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2012-02-26

広家に「切り入れや」って言われたい

創作戦国イベント、戦国izm行ってきた。
ついったでしかお話したことのない方々と直にお話してきました。楽しかったー!
主催者の方々がグッズやレクリエーションに力を入れていらっしゃって、すばらしかった。
泣くほど笑った。あと湯のみを買ったので、今後、酒はこれで呑む。
もちろん狙っていた吉川アンソロジーもゲット。明日の糧。
もし次回があれば、そのときには自分もサークル参加できればいいなと思うけど、
創作熱より資料漁りたい熱のほうが高いので、いつになるやらといった感じ。

さて昨日休んだ分バリバリ読むよ。合戦イヤッホゥ!
しかし三成がdisられてるとツライ人は読まないほうがいい回ですじゃ。


河下の城を攻めること

朝鮮の都から三里ほど川下のほうに城があったが、何という名の城だったのか、
日本から来た者たちは「川下の城」と呼んでいた。
その城には、唐勢と高麗勢が入間まじり、五、六万のどの人が立て籠もっていた。
そこ前での道のりはとても厳しく、その上唐勢は先日の江陽の合戦でむなしく敗北した恥をすすごうと
意気揚々と立て籠もっていた。
敵は皆死を一途に思い定めていたので、簡単には落とせなかった。

そのときは石田治部少輔三成・増田右衛門尉長盛・大谷刑部吉継なども、
先日の江陽巴州の勝ち戦に気をよくして、川下の城を暇つぶしがてらに切り崩そうと評定して、
文禄二年二月四日、その城へと向かって出発した。

石田は狡賢さがあって上面は智将のようではあったが、武道のことは白とも黒ともわからなかったので、
秀吉公から加藤遠江守(光泰)からさし添えられていた。

増田右衛門尉は天性の臆病者だったが、頭のいい者だった。
「私はもともと臆病者だ。しかし弓馬の道に携わるものが臆病で、そのままでいいわけがない」と、
家之子郎党に向かって
「私は敵に向かうたびに日ごろの思いも消えうせて、ただ退却したいとばかり思うようになってしまう。
どんなに引けと私が言っても、馬の口を取って敵のほうへ引き向けてくれ。
それでも臆病の持病が出てきて何度も『引け、引け』と言うだろうから、
絶対に聞き入れないで敵の中へと連れてかかれ」と言い含めていた。
これほどの者だから、勇の志は立派だったけれども、
生まれながらの臆病という病のせいで、武の道は中の下だった。
前野但馬守(長康)は増田につけられていた。

大谷刑部少輔は勇の誉れもあって、祐筆から次第に出世して、今は三奉行の一人となっている。
はじめは朱慶といったそうだ。

このように石田・増田は軍事には疎かったので、敵の機を察することはできなかった。
うかうかと敵を侮って、一度に切り崩し、自分の手柄にしようとして、
陣組みは、一番は加藤遠江守・その子左近・前野但馬守、二番は小西摂津守、
三番は石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門尉、四番は宇喜多中納言秀家卿、
五番は吉川侍従広家様・叔父の久留米侍従(小早川)秀包様・毛利大蔵太輔元康に決まった。

広家は、「今日の先陣を任せてほしい」と強く望んだが、三奉行とも、
「広家は先日、江陽で先陣に進まれ、比類なき勇を顕された。
今日は加藤・前野に先陣を譲ってください」と断ってきたので、五番備に甘んじることになった。

そして加藤・前野・小西・石田・増田・大谷たち、三番の備までが白の追手へと近づこうとすると、
もともと唐人は日本人より百倍も弓術に熟達していたので、
逆さ落としに差し詰め引き詰め散々に射掛けてくる。
先陣の加藤が射すくめられてさっと引くと、後陣から「かかれ、かかれ」と下知を飛ばして詰めかかってくる。
遠江守は勇に秀でた将なので、雨のように射掛けてくるのも気にせずに、
逆茂木を引き退けようと一気にかかっていった。
敵はここぞとばかりに矢を放ってくる。

切岸や逆茂木を撤去して城に近づくのは、たとえ敵が一人もいなくても大変なことだ。
ましてや矢尻を揃えて射掛けてくるなか、加藤・前野は心は猛り勇んだけれども、
攻め入る手段は皆無に等しい。
三度までせり上がろうとしたが、逆茂木の一つも破れないままで、攻めかかることもできなかった。
引こうとしても後陣が退路を塞いでいるので進むことも退くこともできず、
ただどうすることもできずに矢の的になっていた。

広家様ははるか後陣にいたが、先陣が麓まで広がっていてこの方面では攻め寄せようがなかったので、
右手へ移動して、一段下って平らになっている三の来輪のようなところへと、手勢五千騎とともに押し寄せた。
そこには逆茂木が据えられ、菱が植えられていた。

敵は広家様の勢を直下に見下ろし、矢を雨のように放ってきたが、
それに怯まず逆茂木を引き退けて無二に乗り越えようとした。
安田喜左衛門が指していた吹貫に矢が十六本も刺さるほどの激しさだった。
松岡安右衛門・祖式九右衛門・二宮兵介・森脇一郎右衛門・有福新兵衛尉・安田喜左衛門などをはじめとして、
百五、六十人ほどが逆茂木を越えて切り入ると、後陣の勢三百ほどがそれに続いた。
唐人たちは一段高い二の来輪へとさっと引き、ここから雨足よりなお激しく矢尻を揃えて散々に射掛けてくる。
ここで井上平蔵・綿貫半介が射殺されてしまった。
松岡安右衛門・祖式九右衛門・二宮兵介・森脇一郎右衛門たちは、退却しそびれた敵を突き伏せ、
その首を切り落として槍の切っ先に突き刺して持ち上げた。

寄せ手がこれから二の来輪へ乗り入ろうとすると、ここは岸がひときわ高く、屏風が立ててあるようなもので、
逆茂木を全部取り払ってしまったので、上がることができない。
しばらく足をとどめている間に、唐人・朝鮮人たちが
「ここが破られたらこの城はあっという間に落ちてしまう」と考えて、身命を捨てて散々に矢を放ってくる。
たちまち六十余人が手負いとなったので、三の来輪にいた寄せ手たちはまた外構へとさっと退却した。

広家様は自ら采配を振るって押し返し、「切り入れや」と下知していたが、
それでこの人が大将だとわかったのか、狙い澄まして差し詰め引き詰め射掛けてくる。
広家様は眉間をしたたかに射られ、たちまち流血して両の目に入ったが、
まったく気にせずにまた三の来輪へ攻め入るため、進もうとした。

追手の先陣では死者や怪我人があまりに多く出たため、
加藤遠江守が下知して、一度にさっと引いて麓に下り、その後陣も次第に引いていった。
城中はこれで活気付いて、今度は三の来輪を死守しようと、散々に射掛けてきて一歩も引かない。
寄せ手は大手が退却していくのを見ながら少しも怯まずに、
今一度攻め入って、他家の衆より優れた勇を顕そうと攻め戦った。

こうしたとき、石田・増田から軍使が遣わされ、
「今日はあまりに怪我人が多く出て、そのうえ兵も皆疲れてきたので、明日また攻め懸けて乗り崩しましょう。
大手も退却するので広家もまずは引いてください」と再三言い送ってくる。
広家は、「私の手勢だけでこの城を乗っ取るのは不可能だ。石田たちの言ってきたことに従おう」と、
静かに勢を引き揚げた。

そのとき、吉川勘左衛門(経実)はしばらくその場で堪えて、
敵がもし跡を追ってくるなら一合戦してやろうと備えていた。
城中の勢が中から突いて出てくる気配もなく、誰もが「早くお引取りなさい」と声をかけたが、
勘左衛門は応じない。
「大将が引き取れと下知をされるまでは引き揚げません」と、なおも堪えていたので、
広家様は軍使を送って「早く引き揚げろ」と下知した。
それでようやくしんがりを務めながら引いてきたのだった。

広家様は「大手の勢が引き揚げなければ、今日の内に私の攻め口からこの城を乗り破れたというのに。
三奉行など、戦の道を夢ほども知らないばかりに、無駄な城攻めをして敵に勝利を与え、
味方を多く怪我させるとは腹立たしいものだ」と歯噛みしていた。

こうして討ち取った四つの首を三奉行のところへ持っていくと、
「たちまち戦で利を失い引き退いたが、広家の手勢だけ敵を討ち取りなさったのは、
まさに勇の至り、他に抜きん出た粉骨の働きです。
必ず近いうちに、このことを秀吉公へ言上いたします」と三奉行は言った。
しかし自分が担当していた方面の逆茂木を一重も破ることができず、
いたずらに諸卒を討ち死にさせたことが智謀も勇もなきに等しいことだったので、
自分の至らなさを隠すために、人の忠戦も顧みずに、太閤へと披露しなかった。

だいたいにして元春・元長・広家の父子三人はいずれも、
安国寺を狡賢く人を誑かす売皮僧だと忌み嫌っていたので、
安国寺は常に広家のことを石田に悪く言っていた。
治部少輔と広家の仲もいいものではなく、こうした大忠功をすら何度もなかったことにして、
太閤へと披露しなかったそうだ。

さて備前中納言・吉川侍従・久留米侍従は楯の板を風除けにして一ヶ所に集まっていたが、
粟屋彦右衛門を使者として、この三将から石田・増田・大谷へと提案をした。
「今日この城を攻め破ってしまわなければ、敵は日本勢に塩をつけた(勝った)と調子に乗るだろう。
そうなれば日本勢の勇が不足しているようなものだ。
今度はこの三人が先陣を務めるので、他の方々にはまだ戦いに加わっていない元気な兵に入れ替えて
後陣を詰めてていただきたい」と言い送ると、
三奉行たちは「諸卒は皆疲れ果てているので、今日はまず撤退して、
明日未明に攻め懸けて切り崩すことにする」と返事をしてきた。

粟屋がこのことを三将に告げるに戻ると、城中から狙っていたのか、
鉄砲がドンと鳴って、粟屋の股にしたたかに突き刺さった。
日本の弾とは似ておらず、鉄砲の玉突きのような一尺ほどの樫の木に、鉄を吹き付けたものだった。
すべての鉄砲の弾がこういう作りなのか、
または弾がなくてこんなものを鉄砲にこめたのかはわからなかったが、
粟屋は大の剛の者で、股を撃たれながらもまったく顔色を変えずに静かに口上を述べ、
その後何もなかったかのように、その一尺ほどのものを抜き取った。
諸人はこれを見て、なんと強そうな振る舞いかと、皆感心したのだった。

その日、石田は吉川侍従に向かい、
「今日三の来輪へ乗り入り、手の衆が分捕り高名を果たしたこと、
毎度のことながら比類のない働きです」と賞賛した。
その後、また城に攻めかかろうとしたところ、敵は勝って兜の緒を締めようとでも思ったのか、
やがてその城を空けて退却していった。日本勢が攻め損ねたのは、この城と陳州の城の二つだった。


以上、テキトー訳。

なんか今回、気になる描写が多いなぁ。
まず石田・増田へのdisりが絶好調なのは是非もナス。
加藤光泰カワイソス。広家カッコヨス。
怪我したのは眉間だったのね。まったく気にせず攻め入ろうとするのはいいけど止血しろ。
血が目に入ったら痛いのはもちろん、よく見えないだろうが。
大将がよく見えない状態でどうやって部下の働きを見てやるつもりだ。
べっ、べつに広家のことが心配で言ってるわけじゃないんだからねッ!←ムダツン

勘左! いつでも突っ走り気味な勘左が非常にかわいい!
お父さんの経家も突っ走る系だったよね。血は争えないね。
あのときはまだ幼かった亀寿が立派な荒武者に育ったと思うだけで胸がいっぱい。
「広家様から下知があるまでここを動きませんから!」とか、もうホントかわいい。

あと粟屋さん! 彦右衛門愛してます結婚してください!
股に変な鉄砲弾が突き刺さったまま顔色一つ変えずに口上を述べる……漢だぜ、彦右衛門。
これで在りし日は誰もが振り向く紅顔の美少年だったとか非常に胸熱。
ていうか周りのやつ、特に広家。「口上は後でいいから手当てしてこい」って言ってやれよ。
感心してる場合かよ。

しかし広家と秀包と宇喜多秀家ちゃんと一緒に話し合いしてる図って、なんかイイな。
秀包・秀家あたりはきっと美貌。まあ広家がイチバンかわいいがな。
うわぁい、カワイコちゃんが満ち満ちてるその空間の空気を吸いに行きたいです。

そうだ、忘れちゃいけない安国寺。
元春にも元長にも嫌われてたってさw 想定どおり。
安国寺の扱いがひどいのはしょうがない。そういうことにしとかなきゃね。
吉川家文書なんかを見る限りだと、安国寺とか三成とかと仲悪かったようでもなさそうだよね。
広家の覚書は別にして、書状群とかだと。
まあ仲良かったとも悪かったとも判別のつかん書状ばっかりだけど。

意外に今回の章が個人的にステキ情報盛りだくさんだったのでホクホクです。
次回は大友義統に関しての話のようだ。
イジメたいおっさんNo.1(暫定)。今度は何言われるんだろ、よしむー。
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