに当主がまだ幼少だったので、親類の長好が後見役に付けられたけど、
長好自身が元春・元長に気に入られて重用されたらしく別家を立て、
広家・広正の代にも大活躍していて、奉行職なんかも任されていたみたい。
実名から推測するに、元長の側近に加えられた人なんだと思う。
 〔追記:小笠原氏の通字が「長」だったのでそっち由来かもです><〕
広家は元長の奉行衆をほぼ丸々引き継いでいる。
ちなみに本家は毛利家中で存続。吉川家との取次ぎにもなってる。

広正の書中に使者として登場する「勘左衛門」てのは、
たぶん吉川経実(石見吉川氏、鳥取城で伝説を作った経家の嫡男)だろうと推測。
次郎兵衛は調べが足りてませんスミマセン><
経実についてもいつか取り上げたい……いじましい人なんだ、これが。

つい脱線しているな。まあいいかいつものことだ。
他に気になった点。
・「龍造寺の鍋島みたい」ってのは悪口なんだなそうなんだな。
・黒田長政と秀元の交際について苦言を吐く広家……ホント黒田家好きだなこの人。
・黒田と秀元のことに関しては益田元祥から聞いたと書いているけど、
 同年長政が京都から下国する途中で、広家と長政は直接会ってるという記録もあるんだが。
・黒田と秀元の問題に関しては、秀元の縁者として黒田家家臣に嫁いだ女の件、
 また、小早川(毛利)秀包の遺児の件で、ナンヤカヤあったようだけど追いきれてないよ><
・隣国の大夫ってのは福島正則だろ? 警戒してるけど、仲良かったのにこじれちゃったの?
 もしかしてこれも黒田に関係した話なの!?

というあたりで今回はおしまい。まだ続けたい。
次回は、吉川への助け舟にいってみるか……
2013-05-07

元和三年、人質改め騒動①

ちょっとこいつは追いかけだすと長くなりそうな問題なんですが、
長い休みを利用してどっぷり読んだのがコレだったので……
って、もっと他にさ、前から追いたかった書状があるじゃない!
なぜいつもそれを探そうとして脱線して別のところに興味が向くのか。
私の習性なのか。それとも神のお導きなのか……おそらく前者。

てなわけで、吉川家の江戸証人問題に関する書状を読んだよ!
権現様が元和二年に亡くなって、
翌元和三年の秀忠の上洛にあわせて諸将も京都に集結したときに
吉川の人質関連で持ち上がった問題があったようだ。
このときは、秀就はもちろんのこと、
なんと吉川広正も、「病気の宗瑞(輝元)の名代」として上洛した。
輝元の娘婿だからね!
 〔追記:広正が遣わされたのは、秀忠在洛中、毛利家からの二度目の挨拶とき〕

まず一通目、萩の秀就から井上元応を使者として、次のような要求が広家に突きつけられた。


●井原元応口上覚案(吉川家文書1316)

   井掃部(井上元応)口上

一、証人のことは、お知り合いから御意見があり、殿様が仰せ出されたとのこと。
一、公儀から仰せ出されてからでは遅いので、前もって進上するようにとのこと。


関ヶ原後、吉川家からの江戸証人は、広家の実子ではなく、
それまでは家臣の子弟を人質として置いていたわけなんだけれども、
秀忠上洛のタイミングで証人改めがあり、毛利家としても一門の人質を確認した。
そこで「吉川家からは当主の近縁の人質が出ていない」ってことが再確認されたわけだ。
で、秀就は知り合いから「この件で幕府から文句がついたらヤバイんじゃないですか?」
と言われて、慌てふためいてしまった。
それで秀就は吉川家に対して、幕府から「ちゃんとした人質を出せ」と言われたり、
もしくはあらぬ疑いをかけられる前に、
こちらから当主近縁の人質を出したいと言ってきた、というところ。

これに関する広家の請書の写しが次↓



●吉川広家請書案(吉川家文書1315)

御書、謹んで頂戴いたしました。
証人のことについて仰せ下された件は、ご口上の通りに承知いたしました。
左介(吉川広正)に申し聞いて、追って言上いたします。
このことを殿様(秀就)へご披露くださいますよう。恐々謹言

     (元和三年)十月三日
          井掃部(井原元応)・祖三左(祖式元信) 両人御使


広家は秀就の要求を承知したが、応じるかどうかについては、
現当主である広正の決定を待ってから、最終的な返事をします、ということ。
広正はそのとき萩にいたようで、
広家から広正に、この件について「申し聞」いている書状が、次↓


―――――――――――――――――――〔追記 ここから〕―――――――――――――――――――

●吉川広家自筆書状(吉川家文書1311)

備前(宍戸元続)がお越しになって承ったとおり、聞き届けた。

一、使者の方々への返事は、今日申し上げた。

一、この件について私が考えていることを、この三人(広家から広正への使者)に
  くわしく申し聞かせておまえに遣わせる。

一、前々からのことを考え合わせてみると、おまえも私も進退がかかった一大事の問題だと思う。
  人々に手を回さないまま、何もせずにうかうかとしていれば、
  実に大変なことになるので、そう考えて気を引き締めてもらいたい。

一、私の内意は、覚書のほかにもあって、この三人に申し聞かせてある。
  おおまかなことは内覚に書いたので、ここでは申すに及ばない。
  恐々謹言

     (元和三年)十月三日         蔵人 広家
          左介殿(広正)御返事

―――――――――――――――――――〔追記 ここまで〕―――――――――――――――――――

●吉川広家覚書(吉川家文書1317)

   「内覚」

一、江戸の証人のことについて、仰せ出されたとおり、備前守(宍戸元続)の口上を聞いた。

一、おまえが上洛したときに、このお尋ねもあるかと思って、
  証人のことについて、両御所様(家康・秀忠)のご所存を、
  先年越後殿(福原広俊)が話したとおりに、おまえにも伝えてある。

一、今回は公儀からの命令ではないようだ。
  江戸で、御奉行衆ならびに人質改めの衆が話をしていたのを殿様(秀就)がお聞きになり、
  公儀を大事に思し召されて、仰せ出されたそうである。
  それ以前は、両御所様のかたじけなき御意にて、
  実子を差し出さずに済み、そのまま今まできていたのだが、
  今さらこちらから証人のことなど持ち出してしまっては、
  殿様の御ためにも、おまえや私にとっても、近年では外聞も悪くなる上に、
  公儀に協力していない態度になってしまう。

一、証人のことは、上様も奉行衆も、
  先年両御所様が免除してくださったことを忘却されていなければ、
  新たに人質を出すようにとは仰せになるはずがない。

一、もしかしたらこのことを、他に問題が多くて失念されていて、
  重ねて仰せ出されているのかもしれない。
  これまでは萩(毛利家)からはその沙汰もなく、
  公儀のお定めを私に仰せ聞かされているのであれば、
  そのときは先年越後殿が免除を取り付けてくれたことを申し上げると、
  萩への返事にも申してある。

一、これは推測だが、上様がご上洛されたときに、
  人質改めの衆がよくわかっておらずに申し出されたことを甲州(毛利秀元)が耳に入れ、
  両殿様へ申し上げたのではないかと思う。

一、このとおりなので、まさか萩(秀就)が仰せ出されたことではないだろう。

一、たとえば、もし実子を人質に出すことになったなら、
  その証人の手当ても物入りだし、限りがないように思う。
  公儀のお役目やまかないもあり、かれこれと外聞も失うことになろう。
  今年の検分ですらようやくまかなったのだ。
  家中の少々の費用だけでもこの状況で、さらに今年は
  お役目や公儀の普請がまったくなくてもこのとおりだ。
  そのうえ家中も前とは違ってきていて、これからますます困窮に及んで、
  役儀に関わろうとする者がいなくなってしまうだろう。こういうわけで、よく考えてほしい。

   以上

ここまでは、今度の証人のことについて私が思ったことを述べた。
またおまえや私の身上のことについて、つれづれと考えていたことを書き記す。

一、甲州とおまえの間柄について、これからは十分用心しなさい。
  油断をしていたらいずれ大変なことになると思う。

一、江戸の公儀のことは、越後殿・児豊(児玉景唯)が在番しておらず、
  今となっては甲州一人が諸事を取り仕切っている。
  公儀・内儀ともに、彼の思う通りにことが運んでいる。
  近年では彼の公の交際範囲が広くなって、出費がかさんでいるようだ。
  おまえのことを、「国もとで殿様の御城下にいるわけだから、
  気遣いも費用も必要なく、ずいぶん楽な身の上だ」と言っているそうだ。
  今は殿様の縁者となったのだから、甲州に限らず、人々はあれこれと嫉み、悪口を言うことだろう。
  このことは内々よく心得ておくように。

一、若殿様と甲州はいつも江戸にいる。
  おまえの所領のことも、甲州にとっては過分の知行に思えるだろう。
  だから、国もとにばかりいて江戸から遠ざかってしまっては外聞も悪い。
  人々の評価を油断なく気にすること。

一、おまえは今度、ご父子様(輝元・秀就)にこのお話をお受けすると、
  私が申したとおりに申し上げなさい。

一、そしてこれはおまえの個人的な考えだといって申し上げなさい。
  おまえは幼少のころから長門(秀就)様や甲州と同じように江戸に居住すべきだったが、
  両御所様が赦免してくださったので国もとにいることができた。
  もう十分に成長したので、自分が江戸に罷り居て、ときどき上下を出して、
  若殿様へのご奉公に励まなくてはならないと。
  知行・役目の限り、それは皆様ご存知の通りであり、一筋に江戸に伺候する覚悟であるので、
  あれこれと人に申し付けておかなければならないこともあるだろうと、こう申し上げなさい。
  人質などというものは、費用のめどがつかずにお引き受けできないので、
  そのように覚悟したと申し上げなさい。

一、このように申すのは、私が人質を出すのを嫌がって、
  事をすりかえて、おまえに苦労をかけようとしているわけではない。
  今後のおまえのためでもあるし、
  当座は今までの領地の収入ではどうにもならないと思ったのでこうしたのだ。
  こうしたところは細々と計算してみてほしい。

一、もう一件、内緒の話があるが、それは別紙に書き記してある。
   以上

     (元和三年)十月三日          広家(花押)
          左介殿(吉川広正)


以上、テキトー訳。この問題はまだ続きます。

関ヶ原が終わってから二十年近く……当時のことを知らない者も増えた。
家康が存命の間は、一度出した人質を検分することもなく、
家康と諸将の間で交わされた約束が効力を持っていたけど、
今回はその約束が再確認される時期にきてたわけだね。

「吉川は人質なんか出さなくていいよ!」って約束は、
家康だけでなく秀忠も承知していることだけれども、
今回人質改めに当たる現場の人間までには周知されていなくて、
「吉川はふさわしい人質を出していない」ってことが浮上した。
ただ幕府側はあまり問題視はしていなかったけど、
毛利家側がうろたえてしまった……
というか、秀元が秀就をうろたえるように仕向けた、という感じだろうか。

秀元と広家は、慶長十年末に輝元の仲裁で和解しなければならなかったくらい、
実に仲が悪かった。
これは秀元と広家の関係が急に悪化したから輝元が仲裁に入ったというわけではなく、
それまで何となく険悪なムードだったものを、
同年に起きた五郎太石事件、それに関連した熊谷一族の粛清、
そしてこの騒動で乱れた家中の結束を強化するための起請文連署、という一連の流れのなかで、
秀元・広家両家の和睦も進められたようだ。
ついでに言うと益田元祥もバリバリ広家派(姉婿だからか)で、
秀元の家中とは関ヶ原の乱中の衝突もあり、秀元と険悪だったので、このときに和睦した。
誓紙に血判したくらいで人間同士のこじれた仲がいきなり良くなるわけなどないので、
まあ、問題を起こさない程度に、ずっと仲ワルだったんだろうなぁ(遠い目)

そういう因縁があって、今回の人質改め騒動なわけで。
巻き込まれる広正ェ……いや当主なんだからしょうがないのか。
続きでは、広家の秀元への思いの丈を追いたいと思います。
2013-05-06

元就が平賀に激おこぷんぷん丸

タイトルは一度言ってみたかっただけです。
すっきりした(*´∇`*)

陰徳記、だいたいの流れ:
大内家ではクーデターを起こした陶入道全薑(晴賢)の新政権が確立されたが、
備後の国では江田隆連が大内家から離反し、尼子へと属した。
元就はこれを討伐するために隆元・元春らと備後へと向かい、
加勢に駆けつけてきた尼子勢と荻瀬橋で戦って敵を後退させる。
尼子勢への夜討ちの案も出たものの、折からの露の大雨で断念し、
大内からの加勢である陶全薑の軍勢の到着を待っていた。


毛利・平賀座敷論のこと、並びに祝城没落のこと

尼子修理大夫晴久が数万騎を率いて備後の国に打って出てきたとの報告があると、
大内左京大夫義長から元就への加勢として、陶尾張守入道全薑が差し向けられ、
同(天文二十二年六月)十日に旗返表へと到着した。
こうしたところに、旗返の城を切り崩すための会議が開かれ、諸将は皆陶の陣に駆けつけた。

ここで、毛利と平賀の間で、座敷の上下について論争が起こった。
その成り行きを聞いてみると、このようなものだったという。

元就様は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならぬ。
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛のときには、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられている。
それに、義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と思っていた。

平賀太郎左衛門は、「元就がどんなに武威が盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、この隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

陶の入道も、「この問題をどうしたものか。こ
れはもしかすると味方が分裂する事態に発展するぞ」と思い、
「私の判断ではどうすることもできない。ただ神のご存念にお任せしよう」ということにした。
元就・隆宗の二人も、「ともかくこれ以上話し合うことではない」と考え、
近くの八幡の神前で占いを行って、「左の座は元就」と神託が下った。
それでも一同は納得せずに、十五日は元就、十六日は隆宗というように、
順番に左座に着席して会議を行った。

こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長からない当下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

さて、江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就様父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進んだ。

城中には、祝甲斐守・同治部大輔をはじめとして、主力の兵二百余騎、
また久代修理亮からの加勢の百騎、そのほか雑兵など七百五十人が立て籠もっていたが、
矢間を開けて散々に射掛けてくる。
寄せ手は三重の空堀を越え、一気にドッと塀に突きかかっていく。
城中の兵たちは鑓・長刀でそれを突き落とし、切り落としてきたので、
勇んでいた寄せ手もたまらずに、堀際へとさっと引き退いた。

元春様は後ろから藤の丸に三引両の旗を押し立て、「かかれ、かかれ」と下知をする。
諸卒がまた塀に取り付くと、城中がまた射立て突き立ててくるので、
寄せ手はまたもや元のところまで引いた。

こうしたところに粟屋弥七郎(就俊)ただ一人が一歩も引かず、
「この城の一番乗りは粟屋弥七郎だ」と名乗りを上げ、
塀のそばに生えている榎の木にしがみついて、「エイヤッ」と声をかけて塀を乗り越えようとした。
そこに敵が鑓を構えて、粟屋の体の真ん中をズンと突き貫いた。
さしもの鬼神のような粟屋も、真っ逆さまに落ちて死んでしまった。

元就様・隆元様・元春の父子三人が堀を越え、塀に近づいたらすぐに乗り越えようとするのを見て、
諸卒は一気に塀や格子を切り破り、城中へなだれ込もうとした。
城中はまた射立て突き落とそうとしたが、寄せ手が少しも怯まずに乗り越えてくるので、
城中の兵たちは塀の裏からさっと引いた。

右の方をキッと見ると、平賀太郎左衛門隆宗(広相)の鎧は篭手や脛当てまで金でできていたので、
まるで仏像のように見えた。
平賀勢は五百余人が真っ先に進み、青竹に鹿の角を結いつけたものを五十人ほどに持たせて、
到達すると同時に一気に「エイヤッ」と塀を引き崩し、足をとどめることなく乗り入っていった。
「鬼平賀」と呼ばれるのもまさに道理だと思うほどに、猛々しいやり方であった。

祝は甲の城に引き籠り、攻め込めば切り出し、切り出せば押し込み、
四度か五度までは防ぎ戦ったが、多勢に無勢でどうにもかなわず、
甲の城戸までも破られてしまった。
吉川勢は一番に甲の丸に乗り入ると、祝甲斐守・同治部大輔・同長戸守を討ち取り、
元春の手柄とした。

これを見て雑兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとしたが、
あちこちで追い詰めて討ち取ったので、首の数は多く、逃げおおせた者は少なかった。
その日の首級六百のうち百七が吉田勢、百十一が元春様、八十が平賀、七十五が熊谷、
六十三が宍戸、七十一が天野、六十九が香川・飯田・山県などの佐東郡の者たちが討ち取ったものだった。

諸軍勢は勝ち鬨を上げて本陣へ引き返すと、
その日の夜の亥の刻に城に火をかけ、山の中へと引き退いた。
内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就様と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就様も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。


以上、テキトー訳。

上座・下座で難癖をつける元就……これは新鮮だわ(*´∇`*)
いやまあ、武士は面目が命ですからね。怒って当然ですよね。
器ちっちぇえとか全然思ってナイデスヨ?
陶さんが困って神様に丸投げするのもナイス!
正直どうでもいい問題に関して、くじ引きって素晴らしい解決手段だよな。
考えようによっては、元就と平賀に隣の席を争われるマドンナ陶さん(ただし剃髪済み)。
これはこれでおいしいですmgmg
でも、順番に座ることでOKなら、最初からそうしてれば……イエナンデモナイデス

合戦シーンはホント好きだ。
元春が下り藤三引両の旗だったり、平賀さんの必殺☆塀はがしがかっこよかったり。
まるで仏像のような平賀広相……ゴールドクロスかよ。
毛利の装備は古くさそうだからなw 目に付いたんだろうなwww

ところで江良・内藤の三吉への所業は、あのまんまでいいんですか!
なんかとってもひどいことしてるけど、完全スルーじゃない???
元就の側室の一人って、三吉氏じゃなかったっけ。
元秋やら元康の母親が……ここの三吉さんじゃないのかな?
とりあえず、帰り際にちゃっかり吉田に寄って、
娘さんと久々の対面を楽しんだであろう興盛、よかったね!

さて、お次は備中の話題です。
2013-05-05

もののふの死化粧

昨日は書状類を読んでいるところに知人から呼び出しがあって
会って飲んでいるうちに遅くなって撃沈、という体たらくでしたw
自堕落な連休ライフ満喫してるなぁ。

さてさて陰徳記、前回のあらすじ:
すっかり陶全薑(晴賢)の一存でことが運ぶようになった大内家。
備後では江田隆連が大内から離反し、尼子に属した。
元就はそれを陶に注進すると、自ら兵を率いて江田討伐に向かう。
その途中、大内方の兵を籠めていた湯木の城では涌喜が離反して目付け役を殺してしまう。
元就は、まずはこちらを攻めるべく、荻の瀬へ向かったところで、川を挟んで尼子軍と対峙する。
吉川衆、熊谷などが先陣となって橋の上で攻め戦い、敵将の一人を仕留めることができた。


備後の国、泉合戦のこと(下)

芸陽勢が勝ちに乗って追いかけようとすると、元春は
「敵は多勢だ。味方が狭い橋を追い越して、また引いてくるのは難しい。
早く引いてこい」と下知をした。
熊谷の衆が一番に兵を治めたので、皆また橋の前に弓衆を前に出し、備えを固めて控えていた。

二陣の尼子金吾(敬久)は、敵が勝ち誇って備えが乱れた隙を討とうと、
逃げてくる味方を押しのけながらかかっていこうとしたが、
道が混雑して急には進めないので、そばの畑のなかの畦に一旦退避した。
その隙に、芸陽勢はさっと引いて弓備えを立ち設けている。
金吾は大声を張って、「敵は最初の合戦で痛手を受けている。
もう力は残っていないはずだ。息も継がせず攻め戦えば、味方の勝利は間違いないぞ。
進めや者ども」と下知をして、橋の上に一度にドッと攻めかかった。

元春はかねてから金吾が無二にかかってくると考えていたので、
それを見て「今度は敵が橋を渡ってくるその途中を襲撃して勝利を得てやろう」と思っていた。
それで「敵に橋を越えさせろ」と下知をした。
あえて妨げなかったので、敵は易々と橋の上を進む。
けれども出雲勢は、敵が鏃をそろえて待ちかけているのを見て、
橋を渡りきらずにためらっていた。
そこに後ろから、金吾が「進めや者ども」と大音声を上げて下知をするので、
兵たちは橋を越えて進んだ。

元春は敵勢が半分ほど渡ってきたと見るや、
「者ども、かかれ」と采配を振るい身を翻して下知をした。
新庄勢は国人たちに先を越されまいと勇んだ。
熊谷・香川といった人々は元春の旗本の者たちを追い越そうと進んでいったので、
負けじ劣らじとかかっていくと、出雲勢はたちまち一戦のうちに利を失い、
また橋から引き返そうと、ほうほうの体で逃げ帰っていった。

金吾が橋を渡りきらないうちに、先陣の兵たちが早々と逃げ帰ってきたので、
「いったいどういうことだ」と怒ったけれども、
浮き足立った勢をまた立て直すことはできなかった。

芸洲勢は、「敵の後陣に国久が二千ほどで続いてきたならば、
今度は橋の果てまで追いかけていって一人たりと向こうの地へは渡しはしない」と、
またもとの配置に戻って敵襲に備えた。
国久は馬を早めて駆けつけてくると、初手の勢と入れ替わろうとしたけれども、
敵が早々に引いてしまったので、仕方なく怒りをこらえてしばらく敵陣を睨んで歯軋りをしていた。

後日、吏部(誠久)が金吾に向かってこう言ったそうだ。
「元春はまだ二十歳ほどの若大将だ。
剛強さばかりが先走ってきっと大いに勇み誇り、戦を第一に、
謀を二の次に考えているだろうから、欺きやすいと思っていた。
しかし今日の合戦の駆け引きは、備えの立て方といい、古今無双の弓取りである。
おまえたちもよく見ておけ。敵であっても、元春のやり方を学ぶといい。
なんという勇略全備の勇将だろう。
元就は子供までもよく生み育てた、果報めでたい大将だ。
武威が末代まで衰えずに盛んであるのは、弓取りが願ってやまない武運である。

大内の義興は、当人一代の間は武運も古今に傑出し、
義稙公を天下の武将に祭り上げて、自身は七ヶ国の太守となりながら、
九州をもその手に属させた。
だから今の元就よりも武名の誉れは世に名高いというものの、
子の義隆は武もできず、文も中途半端だった。
これを思えば、元就は弓取りとして義興にも勝る武運の持ち主だ。
弓取りとして子を持つならば、元就にあやかりたいと思うほどだ」と言ったという。

これは、魏の曹操が赤壁の戦いで呉の孫権が周瑜によって破られ、
その後兵を加えてもうまくいかずに、溜息をついて
「子を生むならば孫仲謀のような者がいい。
向こうの劉景升の子供たちは、豚や犬のような者しかいない」と言ったというのも、
まさにこのようなことかと思い知られる。

晴久は先陣の戦で味方が利を失ったと聞くと、急いで本陣を寄せたので、
国久を先陣として、橋を隔てて矢戦があった。
「吉川勢は朝からの戦で疲れているだろうから、少し息を整えよ」ということで、
元就様・隆元様が二千余騎で入れ替わりながら足軽競り合いをする。
晴久は二万の勢を川越えさせることができないので、
川岸に立って遠くから矢を射掛けることしかできない。

吏部・金吾は、今朝の合戦で利を失ったので、川を渡って一戦しようと進んだけれども、
亀井・牛尾たちは「川の水が非常に増しております。
渡ろうとしても大勢溺死するでしょう。それに、今日はもう夕暮れが迫っています。
決戦は明日ということにして、今夜のうちに手勢を分け、
川の上下に渡れる場所がないわけがないので、この土地に詳しい者を先に立て、
一隊を夜のうちに向こう岸に渡しましょう。
明日、両方から敵陣を挟み撃ちにすれば、勝利は疑いありません。
どうかこれからの川渡りはおやめください」と制した。

こうして日もすでに傾いていたので、敵味方ともに勢を引き上げた。
尼子勢は二日のうちに川の上下一、二里のところから勢を渡し、
三方から攻め戦おうと決議したが、
その夜からまた大雨が強く降って水かさがさらに増したので、
晴久は仕方なく釜棟に陣を据えた。
元就様父子三人は四千余騎で志和地に対陣した。

こうしてその日の戦が終わり、今日討ち取った首などを実検した。
首は六つあったが、そのなかに佐久木新右衛門が米原の首を提げて元就様の前に駆けつけてきて、
実検に備えていた。
米原は鉄漿を真っ黒につけており、乱れた髪に焚き染めた香がほのかに匂ってきた。
元就様は、「なんという剛の者だろう。
今日討ち死にすると思い定めていたのだろう。
勇に優れているばかりか、心も優美なつわものだ」と言って感涙に咽んだ。
御前に居並んだ侍たちも皆鎧の袖を湿らせた。
昔の斉藤実盛は、髪を墨で染めて名を北国の故郷までとどろかせ、
今の米原は髪に香を焚き染めて勇を備陽の戦場に刻み付けた。
感心しない者はいなかった。

さて、五月雨は絶え間なく降り続け、川の近くの村々の民家はすべて水底に沈んでしまった。
庭の木々も波間に沈み、魚が梢に遊んでいるような状況では、合戦などできるわけがない。
互いに水が引くのを待っていた。
そこに、備後の国人たちが元就様にこう諫言した。
「味方のわずかの勢で、晴久の二万以上の大軍と対陣なさるのは非常に危険です。
そのうえ新宮党は先日の合戦に打ち負けているのですから、
この陣を枕として討ち死にする覚悟で、会稽の恥を雪ごうと歯噛みをしていると聞いています。
あの父子三人の勢は、三千以上いるのは確実です。
三千人が決死の覚悟を決めて攻め戦えば、どんな強敵堅陣であっても、破れないことなどありません。

それどころか、晴久が二万の勢で前後左右からかかってきたなら、
敵勢の一陣や二陣は切り崩せたとしても、最終的には味方が負けてしまうでしょう。
かかるべきときにはかかり、引くべきときには引いてこそ、
敵に応じて変化する兵法ではないですか。
荻の瀬合戦では二度も味方が勝利を得ました。
これで面目は保てますから、この陣はお引き払いください。

昔の楠正成も、天王寺に出張して京勢を二度まで追い崩したとき、
宇都宮が五百余騎で向かってくると聞くと、正成は三千の勢で天王寺を退却しました。
そして再び大勢を率いて山々や峰々に篝火を焚き、少しずつ攻め寄せたのです。
宇都宮もまた、前回正成を退却させたことで面目を保ち、都に引き返しました。
このような例もあるのですから、今回は退却なさって大内勢の到着を待ち、
再び大軍を率いて打って出てください」

元就様はこれを聞いて、「皆の仰せはもっともだ。
しかしながら、先にも申したように、敵が大勢だからといって見逃すことはできない。
晴久の二万騎を我が四千騎で防戦して、たとえ利を失ったとしても、
毛利家の武名の傷にはならない。
また、もし打ち勝つことができたなら、我が武名は天下に輝くだろう。
この陣は地形も険難で、敵が数万でかかってきたとしても、
たやすく攻め崩されるようなことはない。
他の人々は好きにすればいい。この元就だけは、ここで引くなど思いも寄らない」と言った。

また元就様はこう言った。
「晴久は味方が大軍であると慢心し、敵がかかってくるとは想像もせずに油断しているだろう。
ここで夜討ちをしかけて切り崩そう」と、宍戸・天野・熊谷などの人々と決議した。
同六月一日の夜、忍びに慣れた兵たちを敵陣に遣わし、陣取りの詳細をよく下見させた。
同五日(三日)の晩に切りかかろうと決定したが、
尼子はどんな深慮があったのか同五日(三日)の辰の刻、釜棟を引き払って山内へと出た。
そこから毎日足軽を出しては、在所在所で野伏戦をした。

同七日、陶の入道からの飛脚が到着し、
「近日中にそちらの境まで出張するので、粘り強く対陣してほしい」と言い送ってきた。
これで芸陽勢は力を得て、一方ならず勇み猛った。
こうなると、芸陽にいた大内勢が思い思いに馳せ加わり、六千余騎ほどになった。


以上、テキトー訳。おしまい。

うむうむ、やっぱり合戦は読んでて楽しいな(*´∇`*)
計略の応酬とか攻防がドキドキするよね。
私の苦手な故事や仏教説話もそんなにたくさん出てこないし……w

そんでもってまた元春爆ageだよ!
そうだよ、元春はカッコイイんだよ!
ただの脳筋や疲れた中間管理職とはわけが違うのだよフハハハハハ!!!
ホント吉川家にご奉公したいわぁ(*´∇`*)

あと尼子晴久や新宮党、手ごわくてかっこいいね!
米原さんもステキじゃない。鉄漿つけて髪に香を焚き染めて戦場に出てくるとか。
もし首を取られても見苦しくないように、ってことだよね。
自分で死化粧したってことか。
こんなところで意地を張る……それがもののふなのか。
そういえば経家も、鳥取城に入るとき、自分の首桶持参したっていうしな。
切腹の前には行水をして、お気に入りの服でその場に臨んだんだよな。
……せつない(´;ω;`)

さてお次、もしかしたら書状類に浮気するかもしれませんというかすでにしている。
2013-05-03

尼子と大内の狭間

陰徳記、だいたいの流れ:
大内義隆が陶隆房の謀反によって滅ぼされ、大友宗麟の弟である義長が大内家当主となった。
隆房は入道し、実名を晴賢と改めて全薑と名乗る。
義隆に味方した者たちは滅ぼされ、所領を没収され、陶に一味した者たちは所領を増やした。
しかし義長と陶全薑の大内領支配には問題もあり、杉・内藤らとの軋轢も増えていった。


備後の国、泉合戦のこと(上)

天文二十一年(二十二年)、備後の国の江田にある旗返の城主、
江田の入道(玄蕃助隆連)は、それまで大内家の幕下に属していたが、
たちまち志を翻して尼子(晴久)に一味した。

そうなってしまったのには、次のようなわけがあったという。
山内大和守(少輔四郎隆通)がこう言って江田を誘った。
「あなたが大内家に属しているのは実にまずいと思う。
つらつら大内家の様子を見ていると、滅亡はそう遠くないとわかる。

まず義隆卿だが、太公の言ういわゆる十過、
つまり『貪りて利を好む者あり。仁にして人に忍びざる者あり。
智にして心つたなき者あり。信にして喜んで人を信ずる者あり。
廉潔にして人を愛さぬ者あり。智にして心緩き者あり。
儒にして喜んで人を任ずる者あり』という七つの不善が備わっていたものだから、
結局は家人の陶によって家を滅ぼされ、命を奪われてしまった。

今は縁もゆかりもない大友左衛門督義鎮の弟である義長を大内の当主に据えているが、
これは傀儡師が人形を舞わせているようなもので、
何につけても陶の一存でことが運ばれている。
陶全薑は杉の重矩を断罪して誅してしまったから、この一族は皆きっと陶に恨みを抱き、
『何か事件でも起きないものか。全薑に向かって一矢報いてやろう』と、
時節を待っているはずだ。

内藤(興盛)・豊田といった者たちは、
義隆卿が相良という大奸臣を重用して政道がことごとく狂っていたために、
一旦は陶に味方したのだ。
陶が不善を改めて内藤・豊田らに礼を尽くし朋友の交わりを深めるならまだしも、
そうしないばかりか、陶はまったく鼻持ちならない驕慢な古入道だ。
義隆を討ち果たした後は、自分こそが防長豊筑の大将であるとばかりにますます驕り高ぶり、大
内家の諸士を皆自分の家之子郎党のように扱っている。
内藤・豊田といった人々も、『これでは義隆のときよりひどい』と、後悔しきりだという。

陶は弓矢を取らせれば豪胆そのもので、大将の器に適しているように見えるが、
これもまた『勇にして死を軽んずる者あり。急にして心の速やかなる者あり。
貪りて利を好む者あり。剛毅にして自ら用いる者あり』といった不善に他ならない。
いずれは尼子によって滅ぼされるか、
そうでなければ防長豊筑備芸石の味方たちがバラバラになって陶に背き、
同士討ちが始まって滅亡することになるだろう。
そうなればその隙に乗じて尼子が備芸石をたちまち手に入れることになるだろう。
たとえ六尺の棒で大地を叩こうとして失敗することがあったとしても、
このことに関しては、私の予言が外れることはないと思う。

陶が滅びた後に大内の領分を切り従えることができる大将は、
毛利元就か吉見正頼の二人のうちのどちらかだ。
元就には国人たちが多く付き従っている。
なかでも熊谷・天野という将兵の器を兼ね備えた者が一味しているから、
羽翼もすでに整っている。だから今後は毛利家の武威はますます大きくなるだろう。
そのうえ隆元・元春・隆景の三人の子供は、いずれも劣らぬ大将だ。
たとえ元就がいなくなっても、百年後まで毛利家の弓精はいや増すはずだ。

尼子晴久の家老たちは、主人に『元就と和睦してください』と諫言をしている。
晴久の祖父の経久は大内義興と何年も敵対していたが、
元就が尼子家に一味していた間は、大内義興が名将であったにも関わらず、
芸陽では大内が何度も戦利を失っている。
その子の義隆は父に比べようがないほど出来が悪かったというのに、
今は元就が一味しているから、安芸一国は残らず大内家に従っている。

とにかく、大内・尼子の国争いは、元就が味方した方が勝利しているわけだ。
だから『晴久も先非を悔いて元就と和睦してください』と、
牛尾遠江守たちが再三意見をしているのだ。
晴久も、『元就が味方に与するなら、備後一国は元就の切り取り放題だ』と仰ったそうだ。
おそらく右馬頭(元就)も、大内家の武運を見限っているだろうから、
尼子に属すことになるだろう。

あなたも尼子に従うべきだ。
しかし大内家の勢いが尽きてからでは、降参したのと同じになってしまう。
大内家の武威がまだ盛んなうちに尼子に一味しておけば、
尼子への志が深いと表明できて、あなたのためになるだろう」

山内がこう言ったので、江田はその道理に屈服してすぐに尼子に属し、
大内への手切れとして、大内領の在所へと攻撃を加え、
民家に放火したり一揆勢を薙ぎ捨てたりした。

元就様はこのことを山口に注進すると、自ら四千余騎を率いて備後の国へと向かった(四月五日)。
江田はどうにもかないようがないと思い、すぐに尼子へと早馬を遣わして急を告げた。
晴久は「元就が小勢で備後へ打って出てきたとは、願ってもない幸運だ。
急ぎ後詰をしてあっという間に打ち滅ぼし、
その勢いに乗ったまま芸陽一国を切り従えて、周防へと攻め入ろう」と、
出雲・伯耆・石見・美作の勢を集めた。
そして総勢二万余騎で出雲を打ち立った(四月)。

備後の涌(湯)木の城には、大内家から主力の兵が十三人差し籠められていたが、
涌木(喜)の何某がすぐに心変わりして尼子に一味し、
その十三人をすべて討ち果たしてしまった。
元就様は「まずは涌木を攻め滅ぼそう」と、五月二十日にその表へとやってきた。
そこに尼子晴久が二万余騎で着陣し、涌木が味方に与したことに力を得て
、尼子紀伊守国久・嫡子の式部大(少)輔誠久・次男の左衛門太夫(敬久)を大将として、
牛尾遠江守(幸清)・宇山飛騨守(久兼)・米原左馬允・桜井刑部少輔・
広田隠岐守・疋田左衛門尉など五千余騎が荻の瀬表へと打って出て、
晴久の本陣に五十余町ほど先立った。

国久は、芸陽勢が橋を前にして備えていると見ると、軍を三つに分けた。
先陣は尼子式部少輔・宇山飛騨守・米原左馬允・疋田左衛門尉をはじめとした二千余騎である。
二陣は尼子左衛門太夫・牛尾遠江守・桜井刑部少輔の一千余騎、
その後に尼子紀伊守が二千余騎で控えた。
「一陣・二陣で元就父子と渡り合って攻め戦えば、
勝っても負けても敵の備えは乱れるだろう。
そのとき国久が旗本を率いて無二に攻めかかり、敵の将を討ち取ってやろう」
という計画が立てられた。

芸陽勢も、先陣は吉川治部少輔元春を大将として、
それに従う国人衆は、熊谷伊豆守信直・香川左衛門光景・飯田七郎右衛門尉・
山田左衛門太夫・福島三郎左衛門尉・遠藤左京亮など二千余騎が、
荻の瀬の橋を前に備えていた。
元就様・隆元様は、こちらも二千余騎で少し後ろの小高い場所に控えている。
泉の入道父子は、「私はこの土地に詳しいので、
先陣に馳せ加わって一合戦して参ります」と元就様にことわってから、元春の手についた。

はじめは互いに弓衆を出して橋の両方のたもとに詰め寄り、矢戦をしながら時間が過ぎていった。
「荻の瀬の表で合戦が始まりました」と晴久の本陣に注進が届くと、
晴久はすぐに川添(副)美作守(久盛)・立原備前守(幸隆)・伊藤入道・
三沢三郎左衛門・松田勘解由・目黒佐渡守など三千余騎を、
「新宮党に合力せよ」と差し向けた。
晴久自身も、「先陣の合戦の様子によっては本陣を率いて一合戦しよう」と考え、
二十余町ほど進んだ。

国久父子は、「合戦が始まれば、きっと晴久が駆けつけてくださるだろう。
まだ味方が続いてこないうちに一戦して敵を押し破り、
私一人の高名にしてしまおう」と考えて、すぐに橋の上に進んできた。
元春も、「晴久の大軍が後から続いてきたら一大事だ。
その前に急いで切り崩さなければ」と考えて、一気に敵を挫こうと、
一際進んで渡り合い、わき目も振らずに攻め戦った。

出雲勢の大将は、そのころ鬼神のように世間から恐れられていた国久父子である。
芸陽勢の大将は、大強将の名を得た元春である。
元春は当年二十二歳の若大将なので、その勇気は金輪の高山を照らすほどであった。
そのうえ新宮党の人々とは、今日が始めての大合戦となるので、
自分の手並みを見せつけようと、日頃にも増して豪胆さをふるった。

そうしているうちに、橋の上の戦は火花が散るほどになったが、
最近の五月雨で川は水かさを増し、流れが逆巻いて川岸を覆っていたので、
どこから渡れるのかわからなくなっていた。
尼子勢の方が多勢であったが、川を渡ることもできなかったので、
ただ橋の一本道を競り越そうと、揉みに揉んで攻め戦った。

出雲勢のなかで米原左馬允が名乗りを上げ、
三度の合戦では毎度真っ先に進んで向かう敵を多く突き伏せ、命を限りに攻め戦った。
その様子は、伝え聞く治承の昔、源三位入道(頼政)の郎党、
渡辺省・授・続の源太が宇治橋の上で勇猛に戦ったという話を思い起こさせ、
敵も味方もこれを見て皆感心した。

両陣の兵たちは橋を狭く感じたものの、ほかに通れる場所もなく、
肩をぶつけ鉾を並べ、叫びながら攻め戦っていた。
その声や音は、幾百幾千の雷が天地を揺るがすかのようであった。
元春が「いつまでも勝負を決さないままではいられない。いざ目にもの見せてやる」と、
自ら鑓を提げて橋を渡ろうとすると、新庄勢は言うに及ばず、
熊谷・香川・飯田・山田・福島・遠藤も無二にかかって敵を押し崩した。
出雲勢は突き立てられて少し引く。
米原左馬允が「なぜ下がってくるのだ。進めや者ども」と叫んで真っ先に進み、
ここが最後だという気合を見せる。
すると芸陽勢が少し怯んだので、米原は勝ち乗ってこのまま橋を競り越そうと、身を躍らせて進んだ。

備後の住人に、佐久木新右衛門という者がいた。
名高い弓の名手であったが、橋が非常に狭くて渡りようがなかったので、
川下の方へ回り、敵に矢を射掛けていた。
米原が一人で真っ先に進むのを見て、佐久木はよく引いて矢を放った。
その矢は米原の脇から肩まで貫通した。
さすがにハンカイのように勇猛な米原も、あまりの深手にたまらず鑓をカラリと投げ捨て、
橋から真っ逆さまに川の中へと落ちてしまった。
佐久木は「やったぞ」と弓を投げ捨てて走りかかり、米原の首を掻き切った。

芸陽勢はこれに力を得て、槍長刀の先を揃え、一度にドッと突きかかった。
出雲勢はたちまち橋を追い抜かれ、群れになってさっと引いた。
式部少輔は名高い力持ちの勇将だったので、
「これはどうしたことだ。敵は小勢だというのに、こうも易々と突き立てられるとは口惜しい。
引き返せ、宇山。戻れ、疋田」と下知をして、自らも馬を引き返し、鑓を入れて散々に戦った。
しかし浮き足立った軍勢の耳に下知は届かず、皆逃げていく。
式部はわずかな勢では勝ち目もないので、二、三町ほど引き退いた。


以上、テキトー訳。つづく。

( ゚∀゚)o彡°かっせん!かっせん!
若元春が非常にヤル気な( ゚∀゚)o彡°かっせん!かっせん!
イィィヤッフーーー!!!
取り乱しましたが、やはり合戦描写は楽しいね!
血気盛んな若元春……燃える。
最近、元春には中間管理職的ストレスフルなお父さんリーマンのイメージが定着していたので(私の中で)、
なんだか心が洗われたような気分です(*´∇`*)

すっかり元春に心奪われているけど、今回の話で注目すべきは、山名と江田のやりとりだな。
どちらにつくかを見極めるのって大変だよね。
「大内家が傾いてから尼子に属しても手遅れだよ!
今のうちに尼子についたほうがおトクだよ!」ってな考え方は、よく現実を見てるよなぁ。

そんでもって元就が相変わらず爆ageされているわけだけどもw
元就が加担した方が勝つ、って、すげえなwww
あと、吉見と毛利がだいたい同格、みたいな捉え方がなかなか興味深い。
もう一つ、毛利の傘下の国人で、最有力が熊谷・天野というあたりも……
実際どうだったのかは、勉強不足なのでよくわかんないけども。

さてさて、次回も続きを読みますが、せっかくのお休みなので、書状なんかもゆっくり読みたいねぇ。
ホント、3年くらい仕事行かないで軍記や書状に埋没したい!
はっ、これが五月病か!←違う。
2013-05-02

石屋和尚の遍歴

今夜は帰りが遅いので朝のうちに更新!

前回のあらすじ:
長門の国の大寧寺は、大内義隆の切腹の際にことごとく焼失したが、
その後大内家当主となった義長によって再建されることになった。
大寧寺の開基となった石屋和尚についてのお話の続き。
石屋和尚は同輩の了意和尚に騙されて、師からの伝法で出遅れてしまった。
その後諸国を遍歴して長門の国にやってくると、亡者が地獄の鬼に打ち据えられているところに出くわす。
その亡者を弔っている家にとどまり、丁寧に供養を行った。


長州深川の大寧寺のこと(下)

その夜、その主人の夢に、亡き母親が美しく幸せそうな様子で現れた。
母親は頭に珊瑚のかんざしを挿し、手には花をひねって、
「私は五障三従の罪が重く、八大地獄の底に沈んで、長いこと閻魔王の棒に打ち据えられていたの。
休む間もなく責めさいなまれていると、高貴な僧正の弔いを受けて、
たちまち安養不退の浄土に生まれ変わることができたのよ。
もう少し話をしたいけれど、急いでいかなければならないから、そうもできないわ」
と言って立ち去った。

男はあまりに悲しくて母の袂にすがり、「私もともに参ります」と言うや否や、
松を吹き抜けていく風とともに夢は覚め、見てみるとそこにいた母はどこにもいない。
ただ幸せそうな顔ばかりが思い出されて、ただの夢とも思えなかった。
「母はあの雲の上にのぼっていったのだろう」と見上げると、空には趣深く雲がたなびいていた。

男は早朝に起きると、このことを石屋和尚に話し、合唱して喜んだ。
その後男は喜びを抑えきれず、黄金三枚を取り出して和尚に寄付した。
和尚はその黄金を懐に納めると、九州に渡って薩摩の国に入り、国中を歩き回ったが、
あるときあまりに歩き疲れてとある山陰に聳えた巌にもたれかかって、しばらく休息した。

松や杉が茂っている様子を見ては、「後人の標榜にしよう」という言葉を思い出し、
散り積もる木の葉に身を横たえては青銼和尚の在世していた昔を想像して
「これこそ人間の是と非を裁断して粗末な庵を結ぶのにちょうどいい場所だ」と物思いに耽った。
和尚はあたりの松を柱の支えにして、鬱蒼と茂った草むらを引き結んで籬に造り、
しばらくはそこに足を休めた。
座禅工夫の暇もなく、ありのままに清らかに暮らしていると、
周辺の獣たちもよく馴れ、鳥たちは花をくわえて献じるようになったそうだ。

ここにどこの誰とも知らない女性が一人訪ねてきて、
「私に即心即仏の奥義を教えてください」と言ってきた。
和尚が「あなたはいったい誰だ」と問うと、その女性は、
「私はここに住む龍神です。その昔、釈尊の法座に列席したことがありますが、
まだ畜生道の苦患から逃れられません」と答えた。
和尚はすぐに直示人心見性成仏(教説や修行によることなく、
座禅によってただちに自分の心の本性を見極め、悟りを開いて仏と成ること)の教えを授けた。
龍女は合唱し、朝暮れとなく度々通ってくるようになった。

それを里の者たちが伝え聞き、
「この山陰に草庵を結んでいる石屋和尚のところへ、
それは美しく色っぽい女房が、夜毎に通っているという。
この僧はきっと、戒律を破る悪僧に違いない。
さあ、その女人を絡め取って罰を与えてやろうではないか」と言って、
百人、二百人ほどが弓矢を携え、その女房の後をついていった。

そして石屋和尚の草庵に着くと里人たちは草庵をびっしりと取り囲み、
「この中へ、それは美しい婦人が入っていっただろう。こちらに出せ」と迫る。
すると龍女は、「私がせっかく知識の豊富な高僧に出会い、
畜生道を離脱して成仏を果たす修行をしているというのに、
外道な考えを持った凡人たちがそれを妨げるとは無念極まりない」と言って、
たちまち本来の姿に変身した。
そのまま近くにあった大岩を真っ二つに砕くと、
地面を揺るがすようにして海中に飛び込んでいった。
里人たちはこれを見て肝を潰し、十方へと逃げ散った。
その大岩は「龍宮岩」と呼ばれ、今でもそこにあるそうだ。

その後和尚はそのあたりから三十余町を隔てて、直林寺という寺を建立した。
またこの国の玖田嶋というところに伽藍を造営しようとしたところ、
大きな岩が張り出していて敷地がずいぶん狭かった。
和尚がその岩の上に座して座禅すると、この石は霜や雪が陽光に照らされて
消えていくかのように、たちまちなくなってしまった。
和尚は大いに喜んで、以前問田の里の長が献上した黄金を取り出し、
亡者のために一宇を建立して「妙円寺」と名づけた。そ
の後、福昌寺などの伽藍を建てたそうだ。

和尚はそれから再び長門の国に上ると、問田を訪れてまた一宇の禅院を建て、
これもまた妙円寺と名づけた。
しばらくそこに滞在していると、ある山の上に紫の瑞雲がたなびいているのを見て、
和尚は「きっとあの山の麓に伽藍を建立すべき地があるのだろう」と思い、
期待に胸を膨らませてそこを訪れた。
それが今の大寧寺の山頭であった。

鷲津(頭)の何某(弘忠)とかいう者がそのあたりを知行していたので、
鷲津はすぐに和尚を自分の館に招き入れ、
「ぜひともこの土地で寺を開いてください。私が檀那になって建立しましょう」と言った。
和尚は「私に少し考えがあります」と言うとそこを出て、
美作の国まで行き、西来寺という寺で亡くなってしまった。
鷲津は石屋和尚の進言のとおり、石屋和尚を勧請開山として伽藍を建立し、
寺を「大寧寺」と名づけ、山号は「紫の雲がたなびいていた」というところから
「瑞雲山」としたという。

このような霊場を焼失したままにしておくのは神や仏の怒りも恐ろく、
また義隆の亡霊の怒りをなだめるためにも、ということで、
すぐにこの寺は再建され、義隆卿などの人々の位牌も立て置いて、後世菩提を弔った。

 隆福寺殿従二位黄門兼七州太守瑞雲珠天居士……義隆卿
 珠玉大居士……二条の従一位左大臣尹房公
 一貞浄忍居士……持明院の一忍軒(基規)
 珠玖禅定門……小幡四郎(義実)
 鳳仙道麟居士……冷泉判官隆豊
 善才道医禅定門……黒川近江権守(隆像)
 玉峯道玖禅定門……天野藤内(隆良)
 忠翁道孝禅定門……岡辺右衛門尉(隆景)
 道高社官……八幡(禰宜)の民部丞右信(延)
 悟翁道了禅定門……大田隠岐守(隆通)
 高岳道林禅定門……岡屋左衛門尉(隆秀)

こうして供奉の人々まで過去帳に記して、亡くなった月日が廻ってくると、
その寺の僧たちは経典を読誦したり、法話を説法したりして、その菩提を弔ったという。


以上、テキトー訳。おしまい。

妙円さんはよかったね、と言いたいところだが、
最初、いったい何が原因で地獄につながれることになったのかね。
「女だから」とかいう理由も普通にありそうだよな。仏教って。

龍女の話は、裏読みをすると、これ里の人たちが取り囲んだってのは、
集団レ○プ目的じゃないんですか……
いやに「美しい婦人」てのが強調されてる気がするんだが。
その目的が達成されたのか、里人から逃げている途中かはわからんけど、
女が海に飛び込んで自殺した、みたいな流れだろ。

そしてようやく出てきた大寧寺縁起……あっさりしすぎだと思うよ!
焼け落ちたもののすぐに再建されて、義隆たちの菩提が弔われたようだけど、
やっぱり祟りが怖いから手厚く供養するんだねぇ。
そういえば吉川興経を祀ったナンヤカヤも岩国に多くて、
興経の祟りはずいぶん恐れられていたんだなぁ、という印象だった。

興経といえば、昨日本屋で『吉川興経』って本をつらつら眺めていたんだが、
カバーの家紋マークが普通の九曜紋でさ。
岩国の吉川家は輪九曜だろ。吉川のもともとの家紋は三引両と下り藤三引両だろ。
あの本の九曜紋はどこからきたの……もともと持ってたの?
あと、毛利と両川に関する本もあったけど、
右三巴と九曜紋が並んでてさ……小早川は左三巴じゃなかったっけ?
ちょっとなんだか割り切れなかったので買いませんでしたとさ。

さて、お次は合戦だよ~。
2013-05-01

飲んで飲んで飲まれて飲んだらえらいことになった

いやはやゴールデンウィークですねぇ。
通勤電車がすいててわりと快適(*´∇`*)
なのに今日ランチに入ったお気に入りのお店で、
従業員同士の喧嘩にぶち当たってしまって軽く涙目です_ノ乙(.ン、)_
あと上司、お昼おごってくださってありがとうございました。
救われました(´;ω;`)

さてさて陰徳記。だいたいの流れ:
陶隆房が大内義隆を討ち果たし、豊後から大内義長が山口入りして、
表面上はなんとか平穏が続きそうな感じ。

てなわけで、ここらで一発、義隆の最期の舞台となった大寧寺のお話。
長いので2回に分けるよ。


長州深川の大寧寺のこと(上)

深川の大寧寺は義隆卿の切腹の際に焼失してしまったので、大内左京太夫義長より、
再び建立するように命じられ、七堂すべてが造営された。

そもそもこの大寧寺というのは、石屋和尚(真梁)の弟子の智翁和尚を開基として、
仏法繁栄の霊場である。
その昔、石屋和尚が通幻和尚の元で修行していたとき、
了庵和尚とともに三十有余年も一身に修行に打ち込んでいた。

あるときは凍え死ぬことも恐れずに雪の中に立ち、
またあるときは勉学に励んで夏の暑さをものともせずに
夏安居(げあんご、全集の集中強化修行期間)に入り、ある日桶の底が抜けるように大悟した。
このため、通幻和尚は石屋・了庵の二人の弟子に伝法を行うことを決めた。
二人の弟子たちは大喜びして、伝法の日取りを決めた。

了庵はこの伝法について、石屋より先に受けようと目論んでいたので、
石屋を呼び寄せ「血脈の伝授を祝おう」といって美酒珍膳でもてなした。
石屋は了庵のたくらみを知らなかったので、その志に感激して、数杯の盃を重ねた。
石屋は前後不覚に泥酔してしまって、しばらく枕を寄せて仮眠を取っていたが、
その隙に了庵は通幻の居室に行って、付法伝授を済ませてしまった。

そのとき石屋は夢から覚め、ガバッと起き上がり
「なんということだ。すっかりだまされてしまった」といって慌てて方丈に入り、
袈裟を投げ入れたけれども、了庵はすでに伝授を終えて退出した後だったので、
石屋は仕方なく了庵と師弟になった。
このことがあったため、その一派では今でも禁酒の令が厳しく、
酒を「塩」と呼び替えて飲むようになったそうだ。

その後了庵和尚は仏法東漸の真理にならい、関東八州で布教を盛んに行って、
宗派や格式を超越した視点で、仏祖の教えをわかりやすく説教した。
あるときは仮に五位を開いてよく三根を接し、
またあるときはじかに三句を拳して大いに群類を救った。
すると禅客たちが静かに集まってきて、雲のような列をなし星の数ほどになり、
一派は繁栄を極めた。

石屋和尚はこれを見て、「腐った肉にハエがたかっているようだ」と首をひねった。
「昔、船子の徳誠和尚が夾山の善会禅師にこう言ったそうだ。
『きらびやかでにぎやかなところに住むべきではない。
すぐに身を隠して、自分の痕跡を跡形もなく消してしまいなさい。
自分の痕跡が残っているところに身を留めようとするな。
深山钁頭のあたりに行って、一箇半箇を接取し、
我らの宗派を守り伝えて断絶しないようにしなさい』とな。
私はこの徳誠和尚の遺戒に従おう」と、
石屋は草鞋を履いて複子を持つと、西国行脚に旅立った。

ときには山野辺で石を枕に野宿して寒い夜を明かし、
または渡し口で船を待ちながら川の水で口をすすいで暑い日を過ごした。
そして七十有余日を経て、長門の国の問田というところに着いた。
里の人々は宿を提供してくれなかったので、
「私は世捨て人なのだから、野に伏せ、山にとどまるのは得意だ」と、
石屋はあちこちと歩き回った。

そうしているうちに、深山幽谷に一宇の堂を見つけた。
石屋はそこに立ち入って荷を解き、旅の疲れを休めていたが、
夜に入ると壁に向かって座禅をはじめた。

こうしたところに、異形の物の怪や青鬼・赤鬼もたくさん出てきて、
「人間くさいぞ」と話していた。
しかし和尚を見ると、「人間がいると思ったのに、そうではなかった。
一個の無の字があるだけだ」と言った。
石屋はこれを聞いて、「私は無にこだわりすぎていたのか」と風車子のように素早く斬破した。

すると鬼は、「さっきは無の字があったと思ったのに、一個もなくなっている」と言った。
その後、鬼たちが「妙円、妙円」と呼ぶと、腰から下が真っ赤になった女房が一人、
袖を顔に押し当てて泣きながら出てきた。
鬼たちはその女を散々に責めさいなみ、それから女の身を裂いて喰ってしまう。
目も当てられぬ様子であった。
そのうち東の空が白々とあけてくると、雲に乗ったり地にもぐったりして、
どこへともなく消えていった。

石屋和尚は不思議に思ったが、やがて托鉢のために堂を出て里に行くと、
とある民家に入っていった。
その家の主は祭壇を設けて香を焚き、僧たちを招聘して読経をしていたが、
石屋和尚を見るとすぐに招き入れた。
石屋和尚が仏壇の上を見てみると、「方智妙円大姉」と書かれている。
「昨夜、牛頭・馬頭に責めさいなまれていた罪人は、ここで弔われている亡者に違いない」と思い、
主人に亡くなった人のことを尋ね聞いた。
主人は生前のことなどをあれこれと語り、「今日が初七日の法要なのです」と涙を流して答えた。

石屋和尚は、「あなたの母の妙円は、奈落の底に落ちて責め苦を受けているぞ。
もし疑うなら、今晩その証拠を見せよう」と言った。
主人は大いに驚いて「では今夜、私を連れていって母の苦患を見せてください」と答えたので、
石屋和尚はその男を連れて山中へ分け入っていくと昨晩の堂に入った。

男を法衣の下に隠し、「絶対に恐怖心を抱いてはいけない」と注意して、夜半まで待つ。
四方の山風が冷たくなり、木の葉がほろほろと散る音がして、
なんとなく身の毛のよだつような感覚があった。
すると、また鬼たちがたくさん現れて「妙円、妙円」と呼び、昨夜のように女を責めさいなむのだった。
これを見てその男は手を合わせ、
「和尚さま、どうか大きな慈悲のお恵みをもって
我が母を苦患からお救いください」と頭を下げ、涙を流した。
石屋和尚はかわいそうに思い、その男の家に数十日とどまって供養を行った。

法華経を読誦していて、「もし女人であるならば、この経典を聞けば、
その通りに修行したのと同じであり、その命が終わるときには、
安楽の世界に住み、阿弥陀仏、大菩薩衆がその住処を囲み、
蓮華の中に生まれ、玉座の上に座る」という部分にさしかかると、
主人は歓喜の涙を流し、「きっとこの経の力で、
母は生別離苦を離れて成仏解脱することができるだろう」と、それは心強く思った。

そこにまた和尚が女子出定・倩女離魂といった法話を語ると、
主人はたちまち大悟発明して、「私の母に地獄に落ちるような業があっても、
大解脱できるのですね」と、ありがたそうに感涙に咽んだ。


以上、テキトー訳。つづく。

なんつーか、大寧寺縁起というよりは、石屋和尚の武勇伝ちっくな……
あ、そこは突っ込んじゃイケナイとこですかサーセン。

しかし、個人的に見逃せない話題が、僧侶の禁酒の理由なんだよな。
「酒に酔って寝てる間に出し抜かれたことあるから、うちの宗では禁酒!」
ってどうなの。なんか情けないってか。逆にかわいいかも知れんが。
私は酒好きなので、先達の失敗云々で禁酒されたら、確実に叛旗翻すよね。
あと、酒の隠語として「般若湯」ってのは聞いたことあったけど、
「塩」ってのは初めて目にしたよ。
「しゅ」と「しお」なら、語感も似てるよね。

まあ、あとは宗教話にありがちな、現実感を伴わないナントヤラだよね。
石屋和尚が妙円の弔い関連で里の主人のご厄介になったのは、
むしろご厄介になるのが目的で妙円云々の話をでっち上げたんじゃ、とか。
こういう疑心を持つのは心が曇ってますか。
でもボヤボヤしてると尻の毛まで抜かれそうな浮世だもんでさ。

さて次回も続きだけど。いつ大寧寺が出てくんのさ。
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