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2011-12-12

つれづれ

心にふと浮かんだことを書き留めていくスペース。
自分の頭の中整理用。
書き出してみると、こんなに広家のことを考えていたのかと再認識。
正直言って自分でもキモチワルイw

※思いついたときにに上書きしていきます

■慶長四年伏見の喧嘩
 広家と浅野長政の喧嘩について
 発端は何?
 「御内衆分」って何だろう? 手勢の衝突?

 ・吉川家文書之二 901 毛利輝元自筆書状
  日付:慶長4年7月16日
  宛先:安国寺恵瓊・益田元祥・福原広俊・渡辺長・堅田元広
  内容:広家が家の大本を忘れて下々の者のような分別で困る。
     どうにか今夜は抑えておいてなだめてほしい。
     広家が納得しないのなら私がその宿所に行って言い聞かせる。

 ・吉川家文書之二 902 毛利輝元自筆書状
  日付:慶長4年7月16日
  宛先:広家
  内容:昨夜のことは仕方ない。そちらの外聞が悪くなれば毛利家も同じこと。大本を忘れては困る。
     悪いようにはしないから私に任せてほしい。
     これで家が潰れたら不忠者だ。ちゃんと聞き分けなさい。

 ・吉川家文書之二 903 毛利輝元自筆書状
  日付:慶長4年7月18日
  宛先:広家
  内容:昨日の書状を見た。納得してくれて安心した。これからも分別が大事だよ。

 ・吉川家文書之二 904 毛利輝元自筆書状
  日付:なし
  宛先:又(広家)
  内容:以前のように分別を保てば問題ない。今こそ賢慮のとき。

 ・吉川家文書之二 905 末次元康自筆書状
  日付:慶長4年7月17日
  宛先:益田元祥
  内容:広家の憤りももっともですが、御家の大事を思って遠慮すべきです。
     殿(輝元)はこれまで難局を乗り越えてきたのに、今回不慮のできごとでまた大事に直面してます。
     そちら(広家の宿所?)にいるあなたがどうかうまくなだめてください。
     広家と私は(輝元の)御意をもっていろいろと相談する仲になりました(※1)ので
     広家の気分は存じませんが思うところを述べました。
     私からとは言わずに、あなたの意見として広家に言ってやってください。

 ・吉川家文書之二 906 末次元康自筆書状
  日付:慶長4年7月18日
  宛先:広家
  内容:

 ・吉川家文書之二 907 安国寺恵瓊自筆書状
  日付:慶長4年7月18日
  宛先:広家
  内容:今、また八嶋方祇から使者が来ました。そちらへ尋ねるように言っておきました。
     これから福原・堅田・渡辺とそちらで談合しましょう。

 ・吉川家文書之二 908 黒田長政書状
  日付:慶長4年8月12日
  宛先:広家
  内容:浅野弾正殿と御内衆分のことについて出入りがあったこと、お聞きしました。
     書状のやり取りと併せて仲裁が入り事が済んだとのことで、安心しました。
     やがてそちらに上国しますので、そのとき話をしましょう。



■広家と元康の仲
 ※1「広家と私は(輝元の)御意をもっていろいろと相談する仲になりました」
 ってことは、それまで仲が悪かったというかギスギスしてたってこと。
 何が原因だったんだろう?

*仮説* 所領をめぐるアレコレ
 元秋が任されていた月山冨田城に、元秋死後は元康が入っていたのに、
 秀吉の命で広家が入ることになったため元康が怒った。

*検証*
・元康について
 永禄3年(1560年)~慶長6年(1601年)1月13日
 広家より一歳年上。
 「陰徳記」では元秋と主導権を競っていた描写あり(杉原家騒動)。

・月山冨田城に関する出来事(抜粋)
 1566年(永禄9年) 尼子義久降伏、落城。福原貞俊・口羽通良預かり。
 1567年(永禄10年) 城代として天野隆重が居城。
 1569年(永禄12年) 毛利元秋、城督。
 1585年(天正13年) 毛利元秋、病没。末次元康、城督。
 1591年(天正19年) 吉川広家、豊臣秀吉から東出雲、隠岐、西伯耆12万石を与えられ月山冨田城主に。
              末次元康は備後国神辺城主に。
 1600年(慶長5年) 吉川広家、岩国転封。堀尾吉晴、領有。

・秀吉の介入
 黒田官兵衛の仲介あり

・和解(慶長5年7月5日)


■広家と秀元の仲
 広家と仲悪くて、輝元の仲裁で和解したといえば秀元もいる。
 慶長10年末に和解、翌年正月に両家家臣の連署状、輝元から広家家臣への書状等。
 イメージだけど賦役の軽重の問題が原因?
 
・慶長10年末の和解
・慶長11年初頭の双方家臣団起請文等
・輝元覚書に両家の付和について
・広家から広正への書状中に秀元の専横について
・関ヶ原以前……領地替の遺恨?



■秀元と益田元祥の仲


■関ヶ原の役関連
【以前の諸問題】
 ・秀元の処遇をめぐる家康の介入と秀元の起請文、毛利家中での立場
 ・長政の三成襲撃と広家
 ・広家と元康

【関ヶ原の役関連書簡】
 ・毛利家重臣連署状
 ・黒田如水
 ・黒田長政
 ・徳川陣営

【戦後処理】

【元康・秀包の死】



■大坂の役関連(佐野道可事件)



■広家の正室・側室



■広家の隠居



■広家の隠居号「益庵如券」または「安齋如兼」
 どう考えても如水さんにあやかったろ、ていう。どんだけ好きだったのかと。実の父涙目。
 「如券」は元和元年6月12日時点での使用を確認(吉川家文書之二1323)。
 「如兼」は元和5年7月7日以降の使用を確認(吉川家文書別集645)。
 てことは「券」が本命で「兼」は後からあてたってことだね。
 「如」はいいとして「券」て何?
 この時代の「券」というのは割符のことらしい。
 二つに割って別々の人が持ち、後に合わせて証明するもの。
 さしずめ「比翼の鳥」とか「連理の枝」みたいなのを意識したんだと邪推。
 まあいやらしい!
 しかし、誰と? やっぱり如水さんなんだろうか。そうなんだろうな。


■輝元の隠居号「幻庵宗瑞」
 なにアンタ北条さんちの子なの?
 偶然は考えられない明らかに狙った名乗りだから、輝元には何か思い入れがあったんだと思う。
 領国の経営を、北条氏のように堅く強くしたいといったところか。
 そんなことより頭丸めた後に子作りとか自重していただきたいwww
 もしじいちゃんと父ちゃんにあやかったら、「日頼」と「常栄寺」だから「日常」とかな。


■広家の死
 命日:寛永2年9月21日(1625年10月22日)
    輝元が寛永2年4月27日に亡くなっていて、そのわずか五ヵ月後に、
    まるで後を追うかのように亡くなっている。
    親交が深かった黒田長政も元和9年(1623年)8月4日に亡くなってるから、
    広家ももう思い残すことなく、早くあの世に逝きたかったのかもね。
 享年:65歳
 死因:病気
 墓所:洞泉寺(岩国市) *山口県史跡
   「誰が袖の手水鉢」小堀政一(遠州)の作と言われる。吉川経幹墓所の近く。
   「みみずくの手水鉢」浅野広島藩家臣で茶人の上田宗箇から1625年に寄贈されたもの。
    →上田宗箇(上田重安)……丹波長重家臣→豊臣直臣、関ヶ原では西軍→蜂須賀家政客将→浅野幸長家臣。
                 芸州浅野家家臣だからというより豊臣政権・朝鮮出兵中の縁か?
 殉死:森脇作右衛門(長清入道竹隠)
    関ヶ原の戦後処理で切腹する覚悟だった広家に介錯を頼まれ、殉死の許可と引き換えに承諾。
    殉死の習慣を嫌った広家に唯一殉死を許された人。らしい。
    吉川家墓所の歴代藩主・夫人に混じって作右衛門のお墓もあるとか。
    森脇氏……吉川家譜代家臣。森脇和泉守は吉川興経の乳人で興経を強制隠居させた中心人物。
    譜代だけに一族がいっぱいいて、作右衛門の立場等は不明。おそらく広家の近習?
    「吉川家文書」に名前が登場するのは朝鮮出兵のとき。武功を上げている。
    晋州で首二つ、ウルサンで首一つ。
    また関ヶ原の役の後、慶長六年三月まで大坂の木津に詰めていたメンバーにもカウント。
 分骨:黒田如水・黒田長政の墓所、京都の大徳寺龍光院に分骨している。お墓もある。
     *以下、ウィキペディアより抜粋「龍光院」
      龍光院(りょうこういん)は 京都府京都市北区紫野にある、
      臨済宗大本山大徳寺の塔頭(たっちゅう)である。
      近世初期に建造された国宝・重要文化財の建物が複数存在するが、
      観光を目的とした拝観は一切受け付けておらず、特別公開の類も行わない。
      筑前福岡藩主・黒田長政が父・如水の菩提を弔うために建立。
      春屋宗園(しゅんおくそうえん)が没したために
      事実上の開山となった江月宗玩(こうげつそうがん)は小堀遠州などと親交のあり,
      在世中には遠州が営んだ孤篷庵が院内にあった。
    小堀遠州! 吉川家墓所の手水鉢も、広家の、長政を通じての縁から?



■広家と黒田孝高



■広家と黒田長政
 如水さんとの親密な間柄には遠く及ばない感じだけど、なかなかの仲良しさん。
 おそらく残っているのはあくまでも意図的に残された書状であって、平常時のやり取りの範疇ではない。

 ・関ヶ原戦後処理における長政から広家への書状

 ・慶長4年、長政から広家への起請文

 ・慶長12年、広家から長政への起請文
  ※血判の自筆起請文が吉川家文書に残ってるということは、この起請文は送られなかった、
   もしくは送っても突っ返された。

 ・元和9年の広家から家臣への書状(吉川家文書別集646)
  「美濃殿(吉川広正)が上洛してご逗留、万事下々に掟を申しつけることが肝要だ。
   大納言様(徳川家光)がご上洛されれば、隙が明けるだろうから、やがての下国を待ちわびている。
   黒筑州(黒田長政)の病状について、この書状を届けたいので、
   弓衆の中から見繕って、飛脚として遣わしてほしい。
   (この書状が?)国もとから罷り上がったことを先方にお伝えするようにと、申し聞かせてくれ。
   美濃殿からも連絡を取ってみてくれ。
   (私が美濃殿に)書状で伝えたほうがいいのだろうが、他に用もないので、
   (おまえたちから)このことを伝えてほしい。謹言
     (元和九年)七月十二日      安齋 如兼(花押)
     杉四郎左(杉岡正兼)・祖九右(祖式長好)
   なおなお、この書状は、筑州の宿舎に人が多くないときを見計らって届けるようにしてくれ。
   彼の人の容態を聞いてきてほしい」
  ※広正は体調を崩した輝元の名代として、家光の将軍宣下に合わせて上洛している(毛利家文書之四1420)。
  ※長政は徳川秀忠の上洛に随伴し、早々に京入りしたものの発病、そのまま八月四日に病没。
  ※これが通常のやり取りの様子を一番よく表しているかも。
   息子も含めて家族ぐるみで仲良くしてた可能性が濃厚。
  ※岩国から京都までにかかる日数:

 ・偶然の一致
  長政の幼名は「松寿丸」。
  同じ幼名だと元就が有名だけど、割とよくある名前で、なんと広家の弟(元春四男)も「松寿丸」。
  しかもこちらは幼くして亡くなっている。
  なんていう巡り会わせだろう。
  広家は長政を弟のように思っていると如水さんに伝えたようだが、
  本当に実の弟を重ね合わせてたのかもしれないね。



■広家と福島正則


■広家自筆文書の多さ
あまりに目に付くので、いつも利用してるデータベースで「広家自筆」で検索かけてみた。
文書タイトルが「人物名+自筆orなし+文書の性質(書状など)」という法則みたいだから。
書状・書状案・覚書・申渡し書等を含む。

結果。広家自筆:297件なり。
ちなみに、
元就自筆:223件、隆元自筆:131件、輝元自筆:116件、
元春自筆:82件、元長自筆:171件、隆景自筆:54件。
単純に生きた年数でこの文書数を割って一年あたりの文書量を算出すると、
広家:297/65=4.6件
元就:223/75=3.0件
隆元:131/41=3.2件
輝元:116/73=1.6件
元春:82/57=1.4件
元長:171/40=4.3件
隆景:54/65=0.8件

もちろん、このデータベースに収録されている文書が全てではないのはわかりきってるが、
なんていうか広家すげえな。あの手紙魔と呼ばれる元就より多いとは。
しかもかなりの長文がちらほらあったりするから驚く。
保管してた人たちもすごい。
特に広家・広正の家臣の祖式九右衛門(長好)さんが、細かい内容の書状をいっぱい保管してる。
この人は、手紙から類推すると、若いころは普請、晩年は家中の実務を取り仕切ってた感じ。
祖式家の当主が死んで後継がまだ幼かったので、成人するまで代わりにお役目を務めていたら、
いつの間にか広家のそばになくてはならない人になっていた、って印象。

元長も多いが、この文書の多くが寺の坊さん(永興寺の恵雍)に宛てられた書状。
寺は文書が残りやすいね。
内容は「あの本貸してください」とか詠んだ和歌だったりとか。



■広家の本家への気遣い
・吉川如券(広家)から家臣の祖式九衛門尉長好への書状 六月十日(吉川家文書別集629)
 この間言おうと思って忘れてた。
 最近、我々父子に対して『若殿』とか『大殿』とか
 『お成り』なんて言葉を使うようになったけど
 これは海翁寺殿(元春)御在世のときにもなかったことなので、やめてほしい。
 このことは美濃殿(広正)にも言っておくんだよ。
 萩へのはばかりもあるし、だいたいにしてこんな仰々しいことは勘弁してくれ。
 また内々で言い慣れると公の場でも口が滑ってしまうものだから、
 普段から言葉のたしなみをきちんとしておきなさいね。

・広家自筆掟
 (前略)
 一、萩衆を敬うこと
 (後略)



■毛利家の家族仲
隆元夫人が元春に宛てた手紙の中で元就のことを「ぢいさま」って書いてる!
ちょ、これってものすごく仲よかったんじゃね? 舅と嫁さん。
あと元春と兄嫁。仲良くなきゃこんな砕けた表現で手紙書かないんじゃないかと。


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