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2011-12-03

おまえの命を私にくれ

ほいほい、また続きだけど、舞台はまだ鳥取城から離れてるよ。

大崎城合戦並びに隅何某切死のこと

鳥取の城中が兵糧乏しく難儀をしていると芸陽に知らせが来た。
元春様は城中の様子を知りたいと、大崎の城に籠もっていた田公備前守のところへ中村善兵衛尉を遣わし、
どうにかしてこの中村を鳥取の城中に入れるようにと言い送った。
田公はこれを聞いて、
「さあこれは一大事だぞ。敵は柵の木を幾重ともなく結いめぐらし
本篝も捨篝も隙間なく燃やし続けている。夜も白昼のごとしだ。
隠行の法でも身につけない限りは、どうやっても入ることなどできまい。
しかし、なんとかして城中への通路を開けなければ」と、
中村とその手段について話し合ったが、いい方法は見つからなかった。

こうしたところに、秀吉方から宮部善乗坊・亀井武蔵守・木下備中守・藤堂与右衛門などを主力として、
総勢四千騎あまりが、田公の館を焼こうと押し寄せた。
敵は少勢と侮って、うかうかと門の前まで進んだところ、
田公が門を開けて二百五十ほどで突きかかってくる。
寄せ手はまったく油断していて、まさか田公が切って出てくることはあるまいと思っていたので、
にわかのことに慌てふためき、備えも緩くなり、数に勝るにもかかわらず難なく突き崩されてしまった。
兵たちは一度も後ろを振り向かずに、我先にと逃げ出していく。
宮部・亀井たちは馬を駆って味方を鼓舞し、「引き返せ、敵は少数だ」としきりに檄を飛ばすも、
浮き足立った大群の耳には届かなかった。

なかでも前線近くで引いていた亀井に向かって、
田公の郎党の隅何某という猛者が走り寄って突こうとする。
亀井の運が強かったのだろう、切っ先が鞍の尻輪に当たっただけで身には傷一つつかなかった。
亀井武蔵守は命の助かったのをいいことに、鐙で馬の腹を蹴って走らせ、逃げ延びた。

秀吉は吉岡の城では数多くの兵を失い、今また大崎でも利を失って、
端城を攻めていたずらに人数を失っても意味がないと考え、
その後はあえて兵を出すこともなかった。

そもそもこの田公は、なかなかのつわものだった。
去る天文十二年(1543年)、但馬の山名豊員(とよかず)の家人、武田源五郎という者が逆意持ち、
その噂が立つと、豊員はすぐにこれを討とうとして、
武田に同調している長伝という新当流の兵法者と二人、用があるといって城へ呼び出した。
源五郎・長伝一人につき四人ずつの討手を定めて待ち構えていた。

武田は郎党を三十人ほどを連れて登城したが、
玄関から客殿に入ろうとするところに、廊下で八人の者が斬りかかる。
長伝は名高い新当流の兵法者だ。
武田も力自慢の剛の者で、八人もいる討手をその手で切り伏せ、客殿へ切り入った。
当番の者たちは散々に切り立てられ、どこへともなく逃げていった。
源五郎・長伝は二人打ち連れて豊員のいる間へと入ってくる。

田公備前守はそのときまだ十七歳で、豊員の小姓としてそばにいた。
とっさに闖入者に向かって走り出し、源五郎を戸の脇で切り伏せる。
続いて長伝を横払いに切りつけると、横腹をしたたかに掻き切っており、長伝も同じ枕に倒れ伏した。
大いに感じ入った豊員に所領を数箇所与えられて出世したが、
十九歳のときに親の仇を討って但馬を離れ、今は因州に居住している。
その後何度か武名を上げ、今回も亀井・宮部などを切り崩し、わずかの手勢で城を持ち堪えた。
これが無二の毛利方である。

田公は中村に向かい、
「敵陣の構えが堅固で忍び入るのは難しい。
しかし私の郎党に隅という者がいて、これが忍術に長けている。
この者を添えるので、隅の案内に任せて忍び入りなされ」と、隅を呼び出した。

「隅よ、おまえの命を私にくれ。
というのも、去る四月に秀吉がこの城に攻めかけてきたとき、奴らは愚息の又八を磔にかけた。
もし私が秀吉に一味すれば息子の命を助け、その上この国で望みのままに所領をやろう。
またもし同心なくば、交渉の余地はない、又八を突き殺すぞ、と言って、槍・薙刀を又八に突きつけた。
しかし私は吉川元春の御手に属して、
忠功が人より抜きん出ていたためにまた賞も人より多く与えられている。
子供一人はさて置き、一門がことごとく死刑に処せられても、
日来の厚恩を忘れてどうして敵に味方することなどできようか。
そう思って秀吉になびかなかったから、おまえも知っているように、同二十二日に又八は突き殺された。

私は子を捨てて毛利家への忠勤を尽くした。
おまえもまた、私のために一命を捨て、この中村殿を城中に入れてやってくれ。
きっと援軍が来るぞと知らせるお使いだろう。
この使者を城中に入れて援軍が来ると伝えられれば、
城中の人々はとても心強く思って守りを堅固にするだろう。
また、もし連絡が絶え果ててしまえば、力を落として落城もそう遠くはあるまい。

上方と芸陽の戦を左右するのは鳥取の城だ。
そしてその城が持ち堪えるかどうかはこの知らせにかかっている。
おまえは忍術に長けている。
中村殿をご案内して城中へ入れてやってくれ。
もしも敵が伏兵を置いていたら防戦し、その隙に中村殿を逃すのだ。
中村殿も絶対に、隅を見捨てて帰るのは口惜しいなどと思って討ち死にしてはなりませんぞ。
あなたは命をまっとうして、城への連絡を果たしてくだされ。
これこそ至極の忠功ではありませぬか。小事を顧みなさるなよ」

隅は、「仰せの趣、その旨を存じ奉りました。
私の一命を投げ打って、必ず中村殿を城中にお届けいたします。
ご安心なさいませ」と言って退出した。
これを最後と思い定めて、妻子に別れを告げ、
日頃から仲良く語らっていた友達へ、形見として手に馴染んだ扇に一首の古歌をしたためて贈った。

「立ち別れいなばの山の峯に生る待つ(松)とし聞かば今帰り来ん」(中納言行平『小倉百人一首』)

こうして中村を伴って敵陣に紛れ入り、忍び出て丸山に入り、それからようやく鳥取にたどり着いた。

さて、式部少輔(吉川経家)たちに会うことができた。
「この城をどうか堅固にお守りください。
やがて元春父子が後詰として出張(でばり)してきます」と諸卒を励まし、また城中を抜け出た。
隅は中村に向かって
「私が敵陣に紛れ込みます。時を見計らって鼠の鳴きまねをするので、
必ず跡についてきてください」と言い含めた。
捨篝の辺りに忍び寄り、味方のように振舞って、紛れて柵の中にツッと入ると、
約束どおり鼠の鳴きまねをする。中村も続いて中に入った。
かろうじてまた陣中を出て、一町ばかり進み、
もう忍ばなくてもいいだろうと思ったところに、敵が待ち伏せていた。
「そこの者、怪しいな。止まれ」と呼びかけられて、
隅は「いやいや、ご安心ください。お味方の者でございます」とおどけた。
しかし敵方では「その男に物を言わせるな。斬って捨てよ」と言っている。

隅は名高いつわものだ。
人に先を取られるまいと、抜き打ちに一人を切り伏せた。
途端に大勢が身を起こして切って掛かってくる。
中村も太刀を抜いて戦ったが、田公にあれほど言われたのにと思い直し、
敵を打ち払うと走り抜けて、大崎へと帰っていった。
隅は、大崎を出たときから、二度と帰れるとは思っていなかった。
散々に戦って敵を数人切り伏せ、自身もズタズタになって、ついにその場で討たれてしまった。


以上、テキトー訳。

隅さんカッコエエエエェェェェェェ!
そして田公さんもカッコよすぎです御奉公させてください!!!
一度は言われてみたい言葉ランキングに確実に入るね>「おまえの命を私にくれ」
田公さんこの当時で五十代後半か。ヨシ全然いける! <何が

ヤバイヤバイ、なんだよまた鳥取逸れて別の話かよ(前のは面白かったけど)とか思って
うっかり読み流しそうな勢いだったのに、なにこの面白さ!
ニンジャ!? ニンジャだよ!!!
あとゲイシャとスシとフジヤマが揃えば欧米人も大喜びだよ! <イメージが古い
かなり地味な忍術(紛れ込む)だけど基本中の基本だよ(多分)!
やっぱ合印とかどこかで盗んでつけていったのかな?かな?
万単位の大軍だからそんなの必要なかったのかな?

ああしかし、残念なことに隅さんの下の名前が「何某」ってのはどういうことなのwww
扇に書き記した歌はバッチリ伝えてるのに名前が「何某」って。
残されてなければなんか名前付けてやってくれよ、ちょっと不憫になるわ。

悲しくも美しい漢たちの生き様! いいねぇ。
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