FC2ブログ
2012-05-16

光秀の立身

さてさて、備中高松城の和睦も済んで、今回の章からは信長関連のようだ。
なんとな~くな俗説しか知らんのだけどまあいいか。このまま読んでいきます。

光秀なぁ……イメージとしては某BLマンガ家さんの描く、お蘭ちゃん(と信長)にイビられるキンカン頭か、
某ゲーム(やったことはない)の「本能寺の変態」くらいしかゲフンゲフン


光秀、信長を弑すること(1)

惟任日向守光秀はもともと、細川兵部大輔藤孝の足軽の者だった。
若いときは身分卑しく、まるで茫丹のように貧しかったが、
器量はまるで項羽のようで、いつも人にへつらうこともなく、
ほんの少しの蓄えさえなくても、「おれは大金持ちだ」などと胸を張るような男だった。

あるとき一組の足軽たちが集まって、
「これからは持ち回りで肴を振舞う『汁事』というのを始めてみようじゃないか。
食事を饗応できればいいのだが、肴を調達する銭さえ、皆の収入ではどうにもならんのだから、
食事は皆で持ち寄ればよい。汁は用意しよう」と誰かが言い出すと、皆「それはいい」と賛同した。
そして順番に、自分の身代で無理のない肴などを揃えて汁事を催していった。
惟任は、そのときはまだ明智という名字も持っていなかったが、
生まれつき活気第一の者だったので、人より上座に座り、魚の骨を噛み鳴らし、
酒を大盃に何杯も飲んで、声高に話をし、手や足まで動かして話し散らし、
宴席のたびに自分一人だけあれこれと我儘に振舞った。
こうして人のところに行くのにも、米の一粒さえ持っていけなかったので、
ましてや人を招くことなどできるわけがない。

惟任は妻に向かって、
「こんなことがあって、人のところに行ったときは酒肴を好き勝手に飲み食いしているのに、
自分のところに招くことができないなどと言えるわけがない。
だからと言って、銭など一文も蓄えていないのだから、饗応などできない。
こうなったら、足に任せてどこかに行ってしまおうか、と思う。
どんなに貧しくとも、人にもてなされておきながら、
自分は知らぬ顔をしていては、人に合わせる顔がないのだ。
武器を取っても弓を引いても、仲間たちには勝るとも劣らないというのに、
貧しさほどつらいものはない」と、さも恐ろしげなその目から、涙をハラハラとこぼした。

女房はこれを見て、「ご安心なさいませ。私が何とかして、饗膳を一通り出して見せましょう」と言った。
惟任は「それでは和御前(そなた)に何もかも任せよう。万事よろしく頼んだぞ」とは言ったものの、
女の身では饗応できるほどの手配などできるはずがなかった。

さて、兼ねてから約束していた日になると、惟任は仲間たちを連れてやってきた。
惟任の女房は酒を買い、肴を揃えてもてなしたので、仲間たちは
「今日の会はこれほど酒肴が十分あって、美酒・嘉肴の数々がある。
子供たちも出てきて、一つ酒でも飲んでくれ」などと言って、終夜代わる代わる酌をし、
謡い舞って遊び戯れ、東方の空が白々と明けてゆくことにも気付かないほどだった。

惟任はこうしてもてなしを済ませたのだが、女房がどうやって肴を揃えてきたのかわからない。
世にも不思議に思っていたのだが、二、三日経って夫婦で浴室に入って女房の洗髪の様子を見ると、
外側には髪があるとはいっても、内側はすべて切り落とされていた。
惟任は「これはどうしたことだ」と尋ねた。
女房は、「あなたが『客を連れていらしても、もてなしようがない。
これからどこかへ行ってしまおうか』などと仰るものですから、
私はあなたの心中が察せられて、どうにかして饗応を成し遂げなければと思いました。
けれども困窮して鏡の一つも身の回りにありませんので、特別何かできるわけでもありません。
考えてみると、私の黒髪は人よりも長いのです。
これを切って、かつらに仕立てて売り、過日の饗膳を取り揃えたのです」と答える。

惟任はこれを聞いて、「なんと、そのようなことをしたのか。
晋の陶侃の母もそんなことをしたという。
妹背の仲とは言いながら、この思いやには、どんなに報いても足りることがない」と喜んだという。

その後、将軍義昭卿の御座所の普請のとき、藤孝は惟任を普請の者たちの世話役として差し出した。
それなりの大将から出された世話役などというものは、
日暮れになると我先にと争って帰っていくものなのに、
この惟任は、出るときは人より先に出てきて、買えるときは人より後に残って、
材木の切れ端などをすべて拾い集めて帰っていく。
信長はこの様子をたびたび目にしていた。
「あやつは只者ではない」と思ったので、すぐに細川兵部太輔藤孝に譲らせて、まず歩行小姓に召し使った。
するとこの者は勇も諸人に優れ、智もまた普通の者とは違う。
あちこちの戦場で数知れず分捕り高名をなした。
信長は、あるいは千貫、または二千貫の加増を与えたが、それでも足りないと思ったのか、
江州志賀の郡で六万石を与えた。

光秀は、若いときとは打って変わって富栄えたので、
貧しかったときに髪を切って客をもてなしてくれた恩を返そうと思っていたのに、
その女房は間もなく死んでしまった。
そのとき、家之子郎党を呼び集めて、
「女房が死んだときには、夫は葬礼の行列に加わる習いはないとは言っても、私はとある思いがある。
私が身分卑しく貧しかったとき、これこれのことがあったのだ」と言って、
あのとき女房が髪を切ったことを語りだした。
「ここまで恩を蒙った妻なのだから、他の例に比べることなどできない」と、
棺に手をかけ、涙を拭いながらその亡骸を送ったという。

その後次々と忠戦を重ねていくと、恩賞もまた他よりも抜きん出て、丹後一国の主となった。
そのころ人々は口々に「柴田修理亮勝家は五万の将に向いている。
羽柴筑前守秀吉は三万の将、惟任日向守光秀は二万の将」などと言っていたそうだが、
目利きが違ったのか、勝家も秀吉に滅ぼされてしまった。
秀吉は日本の頂点に立つ武将となったばかりか、三韓さえも切り従えた。
この人はおそらく、人間ではあるまい。きっと神仏の化身なのだろうと思える。

さて、こうして信長に重恩を与えられた光秀だが、何の恨みがあったのか、急に謀反を企てたという。
その仔細を調べてみると、あるとき信長が森乱丸と二人きりでいたとき、
寵愛するあまりに数々の重宝をそれはたくさん取り出して弄んでいた。
「どうだ乱丸、もしこのなかにおまえの欲しいものがあれば掌に書いてみよ」と信長が言うと、
乱丸は「どれも望みのものではございません」と答えた。
信長は、「このほかにでも所望のものがあれば掌に書け。
私もまた手の裏に書いて、もし一致したなら望みのままにしよう」と言った。
乱丸は、「それなら仰せの通りにいたします」と答えて書いたが、
互いに手を開いて見せ合ってみると、割符を合わせたかのようにぴったりと合っていた。
信長は大笑いして、「私はおまえの心の中を、鏡に映したように知っているからこう書いたのだが、
さては察したことがぴたりと当たったな。
あと三年待てば、ゆくゆくはおまえの望みどおりにしてやろう」と言った。

乱丸の父、三左衛門尉(可成)は坂本を知行していたが、討ち死にした後、
嫡子の勝蔵(長可)もまだ幼少だったので、坂本の城は六万石とともに惟任に与えられた。
乱丸は、父の本領なのだからその地を知行したいと一途に望んでいたので、
信長もこれを知っていて、このように言ったのだという。

惟任は折りしもそのとき、座を隔てて眠っていたが、
このことを始めから終わりまで聞いていて、「さては乱丸め、わが所領を望んだな」と推察していたところ、
信長が「あと三年待て」と言ったのを聞いて、
「私の行く末も安心していられない。乱丸のせいで讒言を受けて殺されてしまうに違いない」と思ってから、
逆心が芽生えたのだという。

信長は、「乱丸の所望も大事だが、だからと言って大忠を尽くしてきた光秀を、
落ち度もないのに所領を改易するのもどうしたものか」と考えていたが、
名案を思いつき、光秀に「乱丸を婿に取れ」と命じた。
光秀は何を思ったのか、首を縦には振らなかった。
これで乱丸も光秀に対して恨みを抱き、どうにかして光秀を滅ぼそうと考えた。
信長もまた「私が命じたことに従わないとは、光秀め、不義の至りだ」と思ってしまった。
このときから、乱丸と惟任の仲が不和になり、光秀も「将来は身の大事に及ぶだろう」と予期した。


以上、テキトー訳。続きます。

うん、見事に俗説だね! ある意味安心した。
冷やかし気味に読んでいけそうwww
これはどこから引いてきた話なんだろうなぁ。
読んだことないけど、太閤記? それとも信長公記???

読んでて一番血圧上がったのは、光秀が女房とお風呂に入るシーンだね。
足軽の家にも浴室ってあるの? それとも共同なの?
ていうか夫婦で入るの??? というね。
あと「妻の葬列に夫は加わらない」ってとこ。そういう習俗あったんだ。

読んでて不思議だったのが、信長と乱丸がイチャコラしてるときに、
なぜ座を隔てて光秀が寝ているのかwww
夜伽のお役目? それは近習の仕事でない???
うーん、なんとも不思議。

てなわけで次回も続きだす。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

「月さびよ明智が妻の咄せむ」
逸話にすぎないとは思いますがひろ子さんの話は心にしみます。
光秀の前半生は細川幽斎の足軽だという記述になってるんですね。
出自はけっして卑しくはないはずなのですが、浪人生活が影響しているのでしょうか。
朝廷との交渉を努めたり、あの三歳様の舅になったりと、スマートなイメージがあるだけに違和感を感じます。
でも多聞院日記でも記述があるそうだから当時はそう見えていたのでしょうか。
混浴の件ですが、(飽くまで私の想像にすぎませんが)屋内の水場などで髪の手入れ中に光秀が入って来たという解説は出来ないでしょうか?
あの当時武士とはいえ貧しい夫婦だと水浴びや湯で体を拭うのがやっとではないかと思うのですが。
葬儀の慣習も不思議ですね。
一条天皇が定子の他界時に、火葬場に見送りに行けない事を悲しむ歌を読んだ事がありますが、一般人もダメだったのか。
穢れへの忌避の一種でしょうか。
色々と想像が膨らみます。

Re: タイトルなし

光秀に関してはほとんど調べていないんですが、前半生はなかなか謎のようですね。
奥さんの逸話といい、この人も興味深い人です。

陰徳記を読んでいて、たびたび興味を引かれるのが、当時の生活や風習などです。
湯や風呂しかり、葬式しかり。
持ち寄りのホームパーティーもやってたんですねw
他の章でも「いりこ酒」ってのが大流行したとか、鏡が財産としてみなされていたりとか、
女性が男性の家に通うことも珍しくなかったと思わせる描写があったりとか。
ふとしたところに小さな驚きと発見があって、新たな疑問が湧いてきては山積みになっていますw
こういう面でも、本を読むのって楽しいですね!
検索フォーム
カレンダー
06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
訪問者数