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2012-05-03

この元春だけは

今日は雨のなか、佐倉の国立歴史民俗博物館に行ってきたよ。
念願の「洛中洛外図屏風と風俗画展」見てきた。
お子様が多かったよ……慣れぬorz
そして企画展より常設展示のほうが面白かった。
また行きたいな。今度は佐倉城跡見学もしたい。

さて陰徳記、今回はいよいよ高松城の戦いに突入!


高松の城を取り囲むこと(上)

羽柴秀吉は高松の上龍王山へ総勢を上げ、八万余騎の軍勢を分けて、高松の城を十重二十重に取り囲んだ。
城中にも雑兵たちが五千あまり籠もっていたので、敵がかかってきたら万死一生の合戦をしようと、
城の外に出て鉄砲を頬に構え、足軽を出して敵を招いたけれども、
秀吉が堅く制しており、合戦にはならなかった。
この城は、人も馬も通りづらいほどの深い田や、底があるかどうかもわからない水に満ちた池に囲まれている。
地形は厳しく兵は意気軒昂なので、力攻めにしてもなかなか落ちるものではないだろうから、
秀吉はしばらくの間竜王山に陣を張って、この城をどう落とすか、策を練っていた。

秀吉は同(天正十年)五月七日、蛙ガ鼻へ陣を移すと、翌日の八日から、
広さ三十間・長さ二十一里あまりに及ぶ堤を築き、兄部川を引き込んだ。
水たたきの方には大竹を割って当て、大盤石を積み上げた。
たちまち水がたまって、君山春水の眺望もかくや、というほどになっていった。
いつでも水が洋々と流れている兄部川の流れを引き込んでいる上に、
折りしも五月半ばで晴れ間もなく、雨ばかり降って谷の水は増す一方だ。
高松の民家もすべて水底に沈み、植え並べた木すらも波が越えて、魚も梢に上る。
裾野の水はたちまちのうちに峰まで平らに満ち、隠れ住める場所もないので、兎も波の上を走る有様で、
「緑樹陰沈み、月海上に浮かぶ」という昔の詞が思い出されて、
修羅に直面したような気分になった城中の人々の心を慰めるよすがとなった。

秀吉は大船三艘を担ぎ入れて、小西弥九郎・浅野や兵衛尉を警護大将として、
台無などの大筒を間断なく放ちかけ、昼夜の境もなく、喚き叫んで攻め寄せる。
主客相打って、山川は震眩した。声が河川を裂き、勢いは雷電を崩すかのようだった。
それでなくても真っ暗で、一寸先も見えないような皐月闇だというのに、
雲は地に下ってきて、その色も真っ黒でほとんど何も見えなくなった。
ただ入相の鐘が夕刻を告げ、鶏の声で暁を知るばかりで、
生きながらにして長夜の闇に迷い、修羅道の苦しみを身に受けているような気分になって、
ずいぶんひどい様子だった。

清水は日ごろから勇気・智謀が人より優れていた者なので、
高松の町中にいた紺屋を点検して紺板を集めると小舟を三艘作って、たびたび打ち出ては戦った。

さて高松の城が難局に直面しているとの注進が届くと、隆景は大いに驚いて、輝元様にこのことを報告した。
そして元春にも「備中表へ急ぎ出てきてほしい」と言い送った。
元春・元長はそのころは伯耆にいて、「因幡へと発向して敵城を攻め落とし、
鳥取を奪われた遺恨を散らそう」と言って、その準備を進めていた。
因幡の国人のなかには味方に志を通じる者が多数いて、
「合図を定めて鳥取の城に火をつけよう」と言っていた。
また鹿野の一族、森下・中村・塩冶・佐々木・奈佐の一族たちも国中にいたので、
皆味方として心を深く合わせてきて、元春父子が因幡へとやってくれば、
あるいは裏切り、または城へ引き入れようと約束していた。
だからこそ因幡へと発向することを決めたのに、隆景から高松表への後詰をしてほしいと言ってきたので、
「それなら備中で秀吉と合戦しよう。秀吉が備中で敗軍すれば、因幡の敵城は攻めずとも落ちる。
大事の前に小事にこだわるのは謀をしていないようなものだ」と、出雲・伯耆・石見三国の兵を整えた。

しかし、三ヶ国の国人たちは皆同じように言うのだった。
「隆景は自分の支配下の城に北前の兵の協力を受けていますし、また上月に元春を引き出しましたが、
去年伯耆の馬野山へ秀吉が出張りしてきたときは、特に元春公その人が危機に直面しているというのに、
出雲の冨田まで出てきておきながら、馬野山にはいらっしゃいませんでした。
自分が難儀しているときには雲伯石の者たちを呼び出し、また馬野山のような十死一生のところへは、
ご自身ではいらっしゃいません。
人を、ややもすれば敵の檻に放り込むようなことをしておいて、
自分は危ないことを嫌っていらっしゃいます。
なので、私たちは皆、今回高松表へ出て行くことはできません。
面々の受口のことでしょうから、隆景は高松表で秀吉と対陣すればいいんです。
皆は元春のお供をして因幡へと攻め入り、鳥取は名城なので攻めても容易には落ちないでしょうから、
まず私部・鬼ヶ城などを攻め破り、鳥取を奪われた鬱憤を晴らしましょう」

元春様はこれを聞くと、
「皆の言うこともわかるが、この元春が思うには、隆景がどうして元春を捨て、
自分一人だけが助かるようなことをするだろうか。
馬野山のときに冨田に控えて出てこなかったことも、きっと理由があるのだろう。
それを尋ねていないから理由は知らないが、皆が何と言おうとも、
この元春だけは、毛利家のために身命を捨てようと、無二に覚悟しているのだ。
どんなに強い敵にも、難しい局面にも、千度でも百度でも馳せ向かうつもりだ。
人々は同心してくれなくても、私はただ一人備中へと上って、安危を隆景と一緒にしようと思う」と言った。

雲伯石の国人たちは、この一言の道理に感服し、
「先ほどは言い過ぎました。そういうことならお供いたします」と言った。
三沢三郎左衛門為清・その子息の摂津守為虎・三刀屋弾正左衛門などをはじめとして、
出雲・石見の者たちはすべて連れて行ったが、
杉原兄弟・山田出雲守・小森和泉守・河口刑部少輔・福頼刑部少輔・小鴨四郎次郎、
そのほか伯耆の者たちは、南条の押さえとして、また因幡口の押さえのため、各所の城に残し置いた。
高松へと馳せ向かう軍兵は一万騎以上にはならなかった。

隆景も、備中半国・美作半国の兵は、境目の城に籠め置いていたので、一人も出すわけにはいかない。
長門の兵は半分以上を大友の押さえとして、下関などの城に残し置いている。
周防の兵も、山口の鵠の峯・右田ヶ嶽・冨田の若山、そのほか南表の海辺の城々は、
これも大友の押さえのために動けずに、皆自分の城に籠もっていた。
隆景が今回催した軍兵は、備後・安芸はすべて催促して、周防の三分の二、
長門の半ヶ国の勢だったので、軍勢が従来よりも少なくなった。

こうして元春父子三人と隆景が合流すると、合計で三万余騎になり、
岩崎の庇山あたりへと打ち出して陣を据える。
右馬頭輝元様は、三里隔てて、その国の猿懸の城に控えていた。
これは、秀吉が八万有余の勢を率いているのに対して、
輝元が自ら出てきたとしても、現在の勢に千か二千が増えるだけなので、
敵は「毛利勢はたったこれだけか」と思って、さらに勇気を励ますだろうと考えた上での処置だ。
まだ輝元が猿懸に控えていて、もし味方が劣勢になれば後ろから大軍を率いて打ち出してくるぞと、
しばらくは敵の勇気を抑えるために後陣に控えている。
そうすれば敵は用心深くして、また味方も、もし敵がさらに増えて大勢になったとしても、
輝元様が防長などに残っている兵を動員して駆けつけてくれるだろうと、心強く思うはずだ。
その謀略のために、こうして後陣に控えていた。


以上、テキトー訳。続く。

なんつーか、水攻めされてんのに「魚が梢に上り兎が波の上を走る」とか、とっても詩的。
でも水攻めってすごいよな、発想が。この時代の土木技術でダム作ってるんだもんな。
ホント秀吉の発想と土木技術の活用には舌を巻くわ。

でも今回の私の頭が煮えた部分はここではなく、元春の台詞な。
雲伯石の国人たちの隆景disにも滾る!
国人「いやです! だってあの人、危ないところは人任せにして、
   こっちが危なくても助けてくれないじゃないですか!
   秀吉とはあの人が自分で対陣すればいいんですよ!
   私たちは元春と一緒に因幡を攻略するんですー>皿<=3」
元春「いやアイツは兄貴見捨てるようなやつじゃないって。何か理由があったんだよ。
   俺は何があっても毛利に尽くすと決めたから、たった一人でも高松に行くよ」
国人「それなら私たちもついていきますー>A<ノ」

もうな、このやりとり、大好き! 元春かっこいいぃぃぃぃぃ!!!
国人衆からの好かれっぷりがもうステキ。ステキすぎる。
アニキと呼んでもいいですか……

あと輝ちゃんは臆病で出てこないんじゃなくて、総兵数を多く見せかけるための謀略なんだからな!
そこんとこ勘違いすんなよな>A<ノ

てなわけで次回も続き。
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