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2012-02-12

前回のあらすじ:
明と日本の和平が調うも、明は不意を突いて大軍勢で小西の籠もる遼東境の城を包囲する。
日本勢は明方面から順に小西、大友、秀包、吉川宿老、黒田家老、
カセンホ(開城)に隆景・広家・立花という布陣。
小西はたちまち取り囲まれ、大友は明の大軍に恐怖して退いていく。
秀包は小西の生死を確かめ、己の持ち場を死守する覚悟、
吉川宿老の香川・森脇も浮き足立つ士卒を宥めすかしていた。


漢南(かぐなみ)勢小西を攻めること、付けたり大友敗軍のこと(下)

小西はというと、十日余りの間、昼夜の境もなく防戦し、
切り殺しあるいは突き殺して数千の敵軍を亡き者にしたが、
敵軍勢の数が多すぎて、どうにもかないようがなくなった。
夜半になって一方へ無二に切りかかると、さすがの唐勢もあまりの勢いに押されて左右へさっと開いていく。
そこに小西勢が「よしやったぞ。進め者ども!」と、まっすぐに切りかかる。
十重二十重にも取り囲んでいた唐勢は、皆道をあけて通したので、小西は囲みを抜け出した。

ここで唐勢が追いかけてくれば、戦に疲弊した小西勢のこと、たちまち討たれてしまう。
しかし唐勢は城を落としたのを喜んで、皆我も我もと城へ乗り込み、
捨て置いた幕や具足櫃、弁当などを奪おうとして、小西を追ってくる者はまったくいなかった。
摂津守は十死を逃れて一生を拾い、エナンの城へとようやく落ち延びた。

そこで「大友は」と問えば、城には一人も残っていない。
小西は、「さてはこの辺りへも唐勢が攻撃を仕掛けてきて大友も追い落とされたのだろう。
きっと五度も十度も手痛い合戦になったのだろう。
どの辺りが合戦場なのだろうか。敵も味方も大勢死んだことだろう」と、
近辺の五町、十町ほどに騎馬兵を派遣して見回らせたが、
死人は一人もなく、ここが合戦場だとわかるような場所もなかった。
小西は歯噛みをして、「この男は先年、島津と戦ったときも逃げ出して、城を二度も明け退いたが、
今度もまた見捨てて逃げたのだな。臆病という持病が出たんだろう」と散々に悪口を吐き、立っていた。

とそこへ、久留米侍従(小早川秀包)から五百人、黒田甲斐守(長政)から後藤又兵衛尉を将とした五百人、
吉川広家朝臣から香川雅楽助・森脇加賀守を将として五百人、
合計一千五百余人が張番としてエナンへと差し遣られてきた。
小西はその夜はそこで人馬の息を休め陣取っていたが、夜が明けると張番の軍勢がしんがりを務めて、
小西を先に退かせた。

こうしたとき、都の三奉行から「各所に陣取っている将は皆都へ引き揚げられよ」と通達が来た。
小西・大友・久留米侍従たちは話し合い、秀包がしんがりを務めて、小西・大友を先に引き揚げさせた。
その日は黒田甲斐守の手の栗山四郎右衛門尉が籠もっている河安の城まで引き退いた。
このことが報告されると、吉川侍従広家様は四千騎で河安表へと打ち出した。
大友はまず黒田甲斐守に会おうとしてその陣所に駆けつけたが、黒田は義統に対面すると同時に
「今回小西を見捨てて逃げ出したとは臆病至極だ!」と散々に罵詈雑言を浴びせる。
しかし義統は一言の返答もなく、ただ赤面して呆然としているばかりだった。

さて吉川・小西・久留米三将は後陣について話し合い、道の半ばまでは一緒に退いていき、
そこからは広家様がしんがりとして、小西摂津守・久留米侍従を先に引き揚げさせた。
また翌日、黒田甲斐守と吉川広家とでしんがりの相談をして、黒田を先に引き揚げさせ、
吉川がしんがりとして引いていく。
すると道中に徒歩の若党、また中間や人足などが、あるいは足を傷め、
または飢えや疲れに堪えかねて、あちらこちらに倒れている。
これをすべて馬に乗せ、カセンホ(開城)まで連れて帰り、
皆の名字を尋ねてそれぞれの主人のもとへと送っていった。
皆、情け深い振る舞いだと手を合わせて喜んだ。

小早川隆景卿へも、諸将と同じように、
三奉行から「開城を引き払って都へ集まってください」と通達があった。
隆景卿はこう返事をした。
「小西は城を落とされ、多くの手勢を討たれたが切り抜けてきました。
それなのに大友は、小西の生死すら確認せずに見捨てて逃げてきたのです。
ですから今この隆景が簡単にここを動いて都へ帰ってしまえば、大友の二の舞となるでしょう。
日本を出たときから、この命は太閤に捧げたものと心得ておりますので、
この地で南兵(カゴナミ)勢を引き受けて防戦を遂げ、かなわなければ切腹いたしましょう」と再三言い、
また井上弥兵衛尉を都へ遣わして、このことをきちんと説明させた。

三奉行は、「隆景の返書、井上の口上は確かに承った。
しかし開城から都への往来は日数を定めている。
特に今回は有事の使いだというのに、書状の日付を見ると、
おまえはこちらへの到着が一日余計にかかっているではないか」と声を荒げた。
井上は「それはこちらから申し上げるべきでしたが、御返事になってしまいました。
この地に着くのに定められた日数より時間がかかったのは、
途中で朝鮮人が出てきて通路を分断しようとしてきたのを散々に切り払ってきたからです。
ですから連れてきた者たちは七、八人手傷を負っています。
敵を三十余人ほど討ち取りましたので、これで時間がかかって、到着が一日遅れてしまったのです」と答える。

三奉行は「そうか、朝鮮人が妨害してきたのか。
小西が城を落とされ、大友が敗軍してきたから、各所の敵が示し合わせて蜂起して、
通路を塞ごうとしたのだろう。
敵を追い払って数人討ち取ったとは素晴らしい武勇だ。
このことは隆景にも返事の際に申すことにしよう」と、弥兵衛に鉄砲五十挺を添えて送っていかせた。
敵が出たというところに数人の死骸が転がっていたので、送りの者たちは、
弥兵衛尉の働きが勇の至りだと感嘆した。

三奉行は隆景への返事にこう言い送った。
「仰ることはもっともです。しかしながら、隆景がその表で南兵勢を引き受けて一戦を遂げ、
討ち死にでもしてしまったなら、太閤に対して忠のようではありますが、実は忠にはなりません。
そうなってしまえば、味方は大いに勝機を失って、敵はまた勝利に勢いづくでしょう。
和漢両朝の戦いの勝敗は、隆景の胸襟一つで変わってくるでしょう。
ただ早々に都へ退いてください。
諸将と会議した上で、最後の一戦をしましょう。
もし一身の勇を優先して一身の忠を貫こうと、その地で一戦を遂げてしまえば、
日本軍の敗北を招くどころか、秀吉公に対しても大不忠になります」

ここまで言われて、隆景卿も
「では開城を引き払うとするか。しかし先陣の勢を待ってから退こう」と決心した。
そこへ、次々と黒田・吉川の人々も帰り着いてくる。
開城でしんがりの相談をして、小西・大友・黒田などの人々は翌日開城を出発して都へと引き揚げた。
吉川・小早川の両将は開城に一日逗留して、
その翌日に広家様がしんがりとなって開城を出立し、都へと帰着した。
都から日本道を三里ほど行ったところに巴州という場所があって、そこに古城があったが、
黒田甲斐守がここに立て籠もって唐勢を迎え撃とうとしきりに提案するも、
三奉行から「無駄な籠城だ。ただ都へ引き揚げられよ」と再三通達があって、
黒田も仕方なく都へと入っていった。


以上、テキトー訳。

三奉行sage、黒田ageのバイアスがすごい……吉川ageは通常運転なのでカウントしませんw
あと大友義統sageもなんかお約束っぽい。
小西にdisられ、ngmsにも正面切って罵られる義統、プライスレス。
ここまでSっ気を刺激されるキャラクターって、なかなかいないよね。
えーっと、ウィキペ調べで1558年産まれだから、このころだいたい30代中盤か。
どうですか。怯えたり赤面したり罵られても言い返せないイイトコのボンボン。S心くすぐられませんか。

お待ちかね、黒田と吉川の共闘とまでは行かないけど連携プレー。
落ち延びてきた小西と、前線に残った秀包を守る張番を遣わし、退くときもしんがり。
その先も吉川がしんがり。本当かどうか知らんけどしんがりカッコイイ。
もうね、書面に吉川・黒田の文字が踊っているだけで心躍るわぁ。
ホントここの人たち大好きだわぁ。
てか義統にいきり立ち籠城徹底抗戦を呼びかける黒田甲斐守ステキだわぁ。
広家と長政がこのときにいろいろ話してたと思うとほっぺたが歪む。

長「俺はね、ああいう、大友みたいなの許せないんですよ。家中にいたら斬ってる」
広「うんうん、だよなぁ」
長「冶部たちも退いてこいって言うけど、なんなんすか。
  いきなり都で最終決戦とか頭おかしいんじゃねぇの」
広「まあ景様も納得して引き揚げてるから、俺たちも退こうぜ」

うん、大しておもしろくないけど、こんな感じかなと思う。お兄ちゃんぶる広家。
あと立花さんの動向が気になる。開城で隆景たちと一緒に待ってたんだろうか。
としたら、秀包との再会がどんなだったかとか、非常に気になりますね!

次回は碧蹄館の戦いに突入予定。
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