FC2ブログ
2012-01-23

中央の思惑と広家の身上

おっとォ! なんか拍手ありがとうございます。
訳文は自信がないまま破れかぶれで載せてるので気をつけてねー!

これまでの流れ:
九州征伐が済むと、秀吉は関東仕置きに乗り出し、北条氏が立て籠もった小田原を開城させるに至る。
これで天下統一はほぼ果たされた。
あとは秀吉のために尽力した諸将への恩賞分配となるわけだが、果たして広家は……?


広家朝臣、出雲冨田入城のこと

あるとき秀吉公は石田治部少輔・大谷刑部少輔にこう言った。
「先年、吉川駿河守元春に、九州を平定した後には筑前の国を与えると、
黒田(勘解由)を通して内意を伝えてある。
しかし元春は小倉で死去してしまい、続いて元長も死んでしまった。
輝元・隆景が、黒田を通じて
『元長には実子がいないので、弟の広家にあの家を相続させてほしい』と言ってきたから、
すぐに朱印状を用意したのだ。

あとは元春に約束したことなのだから、広家にも所領を宛行おうと考えていたわけだが、
まずはその武勇の程を見極めてからでも遅くはあるまいと思って、今まできてしまった。
広家は親にも兄にも劣らず、智勇を兼備しているように見える。
これから西国のどこかに、一国なりとも宛行ってやりたいと思うが、残念ながら空いている国がない。
東西の大名をどうにか国替えさせて、わしの蔵入地の中からでも、
広家に西国の一国を与えてやろうではないか」

これを聞いて、石田治部少輔・大谷刑部らは難色を示した。
「せっかくの仰せではございますが、いま少し熟慮すべきかと。
というのも、輝元はすでに周防・長門・安芸・備後・石見・出雲・隠岐の七国のほか、
備中半国・伯耆半国を支配していますので、中国の八ヶ国にも九ヶ国にもなりましょう。
その上、小早川に筑前一国・備前の内の二郡を宛行っておりますので、現在の毛利領は十ヶ国にも及びます。
もしも天下を争う兵乱でも起これば、西国はこの毛利の下知に従うと思います。
備前の宇喜多は毛利の家に対して有効な押さえになると思っていましたが、
殿下が吉川の縁者になさってしまいました。
こうなれば、播磨から長門までは毛利の領国と言っても過言ではありません。

おそらく殿下は、四国の内か、また因幡・但馬のあたりを与えようとお考えなのでしょう。
そんなことをしてしまえば、西国をすべて毛利にくれてやったことになります。
中国八ヶ国の内の二、三ヶ国を分知するように命じて、
あの家の武威を少しでも削っておくべきではないでしょうか。
御子孫が末永く天下を治めるための策謀をめぐらせた方がよろしいと思います。

それにまた、現在の所領に加えて新たに知行を与えるとあっては、後々災いを招くことにもなりましょう。
とはいえ、広家は九州で敵城数ヶ所を攻め落とす軍功を挙げましたので、
お取り立てになるのはもっともなことです」

秀吉公が「ならば毛利家の国を広げずに、広家を取り立てる方法があるのか」と訊くと、二人はこう答えた。
「それこそ簡単なことでございます。毛利の領国の内から、
何万石と定めて広家にお与えになれば、きっと広家は恩を感じることでしょう。
毛利の領国は広がらないどころでなく、分割してしまえば、かえって狭くなるではありませんか」

秀吉公は「とにもかくにも、お前たちの策に乗ろう」と言ったが、
「出雲の冨田の城は尼子代々の居城だった。ことに中国第一の名城である。
これを広家に与えよう」とも言った。
実に秀吉公の配慮の深さをうかがわせる。

こうして黒田勘解由を通じ、広家は出雲冨田の月山へ入場することとなり、その近辺を領するようになった。
また本領と伯耆半国・隠岐一国を支配するようにとも命じられた。
黒田はすぐにこの旨を広家様に申し渡し、広家も異議なく受け取って、
天正十九年六月十八日、冨田へ入城を果たした。

広家様の本領は安芸・石見の両国にあったが、芸州の新庄一万貫ほどを元のままに据え置き、
残りの代替地として島根郡を輝元公から与えられた。
よって島根三郡・伯耆半国・冨田近辺の所領、そのほか新庄の一万貫を知行することになった。
同二十一日には、津越中守を名代として、神魂(サクサ)、杵築へと参拝を済ませた。

さて、この国の領地にあった神社仏閣については、以前の通り寺社領を与えたので、
「ああ、この君がずっとこの国の主となってくれたら、仏法神道ともにこの領主に恭順するものを」と、
寺社の関係者は大喜びした。
それだけにとどまらず、政治は正道を貫き、民を撫育する志も深く、
士農工商のすべての者が、「ずっと先までこの国の主人であってほしいものだ」と思うようになった。
万歳、万歳、万々歳と、後の世の幸福まで祈らない者はいなかったそうな。


以上、テキトー訳。

はいはい、広家ageパネエよ! 待ってましただよ!
実際にどんな善政を敷いてたんだか皆目わからんが、今のところ広家は家臣に優しくてた形跡は確認してても
領民に慕われたエピソードは拾えてないよ、私は。
まあ手広く領地持っても、その運営に専念する物理的余裕ってのがなかったんじゃないかと思う。
なんだかんだと伏見とかでも賦役や外交交渉なんかがあって出張ってただろうし、
この後には長期間に及ぶ朝鮮出兵もあるわけだし、
領地に馴染む間もなく関ヶ原→減封ってコースじゃないんだろうか。

そんでもって、もうここで石田・大谷が広家と毛利の繁栄に影を落とすキャラクターとして登場するんだね。
秀吉が元春との約束だからと、厚意もあって吉川に大きな所領を与えようとしたのに、
それにストップをかけ、毛利本家の力を削ごうとする人物として描かれてる。
なかなか興味深いなぁ、なんてニヤニヤしてる。

吉川家文書では、広家の冨田への所領替に関しては、
黒田孝高から吉川重臣の香川又左衛門春継宛の書状が残されてる。
「広家の外聞がいいように事が運んでよかった。
 分限は承知してるだろうから、手元不如意のないように家中への分配をするといい。
 世は治まったのだから、不要な人員を抱えないこと」
といった内容。さすがは節約家の如水さんだね。助言がいかにもって感じ。
てか助言が親身すぎて、吉川の身内のようにも感じられるね。

それはそれとして、秀吉―黒田―吉川ってルートで所領替えがあったってことは、
秀吉の毛利家への内政干渉だよね。
冨田の城は毛利元秋が預かってたが、元秋の死後は同母弟の元康が入場してた。
いきなり内政干渉でその所領を吉川に譲らなきゃいけなくなった元康はどう思っただろう。
元康と広家は仲が悪かったようで、このへんのいざこざが原因なんじゃないかと個人的に思ってる。
このときの元康の反応が知りたいなぁ。

秀吉は、こうやって主だった家の重臣を不自然なほど優遇したりして、
内部の嫉妬や恨みを増幅させ、内部分裂→その組織の力を奪うって手法をよく使ってる気がする。
島津でも義久ではなく義弘が優遇され、上杉では当主景勝より直江兼続が重視された。
こういう人心操作が秀吉のいやらしいところだと思わんでもないが、きっと効果的だったんだろうね。
なら仕方ない。とにかくこのあたりは陰謀渦巻いてそうで、
突き詰めていくとなかなか楽しそうだw
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カレンダー
06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
訪問者数