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2018-03-21

経言小笠原入嗣騒動考①

まとめ切れないと言ったそばからやってみたくなる、
そんなとりとめのない日々を過ごしています。
本当は掃除とかしないといけないんだけど、元長のお手紙が長すぎて、
現代語訳にほぼ1日費やしてます……元長、おそろしい子……

ここんちは爺さまの代から長い手紙書くから、楽しいんだけど、ちゃんと読もうと思うとしんどいね~。

さてさて、念願の小笠原入嗣騒動に着手してみましたよ。
この件について気になる方は、当ブログなんぞより、光成準治先生編
『シリーズ・織豊大名の研究 4 吉川広家』(戎光祥出版、2016年)を読まれるといいと思いますよ。
ちゃんと当時の書簡に従って研究されてるからね。

私は別方面からのアプローチを試みます。
ずばり、隆景と毛利氏重臣福原氏に宛てられた、元長の弁明から、吉川家の言い分を見ていきたい。
手抜きバンザイ!

ものすごく長いけど、読む気力のある方は、天正11年に経言=広家が秀吉への人質として
差し出されるにあたって、吉川家当主また経言の兄である元長がしたためた起請文だということを
念頭にお読みいただきたく。


●吉川元長起請文(吉川家文書之 1247) 

   隆景、福原元俊、福原貞俊 参     治部少輔 元長

 弟である又次郎(吉川経言、広家)を、ご命令通りこのたび上国させることにしました。
 又次郎の身の上に関しては、以前からさまざまに問題が取りざたされていて、
 私としても頭を抱えていました。
 とるに足らぬような者たちが、あれこれと噂したのでしょう。
 その問題の始めから終わりまで、あらましを申し上げておくことにします。

一、備中飯山の陣において、小笠原次郎右衛門尉(長治、小笠原家一門衆)より、
  市川雅樂允(経兼)を通して、元春に歎願がありました。
  長旌(岩見小笠原氏当主)に男子がいないため、私の弟である松寿(元春四男、天正六年死去)を養子に欲しいと
  元春に申し入れようとしていたところ、不慮に死んでしまったので、
  又次郎を養子としてもらえないだろうか、とのことでした。

  元春はすぐに市川雅樂允を私のところへ遣わし、
  次郎右衛門尉からこのように言ってきたがどうしたものか、と相談してきました。
  私は「これは大ごとですから、よくよく考えなければなりません」とだけ返事しました。
  承知したわけでも拒否したわけでもありません。
  それなので元春は、次郎右衛門尉に対して
  「この件に関しては決断を催促しないほうがよい」と断言しました。

  すぐ後、南条元続が反乱を起こして因幡・伯耆の情勢が再び不安定になりました。
  私は伯耆の八橋に駐屯して対処にかかりきりになってしまったので、
  小笠原家程度のことを沙汰する暇もなく、
  次郎右衛門尉からも何も言ってこないままに時間が過ぎました。
  
  伯耆の津波並陣にて、次郎右衛門尉が小笠原弾正忠ほか重臣たちの連署状を携えて
  申し入れてきましたが、以前と同じように答えて、一切承知しませんでした。
  そうしたところ、年末になって口羽通良から静間図書允が津波並陣まで遣わされてきました。
  小笠原中務少輔(長秋)から通良へと、このような申し入れがあったそうです。

  「次郎右衛門尉は元春の了解を得たでしょうか。
   それほど急ぐ話でもありません。
   次郎右衛門尉自身は吉川の家に出仕していますが、小笠原はそもそも国人です。
   いろいろ事情がある家でもあると思います。
   元春も、又次郎どのが養子に入ったら、
   長旌の代より所領を増やしてやりたいと思われることでしょう。
   どのようにしたらそれが実現できるのか、私にはわかりません。
   次郎右衛門尉はどのように考えて、この一念を通そうとしているのでしょうか。
   こう申しましたが、私は時勢を心配しているだけです。
   元春が承知してくださるなら、次郎右衛門尉同様に協力を惜しまないつもりです。
   ですので、どうか許諾の証文を得るためにご協力ください」

  元春へと直接書状を差し出すのは遠慮して、通良まで申し入れたとのことです。

  そこまで言うならばと、元春は、
  中務も次郎右衛門も、同様に長旌そのほか小笠原家中の者たちも一同に
  賛成して申し入れてくれば、隆景ならびに毛利家の重臣たちに相談し、
  上さま(輝元)にもうかがったうえで返事をしようということになりました。

一、小笠原家に対しては、家城ならびに本領を返還し、長旌を父と呼んで大切にし、
  家来ももちろんそのまま召使う、という条件です。
  経言一代限りは血縁者ですが、ゆくゆくは他人になっていく間柄です。
  小笠原家としてはこの養子縁組で念願を果たすことができるのだから、
  将来的に毛利・吉川との関係をなおいっそう強めることになるであろうと、
  元春から静間に対してその利点を説明しました。
  静間もそれは覚えていると思います。

一、その後、上さまから養子入りを止められて、あまりに外聞がよろしくないため、
  せめて長旌の娘との縁辺だけでも整えてほしいと
  経言やその家来たちがしきりに言ってきました。
  元春は通良に相談しました。また、児玉市介(春種)を使者として
  輝元に伺いを立て、祝言の準備をしました。
  また経言が「河本の要害をぜひとも預かっておきたく思います。
  そうしていただけないならば、思いがけない行動に出るかもしれません」
  などと言うので、元春はこれ以上外聞を失うことのないようにと考え、
  祝言と河本の要害について手配しました。

一、そのころ、上さまから二宮太郎右衛門尉(就辰)が新庄に遣わされ、
  元春に通達がありました。その時の御書は今でも残してあります。
  私は伯耆の八橋にいましたが、そちらにも同様の通達がありました。
  この御書も所持しています。
  私は返事として、上記の内容をお伝えしました。
  おそらくこの返事を上さまと一緒に聞いた人がいるでしょうから、
  お尋ねになってみてください。

  またそのころ、平佐藤右衛門尉(就之)・児玉市介を元春のところへ遣わされました。
  あの人に対する上さまからの御書も拝見し、写しを作成してあります。
  この件について、複数の御書の御文体ときたら、あまりの剣幕で、
  まったく理解できませんでした。
  それというのも、こちら(吉川家)としては全く他意がないからこそです。
  もちろん、上さまの御意に背くつもりは毛頭ないので、
  それほどきつく仰せになられずとも、ご命令に従うつもりでした。
  それというのに、あのような仰せではあまりに外聞が悪いことです。

一、以前、長旌の奥方から要害のお局様へお話があり、上さまからの御書もあります。
  このような経緯もあったのですから、この件は
  経言の心得違いばかりとも言えないのではないでしょうか。

一、そもそも、小笠原家に実子ができないために養子縁組を申し入れてきたのですから、
  私の兄弟から一人を養子に出すとしても、まったく筋目のないことでもないでしょう。
  皆さんご存知のように、長雄(小笠原長旌の父)の奥方は
  新庄の出身です(吉川元経の娘)。
  日頼さま(元就)の筋から考えると、元春にとって、長旌は伯母の子に当たります。
  吉川の家筋からすると、元春の伯父に当たります。
  元経の子である妙玖さま(元就夫人)の血を引いているのですから、
  筋目がないとは言えません。
  そのうえで小笠原家を取りつぶすという決定をしたのなら、それこそ、
  元春が時の威勢に乗って国人衆の家を差し押さえたと非難されてもうなずけます。

  小笠原の一族は、日頼さまとは特別に懇意にしていた家です。
  とりわけ長旌については、隆元さまが縁者として遇したので、
  周防での戦争の際(陶晴賢との抗争)には他の国人衆より抜きんでた活躍をし、
  毛利家に対して無二の忠節を遂げました。
  しかしその後、小笠原は周防・出雲と示し合わせてこちらを裏切り、
  御当家の敵となって戦争に及んだこともありました。
  周防が毛利の支配下にはいると、すぐに小笠原の家城のある温湯城を攻めました。
  一旦は小笠原を切腹させると決まりましたが、命乞いがあったため
  隆景・通良が和議をととのえて、一命を助ける代わりに本領と家城を没収しました。
  そのため小笠原は小さな所領に居を構えて暮らしています。

  小笠原が河本で切腹していたならば、その跡目は元春に与えられるはずでした。
  小笠原は周防・出雲が敵となったら御当家が負けるだろうと予想し、
  この吉川家の所領を長雄の隠居所にしたいと、周防・出雲に申し入れ、
  了解を取り付けていました。その証文も残っています。
  こちらの勝利が決まると、小笠原の跡目を元春に与えてくださるよう、
  長雄から申し入れがあったそうです。
  しかし長雄の命は助けることになったので、領地の河本だけが元春に与えられました。
  この地は今でも吉川家が領知しています。

  このような経緯があったけれども、隆景と通良が和議をまとめたので、
  元春も私も小笠原家に対して少しも欲心はありません。
  下々の者たちまで、境目を堅固に保つよう申し付けてあります。

一、養子縁組については、三吉からも祝宮内を使者として元春に申し出がありました。
  吉田(輝元)からのお許しがあれば、長旌を説得するとのことでした。
  元春はこのように返答しました。

  「長旌から次郎右衛門尉への内々の書状はあるが、表向きのことは
   中務に対して遠慮があるため、今も長旌の了承は得られていない。
   そのため、吉田にもこの件はご相談する段階にないので、許可状も受けられない。
   ご協力のお申し出はありがたい。
   まずは長旌への説得を試みてもらえないだろうか」

  こう返答して、使者を返しました。

一、国人衆などの養子契約については、その前例は数多くあります。
  私ごときが口幅ったく言うようですけれども、挙げてみます。
  隆景はすでに竹原の家督を継承され、小早川家を治めていらっしゃいます。
  筋目がないようにも思えますが、竹原(小早川)興景の奥方が
  毛利家出身である(毛利興元の娘)ご縁によるものです。
  元春は吉川興経の養子となり、当吉川家を治めました。
  この筋目は今さら言うこともないでしょう。

  元政は天野元定の跡を継ぎ、天野家を領知しています。
  宍戸元孝の弟(元盛)は、内藤隆春の家を継承しました。
  椙杜隆康の家は元康が継承することになりましたが、
  元秋が思いも寄らず病床に伏してしまったため、その名代として
  富田の要害にいったん在番しています。
  椙杜家の継承問題も放っておくことはできません。
  元康の代わりとして、志道元保の次男、少輔四郎を仰せつけられました。
  これらは、何の筋目もない縁組ではないのですか。
  いくらでも掃いて捨てるほど前例があるではないですか。

  今回、小笠原家中の者たちが経言を養子に欲しいと言ってきたのは事実です。
  しかし彼の家中にもそれを承服できない者がおり、毛利家へと
  元春や私がことごとく非道を行っているように言いふらしたため、
  このような笑いものにされてしまいました。是非もありません。

  そのうえ御当家の方針とは異なるからといって、
  吉川一族すべての未来を失うほどの取り沙汰をされ、
  まったくこれ以上ないほど当惑しておりました。

  養子・養父の関係はどこを見ても存在するものだというのに、
  元春や私へのなさりようは、いったいどうしたことなのでしょう。
  道理も何もあったものではないと思っています。

一、御当家に対して、隆景・元春が協力を惜しまないのは当然で、言うまでもありません。
  日頼さまは近年、周防(大内氏)と出雲(尼子氏)の間に挟まれて
  気を休める間もないときも、当家の元春はできる限り力を尽くしてまいりました。
  今までも同じようにしてきているというのに、
  そのなかで、何か間違っていたことがあったということでしょうか。

  出雲に尼子勝久が攻め入ってきたときも、反撃の戦略を整えられ、
  一旦治まると、宍戸隆家・通良・元春を押さえとして残してゆかれました。
  日頼さまがお亡くなりになったときには、情勢が不安定になりましたが、
  周防・出雲両国に反撃し、日頼さま以来の御当家の威光が衰えないよう
  元春は手を尽くしてきたではありませんか。

  そのほか、山陰地方で、今日に至るまで苦労を重ねてきたことはご存知でしょう。
  ご命令に従って、山陽にも何度も出向いています。
  自分の都合を捨て置き、戦やその準備に明け暮れてきました。
  こんなことは、皆さまよくご存知のはずです。
  これほどまでに御当家の戦に専念してきたのですから、
  私の兄弟の一人をお引き立てになられ、立派な武人として扱っていただき、
  御用にでも立てていただけさえすれば、
  少ない分限で数年苦労してきたことをわかっていただけたと思い、
  感謝の心でいっぱいになることでしょう。

  ほかの国人衆の次男や三男にさえ過分の扶助を与えられています。
  抜きんでての扶助が欲しいわけではありません。
  人並みに、また働きに応じた報酬があってもよいではないですか。
  将来、他国の国衆を制御されることについては、戦略の内と思いますので
  口を挟むつもりはありません。
  けれど何もかもすべて遠慮して言わないでいると、扶助をいただくこともできません。
  養子縁組をしたいと言上することすら許されないというのでしたら、
  言うべき言葉も見つかりません。

一、この子細はことが起きたときすぐにお伝えするべきだったかもしれませんが、
  次郎右衛門尉・中務の二人から連絡があっただけで、
  家中のだれもが知っているわけではありませんでした。
  不調法な人とは言え、長旌からも何も言ってきていません。
  あれこれと間で取り次いだ者も少ないので、私の言い分の証拠となるものがなく、
  誰にも言えませんでした。
  また、この件が上さまから差し止められてからは、今日に至るまで
  遠慮ばかりしていて、誰にも言いませんでした。

  今になって言おうと思ったわけは、経言が人質として上洛するにあたり、
  以前から心の内に秘めていた考えをすべてさらけ出してしまおうと思ったからです。
  それにこのままでは、経言があまりに不憫ではありませんか。

  元春と経言は、小笠原家に関しては二度と言上しない旨、固く約束しています。
  その理由は察して余りあります。
  経言の進退について、小笠原家のことは少しも話題にする気はないようです。
  とりわけこのような時期にそのようなことを言い出せば上国にも支障が出るでしょう。
  私自身は最初からそのような約束はしていないので、
  このような時期にこそこそわかっていただくべく、申したまでです。
  このような遠慮ばかりを重ねて、何かあってから後悔することになってはと、
  心の中を残らずぶちまけました。

一、このたびの上国は、もちろん、ご命令に従ってのことです。
  経言はすっかり外聞を失ってしまったので、これ以後、
  大きく取り立てられることはないとあきらめていますが、
  当年の春、上さまから大いに御意を加えられました。
  このたびもまた罷り出て御用に立つようにとのご命令ですから、
  そのことを忘却すべきではなく、お受けいたしました。

  再び経言がこの地に帰ってこられるかどうかはわからないのですから、
  進退を云々しても仕方ありません。
  私のためにも、何も言わないでいるのがいいと思っているようです。
  将来の望みもなくなったというのに一身をなげうつ経言が不憫でたまらず、
  申し上げました。

  元綱(小早川秀包)にはいろいろと手を差し伸べていらっしゃいますね
  (備後国人大田英綱の跡を継承、後、小早川隆景養子)。
  経言とどう違うというのでしょう。
  二人一緒に人質となるのですから、一人とびぬけて重責を負うわけではありませんが、
  命を失う可能性もあるので、公私ともに一つの心残りもないようにしてから
  上国したいと考えているようです。私や元春もそのように考えています。

一、経言は、今となっては、元春の老後の支えとして手元に置く予定でした。
  しかし元春は、必要なときに御用に立つために、
  老後のことも差し置いて、人質に差し出すことにいたしました。
  このような元春と私の心底をご理解いただき、お取り扱いください。

一、だいたいにして、経言の進退をこの時節にあれこれ言うのがよろしくないと
  お考えになるならば、そのように仰せになってください。
  元春・経言にもそのように心得るよう申し聞かせます。
  これは、御当家に対しての私の役目だと思っています。
  たとえ経言には憐憫をかけていただけなくとも、我々父子は御当家に対して
  変わらず忠節を尽くす所存です。
  そのように内々お伝えいただきたく、お願い申し上げます。

一、くれぐれも、小笠原家のことは、我々父子四人から申しかけたことではありません。
  もしこれが偽りなら、(以下神文)

   天正十一年八月十三日     元長(花押)
     隆景、元俊、貞俊 参

以上、テキトー訳!

はぁ……元長さん、相変わらず熱くて惚れる……すごく好き。
起請文ていうより抗議文なんだよね、これ。

言いたいことを整理すると。
①発端は吉川家側じゃなくて小笠原家中の人物からの申し入れだよ。
②吉川家としては、小笠原家中の意見がまとまるまで承諾できないと言ったよ。
③吉川家が信長に対する戦の算段に没頭していたたため、養子入り承諾を保留しているうちに
 小笠原家中の経言養子入り反対派が讒言をして、輝元の反対で養子入りは破談になったよ。
④じゃあせめて、結婚と経言の領地問題だけでも先に進めようとしたら、
 輝元がすごい剣幕で反対してきたんだけどどういうことなの。
⑤そもそも小笠原は血縁的に何の縁もない家でもないし、
 ほぼ縁のない養子縁組がまかり通っている現在、吉川だけ妨害されるとかイミフ。
⑥元就以来忠節を貫いてきたのに、その吉川に対する仕打ちがこれか。
 少しは思いやってくれてもいいんじゃないの。
⑦この騒動のせいで将来を失ったのに、けなげにも、明日をも知れない人質に赴く経言がかわいそうだろ!

いや、整理しきれんな。盛り込みすぎ。
ちょっと、「狡兎死して走狗煮らる」って故事成語が頭をよぎりました。

私はね、この騒動に関しては、先行研究には欠落している視点があると思うのさ。
おおむね、「宗家=輝元の下知に従わない経言」がクローズアップされ、
輝元には勢力を伸ばす吉川家に対する警戒心があった、とかなんとかまとめられるんだけれども、
じゃあ吉川家の言い分はどうなの、ということに関してはあまり触れられない。
なので今回、元長の言い分をガッツリ読んでみた、という寸法。

養子縁組の手順として、当事者間(ここでは吉川・小笠原)である程度合意ができてから
上(輝元)に上申する、というのは問題ない手続きなんだと思われる。
多くの養子縁組を見てきた元春がそのように進めてるので、おそらく。
それに手続き上の問題であれば、後から修正可能なはずだけど、これはどうにもならんかった。

それなら、何が問題なのか。
経言の野心に言及されることが多いように思うけど、
輝元が反対した理由の正当性というか妥当性はどうだったのか?
元長のこの起請文を読むにつけ、輝元の下知に妥当性がなかったために、
経言が強く抵抗し、数年間にわたる大問題になったのではないか。

なぁ~んてことを思うんだけど、それを検証するスキルと時間が私には足りません。
それに、そもそも私は大の吉川びいきなもので、私情がバリバリ入ります。
だってさ、だって、こんなの、経言だけじゃなくて、元春も元長も不憫じゃないか!!!
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