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2012-01-15

秀吉が小田原に向かったが毛利はお留守番です!

さて、小田原征伐が始まったようです。
長いので2回に分ける。


北条小田原籠城のこと(上)

天正十八年庚寅のことである。一昨年、北条氏政は秀吉公の下に馬をつなぎ、
一礼として北条美濃守(氏規)が上洛したが、今またその和平が敗れて矛盾を交えることになった。
そのきっかけは、「氏政が上洛するように」と秀吉公が命じたのに対し、
氏政はどんな腹があったのか、秀吉公の上意にそむき、敵の色を立てるようになった。
それで自分自身が命を落とすばかりか、北条の家や諸家が永く断絶することになったという。

秀吉公は北条退治として(天正十八年)三月十九日(一日)に京都を出発した。
聚楽第には弟の大和大納言秀長卿を残し置き、京都の守護のために羽柴宰相輝元卿を留め置く。
同(天正十九年)四月初旬に秀長卿が逝去してしまったので、輝元卿が聚楽第に移った。
尾張清洲の城には小早川左衛門督隆景が置かれた。
三河の国、岡崎の城には、そのころは松平大納言家康卿が在城していたが、
家康卿は小田原に向かってしまったので、その城には吉川蔵人広家様が置かれた。
家康卿の御座の間にいるのは恐れ多いと、その間は空けておいて、その次の座敷を使っていた。
家康卿の公達には、城から十町ほど離れたところに杉田新兵衛尉という者がいたが、
やがてその者の屋敷に移った。

秀吉公は中国・機内・北陸道・南海道・東海道の兵二十万騎を率い、
同四月二日から小田原の城を取り囲んだ。
小田原の城中の軍評定を後に尋ね聞いたところ、氏政が北条の大身の老臣たちを呼び集めて
「これからの戦、どうやって勝利を勝ち取ろう」と会議をしていたところに、
そのとき十六歳だったという嫡子の氏直が虎の皮の羽織を着て着座した。
智勇は父の氏政、叔父の氏照よりもなお勝り、近くは祖父の氏康、
遠くは先祖の宗雲にも劣らぬ良将の器の持ち主だ。

意見が出揃って是非を決めかねているところに、氏直が口を開いた。
「ただ今の皆の評定は、八割から九割は、小田原に籠城するのがいいだろうとの意見と見受けます。
しかし私が思うに、これはまったくよろしくない。
この戦のきっかけは、美濃守が上洛して下向する途中、三河の岡崎へ立ち寄ったとき、
家康卿が仰ったではありませんか。

『今、北条が秀吉公に馬をつないだとは言っても、いつかは必ず戦になるだろう。
とにかくにも、上方勢にその手際や武勇を見せ付けておかなければ、
将来北条家が安全に続くことはないだろう。
なので、秀吉が今度は氏政が上洛するようにと言っているので、
ここで否と言えば、秀吉がすぐに小田原に攻めてくるはずだ。
そのときは天竜川を隔てて対陣するといい。
上方勢は短気だから、川を渡って一戦に及ぼうとするだろう。
きっと先陣は中村式部少輔で、二陣が私になるはずだ。
中村の勢は五千もいない。川を渡ってきたときに、一人残らず討ち果たしなさい。

この家康は、これで少し臆したように見せかけて川を渡らずに控えていよう。
緒戦で利を失えば、上方勢も気後れして、重ねての合戦に諸卒は進もうとしないだろうから、
十中八九、秀吉は和睦して帰陣するだろう。
塩をつけられて秀吉が帰洛すれば、いよいよ北条家を奥深く思って、
二度と関東に発向しないばかりか、秀吉は手を尽くして氏政の機嫌を損ねないように
振舞うようになるだろう』と。

美濃守が帰ってきてからこのことを氏政に言上したので、現在こうして戦になっています。
ここは予定通り、とにかく天竜川をはさんで一戦するのがいいでしょう。
日本一国が丸々敵かと思うような戦をしようというのだから、
十死一生の戦いをとげず、自らの手を砕かずに空しく城に取り籠もって、
険しい地形ばかりを頼りにするほど臆していては、勝利など得られようはずもありません。

だいたいにして、今回秀吉との和睦を破り合戦に及んだこと自体、
この氏直ごときの愚蒙の身には、いい策だとも思えません。
これは実に、風もないのに波を起こし、何もないのに事を構えるようなものです。
家康が小牧においてわずか一万四、五千の兵を率いて、秀吉の十万騎に立ち向かい、
先陣の三吉秀次を追い立て池田を討ち取って、上方勢に塩をつけてから和睦したのを先例として、
当家が無事を破り、一戦してから和睦しようなどということは、
似ているようで似ておらず、家康の場合はうまくいったことも、当家の場合はどうなるかわからない。

家康は天が赦した聖武です。
これを真似しようとすれば、鵜の真似をしようとする鴉と同じです。
こんなことを言えば、当家の武名を軽んじ、
氏政公が家康に劣った大将だという意味にとられてしまうかもしれませんが、
そういう意図はまったくありません。
日ごろから武勇に優れ、謀も賢く運ぶ良将でいらっしゃる。
だからこそ今、関東八州がその御手に属しているのでしょう。

しかしながら、今回の戦で小田原に籠城しようとの仰せについて、こう申したのです。
籠城して地の利を頼むくらいならば、初めからこの乱を企てなかったのはいったいどうしてでしょうか。
先に申したように、和睦を破り、天下を相手に一戦し、敵に塩をつけようとの策ならば、
城に籠もろうと決議するのは、その愚といい臆といい、是非に及ばぬことです。」


以上、テキトー訳。つづく。

がーん。秀長さん、どうして死んでしまったんじゃー><。
でもウィキペィアだと死没が天正19年1月22日になってるよ。4月ですらない……追究するのはやめるか。
天正18年1月頃から病が悪化してたらしく、輝元が聚楽第に入ったのは入れ替えられたわけじゃなさそうだな。

吉川家墓所には小堀遠州作と言われる手水鉢があるそうだが、これも秀長さんの家臣だったようで。
秀長に遣えてた時代に広家と親交を結んだ可能性もあるわけか。
小堀は龍光院に庵を構えてたようだから、広家もたぶん龍光院には足を運んだだろうし
(黒田如水のための塔頭で広家の墓も分骨して建てられている。
 龍光院住持の江月宗玩の賛が入った広家肖像もあるから交流はあったはず)
そこでの縁という可能性も考えられるけど本筋からそれてたわ。

吉川勢は岡崎にいたのに、北条側の状況がえらい詳しいな。ってか家康ageがすごいな。
若干16歳の氏直が吼えること。
まだこの大演説は続くんだよ。恐るべき16歳だね。

そういえば最近『の/ぼ/う/の/城』をようやく読んだが、
あれも小田原征伐の一環の端城戦なんだよね、たしか。
噂どおり読みやすかった。内容的には……うーん、小説読みつけてないからニントモカントモ。
でもまあ、映画は見てみようかなと思ってる。合戦シーンに飢えているんだぜ。
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