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2013-11-24

某先生「隆元に心の友といえる存在はいたのか?」

隆元シンポジウムで耳にした、この質問が心に引っかかってしょうがない。
秋山先生が答えた国司・佐藤といった面々はあまり記憶にない(というか全く調べてない)けれど、
いつだったか「萩藩閥閲録」目次で目にした、隆元の「大事のときの伽はおまえでなきゃ」という
見ただけで鼻から出血して階段から転がり落ちそうな書状を思い出した私……
「親子のように思っている」とも掻き口説かれてたような。
いいなぁ……あれ、相手は誰だっけ? ←ダメ人間

てわけで、手の届く範囲で調べてみた。
私が思い出した書状の相手、隆元の寵を集めた男の名は、兼重元宣。
まずは問題のお手紙を超テキトーに意訳。だって全体的に意味が拾いづらい……


●萩藩閥閲録 巻138 兼重勘左衛門(6) 「隆元公より弥三郎元宣への御書」

これは分けて申しておく。
昨日いろいろ話をしたけれども、その中で私が言った、
「本当にそなたのことだけを二人となく頼みにしている」という言葉を、
そなたはどのように考えているだろうか。
すべての政務は二人にかかっているが、
そのなかでも抜き出てそなた一人にかかっていると思うのだ。
二人と別に、私なりの考えもあって実現しないこともある。
そなた一人と私自身、この二人しかいないと申したのは、決して軽々く言ったのではない。
そこのところをよくよく汲んでもらいたい。


●同上(7) 「隆元公より弥三郎元宣への御書」

そなたへの私の気持ちは、本当に本文に書いたように、
親が子を思うように、しっかりと大事に思っている。
だからそなたも、子が親を思うように、私のことを考えてもらいたい。

一、私が何を言おうと、事によって少しでもそなたの考えと違うことを言えば、
そなたは「まったく筋道が違う」と考えて心を閉ざしてしまうようだ。
何があろうとも、私が生きているうちはそのようなことはない。
その時々に応じて、私に油断があるところを、「これは違いますよ」とはっきりと申してほしい。
そうした心構えでこれからも奉公してくれ。

あれこれと言ったところで、私へと無二に心をかけ、一緒に死のうと心に決めている人など、
そなた以外にはいないのだと、私だって内心はわかっている。
こうして申したが、もしそなたが信用できないというのならば、
牛王を翻して(起請文を書いて)でも申し聞かせようと思っているのだ。

さあさあ、これほどまでに私はそなたのことを思っているのだから、
ほんの少しでも、「隆元の言うことは筋目が違う」などとは、絶対に思わないでおくれ。
ちょっとした気の緩みで失言することなど、男女・親子・兄弟の間でもよくあることだ。
いちいちあげつらっても仕方あるまい。
どうか聞き分けてほしい。よろしく頼むよ。


●同上(8) 「隆元公より弥三郎元宣への御書」

重ね重ね、私の身に大事が降りかかったとき、
伽に連れてゆく人はそなたしかいないと心に決めている。
これほどまでにそなたのことを見込んでいるのだ。
だからどうか、何事も、どんな小さなことまでも知っておいてほしいのだ。
わかってくれ。


以上、テキトー訳。
読んでて思ったけど、おまいらデキてんのか!?
まったく元長といい隆元といい……好き好きオーラがダダ漏れですよ!!(赤面)
相変わらず知識不足のうえ脳が沸いてますねスンマセン。

上記の書状はは宛所や差出人名が記されていない手紙だけど、
他の書状には「もと宣へ、たか元」だとか「宣(元宣)、基(隆元)」だとか、
実名書の宛所・差出人署名があるんだよね。
どうもこの家中では、実名で呼ばれるのはトップクラスの十数人だけらしいという感触なので、
この元宣という人は、本文中にもあるけれど、ずいぶん信頼されてたというか重用されてたんだなぁ。
紹介した直前の隆元→元宣書状でも、
「身をはなさずそえ候てつかい申、頼入度候ての申事まて候」とか書いてあるし
宛所・差出人署名は「述(元宣)、元(隆元)」だしで、非常に親密な感じ。
実名の一部を省略するのは、兄弟間とか従弟間とか、
わりと親密な雰囲気の書状に見られるこの家の特徴だよね。
ただし立場が上の人から下の人への書状限定って感じだけど。
そんな書札礼考えてみるまでもなく、内容が親密すぎるけどなwww

まあそこで気になるのは、この「兼重元宣」てのはいったい何者だ、てところで。
『萩藩諸家系譜』をひも解いてみると、この兼重氏、なかなかに興味深い経歴。
というか、元宣の父である元鎮が、そもそも毛利豊元(元就の祖父)のご落胤。
ということは元鎮と元就とは、血縁上では叔父・甥の関係ってことだよね。
元鎮は妾腹だったので幼少期から大通院(寺)に預けられ、出家して浄閑と称すも、
成人して出家を嫌い、還俗してお隣吉川さんちの家臣である笠間氏に養子入り。
弥三郎、五郎兵衛尉、元鎮を称す。
元就の代になって吉田に呼び戻され、故郷の兼重の地を与えられたことから兼重氏を号す。
吉田郡山籠城戦で奮戦して重傷を負い、翌年十月に死去。嫡男の弥三郎元宣がその跡を継ぐ。
元宣は隆元に重用され、元就・隆元間の使者としても活躍したようで、
元就・隆元双方の書状に「兼弥(兼重弥三郎元宣)」の名前が散見される。
元宣は隆元死後も輝元に重用され、天正八年に七十二歳で死去した。元宣の子元続が跡を継ぐ。
1580年に72歳で死去ってことは、アレだ。えーっと、1509年生まれだ。よし。
隆元より14歳ほど年上だね。
上の書状は年代不明だけど、いったいいつのものなのか。気になる。
年上の寵臣に「頼入たく候」とか甘える隆元を想像すると、思わず顔がにやk(ry

しかし「毛利家文書」に収められている一通の隆元自筆書状を眺めてみると、
あれれ?と思うことが……
ちなみに宛所は「左太(桂左衛門大夫元忠)」となっているけれど、元就宛のもの。
前半は元宣に関係ないけど、ついでなので載せておこう。


●毛利隆元自筆書状(毛利家文書715)
(端裏切封ウハ書)
「この書状は返してください。言うまでもないですが。
           左太          たか元」

昨日申し上げたことについて、御返事をいただきました。
内孫(内藤孫八郎か)のことについて申し上げ、仰せ下された件については、承知いたしました。
あの土地は麻原の真木が坪のことでして、納所辻(納税の意味か)は五石の場所です。
この通りですので、さっそく給地しようと思います。
以前も申し上げましたが、あの者のことは、せめて他の者と釣り合うようにしてやりたく思っています。
今現在身近に召し使っている者のなかでは、
少しも心の隔てがなく、安定して奉公しております。
このままの調子で奉公を続けてくればいいと思いますが、そんなわけにもいかないでしょうから、
何かあるまでは、こちらでも相応の宛行をして召し使えばよいと思います。

一、今お伝えするようなことでもないのですが、ついでなので申しておきます。
与十(粟屋与十郎元種か)、佐藤(又右衛門か)、あの者などは、
私情に流されずに一筋にこちらのことを考えてくれています。
児弥十(児玉弥十郎?)は何とも無風流で、物知らずではありますが、
心底は私のことだけを一心に考えて奉公しています。
仲の良い友人や機嫌を取ろうとするような相手は全くおりません。
弟の左五(?)は、以前も申し上げたように、なかなかに気が利きますが、万能ではありません。
児蔵(児玉内蔵丞就方)には、私は直に相談しております。
就方の分別は、実に納得できるものです。異見するようにと言ってあります。

一、兼弥(兼重弥三郎元宣)についてはいつも相談しているように、何とも我慢なりません。
最近では幸いにも心安く召し使っておりますが、いかにも心が定まらないのです。
いいときは無二、一筋のように振る舞うのに、一方で何か気に入らないことがあると散々なもので、
ひらりと別人の方へ心を移して、私のことなど少しも気にかけません。
あれほど移ろいやすいものは他にないと思います。
どうにかして直させるようにしたいのですが、生心得で、どうしたらよいかわかりません。
こちらが気を付けるしかないかと思います。

恐惶、かしく


以上、テキトー訳。
近臣との人間関係というか人物評価を父親に訴える隆元さん……
こういうこと相談できるって、いいなぁ、この親子。
近臣にとってみれば、わりと気の抜けない職場だな、とも思うけれども。
そうそう、主題は兼重元宣だった。
元宣本人への手紙では、「二人となく思っている」とか「親子のように思っている」とか
散々掻き口説いてたくせに、父親には元宣の心の移ろいやすさを嘆く隆元さんェ……
それとも、心の移ろいやすさを直させるための手段が、あの口説き文句なのか。
どちらにしても、隆元が心の底から信頼して頼ってたわけじゃなさそうってことがわかって、
ちょっとしょんもうり(´・ω・`)

でも、ちょっと疑心暗鬼になったとしても、隆元の心の支えにはなってたと思うんだ、元宣。
「男女・親子・兄弟の間でもいろいろあるんだし」って、隆元本人が言ってるじゃん。
「自分の全部をわかってほしい、自分だけに心を傾けてほしい」って気持ちもわかるけど、
それは甘えたい相手、寄りかかりたい相手だからなんじゃないのかな! かな!!!
思い入れがあるから不満も出る、ということで。

というわけで、今回はこのへんで。
続きに、「兼重氏のここが気になる」をちょろっと。




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2013-11-20

毛利隆元シンポジウム強行軍

こっそり復活しますた。
ようやく仕事関係の試験が終わったので、広島まで夜行バスで行ってまいりましたよ。
ちゃんと試験は受かったよ?(震え声)
これからしばらくは趣味関係に没頭できるはず……残業さえなければ!
強行軍すぎて体力がいまだ戻りませんが、それもまた余韻。

広島着いたのは土曜日だったので、宮島とか広島城とか信直パパんちとか行き、
香川さんちにも行こうと思ったら迷い道クネクネしすぎて日が暮れ……
翌日は朝から隆元展見て午後からシンポジウム行ったわけなんですが、
シンポの内容を簡単にレポート。

毛利隆元シンポジウム「名将の子の生涯と死をめぐって」
平成25年11月17日(日) 於 安芸高田市民文化センター大ホール

■第1部 神楽「元就公」 吉田神楽団
あらすじ:吉田郡山城を尼子勢が取り囲んだときのこと。

いや私、実はお神楽見るのって生まれて初めてで、
雰囲気とかノリ方とかよくわからんのね。ドキドキして始まるのを待った。
笛と太鼓のお囃子(?)が始まり、後ろの幕からスモークがモクモクしてきたと思いきや、
バァン!と出てきた! 尼子晴久・久幸コンビ!!!
晴久は真っ白な長髪を振り乱し、久幸は真っ黒な長髪を(ry
衣装がとにかくキラッキラ! キラッキラだよすげえなんだこのキラッキラ加減。押さえる気が全くない。
その二人が鑓持って、「これから元就をヌッコロす!」と舞い踊るわけですよ。
頭の動きが獅子舞のお獅子みたいで、ついつられそうに。

尼子コンビが退場すると、下手から登場する、なにやらイイ役っぽい男・女・男。
衣装は言わずもがな、白塗りの顔にも何やらキラッキラしたものが。ラメ入りドーランなんてあるのか。
一人は元就なんだろうから、あとは誰だ、と思っていたら紹介が。
えっ、女は奥さんでいいとして、もう一人の男は元春なの!?
そりゃ吉田郡山合戦と言えば元春(隆元は山口滞在中)だけど、嘘でも隆元出さなくていいのか!?
パパ・ママ・元春で神前に戦勝祈願するシーンは、元春好きにはたまらんね。
ほいでまあ、ママが「12歳なのにもう戦場へだなんて、母にとっては悲しい」と嘆く。
それでも幼い(見た目は幼くない)元春は勇ましく、父とともに出陣して舞い踊る、と。
このあたりですでに私は、この演目が「元就公」だというのを忘れ果て、元春メインで見ているよね。
パパと二人でクルクル回る元春かわいかった(*´∇`*)
二人の袴がかぼちゃパンツみたいに膨らんでな。かわいかった……

そしてママのみ残って夫と子供の無事を祈念するシーンがあり、
また下手から元就・元春が出てきたと思ったら、地味な衣装に変わってた。
袖に大きく毛利紋があしらわれてはいるけど、比較的地味。戦のシーンだから?
とか思っているうちに元就が「尼子出てこいやァ!」して舞台正面の幕から連獅子尼子が登場して
切り結んで押しつ戻りつ、息をもつかせぬ四人の乱舞……(*´∇`*)ホゥ
うっかり見とれていたら、いつの間にか衣装が変わってる!? ファッ!?
一瞬動揺したけど、地味な上着がリバーシブルになってて、キラッキラ仕様の内側を出したんだね。
そのキラッキラの四人がまた乱舞・乱舞……もうため息しか出ねえよ(*´ω`*)
ラストの展開は胸の内に秘めておこう。

とにかく初の神楽観劇、賑やかでキラキラした感じがとても楽しかった。
たぶん観客が手拍子とかしながら見るものなんだろうけど、
他の人たちはおとなしく見てるし私もそれに倣いました。
また見たいな、神楽。
吉田神楽団は、東京でも来年1月に公演される(演目は違う)そうなので、都合ついたら行きたい。


■第2部 基調講演「毛利隆元の生涯」 秋山伸隆氏(県立広島大学教授)
(内容は私の記憶が頼りなので、間違ってたらゴメンナサイ。ほぼ感想ですん)

まずは隆元の生涯をさらっとおさらい。
家督相続の時期、文書発給の形態から、政務への関与度の変遷を検証。
家督相続の背景(弟二人の養子入りや重臣との協議)をさらって、ここから本題!

まず、隆元の人物像とは?ということで、
元就の書状に現れる隆元への評価をピックアップして紹介。
「山口かかり(山口かぶれ)」だの「ほんしきたて(くそ真面目)」だの「分別うすく候」だの、
もうやめて隆元のライフはゼロよ!
それに追い打ちをかけて隆元の自己評価「名将の子には不運な……」とくるから、
聞いてる方のライフもゼロになりそうだったお_ノ乙(.ン、)_

こういった遺文から、父にとっては不出来な息子で、弱々しく心情を吐露する人物像が出来上がってくるんだけど、
でもこの隆元像って、「元就の目を通した、息子としての隆元」だったり、
本来公表されるはずじゃなかった書状から拾われた、「人間隆元の心の奥底」だったりするわけだ。
つまり、別の視点から隆元をとらえれば、従来とは違った人物像が見えてくるのではないか、と。
この提言にはハッとさせられた。

その一つのアプローチとして、秋山先生は次に、「防芸引分」つまり陶晴賢との戦争を取り上げ、
陶との敵対に慎重な姿勢を取る元就に反対し、根気強く弟や重臣たちを説得していった隆元の動きを追った。
そしてこの時点で、隆元は「毛利が倒れれば、小早川・吉川も滅亡する」って主張していた、とも。
この論法は元就の「三子教訓状」と呼ばれるもので有名なフレーズだけど、
その教訓状が書かれるより以前に、隆元が主張していたってのは、驚きだった。
結局隆元は、元就の態度を変えさせるだけの交渉をしたんだよね。
武将としても有能だったことを再確認した。

さて二つ目の主題、隆元の死をめぐる言説の検証。
隆元は大友氏との講和を結び、出雲の元就のもとへと赴く途中、急死した。
死の前夜に和智誠春の饗応を受けたとされていることから、食中毒説、暗殺説なども囁かれる。
だけどそもそも、隆元が和智の饗応を受けたと断定できる確実な一次史料が存在しないんだそうだ。
後世に書かれた覚書や物語等で確認できるだけで、まずここから疑わしい、と。
……目から鱗でしたよ。そこまではすでに検証された史実だと思ってたからね。

そしてさらに、毒殺説を彩る二人の人物、赤川・和智の末路から、
「当時隆元の死に彼らが関与したと目されていたか」という点についても検証が行われた。
赤川元保については、元保を不審視していたのはむしろ隆元の方で、
元就と元保の確執も隆元生前から続いていたものだったので、その延長線上での元保粛清であり、
元保が隆元の死に関与していたと疑われていた様子はないことが分かった。
元保粛清の件は『陰徳記』でも、別に隆元の死とは絡んでなかったなぁ、などと思い出した(この記事)。

次に和智兄弟の厳島軟禁→殺害に関しても、その動機となったのはどうやら別件で、
その別件については、史料からは詳しくわからないらしい。
『陰徳記』だとどうだったっけなー、と確認してみたら、
隆元の葬儀時の和智の態度があんまりよろしくなかった(この記事)って程度だったね。
隆元の死に直接関与したと疑われていた気配がない、というのは、『陰徳記』でも確認できた。
いつどんな経緯でそうした言説が語られ、主流になっていったのか、興味は尽きないね。
しかし最初のころの自分の記事は恥ずかしいな……何もかも手探りだからしょうがないけど。

さてそんなわけで、非常に興味深い基調講演だったよ。
掘り下げて聞きたいなぁと思った点は、
・本来なら後世に残る予定ではなかった隆元の文書を保存したのは誰で、残した目的は何か。
・元春の吉川家養子入りがいきなり出てきたが、それ以前に北就勝に養子入りする予定があったはずでは?
・対織田戦争のころ、備後衆が相次いで離反したのは、元就が備後衆を信頼していなかったことに
起因するのでは、と先生は言うけど、もっとドライで打算的な動機付けも検討されてしかるべきでは?
といったところでした。
質疑応答は行われなかったので、それだけがちょっと残念。
秋山先生は全体的にソフトでわかりやすい語り口で、聞いてて飽きなかった。


■第3部 シンポジウム「名将の子の生涯と死をめぐって」
コーディネーター:秋山伸隆氏
パネリスト:山室恭子氏(東京工業大学大学院教授)
      木村信幸氏(広島県教育委員会文化財課)
      柴原直樹氏(毛利博物館館長代理)

覚えてるだけ内容をさらってみると、まずパネリストの自己紹介を兼ねた持論の紹介。

●山本氏
元就の「三子教訓状」14ヶ条と隆元・元春・隆景連署の返書9ヶ条の条文を比較し、
元就の教訓のなかで子供たちに拒絶された要求を明らかにする。
教訓状にあり、返書で承諾されていない内容とは、「兄(隆元)>弟(元春・隆景)」という
序列を守るよう要求された条文だった。

●木村氏
旧吉川領で史跡発掘調査・文献調査に関わった経験を通し、
元就隠居後の居住地から見た支配体制への影響力を考察。
家督の譲渡には「本城」の譲渡が伴うもので、隆元も本城を受け取っているが、
元就は平地に下りるのではなく山の頂上に居を構え、位置的にも隆元の背後から睨みを利かせた。

●柴原氏
博物館勤務の立場から、「物」を通して見た隆元という人物を考察。
舅である内藤興盛から婿の隆元に贈られた一領の具足は実に素晴らしいもので、
贈られた隆元という人間への周囲の評価を読み取ることができる。

ここから、各パネリストによる他者への質問。覚えてる概要だけ。

◎木村氏から全員へ
「隆元の心の弱さに注目が集まるが、これは恵心という特定の人物との交流の中のもの。
 甥の吉川元長も、禅僧恵雍との交流で、同様の心情吐露を見せている。
 そもそも元長は隆元と境遇が似ていて、24~5歳で政務に関与しはじめ、36歳で家督、40歳で死去している。
 文芸に深い造詣があるところも同じである。
 元長には前述の恵雍(一歳年下)、吉川経家(一歳年上)や香川春継といった同学の士がいたが、
 隆元にもそうした心の友のような存在はいたのか」
秋山氏の返答
「国司就信という人物がいたが、山口奉行となり隆元の傍からは早々に離れてしまった。
 また佐藤又右衛門という人物も信頼されていたようだが、隆元より先に亡くなってしまった」

◎山室氏から木村氏へ
「元就が隠居して、かさというさらに高いところに居住するようになったことによる影響は?」
木村氏の返答
「隆元は萎縮したはずだと思う。元春は兄が萎縮するのを見ていて、
 自分の息子(元長)への教育の反面教師としたのではないか。
 若いうちからともに政務を執り行って、そろそろ大丈夫だというころに満を持して隠居した」

◎柴原氏から山室氏へ
「教訓状に対する9ヶ条の返書は、筆跡からして隆元がすべて書いている。
 また教訓状が届いてすぐの返書であり、弟たちと協議して返書の内容をまとめる時間的余裕はないはず」
山室氏の返答
「そういうことを考え合わせると、隆元自身が父の書状の内容を弟たちが納得しやすい形に直して
 取り急ぎ署名をもらったと考えられる」

質疑応答が済むと、コーディネーターの秋山氏より、まとめとして、
「隆元の人物像の見直し、再評価にはどのようなアプローチがいいだろうか」との問いが。
 
●山室氏
「おそらく隆元にとって一番見られたくない黒歴史的な文書が残っている。
 感情があらわになった文書が残っているというのは珍しい家。
 ぜひともどなたか小説に書いてヒットさせて!」

●木村氏
「隆元に関しては遺文のみが注目され、弱さの部分だけが強調されてきた。
 武将としての活動を併せて再構築していけば、隆元の実像が膨らんでくるはず」

●柴原氏
「隆元の自筆書状は、あわてて書くと左に向かって下がっていく癖がある。
 陶との手切れの際の粘り強い説得とか、せっかちな元就に対する方便とか、
 処世術に長けたしたたかな人物だと感じる」


……こんな感じで、シンポジウムは終了しました。
以下は感想。もうね。

木村先生! 好きだ! 結婚してくれ!!!(ムリ)
吉川関係を調べているときに、いつもお世話になるのが木村先生の論文なわけで、
今回はその先生のお話を生で聞けるということで、ものすごく楽しみだったのね。
期待を裏切らないというか想像以上というか……
隆元シンポなのにもかかわらず、ひたすら元春・元長に引き付けて話を展開するブレなさがいっそすがすがしい!
きっとアレだね、隆元の話ができないわけじゃなくて、ステマなんだよ!
「みんなもっと吉川元長にも注目してね!」って感じのステマだったんだよ。
全然ステルスじゃなかったけどなwwwww
ステマじゃないとしたら、愛があふれて流れ出ちゃっただけなんだよ、うん。
まさかねー、元春・元長はまだいいとして、今回「恵雍」やら「吉川経家」やら
「香川春継」って人名を耳にできるとは思わなんだ(感涙)。
私にとって、とっても大満足な理由の一つはコレだったね。
あー、もっと木村先生のお話聞きたいわー_ノ乙(.ン、)_
でも広島遠い……というわけで先生結婚して!

冗談はさて置き、みなさんお話が上手で引き込まれまくった。
柴原先生は備後の国人衆も研究されてるそうなので、図書館で追ってみたい。
イエーイ! 盛重ー! 絶対備後には行くからな!!!
山室先生の本も、図書館で見て良さそうだったら購入してみよう。

いやもう本当に、強行軍してよかったと思える旅でした。
体がきつかろうと本望だ((└(:D」┌)┘))
以上でシンポのレポートはおしまいですが、続きに強行軍日程を備忘録……
ちなみに私の今後の予定としては、ちょっと調べたいことがあるので、
陰徳記読みに戻るにはもうちょい時間がかかりそうです。

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