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2011-12-29

秀吉の本気=十六万騎

毛利・黒田勢は日向の高城を取り囲んだ。
すると島津が後詰の猛攻をかけてきたが、奮戦するもあえなく敗退、ってとこまで読んだ。
土木工事に堪能な秀吉の手勢VS味方の死骸を踏み越え進軍する薩摩勢……ってシャレになんないよね。
だって堀も死骸で埋めればいいんだもの!!!

ともあれようやく秀吉が九州に発向したようです。


関白秀吉公、九国下向のこと

関白秀吉公は同(天正十五年)三月一日に大阪の城を出発し、
尾張から西の弓矢に携わる者たちは一人残らず追随した。
同二十九日、豊前の地に到着すると、長野三郎左衛門尉の家城、馬の嶽へと入る。
総勢十六万騎が近郷に陣取れば、野といい山といい、兵馬の蹄の跡が残らないところはなかった。

同国の岩石の城に熊見越中守という者が籠もっており、殿下の猛勢をものともせずに、
死を一途に思い定めて抵抗していた。
秀吉公は「軍神の血祭りに上げてやれ」と、数万騎をけしかけてあっという間に攻め取ってしまった。
城中の兵たちも死に物狂いに切りまわり、比類なく戦って快死を遂げた。
こうなると、秋月三郎も降伏してきた。
豊後の府内の城に、島津が兵を入れ置いていたが、同四月十五日の夜、ひどい大雨が降ると、
これにまぎれて退却していった。

龍造寺政家は毛利輝元の推挙によって秀吉公の幕下に属し、これに伴って筑後・肥後もことごとく帰服した。
立花左近統虎(宗茂)は、薩摩衆の星野中務太輔・同民部太輔などが籠もる高鳥井の城を切り崩し、
その両人を討ち果たしたので、秀吉公は今回対面して、大いに感称した。
立花左近はの父の高橋入道浄雲(紹運)は、先年島津勢が大軍で攻めかかって来たときに、
宝満の嶽に立て籠もって戦った人だ。
浄雲は名のある将で、身命を捨てて防ぎ戦い、敵を数多く討ち取ったが、
敵は死人を踏みつけ、乗り越えて、ついに宝満を制圧してしまった。

それから島津勢は、左近の養父の戸次道雪がいた岩屋の城へと攻め込んだ。
道雪は九州に肩を並べる者がないほどの勇将で、大軍の敵にもひるまずに戦い抜いた。
追手・搦手の堀は、たちまち死骸で埋め尽くされて平地となり、薩摩勢は死人を踏み越えて切り入ってくる。
岩屋の城も攻め落とされて利舞うと、道雪は一方面を切り破り、どうにか敵を切り抜けて立花の城へと入った。

この恨みをその身に刻みつけ、今回は星野を討って父と養父の遺恨を晴らし、
我が身の勇を顕し、殿下から褒められたのである。勇ましいことだ。

肥後の国中の敵城をすべて制圧すると、関白秀吉公は肥後と薩摩の境にある仙代川(川内川)に着陣した。
今回、秀吉公は六条の門跡(下間頼廉?)を連れていたが、
これは、その門徒たちが九州で繁栄しているので、もし兵糧が乏しくなれば、
門跡が宗門の者たちに声をかけて兵糧を調達しようとの策があったからだ。
しかし九州のうちの七ヶ国は次々と靡き従って、我も我もと兵糧を献上したので、
秀吉公が立ち寄るところは皆、宝の山が漏れ出したかのような有様だった。


以上、テキトー訳。

秀吉が動き始めるとスピードが違う気がするのは気のせいだろうか。
まあ吉川家・毛利家中心の軍記なので、
自分たちがかかわっていないところの戦況は詳しく書きようがないから
淡々とした描写になっているのかもしれないけど。

さてさて、出てきたね、立花統虎。後に宗茂に改名するまで何度名を変えたんだか。
鎮西無双の異名の通り、戦功はそりゃすさまじかったらしい。
この人は小早川秀包(元就九男、隆景養子)と義兄弟になったというところに注目したいんだが、
どうやら秀包との義兄弟契約というよりは
隆景との義父子契約と見たほうがいいのかもしれない、なんて思ったり。
秀包ともずっと、朝鮮出兵や関ヶ原の最中まで軍事行動をともにしてるけど、
小早川家文書で隆景・秀包・宗茂ひとまとめに宛てられた書状を見ると、どうもね。
この義兄弟だか義父子契約も政治的判断の臭いがプンプンするぜ。
ちょっとは夢を見させてくれよ。

ともあれ、次回の陰徳記は年明けの三日か四日になりそう。
帰省するので本を持って帰るのはツライのだよ。重いし。
その分、諸家文書や他の軍記(ネットで見られるやつ)をチョコチョコ読んでいけたらいいなと思うが、
どうなるかなー(遠い目)。
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