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2012-01-19

小田原落城

前回のあらすじ:
秀吉は多大な犠牲を払いながらも小田原の端城を落としていき、
また美貌の叔父様(ドS)の助言を受けて、徹底的に小田原に籠もる北条を追い詰めていったよ。


小田原の城没落のこと(中)

こうしたころ、城中でも松田が反逆を企て、上方勢を城中に引き入れようとしたが、
すぐに露見してしまい、本丸へ呼び出されて討ち果たされた。
これだけではなく、忍の城の成田も逆心を抱いていたが、
それが露見してしまいそうになると自分の陣中に籠もり、用心を重ねる。
そのほかの諸士も皆不安を募らせ、
「とてもかなわない籠城なのだから、この城を明け渡して氏政を助命させ、
そのほかの者たちも助けてほしいものだ」と願わない者はなかった。

広家様はフラフラと病に倒れてしまった。
秀吉公が早々に岡崎に帰し、看病のために延寿院玄朔が付き添うようにと命じたので、
広家は「上意のありがたさはこの身に余ります」と礼を言って岡崎へと帰っていった。
治りにくい病ではあったが、殿下秀吉公の浅からぬ志のためか、
もしくは玄朔が有効な医術を尽くしたためか、たちまち平癒した。
玄朔も小田原へと帰っていった。

城中は非常に浮き足立ってバラバラになってしまったので、
氏政は家康卿にこの城を明け渡す旨を申し出た。家康卿がこのことを秀吉公に伝えると、
秀吉公は家康卿の扱いに任せると決めた。
こうして七月七日、無事に事が済んだ。

上方勢が城を受け取り、氏政・弟の氏照の二人は家康卿の陣所で切腹を遂げた。
氏政の子、氏直は一命を助けられたが、高野山へ入るようにとの秀吉公の命で、
主従三十人ばかりで高野山へと入る。
しかし翌年、逝去してしまった(天正十九年十一月四日)。
北条左衛門大夫は輝元様に預けられたので、その身柄を受け取ると廿日市に籠め置いていたが、
その後召し出されたとのことだ。

そのほか、北条美濃守をはじめとして、本領を与えられて安堵する者もあり、
また所領を没収されて流浪の身となる者もいた。

こうして秀吉公は、この次は関東の仕置きをしようと奥州まで下り、
国々の運営を指導してやがて帰陣した。
北条退治が済めば、家康卿には武州に百万石を与える約束であったが、
秀吉公は何を考えたのか、関東八国をすべて宛行った。
昔の源義家・義経・新田義貞たちにも劣らない良将の家康卿に八国も与えてしまったことが、
百年の後に秀吉公の子孫が天下を奪われるもとになったのだろう。

昔、後醍醐天皇が相模次郎蜂起のときに、これを討つようにと源(足利)尊氏に勅を下した。
尊氏は天下の武将になろうとの野心があったため、征夷大将軍の号、
そして関東八国を与えてほしいと望んだが、
後醍醐天皇は何の考えもなく、後々の難にも思いをめぐらさずに、尊氏の望みどおりに勅許を与えてしまった。
これで尊氏は諸侯より抜きん出た権威を得て、ついには天下を奪い取り、
このときから王法(朝廷?)が廃れていった。

こうした先例を顧ないとは愚かなものだ。
「敵国滅びて謀臣亡ぶ」と昔の人もよく言い置いたもので、
天下が統一された御代になったのなら、諸将の力を抑えて、
自分の子孫が永く無窮の栄華を保てるように画策するべきだ。
それなのに、自分の子孫の天下を奪ってくれと、まるで自分から差し出すような恩賞を決めた秀吉公は、
勇も智も古今に抜きん出ているとはいっても、後の世のことまで見定める目はまったく持っていない。
なんとももろいものである。

しかし一歩引いて愚案をめぐらせてみると、尾張中村の土民の子の身で天下を手中に収めたのだから、
勇も智も遠くを見る目も兼ね備えていなくてはこんなことができるはずがない。
深謀遠慮がなかったはずはないのである。
きっと問題は別で、家康卿は勇智に優れているだけでなく、
外では五常(仁・義・礼・智・信)を正しく守り、内では仏神に帰依し、
衰微した上王法を助け、下々の万民の苦しみを救おうとの志があった。
それが天に通じたからこそだったのだろう。

北条の相模入道(北条高時)以来、政は塗炭に堕ち、
上は暗愚で下は世間の人に媚びへつらうようになってしまったが、
今この人をして天下の政道を正し、廃れたものを興しまた断裂したものを継がそうと、
仏神が取り計らったのだろう。
これを思えば、世が乱れたとはいっても未だ仏神の力は衰えていないと、末頼もしく思えるものだ。

秀吉公はどうしたことか、信長公の三男、尾張内府信雄公の所領、尾張八郡・北伊勢五郡、
そのほか百万石を没収し、秋田へと左遷してしまった。
内府はこう言ったそうだ。
「秀吉は尾張の土民の子だったが、奉公していた主人の使いで買い物をしに京都に来たとき、
持たされていた二、三枚の銀を着服して父の信長に仕えだした者だ。
この弟の美濃守は桑山修理のところで芝刈りをしていた。
秀吉は猿に似ていたから、信長は『猿』とお呼びになっていた。

信長はこんな卑しい身分の者を、お取り立てになって播州を与えたばかりか、
中国を屠った暁にはその一円を与えようとの朱印状をお与えになった。
その恩の深さは、百千の大海にも万億の須弥にも比較できない。
この恩に讐で報いるなど、仏神がどれほど憎むことだろう。因果は歴然だ。
阿闍梨のような高僧であっても因果の道からは逃れられない。秀吉も今に見ておれ。
その身が前世の善行によって一日の栄華を誇っても、永く子孫は絶え果て、
悪名をずっと後の世まで残すことになろう。

かの前百丈は学者の問いにこう答えたそうだ。
『因果に落ちないようにしたために、五百生もの永い間、野狐の身となってしまった』と。
このように因果不落の見解にすら、狐の身でも苦しむのだ。
秀吉は 不落因果というだけでなく、こうして主人の恩を仇で返すのだから、
百億万却地獄に落ちて、閻羅王の鉄棒を味わえばいい」

内府が呪わしげに言うと、皆涙を流した。またそばにいた古入道も、
「秀吉は因果の道理によって悪趣に堕したのは歴然です。
このように仰る内府の父の信長公は、公方義昭卿を天下の将軍となして
兄の義輝卿の遺恨を晴らしてやると言いふらしました。
公儀の権威を借りて自分が天下の権力を握ろうと画策したので、
一度は三吉・佐々木などを滅ぼしてから、義昭卿に対して腹立ちをぶつけるような振る舞いをなされ、
ついには流浪の身となさしめてしまった因果がたちまち報いて、
その自分自身が家人の惟任に滅ぼされておしまいになった。
それだけでなく、今また多くのご子息たちもこうして遠流の身となられました。
わが身の上をご存知の内府がこのように仰るのは道理です」と嘆いた。

秀吉公は内府をも左遷させてしまったが、また先年、
信長公の次男、織田三七信孝も秀吉公と矛盾を交えることになったので、尾張の内海で切腹させている。
このとき、信孝は辞世として
「昔より主をうつみのうらめしき、おわりを思え羽柴筑前」と詠んだという。
「昔より」と口ずさんだのは、長田が源義朝を討ったことを含めたのではないかと思うと、いっそう趣深い。
こうした悪逆無道を思えば、秀吉公の行く末を危ぶまない者はいなかった。


以上、テキトー訳。もうちょい続く。

広家フラフラしてんじゃねぇよ。
どうでもいいけど原文に「フラフラ」って書いてあったよ。
この時代から擬態語が豊富だったとかマジ胸熱。ビバ日本語。
玄朔というのは二代目曲直瀬道三のことだね。毛利家とも縁が深い。
輝元は初上洛したとき、曲直瀬邸にお風呂借りに行ってたらしい。TERUwww
「医学天正記」に広家の事例載ってないかな。前探したときは見つからなかったんだけど。

今回は秀吉の評価・家康の評価が出てきてちょっと面白かったな。
徳川政権下だから家康の評価が高いのは当然として、秀吉がdisられるのかと思ったらそうでもなかった。
いやまあ地獄で金棒食らえとか言われちゃってるけど。
なんつうのか、ひどい人間・愚かな人間といった面もありつつ、「こいつスゲエ!」ってのも垣間見えるよね。
ちょっと前のアメリカンドリームの象徴と似たような存在だったんだろうか。不思議な人だ。

明日は帰りが深夜になる予定なので更新できないと思うけど、
次回でこの章はおしまいにしたい。秀吉の帰り道の話で広家も出てくるよ!
うん、ていうか本当に最近ひろいえひろいえ言ってるな、私。
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