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2012-04-17

鳥取の叫びを聞いたか

ハイノハイノハーイ!てのも古いな。
まあ鳥取落城後から備中高松城に向けて読んでいこうと思うよ。
流れは文中で語られてるので省きます。
この前の章はコチラコチラ


伯州馬野山対陣のこと(上)

去る天正九年七月から、羽柴筑前守秀吉が数万騎の軍兵を率いて因幡の国の鳥取の城を十重二十重に取り囲み、
昼夜の境もなく攻め続けていた。
そのうえ城中では兵糧が乏しいということだったので、元春様は、後詰に駆けつけようと、
まず出雲・伯耆の勢を集めるために、同七月下旬、治部少輔元長を、伯耆の八橋の城まで進ませた。
杉原播磨守盛重と合議して出兵を催促するも、伯耆の半分の勢は南条兄弟への押さえのために、
あちこちの向城に籠め置かねばならなかった。
出雲では三沢三郎左衛門とその嫡子攝津守が、去る天正六年の上月の陣の間から南条に通じていて、
秀吉に内通しているとの噂があった。
三沢は、自分の身が危ないと思い、まったく野心を抱いていないと訴える起請文を何通も書いて毛利に送ると、
自分の城に立て籠もって守りを固めていた。
こうして何かしら警戒していたので、戦地に連れて行ける兵は十分に集まらなかった。

元春様は、「兵がいないからといって一日一日と出陣を引き延ばせば、鳥取の城が落ちてしまう。
何百万騎の兵を整えることができたとしても、そうなってしまってからでは、
賊が過ぎ去った後に弓を張るようなものだ。
まず手勢だけでも出雲に赴かせ、杉原と合流して因幡へと向かい、決戦に臨むべきだ」と、
同八月五日に総勢千五百余騎で安芸の国の新庄を出発し、同八日に田木というところに到着した。
それからしばらく出雲の冨田に逗留しつつ、国中の兵を集めていた。

小早川左衛門佐隆景様も、「秀吉はとてつもない大軍だと聞いている。
そうだとしたら、元春は出雲・石見・安芸の兵ばかりでは、後詰もままならないだろう。
それなら私が一緒に行って補佐しよう」と、備後・備中・安芸・周防・長門の兵を集めた。
しかし長門へは、大友金吾入道宗麟が、元春・隆景が京勢と対陣するなら、
その隙を突いて門司の関から攻め渡り、国中を切り従えてやろうと狙っていたので、
一国の兵はその押さえのために他国に出すことができなかった。

備中勢は宇喜多八郎秀家が信長の加勢を請うている。
元春が因幡表へ打ち出てくれば備中の国へ攻め入ってくるだろうと、
信長からは、織田七兵衛尉・筒井順慶などが備前へ向かうと発表があったので、
皆自分の城に籠もって、下向してくる敵に備えていた。
そうしたわけで南方の兵も少なく、
「こんなわずかな兵で因幡へ向かうのもどうか。もう少し兵を集めてみよう」と、出足が遅れてしまった。

元春様は、「後陣の勢が何万騎駆けつけたとしても、この機を逃してしまえば意味がない」と、
同十月二十日、伯耆の八橋の城に着くと、すぐさま杉原盛重と合議して、運命の決戦をすべしと結論した。
そのとき、杉原がひどく風邪をこじらせてしまい、前後不覚の状態になったので、
嫡子の弥八郎元盛・次男又次郎景盛に、諸軍勢の兵糧などを預けた。
ここで北面の勢を列挙してみると、月山冨田城にを預かっている杉森少輔十郎元秋・毛利七郎兵衛元康、
熊谷伊豆守信直・嫡孫豊前守・益田越中守・三刀屋弾正左衛門尉が駆けつけている。
三沢も同十月初旬に八橋へと来ていたので、これだけでも六千余騎に及んでいた。

同三日、輝元様も出雲の冨田に着陣した。
隆景様もそれに続き、同五日に到着した。
輝元様は「急いで伯耆に向かって、元春を力づけよう」と提案したが、
隆景が「もう少しお待ちください」と言って冨田を出ようとしなかった。

元春父子は鳥取がいよいよ難局に陥っていると報告を受けると、同十五日に八橋を出立しようとしていたが、
右馬頭輝元様・左衛門佐隆景から使者が来て、
「そんな少人数で因幡へと向かっても、物の役にも立たないでしょうから、もう少しだけ待ってください」
と言い送ってきた。

それで八橋に控えていたものの、「鳥取はすでに兵糧が尽きて近日中に落城しそうだ」と聞こえてくる。
こうなると、兵が集まるのをただ待っていても意味がないので、
同二十五日、伯耆の馬野山へと陣を移し、同二十六日、大崎あたりへまた陣を移そうとしているところに、
鳥取・丸山はつい一昨日落城し、式部少輔などが切腹したとの報告がもたらされた。

元春様はこれを聞くと、「それなら因幡へ攻め上って十死一生の合戦を遂げ、
式部少輔(吉川経家)の孝養にするぞ」と、すぐにでも攻め上ろうとした。
するとまた、「秀吉が南条に後押しをして、近日中に伯耆へ攻め入り、
八橋の城を攻め落として出雲の冨田まで攻め取ってやろうとしています」と櫛の歯を引くように注進がある。
元春様父子三人は、「ではここで秀吉を待ち受けて一戦してやろう」と、
そのまま馬野山に陣を据えていた。

さて羽柴筑前守は、鳥取・丸山の両城を攻め落とすと、ひとまず兵を引き上げて、
翌年にまた伯耆の八橋の城へ攻めかけようと考えていた。
これを聞いた蜂須賀彦右衛門(正勝)の嫡子、阿波守家政は、
「南条兄弟の城へ、この兵たちに兵糧を持たせて入れさせてください。
兵糧が尽きてから城を落とされたとしても、その城の者たちは二度と味方にはなりません」と大いに諫めた。
秀吉も、「確かにそうだ」と、同二十七日に馬野山に上り、羽衣石の続きの高山に上った。
以前から秀吉の勢は八万騎とも六万騎とも聞いていたが、そのとき打ち出てきた勢は
四万と四、五千もあろうかと思えた。

元春・元長・経言の父子三人は、わずか六千余騎で馬野山に在陣していた。
ここで敵陣を高山の頂上に引き受けて、味方の陣は平山で何の足がかりもなく、
左側には湖水が満ち溢れ、満々と波を打地寄せる湖が五百里先まで続いている。
右は崖に岩がガツガツとせり出し、地は崩れ山はひしゃげて、万八千丈の天台を掌様にしている。

後ろは橋津川という逆さに折れ曲がった川が波濤を巻き上げており、渡るには危険すぎる。
橋が一つしかかかっていないので往復もしようがなく、
敵がもしあの山の上から真っ逆さまに攻め下ってくれば、いかに生死を騎にしない芸陽勢であっても、
敵の大軍が地の利を得てしまえば、ひとたまりもなく左側の湖水や後ろの川に追い立てられてしまうだろう。

一人も逃れられずに溺死してしまうかもしれないと思うと、いかに大勇将と名高き元春様父子といえども、
今夜一夜も堪えてはいられないように見えた。
京の兵たちは、「吉川よ、今夜は生き永らえさせてやる。
夜が明ければ一文字に切ってかかり、分捕り高名してやるぞ」と、はやる心を抑えきれずにいた。


以上、テキトー訳。続く。

あああああああしょっぱなから鬱展開だったよー!
読んでる途中で涙と鼻水が止まらなくなってどうしようかと思った。
もうね、「式部少輔の孝養のために一戦するぞ」ってね、
その元春の言葉だけでぶわっと……

経家というと、元長の深い想いが赤裸々につづられた書状が残っているから、
どうしても経家切腹後の元長の心情に気持ちが行ってしまうけれど、
元春もつらいよね。経家のことは、嫡男のそばで将来の側近として育んできたんだろうに、
十分な兵糧を送ることもできず、後詰も間に合わず、若い命を散らせてしまった。
窮地の鳥取に経家を送り込んだのも、信頼の現われだったろうと思うんだ。
元長もつらかったろうけど、元春の心情を思うと、かなりつらいね。

そして今度は自分たちが窮地。
これをどうやって切り開くのか、次回に期待だな。
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