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2012-01-26

元就の評判

昨日の続きだが内容はまったく関係ないよ。
厳島神社のところでおっちゃんたちが毛利(今回は元就)についてダベっているだけなんだぜ。
なのにけっこう長いんで何回かに分けるんだぜ。


厳島宝前物語のこと(1)

八月、十五夜のころだろうか、月はことさら白く輝き、風はとても涼やかになって、
こうした風雅な宵は千金にも替えがたく、神々の配慮に勝るものはないと思うほど、趣深い夕暮れどきのこと。
数多くの人々が厳島の宝前に詣でて、宵の口には読経したり説法したりする僧もおり、
また名月に思いを馳せて和歌を詠んだり詩を口ずさんで神の御心を涼ませようとする者もいた。
そんな夜もようよう更けていこうとすると、皆自分の住家に帰っていくのだが、
二、三人ほどそこにとどまり、夜通し四方山話をする者があった。

一人は見るからに高位の僧で、声がとても澄んでいて、
もしかしたら五岳(道教の聖地、中国の五名山)のあまねく知識を身につけた人か、
または徹翁・関山両派の悟りを開いた僧とも思えた。
一人は年齢が五十と少しで、鬢の近くに切り傷・突き傷と思しき痕が二ヶ所あり、
坂東なまりのにごりがちな声をしている。
もう一人は出雲・伯耆あたりのなまりで、白髪の老人であったが、
左腕には突き傷の痕があり、風体も尋常な人間ではない。
いずれも宝前の柱に寄りかかり、時折咳をしたりしながら、
古今の聖人・賢人や世の盛衰について話をしていた。

「さてさて、毛利家は近年よく繁栄して中国八ヶ国を治める太守となり、
日本に数少ない大名と呼ばれるようになった。
これはひとえに、ここの大明神が加護し、眼差しを注がれたからだ。
元就がこの厳島で陶尾張守隆房を討ってから、武威が次第に増していき、
山陽・山陰両道の諸将も皆、旗を巻き兜を脱いで降伏した。
また人々はその仁徳あふれる施政を喜び、恭順したのだ。

あの元就は丹比の三百貫を領して猿掛の城で兵を挙げ、ついには十三ヶ国の太守になったそうだ。
これほどの名将は昔ならいくらもいただろうが、近代には耳にしたこともないなぁ」
などと語り合っていると、坂東なまりの人が白髪の老人に、
「こんなにも無双の良将である元就の戦ぶりは、古代の名将の中では智勇が誰に似ているかな」と問う。
その翁は、こう答えた。

「わしは、元はといえば出雲の国に住んでいたから、
尼子伊予守経久が全盛だったころから見てきている。
元就が丹比の少輔次郎という名だったときからのことも聞き及んでいるとも。
しかし唐土の良将のことは、一文も読めないので知るわけもない。
とはいえ、この日本の古今の良将についてなら、戦に携わる身であれば、だいたい聞き及んでいるわな。
元就の戦の手際は、楠正成に並ぶと思うぞ。

楠は最初は赤坂に籠もったが、その後の千早城での籠城といい、
足利尊氏の大軍を京都から追い落とした策謀といい、人智の及ぶところではない。
一方元就は初陣で武田元繁を討ち、陶を滅ぼし、大内を倒し、尼子を虜囚にしてしまった。
この勇謀は、正成にまったく劣らない。
昔の楠の智勇を聞き、現代の元就の手段を見れば、毛ほどの差もないではないか。
元就は永禄年中に尼子を攻め倒したが、そのまま都に攻め上がっていれば、
天下に旗を翻し、この日本の武門の棟梁と呼ばれただろうことは歴然としている。

しかし元就は、常々こう言っていたそうだ。
『天下の主となる者は、子孫を末代まで残すことはできない。
政治の善し悪しによっては、一代かあるいは二代、もしくは五代から七代の誤差はあれ、
結局は一門もろとも葉も枯れ根も絶えて、末裔も生き残れはしないのだ。

その前例を挙げるなら、平家は邪政を敷いて仏神にも憎まれ、人望も失ってしまったので、
清盛・宗盛のわずか二代、二十余年で滅びてしまった。
源頼朝は戦に臨んでは勇もあり、政治も悪くはなく、末法の世にも稀な名将だったとはいっても、
嫡子の頼家・次男の実朝が悪逆を重ねてしまったがために、ついに父子三代にして滅びてしまった。
北条九代は政治に奸曲なく民を思う志が深かったので、八代までは類葉が繁栄したものの、
第九代高時の代になって、上を蔑み下を悩ませたから、
ついに京・鎌倉にて一門がことごとく滅びてしまったのだ。

こうして考えれば、天下の権勢を握って子孫を断絶させてしまうよりは、
数ヶ国を保持して子孫を永代に残したほうがいい。
私が今数ヶ国を切り従え子孫に譲れば、たとえいかなる名将が出てきて天下の兵馬の権を握ろうとも、
元春・隆景がいるかぎりは、絶対に当家は滅亡しないだろう。
またもし子孫の誰かが十三ヶ国の半分を敵に回したとしても、七ヶ国の太守の立場は守れる。
時が経ってまた七ヶ国が減ってしまったとしても、まだ三ヶ国が残る。

日本六十余州のうち、一国を領する者さえ、この世にはそういない。
それを二、三州と、また子孫まで残れば、この元就の徳が末代に残されたことになるはずだ。
天下に旗を挙げて一代の武名を輝かせるよりは、天下を五つに分けて、その一つを保ち、
栄華を子孫万世に残すほうがいい』
こうして元就は天下取りの望みを絶ったのだ。

古代の司馬温公は、銘々の行いの中で陰徳を積んで子孫長久の計りとなそうとした。
元就は、天下に旗を広げるのを慎んで、子孫に無窮の栄華を残そうとしたのだ。
その祖先の大江広元は、源頼朝の時代に、後見として天下の政を掌握した。
だからこそ国家は安寧で、万民はその徳に恭順した。

元就も足利義輝卿の管領として天下の政務を取り仕切っていれば、天長地久の仁徳を施しただろうから、
頼朝の政道を取り戻し、また先祖義満公の徳化を引き継ぐこともできただろうが、
足利家の泥滅のときがきたのか、上は愚かになり下は媚びへつらう世になって、
ついには義輝卿は三好によって殺されてしまった。

先に申したように、唐土の賢将の例えを引かないのは、わしに学がなく愚昧なせいで力が及ばないためだ。
この日本の名将に比べれば、武勇では源義家・義経・義貞にも匹敵するだろうな。
また仁徳は小松の重盛・北条時高・時頼にも倍するだろう」


以上、テキトー訳。続くよ。

元就ヨイショ久々に読んだけどパネエなwww
「本気出せば天下だって取れたんですからね~
 深謀遠慮があって慎しんだだけなんですからね~~~
 べ、っべつに諦めたわけじゃないんだから、勘違いしないでよねっ!」
はいはいツンデレツンデレ。この場合は正矩がツンデレなの?

ところで真面目に源平・鎌倉押さえておかないと陰徳記もワケワカメっぽいな。
全然よく知らないんだよな。教科書で習ったことも忘れている勢い。どうしたもんか。

まあちょっとかったるい老人語りがこの後も続くわけだけど、
毛利サンフレッチェの評判もこの後に出てくるはずなんだぜ。
ちょっと見たら「隆元」「元春」「隆景」についても語られてるので興味深い。
基本的にマンセーだけど、江戸初期の吉川家臣から見た三矢ってどんな感じなんだろう。

そしてどうでもいい近況ですが、また本を購入してしまいました。
すでに手に入れているものすら読みきっていないのにどういうことなのw
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