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2012-02-28

首狩族、再来

だいたいの流れ:
つっても、状況的には昨日の前提と同じようなもんだな。
押し寄せる大明軍120万を跳ね返し、朝鮮の都を堅守する日本勢だったが、
勝ちに乗って川下の城を攻めるも、損害を多く出した。(コピペ)
とりあえず朝鮮征伐では一息ついて、九州にいる秀吉と連絡を取りました、ってとこか。


遊撃将軍和平を請うこと、並びに晋州の城落去のこと

文禄三年三月中旬、遊撃将軍(沈惟敬)が大明から出発し、和平を申し出てきたので、
今度も堅く誓いを交わし、大明と日本は和睦した。
小西摂津守から使者として小西飛騨守を大明へと遣わし、
遼東境での交渉の際に人質として出していた竹田吉兵衛尉を受け取る。
今回送ったのはは丹波の内藤五郎丸という者だったが、惟任(明智光秀)のせいで本国を追い出され、
しばらくの間は中国あたりに左遷されており、小西を頼ってきたのだった。
内藤は無双の剛の者だったので、苗字を与えて小西と名乗らせた。
万里の城、咸陽宮なども一見したそうだ。

大明からは官人二人が、日本の諸将へ会盟を祝すために差し出された。
小西摂津守が伴って朝鮮の都へ入ると、宇喜多中納言(秀家)・小早川中納言(隆景)・
三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)、そのほか日本の諸将が位階順に列座して対面した。
その後、小西が二人の唐使を連れて日本に渡り、同五月二十三日、太閤が唐使に対面した。

去る四月、太閤から日本の諸将に向けて皆釜山海へ引き揚げるように朱印状が発行されたので、
皆それに従って釜山海に引き揚げた。
こうした折、また六月十二日に太閤から朱印状が下された。
「赤国のモクソ判官が立て籠もる晋州の城を、かつて細川越中守(忠興)・長谷川藤五郎・
木村常陸守・小野木縫殿助・牧村兵部・糟屋内膳・大田飛騨守・青山修理亮・岡本下野守らが攻め損ね、
敗軍したのは我が国の武名を傷つける。
急ぎ馳せ向かって城を乗っ取り、一人も残さず切捨てにして、会稽の恥を雪げ」とのことだった。

すぐに出発したのは宇喜多中納言秀家卿・小早川中納言隆景卿・吉川侍従広家朝臣・黒田甲斐守(長政)・
加藤主計頭(清正)・小西摂津守・毛利壱岐守(吉成)であり、
総勢四万五千余騎が、同六月二十四日、晋州の城を取り囲んだ。

そもそも、ここを「赤国」と言うのは、全国的な呼び名ではない。
日本人が朝鮮の絵図で国の遠近や地形、山川などを調査したとき、
この絵図では全羅道・平安道などを五色に塗り分けていて、
晋州の近辺の国はすべて赤く塗ってあったため、赤国と呼んでいた。
またその国の軍兵たちは皆赤い印を持っていたので赤国と呼んだとの説もある。

さて、この城は険しい難所で、容易には攻め落とせないので、
諸将は仕寄をつけて攻めようと支度をしていた。
加藤主計頭の陣では亀の甲羅のような仕寄を構えて城の石垣を崩そうとした。
城中からは散々に矢を放ってきたけれども、仕寄の亀の甲ですべて受け止め、
矢などまったく気にせずに石垣を崩していく。
これに困った城中は、今度は砂を炒って撒いた。
これは寄せ手の具足の隙間に入って熱くてたまらなくなったので、寄せ手は亀の甲を捨ててさっと引いた。

同二十八日、また亀の甲で詰め寄ると、城中の者たちも命運が尽きたと思ったのか、
手当たり次第に小家に火をつけ、これがたちまちカッと燃え上がった。
これを見て、備前勢や逸った吉川・小早川の手勢が、
「城に火をかけられたとは、これは先を越されてしまったようだ」と攻めかかり、
取るものもとりあえず真一文字に切って入る。
加藤・黒田たちも「備前勢がかかっていくぞ」と言うや否や飛び出していき、
吉川・小早川もまた同様に、我先にと攻めかかっていく。
加藤・黒田の足がかりがよかったので、他の勢より少し先に切り入った。

この城の二方面は岩壁がゴツゴツとそびえ、
逆巻く水岸を穿つ龍蛇でも住んでいそうな深い滝つぼだったので、鳥でもなければ通ることはできない。
他の二方面には堀が深く掘られ、逆茂木が幾重ともなく構えられ、
菱がしっかりと植えられて、落とし穴なども掘られていた。
それは厳重に来る者を拒んでいたが、
寄せ手たちが堀も逆茂木もまったく気にせずに無二に攻め入ってくるので、
城中の者たちもここが最後と散々に矢を放って防戦した。

しかし猛火が城の裏手に回り、南風が煙を運んでくると、敵も味方も見分けがつかなくなった。
目を開くこともできず相手の顔を確かめられなかったが、
寄せ手は勝ちに乗じていたので、ついに一・二の城戸を押し破る。
モクソ判官は散々に戦い、最後に宇喜多秀家卿の手勢、岡本権允の手で討ち取られた。
岡本はモクソの首を取って高く掲げ、
「この城の大将、モクソ判官は岡本権允が討ち取ったぞ」と名乗りを上げた。

残った兵たちは、大将が討たれてしまったので、あちらこちらで討たれる者もあり、
また散り散りになって逃げていく者もあった。これは追いかけて討ち取った。
あまりのことに堪えかねて、十余丈ほどもある岩壁にヒラリと飛びつき、河水に沈んで溺れ死ぬ者もいた。
また河水を泳ぎ渡って向こう岸に渡り、逃げていく者も多かったので、
吉川勢の中から香川又左衛門尉がこれを見咎め、「晋州の川を渡るぞ」と馬の手綱を操って、
逆巻く波の中へとさっと入っていく。
この河は上流から二筋流れてきていて、この場所で合流するので、
それでなくとも波が渦巻いているというのに、これまでの雨に水かさが増えていた。
森脇弥三・熊谷平内は、水に押し流されて死んでしまった。

秋里主水は以前から無双の泳ぎの達者で、氷を打ち砕いて水底にもぐり、
鯉や魚を捕らえて、もとの氷の穴を探し当てて出てくるほどの者だった。
今回も鎧を脱いで渡っていれば危ないこともなかっただろうに、
自分の泳ぎの技術を過信して鎧をつけたまま泳ぎ渡った。
川の中で溺れた敵にしがみつかれ、引き寄せて討ってやろうとしたときに、
また一人流れてきて取り付かれ、二人がかりで水底に引き込まれた。
鎧さえ着ていなければ、水底でも二人の首を掻き切って水上に戻ってきただろう。
鎧を着けていたから自由に体を動かせず、結局敵と一緒に水底の藻屑となってしまった。
ことわざにも「何だちは川にて死する」という言葉がある。
秋里が自分の水練技術を過信しなければ、鎧を脱いで泳いでいっただろうから、
自分の身が助かるどころか敵を二人も討ち取って存分に高名できただろうに、
高慢さゆえに身を滅ぼすとは嘆かわしいことだ。

香川は真一文字に川を渡り、川向こうで逃げようとする敵を討ち、同じく手の者たちも皆首を取った。
これを見て、続いて祖式九右衛門・桂次郎兵衛尉が川を渡ってゆき、同様に首を取る。
これをはじめとして三百余人が続き、敵を百五十三人討った。
川の手前岸では首を五百余り討ち取った。

また宇喜多秀家卿からも宇喜多河内守に二千余騎が添えられ、
川向こうに前もって差し向けられていたが、この手勢も首を三百余り討ち取った。
都ではこの城に立て籠もっている敵は三万余騎と聞いていたが、そのほとんどを切捨てにし、
そのうち四、五百人ほどが河水を泳ぎ渡って命を拾った。

このことが日本に報告されると、城攻めをした七人の将それぞれへ
太閤秀吉公・関白秀次公から御内書が送られた。
その書状にはこう書いてある(吉川家文書之一-一二八)。

 「七月十九日の書状が本日届けられた。委細は読んだ。
  よって高麗の晋州の城を落去させたことは、皆がその地に在陣し、
  たゆみなく粉骨砕身の働きをしてくれたからこそである。
  あれこれと詳しく報告してくれて喜ばしく思う。なお、江口備後守から伝えさせる。
   八月二十三日」
  ※秀吉公・秀次公ともに同じ文体なので、両方は掲載しない。


以上、テキトー訳。

んー……晋州城攻略戦って文禄2年だよね? いろいろと時系列がごっちゃになっとるな。
まあそりゃいいや。所詮軍記だし。
今回も香川又左の活躍がパないっす。しょうがないよね、だって著者は香川正矩だし。
又左愛してる。

そして個人的に登場が楽しみだった亀甲車。
なんか描写があっさりしてるーーー!
ここで変形するとか、今週のびっくりドッキリメカとか出てくる期待をするのは私だけじゃなかろう。
変形もしないし小さなメカも出てこないけどね! 夢見るだけなら自由よね!

清正「というわけで仕寄を作った。亀の甲羅みたいだから名付けて亀甲車だ!」
長政「で、いつ変形するんだ? 合体機能はあるのか?」
広家「びっくりドッキリメカはどこに格納してるんだ?」
清正「ねえよ」
長政「(´∵`)」
広家「(´∵`)」

落ちない。めげない。

しかし首狩合戦はイイねぇ。久々で。
なんていうか大陸の人たちは圧倒的に弓使うよね。
雨霰とばかりに弓。これでもかとばかりに矢。
鑓のどつきあいの方が燃えるな……ってわかった。

さて次は……秀元さん出てくる感じかな?
秀元も広家好きにとってはなかなかオイシイ関係の人物なので、どんな風に描かれてるのかドキドキするね☆
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