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2012-03-17

主従は三世、夫婦は二世の契りというけれど

昨日は夜に会議があって、金曜日だからそのまま飲み会に流れて、
そんな感じで帰宅が深夜→酒が入ってるせいもありほぼ即寝コースで更新できなかった。
そんな日もあるよね!

さて今回は、朝鮮の蔚山で戦死を遂げた冷泉元満の部下のお話。


冷泉民部少輔に伊賀崎追い腹のこと(上)

さて何とも物悲しいのは、冷泉民部少輔(元満)の郎党の伊賀崎中務・白松善左衛門・
吉安太郎兵衛尉といった者たちの振る舞いである。
去る正月に河南勢が蔚山へと攻め寄せてきて、冷泉たちが討ち死にしたときは、
この者たちはちょうど他所に行っていて、最後の供ができなかった。
唐勢が蔚山へ攻め寄せてきたと聞いて、急いで帰ってきたものの、敵はひとり残らず退却した後だった。
主君が甲斐なく討たれてしまったというのに、無二に走りかかっていって刺し違えて死ねる敵もおらず、
主君の無念を晴らす方法がない。ただ涙に暮れていた。

なかでも伊賀崎中務は、涙をこぼしながらこう掻き口説いたものだ。
「戸部(冷泉元満のこと、民部の唐名)の祖父の判官殿は、大内左京太夫義興と男色の契りが深く、
京都から連れられて下国してきたとき、我らの祖父もまた主君の判官殿に供奉して下向してきた。
それから防州に主君が三代住み、我らもまた三代続いた。

一族の中でも私は幼少のときから戸部の御憐みを蒙り、片時もおそばを離れずにお仕えしてきたというのに、
何の因果か、こんな大事なときに他所に行っていて居合わせられなかったとはあまりにもひどい。
もし戸部の御身に大事があるときは、私が真っ先に討ち死にしてからならともかく、
死に遅れるとは何たることだ。
仏神三宝にも見放され、君臣の契りが尽き果てたとでも言うのか。

戸部よ、どうかしばらく道で待っていてください。
すぐに腹を掻き切って、死出の三途の川を渡る間に追いつきますぞ。
あの山路の露を払い、三瀬川を背負って渡りますのでご安心なされ。
このときにこそ最後のお供をしなかった言い訳もいたしましょう」

伊賀崎がこう言うと、残る二人の者たちも、
「私もどうして後に残ったりしましょうか。一緒に道を行きましょう」と、すでに思い切っていた。
それぞれ主君の亡骸に三度礼拝し、そして腹を十文字に掻き切って死んでいった。
なんとも立派なことである。
これを見聞きした人は、「忠といい義といい勇といい、比類のない者たちだ」と皆感心した。

これはさておき、さらに哀れなのは、長門の国の問田というところに住んでいた伊賀崎の妻である。
妻は夫が主君に殉じて追い腹を切ったことを伝え聞いて、
「なんということでしょう。来世もともに生きようと誓い合った仲だというのに、死に遅れたとは悔しいこと。
中書(中務の唐名)殿が十九歳、私が十五歳のときに初めてお会いしてから、
玉響の間も離れたことがなかったというのに。

河嶋の水の流れが変わっても、比翼連理の夫婦の仲は変わるまいと、
互いに情愛を深くして、来世にかけて契りを交わしました。
かねがね言い交わしていたことも実現せず、たった一人でこの世に生き残ってしまった。
番いのいないオシドリの悲しい鳴き声だけが、あの人のいないこの世に残っているようです。
なんと恨めしい」と涙に暮れて倒れ伏した。

しかし少ししてから起き上がり、妻女はこうも言った。
「それにしても儚いものです。私の夫がクダラとかいうところに向かう際、涙を流してこう言いました。
『私はこれから青い波を万里も越えて、コマとかいう国に向かう。
波路だけでも千里以上あるらしいと聞いている。
かの童男と丱女がいたずらに船の上で年を重ねていったという話も、今は身につまされるようだ。

この身の上は白波の、寄る辺も知らぬ海原の、
潮の八百合(やほあひ、潮流が交わるところ)に沈んで死んでしまわないとも限らない。
もしくは西海の波路を無事にしのいでクダラの地に着いたとしても、
見知らぬ蛮族の国に入って、日夜朝暮に戦をするのだ。生きて帰ってこれるとも思わない。
しかし戦場に赴く者が命を捨てるのは当たり前だ。
それに軍事に携わる者は戦場で命を散らしたいと切望するものだから、露ほども恨みには思わない。

しかしこれまでおまえに慣れ親しんでからというもの、主君にお仕えする身だから宿直などをする折には、
我が家に帰っている間は夏の夜のように短く感じた。
また離れて寝る夜は秋の夜を千夜も隔てたような心地がして、
大して寝ていないのに夜が明けるなどと言う人の気持ちさえうらやましく思ったものだ。
早朝に帰っておまえに逢うと、浦島の少年が古龍の都で年を重ねて自分の故郷に帰り、
七代先の孫に会ったという話よりもなお、とてつもなく待ち遠しかったと感じたものだ。

今回はそれ以上に、いつ帰れるのかも八重の白雲に覆われていてわからないのだから、
きっと今こそが別れのときなのだろう。

私が高麗の国で敵の手にかかって命を失ったり、もしくは病に臥せって死んでしまったと聞いたならば、
必ず後の菩提をよく弔っておくれ。
もし他の男に沿うことになっても、私と交わした約束は、少しも忘れてくれるなよ。
ああ名残惜しいことだ』

夫は私の手をとってこう言いました。
私もあまりの悲しさに、涙ばかりがこぼれてきて、しばらくは何も言えなかった。
でもどうにか心を静め、夫にこう言ったのです。

『なんと情けのない仰せでしょうか。
あなたと生き別れたら他の男の妻になれとは、これほど口惜しいことはありません。
あなたに一度近江(逢う身)なる、潮ならぬ海(湖=貝がない→甲斐がない)は七度まで葦原となし、
末の松山が波の底に沈んだとしても、この契りの行く末は絶対に変えるものかと、
互いに涙を流し袖を絞りながら、諸神にかけて誓ったことも嘘だったというのですか。

もしあなたと離れてしまったなら、他の人に会うなんて思いつきもしません。
この世に生きている限りは、龍の住む山であろうと虎のいる野辺であろうと、
この想いだけを道しるべに必ずこの足であなたのもとにたどり着き、同じところで生涯を終えたい。

この世に永遠というものはないのだから、あなたがどこかで草派の露霜と消え果てしまったと耳にしたならば、
妻恋かぬる秋の野の小鹿の角のつかの間も、この命を永らえようとは思いません。
深い谷川にでも身を投げて、来世も同じように夫婦でいられるように、
閻魔のところにもご一緒して、六道四生のその間も、あなたと手をつないで巡りましょう。

しかしながらこれは、あなたのお言葉があまりに情のないものだったから、
恨みを残さないために申したまでです。
あなたは数千万里の波路を無事にお渡りになり、異国の蛮人を切り従え、
きっとめでたく帰朝なさるでしょう。

旅路ではいろんなものに心慰められるものです。
知らぬ波路の秋の月、見たこともない唐土の春の花を見て喜び、
心が浮かれることもあるでしょうから、旅のつらさも少しはまぎれるでしょう。
私は一人きりでここに残って、荒涼とした寝床が寂しくて、軒からもれる露に袖を湿し、
板間の風に肌を刺されながら、物思いにふけることになります。
ああ悲しい』と涙に咽び地に伏してしまいました。

しかし、これではいけない、戦に赴く武士を送り出すというのに、
涙を流すなんてとんだ粗相だと思い直しました。
袖の涙を打ち払い、なんでもないような振りをして、杯を出して夫と酌み交わし、
『お帰りをお待ちしております』と、互いに袖を引きつつ立ち別れて、旅立つ姿を見送りました。

かの松浦伏(佐?)夜姫が、恋人を乗せた唐船を見続けるために、
高い山に登って見えなくなるまで見送ったという話がありますが、
自分の身に積まされるようで、白雲に包まれて立ち迷ったような気持ちで泣いてばかりいました」


以上、テキトー訳。つづく。

昨晩すっぽかしたからいつも以上に頑張ろうと思ったけど匙を投げたよ。
なぜかというと、この後に漢文?お経?がたくさん引用されてて、正直手に負えない……
前から言ってるけど、軍記物読むには、日本神話・中国故事・仏教説話・その他文芸の素養がないとダメらしい。
調べるにしても根気がいるよ。マジで。ネット空間が発達しててよかった。
人に聞いたり足で探してたら、それこそ何カ月がかりで調査しなきゃわからないんじゃね?
ネットで調べててもうんざりするのに、自分の目と耳と足で、なんて、どだい無理な話だわ。

愚痴はこのへんにして、冷泉民部の部下たちおよびその妻のお話だね。
ていうか後半はほぼ妻の話だよ☆
男女の情愛とか……リア充爆発しろ!!!!!!! いえ特に恨みがあるわけではありませんが。
いやうん、伊賀崎夫婦に恨みはないが、正矩にはある。
源氏物語とか古い和歌とかを下敷きにして書かれてるから、調べるのがものすごくめんどくさい。

陰徳記はたま~にこうした男女の恋愛物語みたいなものが出てくるんだけど(尼子義久夫婦とか)、
そのたびに文芸作品理解してないと意味があまり通じない描写が多くて、もうね!
男色ならズバリ「男色の寵愛深く~」とかドストレートに書いてあるんだけどな。
まあ、この文芸引用してもったいぶってる感じがオツなのかもしれないね。
でも「潮のない海=湖=湖には貝がいない=甲斐がない」なんてのは感心するよりうっとおしいわ^^
だいたい平安貴族のせい。紫式部とか。

はっ。結局愚痴になってしまった。
まあ、愛する夫を戦地に送り出す妻の心情が細やかに描かれてるので、この点はちょっと嬉しかった。

次回はいろいろな引用にめげなければ、この章の最後まで読みます。
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武士の殉死ってこの頃からあったんですか。
追い腹や未亡人の貞操は、江戸期(それこそ陰徳記ができた頃)の道徳観念のイメージがありました。
でも奥さんの歌が残っているから創作ではないんでしょうね。
ところで、管理人様は陰徳記に出てくる故事の引用元や比喩を、どんなふうに調べてらっしゃるんですか?
他人事みたいに聞いて申し出ないですが、興味があるので。
教えて頂けたら嬉しいですm(__)m。

コメントありがとうございます

追い腹はあまり気にしてませんでしたが、かなり古い時代からある風習のようですね。
このころは死出の旅路の供・来世もともにいられるように、という意味合いが強いようです。
江戸時代のイメージが強いのは、殉死という行為自体が美化され大流行したことで
社会問題となって公儀に禁止されたからだと思います。
公儀のご法度だからと、腹を切らずに殉死するため、食を断って衰弱死を選んだ人もいましたね。
未亡人は、この場合は貞操というより恋慕の情がテーマのようです。
文中で出てくる「近江なる云々」は、源氏物語の空蝉で描かれる和歌
「わくらばに行き逢ふ道を頼みしもなほかひなしや潮ならぬ海」を下敷きにしています。
引用元を調べるのは、私の場合はかなり乱暴で、
原文に出てきたキーワードをひたすらグーグル先生に聞くだけ、という。
それでだいたいヒットするので、ネット空間様さまといったところです。
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