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2013-12-02

とある吉川家臣の遍歴(下)

前回のあらすじ:
吉川興経に仕えた朝枝加賀守は、興経幽閉の際に吉川家を立ち退き、沼田で小早川家臣となった。
加賀守は小早川家中では高家である有田家の所領を相続し、有田姓を名乗る。
そして有田加賀守として、厳島合戦や須々万城攻略で武名を挙げ、
さらに九州の国人衆懐柔に奔走したり、伊予河野氏への検使としても活躍した。
河野大方(宍戸隆家嫡女)の手引きで妻を娶り、実子半兵衛が誕生するも、
後継ぎとして引き取っていた、亡き弟三郎左衛門の遺児である右京に跡を継がせる。
天正12年10月9日、死去。享年不明。
右京は安芸に引き移った河野母子のそばで仕えたが、
河野通直が死去すると隆景のいる筑前に移り、肥後国人一揆鎮圧の際に戦死した。
天正16年12月2日、享年41歳。

そういえば、朝枝加賀守・三郎左衛門に関しては、
『陰徳記』の「少輔次郎元春、吉川家相続のこと」にちょろっと出てたねw
こっちでは二人とも小早川に越したことになってました。

というわけで今回は、右京のの跡を継いだ半兵衛の訳に挑戦していきたい。
例によって()内は管理人による補足でござんす。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵「吉川家臣覚書」)②

【朝枝半兵衛景進】

幼少のとき、加賀守・右京と死に別れ、加賀守の後妻が津生和泉に再嫁したので、和泉のもとで育った。
同腹の妹が二人おり、一人は浅野甲斐守の家来となった横見四郎兵衛の母である。
もう一人は福島左衛門大夫(正則)の家来、鶴見平右衛門の妻となり、
平右衛門が牢人すると京都の三条通に住まい、平右衛門が死去すると、
岩国の半兵衛のもとで暮らして死去した。瑚□慶珊大姉。

半兵衛は、小早川家では有田姓を名乗った。
有田右京の跡、20貫を相続し、幼年から隆景公の御手廻りでご奉公した。
二度の朝鮮出兵にも従軍し、最初に渡海したときは14歳で、小姓として召し連れられた。

隆景公がご他界なさった後は、本家の輝元公が
粟屋四郎兵衛(景雄)・井上五郎兵衛・椋梨和地・堅田和地(大和守元慶?)・梨羽をはじめ
小早川家の衆を召し抱えてくださったので、長門のイクモ(生雲)村で380石の知行を拝領した。
その後二歩上がりの新縄になり、500石に加増された。
梨羽壱岐(景宗)と同等の分限である。
この者たちが、(輝元の)次男の日向守(就隆)様に小早川の名字を名乗らせ、
御家を再興させてくださるようにと申し出たが、実現しなかったため、
御本家から立ち退いたとき、半兵衛も一緒に立ち退いた。

半兵衛はあちこち浪人しているうちに広島にやってきて、福島左衛門大夫殿にお仕えしようと考え、
左衛門殿の帰国を待っていたところ、江戸で左衛門殿が遠島を仰せ付けられてしまったので実現しなかった。
  〔(朱書注)左衛門大夫遠島……とあり、その後大坂陣で花房が……とあるのは年代が合わない〕

こうして広島に足を留めていると、広家様がお聞き付けになられ、
桂但馬(春房)を通して岩国に来るようにと仰せになったので、関ヶ浜までやってきた。
桂但馬を通じ、「(吉川の)御家に召し置かなくてはならない家筋なので召し抱えたい」
と伝えられ、ありがたく存じ奉り、ご奉公申し上げた。
当面の堪忍料として、60石の知行を与えられ、追って加増してくださるとのことだった。

広家様の一代のうちは、使番を仰せ付けられて、あちこちへと遣わされた。
大坂陣の前には、西国の様子を探るために(幕府より)花房助兵衛殿(職秀、職之)が
備中へと遣わされてきたので、指示を仰ぐために半兵衛が使者として遣わされた。

備中の助兵衛殿の宿所に参上すると、口上は直接お聞きになるということで、
助兵衛殿の家老一人とともにまかり出て、対面した。
助兵衛殿は炉の脇に半兵衛を呼び入れると、家老に対して
「続きの間には三間ほど掛け金をかけてくれ」とお命じになり、
家老には「そこで話を聞いているように」と仰せになった。
広家様の御口上をお聞きになると、助兵衛殿はこう仰せになった。

「このたびは私の方へのお問い合わせが遅かったので、それはそれは心配していたが、
こうして書状と口上を承り、さてもさても安堵した。
それというのも、江戸の家康公の御前にて、亀井能登守(政矩)が
『吉川も大坂籠城の人数に加わると聞いております』などとを言い出したのだ。
家康公はそれをお聞きになり、『なんと、そうだったのか。
最近では弓矢(戦)の剛者は広家の他にはそうそういないというのに、
なんとも苦々しいことだ』と仰せになられた。

そのとき私は、『広家が籠城するという情報をお確かめになってから仰せください。
そのようなことはありえないと私は思います。
上様もご存知の通り、私は広家とは特別に心安い間柄です。
彼の人の所存もよく存じております。
十のうち十勝てるとわかっている合戦でさえも、思案を重ねるような性格です。
今回の大坂籠城は、大将は秀頼公、その他は旗本の若者共、あとは諸牢人を掻き集めたにすぎません。
百のうち百も勝ち目がないとわかっている籠城の人数に加わるような人ではありません』
と申し上げた。
すると能登守は、『今回の籠城の人数の確かなことはわかりませんので、
風聞を申したまでです』と言った。

家康公は、この助兵衛の申したことに納得してくださったが、
『しかし、関ヶ原陣のときに、広家は当方に別してひとかたならぬ忠義を貫いてくれた。
だから周防・長門の二ヶ国を広家に与えたが、
広家自身がこの二ヶ国を輝元に与えてくれるようにと固辞し、
それがかなわないときは輝元同様に牢人の身になる覚悟だと言うので、輝元に遣わしたのだ。
とはいっても大忠にほかならないのだから、そのほかに三、四郡ほどは広家に宛行うべきだったのに、
そうしなかったから腹を立てて籠城の人数に加わったのかと思った』
というご上意であった。
そう仰せられると私も何も言えない。
こんなことがあったので、こうして使者を立ててくれて、本当に安心した。

そうして大坂の陣が目前に迫ってきたので、私は西国の様子をうかがうために罷り上ってきた。
家康公もおっつけご上洛なされる。
そなたは急いで国元に帰り、私が申したことを広家に伝えて、
兵の人数はそろえなくてもよいから、早々にお手廻りの衆だけをお連れになって上方に行き、
大津・草津あたりまで家康公のお迎えにおいでになるように、と進言してくれ。
お迎えに行ったら、『ご上洛の噂を聞いて、手廻りだけで馳せ参じました。
もし御用があれば仰せ付けください』と家康公に申し上げるといい。
そうすれば、江戸で私が耳にしたご上意の件もあるのだから、
戦が終わったら一ヶ国は拝領できるだろう。
これについては、この助兵衛が保証してもいい」との御返答だった。

そのとき半兵衛はこう申し上げた。
「只今お聞きした、江戸の家康公の御前で仰せくださったこと、
それにお迎えのため早々に罷り上るようにとのご助言、
広家が聞けば、どれもこれも忝く存じ奉ることでしょう。
私ごときでさえ、このお礼の気持ちは心の底まで申し上げることができません。
実にありがたいことでございます。
しかしながら、家康公のお迎えのために広家が罷り上るというのは、
先程口上でも申しましたように、この二年ほど広家は病床に伏しており、何をするにも思うに任せません。
助兵衛殿のご内意をお聞きしても、私が考えますには、罷り上ることはできかねると思います。
そのようにご理解をいただきたく思います。
この件を申し上げないままお迎えに罷り出なかった場合、さぞご不審に思われるでしょう。
ですから、前もって申し上げておきます」

こう申し上げると、助兵衛殿は、
「ふむふむ、事情は確かに承知した。広家がおいでにならなければ確かに疑念をかけられよう。
よく気が付いて申したものだ」と仰せになり、ご自分の家老に対して、
「使者に参るときなどは、このような心遣いが肝要なのだぞ」と仰った。
そして小声になり、家老には聞こえないように、
「広家の御心中は、そなたの申す通りだと思う。しかしそれは考えが古い。
これからはそのようなやり方では通じない。このことを広家によく申し上げてくれ」
と仰せになった。半兵衛はお料理でもてなされ、帰国した。

帰宅して早々にこの件を広家様に申し上げると、
ご病気なので上坂できそうにないと助兵衛殿に申し上げたことをたいそうお気に召され、
「これは半兵衛の一存というよりも、神仏のご加護ともいうべきだ」と、
それはそれは御機嫌なご様子だった。
「明日、老中も同座して話を聞くから、この件を申すように」ということで、
老中がお揃いになってからこの話をし、広家様の意にかなうことができた。
大坂の陣へもお供いたし、大坂に着船するとすぐに助兵衛殿への使者に立った。

広家様の代に、分限が少なくて奉公を続けることができないため、二度辞表を出した。
しかし、後日取り立てると言われたまま、時だけが過ぎてしまった。
広正様の代には、萩に駐在して奏者役を務めた。
隠居を申し出て、かわって伊兵衛がご奉公すると申し上げたところ、お許しをいただいた。
「半兵衛の代のうちに取り立てたく思っていたのに、何かと機を逸してしまった。
普通の楽隠居だとは思わないでくれ。おまえの力が必要なときが来たら働いてほしい。
そのように心得ておくように」との御意だった。
2~3年して、主膳(吉川就紀、広正の子)様の後見役に山縣又右衛門が付けられ、
その副役を半兵衛が仰せ付けられ、江戸に罷り下った。
又右衛門は90石の仕組で罷り下るようにとのことで、その通りにした。

半兵衛は在世中に一代のことを書き表したいと申していたが、
「当家は私の代になって散り散りになり、その上親とは幼いころに死に別れたので、
これまでの書物なども失ってしまった。これではどうしようもない」と諦めていた。
半兵衛が内々に話していたことを書き出すと、以上になる。
きっとこのほかにもご用を務めてお役に立ったこともあるだろうが、
こうした事情があるので書き付けなかった。
このほか、キリシタンの宗門のこと(島原の乱か)で所司代板倉周防(重宗)殿へと
森脇源右衛門と半兵衛が罷り出て、首尾よく罷り下ったのでお褒めいただいたとのこと。

広正様の御代にも、子供が多数いたので身上を保てないから辞めさせてほしいと申し上げたが、
慰留されてご奉公を続け、こうして嘉右衛門まで続いている。


以上、テキトー訳。これでおしまい。

なんかな、加賀守・右京の代はそれほど目立った突っ込みどころがなさそうなのに、
年代が後の半兵衛の情報が一番怪しいってどういうことなの。
まず朱書で先人が突っ込んでいたように、
福島正則の左遷(元和5年)より大坂の陣(慶長19~20年)のが早いからそこがまずおかしい。
また、粟四兵ら隆景遺臣たちが出奔したのは、就隆誕生以前だって(「伊予の戦国史」管理人様のご指摘)。
これについては、秀包遺児とか、小早川家再興運動の神輿になった候補者が別にいて、
再興運動自体はあった可能性も捨てきれないそうだけど。
それに、根拠はないが、花房助兵衛とのやり取りが、ものっそいぁゃιぃ……よね?
だって、いきなりこんなに詳しいなんておかしくない?
まるで小説のワンシーン読んでるみたいよ。話盛ってるよね???
花助兵と広家の仲が良かったってのは、仲をうかがわせる書状もいくつか残ってるし、
あんまり疑わなくて良さそうだけど、家康発言による広家の持ち上げっぷりがな。
実にぁゃιぃ……

だがしかし。この半兵衛・花助兵会談は、これはこれで面白いので好きです。
史実かどうかは置いといてね。逸話として。
「確実に勝てる戦いにさえ慎重になる性格」って評価されるとか、
広家さん、花助兵と一緒のとき何したん……と、妄想が膨らむよね。
むしろ「慎重な性格」ってのは、半兵衛自身の広家への批評かもしれんな。
思い起こせよ関ヶ原……いや待て、あのときだって広家は、
「西軍の統率がバラバラで、こんなんじゃ勝てそうにない」って判断してたじゃん。
まあ私の反論はどうでもいいか。相手が花助兵にしろ半兵衛にしろ、もうこの世にいないし。

花助兵が「広家の考え方は古くて今の流儀には合わない」って指摘したのは、
いったい何を指すのかな~、と考えてみたけど、
「徳川方からの吉川への優遇や加増などを、宗家の毛利家や世情の評判を憚って遠慮している」
っとこが、「古い」と言われる部分なのかな、なんて思った。
だって慶長12年ごろから病気を理由に家康と距離置いてるんだよね、広家。
慶長6年には、秀忠・井伊→黒田長政ってルートで加増の話があったらしいし(真偽未確認)。
慶長8年の上洛時には家康から熱海の湯桶拝領してるし。
慶長11年の江戸の普請では、家康から「現場にいなくていいから熱海に湯治においで」って誘われてるし。
そもそも江戸証人からして「血筋の者じゃなくていい」って、かなりの優遇だよね。
毛利宗家の手前、こうした優遇はまずいわな。
断リ続けると今度は幕府が怖いし、となると接触を控えるしか……
というかまた私は横道に……反省。

半兵衛に話を戻すと、母親が子連れで再婚した「津生」さんてのがヒットしない。
いきなりつまずくかと思いきや、「坪生和泉守元貞」が小早川家中にいるみたいなので、
たぶんこれじゃないかと。
前回読めなかったメモ書き?部分の「□□生」は、きっと「つほ生(つぼう)」だ。
きっと写しを作るときに「坪」を「津」と書き間違えたか読み間違えたかしたんだろう。
よくあることだよね(私も今回読み・書き間違いともにひどい頻度orz)。
同母妹が嫁いだらしい横見某というのも、もとは小早川家中だよね。
鶴見はわからぬ……あと半兵衛が跡を譲った伊兵衛てのは誰だ。子の一人か。
次回岩国訪問時にでも、系図を見せてもらいましょうね。

そうそう、前回記事・今回記事ともに、人名検索に利用させていただいたのは、
村井良介氏の「芸備国衆家臣団一覧表」(pdf版)でござんす。
「右京=景勝」情報も、正確にはこちらから「伊予の戦国史」管理人様経由で。

用語についても今回調べきれんかったのが。
「二歩上がりの新縄」て何じゃ。「新縄」は「あらなわ」で、荒縄(太い縄)のこと?
なら、「二分増えて身上が太く(豊かに)なった」ってことかな?
「90石の仕組」ってなんだろう。予算のことデスカ?
基礎知識のない自分の身がうらめしい。
でも独学だったらこんなもんだよね(震え声

そんなわけで、吉川家臣→小早川家臣→毛利家臣→吉川家臣という遍歴を辿った
朝枝・有田三代を追ってきたわけですが。
『陰徳記』読んでて、「侍は渡りもの」って言葉にたびたび出会うわけだけど、
実例がこんな感じなのかな。
特にまとめらしいまとめはありませぬ。

その他、つらつら思うことは、長くなったしただの妄想だから、続きにて。


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2013-12-01

とある吉川家臣の遍歴(上)

ウィークデーがわりかし忙しいので更新できぬまま、
なんとはなしに最近仕入れた資料だけ流し読みする日々……
トリ頭だから右から左に情報がすり抜けてゆくのよ。やんなっちゃうorz

このままではよろしくないので、何かまとめられそうなネタを探したところ、
岩国に伝わった吉川家臣関連で面白い話を見つけ、ついったでだだ漏らしっぱなしだったことに気付いた。
忘れないうちにまとめておこうと思う。
例によって例による理解できてないテキトー訳なわけですが、
今回は原本が筆文字なので、読めなかった文字とかもあってさらにカオスだよ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
もちろん崩し字など読めるはずもなく、楷書で記された部分をどうにか読んだだけです。

最初にどんな話かってのをさっくり説明しておくと、
吉川興経の家臣だった朝枝(有田)加賀守、その甥であり後継者の右京、
そのまた後継者の半兵衛(加賀守の実子)といった人物が語り継いできた話を、
子孫の朝枝嘉右衛門という人が「聞書」として著したものらしい。
文中に「慶安五年まで何年」とか出てくるから、成立年代はその辺なんだろうと想像。
朝枝氏の系図は見たことないので、あんまり詳しく追えてませぬ。
()内は管理人による補足でござる。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵『吉川家臣覚書』)①
「朝枝久呉より差し出す」
「朝枝嘉右衛門、父半兵衛よりの聞書の写し」

【朝枝加賀守】

若い頃の名は弥次郎、その後右京、加賀守を名乗る。
もとは朝枝・境と並び称されるような、吉川家の家臣だった。
しかし、この加賀守の代になって牢人することになった。
それというのも、興経公が毛利元春公を養子にされるときに、
興経公が叛逆を企てていると噂する者たちがいた。
毛利元就公が興経公に切腹を仰せ付けられたので、加賀守は吉川家を出た。
この話はよく効かされているが、加賀守は興経公にあれこれと諫言をしたけれども、
興経公が全く聞いてくださらなかった。
加賀守は「結局私が何を言っても、興経公は今までどおりに私が守ってくれるとお考えになって
本気で向き合ってくださらないのだろう。
頼りにしている家臣たちがいなくなれば、(元就への)逆心もおさまるはずだ」
と考えた末、立ち退いたのである。

その後は、安芸の奴田(沼田)、隆景公の領内で暮らしていた。
隆景公はそれをお聞きになると、元春公に了解を得て、加賀守を家来として召し抱えてくださった。
そうして数年奉公したので、有田式部少輔の跡である75貫を拝領した。
また御座敷へと呼び出され、有田の名字を名乗るように仰せ付けられた。
有田というのは小早川家では高家であり、詳しくは小早川の系図に載っている。

安芸の厳島の陣で陶と決戦となったとき、同国の大(火か)立・廿日市へと毛利家が進軍された。
厳島の本城には隆景公が人数を籠め置かれ、御三殿がいろいろと相談をしたが、
「こうなっては野嶋(能島)・来島に頼らなくてはかないそうもない」ということで、
この両家の居城がある伊予へと加賀守が遣わされ、
すぐに両家を引き連れて罷り帰ってきた。
この証拠として、両家から加賀守への書状がある。
そうして両家の者たちと相談し、未明に厳島へと打ち渡った。
隆景が配下の城に籠城なされるので加賀守もお供し、陶を追い崩して二度高名した。
隆景公からの感状が二通ある。
陶を討伐なされたので、周防・長門の両国は元就公の御手に属した。
その翌年の春、周防のスヽマ(須々万)の城を攻め落とした際にも、加賀守は高名した。
これも感状が一通残っている。
同年、周防の大野という土地で25貫の御加増があった。

その次の年から三年間、筑前の立花道接(雪)・高橋・秋月の三人衆へと、
「中国(毛利)にお味方なさるならばご出陣なさってください」と交渉するため、
加賀守は安芸と筑前を行き来した。
この三人衆、またその他にも一味すると約束してくれた者たちがいたので、
(元就が?)立花陣を思い立たれたそうだ。
筑前においでになると、元就公・元春・隆景公が連署された判物をいただいた。
それには、「そなたが三年間も苦労してくれたからこそ、今回の立花への出陣が決まり、
大変うれしく思う。ついては、そちらの土地で案内を務めるように」とあった。

筑前では、ハカタ(博多)の小福寺を宿にして、方々をめぐっていた。
市川経佳(好)が籠っていた山口の城へと、豊後から義長を騙って乱入してきた者があった(大内輝弘)。
(毛利家は)すぐに筑前から撤退され、すぐに叛逆した者たちを討ち果たした。
隆景公は山口に加賀守を1年間残し置かれたので、翌年になってから沼田に帰った。
そこへ、博多の小福寺の万念和尚が訪ねてきた。
寺で讒訴され、住むことができなくなったので、加賀守を頼ってきたそうだ。
この件を隆景公に申し上げると、沼田の蓮華寺という寺に二百貫をつけ、万念和尚を住まわせてくださった。
後年、輝元公へと話を通してくださり、万念和尚は吉田の洞春寺の住持となった。

その後、伊予の河野弾正(通直?通宣?村上通康?)殿が死去された。
ご子息の四郎殿(牛福、通直?)はまだ幼少だったので、隆景公は河野家に加賀守を付け置かれた。
加賀守は伊予で、河野家から100貫の知行を拝領した。
また隆景公からも、伊予への出張手当として、安芸の大崎でニ十貫を拝領した。

河野大方(宍戸隆家の娘?)様から、半兵衛の母が加賀守に娶わされた。
母の本国は土佐の国で、吉良殿の一老である天竺飛騨守の息女として生まれた。
居城は土佐の内浦というところだったが、長祖加辺(曽我部)殿がその城を攻め落とされたので、
父子三人は切腹し、母は娘(半兵衛の母)を連れて伊予のドフコ(道後)の町に落ち延び、
育てた娘を河野殿へと進上したそうだ。
そして加賀守に実子である半兵衛が生まれたので、安芸の本領120貫を、甥の有田右京に譲った。
伊予の戦乱のときは、沼田(隆景)からの下知や法度を諸国人に通達するため、
加賀守が伊予に駐在していた。
加賀守は年老いてしまったので、跡を右京に任せて沼田へ帰った。
それから2~3年して加賀守は死去した。
命日は天正十二年十月九日、戒名は三甫宗玄居士である。慶安5年まで69年。

加賀守には弟が一人いて、朝枝三郎左衛門という名で、
興経公ご切腹の際に共に死去した。その子供が右京である。
当時は幼少だったので、今田上野介(経高)の判断で出家させていたが、
加賀守に実子が生まれないので、上野介から引き取って沼田で育てた。
桂伯耆殿のハイ(不明)と、この右京とは同腹の兄弟である。


【有田右京進】

若名は弥四郎、加賀守の跡の両方(小早川家知行分・河野家知行分)合わせて220貫を拝領。

島津陣のこと、大公(閤)様の九州征伐のときまでは、伊予に暮らす。
隆景公が太閤様から筑前一国・肥前の基諱郡・養父郡の50万石を拝領して、伊予を返上した。
このようになったので、河野大方様・同四郎殿(牛福、通直?)は、
安芸の高原で3000貫を与えられ、そこでお二人で暮らされていた。
その年、四郎殿が死去なさったので、右京は筑前に罷り下った。
肥後の国の半国を領していた佐々陸奥守(成政)の領内、鰐(ワニ)の城主が叛逆したので、
隆景公の指令により、粟屋四郎兵衛・有田右京の二人が兵を率いて鎮圧に向かった。
城の抵抗が激しかったため、四郎兵衛はけがを負って引き返し、右京進は討死してしまった。
今はなくなってしまったが、そこに廟所が建てられ、半兵衛が13歳で筑前に罷り下ったときに参詣した。
戒名は真宗道鐡居士、命日は天正16年12月2日、享年41歳であった。
慶安五年まで六十五年。

     隆景公
   筑前一国五十万石肥前二郡
   御城本名嶋備後内出雲内十六万石周防の内安芸の内

  宗玄事
   井上五郎兵衛・粟屋四郎兵衛・桂宮内少・兼久内蔵丞
  高山主水事
   ムジヤアゲ弥左衛門
        鵜飼(ウカイ)新右衛門
        手嶋市之介
            □□(つほ?)生和泉・同与兵衛

以上、テキトー訳。つづく。

長いな……_ノ乙(.ン、)_
軍記の一章ってわけじゃなく、ひとまとまりの家伝のようなものだから
片手間にやっつけるってわけにはいかんでな。
文中に出てきた誤表記というか異表記?は、一通り残してみたよ。
沼田→奴田とか、長曽我部→祖加辺とか、おもしろいよね((└(:D」┌)┘))

右京の段の、最後のメモ書きみたいなのはよくわからんかった。
□のところは読めてませんすみません。
あとすみません河野さんちはあれこれありすぎて把握できてません><。
ツッコミ大歓迎です(・`ω´・)

この朝枝(有田)加賀守、吉川家から小早川家に転職して大出世!という人なんだけれども、
この「聞書」が『吉川家臣覚書』に収録されていて差出人が朝枝姓ってことは……
そうだね、プロテインだね!じゃなくて子孫がまたぞろ吉川家に帰参したんだね!
こんな足跡をたどってる家臣がいるのか!って、大興奮しとりますwww
加賀守の代から、だいぶ時間が経ってからのもので、しかも聞書なので、
ちょこちょこ突っ込みどころはありそうな感じ。私にはわからんが。

これを最初に読んだとき、真っ先に思い出したのが、
隆景遺臣の行方を追ってらっしゃる、ブログ「伊予の戦国史」の管理人様だったわけで。
私はそのときついったーの本アカウントを抹消していたので、急いで作り直して
「有田加賀守を知っとるけ!?」と凸したわけですさ。
んでもって、その方に論文の所在などを教えていただいたりして、今に至る、と。
ホント毎々お世話になります。
私なんかと違って、すごくまじめに緻密に調べてらっしゃる方だから尊敬するわ。見習いたい。

その方からご紹介いただいたのが、川岡勉氏の論文、
「永禄期の河野氏権力と芸州:小早川氏の検使の派遣」(「地域創成研究年報vol.2」、2007年)。
同論文は、『吉川家中并寺社文書』(岩国徴古館蔵)に収録された伊予関係文書を通して、
小早川隆景・伊予河野氏の動きとその間をつないだ検使の実態に迫っている。
私は小早川氏や河野氏関連はまったくさっぱり調べてないので、
こういう情報をピンポイントで教えていただけたのはとてもありがたい。
川岡氏よると、朝枝(有田)加賀守の実名は「経道」さんらしいですお。
書中に見える略名は「有賀」さんだね。
そして、加賀守は河野の「局方」、つまり宍戸隆家嫡女らから信頼を寄せられ、
隆景に対して「なんとしても有賀を伊予に置いてほしい」という要望があったと見てよさそう。

それを考え合わせてみると、今回テキトー訳した聞書に見える、
「半兵衛の母は河野大方から娶わされた」という状況は、河野側の引きとめ工作なのかもわからんね。
川岡氏が紹介していらっしゃる隆景の有田加賀守宛書状が推定永禄11年で、
そのときすでに「老体の儀」と労わられていたほどの年齢だったのに、
子供産めるほどの若い奥さんもらうとかけしかr(ry……いや、それだけ見込まれてたってことで。
若いってだけじゃなく、実家が没落したとはいえ血筋もいいみたいだし。
隆家嫡女だけでなく、宍戸氏の総意として、また平岡衆・来島衆といった伊予勢からも
検使役の指名がかかるほどの人だったようなので、
その有能さも推して知るべし、といったところか。
この人が吉川家に奉公続けてたらどんな仕事したんだろうね。

次の右京は早々に戦死してしまったのであまり活躍の機会がなかったようだけど、
河野母子に見込まれて、ぎりぎりまでそばにいたんだね。
右京の実名は「景勝」らしい。
こちらも「伊予の戦国史」管理人様からいただいた情報ですん。
「経」の吉川カラーから「景」の小早川カラーへと、右京の代で転身が完了したわけだ。

そんなわけで右京の代まで終わったので、次回は半兵衛の代をテキトー訳するよ。
日があかないようにしたいなぁ。
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