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2012-04-06

すごいよ! ご先祖さん!

なんかホントお久しぶりにブログ触る気がしてる……。
本来は毎日やるのがいいんだろうけどね、生活リズム的に。
リズムをつかむまでは読めるときに読むよ。

さて、今回は、秀吉の四国征伐で改易されてしまった河野さんちのご先祖さんのお話。


伊予の国、河野先祖のこと(1)

さて河野の先祖をたどっていくと、仁王七代の帝、孝霊天皇の第二の皇子、
伊予の皇子という方が、今の河野家の先祖に当たるそうだ。
孝霊天皇の御代に、南蛮西戎が活発に蜂起していたが、
その鎮圧のために弟の伊予の皇子を差し向けていたので、西南藩屏将軍という印を下賜されていた。
伊予に下向したことで、伊予の皇子と呼ばれるようになったとも。
その国で和気姫と結ばれ、三子をもうけた。しかし、外聞が悪いということで、
棚無小舟三艘に乗せて海上に放り出した。

嫡子の舟は伊豆の国に流れ着いた。
大宅というところがあり、そこで成人したが、後に神となって、従一位諸山積大明神と名づけられた。
本地は阿閃如来である。
その末裔の大宅氏は栄え、たくさんの庵を作り並べて住んでいたので、ここを庵原と呼んだ。
第二の皇子の舟は中国の吉備山本に流れ着いた。
備前の児島である。そこの三家の名家に養われて成人した。
そのため、その子孫は三宅氏と呼ばれた。児島というのもこの末裔だという。

第三の皇子の舟は伊予の国和介郡三津浦に流れ着いた。
そして国の主として仰がれ、越智御子と呼ばれた。この御子を祖として、
その諱を氏となし、七歳で勅定によって都に上ってやがて帰国した。
伊予の越智郡大浜に着くと、そこに館を造営して住んだのだった。
その御子の天狭貫中、またその子の天狭介、粟鹿、三並と続き、
この三並のときになって、新羅征伐のために十人の大将を派遣した。
その子の態武伊但守は、伊予の国の西南の土佐との境に館があり、その地名を名乗った。
そして喜多守、高縄、高箕、勝海、久米丸、百里、百男、益躬と続いた。
この益躬は伊予の国司に任命された。

推古天皇の時代に、三韓から鉄人が大将となって、八千人の軍兵が渡ってきた。
この異人たちは人間を食べたので、さながら地獄の牛頭馬頭のようだった。
九州の兵たちはよく防戦したが、あらかたは討たれて皆山林に逃げ隠れてしまったので、
異人たちは王城を襲ってやろうと攻め上っていく。
益躬は、「外的を退治するのは先祖代々、当家ののお役目です」と、勅を賜って九州に行ってみると、
九州の地には味方が一人もいなくなってしまっていた。
味方がいなくては戦いようがないので、まずは智計をめぐらし、降参を申し出てこう言った。
「日本は偏狭なので、ここに住んでいてもつまらないのです。
できたら鉄人の配下にしていただき、忠節を尽くしますので、三韓に渡って武臣になりたいと思います。
我が国はこの通り、山は高く川もたくさんあるので、
地形がわからなければ敵に不意を突かれて討たれてしまうこともありましょう。
私が先に立って道案内をいたしましょう」
鉄人はすぐにこれを受け入れ、益躬を先陣に立たせた。

益躬が思ったのは、
「いかに鉄人といえども、五体の内に肉がまったくないというわけではないだろう。
近づいてから隙をうかがって、一矢で射殺してやろう」ということだった。
そのためにずいぶん努力したのだが、
「播磨の明石の浦からは陸路を行きなされ。世にも優れた景色ですぞ」と勧めると、
鉄人はすぐに船から降り、ここからは馬に乗って進んだ。
蟹之坂を越えるとき、明石の浦の景色が異国にもないような素晴らしさだったので、
鉄人はあまりに感動して、足を上げて馬の上からしばし見とれていた。

「あの島はなんと言うのだ」「ここは何の山だ」と尋ねられ、
それに答えるようなふりをしながら益躬がうかがい見ると、鉄人の足の裏に眼がついていた。
益躬は「これが天が与えてくださった機会だ」と喜んで、袖の下に隠し持っていた矢でもって、
鉄人が再度足を上げようとしたところにすかさず投げ放つ。
すると、たちまち足の裏から脳天まで貫通してしまった。
さしもの鬼神のような鉄人も、馬の上からまっさかさまに落ちてしまった。

益躬の郎党に出江・橋立という者が二人付き従っていたが、二人が鉄人を押さえ、益躬に首を打たせた。
益躬が討ち取った首を高く差し上げ、「異国の大将、鉄人を簡単に討ち取ってやったぞ」と呼ばわると、
従ってきていた兵たちは、大将が討たれてしまったのでもうかなわないと思ったのか、
大勢が自殺して死んでしまった。
残った者たちは切り殺したり、また生け捕った場合は足の要の筋を切って海辺に放置した。
その子孫たちは皆海人となって世を渡ったので、
「西海の浦の人々は皆河野の家来となるように」と定められた。
また討ち漏らした者たちが四国に渡って乱暴していたのを、益躬が下向してことごとく切って捨てた。
そのためその場所を鬼谷と呼んだそうだ。
益躬は伊予の皇子から数えて十七代に当たるという。


以上、テキトー訳。続くよ!

ていうか先が長いよ!!! 何回で読み終えることができるかわからないので、
暫定的に今回は(1)としておこう。
なんかあんまりぱっとしなかった河野さんのご先祖さんと言われても……と思ったけど、
かなり戦慄したね。いや、遡りすぎの時の流れにではなく、
「足の腱を切って海辺に放置する」という残虐な処刑方法のことだよ☆
いっそ一思いに首を落としてくれたほうがマシだと思う。
まあ相手も人間を食うような輩なわけだが、古代中国大陸では食人はままあることだったとも聞いた。
現代は倫理観が地域差を超えて行き渡ってきてるけど、
習俗的にカニバリズムをタブー視しない地域はかなりあるんだよね。
足の腱を切って海辺に放置するのも、当時の日本では特段ひどいことではなかったのかも。

話に出てくる「鉄人」ていうのも、足の裏に目がついてるとかいう化け物じみたやつだから、
多分に神話やら怪しげな伝承が混じってるんだろうなーと思ったら、
どうも室町時代に成立した『豫章記』という物語が下敷きになってるようだね。
そりゃこの章が長くなるわけだわー。

休日も続きをしこしこ読みますw
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この話は予章記からの引用でしょうか。
wikiでみたら、そのまんまの内容でした。
元は河野氏の残した家録みたいですが、なんともファンタジーな話です。
毛利家も大江広元以前はよく分からん御先祖なんでそんなもんなんでしょうか。
陰徳記は虚実も多い分、引用された文献も多そうですね。
毛利家も取り込んだ勢力が多いから、残った記録も膨大な量なんだろうな。
細川家みたいに、東京や関西でもコレクションの展示会してくれないでしょうかね。

『豫章記』ですですw

ファンタジー大作が下地にあるから、ずいぶん長い章になっているようです。
後の方では『平家物語』も引かれています。
元就も確か、遡ると平城天皇の皇子の血筋につながるそうです。
どこの家も、始祖が天皇の皇子だの御落胤だのと主張してますから、このころのスタンダードですよねw
毛利家コレクションは、4月の半ばから東京のサントリー美術館で開かれるようなので、
行ってみようと思います。まぁ水墨画とかが主みたいですけどね!
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