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2012-04-30

毛利勢の盛り返し?

ぷぇ。母の誕生日祝いに実家行ってきたぜ。
父の退職も祝わなきゃならんのだが、あの人欲しい物言わなすぎてこまる。

さて久方ぶりの陰徳記。
だいたいの流れは、毛利VS織田、鳥取が落ちて馬野山での睨み合いも終わったあたりだね。


因州大崎の城、そのほか荒神山以下没落のこと

翌天正十年のこと。去年は羽柴秀吉が因幡の国鳥取・丸山の両城を攻め落としている。
吉川元春・元長は、この遺恨を晴らすために、敵城の一、二ヶ所も攻め破ろうと考えていたが、
早十二月に至って大雪が降ってきたので、自由に身動きが取れなくなった。
明くる春を待って因幡へと発向しようと、はやる心を抑えているうちに、その年も暮れて天正十年になった。

今年は例年より暖かく、正月の中旬には雪が消えたので、
まず冨田あたりまで打ち出で、そこから因幡に向かおうと、
正月十七日に芸州を出発し、同二十五日には出雲の国の冨田に着いた。
同二月初旬、伯耆の八橋の城に着陣すると、杉原兄弟(元盛・景盛)が先陣に進み、
因幡へと出張りして、手始めに大崎の城を攻めようと、その表へと旅立った。
しかし鳥取城には木下備中守をはじめ、宮部善乗坊など、但馬には神子田・尾藤などが在陣していたので、
もしこの者たちが後詰に来た場合に備え、
熊谷豊前守・益田越中守・三沢摂津守・三刀屋弾正左衛門・湯佐渡守・
天野新兵衛尉などが三千余騎を率い、分かれて陣を取った。

大崎へは先陣は杉原弥八郎元盛・同又次郎景盛、
そのほか佐波越後守・富永三郎左衛門・周布十兵衛尉・津野駿河守など四千騎が馳せ向かった。
城中には、木下備中守から差し籠められている木下民部大輔、
そのほか因幡の国人の山崎・村越・蓑部・笹塚などという者たちが八百の兵とともに立て籠もっている。

同年二月十四日、杉原兄弟は、
「父の盛重は最期のとき、因幡で敵城の二、三ヶ所も切り崩して孝養とせよ、
と重ね重ね言っていたではないか。いざこの城を、他人の手は借りずに、我らだけで切り崩そう」と決心した。
その夜が明けるころ、手勢一千五百余騎で取手の丸に無二に切って入る。
足立治兵衛尉・安原民部が一番を争い、兵へ盛り上がるのを見ると、皆遅れるものかと攻め入っていく。
城中では思いも寄らぬときだったので、慌てふためいて二の丸へと逃げ込み、
杉原はここにも続いて攻め入った。

他の軍勢は「やれ、杉原に出し抜かれてしまった。これは口惜しい」と、取るものもとりあえず攻め上る。
城中では身命を捨てて防戦したけれども、多勢に無勢でかなうはずもなく、
皆あちらこちらで討たれていった。
木下民部は、杉原の郎党の三吉徳兵衛尉が討ち果たした。
その日取った首は四百六十ほどになった。

元盛・景盛は急いで元春の本陣に駆けつけ、
「今朝は下知のないまま城に攻め込みましたこと、二人の罪科は逃れられぬものと思っております。
しかし父盛重が死に際にこう言ったのです。
『私は忠興の第四番目の家老だったのに、元春公の御憐憫によって杉原家を相続できたのだ。
それなのに生きている間にたいした戦功も立てられず、
とりわけ京芸の合戦に勝負をつけるときが近々やってくるだろうから、
このときに身命をなげうって御厚恩に報いようと思っていたのに、不幸にももう長く生きられそうにない。
お前たち兄弟は、私の供養のために、敵城の二、三ヶ所を自分たちだけで攻め破り、孝養にしてくれ。
仏を供えたり僧に法要などやらせなくていい』
父がこう申し置きましたので、それに従ってこのようなことをしでかしました」と平伏して言った。

元春が、「今回の武勇は言葉では表現できない。父の盛重が生き返ったのかと思うほどだった。
しかしながら、今後は、こんな無茶な働きをするものではないぞ」と制すると、
兄弟は、「今回のことでは、父の遺言を守ろうとしたこととはいえ、罪科は軽いものではないでしょうに、
どうしてこれから、御下知のないまま、自分勝手な挙動などいたしましょうか。
今回軍法に背いた罪科を免じていただけて、実にありがたく存じます」と言って退出した。

元春・元長は、「軍法に背いたことはいけないことだが、
去年鳥取・丸山が落城してから、諸軍士は意気消沈していたのに、
元盛・景盛が勇猛な働きを見せ、兵たちの勇気を励ました」と、かえって兄弟を賞賛した。

同二十日、元春父子三人は七千余騎で荒神山へと発向した。
敵はその夜城を空けて退却したが、それを追いかけて三十余人討ち取り、
そのまま鳥取の山下へと押し寄せて、在家をことごとく焼き払った。
木下は「こうなれば打ち出して一戦するしかない」と勇んだが、
手勢が多くないので、仕方なく城に籠もって守りに徹した。
それから吉岡の城を攻めようと打ち出していくと、
敵はわずか二百人ばかりが籠もっているだけだったので、ひとたまりもなく退却していった。

それからは手近な城の麓に押し寄せ、焼き討ちをしたり一揆勢を数百人切り捨てた。
その後大崎の城まで戻って、どうにか鳥取を攻め破ろうと軍略をめぐらしたが、
なかなかの名城なので力攻めにしても落としがたいということになって、そのまましばらくそこに逗留した。

木下備中守がこうした出来事を羽柴秀吉に報告すると、秀吉は、
「この夏には備中口へと発向するので、因幡表は鳥取・私部などを敵に攻め破られないように守り、
打って出て戦おうなどと考えるな。
わしが備中へ下向すれば、隆景一人で後詰はできないだろうから、
元春もそのあたりを捨てて備中へ出てくるだろう。
そうでなければ、わしが備中へ攻め入り数々の城を落としたと噂にでも聞いて、
その表を捨てて芸州に逃げ帰り、自分の城を落とされないようにと、
堀を深くし、兵をつけて身構えるだけだろう。

この秀吉はこの夏中に備中を切り取り、備後から攻め入って、芸州を陥落させてみせる。
当年の内には毛利三家を成敗してやる」と返事をした。
但馬の山名宗仙・垣屋駿河守・増屋隠岐守、そのほか因幡・但馬両国の者たち七千余騎は、
秀吉の出張りを待ち受け、先陣に進もうと、但馬の国の竹田あたりに集まってきていたが、
この返事を聞いて皆自分たちの城へと帰っていった。

元春父子も伯耆の八橋まで引き揚げて、
「再び軍勢を催して私部を乗っ取ろう。
そうすれば秀吉は因幡へとやってくるだろうから、その地で一戦しよう。
せめて味方が一万騎もなくては、三、四万の播磨勢と対陣もしづらい」と、
出雲・伯耆・石見・安芸の者たちに出兵を促した。


以上、テキトー訳。

杉原兄弟かっこいいな。
先にこの兄弟の末路の話を読んでしまったから、なんとなく触れずにきたけど。
うん、こういう話を知ってからだと、杉原兄弟の逸話も切なさ倍増だな。

さて、連休は実家に帰りつつ、本を読んだり資料を漁ったりもしてました。
いま興味があるのが当時の建築物だとか生活用品なので、だいたいそのへん。
あと石見吉川(鳥取で自害した経家の系譜)あたりをちょこちょこと。
次の連休あたりには気がついたこととかまとめられるといいな。

陰徳記はしばらく惰性で続きを読む予定。
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