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2012-07-03

大友勢後詰メンバー紹介

だいたいの流れ:
立花で事件が起きて、大友と毛利の対立が激化し、毛利は約五万の勢を九州へと送った。
まずは大友方に寝返った長野の三ツ嶽を攻め落とした。
首実検に紛れ込んだ敵兵が元春に切りかかりヒヤリとする場面もあったものの、
三ツ嶽は無事毛利の手中に納まった。

今回はその後の立花城攻めだよー!


筑前の国立花の城取り囲むこと、付けたり大友勢後詰のこと(上)

翌けて永禄十二年三月中旬(四月上旬)、元春・隆景の両将は、筑前の国の帆柱というところへ陣を移した。
そこから若松・芦屋の渡しを越え、熊ガ峯を過ぎ、四月四日、壇というところに着陣した。
同五日、立花表へと歩を進め、すぐにその城を取り囲んで、三方向から攻め寄せた(四月十六日)。

まず水の手からは吉川衆が仕寄をつけ、水の手まで四、五間まで詰め寄る。
南の方は小早川勢、尾首の方は吉田衆、白滝口は吉見大蔵大輔正頼、
そのほか東西南北の山となく峰となく、立錐の余地もなく、五万余騎の軍兵が陣を構えた。
そして後詰にくる勢への用心のためには、塀をつけて柵を結い、壕を掘り、芝土手を高く築き、
向城のように構えたので、たとえ大友が数千万の精鋭の塀を後詰に送ってきたとしても、
この陣を簡単に破れるわけがないと思えた。

寄せ手は昼夜の境もなく、仕寄を近付けて楯を隔てて弓・鉄砲を間断なく撃ちかけ、攻め近づいた。
しかし井楼を高く組み上げると、杉原播磨守の手勢の石原弥次郎、
吉川勢の山県小五郎・小工の何某が鉄砲に当たって死んでしまった。
そのほか怪我人が多数出たけれども、寄せ手は少しもひるまずに、次々に詰め掛けたので、
城中も手の打ちようがなさそうに見えた。

そのうち大友へと、そろそろこの城は落城するだろうと、
あちこちからひっきりなしに報告が届くようになった。
大友金吾入道宗麟は前々から「敵が立花の城を取り囲んだら後詰に向かおう」と、
分国の豊後・豊前・筑前・筑後・肥後・日向の兵を、上は六十歳から下は十六歳までとして集めていた。
そのほか、配下の肥前の龍造寺・松浦、薩摩・大隈の島津なども援兵を出したので、
総勢十二万八千騎にも上った。

金吾入道は豊後の府内の城にいながら、柳川左近将監・田原入道重忍・同近家・その弟近広・同じく弟近貫、
侍大将に戸次入道道雪、臼杵新介・滋賀市右衛門・佐伯権助・
清田五郎左衛門(宗麟の婿、大内輝弘後家は嫁)・武田何某・
吉広賀兵衛尉宗行(宗麟の甥、国崎矢山の城主)・本庄新兵衛尉(豊後速見郡高尾城主)・
古沢右馬允(豊後国崎烏帽子嵩城主)・畑野善内(豊後の四手の尾城主)・
矢部助右衛門(豊前宇佐郡入賢之嶽城主)・秋友式部少輔(豊後国秋山城主)・
武田志摩守(豊後国飛玖城主)・田渋重冨(豊後国尾崎城主)・
アウガ仙介(豊後比地城主)・矢坂神太郎(秋之郷京留の城主)・杵月右馬允・古沢入道一竿・
吉広将監・同少輔右衛門・同掃部助・同三郎・西郡土佐守・梅野段右衛門・
久保内蔵丞・大友駿河守・矢坂平右衛門・上野佑介・同縫殿助・長松式部少輔・
小野市右衛門・戸郷七介・野原弾正忠・吹野源七郎・舘脇茂左衛門・小笠原上総介・
畑野勘八・宗像重継・湯の温井の何某・味武入道林松・野津の入道・一万田入道十古・
小田原又右衛門・姫嶋入道三甫・深津七右衛門・奈須軍兵衛尉、
豊前からは時枝平太夫・今江土佐守・橋宇津又兵衛尉・中山内記・中尾何某・賀来源介・
熊井越中守・城井・小城・野中・広津・福嶋・麻生、
筑後からは筑紫上野介・原田肥後・宇阿間右衛門・星野源次郎・同民部大輔、
日向からは伊藤一族など、雲霞のようにたなびき渡って、同五月五日に立花表に着陣し、
中国勢の背後をくるくると取り巻き、山や峰、里へと陣を張った。

野には旗を並べ立て、川には組練をめぐらした。また三万余騎は宗像表へと打ち出して陣を取る。
秋山・鶴原の七千余騎が舟手を務め、磯部浦の中間あたりに陣を固めた。
十二万八千余騎の大軍だったので、中国勢など網の中の魚、籠の中の鳥のようになってしまい、
いかなる勇将や精鋭であってもひとたまりもなく逃げ出してしまいそうなものなのに、
中国勢は少しもひるむ様子もなく、
「早く敵がかかってこないものか。最後の勝負を決しようではないか」と、静まり返って待ちかけていた。

豊後勢は中国の兵の様子を見て、たいしたことのない小勢だと思ったので、
先陣に進んでいた大友駿河守・深津七右衛門・奈須軍兵衛尉入道らは、
侍大将の戸次入道道雪の前に出て言った。
「中国勢は思いのほか小勢ですので、この湿った草鞋のまま踏み破ってしまいましょう」
これを聞いて、道雪は「まずはしばらく敵陣の様子を見計らった後で合戦をいたそう」と答える。

奈須軍兵衛尉が「どうかこの私に今日の合戦をお任せください。
あの尾崎の下に陣取っている一隊に切りかかり、刃を合わせてみて、敵の強弱を確かめてきます。
九州・二島の者たちは、この入道の勇のほどを、見方であろうが敵であろうが、よく存じているはずです。
しかし中国勢はまだ知る由もないでしょうから、初めての合戦で勇の優れたところを知らしめれば、
もともと中国勢は少数なのです。二度と戦う気も起きないでしょう。
今日は敵の隙をうかがって引くことにします。
これほどの猛勢をもって、陣を構えたまま一戦もしなければ、勇気が足りていないと思われてしまいます。
この入道、命を敵陣に投げ捨てるつもりなのですから、一陣、二陣を破らなければ気が済みません。
どうか老い先短い私の後の思い出のために、今日の先陣を務めて冥土の土産にし、
閻魔大王に向かって娑婆の物語としてお聞かせしたいのです」と食い下がった。

大友駿河守・深津なども、「是非一戦を遂げさせてください。
軍兵衛入道の老いらくの望みも叶えてあげてください。
我らも奈須が言うように、中国勢の手並みを確かめたいと思います。
敵が後詰の勢を猛勢と見て臆病風に吹かれ、後ずさりして、逃げ支度をしているところに攻め込めば、
味方の勝利は間違いありません」と続く。

道雪も智勇の二つを兼ね備えた大将とはいいながら、勇の方がなおも優れた入道だったので、
とりわけかけ合いの合戦を好んでいた。
そのうえ奈須などがしきりに「今日合戦をしましょう」と言い募ってくるので、
柳川・田原の人々もこのことを話し合って「もっともだ」と同意した。
「それでは奈須が望む旨に任せよう。ただし、あの尾崎の陣だけにかかっていくと敵に知れれば、
方々から援兵を出してあの陣を固く防ごうとするだろうから、攻め破るのは難しくなる。
総掛かりするように鬨の声をあげ、太鼓を打ち、貝を吹かせれば、
皆自分の陣を堅持しようとして、他の陣に援兵など出していられなくなる。
そのとき無二に懸かって押し破るようにしよう」と決し、総軍勢十二万八千騎が三度鬨を作った。


以上、テキトー訳。つづく。

ぐぬう、九州の名字ってテキスト打つの大変……しかし何だってこんなに詳細に敵メンバーを知っているのか。
というより書き記す必要があるのか。面倒くさいじゃないの(本音)。
「清田五郎左衛門(宗麟の婿、大内輝弘後家は嫁)」ってのは、清田鎮忠のことかな。
大内輝弘後家が嫁……? 一条兼定と混同されてるのかしら???
あと大友が十万越えの動員てことは……ないよね?
いつもどおりの水増し入ってると思う、うん。

ついこの間、大き目の会場でプロレスを観戦してきたんだけど、
まあその観客がだいたい一万人くらいらしいので、
なんとなーく五万人程度までの規模なら想像ができるようになったかも。
相変わらず気が遠くなるが。
毛利も五万なら十分大軍だよね。

さて次回、大友と毛利の激突、どうなるかな。
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そうか。
九州侵攻で毛利が相手にしてたのはほぼ九州勢力全部なのか。
島津、隆造寺、松浦・・・   およっ!?
島津は大友の配下になった事はありましたっけ(一応九州探題だからか)?
隆造寺も名目上は配下だけど、この頃は討伐を受けてたような。
そして元春だか隆景だかと協力関係にあった書状を以前見たような(年代的にもうちょい後だったかしら)
この頃はぶっちゃけ大友さんはキツい状況だったと思うけどなあ。
いかん!また無粋な事を。
自分は戦の描写というのはイマイチピンとこないのでついつまらぬ所に目がいってしまいます(なんとかせねばならんのですが)。
無学故です、どうかお許しをm(__)m

Re: タイトルなし

ちえのわ様

いえいえ、私もこのへんの九州情勢はまっっったく把握しないまま読んでますので、
いろいろ突っ込みどころは多いかと思います。頼りにしてます!
毛利としては、それだけの強大な敵を向こうに回したことにしたほうがカッコがつくというか、
その程度の補正だと思った方が良さそうですねw
龍造寺は、秀吉の九州征伐のときに毛利が調略したのは確かだったと(うろ覚え)。
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