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2012-03-15

昭和な時代劇風映像で脳内再生推奨

ナチュラルに「昭和」とか書いたけど、
もう平成生まれの子たちが社会に出てるんだよね。年月って怖い。
そのうち「これだから昭和生まれは」とか言われるようになるんだろうか。gkbr。
でも昭和って60年以上続いたしな。世代的に幅広いよな。大東亜戦争だって昭和だもんな。

だいたいの流れ:
蔚山救援が済んで、乙女回路発動した清正から広家への馬印の贈与も済んだ。

ていうかもっと秀元あたり出してもいいと思うんだぜ、正矩!


高麗城番のこと、並びに石田・安国寺広家を讒ること

さて同(慶長三年)三月までに蔚山の城の普請が終わると、加藤主計頭が入れ置かれた。
セツガイの城には黒田甲斐守、竹嶋の城には(竹があったので日本人は竹嶋と呼んでいた)鍋島加賀守、
釜山海の城には寺沢志摩守、古泉の城には立花左近将監・久留米侍従(小早川秀包)・筑紫上野介・高橋主膳正、
順天の城には島津兵庫頭、ヤク山の城には小西摂津守が籠め置かれた。
そのほかの諸将は帰朝するようにと太閤から指示があったので、同六月に皆日本へと帰船して、
直接伏見へと向かった。
そこで今回の朝鮮での戦功を上げた者について、その軽重が吟味され、それぞれに感状が出された。

このときまで、日本で木綿を織る産業はなかったが、高麗から帰ってきた人々が、
木綿を糸にして織物にすることを婦女に教え、始めたのだった。こ
れ以降は、身分の低い者はこれを布子と呼んで、布を裏表に合わせ、中に綿を入れて着るようになった。

早川主馬・垣見和泉守は、太閤の前に進み出て、
「蔚山の合戦で敵が敗走していったのは、先日ご報告申し上げた通りです。
加藤の武威はいよいよ人間のものとも思えません。
この人が無二の覚悟で身命を捨て、城中に入っていなければ、城は三日の内に陥落させられたことでしょう。

また後詰の勢が到着して、決戦は明日と決まったとき、吉川が一番に敵の様子を見切り、
わずかな勢で山上から駆け下って真っ先に切りかかっていきました。
そうしなければおめおめと敵を逃していたことでしょう。
吉川が一番に切りかかったからこそ、大唐まで噂されるほどの追撃ができたのです。
そうしなければ、こちらは敵の退却を知りもしなかったでしょうから、追いかけることはできませんでした。
ですから唐人たちの大軍が敗走し、日本勢を恐れて、自分たちから近づいてこようとしなくなりました。
これは吉川の戦功に他なりません。このことは安国寺がよく存じております」と報告した。

そのときともに御前に侍っていた者たちも、口々に
「吉川・加藤はなかなか類を見ない働きでした」と言った。

太閤は「先年、伯耆半国・出雲三郡・隠岐一国を吉川に与えている。
そしてその後も空いた国があれば遣わそうと、黒田入道(如水)を通して吉川に伝えていた。
今回は南条の退いたあとの東伯耆三郡と因幡の蔵納、
そのほか本領と合わせて三十万石ほど宛行おうと思うが、どうだ」と言った。
すると石田治部少輔・安国寺瓊西堂は「それは良いお定めです」と言って一旦御前を立ち、
すぐに人気のないところに行って二人で密談をした。

二人はまた太閤の御前に行って、袖を掻き合わせてこう言った。
「吉川が朝鮮での数々の戦功によって、伯耆一国、並びに因幡のお蔵入地をお与えになるというのは、
確かにもっともなご判断だと思います。
しかしながら、今少し思慮を重ねられるべきかと。

あの者は戦功もたいしたものですが、もともと並外れて優れた才覚の持ち主です。
今回の蔚山でも、敵は百万騎以上いたというのに、諸将と示し合わせもせずに、
たった二、三十騎で一番に切り込んでいます。
いくら必勝の確信があったとしても、大胆不敵すぎはしないでしょうか。
また、決戦は明日と決まっていたのに、その軍法を破ったのも感心しません。

この者が手勢を一、二万も持てば、今後もし天下が乱れたとして、
どんな企みを抱くかわかったものではありません。
とりあえずは金銀珠玉の褒美だけにして、
所領を宛行う件はもう一度よくお考えになってはいかがでしょうか」

石田は広家と従来から仲がよくなかった。
安国寺は奸僧なので、元春・元長・広家ともに、
「あれは生臭坊主だ。ゆくゆくは毛利家を危うくするだろう」と毛嫌いしていた。
ことに今回は蔚山で広家が出撃の際、
「施餓鬼供養のやり方ならよく知っているのだろうが、戦のことは何も知るまい」
と大いに罵倒したことで、安国寺もまた腹を立て、
石田と結託してこうして讒言したのだという。

太閤はこのことで広家に所領を与えるのはとりあえず保留にしたものの、
どうにも心が引けて、やがて宰相に任官しようと約束した。
しかし、広家の冥加が薄かったのか、太閤の体調不良でその沙汰が繰り延ばされ、
次第に容態は悪くなっていったので、それに紛れてしまって結局なかったことになってしまったそうだ。


以上、テキトー訳。

「安国寺、おぬしも悪よのぅ」「ふっふっふ、治部少輔様こそwww」
なんて聞こえてきそうだね。ビバ様式美!
書状なんかを見ると、広家はどっちとも問題なく付き合ってた感じだし、
特に仲良くはしていなかったけど、特別仲が悪かったわけでもなさそうなんだよね。
関ヶ原の乱の首謀者ってことになってるし、もう死んでるから、心置きなく悪者扱いできたんだろうなぁ。
この傾向は、広家の自筆覚書あたりからずっと継続してるんだよね。
こうして「安国寺・石田に意地悪されてたよー」とアピールすることで、
いろいろと正当化したいものがあったのかな。

陰徳記の秀吉は、これまでもけっこう、広家を気に入ってあれこれと絡んだり馬を与えたりしてるんだけど、
正矩的にはどんな風に秀吉を描きたかったんだろうなぁ。
かなり悪い噂や傲慢さなんかもストレートに書いてきてるよねぇ。
人格的にはアレだけど実力はある秀吉、ってところなのかな。
そんな癖のある秀吉に気に入られて気を遣われちゃううちの殿様ってばマンセー!もできるしな。

バイアスひどいとか、だから陰徳記は信用できないとか、好きなように言うがいいさ。
いいんだ。広家のかっこいいところが読みたくてこの本買ったんだ。満足だ。

次回は朝鮮で亡くなった冷泉元満さんの家来たちのお話みたいだ。
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秀吉の吉川冷遇を否定する為にこんな書き方をしているんでしょうか。
今でも吉川と小早川の処遇の差が関ヶ原の結果につながったとまことしやかに言われてますし。
自分は広家は大名と変わらない官位と処遇は受けてたし、小早川と差がついたのは、その時の状況によるもので意図したものではないと思っているんですが。
ただ、広家は武断派と仲良かったから、三成から警戒されてたってのはあるのかなと思いました。

コメントありがとうございます

吉川冷遇説自体、陰徳記成立以前からあったのか、把握してないのでなんとも言えませんが、
いろんな説がいろんな時期に出てきてるので、それを考察するのも面白そうですね。
たとえば関ヶ原の乱を「豊臣VS徳川」ではなく、豊臣政権内の内乱と捉えれば
「吉川が豊臣を裏切った」という見方そのものが成り立たなくなってしまいます。
武断派・文治派という概念も、ずいぶん後の元禄期ごろに出てきたもののようですし。
まあそれはそれとして、広家には秀吉の養女が嫁いできてるので(みんな忘れがちだけど)、
実際はかなり重要視されてたんだとは思います。三成とは……どうなんでしょうね?
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