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2012-05-06

兄弟喧嘩? いいえケフィ(ry

毎日書くって宣戦したそばから一日空けちゃった。てへ。
西国から毛利展に来てた方々とゆっくりお話できて楽しかったわー(*´∇`*)
毛利展(二回目)も新たな発見が多くて楽しかったわ~(*´∇`*)
まあ昨日更新しなかったのは、その方々と別れてから
いい気分になってたついでに地元で飲んでたからなんだけどねw

さてさて陰徳記、高松城が水攻めにされつつ、周辺の城で攻防が続いてますぞ。


賀茂の城合戦のこと(上)

賀茂の城には、甲(つめ)の丸には桂民部大輔広繁・東の丸にはこの国の住人の生石(おいし)、
西の丸には山之上兵庫を差し込めていた。
]生石の何某はたちまち心変わりして秀吉へと内通し、
備前の宇喜多の勢を城中へ引き入れようと、密かに約束を交わしていた。

生石は、このことを他の人は知りもしないと思ったため、
詰めの丸に行って桂民部に会い、城を堅く守備する相談でもするふりをして、
城中の様子をうかがおうと考えていた。
いざ行ってみると、桂の家人たちが夜回りのために二、三人連れ立って歩くのに行き会った。
生石が「民部殿にご相談したきことがあって参ったのだ。門を開けてくだされ」と申し入れると、
民部の家人たちは特に意味もなく「門番はいつも怠慢だ」としたたかに罵った。
生石は、「さては私の陰謀を知っているからこのように用心しているのか」と深読みして、
急ぎ走り帰り、夜中に詰めの丸の堀際に塀をつけ、掻楯を立て並べるなど動き出した。

民部はこれを見て、「生石の振る舞いはどういうことだ。
敵に対してこそ幾重にも構えるべきであるのに、本城に向けて用心を重ねるのは、
きっと逆心を抱いているに違いない」と、
すぐに甲の丸の塀の裏に米俵を積み重ね、所々に楯を掻き付けて、そ知らぬ顔を決め込んだ。

その夜の明け方に、生石が備前勢を二の丸へと引き入れ、甲の城に向かって鉄砲を撃ちかけ、
鬨の声を上げて攻めかけた(五月二日)。
桂は兼ねてから予想していたことなので、矢間を開けて散々に射る。
夜も明けゆくころに見渡してみると、羽柴筑前守の陣取っている蛙ヶ鼻から、
敵勢が引きもきらず押し寄せていた。
群れをなす敵兵たちは、備後勢の後に続いて、入れ替わり立ち代り賀茂の城へと攻め入ってきた。

元春・隆景は、岩崎からこれを見ていた。
元春が「民部は二の丸へと火矢を放てばいいのに。
茅葺きの小屋が多く立ち並んでいるのだから、すぐに火が移るだろう。
その煙の中に突いて出れば、勝利を得られるのに」と言った。

隆景は、「仰るとおり焼きたてれば勝利は得られよう。その程度の謀は民部にもできる。
けれども、孫氏も『火を発するに時あり、火を起こすに日あり、天地の乾くときである』と言っている。
この四、五日は晴天続きでいい陽気なので、その時を得たとはいっても、
『火を風上に発すれば風下より攻めることなし』ということだろう。
今は風が甲の城へと吹きかかっている。だから民部は火をつけないのだ。
今にも風向きが変われば、民部が火攻めをするだろう」と答えた。

桂には天の加護があったのか、たちまち風向きが変わって、敵の方へと吹きかかった。
「ここだ」と見ていると、甲の城から火矢が射出すされた。
案の定、東の丸に作り並べられた茅葺き小屋に、カッと燃えつく。
これを見て、下から二人がスラスラと屋上に上がり、火を打ち消そうとしているところを、
民部の弟の桂孫次郎が鉄砲で撃ち落とした。
これに恐怖して、その後は家の上に上る者はなく、炎はたちまち空中に迸って、煙が寄せ手の上を覆った。

民部大輔はこれに機を得て、「者ども、ここで叩き潰すぞ」と、五百余騎を率いて、
敵の猛勢に少しも臆せずに、まっすぐに突きかかった。
寄せ手は煙にむせて前後もわからなくなっている頃合に、桂に手厳しく攻め込まれて、
一戦のうちに戦い負け、東の丸に留まることができずに山下へとサッと引いた。
けれども敵は大勢だったので、蛙ヶ鼻から推し続いて寄せてくる兵たちは、
それに入れ替わって攻め入ろうとする。

元春・隆景は、賀茂の城が危ないと見ると、「後詰せよ」と、元長・経言を大将に、
一万余騎を賀茂の城まで七、八町というところまで打ち出した。
元春・隆景も、秀吉が本陣から加勢を出して今日一戦に及ぶようなら、
これを勝敗を決める一戦にしようと決定して、廂山の総陣も敵の出方によっていつでも出られるように、
前後の備えを堅く制し置き、「早く敵が出てこないものか」と待ちかけていた。

一万の軍勢が次々と賀茂の城へと駆けつけるのを見て、
敵勢が備えを変えたのだから、そこは勇将の名を得た秀吉なのだから、
総軍は残らず出合い、きっと乾坤も倒覆するような大合戦が始まるかに思えた。
しかし秀吉の本陣から武者が二騎やってきて下知をなし、
京勢は残らず引き揚げて見方の陣に入っていってしまった。

民部の手の者には、井上新五左衛門・内藤七郎左衛門など数十人が討ち死にし、手傷を負った者も多くいた。
敵方にも手負い・死人が数百人出たと聞いている。

また庭瀬の城には井上豊後守が三百、郷人の原が五百、合わせて八百ばかりで立て籠もっていた。
この城は、岡山方面は沼なのですれ違える場所もない。
また蛙ヶ鼻方面も隘路なので、敵が大勢で懸かることができなかった。
足軽をけしかけて城の強弱を試してみると、井上はなかなかの勇士だったので、毎度自ら下知をなし、
足軽競り合いに勝ってきた。

元春・隆景からも、「庭瀬は敵方に突出した城なので、最後まで守りきることは難しいかもしれない。
そのときは空け退け」と言われていたが、豊後守は「かしこまりました」とは答えながらも、
ちっとも退却しようとせず、両陣が和睦した後までこの城を守りきった。


以上、テキトー訳。続く。

兄弟会話がギスギスしてて楽しい……

春「火ぃつけりゃいいのに(おまえの部下、そんなこともわかんないの)w」
景「民部にだってそれくらいの知恵はありますけどね。時を見てるんですよ。
  風向きが甲の城に向いてるでしょ。
  今火つけるとか自殺行為だし(兄さん、そんなこともわかんないの)www」

それでもいよいよ賀茂の城が危ないってときは、心合わせて「救援に行くぞ」って。
この兄弟め。仲良く喧嘩してるだけなんだなそうなんだな。
元長・経言、待ってたよー! ところで元棟はどこ行きましたかね?

桂民部は小憎いねぇ。気付いてて知らん顔。
でも裏切りと気がついた時点でさっさと始末してれば楽だったんじゃないの、と思わなくもない。
でもそうよ、秀吉本隊を炙り出すための罠だったんだわそうに違いない!
ところで桂民部って隆景の部下であってるのかな?
本家の人? 桂姓は吉川にもいるんだよなー。

井上さんもかっけーな。
「無理そうだったら城空けて戻っておいで」って言われてるのに、
和睦の後まで持ちこたえるとか……でもいるよね、こういう人!
律儀で意地っ張りで。もー、家臣団まじで可愛いな!

そんなわけで次も続きだす~。
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毛利展いいな~。
私は大徳寺黄梅院(毛利家菩提寺)に行ってきました。
まるでへうげものの世界に迷い込んだようなこった庭園で素晴らしかった。
景様寄進の庫厨もばっちり見てきました。
一つ不満だったのは、パンフに毛利家の名前がまったく載ってなかった事と近くにあるだろう元春兄ちゃんの墓を受付に訪ねてもシラネって反応だった事です。
悲しいけどこれが世間の反応か。

ところで兄弟ネタが登場したのでといきん様に質問です。
毛利ファンの中では有名な『輝元公上洛日記』で、広家は両川の一角として様付で表されていたのですが、元清秀元父子は他の家臣団と同じ呼び捨ての扱いでした。
つまり自分は本来広家のほうが当主の座に近い存在だったのではないかと思っています。
それがなぜ秀元が後継になったのか、やはり隆景の意思が働いてるのは確かなのでしょう。
単に聡明さや器量が優ると思ったからなのか(本家にしたことはアレですが、外交手腕は確かかと。)。
それとも実子のいない分仲の良い弟達を使って山陽衆の権益を保護しようと努めたのか。
それとも吉川との間に深刻な対立があったのか。
といきん様はその点どうお思いですか?
この件に関しては隆景にご遠慮なく。

Re: タイトルなし

おお、大徳寺うらやましいです~! 西に飛んでゆきたい!

ご質問は、広家が輝元の養子になる可能性があったのでは、ということでしょうか。
広家は、輝元の継嗣問題が持ち上がる前に吉川家を継いでいるので、私は考えたこともありませんでした。
輝元上洛のころにはすでに吉川の当主ですから、
「様」づけ表記されているのも、両川の一翼「吉川家当主」としてだと思います。
広家が吉川家を相続することに関しては、すでに秀吉にも披露を済ませたうえで認められていますから、
それを今さら毛利宗家に引き入れるなどして、おいそれと覆すわけにはいかないでしょう。
なぜ秀元だったのかということについては、隆景が御しやすい人選をしているとは思いますが、
人物の器量才覚を比較するにしても、その比較対象として広家という選択肢はなかったのではないでしょうか。
また毛利宗家は政治面で譜代家臣・国人衆との合議制の性格が強いので、
後継者自身の器量才覚はそれほど問題にならないと思います。
それに、秀元は養子縁組の際「実子が生まれたら身を引く」旨の誓紙を出していますので、
これは当初から廃嫡を視野に入れた縁組で、いざというときゴネさせないためにも、
隆景の影響下にある人物の方が好ましかったのでは。
大事なのは、宗家に養子に入ってもおかしくない血筋の持ち主で、
輝元が養育していても対外的におかしくない年齢で……
と考えていくと、秀元が丁度よかっただけなんだと考えています。あくまで推論です。

吉川家中と隆景の対立については、お互いうっとおしく思うことはあったかと思いますが、
あの時代に武力衝突に発展してない&誰かが仲裁に入った形跡が見当たらないので、
まったく深刻ではないと思います。
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