FC2ブログ
2012-07-01

九州発向!の前に

さてさて、立花城でゴタゴタがあったってことで、
その事件を追っていったら立花のことかどうかわかんないとかいうひどいオチだったわけだけど、
とりあえず立花城のゴタゴタが毛利・大友の戦争の引き金になったところまで読んだ。

ようやく九州に出陣するよー、と思ったら。


豊前の国三ツ嶽没落のこと(上)

こうして立花に不慮のことが起きて以来、大友金吾入道はその城(立花城)に数千の軍兵を籠め置き、
そのうえ戸次入道道雪・佐伯・清田などに二万余騎を差し添えて、宗像・高橋を攻めようとした。
以前から宗像重継(大宮司氏真)・高橋秋種(鑑種、宝満城主)は無二の毛利方だったので、
「彼らを救わなければ以後九州で味方につく者はいるまい。
また長野三郎左衛門(弘勝、三嶽城主)は寝返って馬之嶽の城に大友の兵を引き入れ、敵対を明白にした。
今後の見せしめのためにも、長野をすぐに攻め滅ぼさなければ」と、
元就様自身は吉田にいながら、九州へは吉川駿河守元春・その嫡子治部少輔元長と、
小早川左衛門佐隆景を大将として、数万騎を添えて豊前の国に渡海させた。

そうして元就様・輝元様は二手に分けて戦を進めた。
北西の方は元春、南前とそのほかの海辺は隆景である。中筋通の備中口は宍戸安芸守が担当する。
宍戸は、上古になぞらえれば、範頼・義経に遠江守義定が加わったようなものである。
頼朝はこの三将を重んじたが、世の人は範頼・義経の名ばかりを知る。
元就も中筋は婿の宍戸に担当させたが、たいていは元春・隆景を両手として使っている。
だからこそ大友金吾入道も、元就様との和睦の誓紙に「元就・元春・隆景」と三人の名を書いている。
また天正十年、羽柴秀吉が備中の高松で和平を交わしたときの神文にも「輝元・隆景・元春」と書いている。
その後秀吉が天下の軍事の権勢を手中にし、島津征伐のために九州に発向したときも、
毛利三家を九州に差し渡すと書いている書状が諸将に送られているが、
これにも皆「輝元・元春・隆景」のことが書かれている。
今ここでこのことを書き出しても意味のないことだが、最近は宍戸に肩入れしているのか、
または吉川・小早川に恨みを抱いているのか、どういう意図なのかわからないが、
毛利三家を「吉川・小早川・宍戸」と言う者が往々にしている。
しかし宍戸は元就様の婿だとはいっても、他家なのだから、
どうしてこれを毛利三家に含めることができようか。大いな誤りである。

そのころは、中国では「三殿」とも言った。
これは隆元様・元春・隆景兄弟三人のことを崇敬して、このように呼んだのである。
その後隆元が他界してからは、輝元様・元春・隆景を三殿と呼んだ。
元春・元長が逝去してからは、侍従広家を加えて三殿と言ったものだ。

元春・隆景に宍戸隆家が並び立つのであれば、備中高松の対陣のとき、
ちょうど隆家が任されていた国のことなので、秀吉が和睦の誓紙に隆家の名をも書き加えただろう。
しかし実際は元春・隆景とは雲泥の差があったために、和平を請うにしても、
安国寺を通して元春・隆景の二人に申し入れ、隆家には一言もなかった。
ましてや誓紙に書くわけがない。

だいたい備中一国の武士も皆が隆家に付き従ったわけではなく、小身の国侍五、六人が付いたに過ぎなかった。
備中でも出雲陣までは、三村家親のような大身の者は、人の風下に立つべきかどうかはさておき、
元就様から長左衛門太夫・香川左衛門尉の二人が検使として付け置かれていた。
その後猿懸の城には穂田元清が入り、隆景の手に付いた。
松山には天野中務少輔元明、譲葉には元春の老臣今田上野守が立て籠もったが、いずれも宍戸の手勢ではない。
また高松の清水長左衛門も隆景の手に属していたので、末近左衛門尉が検使につけられた。
そのほかのことをこまごまと述べていられない。杉原播磨守盛重は元春の手に属し、南条と並び立った。
南条には山田出雲守が付け置かれ、杉原には宍道五郎兵衛尉・川口刑部少輔が付けられ、
また南条が寝返った後は、山田出雲守・小森杢允などが付けられた。
国の小侍などを少々抱き込んでいるからといって、宍戸が元春・隆景と同じような者だったわけではない。
与力が付いた者が元春・隆景と肩を並べるというならば、杉原・南条もまた並び立つことになってしまう。

宍戸は、安芸の国ではなかなかの家である。とりわ元就様の婿なので、
他の家よりも大事にされて、隆家も勇が人より優れていたので、毛利家に対して戦功を立てている。
人々も、元春・隆景の次に隆家を重んじた。
その後元秋・元清などが成人すると、世の人々はこの二人を敬った。
元秋は智も勇も人より優れていたので、雖知苦斎(すいちくさい)道三(曲直瀬道三、正盛)が
洗合に下向してきたとき、養保の道や国民を撫育することを進言した一巻の書にも、
元就様・元春・隆景・元秋の四人の名を記している。
元清もまた智勇を兼ね備えていたので、備前の蜂浜合戦のときも、
将として宇喜多与太郎を討って大勝利を得た。元政・元康もまた文武に秀でた良将だった。
後にはこの人々の方が宍戸より世の人にもてはやされた。
それなのに元春・隆景と隆家を「三殿」だとか「毛利三家」などと言うのは、
東西をもわきまえず、黒と白の違いがわからないようなものである。

さて、元春・元長に従う人々は、熊谷伊豆守信直・嫡子兵庫助隆直・次男左馬助・
三男三須兵部少輔・四男熊谷右近太夫・己斐豊後守・香川左馬助、
石見からは益田越中守藤兼・佐波常陸守隆秀・同越後守秀貫・羽根弾正忠・冨永三郎左衛門尉・
都野駿河守・出羽元実・岡本大蔵太輔・周布・久利・小束・都路、
出雲からは三沢三郎左衛門為清・三刀屋弾正左衛門久扶・宍道遠江守・
米原平内兵衛尉・湯佐渡守・牛尾豊前守、
伯耆からは南条豊後守宗勝・杉原播磨守盛重・吉田肥前守・小鴨四郎次郎・福頼治部少輔など、
そのほかさまざまな者たちがいたが数え上げられない。
吉川の家之子郎党としては、宮庄次郎三郎元正・今田上野守・嫡子中務少輔・笠間刑部少輔・
吉川式部少輔・香川兵部太輔・粟屋三河守・桂大和守・山県日向守・同越前守・森脇和泉守・
境美作守・朝枝修理亮・市川式部丞など一万五千余騎が、
思い思いの家の紋、船印を飾り立てて海上に船を漕ぎ出した。

隆景に従う人々は、安芸の国からは平賀太郎左衛門尉隆祐・天野民部太輔・同中務少輔元明・
香川淡路守・同宗兵衛尉、石見からは小笠原長雄、
備後からは山内新左衛門・三吉式部少輔広隆・同新兵衛尉・宮次郎左衛門・高野山入道久意・
同五郎兵衛尉・久代修理亮・楢崎彦左衛門・同弾正忠・木梨治部少輔元経・
門田・池上・長大蔵左衛門・小寺佐渡守、
備中からは穂田庄部少輔元祐・田治部蔵人・同大蔵・志賀入道・上原右衛門太夫、
石川一党、細川一族などである。
小早川家の郎党では、乃美安芸守・梨羽中務・椋梨次郎左衛門・同平右衛門・草井式部少輔・
南兵庫助・小泉助兵衛尉・河井大炊助・末長七郎左衛門・井上又右衛門・豊嶋市助・
粟屋雅楽允・同四郎兵衛尉・桂宮内少輔、裳懸弥左衛門・鵜飼新右衛門など一万七千余騎となった。
宍戸安芸守には備中の者たちが少々従った。

吉田(元就)の旗本には、福原左近允貞俊・桂能登守・同左衛門太夫・口羽刑部太夫などが、
いずれも一組を率いている。
そのほか児玉・赤川・渡辺・坂、防長の武士では杉次郎左衛門・杉森下野守・
仁保右衛門太夫・三浦・吉田・朝倉、長門の安武郡からは吉見正頼、
そのほかさまざまな者たちが二万余騎、合計すると総勢五万余騎に上った。

船手は児玉内蔵丞・粟屋内蔵丞・浦兵部丞・飯田七郎右衛門・同弥七郎・桑原、
そのほか伊予の国からは、久留島道安が死去して嫡子の出雲守は病気だったので、
家之子の原太郎左衛門を差し下した。


以上、テキトー訳。続く。


宍戸さん……正矩、そこまで言わなくてもいいじゃない。
「最近宍戸を入れて毛利三家とか三殿とか呼んでる人がいるけど違うよ!」ってだけ言えばいいじゃない。
ただでさえ陰徳記では宍戸さん空気なんだから!><
新庄局も五龍局と仲たがいしたことがあったらしいし、相性悪いのかな。
でも元長の嫁さん、隆家の娘だろ……ちょっとはageといてやれよ……

とまあ少しばかりゲンナリしたわけだけれども、
うふふふふ、参戦武将に注目株がいるので期待に胸が高鳴るわぁ(*´∇`*)
吉川式部少輔経家・香川兵部太輔春継!!!
この二人は小さいころから元春の手元で育ってるらしいね。
経家は11歳のときに新庄に来たそうだ。
長男元長と年齢が近いから、おそらく次世代育成のための動きなんだろうね。
経家の元服では、元服前の元長が加冠してるしね!

そんでもって元長→経家のラブレターに「立花での働き、忘れないよ」みたいなことが書いてあったので、
この立花の陣には注目しているのですよデュフフフフ☆

香川春継に関しては、今のところ私は、
新庄局が熊谷の縁で、長男の側近候補として香川氏から貰い受けてきたんじゃないかと思ってる。
熊谷と香川は縁戚だしね。ほぼ同時期に安芸武田から毛利に鞍替えしてるし。
だから新庄局の差配なんじゃないかなーと思うわけだけども、裏付けはとってない。

さてさて、この二人がどんな活躍を見せてくれるのか、楽しみだぜ((o(^-^)o))
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

ええと、一言でまとめると・・・
香川先生「うちの殿様と宍戸なんぞを同格にあつかってんじゃねえ!」( #゚Д゚)
こんな感じでしょうか。
勿論毛利最盛期の吉川と宍戸では周辺国人への影響力もまったく違いますよね。
吉川は陰徳記が書かれたた頃、家格問題が出始めていたから一門筆頭の宍戸との格差を強調したかったのでしょうか(清末藩ができたのも香川先生の死の前後だったかと)。
それとも秀元と姻戚関係にあり、秀就の采配で熊谷家に養子を入れた事への警戒心から?
色々想像させられるコメです。

Re: タイトルなし

ちえのわ様

なんとか宍戸を吉川より下に見たいって気持ちがひしひしと伝わってきますよねwww
広紀の代にも喧嘩やらかしてるそうですし、ホント相性の悪さを感じずにはおれません。
しかしこれが他家の評判落しを意識した表現だとすると、新庄局醜女説に関連して言われる、
熊谷家を貶めたかったのではないかという推測は、おのづと否定されるようにも思います。
ほとんど登場しない宍戸に比べて、熊谷の活躍は事細かに描かれていますからね。
まあこれも私の推測に過ぎません。
検索フォーム
カレンダー
06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
訪問者数