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2011-12-27

耳川渡河、高城包囲戦始まる

前回のあらすじ:
耳川を挟んで対峙した大納言秀長軍と島津中務家久軍。
秀長の手に属す毛利・小早川・吉川だったが、
吉川元長は薩摩勢の挑発に乗り、進軍命令もないのに川を越えようとして止められる。
軍議によって、翌日総勢で川を渡ると決まった。


島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(中)

そうしていると、島津中務は何を思ったのか、その夜の夜半に耳川の城に火をかけて退却した。
寄せ手はこれを見て、「なんと、敵が引いていくぞ。あれを討ち漏らすな」と言うや、
皆我先にと取る物とりあえず川に浸かって追いかけ始める。七里の道をわずか一刻ほどで進んだ。

この山の裳野の原崎に城郭がある。
土地の者に名を聞けば、「城の名は高城といい、城主は三原弾正中と申します」と答えた。
「城は高城といって名は人のようだったが、名にも似つかず浅く低い城だと侮らせておいて、
主は名高いつわものなのだろう。
十万に及ぶ勢に対して、これほど小さく低い城にわずかな手勢で持ちこたえようとしている。
薩摩の兵は、島津修理大夫(義久)・島津兵庫頭(義弘)が名将だからか、
随所の者も皆一騎当千とはいっても、こんなところで敵を迎え撃とうというのは、群を抜いた勇士だ」と、
寄せ手は味方が大勢だといっても相手を侮ったりはせず、皆感称した。

寄せ手はその城をひしひしと取り囲み、
まず城の尾頭には毛利右馬頭輝元朝臣、安芸・備後・備中・周防・長門の勢たちが次々と陣を打った。
それから続いて小早川左衛門佐隆景朝臣、自身の旗本の勢に伊予一国、
並びに備後・備中勢を加えて、これも隙間なく陣を構える。
そこから西の端には吉川治部少輔元長・同蔵人経言が、
これも手勢に石見・出雲・伯耆半国・隠岐勢を合わせて陣取る。
東の山には総大将の大納言秀長卿本陣を据え、
南の方は宇喜多八郎秀家が、備前・美作・備中半国・播磨二郡の勢一万五千騎あまりで陣を打つ。
毛利・宇喜多の両家の仲は良好ではないので、両陣の間に藤堂与右衛門尉の陣を据える。

薩摩からの後詰に備えて、黒田勘解由・その子吉兵衛尉・蜂須賀彦右衛門尉・尾藤神右衛門・
宮部善乗坊・垣屋播磨守・荒木平太夫・亀井武蔵守・南条伯耆守・同左衛門進、
総勢一万余騎が薩摩口に向かって陣を構え、
「早く敵が来ないものか。分捕り高名してやろう」と控えていた。

城の尾頭に仕寄をつけ、竹束勢が楼を組んで隙間なく攻めたが、
宇喜多と吉川の仕寄がほかにもまして間近に寄せ、南の方の城の塀の手へと六、七間ほどに詰め寄った。
吉川勢は勢籠から火矢を射掛けて、城の三のくるわの砦を一つ焼き落とした。

こうしたとき、敵は寄せ手の陣の近くに大札を立てた。
人を出してこれを見てみると、
「来る十七日、この表へ罷り出で、一戦仕る所存である。そうお心得あるべし。島津中務」と書いてあった。
これを見て、黒田・蜂須賀、そのほか後詰の備えに当たっていた兵たちは、
皆陣の向かいに堀を作り、芝土手を高く上げ、柵を結い塀をつけ、矢間をビシッと切って、
向城のように構えて待ち受けた。

そして同十七日寅の刻(午前四時ごろ)、島津中務は二万余騎にて宮部善乗坊の陣、
並びに一番先に陣取った南条伯耆守元続の陣へと、太鼓を打って一斉に押し寄せた。
陣中は少しも騒がず、鳴りをひそめ、南条の三千余騎を六組に分けて持口を固めさせた。
かねてから「たとえ左右の味方の持口が押し破られたとしても、
自分の持口を外れて味方を助けようとしてはならん。
弱いところへ力を添えるのは、小鴨左衛門進元清ただ一人だ」と法令を出してあった。
山田越中守・同畔介・赤木兵大夫・一条市助・南条備前守たちは、
「一歩も退かずに塀裏を枕として討ち死にしよう」と一途に思い定めて控えていた。
南条元続は陣中の高いところに矢倉を設け、自分はその上に上り、
塩谷新允をはじめとして屈強な鉄砲の達人を選りすぐって配置した。

島津中務は床几に腰をかけて鬨の声をドッと上げ、太鼓を打ち鳴らして進軍する。
皆手に手に鹿の角を先につけた青竹を持っている。
先陣の大将と思しき者が、塀から五、六間ほど離れたところで
床几に腰をかけて「かかれ」と号令すると同時に、バラバラとその鹿の角を塀格子に引っ掛けて、
「エイヤ、エイヤ」と引き倒そうとするが、陣中からそれを鉄砲で狙い済まして撃ち倒す。
南条は投げ松明を多数用意してあり、これをバラバラと投げては、
その光でよく敵を見分け、塩谷たちに撃たせていた。
先駆けの大将と思しき者を床几から撃ち落すと、すぐその手負いを引き退け、
またその床几に腰を打ちかけて、撃てども突けども、少しもひるまない。

塀へぴったりと取り付いてきた者たちは、塀越しに突き落とす。
この塀は昨日と今日で塗ったものなので、まだ乾いていない。
そのやわらかい塀を隔てて、陣中からそこかしこと槍を突き出した。
塀が引き崩されても、堀立塀なので、その堀の上へと崩れかかり、
そのうえすっかり倒れきることもなくて横に倒れ掛かるので、
このせいで薩摩兵たちは容易に越えてくることはできなかった。

たまりかねて、塀の破れ目から陣中に入ってきた薩摩勢が二、三人いた。
心は猛々しく勇んでも、数千人が槍や長刀を抜き揃えて待ち受けているところへと入ってきたのだ。
敵とたちを打ち違えるまでもなく、そのまま無残に討たれてしまった。

諸陣から、南条・宮部の陣へ二百か三百ずつ人数を出していたのだが、
かえって陣中が狭くなって自由に動けない。
宮部の手勢に友田左近右衛門という大つわものがいて、その者が下知をなしながら駆け回っていたので、
敵はまったく歯が立たない様子だった。
元長様は智謀に長けた良将で、飯を「ツクネカマキ」という物に入れ、宮部の陣に送っていた。
善乗坊がこれを兵たちの口に押し込み押し込みしたからこそ、皆力を溢れさせて防戦したのだろう。

戦が終わってから、善乗坊は元長へ謹んで謝辞を述べ、
また殿下秀吉公へも、元長の才知が諸将より抜きん出て素晴らしいと伝えると、
殿下も非常に感じ入ったということだ。


以上、テキトー訳。あと一回の予定。

島津側としては、挑発に乗った諸隊がバラバラに攻めてくれば思う壺だったんだろうなー。
十万近い大軍勢に一気に向かってこられたらたまらないもんね。
十万の勢の分断が、この時点での島津の狙いなのかな。
耳川から引いても、いかにも攻めやすそうな城と後詰の両面に注意を向けようとしてるしね。
まあ単純に二分割しても、どちらも大軍には変わりないんだけどね。

しかしこれだけ人がいると、話があちこち飛んで読みづらいな(愚痴)。
元長が飯の差し入れをして誉めそやされるくだりなんて、どうしてこの流れで出てきたのか。
吉川の軍記だから「ウチの殿様すごいだろ!」みたいなのがところどころに散りばめられるのは
仕方ないというかむしろ可愛くて大好きなんだけど。
なんかここまでだと一戦が終わったかのような錯覚に陥る。
でもまだまだ続くんだ。
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