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2012-01-31

勇に長け孝なき信玄

あ、変なところで更新ボタン押しちゃった^^;

とりあえず続き。毛利家マンセーの次は有名どころの武将評論するらしいよ。


厳島宝前物語のこと(6)

「先に言ったように、私は諸国で修行してきたから、諸将の武道や行状の善悪をも一通り見聞きしている。
まず甲州の武田信玄は古今無双の良将で、軍の法令の正しさは末の世の手本にもなるほどのものだ。
自身は寡兵を率いつつ、何度も敵の大軍を破ってきた。
とりわけ戦の勝敗に敏感な将だったので、危うい戦は慎んで、戦で利を失ったことはないと聞いている。

しかしながら、とんでもない親不孝者だ。
それというのも、父の信虎が信玄を廃嫡して次男の典厩(信繁)に国を譲ろうとしたからといって、
たちまち悪逆を企てて信虎を追い出し、国を奪い取ってしまった。
そもそも信虎がデーバダッタよりもひどい大悪人ではあるのだが、
実の父を追い出す悪は、ほかに比べるものがないほどひどい。

舜が瞽叟(父)に孝行した話を毛の一筋たりとも聞き及べば、こんな振る舞いはできないだろう。
また伯夷・叔斉が父の孤竹君の禅譲を辞したことや、
この日本の難波の皇子(仁徳天皇?)の謙譲の志すら知らなかったのだろうか。

いかに武道が古今に傑出しているといっても、このように不孝の至りの人ならば明将とはいえないだろう。
ただ悪逆非道の邪将である。
太公が将に求めたのは、勇智仁信忠だ。孫子が将を論じる点は智信仁勇厳だ。
これは五材を兼ね備えてからの話だという。勇だけが勝っていても仕方ない。
だから信玄は勇一辺倒であって、智信仁厳もなく、また忠もない。

けれども智がまったくなければいい策略も練ることなどできない。
信玄の一代限りは、謀略の面でも諸将に勝っていた。なぜ信玄に智がないなどと言えるのかと、
ひとしきり非難もあるだろう。
たしかにまったく智がなければ甲州一国から五ヶ国を切り従える身となれるはずもなく、
またその間には数々の謀略を成功させてきた。
それに軍法が優れていて末代の手本にもなると人に噂されるのは、智がなければできることではない。
これを考えると、信玄に智なしというのは偏見だと思えるかもしれない。

しかし一歩退いて愚案をめぐらすと、そうではなくて、もし実際に智があったならば、
父の悪行を諌め、それでも父の行状が治まらないなら、小松の重盛がやったことをまねるはずだ。
そうでなければ伯夷の心持の清らかさを学んで、弟の典厩に家を相続させ、
自分は世俗を離れてまことの道に入り(出家し)、
来世は安楽な国土に生を受けたいと願うようになっていたのではないだろうか。
または深山幽谷に入って蕨を採って飢えをしのぎ、聖なる名を永遠に残そうと腐心するはずではないか。
そうせずに父を追い出したのは、実に浅ましい振る舞いだと言える。

孝と不孝、忠と不忠、善と悪とを見極めることこそが智ではないだろうか。
孝、不孝から善悪に至るまで知らないのは智をは言えないのではないか。
また知っていたとしても、それを実行できないのを智と言うだろうか。
たとえその行状に智信仁忠だと思えることがあったとしても、本当の智信仁忠ではないのだ。
猿が人真似をしているようなものだろう。
信玄には父の因果がたちまち襲い掛かって、嫡子の太郎義信もまた信玄を殺そうとした。
そして信玄はまた、実の子である義信を殺した。

父を追い出し子を殺し、これを大悪不道と言わずに何と言おうか。
普通の人のように子を愛したならば、義信もどうして信玄に逆意を抱いただろうか。
信玄が義信に一片の愛も注いでいないとわかっていたからこそ、
信虎が次男の典厩に国を譲ろうとした過失を繰り返そうとする信玄に対して、
太郎義信は恨みを抱いたのだ。
それを糾弾するのであれば、実の父に悪逆の限りを尽くした信玄こそ、
自身の悪行のほどを思い知るべきだ。
こんな不孝者では成仏もできないだろう。
だから後代の将は、信玄を前車の轍と考えて、孝行に専念するといい。

信玄の武勇は先に述べたように古今に抜きん出ている。
智も一通りは備えているし、国の施政もそれほど悪くはなかった。
孝さえ備わっていれば末法の世には珍しい良将だと言えたのだが、
不孝のほどがひどすぎて、たとえ法や施政が賢将のようであっても、本当の賢将とは言えない。

昔の聖人や賢将に、一人でも不孝な者があっただろうか。
もし不孝者であれば、人々も賢将・良将をもてはやさないだろう。
これからの将に勇だけは信玄に並び立つ将が出てきたとしても、国政すら信玄に及ばず、
不孝さで信玄に似てしまえば、今生の軍功の冥加も尽き果て、きっと死後には閻王の呵責を受けるだろう。

信玄が一代で武威をたくましくしたのは、勇に優れて謀略に長けていたからだ。
国政もまた信長に比べると雲泥の出来で、賞罰も明確ではある。
だからこそ寿命が尽きるまでは、不利な防戦に臨むこともなく、人々に勇将ともてはやされた。
それだけでなく、国土も安寧だった。

しかし因果は必ずめぐる。天道の目は節穴ではない。
信玄の子、勝頼は自軍の強さを妄信して勝敗の勘もなく、長篠で合戦を仕掛けて大利を失った。
また国政がよくなかったので士卒はやる気を失い、民も苦しんで、
ついに天正十年には、武田の一族は一人残らず信長公に殺されて、その末裔が生き残ったとは聞かない。
これは勝頼自身が勝敗の道理に詳しくなく、特に民を悩ませた罪科が積もり積もったのと、
父の信玄の不孝が類を見ないほどだったのを、仏神が憎み果てたからこうなったのだ。
阿闍世(あじゃせ)太子が父王の頻婆娑羅(びんばしゃら)を七重に幽閉した罪に等しい。
これを思えば、元就と信玄との優劣を一くくりに論じることはできまい」


以上、テキトー訳。まだ続く。

親の因果が子に報い、か。武田の最後は切ないよな。
櫛の歯が欠けるように、ぼろぼろと失われて、欠けていって。
でも信玄てここまでdisられるほどひどい人だったのかね。
「この大将じゃだめだ」と思った家臣も多かったからこそすんなりと信虎の排斥ができたんだと思うけど。
まあ祖母の住んでるのが山梨なんで、信玄公推しを目の当たりにしてきたから、
それほど悪い印象はない。負けんなよ、甲州!

陰徳記の成立は1660年とされているけど、それはこれを記した正矩の没年。
もっと早い時期に執筆が進んでいたと考えて間違いない。
正矩が生まれたのが1613年だったかな。
こんなころから、ずいぶん儒教思想が幅を利かせていたんだね。
悪い親でも親は親、大事にしてしかるべしなんて、外部の人間だからこそ言えるんだろう。
晴信は晴信でいろいろあったんだろうになぁ。信虎追い出したのだって晴信単独じゃないだろ。
そもそも毛利家見てれば、国政なんて当主の胸先三寸でどうにかなるもんじゃないとわかるはずなのにね。
なんか、著名人の末路と寓話を無理やり合体させて、あたかも教訓ぽく仕立て上げるから、
儒教って苦手なのよね。うさんくさいっていうのか。
モヤモヤする! 月末月初でイロイロ詰まってるからだろか?

そんなわけで次回は北条について語られるようだが、仕事がちょっと詰まってるので、更新できるかわからない。
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