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2011-08-28

毛利隆元について

【毛利隆元】1523年-1563年
毛利元就と吉川国経女の間に生まれた毛利家嫡男。
15歳から多感な3年間を人質として大内義隆のもとで過ごすも、
大内義隆・大内家家臣筆頭の陶隆房らにこれでもかと可愛がられ、
すっかり文科系に染め上げられて帰国する。
1546年には家督する(実権は元就が握ったまま)。
元就に「能だの芸事だの、武家には必要ないっつってんだろ!」と
不甲斐なさをみっちり叱られる。
しかし人質時代に築いた人脈が毛利家を救うこともあった。
吉田郡山城が尼子軍に包囲された際、隆元の懇願がどうにか通って
しぶっていた義隆も最終的には援軍を出してくれている(総大将は隆房)。
妻・義隆の養女(大内家臣内藤氏女)との間に一男一女をもうける。
戦場から妻子を気遣う手紙を出すような、家庭思いのお父さんだった。
1563年、出雲の尼子征伐に向かう途上にて頓死。

●隆元のすごいところ
父と弟たちの活躍の影に隠れがちだが、
厳島合戦や九州戦線などでそれなりに戦功も挙げている。
内政手腕、特に財政面で抜きん出た能力を発揮し、
すさまじい勢いで膨張を続ける毛利の台所を支えていた。
隆元死後には毛利家の収入は4,000石も減少し、戦費調達も困難になった。
また周囲の国人たちとの交渉も難しくなったところを見ると、
隆元は毛利家の「信用」そのものだった。
温厚で誠実な人柄、人質時代に得たそつのない社交術がそうさせたのだろう。
また元就が掌握している毛利家中で自分の派閥を持てるだけの政治力も併せ持ち、
マルチな方面で相当に能力が高かったことがわかる。

●しかしどっこいネガティブ思考
これだけ才能がありながら、隆元は自身を凡夫とさげすみ、
偉大な父の名を汚さないことを至上命題としていた。
「早く死んで楽になりたい」など、だいぶ鬱々とした愚痴を
参禅の師である竺雲恵心に書き送っているが、
隆元の死後、恵心に知らされるまで周囲はその懊悩に気づいていなかった。
また、死の数ヶ月前には厳島神社に願文を奉納しており、
「父・元就の武運長久を願う。父に災厄が降りかかるなら自分の命を身代わりにしてほしい」
と願っていた。……隆元の願いどおりになったのかもしれない。

●後世の評価
元就より早く亡くなってしまったのと、
父・弟たちが強烈すぎる実績を残したため、隆元はまるで空気。
「三本の矢」の逸話で数合わせ程度に登場するも、
隆元の子、輝元が元就に続いて「二代目」と称されることもあり、
こちらでは物の数にすら入れてもらえていないほど地味というか不遇。
だけどこっそり隆元が好きな人はいっぱいいるはず!
江戸時代中期には長州藩主・毛利重就が隆元を再評価し、
隆元の遺した言葉を座右の銘とした。
「文をもって治め、武をもって守る。
 功あるを賞すれば、即ち忠ある者が増える。
 罪をもって罰すれば、即ち咎ある者は減る。
 賞を行うに躊躇せず」

まさしく正道の人。
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