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2012-03-07

隆景「いいこと思いついた。おまえ、こうやって謡え」

「おれのケツの中でションベンしろ」とか言い出しませんよ、景様は。
そういうくそみそなこと言いそうなのはもっと他にいるよね。
あなたの頭の中には誰が浮かびましたか? 私は義隆様が浮かびました。

てなわけで今回は、物語上では隆景はもう死んでしまったけれども、
亡き人をしのぶために少し昔語りでも……という感じで、
小さなエピソードが紹介されてるよ。


黄門隆景卿御在世時の噂のこと(上)

中納言隆景卿は、養子の左金吾(秀秋)に筑前の国立花の城を譲って、
自身は備後の国三原の城に隠居の地を構え、住んでいた。
そのころ、林吉兵衛入道梅林が京都から下向して三原の城に伺候した。
黄門はすぐに梅林に対面し、「どうだ、梅林。最近都では何か珍しいことはなかったか。
近年は上洛していないから、都の噂を聞かせてほしい」と問いかけた。
梅林は、「それが、たいして珍しいこともないのですよ」と答える。
隆景卿は「では今は何が流行っているのか」と尋ねた。

「そうですねぇ。隆達の小唄のなかで、『面白の春雨やな、花の散らぬほど降れ』
という歌が流行しております。
男女僧俗を問わず、八十の翁から三歳の幼子までもが口ずさんでいます」と梅林が答えると、
隆景卿は「それは実に興味深い歌だ。ここで一節謡ってみせよ」と命じた。
梅林は「私はもう老いさらばえていますので、みっともなく謡うのは恥ずかしい」と思ったが、
他でもない黄門の所望なので、仕方なく、あまり上手ではない調子だったが、最後まで謡いきった。

「あと三十か四十ほど若ければ、声も朗々として品よく小唄を謡えたでしょうに、
すでに六十も越えていますので、歌声も老人じみて、聞く人の耳に棘が刺さるようでしたでしょう。
ああ、年老いることほど恨めしいものはありますまい。
『高歌(こうか)一曲明鏡を掩(おお)う、昨日の少年今は白頭』という古い詩(『秋思』許渾)も、
今翁の身になって、よく意味がわかりました」と梅林が言えば、隆景卿は
「いや、なかなかによかったぞ。もう一度謡ってくれ」と、重ねて所望した。
梅林は「こんな古入道が声震わせ息継ぎもできずに謡うものが、よかったはずなどありません。
それを再びとはあんまりです」と苦々しく言う。

隆景卿は語りだした。
「いやいや、歌の節回しや声の調子が良かったと言ったのではない。
『面白の春雨や、花の散らぬほど降れ』という、歌の文句が興味深い。
おまえ、帰って輝元卿にこの歌を謡って聞かせなさい。
いかに賢くいらっしゃるとはいっても、まだお若いのだ。
何かに熱中して他が目に入らなくなってしまうこともあるだろう。

『面白の儒学や、武備を忘れぬほど好け。面白の武辺だてや、文道を忘れぬほど好け。
面白の歌草、面白の乱舞、面白の数寄や、身を捨てぬほど好け』とでも謡いたいものだ。
どんなにすばらしいことでも、『中』の一字を過ぎてしまわないように嗜みたいものだ。
すべての道に通じる教訓が、この歌一つに詰まっている。
きっと、きっと輝元卿に謡ってよく聞かせて差し上げなさい。
他の奉行や重役たちにも、この歌の心を会得させるように言い聞かせよ。

この歌を作った隆達は、もともとは曹洞宗の僧だ。
良翁和尚の弟子で、一時などは法門の説破にもなったそうだ。
またあるとき、客殿の廊下を「淀の渡りのから船よ」という小唄を謡って
足拍子をドドロドドロと踏んでいたところ、良翁和尚が聞きつけて、この僧を懲らしめてやろうと考えて、
『隆達』と呼べば、『よっ』と答えたという。
良翁が『人の乗っていない舟にどうして舵がきくというのだ』と問う(「荘子」の「淀虚舟」を踏まえて?)と、
隆達は『もとから誰も乗っていないのだから、よく舵がきく』とはぐらかしたと語り伝えられている。
また先に言ったように、説法のときは、意味は同じであっても、言葉の品は違っていた。

それはともかく、仏法も商いもこのように頭の回転がいい人だったので、
その名を東西南北に響き渡らせていた。
しかしあまりに小唄に凝っていたので、根拠のない悪い噂が立った。
隆達は『身に覚えのないことだとはいっても、一度無実を言い立てて汚名を雪げるかもしれないが、
この身に過ちのないことは証明できようが、世の人は疑うことをやめないだろう。
出家の身の上の波の濡れ衣は、とっとと着替えてしまおう』と、還俗したという。
これも『面白の小唄や、浮名の立たぬほど好け』ということだろう。
梅林よ、この歌をよく腹で味わって、広島で謡ってこい」と隆景卿は言った。


あるときは隆景卿が上洛していたとき、京都では金のやりくりが達者な者がいないと困るだろうと、
三原の町にいたとある賢い町人がいたので、鵜飼新右衛門尉がその者を連れて上洛した。
隆景卿が下向した後、兼久次郎兵衛尉・桂三郎兵衛尉などがその町人に銀子の算用をさせてみると、
八貫目ほどの銀子が節約できたと勘定に出た。
鵜飼たちは、「こうした才覚があるだろうと思って、あの者を連れて行ったのか」と非常に感心した。
「おまえたち、隆景公へこのことを知らせてこい。駄賃に銀をくれてやろう」と言って、
兼久・桂の二人を遣わして、隆景卿に例の町人が節約をしたことを報告した。

隆景卿はこれを聞いて、
「赤字だったということはあっても、銀子が余ることなどあるはずがない。
銀が天から降ったり地から湧き出てくることなどないのだから、
人にやったり買い物に使うべき銀をわざと少なくしたのだな。
そんなけちなことをすれば、この隆景に恥をかかすとわからんのか。
むしろ多めに使って何貫目足りなかったと算出すべきなのに、憎いやつだ。
その町人の首を刎ねてしまえ」と激怒した。

この至極の金言をきいて、鵜飼たちは
「これは我らが考えていたのとはまったく違ったことになった。
隆景公には本当に利欲のお心が一点もない。
仁道に一本気なのは今に始まったことではないが、いまさらながら痛感させられる。
どうにかしてあの町人の罪を許してもらえないものか」と話し合った。

結局、ただの計算違いだったと報告することになって、
再び兼久・桂が出頭し、「先日、銀が余ったと算出したのはまったく違っていました。
確認の計算をしたところ、八貫目ほど足が出ておりました。
加・減を逆に書き間違えていたのです」と言うと、
隆景卿は「やはりそうだったか。それならばよい」と言った。


隆景卿は茶の湯に凝って、紹鴎・利休などについてこの道を学んだが、
唐土の祖師の墨蹟や我が国の歌人の掛け物、そのほか茶人・天目などにいたるまで、
一目見ると同時に「これは何貫するだろう」と値踏みをし、千貫もしそうなものを百貫で買い取れば、
やれ掘り出しだ、目利きだといって称美する。
これを間近で見聞きしてからというもの、その後は茶の湯には傾倒しなくなった。

隆景卿は常に「茶の湯はせせこましい世を離れて静かに心を澄まし、それを楽しむものだと思って、
その道に立ち入って学んでみれば、何かというと値踏みや掘り出し物の噂ばかりが話題にのぼっている。
それどころか、目利きだといって安物買いをすることだけに夢中になっている。
それでなくても人の心は移ろいやすい。放っておけば何であれ自然と悪くなっていくものなのだ。
利欲に耽るのもはなはだしい。朱に交われば赤くなるというではないか」と言って、
その後は茶の湯とは距離を置いたそうだ。


以上、テキトー訳。続く。

まあ噂だけど、こんな感じの小さなエピソードがこの後も続いてる感じ。

それにしても景様、恥ずかしがる爺さんを謡わせる羞恥プレイとか、やっぱドSだなw
しかも謡わせた上に「もう一度謡え」とか言ってるくせに、
「面白いのは歌詞であっておまえの謡い方じゃない」とかマジひどすwww
「べっ、べつにおまえの歌声とか節回しが良かったんじゃないんだからねッ!
勘違いしないでよねッ!」と言い換えるとツンデレ。
ツンデレ景様……想像がつかんなー。
恥らって謡い、その後「からかわないでくださいー!」とむくれる梅林がかわええのう。
あと、このころは輝元40歳越えてると思うんだけど、若い……か?
それに隆達は曹洞宗じゃなくて日蓮宗だそうですぞ。

金を節約して怒られる話、ちょっと理不尽よね。良かれと思ったのにね。
今のご時勢、どこも節約・節約だよ。こんなこと上司に言われたらぐれてやる。
ていうか、多めに払って見栄を張るとか、かなり江戸っ子のイメージなんですが。
江戸っ子の根本は三河武士だからめんどくさいのはデフォルトとして、
中国武士の景様もかなりめんどくさいな。
まあ「けち」って悪評が立つのはまずい、ってのは理解できます。
武士だのやくざだの、見栄やはったりの渡世だもんねぇ。

次のエピは景様と茶の湯……なんだろう、密室で謀略めぐらすとか、
そういう方向の不穏なイメージしか想像できない。
私は景様を何だと思ってるのか。
みんながキャイキャイ「この器が」「この掛け物が」と興じてるときに、
一人しらーっとして遠巻きに見つめてる図に脳内を修正してみたら、かなり似合うかもしれない。

なんだろうなぁ。この人が心から笑った顔が想像できないんだけど、どんな感じなんだろう。
肖像画は穏やかな表情の美形な老人だよね。
あの顔で、何を見て頬をたわませたんだろうなぁ。笑うことなどなかったのか。
幸せに生きられたのかなぁ、などと、三原に心を馳せたくなるね。

次回も引き続き景様、噂の真相(?)です。
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どれも有名な逸話だけど陰徳記が元ネタだったんですね。
初めて知りました。
お金の話は、当時武家が権力を盾に押し買いや値切りやってて家臣がそれをやるのを嫌っての事みたいです。
まあ理不尽には違いないですけどw
豊臣政権時代は以前戦ってた手前、いつ改易・減封食らうか分かんないストレスもあったんでしょうか。
初期は宇喜多なんかに対毛利の備えをさせてたみたいですし秀吉。
それ以前は割とイケイケの人だし、根は明るい人だったと思います。

コメントありがとうございます

有名な逸話ですねー。
陰徳記も「二宮佐渡覚書」「森脇飛騨覚書」「安西軍策」などを下敷きにしてますし、
すでに世に出ていた太閤記などの書物も参考にしているようですので、
いろんなエピソードの初出がどこだったのかを調べると、面白いかもしれません。やりませんが。
私が隆景に関して辛口なのは、ちょっと「いじりたい」欲求というか、
一種のひねくれた愛なんですよ……ご勘弁くださいね。
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