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2012-02-20

清正「40万騎? ばっちこい」 勅使「アッー」

前回のあらすじ:
朝鮮出兵中に少し羽を休めていた加藤(清)のところに明の帝王から勅使が遣わされ、
「他の部隊は37564してやったけど、おまえは助けてやるから捕虜引き渡してカエレ!」と言ってきたよ。
でも清正は「日本は昔唐から王号を許してもらった」って言われたのにカチンときて
くどくどと神話というか歴史というか、とにかく
「日本の皇帝は神様の末裔なんだから大陸の王様より偉いんですぅ」という演説が始まった。
今回はその続きから。


大明の帝より加藤清正へ勅使のこと(下)

「我が国では神武帝の御時に、紀伊の国の名草の郡、高雄村に一匹の土蜘蛛が出た。
身は短くて手足が非常に長く、人間は力ではかなわなかった。
この土蜘蛛が多くの人々を傷つけたので、すぐに官軍を差し遣わして宣旨を読み上げ、
葛で編んだ網で捕らえて、ついにこれを誅罰した。

これが朝敵の始まりで、恵美の押勝・横萩右大臣豊成・藤原の広嗣・大友の皇子・守屋の大臣・
入鹿大臣・安部の貞任・宗任・平将門・藤原信頼・源義朝・平清盛・平宗盛・北条相模守高時、
そのほか枚挙に暇がない。しかし一人として帝位を傾けることすらできなかった。
皆死骸を軍門にさらしただけでなく、子孫は永久に絶え果てて、
「不善」の汚名をずっと後の世まで着せられることになった。

これらについては、皆人臣の身なのでともかくとして、昔は千万という逆臣に仕えていた鬼がいた。
土も木もすべて我が大君の国なので、どこに鬼の住処があるのだろうと読み取ろうとすると、
心のない鬼神すら逆臣に味方したことを悔いて、最終的には千万を捨て去ってしまった。
このことからも我が国の帝位が尊いものだとわかるだろう。

先ほど言ったように、震旦の帝王は王莽・禄山程度の逆臣に国を奪われ、韃靼の蛮族に天下を傾けられた。
帝位の軽さは鵝毛と同程度で、一枚の葉のようだ。
この清正は愚蒙の身ながら、大唐国裏の古今の盛衰を鑑みると、
大唐の帝位は我が国六十余州の権勢を握る武臣と等しいように思うぞ。
なぜかというと、昔は平相国清盛が、平治年中に藤原の信頼・源の義朝を討って、
天下の政治を自分のいいように執り行っただけでなく、位は従一位の太政大臣にまでなった。
これはあたかも秦の始皇帝の驕りのようではないか。

それを源二位頼朝が、父の仇だといって伊豆州で義兵を起こし、ついには一の谷・八嶋を攻め破り、
長門の国の壇ノ浦で平氏の一族をことごとく誅罰したのだ。
その後頼朝は征夷大将軍の宣旨を賜り、天下の武将となった。
しかし父子三代で絶えてしまったので、北条の時政が成り行き上天下の権勢を握り、上に仕えて忠を尽くし、
下を慈しんで徳を施したところ、九代の間は天下を保持できた。
しかし相模入道宗鑑の代になって、朝廷をないがしろにするようになったために、
足利尊氏・新田義貞に滅ぼされてしまった。

尊氏は大樹(将軍)の号を賜り、子孫十四代を経て、大納言義輝卿が三好に殺されてしまった。
弟君の義昭卿は織田の右府信長を頼って三好を滅ぼしはしたが、
やがてまた信長によって流浪の身となってしまった。
信長は主君を追い出し万民を苦しめたので、家臣の惟任(明智光秀)に殺された。
惟任もまた自分の配下の秀吉に討たれた。

炎帝八代の後に黄帝が滅ぼされ、夏は殷のせいで滅び、殷は周に天下を奪われ、そ
のほか歴代の君主の滅亡の様子は、あたかも我が国の武臣の盛衰のようではないか。
これを思えば震旦の帝位は我が国の武将とまったく同じである。
天照大神の末裔と並べて語ることはできない。
それなのにかえって百代王号を免除したなど、口任せに言い出すのは感心しない。

『允(まこと)に厥(そ)の中(ちゅう)を執(と)れ』とは、堯帝が舜帝に授けた言葉だ。
『人の心は乱れやすく、本来の道をはおろそかになりやすい。
だから一途に本来の道を追って、その中心を保つようにしなさい』とは、舜帝が禹帝に授けた言葉である。
唐堯虞舜は一言も嘘をつけとは言っていないぞ。
詩三百篇の思無、邪礼記の母不敬、尚書の欽の一字、周易の時の一字、春秋の勧善懲悪、
論語の我が道一貫、中庸の中和と誠、大学の明徳至善、孟子の性善養気など、
これらのなかでも『虚説を構えよ』などとは言っていない。
昔の人も『誠は天の道なり これを誠するは人の道なり』と言ったではないか。

大唐の帝ははなはだもって恥知らずであるがゆえに、人が恥をかいていると思い込んでいる。
恥を知らぬ者をどうしたものか。
昔、神功皇后が三韓を従えたとき、弓の上部で石の面に
『異国の王は我が国の犬である』とお書きになったと聞いているが、
清正は今、この文字は未来のことを予言していたのだとわかった。

また朝鮮の帝王兄弟のことは、官人にこの場で渡してやりたいとは思うが、私の判断だけでは難しい。
日本の将軍、豊臣秀吉に唐帝の勅定に従うべきかどうか伺いを立て、そのうえで勅に答えて申し上げよう。
また美婦人のことは日本に尋ねるまでもないから、この場で清正が取り計らおう。
さてこの清正は空の上にも飛び立てず、地の底にもぐることもできないそうなので、
まずはこの美人を天地の中間に置くとしよう」

清正は、すぐに磔の木を高く構えて無情にも女の手足を左右に引っ張り、左右の足を八文字に結びつけ、
黒々とした髪を後ろにまとわりつかせた。
美しい女は夢とも現実ともわからない様子で、ただ涙に咽んだ。

清正が声を荒げて「それそれ」と呼びかけると、見るも恐ろしげな武士たちが、
柄の長さは二間以上、刃を氷のように磨き上げた鑓を引っ提げて、スルスルと走り寄った。
そのまま、女の胸の辺りを二、三ヶ所、「エイヤッ」と声を上げて続けざまに突き刺した。
これを見て、さすがに強がっていた官人も「アッ」と声をあげ、その後はまったく一言もしゃべらなくなった。
もしかしたら自分たちも同様の憂き目にあわされるかもしれないと思ったのか、
震えわなないてすっかり顔色をなくしていた。

美婦人の亡骸は、さすが高麗一と言われるだけあって、花も妬む容貌は春の風に誘われ、
秋の雲に隠れた月のような姿だった。
かの玄宗皇帝が昔馬塊の原の塵となった楊貴妃との死に別れたときもかくやと、
朝鮮の帝王の心中の悲しみが推し量られて、心ある者もまたなき者も、皆袂を絞った。
朝鮮帝はこれを見て、そのまま地に崩れ伏し、足をばたつかせて泣いた。

それから清正は官人に向かってこう言った。
「小西は遼東境で一戦に打ち負け死んだというが、これならわかる。
これは日本の泉州境の浦の町人ではあったが、宗対馬守の縁者だということで、
道案内のために、諸将より先に対馬守を連れて渡ってきている。
秀吉の臣下として先鋒を仰せ付けられてきたのはこの清正だ。
小西のような町人を易々と討ったからといって、
この清正も同じようにねじ伏せられると思ったら大間違いだぞ。

四十万の大軍でも、ここは難所だから一度に懸かってはこれまい。
日に五万ずつ攻め寄せてくるなら八日、二万ずつなら二十日、一万ずつなら四十日か。
一人残らず討ち果たし、それからすぐにこちらから帝都に攻め寄せてやろう。
そのときに大明帝の龍顔を拝し、じかに御返事申し上げようではないか」

こう言われて、官人たちもただ呆然として、一言も発することができずに戦慄するばかりだった。
その後官人たちはしおしおと帰っていった。
清正は武勇が古今に抜きん出ている上、今回は何の罪もない美人を磔にかけて
牛頭馬頭のように無情に突き殺したので、大明人も朝鮮人も「鬼上官」と呼んで恐れたのだった。

  ※これ以前の三つの章と、小西の遼東バテンにおける籠城、並びに江陽の合戦は時系列が前後しているが、
   加藤・小西両将のことが混乱してしまうので、合戦の次第に詳しくない身では整理しきれず、
   連続して書き記した。


以上、テキトー訳。この章はこれまで。

ヤバイ。時系列とかちゃんと把握してなかったな。
ていうか朝鮮出兵の全体を一通りなぞってから朝鮮編に入れという話なんだが。
そうか。清正は小西たちとは別行動だったんだよね。
まだ小西たちが退却して開城の守りを固めてることを清正は知らんのか。

しかしなんつうか清正、痛快だな。
小西disは余計とはいえ、日本万歳ぶりがハンパない。
いや、ソースは神話なんだけどね。
朝廷もいろいろあって、暮らしぶりが涙なくては語れない有様だったりしたんだけどね。
それどころか真っ二つに分かれちゃってたときもあるんだけどね。
でもこの「ウチが一番!」な自信はちょっと憧れるよね。
戦後の自虐教育刷り込まれてきた身としてはさ。

そんで何の罪もない女を殺してるけど、あんまり悪逆とか残酷とかいう印象が浮かんでこないのはなぜだ。
「悲しいけどこれ、戦争なのよね」ってことか。
しかし秀吉がやると「このゲス!」って言いたくなるんだけどなぁ。
キャラの差か。全体的に清正がかっこいいからか。
そりゃ「大軍勢ドンと来い。受け止めて一人残らず殺してやる」とか、かっこええわな。
こういうシーンを映画とかドラマでやりゃいいのにな。
あ、在日外国人団体だの外国の団体だのが難癖つけてくるからムリですかそうですか。

さて次も清正の話だよ! どんだけ続くの! うちの広家さんはどうしてますか!
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