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2012-02-22

滾った! 正矩が滾ったァ!!!

これまでのあらすじ:
「ある説」では、清正は都周辺にいた明軍を諸将の反対を押し切って夜討ちをかけ、
誰もが怯んで手出しできずにいた明軍を追い払ったそうだ。
しかし著者はこの説に疑念を抱いていた。だって都にいる諸将だって、清正に劣らない名将ぞろいなんだもの。

てなわけで、今回は広家以下がどんな名将かってのが力説されてるよ!


加藤主計頭都へ帰り入ること並びに清正夜討ち批判のこと(下)

吉川広家様は父の元春にも劣らない勇将である。日本では数々の戦功を打ち立ててきた。
この先日も、江陽でこの広家が「ともかくも攻め懸けて一戦するべきだ」と呼びかけたが、
隆景卿が二度も「経験豊富な将が多くいるのだから、
まずは皆の意見を待ってから、意見があるなら言うように」と諫めた。
それなのに広家は「一晩陣を構えている間に、足軽たちは夜陰にまぎれて都へ逃げ込んでしまう。
ただ突きかかって一戦しましょう」と、主張した。

敵の河南勢百二十万騎が勝ちに勢いづいているときでさえ、こうして「一戦すべし」と勇を奮い起こし、
一番に駆け入って、自分自身も敵を馬上から突き落とし、勇を顕したのは広家である。
また霊仙でも、敵五万騎にわずか三千の手勢でかかっていって一戦のうちにたちまち切り崩し、
二、三千ほどの敵を切り捨てにしたので、太閤はこれに大いに感じ入った。
こうして大勢の敵を見てさえ怯まず進む広家が、敵が敗軍の兵を集めて陣取っている状況で、
どうして臆し、退却しようなどと言うだろうか。

福島左衛門太夫(正則)は、十八歳のときに播磨上月の合戦に参加し、
南条伯耆守の郎党を討った後、江州賤ヶ岳の合戦のときも、七本槍と称される人々にも劣らず勇を顕した。
その後何度も戦功を上げ、清正にも劣らない鬼神のような人だと人々に噂されたものだ。
この人がどうして年来の勇猛ぶりを忘れたかのように「逃げよう、引こう」などと言いだすだろうか。

黒田勘解由入道如水は播磨の小寺家の養子となっていたこともあったが、
とある事情があって流浪の身となった。
はじめは小寺与吉と名乗っていたが、そのときから何度も武勇を顕しており、
良将の誉れは世に例を見ない。先年、秀吉公が小田原の北条氏政を取り囲んだとき、
その城を点検した後でさも愉快そうに笑った。
「これほどの大軍は、その昔源頼朝が富士川に押し寄せたときは二十万騎だったと聞いているが、
その後なら北条家が千早の城・吉野の城を攻めたときは百万騎もいたそうだ。
それは古い昔のことなのでよく知らんが、きっと百万の兵をうまく使える良将が多かったのだろうな。
しかし今なら、百万の軍勢を操って、自由自在に使える者がいるだろうか。
おそらく我が国六十余州にはいないだろう」と言ったが、ややあって、
冗談ぽく「これを使えるのは黒田勘解由だ。ほかにはいまい」と言った。それほどの良将である。

とりわけ秀吉公が今回朝鮮に黒田を渡海させたのは、
黒田が天下を望んでいるのではないかと秀吉公が懸念したからだった。
三人の憎まれ者と呼ばれているのは、黒田如水・尾藤神衛門・神子田半左衛門である。
そのなかで如水は何の罪もなかったが、
秀吉公は「諸将が唐に渡っている隙を狙って、この入道め、
謀反を企て天下を手に入れようとするのではないか。
これほどの難敵を日本に置いていられるものか」と思い、
「お前は朝鮮へ渡り、諸将の合戦の評定にもし間違いがあれば諫言をせよ」と言って渡海させたのだ。

その子息の黒田甲斐守(長政)は、勇も智も父の入道如水に勝るとも劣らない将である。
そのころ勇将と賞賛されていたのは、黒田甲斐守・福島左衛門太夫・加藤主計頭(清正)・
吉川侍従・長曽我部土佐守(元親)・加藤左馬助(嘉明)などで、揃いも揃って勇にずば抜けた良将だった。

また立花左近将監(宗茂)は、父の戸次入道道雪にも劣らない勇将で、
先年島津と大友が矛を交えたとき、大友は毎度戦利を得られなかったが、
この左近だけは薩摩の大軍勢にもいささかも臆さず、何度も合戦に及んだ人なのである。

前野但馬守(長康)・加藤遠江守(光泰)も、三奉行の軍事面の後見役として
秀吉公からつけられたほどの人たちである。
石田・増田は武功がなかったが、大谷刑部少輔は、勇その道では加藤・前野にも勝るほどの人だった。

このように、皆智勇全備の良将たちだからこそ、先日はたった八万の勢で河南勢百二十万騎に打ち勝ち、
二里も三里も追い討ちにできたのだ。
しかもこうした良将は一人だけではなく数十人もいたのだ。
百二十万騎の敵を前にして少しも臆さず、突きかかって一戦を遂げ、追い崩して、
敵は今たった四十万騎になっている。
そのうえ先日江陽で完膚なきまでに叩き潰した同じ敵を前にして、
どんな理由があってそれほど恐怖するというのだろうか。
一戦せずに釜山海まで退こうなどと思うはずもない。
都に籠もっていたこれらの良将が、これまでの智勇を完全に捨て去って愚将・弱将となり果て、
意味もなく釜山海まで引き返そうと言ったという説はまったく信憑性がない。

ことにそのころ江陽の合戦に参加した者や都にいた人々は、家人がここまで調子づいて言うほど、
加藤主計頭が大活躍したとは聞いたこともなかった。
もしこの誇説のとおりならば、そのころ都にいた諸軍士は言うに及ばず、
我が国にもそのことが知れ渡るだろうから、三歳の幼子でも知っていそうなものなのに、
これを知るものはまったくいない。
ただ清正の家人だけがこうした説を信じているのはなぜなのか。
これほどまでの名誉の勇を顕したのであれば、人が知らないというのも不思議な話である。
これはきっと誇説に違いない。

朝鮮で数万の敵を数千の味方で追い崩した合戦というのは、
四、五万の敵に味方三千で勝った広家の霊仙の一戦、
敵一万余りを中国勢七百騎で追い散らした玄風の一戦である。
そのほか黒田たちも、数千の手勢で二万や三万の敵に勝ったことが何度かある。
何度あっても、取り立てて勇猛なことだとも感じていなかったため、
これを人に向かって自慢げに言いふらすことはしなかった。

きっと清正は、江陽の一戦に参加しなかったので、武勇のほどを他の諸将に見せ付けたいと思っていたところ、
幸いにも近くに陣取っていた大唐勢に夜討ちをかけて切り崩したのだろう。
都にいた諸将の手に負えないことを清正の一分で成し遂げたのではないはずだ。
そのとき都にいた者は、諸将の手に負えない大敵を清正一人の智勇で切り崩したという話は
聞いたこともないそうだ。

もし清正の家人が言うとおりならば、都に陣を敷いていた諸将は、
大友のように「大臆病者」と罵られ所領を没収されていただろう。
また末代に至っても皆大臆将の汚名を着せられ、天下の弱将と呼ばれているはずである。
しかし宇喜多・小早川・吉川・黒田・福島・立花・高橋・前野・加藤といった人々は、
今でも古今無双の名将と称されている。これをもって知るべし。

清正の家人たちは「朝鮮の戦はすでに大昔のことだ。
今は実際に見聞きした者たちも老いて死に絶え、生きている者は稀だろう。
ならば何を言っても、それは違うと言い返してくる者はいないだろう」と、
主君の勇を知らしめるために、三歳の幼子でも本当だと信じ込むように吹聴しだしたのだろう。

また小西と清正は仲が悪かった。
清正の家人たちは小西を嘲弄して「小西は大臆病者だ。
唐勢に対峙して追い崩され、ほうほうの態で逃げ出した」と言う。
これは美点をも覆すほどの浅ましい行いではないか。

それというのも、河南勢百二十万騎を相手に城を落とされなかったことだけでも勇のなせる業だというのに、
ましてや一方を切り破り、都へ帰ってきたのは大勇の至りではないか。
大いに称美すべきことなのに、「臆病だったから逃げ帰った」と非難するののだから、実に嫉妬深い。
武道の理に通じていない証拠だ。

これもまた大いにばかげた話だが、小西は清正に先立って都に入ったことを誰もが知っている。
それを逆に清正が都入りの先陣だと言い立てるのは真実を歪めて嘘となし、
嘘をもって信実だと言うようなものである。

木村又蔵が主君の清正に向かって
「都と思しきところに煙が見えます。あれはきっと都でしょう。
あの丑寅(北東)の方に旗が見えるのはまさしく小西殿の旗です」と言ったのを、
清正が本当だと思って馬に乗って駆けつけると、すぐに都に入ったと家人たちは言った。
これは小西が先に都に入って陣を取り固めていたからではないか。
また煙が上っていたというのは、小西が先に都入りして内裏に放火した証拠ではないか。
この煙を見て、清正が都だと確信して駆けつけたのは、清正が小西より遅かったからではないか。

こうして自分の主君の勇名を高くしたいからといって、後陣を先陣と言い、
あるいはありきたりの勇を大勇だと誇張し、嘘を真実だと吹聴するものだから、
さしもの勇将の清正がそれまでになしてきた真実の武勇も、
家人の虚説のせいで信じられない気持ちになってくる。
清正の勇の誉れを高く印象付けようとして、かえって年来の智計謀略も
すべて徒ごととなることを知らないのだろうか。

たとえ清正に事情があって都入りが遅くなっても、これはまったく恥ではない。
清正は日本では武勇で諸人を引き離していたからこそ、朝鮮侵攻の先鋒に任じられたのだ。
いまさらどうして弱将だなどと言われようか。
昔、治承のころには、佐々木高綱・梶原景季が宇治川の先陣を争ったときに、
梶原は結果的に二陣に下がったが、梶原を臆病な侍大将とは言わなかった。
熊谷直実・平山季重が一の谷の先陣を争い、熊谷が二陣に決まったが、直実の勇名に傷はつかなかった。
これを考えれば、清正が二陣だからといって勇名が衰えることはない。

太閤がまだ羽柴藤吉郎と名乗っていたときから付き従い、旗をさし、秀吉公に供奉し、
三十余里を一日にして進んだことで「虎は一日に千里をゆくものだ」と、虎助と名付けられた。
その後も江州賤ヶ谷の合戦、肥後天草の合戦、そのほか多くの勇を顕し、
今は肥後半国の主となった良将の器量のある人である。
特に自慢などせずとも勇将だと賞賛されるものなのに、世俗に言うように、針を棒のように言い立てるために、
開城の夜討ちのことで主君の手柄を強調し、諸将を大臆病者のように言うのは、
まったく愚の骨頂で、その阿りの深さは言語に尽くしがたい。

清正は日本の地における勇は言うに及ばず、朝鮮でも帝王兄弟を捕虜にして、
とりわけウルサンに入ったときの勇は古今無双なので、
自慢げに言い立てずとも、世間は怯将とも庸将とも言ったりしない。
それなのにこうして虚説をでっち上げるので、
さしも名高い清正の武勇・戦功を、後の人はかえって疑いながら見なければならない。
やりすぎはかえって君徳を損する、無言が一番だ、ということである。


以上、テキトー訳。

うん、そうだね。でも正矩、滾ってるけど、それは正矩・宣阿にも同じことが言えるよね。
陰徳記・陰徳太平記で毛利・吉川がこれ以上ないほど持ち上げられているために、
その活躍をかえって疑う人もいっぱいいる。
昔からそうだし、今も変わってない。
研究者と名のつく人だって、贔屓の人物を称揚したいがために、
ほかの人物を不必要に貶めようとするくらいだし。
まあ恵瓊研究本で広家が「毛利のトラブルメーカー」って強調されてたのをまだ引きずってるわけだけど。
私も何か書いたならそうなる。

ていうかさ、誇張されてないと面白く読めないよね!
結局広く知ってもらうにはセンセーショナリズムなんだよね!

今回の収穫:
如水さんが秀吉に「百万の兵を率いることができるのはこいつだけ」って言われて
警戒されて朝鮮に飛ばされた説は陰徳記にも出てるんだねぇ。
この説はいつからあったんだろうか。

以下は恵瓊本への愚痴。


「広家は毛利のトラブルメーカーだったのではないか」説に関して。

だったら関が原後にあれほど重用されてねーよ! ヴォケ!!!

だってさ、元康との不仲・浅野弾正との喧嘩を根拠にそう言い切られてもね。
いや言い切ってはないけど、読者に確実にそういう印象を植え付けるよね。
いわゆる「レッテル貼り」ってんですか。

人間同士なんだから気の合わないやつもいるし喧嘩もする。
丸く収まってるんだからいいじゃない。
じゃあ他の人はそういうトラブル抱えてなかったのかっていうと、
同じような時期に三成襲撃事件とか家康暗殺計画なんてものがあったみたいだし、そっちのが大事だよね。
あと秀元の小姓と益田元祥の部下との喧嘩ってのもあったね。関が原関連の行軍の最中だったか。
他にも書状群なんかが処分されて明るみに出ていない事件だってありそうなものだし。
そういう、自分自身の悪評につながる書状を処分しなかった広家って逆にすごいと思うんだけど。
浅野との喧嘩だって、浅野側にはそれ関係の書類が残されてるの? どうかしら?

それにこの著者、関が原の内通を広家のスタンドプレーって言ってたと思うけど、
本家重臣の福原広俊も噛んでるよな。寄騎の益田も。そのほかにも。
それなのにそーゆーコト書くから、全部疑わしく思えてくるんだよな。
読みたいテーマの著作は他にもあるけど、この人が書いてると思うと手が伸びないわ。

広家disんなと言うわけじゃないが、disるならdisるでそれなりに論拠固めてほしいよね。
でもできればdisらないでほしい!というのは私のただの我侭です。

しかし広家のこととなると、頭に血が上るのはどうしても止められないなぁ。
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