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2012-02-18

清正しかおらん回

だいたいの流れ:
朝鮮に出てきたもののコレという戦功を立てられずに懊悩していた加藤(清)。
水垢離して天照大神や八幡大菩薩に「朝鮮の帝王を生け捕れますように! さもなくば殺せ」と願をかける。
祈願が通じたのか、朝鮮のなかで内通してくる者が帝王を捕らえておいてくれたので引き取ったよ。


清正、オランカイの城を攻めること

加藤清正は、オランカイの人々がとても勇猛で武力に自信を持っていると聞きつけて、
「ではその手のほどを見てやろう」と、「この辺りに敵城はあるか」と土地の者に尋ねた。
土地の者は「ここから五里ほど進むと、オランカイの人が籠もる城が十三あります」と答える。
「それなら一斉に攻め破るか」と、ホイレグのものを先陣として、合印に法華の題目をつけさせた。

こうして、十三の城へ手勢を分け、卯の上刻(午前五時ごろ)同時に攻め入る。
敵は正面だけは懸命に防戦したが、搦め手はこの国の習慣で防いでいなかった。
そのうえ堀すら構えていなかったので、後口からひたひたと攻め入ったところ、十三の城は易々と陥落した。
そのなかで川上の方の城の一つは清正自身が攻め落とした。

その夜は川下の方に陣を置いていたが、城を落とされた者たちが悔しく思ったのか、
夜討ちをしかけてきたけれども、たいしたこともできずに退却していった。
清正は敵を鉄砲で打ち払い、そのまま五、六里ほど追いかけていくと都についてしまった。
敵はまったく思いもよらないときだったので守備兵はきわめて少数だったが、
とりあえず防戦しようとしたところを、清正が鉄砲頭に命じて鉛玉を撃ちこむと、
敵はばらばらと退却していく。
そのまま都に乗り込んで火をかければ、一刻ほどのうちに一軒残らず焼き払い、
その日はすぐに五、六里ほど高麗の方に引き揚げた。

オランカイの者たちは、敵が来るとも思わずに油断していたところに、
清正に攻め込まれて都を焼かれたのを無念に思って、翌日には大軍勢を起こして清正に陣に押し寄せた。
清正はこれを待ち構えて散々に戦ったので、先陣はすこし引き退き、
そこにまた重ねて切ってかかると、にわかに空模様が怪しくなって雷鳴が大きく響き渡り、
土砂降りの大雨となったので、敵を追い詰めることもできずに、その日は本陣に引き返した。

翌日に決着をつけようと思っていて、夜のうちは大篝火を焼かせていたが、
余りにも敵の数が多く、また戦のやり方も高麗人とはわけが違っていたので、
さすがの大勇将の清正も「こんなときには兵を軽々しく入れるものではない」と、夜のうちに陣を払った。
そのまま朝鮮の内側の鬼セグというところまで撤退し、そこに五日逗留した。

ここで聞き込みをすると、また五日ほど東に道を行ったところに青州浦というところがあるという。
このばしょにセルトウスという兵がいるそうだ。
朝鮮八道のうち四道の大将軍だと聞いて、「では行って攻めよう」と、鬼セグを出発して駆けていく。

セルトウスは敵がここまで攻め寄せるとは思いもしなかったのか、
事態が急すぎて兵を整えることもできずにいた。少数の軍勢で難所を利用しつつ防戦しているところに、
清正が鴨平次を大将にして、二千余騎に鉄砲を差し添え、後ろの山から畳み掛けるように攻め懸ける。
セルトウスは不意に撃たれてついに生け捕られてしまった。清正がセルトウスを見ると、
面相はそこらの人間とは違い、実に大将の器と見える威厳があった。
年のころは五十四、五だろうか、身長は六尺五寸以上の、鬚の豊かな大男だった。

また同じところで後藤という者を一人生け捕った。
これは松前の漁師だったが、風に流されて二十年以上前にここに流れ着いたとのことで、
高麗のこともオランカイのこともよく知っているようだった。
清正は後藤に次郎という名を与え、現地の様子を尋ねたり、通訳を申し付けたりした。
後藤が言うには、「ここは高麗の東の果てで、日本へも近いところです。
天気がいいときには富士山も間近に見えます。ここからだと未申(南西)の方角ですな。
この青州浦にも松前のように昆布がたくさんあります」と言った。
清正は、「高麗は我が国から見ると西に当たるが、さては東の方に来てしまったか。
『余りに山の奥を訪ねて(本歌:なかなかになお里近くなりにけり、あまりに山の奥をたずねて(?)古歌)』
と詠んだ歌の心もよくわかるというものだ」と、カラカラと笑った。

そこから鏡の城へ五日かけて帰ると、セルトウスが帝王の様子を聞いて
「これは絶対に帝王ではありません。どこの馬の骨とも知れぬ者です。
この者は町人のようですが、帝王を落ち延びさせるために偽って帝王だと名乗ったのでしょう」と言い出した。
清正は、「では帝王とセルトウスを対面させればことの真偽がはっきりするだろう」と、
すぐにセルトウスを呼び出した。

帝王は一段高いところに南に向かって座し、その次席に清正が座る。
そのはるか末席へとセルトウスを案内した。
セルトウスは座中に上がろうとはせず、白州に頭をつけて涙を流し、ただ平伏するばかりだった。
額を砂に当てたのか血が流れ出てきたので、
清正が「あれはどうしたのだ。自害でもする気か」と次郎に問えば、
次郎が「いったいどうしたのか」とセルトウスに問いかける。

セルトウスは涙を押さえて、
「都から南、ケンタイ道・チグシャク道・ケクシャク道・センラ道のこの四つは牧司判官、
北のカアン道・エアン道・ヘハイ道の四つはセルトウスが軍事の大将を仰せつかっていたというのに、
甲斐もなくはかばかしい一戦もできずに、易々と生け捕られてこの命を永らえ、
今こうして帝王の御前に罷り出るとはあまりにも悔しい。
もう少し時間があれば、近隣国の兵を集めて一合戦もでき、
こうして帝王を生け捕らせたりはしなかったのに」と、顔を覆うこともせずに大声で泣き出した。

さてここから八日ほどの道のりのキツ州というところまで帰陣し、
ここで加藤右馬允・加藤清兵衛尉・加藤伝蔵・長野三郎左衛門・原田五郎右衛門・
天野助左衛門・山口与三右衛門に一千五百人ほどを添えて置いておいた。
蔵床には近藤四郎右衛門尉・安田善介、タンランには加藤与右衛門・九鬼四郎兵衛尉・井上大九郎、
リセクには庄代下総守・大脇二郎左衛門、ホクセンには吉村吉左衛門・堤権右衛門などに数百ずつ添えて、
各所に配置した。

そこから三日分の道の間は鍋島平五郎・成隅十右衛門・龍造寺七郎左衛門、
長橋には鍋島加賀守、また六日分の道の間は龍造寺衆、
その次のアンヘンには加藤清正が十一月の初旬から陣を置いて、
三冬の霜雪をしのぎ、陽春の温かな光を迎えてから華洛に入ろうと、年が暮れるのを待っていた。


以上、テキトー訳。

記事タイトルはほんのり反省してます。はい。

あれ、陰徳記って加藤清正公系の軍記だっけ……?
清正が吉川家中に憧れられてたというのか、慕われてたというのか、
だいぶ好かれてたんだな~というのがよくわかる流れだね。
配置人員とか詳しいってことは、吉川衆の誰かが加藤に添えられてたりしたんかね?

いやしかし清正さん大活躍ですなぁ。
広家っつったら自分で首一つ取ったくらいだよ。いやすごいけどさ、それも。
あと黒田さんちの息子さんの活躍も見たいんだけど、出てくるかなぁ。不安。
まあ黒田に関しちゃ別の物語なり何なりがあるからね。
広家をひとしきりストーキングしたらそっちを追うつもりなんだけど、
はたして広家ストーキングに終わりはあるのか???
あの、萩藩閥閲録とかも漁りたいんだけど一向に終わりが見えないぜ。

そりゃそうと、今日は国立国会図書館に行ってみたんだけど、
東京駅から皇居のお堀沿いにぐるっと歩いていったのね。天気よかったから。
風が冷たいし強かったから一瞬で後悔したけど。
その道沿いに清正邸跡があって、こっそり碑?みたいのが立ってた。
それが見れたのはちょっと嬉しかったな。また歩いて行こうと思う。
でも図書館にいるときに地震があって、思わず書庫の人をものすごく心配してしまった。
というかあの図書館、書庫ってどうなってるんだろう……謎。

さて、次回も清正。
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