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2011-12-25

輝元の元服の様子

なんか小早川家文書の桂元澄から弟の元忠宛の書状が面白そうだったので。
ちょっとわからない単語とか多いんだけど、まあ気にすんな!


●桂元澄書状案(小早川家文書)
 「元忠 御陣所      能登守 元澄」(上書き)

 「御曹司様の御元服、一昨日十六日、御祝言が無事終わった。
  元服式は、以前聞いていたよりかなり、やり方がが難しかった。

一、お役目を務める者がたくさん揃えられた。この元澄には理髪のお役目が仰せ付けられた。
  御上使(幕府からの)の名代というわけだが、御髪(おぐし)を結い、御髪を詰め、
  その後、烏帽子を初めてお召しになる。
  それから、加冠の役目といって、上使が御鬢に水を御付け初めなさった。

一、御烏帽子の役目は坂広昌に仰せ付けられた。これは柳箱というものに御烏帽子を入れておいて、
  それを持ってきて御曹司様の右の方に置く役目だ。

一、御鬢たらいの役は、国司助六(元相)に仰せ付けられた。
  これも柳箱に御鬢の水を入れておき、持ってきて左に置く。

一、打乱の箱といって、手箱の懸子に御櫛を二つ、御笄(こうがい)を一つ、
  御髪を詰める包丁、これは通常の包丁より少し幅の広いものだが、それを御櫛箱に入れる。
  その包丁の名は「たこうがたな(笋刀)」というんだって。
  御もつとい(元結)は、御髪のもとを結うのは紫で、
  四つ組みに長さ三尺五、六寸ほどの御元結だったよ。
  御髪を二つに分けてまた紫の御元結で両方を結い、
  それから御髪の裏を小高紙という新しい紙で包み、
  普段の御元結で結ってから、御髪を中で詰めた。

  この御櫛箱を包むのも、本当は白綾にするように沙汰があったけど、白綾などないから、
  ねり(練り絹?)で代用した。
  広面三巾を継ぎ合わせ、裏はいい絹をふしかねそめ(五倍子染)に染めて、
  袷のように仕立ててあった。これで御櫛箱を包んだ。
  この包みの衣の名は「くしたなこい(櫛手拭)」というらしい。
  これは粟屋孫二郎が持ってきて御前に置いた。

一、御曹司様の席は、畳を二畳のけて、のこい(拭)板という敷板を敷いてあった。
  そのうえで讃岐円座という竹の皮で結ってある円座が二つ、のこい板の上に敷いてあった。
  一つには御曹司様が座って、もう一つには理髪の役者の私が座って、御髪を詰めたんだ。

  ものすごくむつかしかったものだから、普段のように考えてはいけないと思って、
  十五日に上使の宿へ教えてもらいに行った。
  お目にかかりたいと申し上げたところ、もちろんかまわないといって呼んでくださって、
  じかに教えてもらった。そりゃもう丁寧にね。
  このときの様子を全部書くとものすごく長くなるから、まあとにかく、
  上使の名代とは言いながら、御髪を詰めて御烏帽子を初めてつける役目、このように御祝言を相調えること、
  七十になるまで生きてきて、元澄も思いがけない幸せだ。
  あまりにめでたいので、まるぬきの脇差を一つ進上したよ。

  この役目は、上使も烏帽子須和布(?)をおつけになって、
  上(元就?)も烏帽子裏打(?)をおつけになるので、役者もぜひ烏帽子須和布でなくてはと
  御上使が強く仰るので、急いで烏帽子須和布をつけたんだけど、
  まったく似合わなくてさ。想像してみてくれよ。

  御元服の式の後は三献があった。
  初献の御酌はぜひ御一門から、と細川殿(細川隆是?、上使)が仰ったけど、
  知ってのとおりこちらには誰もいないからさ。
  広昌は病気中だから、御酌なんかできないしさ。この老いぼれだってそうだろ。
  で、平二郎(桂就宣、元忠の子)が仰せつかったんだけど、
  これも烏帽子須和布をつけなくちゃって、上も上使も仰るんだよ。
  もう急なことだから、探す時間もないよな。

  上使の下向にあわせて元次も下向してくるって内々に聞いてたものだから、
  もしかしたら必要になるかもしれないと思って、去年山口から烏帽子須和布を取り寄せてたんだ。
  元次は私の縁者だからこれ幸いと用立てて、無事御役を調えたよ。安心してくれ。
  今日は御上使のおもてなしだから、御祝言も終わって、公私共にめでたいことだ。

  あまり詳しく知らないが、そちらの表はいよいよせわしなくなってきたようだね。
  それではまた。恐々謹言

    (永禄八年)二月十八日       元澄
    元忠 参 御陣所」


以上、テキトー訳。

「六ヶ敷候」って何だ?って思ったが、ただの当て字で、「むつかしいYO」ってことね。
大事なお役目務められて名誉だぜ、めでたいぜ、
でもむつかしくて大変だったんだぜってなってる元澄じいちゃんカワイイwww
なんだろう、強い将の下には弱兵はいないっていうのと同じで、
可愛い将の下には可愛い家臣が集まるようにできてるんだろうか。元就からして可愛いし。

永禄8年(1565年)といったら、尼子攻めで月山冨田城を取り巻いて攻めだしたころかな。
吉田には老臣が残ってるだけで、ほとんど出雲に遠征してるんじゃないかと思うんだが。
あて先も「御陣所」だし。
元就は吉田に戻ってたのかな? たぶん「上」って出てくるのは元就のことだと思うんだけど。

なんかな、「元結」とか「烏帽子」とかはわかるんだけど、
「須和布」はわかんないわ。グーグル先生に聞いてみてもマトモな記事が引っかからん。
なんとなく、想像だけど、直垂みたいなちょっと格式張った装束のことかな?
あと、髪を結っていく様子が全然わからん。最初に根っこを結うまではいい。
それから二つに分ける? それをまた結う? 紙で裏を包む? 髪を中で詰める?
いったいどうなっているんですか???
ぜひとも映像で見たいもんだ。

で、なぜこれが小早川家文書なんだ。元澄も元忠もバリバリ毛利家重臣ですがな。
しかも「書状案」? 兄から弟への手紙に「案」とかあるの? 
まあ戦場にいる重臣への報告みたいな側面もあるんだろうが、多分に私信っぽい雰囲気だし。
 ①隆景が実は輝元をすごく可愛く思ってて、元服記念にもらってきた
 ②隆景が桂元澄を慕ってて、元澄が亡くなったとき(1569年)に形見としてもらった
 ③小早川家の家政を取り仕切る人が式次第の参考にもらってきたか写した
①だったらすごく萌えるんだが、この選択肢の中ではきっと③が妥当だな。
だって秀秋との養子縁組の祝言の記録のすぐ近くに掲載されてるもんね。

でもいいんだ。
輝元が「御曹司様」って呼ばれて大事にされてたのが伝わってくる。
広家も関ヶ原の後、徳川への申し開きで「輝元はバカなんです」とか書いちゃってるけどそれは方便で、
実は輝元のこと、えらい大事にしてるし言うこともちゃんと聞くんだよね。
とにかくニヤニヤが止まらんわ、この家中。
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