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2012-01-13

九州の始末

だいたいのおさらい:
島津がヤンチャしてたので懲らしめたよ
 →九州は秀吉の影響下に置かれたけど、検地とかのせいで一揆が激しくなったよ
  →肥後を与えたれた佐々成政は超強いけど、毛利も九州に出張りして一揆を鎮圧したよ
   →佐々が悪政を理由に処断されたよ


小西・加藤、肥後の国を賜ること

鬼よりも神よりもなおいかめしい佐々ははかなく自害してしまったので、
「肥後の国の一揆がもしまた再発してしまってはいけない。
小早川隆景が肥後の国にしばらく在陣するように」との秀吉公のお達しで、
隆景は佐々が国を出てから、肥後に入って陣を構えていた。

「とはいっても、国人たちが一味同心して不意に戦いを仕掛けてくれば、今度は隆景が危なくなる。
急ぎ輝元・広家が加勢するように」との秀吉公の命で、
輝元様は天正十六年四月十日に筑前の国の博多まで出張した。
広家様は総勢六千余騎で肥後の国へ赴き、小代というところに陣取った。
小早川・吉川の武威に伏して、国人たちは皆なびき従った。

そうして肥後の国の筒ヶ嶽という山を調略し、兵を配置して、広家様がしばらく在陣し、
隆景様は南の関というところに総勢一万騎ほどで陣を張った。
その後、秀吉公から浅野弾正忠・生駒讃岐守の二人が差し下され、
国中を全て検地して、東の半国を加藤主計頭、西の半国を小西摂津守に与えた。

二人が領地に入ると、吉川・小早川の両将は閏五月十三日に肥後表を引き払い、筑前まで引き上げる。
そこで輝元様に会い、しばらく逗留して、
輝元様・広家様は六月三日に連れ立って芸州へと帰っていった。
隆景は名嶋の城に入った。


以上、テキトー訳。この次はここ

「毛利の武威」じゃなくて「小早川・吉川の武威」なのがしょっぱい。
そして自分ちの戦じゃないのに長いこと頑張った挙句、
他のやつに領地が与えられるって、毛利勢はただ働きなの?
まあもとからデカい家だから、これ以上領地を与えるわけにいかないのはわかるけど、
何か恩賞はないのか、恩賞は!

この年の7月に毛利・吉川・小早川がそろって上洛し、秀吉の接待を受けることになるわけだが、
豊臣政権に新たに属した諸侯がそろって上洛し臣下の礼をとるのはこれより早い5月のこと。
つまり毛利は諸侯に遅れをとったことになるわけだけど、
秀吉の命で九州に在陣してるんじゃしょうがないよね。

と言うより、この「遅れてOKの特別扱い」こそが毛利への恩賞だったんではないかと。
三家が上洛したときは在京の大名たちに秀吉から出迎えの催促が行ったらしい。
「九州でも頑張ってくれたから幕下の大名たちもこぞって毛利を歓迎し大切にしてるよ」という
パフォーマンスだったんではないかと……!

時系列でざっくり並べてみると、
・4.10 輝元、筑前に出張り
・5/9  聚楽第への後陽成天皇の御幸および諸侯謁見(徳川家康もこのとき初めて臣下の礼をとる)
・5/13 吉川・小早川、肥後表引き揚げ開始(ここまでに検地・新領主の下国)
・5/14 佐々自害
・6/3  輝元・広家、安芸へ帰る
・7/7  輝元、上洛のため家城を出発
・7/22 輝元・広家・隆景、入洛
ってことになるのかな。

広家は小代というところで城の普請をしていたようで、吉川家文書には奉行衆や加藤清正らからの
「お仕事本当にご苦労様です~」という見舞いの書状が収録されている。
福島正則からの書状もあるけど、祐筆任せの固い書面だね。
どうでもいいけど福島は仲良くなると可愛いひらがなの自筆書状をくれるから、
どこのシミュレーションゲームのキャラだと言いたい。ぜひとも攻略したい。

いずれにしろ秀吉がちゃんと挨拶しとくようにってせっついたんだろうな。
4月上旬の日付だから、輝元より先に広家は現地入りしてたのかも。
このへんの動きもちゃんと他の文書併せて読まないとキッチリわからんなぁ(メンドイ)。

さて、大体九州は終わった。そんでもって次はどこを読むかはまた明日考えるさ~。
書家文書やその他古文書に走るかもわからんし。
ぬふふふ、今日もいい文書をゲットしたのさフヒヒヒヒ。
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