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2012-03-25

キリシタン大名残酷物語

だいたいの流れ:
毛利が織田に悩まされているころの九州のお話。
大友家では宗麟が隠居して義統が跡を継ぎ、家中の気風も乱れはじめた。
そこへ南蛮の交易船がやってきて、商船のリーダー賢長・雲南弥と大友家は親密になっていく。

あの、はじめに書いておくけど、今回のお話はかなりショッキングな内容なので、
載っけてはおくけど、読むのはあんまりオススメしません。


大友貴理支旦に成り給うこと、付けたり悪逆のこと

賢長・雲南弥は、自分たちは豊後に身を置いたまま、家人たちを船に乗せて本国に通わせ、
毎年さまざまな商品を運送させていた。
臼杵・府内に屋敷を与えられると、町屋を造り並べて、この国に南蛮人を呼び寄せたいと言い出した。
義統が「いいだろう」と言って許しを与えたので、賢長たちは臼杵の海を埋め立て、
大石を積み上げて、その上に賢長町と名づけて六町を作り上げた。
また府内にも賢長・雲南弥は二人で町を六町作り、
本国から異人たちを五、六千人も呼び寄せてその町に住まわせた。

その後、賢長・雲南弥は伴天連宗の説法をして、多くの人をその宗教に引き入れたが、
後には義統もこの宗の説法を聞こうと、二人の者たちを呼び寄せて説法を聞き、やがて伴天連の宗門に入った。
どうしようもない話である。

この宗門は、天文のはじめごろに防州山口の道場の辺りへ初めてもたらされ、
しばらくここに居住して説法をしていたという。それから次第に流布していったそうだ。
仏神三宝を敬うこともせず、それどころか敵意をむき出しにした。
その昔の釈尊のときに釈尊を害そうとした外道の法なのか、我が日ノ本は仏法の東の果ての地だからと、
外道天魔が正法を破滅させようとして来たに違いないと、噂を聞くだけでも身の毛もよだつものだ。
それなのに、義統がこの宗門になったとは、まったくひどいことである。

義統は、雲南弥・賢長の教えに従って、田原の法檀寺という七堂伽藍の霊場を、
七日と七夜かけてことごとく焼き尽くしてしまった。
また田渋の大堂の釈迦釈迦牟尼如来の尊像の鼻を削ぎ、
そのほか湯須良八幡・宰府の天神の社をも焼き捨てて、たちまちのうちに焦土にしてしまう。
下々の者も義統をまねして、そのころ伴天連宗になった者たちは、
まるで競争でもするようにあちこちの仏像社壇を打ち壊し、次々と焼き払っていく。
豊後・豊前・日向・筑後・筑前あたりの寺社仏閣は、一つ残らず失われた。
デーバダッタにそそのかされて阿闍世王太子が父王頻婆娑羅を幽閉し、七重に取り囲んだ室内に置き、
また鋭い剣を手に母の韋提希夫人を殺そうとした悪よりもさらにひどい。
恵昌沙汰の後、これほどの仏敵・法敵は例にないことであった。

我が国の物部守屋大臣も仏敵となったが、それでも神道を深く尊んでいた。
無理難題を押し通したさしもの平清盛も、仏神を敬って信心深かったので、
安芸の厳島大明神をはじめとして、数ヶ所に寺社仏閣を建立・造営している。
この義統は文を用いて政道を正しくするでもなく、武を用いて威を厳しくするでもなく、
欲望ばかりが深いまったくの邪将であった。

そもそも我が国は、イザナギ・イザナミが高天原から天の逆鉾で大海を撫でたところ、
その鉾の雫が凝り固まって淡路島となり、天地が始まった。
それ以来、粟粒を散らしたような小国とは言いながら、
天竺や震旦よりもなお勝るほど、霊神霊社が跡を残していったので、仏法もまた広く伝播している。
それなのに、大友は仏神に何の恨みがあってこんなことをするのだろうか。
五逆の罪を超えてしまえば、今生ではたちまち仏罰・神罰をこうむり、子孫は断絶し、
来世では必ず阿鼻大地獄の底に落とされて、焔王の鉄棒で打ち据えられ、牛頭・馬頭の責めを受け、
どんなに長い時間を経ても、成仏することはできない。
目にした人は肝を潰し、耳にした人は身の毛をよだて、呆れ果てない人はいなかった。

また義統は、賢長・雲南弥が献上した虎には人間を餌として与えて飼っていた。
はじめは投獄していた重罪の者たちがいくらでもいたので、獄舎の看守に言いつけて餌にしていたのだが、
しばらくすると罪人の数も尽き果ててしまう。

どうしようかと思案していたところ、義統はハッと思い出した。
「国中にはない方がいいものは、神では疫病の神、虫ではヒキガエル、蛇、
人間では座頭(盲人)だろう。
あの座頭たちの様子を見ていると、一芸・一能があって人の役に立つ者は百人に一人か二人いるかどうかだ。
残りの盲人たちは、芸ができなければ、なかなか憐憫もかけてもらえない。
世の人から憐れみをかけてもらえず、その日の飯にありつくことも稀だから、
常に飢えに苦しみ、満足に衣も着られず、寒風に身を痛めている。
苦しいことばかりが多くて喜びや楽しみなどまったくない。
今生を生きているのは苦しくて仕方ないだろうから、命の根を断ってやれば、これ以上の慈悲はないはずだ。

なぜかといえば、肉体があれば飢え・渇き・寒い・暑いという苦しみがはなはだしい。
この肉体を脱して父母から生まれる以前の境界に至れば、
苦もなく楽もなく、暑くも寒くもなく、飢えや渇きの悲しみもないだろう。
仏教でも法のために虎に身を与えた例もある。
これからは座頭どもを搦め捕って虎の餌食にすればよいのだ。
そうすれば苦海を渡って悲願に至り、成仏の縁ともなろう。
さあさあ、座頭たちを成仏させてやろう」

義統は盲人たちを秘密裏に生け捕らせて、虎の餌として与えた。
それもはじめのうちだけで、そのうち国中の盲人がいなくなってしまったので、
他国の盲人を呼び集めるために、人を遣わしてこんな噂を流すようにした。
「大友義統は非常に座頭への憐憫が強い。
だから豊後の座頭たちは他国に行くことはないし、それどころか、
国中でも作善法事などのあるところへ行っては施された物の多少を問題にし
『もう少しくだされ』などと口々にわめいたり叫んだり、
杖で寺の門戸を叩きながら『布施を暮れないなら死ね、転べ』などと呪ったり、ということはまったくない。
皆府内の城中に集まって、美食珍膳に満足しているのだ」

この噂を聞きつけた近隣の国の座頭たちは、身を滅ぼされることも知らないで、
「それは本当か」と大喜びし、親しい友と連れ立って、我も我もとやってきた。
盲人たちが琵琶箱を背負い、竹の杖を突き、続々と豊後へ集まってくると、
すぐにそれを搦め捕って虎の餌食としてしまった。無残なことである。

こんなこととは夢にも知らず、九州の座頭たちは、
「豊後では義統が座頭を大事にしてくださると聞いているが、きっとこれは本当だろう。
先に行った座頭たちは皆居心地がいいからか、一人も帰ってこない。
我らも行こうではないか」と、手に手をとって豊後にやってくる。
しかし皆虎に与えられてしまい、「これはどうしたことだ」と驚くのだった。
「菊都の御坊はいらっしゃるか」「定都はどこにいる」「城民・城作はいないのか」
「聞いていたのとは大違いで、衣食を与えてもらえると思っていたのに、
逆に猛虎の餌食にされるとは悲しすぎる」「情のない義統や」「恨めしい大友殿や」
と声をばかりに泣き叫ぶ有様は、見るだけでも目の前が暗くなって、
感情も消えてしまうほどの、とんでもない有様だったそうだ。

四国の座頭で松都という力持ちの者がいたが、
捕らわれた獄中でこれから虎の餌にされるということを聞くと、
「これから逃げようといっても逃げようがない。
前世の因果の報いなのだろうから、嘆くことはない。
しかし私は人よりもずいぶんと力が強い。
いかに猛々しい虎であっても、片手か片足を掴めれば、ねじ折って振り払ってやるのに」と考えていた。

その松都が虎の餌にされる番になると、虎は勇み喜んで手を差し出し、
松都の顔を撫でて、飛び跳ねながら戯れだした。
松都はまた虎が顔を撫でようと手を出してきたところをヒタと捕らえてねじり上げる。
虎はひどく驚いて、痛さのあまりに松都の眉間に食いついたけれども、
松都は命の続く限りはと思い定め、ついに虎の片手をねじり折ると、自分もそのまま息絶えた。

昔、伊豆の北条入道早雲は、父の命日がくると金銀珠玉を奉納し、
経を書き念仏をして、丁寧に法事を行った。
父のために選任の僧を呼んで供養し、万部の経を書き、あるいは故人の話題を集め、
または念仏三昧の日を送った。
これは熱心なことなので、座頭に慈悲を垂れることこそ、一切の功徳の中でも一番ありがたいことだろうと、
施しを受けようとして近隣諸国や遠い島から座頭たちが集まってきた。

すると早雲はその座頭三千人を船に乗せて海中に漕ぎ出し、船底に穴を開けて、
水夫や舵取りたちは泳いで逃げさせた。
海水が次第に船の中に入り、座頭たちは一人残らず海中に沈溺して水の藻屑となってしまった。
早雲は、「千の仏を供養するより、一個の座頭を入水させるのに勝るものはない」と、
快然と笑みを浮かべたそうだ。
義統もこうしたことを思ったのか、なんとも非道な極悪ぶりであった。


以上、テキトー訳。

これはひどいとしか言いようがない。草生やす余裕もないわ。
キリシタンになって寺社仏閣の破壊を推進したのは宗麟だと思ってたけど、
ウィキペディア見ると、宗麟がやったのは日向侵攻のときで、
豊後・筑後国内での破壊活動は義統の行跡らしいね。
仏像の鼻を削ぐって、そりゃないよー。
仏像はきれいなお顔が多いのに、その鼻を削ぐなんてひどいよー・゚・(ノД`;)・゚・

まあ宣教師がやったわけじゃなくて、そそのかされた武士がそゆことしてるんだけどね。
この時期に渡来したイエズス会ってのは、キリスト教の本場でもカルト扱いされてたと聞くが、
実際のところどうなんだろう。
どのみち、最初は商売で取り入って、相手の懐に侵食して、
医療技術などを餌に宗教的に支配するってやり方は好きじゃないな。

キリシタン大名なんていっぱいいるけど、いったいどこに惹かれたのか気になる。
交易や各種技術を取り入れるのに、宗教的なつながりが必要だったのかな。ううむ。

そんで、なんたって胸糞悪いのは虎の餌の話だよね。
たぶん別の逸話をもとにした創作なんだろうとは思うんだけど。
元ネタがどこにあるのか調べきれなかった。残念。

さて次回は黙っちゃいなかった大友老臣のターン。
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(((゜Д゜;)))ガクブル
いままで同情してた自分が甘かった。
人を虎の餌にするなんて・・・。
もはや悪久が可愛く感じてしまう不思議www
バイアスはかかってるんでしょうけど、なんだろう。
陰徳記成立の頃に大友に対して忌まわしい一般認識があったんでしょうか。

一応高家として残っているのに邪族扱い・・・
しかしかえって関心が持てました。
没落した名家の実態ってなんともサスペンスチックで面白そう。
幸い近くの本屋に大友関係の研究書がそろっているんで暇な時に読みにいってみます。

コメントありがとうごさいます

義統は、朝鮮で仲間見捨てて逃げたってのが、大きな減点対象だったのかもしれませんね。
本拠地の九州でも島津に詰め寄られて逃げ腰だったようですし。
九州征伐でやらかした仙石秀久も、その後改易されてから勢力を盛り返しているものの、
良く言われることってあんまりないですもんね。
寺社仏閣の破壊も、人心が離れる原因だったんでしょう。
あと、一般認識ではないですが、大友の家臣だった人が毛利に転職しているようなので、
かつての上司の非道さを大げさに言いふらしていたものが陰徳記に拾われた、という可能性もあります。
いろいろ調べがついたら、また教えてくださいませ。
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